39−1巻 夕霧一


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      つま戸より清き男の出づるころ後夜の
      律師のまう上るころ      (晶子)
 一人の夫人の忠実な良人という評判があって、品行方正を標榜していた源左大将であったが、 今は女二の宮に心を惹かれる人になって、世間体は故人への友情を忘れないふうに作りながら、 引き続いて一条第をお訪ねすることをしていた。しかもこの状態から一歩を進めないではおか ない覚悟が月日とともに堅くなっていった。一条の御息所も珍しい至誠の人であると、近ごろ になってますます来訪者が少なく、寂れてゆく邸へしばしば足を運ぶ大将によって慰められて いることが多いのであった。初めから求婚者として現われなかった自分が、急に変わった態度 に出るのはきまりが悪い、ただ真心で尽くしているところをお認めになったなら、自然に宮の お心は自分へ向いてくるに違いないから時を待とうと、こう大将は思って一日も早く宮と御接 近する機会を得たいとうかがい歩いているのである。宮が御自身でお話をあそばすようなこと はまだ絶対にない。いつか好機会をとらえて自分の持つ熱情を直接にお告げすることもし、御 様子もよく見たいと大将は心に願っていた。
 御息所は物怪で重く煩って小野という叡山の麓へ近い村にある別荘へ病床を移すようになっ た。以前から祈祷を頼みつけていて、物怪を追い払うのに得意な律師が叡山の寺にこもってい て、京へは当分出ない誓いを御仏にしたというのを招くのに都合がよかったからである。その
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日の幾つかの車とか前駆の人たちとかは皆大将からよこされた。かえって柏木の弟たちなどは 自身のせわしさに紛れてか、そうした気はつかないふうであった。左大将は兄の未亡人の宮を 得たい心でそれとなく申し込んだ時に、もってのほかであるというような強い拒絶的な態度を とられて以来、羞恥心から出入りもしなくなっているのである。それに比べて大将は非常に上 手な方法をとったものといわねばならない。
 修法をさせていると聞いて大将は僧たちへ出す布施や浄衣の類までも細かに気をつけて山荘 へ贈ったのであった。その際病人の御息所は返事を書くべくもない容体であったし、女房から 挨拶書きなどを出しておいては、先方の好意が徹底しなかったもののようにお思いになるであ ろうし、宮様がお高ぶりになりすぎるようにもお思われになるであろうからと女房らがお願い したために、宮が引き受けて礼状をお書きになった。美しい字のおおような短いお手紙ではあ るが、なつかしい味のあるものであったから、いよいよ大将の心は傾いて、それ以後たびたび お手紙を差し上げるようになった。結局自分の疑いは疑いでなくなってゆきそうであると、雲 井の雁夫人が早くも観察していることにはばかられて、大将は小野の山荘を訪ねたく思いなが らも実行をしかねていた。
 八月の二十日ごろで、野のながめも面白いころなのであるから、山荘住まいをしておいでに なる恋人を大将はお訪ねしたい心がしきりに動いて、
 「珍しく山から下っていられる某律師にぜひ逢って相談をしなければならぬことがあったし、 御病気の御息所の別荘へお見舞いもしがてらに小野へ行こうと思う」
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 と何げなく言って大将は邸を出た。前駆もたいそうにはせず親しい者五、六人を狩衣姿にさ せて大将は伴ったのである。たいして山深くはいる所ではないが、松が崎の峰の色なども奥山 ではないが、紅葉をしていて、技巧を尽くした都の貴族の庭園などよりも美しい秋を見せてい た。そこは簡単な小柴垣なども雅致のあるふうにめぐらせて、仮居ではあるが品よく住みなさ れた山荘であった。寝殿ともいうべき中央の建物の東の座敷のほうに祈祷の壇はできていて、 北側の座敷が御息所の病室となっているために、西向きの座敷に宮はおいでになった。物怪を 恐れて御息所は宮を京の邸へおとどめしておこうとしたのであるが、どうしてもいっしょにい たいとついておいでになった宮を、物怪のほかへ散るのを恐れて少しの隔てではあるが病室へ はお近づけ申し上げないのである。客を通す座敷がないために、宮のおいでになる室とは御簾 で隔てになった西の縁側についた座敷へ大将を入れて、上級の女房らしい人たちが御息所との 話の取り次ぎに出て来た。
 「まことにもったいなく存じます。御親切にたびたびお尋ねくださいました上に、御自身で またお見舞いくださいますあなた様に対して、もう亡くなってしまいますれば自分でお礼を申 し上げることができないと考えますことで、もう少し生きようといたします努力をしますこと になりました」
 これが御息所からの挨拶である。
 「こちらへお移りになります日に、私もお送りをさせていただきたかったのですが、あやに く六条院の御用の残ったものがありましたものですから失礼をいたしました。その以後も何か
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と忙しいことがあったものですから、お案じいたしております心だけのことができておらない のを、不本意に心苦しく存じております」
 などと大将は取り次がせている。奥のほうに静かにして宮はおいでになるのであるが、簡単 な山荘のことであるから、奥といっても深いことはないのであって、若い内親王様がそこにお いでになる気配はよく大将にわかるのである。柔らかに身じろぎなどをあそばす衣擦れの音に よって、宮のおすわりになったあたりが想像された。魂はそこへ行ってしまったようなうつろ な気になりながら、御息所の病室とここを通う取り次ぎの女房の往復の暇どる間を、これまで から話し相手にする少将とかそのほかの宮の女房とかを相手にして大将は語っているのであっ た。
 「宮様のほうへ伺うようになりましてから、もう何年と年で数えなければならないほどにな りますが、まだきわめてよそよそしいお取り扱いを受けておりますことで、恨めしい気がしま すよ。こうした御簾の前で、人づてのお言葉をほのかに承りうるだけではありませんか。私は まだこんた冷たい御待遇というものを知りませんよ。どんなに古風な気のきかない男に皆さん は私を思っておられるだろうと恥ずかしく思います。青年で気楽な位置におりましたころから、 続いて恋愛を生活の一部にして来ていますれば、こんなに不器用な恋の悩みをしないでも済ん だろうと思います。私のように長く心の病気をおさえている人はないでしょう」
 大将はこの言葉のとおりにもう軽々しい多情多感な青年ではない重々しい風采を備えている のであるから、その人の切り出して言ったことがこれであるのを、女房たちはこんなことにな
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るかともかねてあやぶんでいたと、途方に暮れた気がするのであった。
 「私が拙い御挨拶などをしてはかえっていけませんから、あなたが」
