「竹河」 欠落部分の本文 語分割済みテキスト
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「古めかしきあたりにさし放ちて、思落とさるるもことはり也」とうち語らひ
給て、あはれにのみおぼしまさる。
 年ごろありて、又おとこ御子生み給つ。そこらさぶらひ給御方方に、
かかる事なくて年ごろになりにけるを、をろかならざりける御宿世など世人お
どろく。みかどは、まして限りなくめづらしと、この今宮をば思きこえ給へり。

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おりい給はぬ世ならましかば、いかにかひあらまし、いまは何事もはへなき世
を、いとくちおしとなんおぼしける。女一宮を限りなき物に思ひきこえ給し
を、かくさまざまにうつくしくて数添ひ給へれば、めづらかなる方にて、いと
ことにおぼいたるをなん、女御も、あまりかうては物しからむと御心動きける。
ことにふれてやすからず、くねくねしきこと出で来などして、をのづから御中
も隔たるべかめり。世のこととして、数ならぬ人の仲らひにも、もとよりこと
はり得たる方にこそ、あひなきおほよその人も、心を寄するわざなめれば、院
の内の上下の人人、いとやむごとなくて久しくなり給へる御方にのみことはり
て、はかないことにも、この方ざまをよからずとりなしなどするを、御せうと
の君たちも、「さればよ、あしうやは聞こえをきける」と、いとど申給。心
やすからず聞き苦しきままに、「かからで、のどやかにめやすくて世を過ぐす
人もおほかめりかし。限りなき幸ひなくて、宮仕への筋は思ひ寄るまじきわざ
なりけり」と、大上は嘆き給。
 聞こえし人人の、めやすくなり上りつつ、さてもおはせましに、かたわなら
ぬぞあまたあるや。その中に、源侍従とていと若うひわづなりと見しは、宰

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相中将にて、「匂ふや、かほるや」と聞きにくくめでさはがるなる、げに
いと人がら重りかに心にくきを、やんごとなき親王たち、大臣の、御むすめを
心ざしありてのたまふなるなども聞き入れず、などあるにつけて、「そのかみ
は若う心もとなきやうなりしかど、めやすくねびまさりぬべかめり」など言ひ
おはさうず。
 少将なりしも、三位中将とかいひておぼえあり。「かたちさへあらまほし
かりきや」など、なま心わろき仕うまつり人はうち忍びつつ、「うるさげなる
御有さまよりは」など言ふもありて、いとおしうぞ見えし。此中将は、猶
思そめし心絶えず、うくもつらくも思ひつつ、左大臣の御むすめを得たれど、
おさおさ心もとめず、道のはてなる常陸帯のと、手習にも、言種にもするは、
いかに思ふやうのあるにか有けん。
 宮す所、やすげなき世のむつかしさに、里がちになり給ひにけり。かんの君、
思ひしやうにはあらぬ御有さまをくちおしとおぼす。内の君は、中中いまめ
かしう、心やすげにもてなして、世にもゆへあり、心にくきおぼえにてさぶら
ひ給。

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 左大臣亡せ給て、右は左に、藤大納言、左大将かけ給へる右大臣になり給。
次次の人人なり上りて、このかほる中将は中納言に、三位の君は宰相になり
て、悦したまへる人人、この御族より外に人なきころをひになんありける。
中納言の御悦に、前の尚侍の君にまいり給へり。御前の庭にて拝したてまつ
り給。かんの君、対面し給て、「かくいと草深くなりゆく葎の門をよき給はぬ
御心ばえにも、先昔の御こと思出られてなん」など聞こえ給。御声あてに愛敬
づき、聞かまほしういまめきたり。古りがたくもおはするかな、かかれば院の
上は、恨給御心絶えぬぞかし、今つゐに事ひき出で給てん、と思。「悦な
どは、心にはいとしも思給へねども、先御覧ぜられにこそまいり侍れ。避き
ぬなどの給はするは、をろかなる罪にうち返させ給にや」と申給。
「けふは、さだ過ぎにたる身の愁へなど、聞こゆべきついでにもあらず、と
つつみ侍れど、わざと立寄り給はん事はかたきを、対面なくてはた、さすが
にくだくしきことになん。院にさぶらはるる、いといたう世の中を思乱
れ、中空なるやうにただよふを。女御を頼みきこえ、又后の宮の御方にも、さ
りともおぼしゆるされなん、と思ひ給へ過ぐすに、いづ方にも、なめげに心ゆ

