<与謝野晶子と「源氏物語」>

[はじめに]
 今日、「源氏物語」の完全な現代語訳といえば与謝野晶子氏だけでなく、窪田空穂氏、谷崎潤一郎氏、五十嵐力氏、円地文子氏、田辺聖子氏、瀬戸内寂聴氏等の労作があり、さらに小学館版源氏物語の口語訳があり、尾崎佐永子氏の訳があり、村山リウ氏の語りがあり、他の参考書等の訳を含めるとかなりの数に上る。
 しかし、与謝野晶子氏は、「湖月抄」より他に適当な参考書もない明治42年に、100ヶ月で訳を完成させることを目標に、果敢に現代語訳に取り組んだのであり、その大胆な意訳は、彼女の生き様と二重写しになり読者を新たな「源氏物語」の魅力に惹きこんで行った。
 1979年当初、『パトグラフィー(病跡学)紫式部〜解読「源氏物語」〜』の主著者上田裕一氏は、与謝野晶子氏の生い立ちや生育環境などまったく知らずに、彼女の現代語訳から「源氏物語」を読み始めた。「谷崎は、耽美主義で合わない、田辺聖子みたい軽いのはダメだ。」という理由で与謝野晶子訳を選んだのである。そして、読んでいる途中から「本当にこんなこと紫式部が本文で書いている? 一夫一婦制なんて言葉は平安時代に使われていないんだから、晶子は思わず自分の心情を上乗せしちゃったんだよ。」と、論評していた。今回、筆者は、与謝野晶子氏について調べるうちに、さらに彼女の大きさと、彼女が「源氏物語」に出会い、現代語訳を行った運命に近い必然性のようなものをひしひしと感じた。晶子は、自分が置かれた時代的制約や個人的環境のなかで、感じた苦悩や歓喜、諸々の個人的心情を巧みに「源氏物語」の現代語訳に織り込んでいたのである。晶子の生の感情が時には大きく、時にはさりげなく、読者に感じられるからこそ、生きた訳となり、新たな文芸作品となって完成したのである。
 ひとつは、紫式部が生きた平安時代と晶子が生きた明治末から大正にかけての時代の相似性、ひとつは、生い立ちの相似性である。式部が生きた平安時代は、摂関家が競って女子を後宮に入れ、みづからの地位の安定をはかろうとしたのであり、その中で、それぞれ後宮の女房達は能力を競い合い、男子中心の社会にあっても、独自の文化を築きあげた時代であった。又、晶子が生きた時代は、明治維新も落ち着き、鹿鳴館に代表されるように、西洋文化を必死に取り入れようとし、それに伴って女子の地位も向上しようとしている時代であった。男子中心の社会でも何らかの必要性があって女子の社会的役割や地位を向上させねばならない。例えば鹿鳴館で、日本最初のバザーが女性中心に開かれたが、これは看護婦の学校の設立資金を作るためであった。しかし、女子の社会的役割に伴って周辺の意識が新しくなっていったのは、限られた上流層であって、一般の社会では旧態然とした道徳によって、女子の生き方は制限の多いものであった。