 こんなことを皆ひそかに言い合っていて、
 「あんなにもお言いになります方に、あまり無関心らしくあそばさないほうがよろしゅうご ざいましょう。何とかおっしゃってくださいませ」
 と宮へ申し上げると、
 「病人が自身でお話を申し上げることのできませんような失礼な際に、私でも代わりをいた しましてお逢い申し上げたいのでございますが、病人が一時非常に悪うございましたために、 私までも健康を害しまして、それでよんどころなく」
 こうお取り次がせになった。
 「それは宮様のお言葉ですか」
 と大将は居ずまいを正した。
 「御息所の御容体を、私自身の病などと比較にもなりませんほどお案じいたしておりますの も何の理由からでございましょう。もったいない話ではございますが、御憂鬱な御気分が朗ら かになられますまで、あの方様が御健康でおいでくださいますことは願わしいことだと存じ上 げるからでございます。あの方様へお尽くしいたすだけのものとして、私のあなた様へ持ちま す真心をお認めくださいませんことはお恨めしいことでございます」
 と大将は言う。
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 「ごもっともでございます」
 と女房らが言う。
 日は落ちて行く刻で、空も身にしむ色に霧が包んでいて、山の蔭はもう小暗い気のする庭に はしきりに蜩が鳴き、垣根の撫子が風に動く色も趣多く見えた。植え込みの灌木や草の花が乱 れほうだいになった中を行く水の音がかすかに涼しい。一方では凄いほどに山おろしが松の梢 を鳴らしていたりなどして、不断経の僧の交替の時間が来て鐘を打つと、終わって立つ僧の唱 える声と、新しい手代わりの僧の声とがいっしょになって、一時に高く経声の起こるのも尊い 感じのすることであった。所が所だけにすべてのことが人に心細さを思わせるのであったから、 恋する大将の物思わしさはつのるばかりであった。帰る気などには少しもなれない。律師が加 持をする音がして、陀羅尼経を錆びた声で読み出した。御息所の病苦が加わったふうであると 言って、女房たちはおおかたそのほうへ行っていて、もとから療養の場所で全部をつれて来て おいでになるのでない女房が、宮のおそばに侍しているのは少なくて、宮は寂しく物思いをあ そばされるふうであった。非常に静かなこんな時に自分の心もお告げすべきであると大将が思 っていると、外では霧が軒にまで迫ってきた。
 「私の帰る道も見えなくなってゆきますようなこんな時に、どうすればいいのでしょう」
 と大将は言って、
  山里の哀れを添ふる夕霧に立ち出でんそらもなきここちして
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 と申し上げると、
  山がつの籬をこめて立つ霧も心空なる人はとどめず
 こうほのかにお答えになる優美な宮の御様子がうれしく思われて、大将はいよいよ帰ること を忘れてしまった。
 「どうすることもできません。道はわからなくなってしまいましたし、こちらはお追い立て になる。だれも経験することを少しも経験せずに始めようとする者は、すぐこうした目にあい ます」
 などと言って、もうここに落ち着くふうを見せ、忍び余る心もほのめかしてお話しする大将 を、宮は今までからもその気持ちを全然お知りにならないのでもなかったが、気づかぬふうを しておいでになったのを、あらわに言葉にして言うのをお聞きになっては、ただ困ったことと お思われになって、いっそうものを多くお言いにならぬことになったのを、大将は歎息してい て、心の中ではこんな機会はまたとあるわけもない、思い切ったことは今でなければ実行が不 可能になろうとみずからを励ましていた。同情のない軽率な人間であるとお思われしてもしか たがない、せめて長く秘めてきた苦しい思いだけでもおささやきしたいと思った大将は、従者 を呼ぶと、もとは右近衛府の将監であって、五位になった男が出て来た。大将は近く招いて、
 「こちらへ来ておられる律師にぜひ逢って話すことがあるのだが、御病人の護身の法などを しておられて疲れておられる律師は休息もしなければならないことと思うから、私はこちらで
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泊まって、初夜のお勤めを終わられたころに律師のいるほうへ行こうと思う。二、三人だけは この山荘のほうへ人を残しておいて、そのほか随身などの者は栗栖野の荘が近いはずだから、 そのほうへ皆やって、馬に糧秣をやったりさせることにして、ここで騒がしく人声などは立て させぬようにしてくれ。こんな外泊は人の中傷の種になるのだから気をつけてくれるように」
 と命じた。訳のあることに相違ないと思ってその男は去った。それから大将は女房に、
 「道もわからなくなりましたからここでごやっかいになりましょう、かないますならこの御 簾の前を拝借させてください。阿闍梨の御用が済むまでです」
 と落ち着いたふうで言うのであった。これまではこんなに長居をしたこともなく、浮薄な言 葉も出した人ではなかったのに、困ったことであると宮はお思いになったが、わざとがましく 隣室へ行ってしまうことも体裁のよいものでないような気があそばされるので、ただ音をたて ぬようにしてそのままおいでになると、思ったことを吐露し始めた大将は、お心の動くまでと いうように、いろいろと言葉を尽くすのであったが、宮へお取り次ぎにいざり入る人の後ろか らそっと御簾をくぐって来た。夕霧が盛んに家の中へ流れ込むころで、座敷の中が暗くなって いるのである。その女房は驚いて後ろを見返ったが、宮は恐ろしくおなりになって、北側の襖 子の外へいざって出ようとあそばされたのを、大将は巧みに追いついて手でお引きとめした。 もうお身体は隣の間へはいっていたのであるが、お召し物の裾がまだこちらに引かれていたの である。襖子は隣の室の外から鍵のかかるようにはなっていないために、それをおしめになっ たままで、水のように宮は慄えておいでになった。女房たちも呆然としていていかにすべきで
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あるかを知らない。こちらの室には鍵があっても、この場合をどうすればよいかに皆当惑した のである。無理やりに荒々しく手を宮のお召し物から引き放させるようなこともできる相手で はなかった。
 「御尊敬申し上げておりますあなた様がこんなことをなさいますとは思いもよらぬことでご ざいます」
 と言って、泣かんばかりに退去を頼むのであるが、
 「これほどの近さでお話を申し上げようとするのを、なぜあなたがたは不思議になさるので しょう。つまらぬ私ですが、真心をお見せすることになって長い年月も重なっているはずで す」
 と女房らに答えてから、大将は優美な落ち着きを失わずに、美しいこの恋を成り立たせなけ ればならぬことを宮へお説きするのであった。宮は御同意をあそばすべくもない。こんな侮辱 までも忍ばねばならぬかというお気持ちばかりが湧き上がるのであるから何を言うこともおで きにならない。
