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 平安時代文学の代表的作品というだけでなく、日本文学の世界に誇る文芸でもある
源氏物語の研究は、古来から盛んであり、文学の領域からだけでなく、仏教、歴史、
美術等々、ありとあらゆる分野からも行なわれている。その研究の蓄積は、源氏物語
の成立後千年という長い年月が過ぎ、又、女性作家紫式部が書いた、他に類をみない
長編物語であるが故に、膨大なものとなっている。この研究がいまだに盛んであるの
は、個々の研究者を魅了してやまない、文学作品としての崇高さが、源氏物語に内在
しているからに他ならないが、ひるがえって考えてみると、個々の学者が行なった研
究は、源氏物語五十四帖の一部を対象としたものであったり、テーマの一端に限られ
ているものが多く、源氏物語の全貌を把えたものではないことも確かである。源氏物語大成を完成し、文献学的に金字塔を建てた、池田亀鑑氏(1) の賞讃するが
如く源氏物語は、「毅然として天の一角にそびえている、不変の巨峰」であり、紫式
部の天才性は研究者の持つ才能や感性をはるかに越えていると考えられる。しかし、
たとえ紫式部の天才性に個々の研究者が比較され得なくとも、前任者の研究を発展さ
せる事さえ続ければ、その成果は着実に積み重ねられ、最後には天才を解明し得る時
が来る筈である。
 言うまでもなく、作品とは、豊かな感性に支えられた精神的営為の結晶であり、作
者とはそれを生み出した創造主体である。その作品を亨受し、その作家を知るという
作業は、本質的に、まず鋭い感性と磨かれた知性とによる研究主体を賭けた行為であ
る。そして、このような行為は、基本的には、文学者が行なうべき事柄であるが、創
造主体に病的精神が内在し、精神的営為に異常性が存する時は、異常心理学、精神分
析学、精神病理学、病跡学を含めた医学者の行なう研究範囲と重なり合うのである。
パトグラフィー(病跡学)という言葉を初めて用いたMobius.P.(1907)
が、天才の各個研究を行ない、病跡学の基礎を築いたことからわかる如く、紫式部が
天才であるが故に研究対象となるとさえ言えるのである。
 文芸研究に、人間心理の科学としての精神分析学による解明が必要とせられる事は
事実であるが、果して源氏物語については、どの程度の実績が上がったであろうか。
精神分析学の領域からの研究として、イ)大槻憲二氏の、心理的主題は男女間愛情関
係における女性特有のマゾヒスムスにある。ロ)諸岡存氏の、光源氏の恋愛は母性の
憧憬に発動せられている近親姦願望を表現している。ハ)海老沢秀直氏の、光源氏の
恋愛における情緒観念がエディポス感情に根深く支配された原因を、幼児期に確たる
母親代償をさえ与えられなかったこととする。等々がある(2) 。
 それ等は、源氏物語の局所的な分析であって、物語全体の、そして紫式部の基本的
性格までには及んでいない。
 各領域からの研究を総括した池田和臣氏に、「心理学精神分析学の応用」の項で、
「心理学が文学作品を資料にし得ることがあっても、文学が心理学によって理解され
ることはなく、限界のある方法と思われる。」と言われる所以である。(実際、フロ
イト自身も、同様の趣旨を心理学の限界として述べている。)しかしながら、病跡学
とは、傑出した人間の生活記録について、精神病理学的に興味のある精神生活の側面
を調べ、その精神異常性が、その人間の創造性に対してどのような意味を持つかを明
らかにしようとする精神医学の一分野である。病跡学的研究が文学作品やその作家を
研究対象とする時は、文学者の研究成果を尊重するのみでなく、文学者の研究をも促
進させる質の高いものでなければならない。医学者の研究ではあっても、文学者から
の、限界のある方法と言う批判をも払拭させ得る高度な内容であるべきなのである。
 本論はパトグラフィー:紫式部の序論として、第一章で紫式部という創造主体に異
常性が内在していることを、第二章では源氏物語執筆という精神的営為に異常性があ
ることを論じ、紫式部の病跡学が、是非とも必要であるということを論証する。
 
尚、源氏物語原文からの引用及び紹介頁は、すべて日本古典全書(池田亀鑑校注.
朝日新聞社)によった。
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