[与謝野晶子と紫式部の生い立ちの相似性]
 最も衝撃的だったのは晶子が12歳頃まで男姿をさせられていたことである。彼女自身の歌に拠れば、
 「物干へ帆を見に出でし七八つの男姿のわれを思ひぬ」(『大坂毎日新聞』大正2年)
 「十二まで男姿をしてありしわれとは君に知らせずもがな」(『中学世界』明治42年7月号)
 とあり、「君」に恋心をいだいた時、男姿だった自分を知らせたくないと切実に吐露しているのである。そして、父や母の思惑から女でありながら男姿をせざるを得なかった過去の自分とこれからの自分を考えざるを得なかったのであろう。複雑な思いで年少の頃を思い、歌に残さずにはいられなかったのである。この歌を読んだとき、「紫式部日記」の
 「書に心入れたる親は、『口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸いなかりけれ』とぞ、つねに嘆かれ侍りし。」(新日本古典文学大系)のこの一節を即座に思い浮かべた。周知のように紫式部は、幼少より「あやしきまでぞさとく」賢かったので、父親には、「才能を持った子を男子として持たなかったことは、私にとってなんと幸いがないことだったろう」と常に嘆かれていた。自分の存在が、なまじ才能があるゆえに、そして女子として生まれたゆえに、「書に心入れたる親」は嘆いていた。それでは私は才能がなかったほうがよかったの?女でなければよかったの?と、常に内省せざるを得なかったのである。
 晶子もまた、父には男子誕生を望まれていながら女子だったため、一年後に元気な弟が生まれるまで他家に出されていたのである。さらに晶子の上には前妻の姉二人がいて、母は、その二人をひがませないようにするあまり、晶子にはかまってやれなかったと言っている。「母の文」に拠れば
 「其方が上の二人が姉、なさぬ仲の其子に僻ませてはならじ僻ませじ、我心をも如来様御僻ませ遊すなと心に念じて、(略)母は二人の姉の技振見るに下板の其方(晶子のこと)振り廻り見る間のなかりしに候」とあり、晶子が実母にあまり構ってもらえなったことがわかる。紫式部の母は、式部が幼少の時に亡くなっている。母の愛が乏しく、父には男子を望まれて育った晶子が、紫式部の文章に深いところで感応しあったであろう。
 晶子の父は、幼少時から教育熱心で、また多くの書籍を持ち、晶子が読む本については何の制限も加えなかった。式部の父も漢籍で身を立てようとして、弟に教えながら思わず式部に教えていたであろう。多くの古典に接することができた晶子は、与謝野鉄幹に会うずっと以前から「湖月抄」をたよりに12〜3歳の頃から「源氏物語」を読み始めている。そして「源氏物語」だけでなく「栄華物語」「大鏡」「増鏡」「狭衣物語」「宇津保物語」「枕草子」と読み進んでいる。