 「あまりに少女らしいではありませんか。思い余る心から、しいてここまで参ってしまった ことは失礼に違いございませんが、これ以上のことをお許しがなくてしようとは存じておりま せん。この恋に私はどれだけ煩悶に煩悶を重ねてきたでしょう。私が隠しておりましても自然 お目にとまっているはずなのですが、しいて冷たくお扱いになるものですから、私としてはこ のほかにいたしようがないではございませんか。思いやりのない行動として御反感をお招きし
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ても、片思いの苦しさだけは聞いていただきたいと思います。それだけです。御冷淡な御様子 はお恨めしく思いますが、もったいないあなた様なのですから、決して、決して」
 と言って、大将はしいて同情深いふうを見せていた。あるところまでよりしまらぬ襖子を宮 がおさえておいでになるのは、これほど薄弱な防禦もないわけなのであるが、それをしいてあ けようとも大将はしないのである。
 「これだけで私の熱情が拒めると思召すのが気の毒ですよ」
 と笑っていたが、やがておそばへ近づいた。しかも御意志を尊重して無理はあえてできない 大将であった。宮はなつかしい、柔らかみのある、貴女らしい艶なところを十分に備えておい でになった。続いてあそばされたお物思いのせいかほっそりと痩せておいでになるのが、お召 し物越しに接触している大将によく感ぜられるのである。しめやかな薫香の匂いに深く包まれ ておいでになることも、柔らかに大将の官能を刺激する、きわめて上品な可憐さのある方であ った。
 吹く風が人を心細くさせる山の夜ふけになり、虫の声も鹿の啼くのも滝の音も人り混じって 艶な気分をつくるのであるから、ただあさはかな人間でも秋の哀れ、山の哀れに目をさまして 身にしむ思いを知るであろうと思われる山荘に、格子もおろさぬままで落ち方になった月のさ し入る光も大将の心に悲しみを覚えさせた。
 「まだ私の心持ちを御理解くださらないのを拝見しますと、私はかえってあなた様に失望い たしますよ。こんなに愚かしいまでに自己を抑制することのできる男はほかにないだろうと思
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うのですが、御信用くださらないのですか、何をいたしても責任感を持たぬ種類の男には、私 のようなのをばかな態度だとして、直ちに同情もなく力で解決をはかってしまうのです。あま りに私の恋の価値を軽く御覧になりますから、知らず知らず私も危険性がはぐくまれてゆく気 がいたします。男性とはどんなものかを過去にまだご存じでなかったあなた様でもないでしょ う」
 こう責められておいでになる宮は、どう返辞をしてよいかと苦しく思っておいでになる。も う処女でないからということを言葉にほのめかされるのを残念に宮はお思いになった。薄命と は自分のような女性をいうのであろうともお悲しまれになって、大将のいどんで来るのを死ぬ ほど苦しく思召された。
 「私のこれまでの運命はどんなにまずいものでございましても、それだからといって、これ を肯定しなければならないとは思われない」
 と、ほのかに可憐な泣き声をお立てになって、
  われのみや浮き世を知れるためしにて濡れ添ふ袖の名を朽たすべき
 ほかへお言いになるともなくお言いになったのを、大将がさらに自身の口にのせて歌うのさ え宮は苦痛にお思いになった。
 「誤解をお受けしやすいようなことを私が申したものですから」
 などと言って、微笑するふうで、
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 「おほかたはわが濡れ衣をきせずとも朽ちにし袖の名やは隠るる
 もうしかたがないと思召してくだすったらどうですか」
 こう言って、月の光のあるほうへいっしょに出ようと大将はお勧めするのであるが、宮はじ っと冷淡にしておいでになるのを、大将はぞうさなくお引き寄せして、
 「安価な恋愛でなく、最も高い清い恋をする私であることをお認めになって、御安心なすっ てください。お許しなしに決して、無謀なことはいたしません」
 こうきっぱりとしたことを大将が言っているうちに明け方に近くもなった。澄み切った月の、 霧にも紛れぬ光がさし込んできた。短い庇の山荘の軒は空をたくさんに座敷へ入れて、月の顔 と向かい合っているようなのが恥ずかしくて、その光から隠れるように紛らしておいでになる 宮の御様子が非常に艶であった。故人の話も少ししだして、閑雅な態度で大将は語っているの であった。しかもその中で故人に対してよりも劣ったお取り扱いを恨めしがった。宮のお心の 中でも、故人はこの人に比べて低い地位にいた人であるが、院も御息所も御同意のもとでお嫁 がせになって自分はその人の妻になったのである、その良人すら自分に対していだいていた愛 はいささかなものであった、ましてこうしてあるまじい恋に堕ちては、しかも知らぬ中でなく、 故人の妹を妻に持つこの人との名が立っては、太政大臣家ではどう自分を不快に思うことであ ろう、世間で譏られることも想像されるが、それよりも院がお聞きになってどう思召すであろ う、必ずお悲しみあそばすであろうなどと、切り離すことのできぬ関係の所々のことをお考え
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になると、このことが非常に情けなくお思われになって、自分はやましいところもなく、大将 の情人では断じてなくとも噂はどんなふうに立てられることか、御息所が少しも関与しておい でにならぬことが子として罪であるように思召され、こんなことをあとでお聞きになり、幼稚 な心からときがたい誤解の原因を作ったとお言いになろうこともわびしく御想像あそばされる 宮は、
 「せめて朝までおいでにならずにお帰りなさい」
 と大将をお促しになるよりほかのことはおできにならないのである。
 「悲しいことですね。恋の成り立った人のように分けて出なければならない草葉の露に対し てすら私は恥ずかしいではありませんか。ではお言葉どおりにいたしますから、私の誠意だけ はおくみとりください。馬鹿正直に仰せどおりにして帰ります私に、若し、上手に追いやって しまったのだというふうを今後お見せになることがありましたなら、その時にはもう自制の力 をなくして情熱のなすがままに自分をまかせなければならなくなることと思いますよ」
 大将は心残りを多く覚えるのであるが、放縦な男のような行為は、言っているごとく過去に も経験したことがなく、またできない人であって、恋人の宮のためにもおかわいそうなことで あり、自分自身の思い出にも不快さの残ることであろうなどと思って、自他のために人目を避 ける必要を感じ、深い霧に隠れて去って行こうとしたが、魂がもはや空虚になったような気持 ちであった。
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 「萩原や軒端の露にそぼちつつ八重立つ霧を分けぞ行くべき
 あなたも濡衣をお乾しになれないでしょう。それも無情に私をお追いになった報いとお思い になるほかはないでしょう」
