後期挿入と経済性

 現代は物質的にも経済的にも豊かな時代で、なに不自由なく、なに不足なく生活してゆけるし、文章を書くにしても、紙はふんだんにあり、望めば出版も可能である。そして作家としても生活してゆける。この様なことが既成概念となってしまって、紫式部が活躍した平安時代を類推し難くなっている。寡婦となって後、紫式部はどの様に生活費を稼いでいたのであろうか。そして、彼女があの長編の源氏物語を創るのに和紙はどうしたのであろうか。娘をどの様にして大弐の三位に出来たのであろうか。
 実際源氏物語中で、未亡人となった空蝉の生活はどうであったろうか。九州に渡った撫子の生活は、悲惨ではなかったか。帝の亡くなった後の麗景殿女御や花散里は、全て光源氏が面倒を見ていたし、父親が亡くなれば宮家の末摘花ですら蓬生の家に没落し、空蝉と同じく二条院で光源氏の保護のもとに生活してゆかなければならなかった。空蝉などは、父の子の紀伊守に言い寄られ、性的結合と生活の安定とが一体となっていたことが示されている。紫式部とて例外ではあり得ない。彼女自身の生活はどの様に成り立たせたのか。未亡人の彼女が、子供を抱えて生活してゆく手段は何だったのか。娘を成長させ、粟田関白道兼の子の兼隆の妻とするにはかなりの経済的後立が必要であろう。まして、後朱省帝東宮時代妃尚待嬉子(道長 四女)に仕え、嬉子所生の皇子新仁親王(後冷泉帝)の乳母となるには、それなりの豊かさが必要だったはずである。
 明治時代ですら、作家は自らを三文文士と蔑んでいたし、あの有名な二葉亭四迷の名ですら「くたばってしまえ」をもじったことは周知である。そして、近代の自伝小説にも表現されている如く、一般人からすれば結婚の相手としては、まったく生活力のない、親からは結婚を反対される、社会的には認知されない職種であった。江戸時代、版木により大量出版で作家が生活できるようになったと言っても、出版で安定した生活が出来たのは例外中の例外であった。ましてそれより何百年前の紫式部の時代に、源氏物語をただ単に書いたとしても生活は出来なかったはずである。父や弟は、経済的には情けない状態であった。彼女に頼る肉親はいなかった。今までの説では、藤原道長の財政的援助を受けたとされる程度である。紫式部日記の中での道長との和歌の応答から、道長の妾妻となっていたと憶測までされている。確かに経済的にはこの説で解決されたように思えるが、果してそうであろうか。
 帚木三帖の執筆順序からすれば、紫式部の執筆意図は明らかである。光源氏という貴公子の相手を自らの階層に降ろすことであった。とすれば、道長の寵愛を受けたとすれば、紫式部の潜在的願望は満たされてしまうわけであるから、執筆動機も失せてしまって、源氏物語を書き続けられなかったのではないか。そして源氏物語の執筆が名誉・名声を目的とすれば、道長に認められ中宮・彰子付の女房に取り立てられ、一条天皇が「うちのうへの源氏の物語人に読ませ給ひつつ聞しめしけるに、この人は日本紀をこそよみ給へけれ。まことに才有べしと」とほめられているのであるから、名実共に有名人でありそれ以上の望みもなくなるはずである。
 「男子にてもたぬこそ幸なかりけり」という父親の嘆きの言葉は彼女の心に傷を残さず、解決してしまったのであろうか。否である。「男子」ということは、貴族ということと、それに伴う名誉と自立した経済力があってはじめて「男子」なのであったはずである。道長の経済力的援助を受けたかも知れない。しかし紫式部にとっては、それは不充分な「男子」であって、彼女の潜在的意識は満足されなかった。経済的自立こそ、紫式部が目指す「この時代の女性の隷属的な地位を含む貴族社会の現実に対して、この時代の中流貴族の女性として許され得るもっとも激しい抵抗であり、それを源氏物語を制作することによって行ったのである。後期挿入という執筆方法こそが、経済的自立と不可分であったのである。文章作成から考えても常軌をなくした後期挿入を何故とらなければならなかったかを経済性の面から考察してゆく。
 それにはまず、著者の体験談から始めよう。

 戦争によって物資は不足し、生産力が極度に低下した戦後の昭和二十二年の事である。小学校は焼け跡のほったて小屋の様な仮校舎であり、二部や三部授業があたりまえであった。食料ですら配給で闇米を買って食べなければ栄養失調で死亡したぐらいで、鉛筆もなければノートもない。この様な状態では教科書すら印刷が間に合わず、クラスに二冊の割当だけであった。それも本としての製本は出来ておらず、頁毎の裁断すらされていなかった。五十人の生徒に二冊、平等にくじ引きしてはずれた大多数の人々は写さざるを得なかった。帰宅して母親に話すとすぐに紙を集め、綴り、当たった生徒の家に写しに行ってくれた。小学校一年の初めての教科書のことであったと思う。帰宅するのにたいして時間はかからなかった。写しにゆくとき母親が持って行った物は、何も書いていない綴ったノートと、空腹ですぐにも手を出したい家にあった食べ物であった。帰ってきた時母親の手には書き写してきたノートがあり、空腹は残った。ノートと生活必需品がノートと教科書の内容に変わったのである、全てが不足していた時代の一コマである。