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かぬ物におぼされたなれば、いとかたはらいたくて。宮たちはさてさぶらひ
給。このいとまじらひにくげなる身づからは、かくて心やすくだにながめ過
ぐい給へとてまかでさせたるを、それにつけても聞きにくくなん、上にもよろ
しからずおぼしの給はすなる。ついであらば、ほのめかし奏し給へ。とさまか
うざまに頼もしく思ひ給へて、出だしたて侍りしほどは、いづ方をも心やすく
うちとけ頼みきこえしかど、いまはかかる事あやまりに、おさなうおほけなか
りける身づからの心を、もどかしくなん」とうち泣い給けしき也。
 「さらにかうまでおぼすまじきことになん。かかる御まじらひのやすからぬ
ことは、むかしよりさることとなり侍にけるを。くらいを去りて静かにおはし
まし、何事もけざやかならぬ御ありさまとなりにたるに、誰もうちとけ給へる
やうなれど、をのをのうちうちは、いかがいどましくもおぼすこともなからむ。
人は何の咎と見ぬことも、わが御身にとりてはうらめしくなん、あいなきこと
に心動かひ給こと、女御、后の常の御癖なるべし。さばかりの紛れもあらじ
物とてやはおぼし立ちけん。ただなだらかにもてなして、御覧し過ぐすべきこ
とに侍也。おのこの方にて奏すべき事にも侍らぬ事になん」と、いとすくすく
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しう申給へば、「対面のついでに愁へきこえむと、待ちつけたてまつりたるか
ひなく、あわの御ことはりや」とうち笑ひておはする、人の親にてはかばかし
がり給へるほどよりは、いと若やかにおほどいたる心ちす。宮す所もかやうに
ぞおはすべかめる、宇治の姫君の心とまりておぼゆるも、かうざまなるけはひ
のおかしきぞかし、と思ゐ給へり。
 内侍のかみも、このころまかで給へり。こなたかなた、住み給へるけはひお
かしう、大方のどやかに紛るる事なき御ありさまどもの、簾のうち心はづかし
うおぼゆれば、心づかひせられて、いとどもてしづめめやすきを、大上は、近
うも見ましかば、とうちおぼしけり。
 大臣殿は、ただこの殿の東なりけり。だひきやうの垣下の君達などあまた
つどひ給。兵部卿の宮、左の大臣殿の賭弓の還立、すまゐのあるじなどにはお
はしまししを思ひて、けふの光と請じたてまつり給けれど、おはしまさず。心
にくくもてかしづきたまふ姫君たちを、さるは、心ざしことに、いかでと思ひ
きこえ給べかめれど、宮ぞ、いかなるにかあらん、御心もとめ給はざりける。
源中納言の、いとどあらまほしうねびととのひ、何事もをくれたる方なくもの
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し給を、おとども北の方も目とどめ給けり。
 隣のかくののりて、行きちがふ車のをと、前駆をふ声々も、むかしのこ
と思出でられて、この殿には物あはれにながめ給。「故宮亡せ給て程もなく、
このおとどの通ひ給しほどを、いとあはつけいやうに、世人はもどくなりしか
ど、かくてものし給もさすがなる方にめやすかりけり。定めなの世や。いづれ
にかよるべき」などのたまふ。
 左の大殿の宰相中将、大饗の又の日、夕つけてここにまいり給へり。
宮す所、里におはすと思ふに、いとど心げそう添ひて、「おほやけの数まへた
まふよろこびなどは、何ともおぼえ侍らず、私の思ふ事かなはぬ嘆きのみ、年
月に添えて思給へ晴るけん方なき事」と、涙をしのごふもことさらめいたり
廿七八のほどの、いと盛りににほひ、はなやかなるかたちし給へり。「見ぐる
しの君たちの、世中を、心のままにおごりて、官くらいをば何とも思はず過ぐし
いますがらうや。故殿おはせましかば、ここなる人々も、かかるすさび事にぞ
心は乱らまし」とうち泣き給、右兵衛督、右大弁にて、みな非参議なるをうれ
はしと思へり。侍従と聞こゆめりしぞ、このころ頭の中将と聞こゆめる。年
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齢のほどはかたわならねど、人にをくると嘆き給へり。宰相は、とかくつきづ
きしく。


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