 と大将が言った。そのとおりである。名はどうしても立つであろうが、自分自身をせめてや ましくないものにしておきたいと思召す心から、宮は冷ややかな態度をお示しになって、
 「わけ行かん草葉の露をかごとにてなほ濡衣をかけんとや思ふ
 ひどい目に私をおあわせになるのですね」
 と批難をあそばすのが、非常に美しいことにも、貴女らしいふうにもお見えになった。今ま で古い情誼を忘れない親切な男になりすまして、好意を見せ続けて来た態度を一変して好色漢 になってしまうことが宮にお気の毒でもあり、自身にも恥ずかしいと、大将は心に燃え上がる ものをおさえていたが、またあまり過ぎた謙抑は取り返しのつかぬ後悔を招くことではないか ともいろいろに煩悶をしながら帰って行くのであった。深い山里の朝露は冷たかった。夫人が この濡れ姿を見とがめることを恐れて大将は家へは帰らずに六条院の東の花散里夫人の住居へ 行った。まだ朝霧は晴れなかった。町でもこんなのであるから、小野の山荘の人はどんなに寂 しい霧を眺めておいでになるであろうと大将は思いやった。
 「珍しくお忍び歩きをなさいましたのですよ」
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 と女房たちはささやいていた。
 夕霧の大将はしばらく休息をしてから衣服を脱ぎかえた。平生からこの人の夏物、冬物を幾 襲となく作って用意してある養母であったから、香の唐櫃からすぐに品々が選び出されたので ある。朝の粥を食べたりしたあとで夫人の居間へ夕霧ははいって行った。夕霧はそこから小野 へ手紙をお送りした。
 山荘の宮は予想もあそばさなかった、にわかな変わった態度を男のとり出した昨夜のことで、 無礼なとも、恥を見せたともお思いになることで夕霧への御反感が強かった。御息所の耳へは いることがあったならと羞恥をお覚えになるのであるが、またそんなことがあったとは少しも 御息所が知らずにいて、不意に何かのことから気のついた時に、隔て心があるように思われる のも苦しい、女房がありのままを話すことによって母を悲しませることがあってもやむをえな いと宮はおあきらめになるよりほかはなかった。親子と申してもこれほど親しみ合う仲は少な い母と御子なのである。世間に噂の立っていることも親にはなお秘密にしておくことがよく昔 の小説などにはあるが、宮にそれはおできになれないことであった。女房たちは昨夜のことを 御息所が片端だけ聞いてもほんとうにあやまちが起こったことのように歎かれるのであろうか ら、今はまだそうした思いをさせる必要はないと相談をしていながらも、まだどの程度の関係 にまで進んだのか進まなかったのかに疑問を持っていて、今来た大将の手紙が真相を説明して くれるであろうと思う好奇心から、宮がお読みになる時に盗み見をしたいと願っているのであ るが、宮はお開きになろうともあそばされないのに気を揉んで、
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 「全然御返事をあそばさないことも、たよりない御性質のように想像をなさることでもござ いましょうし、お若々し過ぎることでもございます」
 などと言って、大将の手紙を拡げると、
 「思いがけないことで、たとえあれだけのことにもせよ男の人を接近させたことは、皆私自 身の軽率から起こした過失だとは思うがね、思いやりのないことをした人を、私の憎む心がま だ直らないのだから、読まなかったと言ってやるがいい」
 と不機嫌に仰せられて宮は横になっておしまいになった。夕霧の手紙は宮の御迷惑になるよ うなことを避けて書かれたものであった。
  たましひをつれなき袖にとどめおきてわが心から惑はるるかな
 「ほかなるものは」(身を捨てていにやしにけん思ふよりほかなるものは心なりけり)と歌
 われておりますから、昔もすでに私ほど苦しんだ人があったと思いまして、みずからを慰め
 ようとはいたすにもかかわらずなお魂は身に添いません。
 こんなことが長く書かれてあるようであったが、女房も細かに読むことは遠慮されてできな いのである。事の成り立ったのちに書かれた文ではないようであるとは見ながらも、なお疑い を消してはいなかった。女房たちは宮の御気分のすぐれぬことを歎きながら、
 「昨晩のことがまだ不可解なことに思われます。非常に御親切だということは長い間に私ど ももお認めしている方ですけれど、良人という御関係におなりになった時と、熱のある友情期
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間とが同じでありうるでしょうかどうかが心配ですよ」
 などと言い、親しく宮にお仕えしている女房たちもこのことに重い関心をもって宮のために お案じ申し上げているのであった。御息所はまだこのことを少しも知らずにいた。
 物怪に煩っている病人は重態に見えるかと思うと、またたちまちに軽快らしくなることもあ って、平常に近い気分になっていたこの日の昼ごろに、日中の加持が終わり、律師一人だけが 病床に近くいて陀羅尼経を読んでいた。病人の苦痛のやや去ったことを律師は喜んで、祈りの 終わりに、
 「大日如来が嘘を仰せられたのでなければ、私が熱誠をこめて行なう修法に効果の見えぬわ けはありません。悪霊は執拗であっても、それは業にまとわれたつまらぬ亡者ではありません か」
 と太い枯れ声で言っていた。俗離れのした強い性格の律師で、突然、
 「あ、左大将はいつごろから宮様の所へ通って来ておいでになりますか」
 と問うた。
 「そんなことはありません、亡くなられた大納言の親友でしたから、あの方が遺言して宮様 のことも頼んでお置きになったものですから、その約束をお守りになって、それ以来親切によ く訪ねて来てくださることが、もう何年も続いています。そんなお交際の仲なのですが、この 遠い所まで私の病気を見舞いに来てくださいましたそうですから、恐縮して私は聞いておりま したよ」
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 御息所の答えはこうであった。
 「とんでもない。私に隠しだてをなさる必要はない。今朝後夜の勤めにこちらへ参った時に、 あちらの西の妻戸からりっぱな若い方が出ておいでになったのを、霧が深くて私にはよく顔が 見えませんじゃったが、弟子どもは左大将が帰って行かれるのじゃ、昨夜も車をお返しになっ てお泊まりになったのを見たと口々に言っておりました。そうだろうと私もうなずかれました。 よい匂いのする方じゃからな。しかしこの御関係は結構なことじゃありませんなあ。あちらが りっぱな方であることに異議はないが、しかしどうも賛成ができん。子供でいられたころから あの方の御祈祷は御祖母の宮様から私が命ぜられていたものじゃから、今も何かといっては私 に頼まれるのですがな、そのことはよくありませんな。奥さんの勢力が強くてしかたがない。 盛んな一族が背景になっていますからな。お子さんはもう七、八人もできているでしょう。こ ちらの宮様がそれにお勝ちになることはできないでしょうな。また一方から言えば女という罪 障の深いものに生まれて、救いのない長夜の闇に迷うのもこうした関係から生じる煩悩が原因 になり、恐ろしい報いを受けることになりますからな、長い絆が付きまとわることですからな、 絶対によろしくないことじゃ」