(1)貴重品としての和紙

現在はパルプにより紙は無制限といえるほど使用可能である。しかし、トイレットペーパーがロール巻になったのは、そんなに古い昔ではない。それ以前は1枚づつの荒い紙(塵紙)の束が備えてあった。さらにその前は、新聞紙や雑誌をばらしたものが置かれてあった。そのころの習字の練習は紙が真っ黒になるまで書き重ねていた。紙は大事に使われていた。
 江戸時代を表現した落語に「中村仲蔵」というのがある。江戸時代の役者の話であるが、全員に台本が配られたわけではなく、当時の端役には「書き抜き」というその役者の台詞しか書かれていないものを渡されただけであったとされている。劇全体の流れを知っての端役の台詞にもかかわらず、台本を配れなかったのである。これらも紙が貴重であったからであろう。
 中世の事情を「日本産業発達の研究」から引用すると「紙価を当時の物価に比較するとき、甚だしい高価さであることを認め得るのである。この観点に立って、初めて我々は中世の日記記録の多くが文書等の紙背を利用している事、或は紙が重要贈答品の一つであった事を充分理解し得るのである。」
 時代が下れば下るほど、貴重品の程度は増す。鎌倉 〜 平安時代の「紙背文章」にそれを見る。藤原定家の有名な「明月記」1224年も消息文の裏綴じし、書き入れられている。紫式部と同時代の藤原公任ですら、朝廷の儀式や作法に関する父頼忠からの聞書きをまとめて書物全十巻に作ったが、それすら北山抄紙背仮名消息二十五枚が使用されており、そのうち年月日明記されているものが十九通あり、年代も 996 〜 1004の開きがある。消息文ですら決して捨てずに保存していたのである。このことからも、いかに紙が貴重品であったことがわかる。時の権力者の道長の御堂関日記ですら具注歴の上に書き込まれている暦の上に書くのが便利だったためとは言えまい。さらに驚かされるのは、九条家本延喜式は五十巻に編集されているが、紙背仮名消息には約三百年にもまたがる期間の様々な年号がみられるのである。紙の貴さは並み大抵のものではなかった。廃棄後に裏を再利用したところから残ったもので最後のものは、正倉院文書中の大宝二(七〇三年)の戸籍であるから、紙が大切だからといって、その保存は現在の常識では考えられないほどのものである。
 枕草子[二七七]段に、
 「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思ふに、ただの紙のいと白うきよげなるに、よき筆、白き色紙、みちのくに紙など得つれば、こよなうなぐさみてさはれ、かくてしばしも生きてありぬべかんめりとなむおぼゆる」とある。
 紙と筆とを得ただけで、世の中が腹立たしく煩わしく、片時も生きていられそうにもない状態が慰められ、やっぱりこのままもう暫く生きていた方がよさそうだと変わってしまうのだから、よほど紙と筆の効果は抜群なのであろう。
 また「心から思ひみだるる事ありて里にある頃、めでたき紙二十を包み賜はせたり」とあるから、中宮からの賜りものとして、和紙二十枚ですむほどに貴重であった。
 紫式部日記に「このころ反古どもみなやり焼き失ひ、雛などの屋つくりにこの春し侍りにし後、人の文も侍らず、紙にわざと書かじと思ひ侍るぞいとやつれたる。」とあるから、まだ使われていない和紙なども家に予備として置かれていなかったし、反古を使って物を書いていたこともわかるだけでなく、わざわざ新しい紙を手に入れて物を書くという習慣すらなく、かえって反古にしか書かなかったほど和紙が貴重であったのである。
この様に物を書く反古すら不足していた紫式部はあの長編の源氏物語を書くとき、一体紙を何処から手に入れたのであろうか。

(2) 源氏物語執筆の費用

 では源氏物語を書くために必要な紙の費用と枚数はどの程度のものかを算定しよう。
中世に於て最も高価な紙は鳥子類であり、文明年間に於ては鳥子一枚代は八文或は九文四分強の高価さを示している。一枚八文として、これを一帖四十八枚に換算する時、実に三百八十四文という高価である。さればこそ公家階級に於てもこれを使用する事は稀で、永久保存を要する書冊巻数等の場合にのみ多くこれを使用したのである。
次に、中世社会に於ける第一公式的用紙であった檀紙類も、その貴族的性質を反映して甚だ高価であり、大高檀紙は文明・明応の間二百文ないし二百五十文、小高檀紙も長禄年間七十文、文明年間百五十文、天文4年の例に於ては実に三百文であった。檀紙類は二十四枚をもって一帖とすると思われるから、なおさらの事である。
新興武家階級が公的用紙として、檀紙類を採用する事なく、まず杉原紙なる新紙を採用したのも、一面に於ては檀紙類の高価な為であったのであろう。しかし杉原紙もその流布の比較的初期である暦応(一三三八年)前後に於ては一帖百文という高価を呼んでいる。杉原紙が武家・僧侶階級に止まらず、公家階級の間にも盛んに流布するに至った応永(三九四年)以降に於ては、その価格も生産の拡大に応じてか、下落し、永正年代に至るまでは近畿地方に於ては、最高五十文、最低二十四文を普通としていた。
 平安時代でまず驚くのは、紙が銭の代用をしていた面があることである。
「布施」はもと銭であったが、宇多帝の寛平八年(八九六年)四月八日に法文が次の如く定められた。(表9)

