幼少時体験としての漢籍の学問

 紫式部は、一条朝の著名な漢学者であった藤原為時の娘として生まれたが、物心つかぬうちに生母に死に別れ惟規とともに母なき家庭に育ち、家庭のぬくもりには、恵まれなかった。それ由、漢学者の父に直接育てられたことは、平安朝の平均的受領階級の子女とは違った、幼少時体験を持ったと推せられる。
 このあたりのエピソードとして彼女は、以下のことを語る。
 「この式部の丞といふ人の、わらはにて書讀み侍りし時、聞きならひつつ、かの人はおそう讀みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞさとく侍りしかば、書に心入れたる親は、口惜しう。男子にてもたらぬこそ、さいはひなかりけれ」とぞ、つねになげかれ侍りし。」
 母親が居ないことから父為時は紫式部を不憫に感じてただろうし、女子の養育に不安を持ったであろう。母親がいない分だけ子供との結合を強化することを選ぶ。結合を強化するのには、甘やかすことがもっとも効果的である。子供が依存性が強くなり、親から離れないという実感となって親にかえりそれが為時の心を安心させた。それは紫式部が「聞きならひつつ」と語るときその文章の背後に読みとることが出来る。
 漢籍の学問は男子の立身出世の具で女子は教うべきでもなかった。その点は、父為時も充分にわきまえていた。紫式部が語るとき弟の今は式部の丞になっている惟規が「書読み侍りし」で、紫式部自身はその時「書きならひつつ」であるから、弟の惟規には直接伝授しているが、紫式部には間接伝授、または傍らで聴かせていただけで男子と女子の教育は区別していた。しかし漢籍の伝授をする際、子女である式部を、父為時の近くに置いたということ自体、父子家庭のため、普通の子女教育とは違った面が生じていた。
 ここで紫式部が異常なほど賢かったがために、新たな問題が生じてくる。
 始めは、そばで聞いていて、時折惟規が苦渋しているときなどについ口がすべって正解を父為時に言ってしまう程度だったのであろう。それが何回か重なれば父為時は惟規を叱咤激励するためにも、惟規がつまるときは必ず紫式部に質問をまわしたであろう。「かの人はおそう読みとり、忘るるところも」にこのあたりのことが読みとられる。それを女の子の紫式部がこの程度理解するのであるから、男子の惟規はもっと出来てもよいはずだ、直接伝授しているのはお前惟規だぞ、紫式部はただわきで聞いていて、これだけ憶へているのだ、頑張るようにと意をふくめるためであろう。それは、子供が才能豊かで、賢いとわかれば、どんな親だって溺愛しやすい傾向にある。母親のいない紫式部をいとしいと思うが故に身近においておいた。それが、利発で物覚えが良かったとしたらなおさらである。だが、それでもこの程度までなら通常の父親なら紫式部を直接誉めてやるという、父親としての精神的余裕があってしかるべきであろう。紫式部の目からも「書に心入れたる親」と映る程為時には漢籍の学問が最大の関心事であった。その才能に息子の惟規ではなく娘である紫式部が秀でていた。なおかつ、それをはるかにしのいでいた。男子においては、漢籍の学問が立身出世の具であった時代である。子供の両方とも才能がなかったのなら、自分の不運をあきらめただろう、嘆きもすまい。だが、実際には「聞きならいつつ」に漢籍の学問を修得してしまうほどのすばらしい才能が、それも寄りによって娘に伝わってしまった。なんで息子の惟規の才能とならなかったのか、自らの漢籍の土壌の上に息子が漢学の花をさかせてくれる夢は消えた。女子では立身出世の望みはない。自分の運のめぐり合わせは、なんと皮肉なことか。為時は、父親として娘の才能を喜ぶ以上に自らの不運を嘆く言葉がいつもいつも出てしまった。「口惜しう、男子にてもたらぬこそ、さいはひなかりけれ」と。
 無論、為時も、父親として、娘の才能の喜んだ言葉を数々発したことであろう。自分の不運をなげく言葉以上に娘の才能を喜んでいたことであろう。「あやしくまでぞさとく侍り」と紫式部が述懐するとき、自ら、記憶力や理解力が優れていたことを実感してのことであろうが、優れていることを自覚させられたのは、父親の感嘆の言葉からでもあったろう。記憶力や理解力を弟の惟規と自らのとを較べるだけでは、「あやしきまでぞ」という言葉は使わないであろう。それより前に「かの人はおそう読みとり」とあるから、すでに弟との優劣については述べているのである。「あやしきまで」の句がなく、ただ「さとく侍りし」と語るだけで充分なはずである。そこに「あやしきまでぞ」と追加していることは、紫式部の記憶力なり理解力が他者の目から見て、「あやしきまで」優れていると映ったからであろう。そして、父の為時がまさに他者の目であったと考えられる。紫式部は無意識のうちに、自らの利口さを「あやしきまでぞ」という語を付加することにより客観性を持たしたと考えられる。
 しかし紫式部にとって、その両方の言葉を聞き、より一層心に残ったのは、父親の嘆きの言葉の方であった。幼少時の思い出として想起されたこの父親と惟規と彼女とのエピソードには、当然あってしかるべき彼女自身の才能を誉められたうれしさが表現されていない。かえって、彼女自身才能があるが故の不幸さを間接的に表現している。漢籍を習った思い出に、いつもまとわりついているのが「口惜しう、男子にてもたらぬこそさひわひなかりけり」という父親の嘆きだったとしたら、父為時は、漢籍の学識を紫式部に伝へた反面、紫式部の心に後年になってまでも消えずに残った傷痕をも植へつけてしまったと考えられる。この繰り返された幼少期の体験こそ、紫式部の性格形成の重要な要因となったのである。
 前述した様に、漢籍の学問であっても、たとへ帝から誉められたことであっても、それが、「才がる」態度と受け取られたことは、式部にとって全く心外であった。当時としては、本来、最高の栄誉であったはずである。たとえ漢籍の学問が男子の専売であったとしても、それにも比すべき力を認められたということは、女性ながらも男子の並以上ということであり、並々ならぬ女性だと言うことである。そして男尊女卑の時代にあって男性と同等、それ以上の力を認められたのであるから、喜び極まりないはずである。ところが、その素晴らしい体験ですら、とるにたらない、内侍の「才がる」発言に反応し、自らの筆を走らせてしまった。さらにこの傷痕が紫式部の性格形成に及ぼした影響は多大で、後年、外面的には謙虚であり、中庸な性格を持ったが、あくまでもそれは意識によって統制された処世の術法を持ったということであり、実はその裏側は、きわめて複雑で批判的、反省的精神の持ち主となってゆくのである。