 律師は頭を振り立てながら、興奮して乱暴なことも言うのである。
 「私には腑に落ちないことですよ。そんな様子などは少しもお見せにならなかった方ですも の、昨日は私があまり苦しんでいたものですから、しばらく休息をしてからまた話そうとお言 いになって、あちらにいらっしゃると女房たちは言っていましたが、そんなふうで夜明けまで
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おいでになったのでしょう。至極まじめな堅い方をそんなふうに言う人があるのはよくありま せん」
 と御息所はなお不審をいだくふうを僧に見せながらも、心のうちではそんなことがあったの かもしれない、宮を恋しくお思いする様子はおりおり見えたが、りっぱな人格のある人は人の 批難の種になるようなことは避けて、まじめな友情だけを見せていたために、危険はないもの として自分は油断をしていたが、おそばに人も少ないのを見てお居間へはいるようなこともし たのではないかと思われもした。律師が立って行ったあとで、小少将を呼んで、こうこうした ことを聞いたとまず御息所は言った。
 「ほんとうのことはどれほどのことだったのかね。なぜ私にくわしく報告してくれなかった の。人の言うようなことは決してあるまいとは思っていても私の心は不安でならない」
 聞く御息所に気の毒な思いをしながらも、小少将は昨日のことを初めからくわしく話した。 今朝の手紙の内容、宮がその時にお洩らしになった言葉なども言って、
 「ながくおさえ続けておいでになりました心を、お知らせなさろうというだけのことだった かと存じます。宮様への敬意をお失いになるようなことはございませんで、御迷惑とお考えに なって朝まではおいでになられませんで早く出てお行きになりましたのを、ほかの人はどんな ふうに申し上げたのでしょう」
 と、律師とは知らずに、ほかに密告した女房があったのだと小少将は思って言った。御息所 は何も言わずに、残念そうな表情をしていたが涙がほろほろとこぼれ出した。見ていて小少将
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は気の毒で、なぜありのままのことを言ったのだろう、病気の上に御息所は煩悶をして、どん なに堪えがたいことであろうと悔いた。
 「襖子はしめたままでございました」
 などと、今になって、少しでもよいように取りなそうと努めるのであったが、そんなことは どうでも、なぜそんなに近くへ男の寄って来るようなことを宮がおさせになったかと思うと悲 しい。やましいところはおありにならなくても、さっき聞いたようなことを言って騒いでいる 律師の弟子たちは、宮様のためにこれは不利であると思って隠すようなことをするはずもない、 どう人に言いわけをすればいいことかわからない、絶対にないことと打ち消すことはしなけれ ばなるまい、何にしても心の幼稚な女房ばかりがお付きしていてとも思う心を御息所は口へ出 しては言えなかった。病気が重い上に大きい衝動を受けたのであったからこの人はいたましい ほどにも苦しんだ。神聖な方としてお守り立てしていきたかった宮様も、世間の女並みに浮き 名を立てられておしまいになることがもってのほかに思われてならなかった。
 「今日のような私の気分の少しよい間に、宮様がこちらへおいでくださるように申し上げな さい。あちらへ伺うはずだけれど動けそうではないのだからね。ずいぶんながくお目にかから ない気がする」
 御息所は目に涙を浮かべてこう言っているのであった。
 小少将は宮のお居間へ帰って、御息所の最後の言葉だけをお伝えした。宮は母君の所へ行こ うとあそばされて、額髪の涙でかたまったのをお直しになり、お召し物の綻んでいた単衣をお
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着かえになっても、お気が進まないでじっとすわっておいでになるのであった。この女房たち もどう自分を見ているのであろう、御息所も今は何もお知りにならないで、あとで少しでも昨 夜のことをお聞きになることがあったなら、素知らぬ顔をしていたと今日の自分が思われるこ とであろうとお考えになると、非常に恥ずかしくおなりになり、宮はまた横になっておしまい になって、
 「私はどうも気分がよくない。このまま病気になって死んでしまうのはいいことだけれどね、 脚からのぼせ上がってきたようだから」
 とお言いになり、宮は脚をお揉ませになった。あまり物思いをあそばすためにおのぼせにな ったのである。
 「御息所に昨晩のことをほのめかしてお話しした人があったのでございますよ。ほんとうの ことが聞きたいとお言いになるものでございますから、正直にお話しいたしましたが、お襖子 のことだけは少し誇張をいたしまして、しまいまで皆はあいたのでないように申し上げておき ましたから、もしくわしいお話を聞こうとなさいましたら、私のと同じようにおっしゃってく ださいまし」
 こう小少将が言った。御息所が悲しんでいることは申さない。宮はそれでお呼びになったの であると、いっそう侘しい気におなりになり、何も仰せられなかったが、お枕から雫が落ちて いた。この問題だけではなく、自分の意志でなくした結婚からこの方、母に物思いばかりをさ せる自分であると、宮は子としてのかいのないことを悲しんでおいでになって、あの大将もこ
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のままで心をひるがえすことはせずに、いろいろと自分を苦しめるであろうことが煩わしい、 それについて立つ噂もあろうと御煩悶をあそばした。弁明することのできない弱い女の自分は、 無根のことでどんなに悪名をきせられることになるのであろうと、穢れのない自信は持ってお いでになるのであるが、皇女に生まれた者があれほど異性と近くいて夜の何時間かを過ごした というようなことはありうることでなく、あってよいわけのものでもないとお思いになること で、御自身の運命がお悲しまれになり、憂鬱にされておいでになったが、夕方にまた、
 「ぜひおいでなさいますように」
 と、御息所のほうから言って来たので、間にある座敷倉の戸を、向こうとこちらと両方であ けて宮は御息所の東の病室へおいでになった。
 病苦がありながらも御息所はうやうやしく宮をお取り扱いした。平生の作法どおりに起き上 がってもいた。
 「だらしなくいたしているのでございますから、お迎えいたしますことも心が引けてなりま せん。ただ二、三日だけお目にかからなかったのでございますのを、何年もお逢いすることの できなかったほど寂しく思われますのも味気ないことでございます。親子の縁では未来で必然 的にお逢いできますともきまらないのでございますからね。もう一度生まれてまいりましても だめなのでございますのに、考えますれば瞬間で永遠の別れになりますわれわれがあまりに愛 し過ぎて暮らしましたのが、後悔いたされます」