 表9
位 階 位 階
親王・大臣五百文五帖四 位百五十文二帖
大 納 言四百文四帖五 位百文二帖
中 納 言三百文四帖六位并に童五十文一帖
参 議二百文四帖   

 その後には、布施は紙に改められたとあることから、一帖五十文 〜 百文ぐらいの価格であったと推定される。その後百年の間に紙の生産方法が飛躍的に進歩したとは考えられないので、紫式部の時代でもほぼ同じ価格としてよいであろう。一帖には平安においては十四枚 〜 五十枚の開きはあるが、多くの紙は四十枚より五十枚の間にあり、且つ一帖五十枚或は四十八枚が最も普遍的であった。一帖の枚数を記す最も古い文献としては、東洋文庫所蔵「守光公雑記」所引の「山槐記」逸文があり「紙屋帋以四十八枚爲一帖」とあるから、「山槐記」逸文に見える枚数が上代以来の傅統を踏襲するものであろう。五十枚としても一枚一 〜 二文になる。
さて源氏物語を写した各筆源氏本では、本文で二七八八丁が使われている(表10)。

 表10 東山御文庫蔵『源氏物語』(「各筆源氏」)
本 文巻 名 本 文 巻 名本 文巻 名
 31横 笛 39薄 雲 49桐 壷
 22鈴 虫 30朝 顔 50帚 木
 87夕 霧 92少 女 15空 蝉
 26御 法 69玉 鬘 60夕 顔
 31 幻  19初 音 69若 紫
 20匂 宮 27胡 蝶 63末摘花
 23紅 梅 27 蛍  35紅葉賀
 92竹 河 28常 夏 12花 宴
 60橋 姫  5篝 火 67 葵 
 52椎 本 27野 分 57賢 木
128総 角 35行 幸  7花散里
 27早 蕨 21藤 袴 61須 磨
161宿 木 51真木柱 50明 石
 62東 屋 29梅 枝 40澪 標
100浮 舟 32藤裏葉 28蓬 生
103蜻 蛉134若菜上  7関 屋
115手 習157若菜下 30総 合
 32夢浮橋 60柏 木 34松 風

これは、出来上がった源氏物語を写すだけの枚数である。紫式部がこの枚数ですむはずがない。まずは手始めに書いて手直しなどをして、清書し、皆に見せたはずである。最小限としても清書一枚にその下書き一枚分だけ、つまり写す二倍の紙が必要であったはずである。つまり、五五七六枚が推定最低必要枚数である。

「この巻[桐壺]の本文になると、巻名以上に紫式部は幾度か改稿してあの洗練彫琢を極めた。源氏特有の名文を成したことと思われる」(周一男)とすれば、一体何倍の紙が必要だったのであろう。
紙の費用にして五貫十貫必要とされる。当時の生活からこの費用が一体どの程度の価値を持っていたのか、記録を集めてみる。
 人身売買は「関市令」に賎民のうち奴婢という身分なら、宮吏の承認を得る手続きさえとれば売買が許されたらしい。その値は、銭七貫という(鈴木一雄)。江戸時代、十両盗めば首が飛んだ。一六〇八年、金一両は銭四貫であったことを考えると、人の命は銭四十貫程度である。一両や二両で女部屋に売られて行ったことを考えても、平安の昔の人身売買七貫は穏当であろう。江戸時代までデッチ奉公では、給金は何文かのお小遣いだったのだから、金銭など無縁であった。食べさせてもらうことがせいぜいで、日曜日も休みなく或は盆と正月だけであった。ということは銭七貫とは大変な金額なのである。
 また、九六三年(応**参)八月二十三日、加茂河原で、空也が行った大般若経の供養には貴賎群集する中に、左大臣藤原実頼が礼拝し、内裏からは銭十貫文が寄進されたとある。(土田直鎮「王朝の貴族」昭和四十年中央公論社)時の第一人者の礼拝があった供養であるから、内裏からの寄進も当時第一級のものと思われる。銭十貫文とは内裏の寄進として体面が保てる額であるから、これまた相当のものであろう。
 また、延喜式に現れた醫療制度の大学寮の定めには支給の規定がある。
(其博士凖 大学博士 給 澄油竝賞銭 )
 凡太素經准 大經 新修本草准 中經 小品明八十一難經准 小經 凡博士講説者、依 日數 給 食料
(日米二升酒一升鹽一合束鰒二兩雑脂二兩雑鮓二兩藻一兩油夜別一合)講説訖准 經賞 銭大經三十貫 中經二十貫、小經一十貫・・・ (服部敏良「平安時代醫學の研究」昭和五十五年科学書院)


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