[晶子の青春時代と和歌]
 様々の古典を読み進んだ晶子は、16歳で初めて「万葉集」を読み感激し、18歳で堺敷島会に入り本格的に歌を作り発表し始めた。その頃はまだ旧派の和歌である。
 20歳で「読売新聞」に掲載された鉄幹の次の歌を見て多いに作家意欲を刺激された。
 「春あさき道灌山の一つ茶屋に餅くふ書生袴つけたり」(鉄幹)
晶子はこう言っている。
 「与謝野の歌は従来の歌に比べると非常に無造作に作られたやうなものでした。之なら自分にも作られないことは無かろうと思はれるやうなものでした。」(『晶子歌話』大正5年)
晶子の歌はこの歌をきっかけに、旧派から新派へ変化していったのである。
21歳の時、大阪に来ていた鉄幹を乳母同伴で訪れている。鉄幹はその年、東京新詩社を結成し、翌年4月に「明星」を創刊している。「明星」創刊の年、晶子は22歳で、その夏大阪で鉄幹の文学講演会「新派和歌に対する所見」があり、その後の歌会に出席している。そして山川登美子と共に、急速に鉄幹に接近してゆく。8月、鉄幹、登美子、晶子は三人で大坂の住吉に遊ぶ。
登美子はこう歌っている。
 「歌かくと蓮の葉をればいとの中に小さきこゑする何のささやき」(9月号)
鉄幹の歌は
 「神もなほ知らじとおもふなさけをは蓮のうき葉の裏に書くかな」(10月号)
その後、再びの三人で高師の浜に遊んだ。
そのときの晶子の歌
 「松かげにまたも相見る君とわれゑにしの神を憎しとおぼすな」(10月号)
この三首を見る限り鉄幹と山川登美子のほうが気持ちが通じあっているかに見える。当時鉄幹は、二人目の内縁の妻と同居中であり、その妻の実家の助けがあって新詩社も設立できたのである。鉄幹は、あくまで歌の師として二人に接していたのかもしれないが、二人の感情はそれくらいで納まるようなものではなかった。鉄幹の実生活や理念を、晶子はよく知っていたと思う。しかし、
 「鉄幹の唱導する近代短歌革新の理念に導かれ、人間性を肯定し、自由恋愛をし、そしてその相聞歌を詠むこと、それは封建道徳への戦いであり、それへの訣別であった。」(平子恭子…年表作家読本「与謝野晶子」)とあるように、鉄幹の情熱に、登美子や晶子等、古い家長制度に縛られていた女性たちが、強く魅きつけられ共鳴していくのも当然であった。
 晶子は9月、兄とも師とも慕っていた河野鉄南宛に、
 「・・・また今日のつみの子となりしもそれにもとづきし事に候 何も申まじ高師の松かげにひとのささやきうけしよりのわれはただ夢のごとつみの子になり申候 さとりをひらき給ひし御目にはをかしとおぼすべし むかしの兄様さらば 君まさきくいませ あまりこころよき水の如き御こころに感じて  この夕 つみの子 鉄南様」と書き送っている。 
 晶子23歳、明治34年「明星」1月号に次の様な歌が掲載されている。
 「罪おほきをとここらせと肌きよく黒髪ながくつくられしわれ」
若く強く不遜なまでの女の情念を感じさせる歌である。「をとこ」の何を「こらせ」と言っているのか。紫式部の深層心理と似通っているではないか。晶子の強い情念がほのみえる歌は
 「あなかしこ楊貴妃のごと斬られむと思ひたちしは十五の少女」(佐保姫 所収)
にもあり、恋へのあこがれと古き社会への反発は鉄幹に会って一気に燃え上がった。
恋敵の山川登美子は、前年の12月に鉄幹に心を残しながら、親の決めた相手と結婚した。
「君さらば巫山の春のひと夜妻またの世までは忘れゐたまへ」(晶子)
ライバルだった登美子に、いつまでも鉄幹を忘れていてくれるよう願っている。
また鉄幹の内縁の妻、林滝野が晶子と鉄幹の結婚を承諾してくれたことに対し、深い感謝の手紙を書き送っている。そして、親も故郷も捨て、堺から東京の鉄幹の許へ走った。越前国司となった為時とともに、越前へ下った紫式部も26歳の時、突然都に帰って宣孝と結婚している。式部の場合は恋焦がれた相手ではなかったが、父に対する失望と彼女なりの計算あっての結婚だっただろう。父親の庇護から離れようとする意識や、ありのままの自分を認めてもらえなかった生い立ちへの反発も当然あったであろう。

[「源氏物語」現代語訳への挑戦 ]
 晶子31歳のとき(明治42年)、小林政治より、100ヶ月執筆の「源氏物語」の訳の依頼があり、承諾している。これは、明治45年2月から大正2年11月まで 「新訳源氏物語」 上、中、下一、下二巻として、金尾文淵堂から刊行された。しかし、宇治十帖の手前まで訳した草稿を、関東大震災(大正12年)で焼失し、「今一度初めから書くだけの時も精力」もないと大きく落胆した。現代語訳を始めてから、既に10年を費やし、あと3年はかかると思っていたのだった。「流星の道」の自序に「以前から短命の予感される私は、かう云ふ風に歌ふ時がもう幾年も無い気がします」とまで述べて、その落胆ぶりがうかがえる。しかし、あきらめることなく現代語訳の仕事は続け、昭和13年10月から昭和14年9月まで「新新訳源氏物語」(第一から六巻まで)として金尾文淵堂から刊行された。その間も文化学院での講義や講演、評論の執筆、歌作り、出産、子育てをこなしながら行ったのである。「新訳栄華物語」「新訳紫式部日記、新訳和泉式部日記」「新訳徒然草」「和泉式部歌集」など他の古典の現代語訳も行っている。
大胆な意訳を施せる彼女が、紫式部と和泉式部という対照的な二人の日記をどのように訳しているかは、大変興味深い。

今後、実際の晶子の現代語訳と「源氏物語」の原文をあたりながら、晶子の心情がどのように上乗せされているかを探っていきたい。


現代語訳の研究へ戻る