 などと、御息所は泣くのであった。宮もいろいろなことがお心にあってお悲しい時で、何も
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お言いになることができずに、ただ母君の顔をながめておいでになった。非常にお内気で思う ことをはきはきとお告げになることもおできにならずに、恥ずかしいお様子ばかりのお見えに なるのがおかわいそうで、御息所は昨日のことをお尋ねすることもできない。灯を早くつけさ せてお夕食などもこちらで差し上げさせることに御息所はした。今朝から何も召し上がらない ことを御息所は聞いて、ある物は自身で料理をし変えさせることを命じまでしてお勧めするの であるが、宮は御箸をお触れになる気にもおなりになれなかった。ただ母君の容体がよさそう である点だけで少しの慰めを得ておいでになった。
 夕霧の大将からまた手紙が来た。事情を知らない女房が使いから受け取って、
 「大将さんから少将さんにというお手紙がまいりました」
 と、この座敷で披露したことは、宮のお心をさらに苦しくさせたことであった。少将はすぐ にそれを手もとへ取ってしまった。
 「どんなお手紙」
 と、今までそのことに一言も触れなかった御息所も問うた。反抗的になっていた御息所の心 も、何時間かのうちに弱くなり、人知れず大将の今夜の来訪を待っていたのであるから、手紙 が来るのは自身で来ぬことであろうと胸が騒いだのである。
 「およこしになった手紙のお返事はなさいまし、しかたがございません。一度立てた名を取 り消すような評判はだれがしてくれましょう。きれいな御自信はおありになっても、だれがそ れを認めてくれましょう。素直にお返事もあそばして、冷淡になさらないほうがよろしゅうご
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ざいます。わがままな性格だと思われてはなりません」
 と宮に申し上げて、御息所は手紙を少将から受け取ろうとした。少将は心に当惑をしながら も渡すよりほかはなかった。
 冷ややかなお心を知りましたことによってかえっておさえがたいものに私の恋はなっていき
 そうです。
  せくからに浅くぞ見えん山河の流れての名をつつみはてずば
 まだいろいろに書かれてある手紙であったが、御息所は終わりまでを読まなかった。この手 紙も宮との関係を明瞭に説明したものでなくて恋人の冷ややかであったことにこうして酬いる というように、今夜も来ない大将の態度を御息所は悲しんだ。柏木が宮にお持ちする愛情のこ まやかでないのを知った時に、御息所は悲観したものであるが、ただ一人の妻として形式的に は鄭重をきわめたお取り扱いを故人がしたことで、強みのある気がして慰められはした。それ でも心から御息所は宮が御幸福におなりになったとは思わなかった。それさえもそうであった のに、今度のことは何たる悲しいことであろう。太政大臣家での取り沙汰は想像するだにいや であると御息所は思うのである。なおどう大将が言ってくるかと見たい心から、非常に苦しい 身体の調子であるのを忍んで、目を無理にあけるようにもして書いた力のない、鳥の足跡のよ うな字で返事をするのであった。
 もう私はなおる見込みもなくなりました。宮様はただ今こちらへ見舞いに来ておいでになる
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 のでございまして、お勧めをしてみましたが、めいったふうになっておいでになりまして、
 お返事もお書けにならないようでございますから、私が見かねまして、
  女郎花萎るる野辺をいづくとて一夜ばかりの宿を借りけん
 こう書きさしただけで紙を巻いて出した。そのまままた病床に横たわった御息所ははなはだ しく苦しみだした。物怪が油断をさせようと一時的に軽快ならしめていたのかと女房たちは騒 ぎだした。効験のいちじるしい僧が皆呼び集められて、病室は混雑していた。あちらへお帰り になるように女房たちはお勧めするのであるが、宮は御自身をお悲しみになる心から、いっし ょに死のうと思召して母君からお離れにならないのであった。
 夕霧はこの日の昼ごろから三条の家にいた。今夜また小野の山荘へ行くことは、まだない事 実をあることらしく人に思わせるだけで、自分のためにはよい結果をもたらすことでないと行 きたい心をしいておさえることに努力していたが、これまで恋しくお思いしていたことは物の 数でもないほどに昨日からにわかに千倍した恋に苦しむ大将であった。夫人は山荘の昨日の訪 問の様子をほかから聞き出して不快がっていたのであるが、知らぬ顔をして子供の相手をしな がら自身の昼の居間のほうで横になっていた。
 八時過ぎに小野の山荘で書いた御息所の返事は大将の所へ持って来られたのであるが、大病 人の書いた鳥の跡は一度見たのではわかりにくい。夕霧が灯を近くへ持って来させてさらに丁 寧に読もうとしている時に、あちらにいたのであるが夫人はそれを見つけて、そっと寄って来
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て後ろから奪ってしまった。夕霧はあきれて、
 「どうするのですか。けしからんじゃありませんか。六条の東のお母様のお手紙ですよ。今 朝から風邪でお悪かったから、院の御殿へ伺ったままでこちらへ帰って来て、もう一度お訪ね することをしなかったのがお気の毒だったから、御様子を聞く手紙を持たせてやったのじゃあ りませんか。御覧なさい、恋の手紙というような書き方ですか、これは。はしたない下品なこ とをするじゃありませんか。年月に添って私を侮ることがひどくなるのは困ったものだ。女房 たちがどう思うかを少しも考慮に入れないのですね」
 と言って歎息はしたが、惜しそうにしてしいて夫人の手から取り上げることはしなかったか ら、雲井の雁夫人もさすがにこの場で読むこともできずにじっと持っていた。
 「年月に添って侮るなどとは、あなた御自身がそうでいらっしゃるから、私のことまでも臆 測なさるのよ」
 夫人は良人があまりにまじめな顔をしているのに気おくれがして、若々しく甘えてみせた。 夕霧は笑って、
 「それはどちらのことでもいい。世間のどこにもあることだからね。けれどもこれだけはほ かにないことですよ。相当な身分の男がただ一人の妻を愛して、何かに怖れている鷹のように、 じっと一所を見守っているようなのに似た私を、どんなに人が笑っていることだろう。そんな 偏屈な男に愛されていることはあなたにとっても名誉じゃありませんよ。おおぜいの妻妾の中 ですぐれて愛される人は、見ない人までもが尊敬を寄せるものだし、自分でも始終緊張してい
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ることができて、若々しい血はなくならないであろうし、真の生きがいを感じることが多いだ ろうと思われる。私のように、昔の何かの小説にある老いぼれの良人のようにあなた一人をた だ夢中に愛しているようなことはあなたのために結構なことではありませんよ。そんなことは あなたが世間からはなやかに見られることでは少しもないからね」
 夕霧は小野の手紙をいざこざなしに取ってしまいたい心から妻を欺くと、夫人は派手に笑っ て、
 「はなやかなことをあなたがしようとしていらっしゃるから、古いじみな女の私が一方で苦 しんでいるのですよ。にわかにすっかりまじめでなくおなりになったのですもの、私にはそう した習慣がついていないのですから苦しくてなりません。初めからそうしておいでになればよ かったのよ」
 と恨めしがる妻も憎くはなかった。
 「にわかにとあなたが思うようなことが私のどこにあるのですか、あなたは疑い深いのです ね。私を中傷する人があるのでしょう。そうした人たちは初めから私に敵意を見せていたもの だ。浅葱の色の位階服が軽蔑すべきであった私を、今だってあなたの良人にさせておくのが残 念で、何かほかの考えを持っている者などがあって、いろんなない噂をあなたに聞かせるのだ ろう。一方で私のためにそうした濡衣を着せられておいでになる方もお気の毒なものだ」
 などと言いながらも夕霧は、女二の宮の御良人となることも堅く期しているのであるから、 深く弁明はしようとしないのであった。乳母の大輔は気術ながって何も言おうとしなかった。
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なお夫人は奪った手紙を返そうとはせずにどこかへ隠してしまった。夕霧は無理に取り返そう とはせずに、冷静に見せて寝についたのであるが、動悸ばかり高く打ってならなかった。どう かして取り返したい、御息所の手紙らしい、どんな内容なのであろうと思うと眠ることもでき ないのである。夫人が寝入ってしまったので、宵にいた所の敷き物の下などをさりげなく大将 は捜すのであるが見つからなかった。深く隠すだけの時間のなかったのを思うと、近い所に置 かれてあるに違いないと思うのに見つけられないのが歯がゆくて、悩ましい気持ちになり、夜 が明けてもなお起きようとしなかった。夫人は子供に起こされて寝所からいざって出る時に、 夕霧も今目をさましたふうに半身を起こして、昨夜の手紙をまたも捜そうとするのであったが、 見つけることは不可能であった。夫人は良人がそんなふうにほしがらぬ手紙はやはり恋の消息 ではなかったのであろうと思って、もう気にもかからなかった。子供がそばで騒ぎまわったり、 やや大きい子が人形を作って遊んだり、本を読んだり、手習いをしたりするのをいちいち見て やらねばならぬ忙しい時にも、また一人の小さい子が後ろから這いかかって来てつかまり立ち をしようとするような、母であるための繁忙に追われて、夫人はもう奪った手紙のことなどは 忘れ切っていた。男は他のことはいっさい思われないほど手紙がほしかった。小野へ今朝早く 消息をしたいと思うのであるが、昨夜の手紙に書かれてあったことをよく見なかったのである から、それに触れずに手紙を書いては、先方のものをそまつに取り扱って散らせてしまったこ とが知れてまずいことになると煩悶をしていた。夫婦も子供たちも食事を済ませてのどかにな った昼ごろに、大将は思いあまって夫人に言うのであった。
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 「昨夜のお手紙には何と書いてあったのですか。ばかなことを言ってあなたが見せてくれな いものだから、今日もこれからお見舞いをしなければならないのに困ってしまう。私は気分が 悪くて今日は六条へも行きたくないから、手紙で言ってあげなければならないのだが、昨日の ことがわからないでは不都合だから」
 夕霧の様子はきわめてさりげないものであったから、手紙を隠した自身の所作が、むだなこ とをしたものであると思うと、急に恥ずかしくなったが、それは言わずに、
 「先夜の山風に身体を悪くいたしましたからとお言いわけをなさればいいじゃありません か」
 と言った。
 「つまらんことばかり言うのですね。何もおもしろくないじゃありませんか。私が世間並み の男のように言われるのを聞くとかえってきまりが悪くなりますよ。女房たちなども不思議な 堅い男を疑うあなたを笑うだろうに」
 冗談にして、また、
 「昨夜の手紙はどこ」
 と言ったが、なおすぐに取り出そうとは夫人のしないままで、ほかの話などをしてしばらく 寝ていたが、そのうちに日が暮れた。蜩の声に驚いて目をさました大将は、この時刻に山荘の 庭を霧がどんなに深くふさいでいることであろう、情けないことである、今日のうちに昨日の 手紙の返事をすら自分は送ることができなかったのであると思って、何でもないふうに硯の墨
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をすりながら、どんなふうに書いて送ったものであろうと歎息をして一所を見つめていた目に 敷き畳の奥のほうの少し上がっている所を発見した。試みにそこを上げてみると、昨日の手紙 は下にはさまれてあった。うれしくも思われまたばかばかしくも夕霧は思った。微笑をしなが ら読んでみると、それは苦しい複雑な心を重態の病人が伝えているものであったから、大将の 鼓動は急に高くなって、自分がしいて結合を遂げたものとして書かれてあると思うと気の毒で 心苦しくて、第二の夜の昨夜に自分の行かなかったことでどんなに御息所は煩悶したことであ ろう、今日さえまだ手紙が送ってないということは、新婚の良人としていえばきわめて無情な 態度である。露骨に言わずに自分の行くのを促してある消息を受けていながら、自分を待ちつ けることがしまいまでできずに今朝になったのであったかと思うと、大将は妻が恨めしくも憎 くも思われた。無法なことをして大事な手紙を隠させるようなしぐさも皆自分がつけさせたわ がままな癖であると思うと、自分自身にすら反感を覚えて泣きたい気がした。これからすぐに 行こうと夕霧は思うのであったが、たやすく宮は逢おうとなされないであろうということは予 想されることであったし、妻はこうして昨日から嫉妬をし続けているのであるし、それに今日 が坎日にあたることはもし宮のお心が解けた場合を考えると、永久に幸福を得なければならぬ 結婚の最初に避けなければならぬことでもあるからと、まじめな性格からは、恋しい方との将 来に不安がないように慎重に事をすべきであると考えられて、行くことはおいて、まず御息所 への返事を書いた。
 珍しいお手紙を拝見いたしましたことは、御病気をお案じ申し上げるほうから申しても非常
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 にうれしいことでしたが、おとがめを受けましたことにつきましては何かお聞き違えになっ
 たのではないかと思われるのでございます。
  秋の野の草の繁みは分けしかど仮寝の枕結びやはせし
 弁明をいたしますのもおかしゅうございますが、宮様に対して御想像なさいますような無礼
 を申し上げた私では決してございません。
 という文である。宮へは長い手紙を書いた。そして夕霧は厩の中の駿足の馬に鞍を置かせて、 一昨夜の五位の男を小野へ使いに出すことにした。
 「昨夜から六条院に御用があって行っていて、今帰ったばかりだと申してくれ」
 大将は山荘へ行ってからのことでなおいろいろに注意を与えた。
 小野の御息所は、昨夜は夕霧の来ないらしいことに気がもまれて、あとの評判になっては不 名誉であろうこともはばかられずに、促すような手紙も書いたのに、その返事すら送られなか ったことに失望をしていてそのまま次の今日さえも暮れてきたことに煩悶を多く覚えて、やや 軽くなったふうであった容体がまた非常に険悪なものになってきた。かえって宮御自身は御息 所の思い悩む点を何ともお思いになるわけはなくて、ただ異性の他人をあれほどまでも近づか せたことが残念に思われる自分であって、彼の愛の厚薄は念頭にも置いていないにもかかわら ず、それを一大事として母君が煩悶していると、恥ずかしくも苦しくも思召されて、母君なが らそのことはお話しになることもできずに、ただ平生よりも羞恥を多くお感じになるふうの見
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える宮を、御息所は心苦しく思い、この上にまた多くの苦労をお積みにならねばなるまいと、 悲しさに胸のふさがる思いをした。
 「今さらお小言らしいことは申したくないのでございますが、それも運命とは申しながら、 異性に対する御認識が不足していましたために、人がどう批難をいたすかしれませんことが起 こってしまいましたのですよ。それは取り返されることではございませんが、これからはそう したことによく御注意をなさいませ。つまらぬ私でございますが、今までは御保護の役を勤め ましたが、もうあなた様はいろいろな御経験をお積みになりまして、お一人立ちにおなりにな りましても充分なように思って、私は安心していたのでございますよ。けれどまだ実際はそう した御幼稚らしいところがあって、隙をお見せになったのかと思いますと、御後見のために私 はもう少し生きていたい気がいたします。普通の女でも貴族階級の人は再婚して二人めの良人 を持つことをあさはかなことに人は見ているのでございますからね、まして尊貴な内親王様で あなたはいらっしゃるのでございますから、あそばすならすぐれた結婚をなさらなければなら なかったのでございますが、以前の御縁組みの場合にも、私はあなた様の最上の御良人とあの 方を見ることができませんで、御賛成申さなかったのですが、前生のお約束事だったのでしょ うか、院の陛下がお乗り気になりまして許容をあそばす御意志をあちらの大臣へまずもってお 示しになったものですから、私一人が御反対をいたし続けるのもいかがかと思いまして、負け てしまいましたのですが、予想してすでに御幸福なように思われませんでしたことは皆そのと おりでお気の毒なあなた様にしてしまいましたことを、私自身の過失ではないのですが、天を
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仰いで歎息しておりました。その上また今度のことでございます。あの方のためにも、あなた 様のためにも、これは世間が騒ぐはずのことですから、どんなに堪えがたい誹誘の声を忍ばな ければならぬかしれませんが、しかしそれはしいて忘れることにいたしましても、あの人の愛 情さえ深ければながい月日のうちには見よいことにもなろうかと、私はしいて思おうとするの ですが、まったく冷淡な人でございますね」
 と言い続けて御息所は泣くのであった。あった事実と独断してこう言うのを、御弁明あそば すこともおできにならない宮が、ただ泣いておいでになる御様子は、おおようで可憐なもので あった。御息所はじっと宮をながめながら、
 「あなたはどこが人より悪いのでしょう。そんなことは絶対にない。何という運命でこうし た御不幸な目にばかりおあいになるのだろう」
 などと言っているうちに御息所の容体は最悪なものになっていった。物怪などというものも こうした弱り目に暴虐をするものであるから、御息所の呼吸はにわかにとまって、身体は冷え 入るばかりになった。律師もあわてて願などを立て、祈祷に大声を放っているのである。御仏 に約して、自身の生存する最後の時まで下山せず寺にこもると立てた堅い決心をひるがえして、 この人を助けようとする自分の祈祷が効を奏せずに失敗して山へ帰るほど不名誉なことはなく て、その場合には御仏さえも恨むであろうことを言葉にして祈っているのである。宮が泣き惑 うておいでになるのもごもっともなことに思われた。
 この騒ぎの中で、大将の消息が来たという者の声を、御息所はほのかに聞いてそれでは今夜
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も来ないのであろうと思った。情けないことである、こうした恥ずかしい名を宮はまたお受け になるのであろう、自分までがなぜ受け入れるふうな手紙などを書いてやったのであろうと悶 えるうちに御息所の命は終わった。悲しいことである。昔から物怪のためにたびたび大病をし てもうだめなように見えたこともおりおりあったのであるから、また物怪が一時的に絶息をさ せたのかもしれぬと僧たちは加持に力を入れたのであるが、今度はもう何の望みもなく終焉の 体はいちじるしかった。宮はともに死にたいと思召す御様子でじっと母君の遺骸に身を寄せて おいでになった。女房たちがおそばに来て、
 「もういたしかたがございません。そんなにお悲しみになりましても、お死にになった方が お帰りになるものでございません。お慕いになりましてもあなた様のお思いが通るものでもご ざいません」
 とわかりきった生死の別れをお説きして、
 「こうしておいであそばすことは非常によろしくないことでございます。お亡れになりまし た方をお迷わせすることになりますから、あちらへおいであそばせ」
 お引き立て申して行こうとするのであるが、宮のお身体はすくんでしまって御自身の思召す ようにもならないのであった。祈祷の壇をこわして僧たちは立ち去る用意をしていた。少数の 者だけはあとへ残るであろうが、そうしたことも心細く思われた。ほうぼうから弔問の使いが 来た。いつの間に知ったかと思われるほどである。夕霧の大将は非常に驚いてさっそく使いを 立てた。六条院からも太政大臣家からも来た。ひっきりなしにそうした使いが来るのである。
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御寺の院もお聞きになって、御愛情のこもったお手紙を宮へお書きになった。この御消息が参 ったことによって、悲しみにおぼれておいでになった宮もはじめて頭をお上げになったのであ った。
 いつかから病気がだいぶ重いということは聞いていましたが、平生から弱い人だったために、
 つい怠って尋ねてあげることもしませんでした。故人の死をいたむことはむろんですが、あ
 なたがどんなに悲しんでおられるだろうと、それを最も私は心苦しく思います。死はだれも
 免れないものであるからという道理を思って心を平静にしなさい。
 とあった。宮は涙でお目もよく見えないのであるが、このお返事だけはお書きになった。平 生からすぐに遺骸は火葬にするようにと御息所は遺言してあったので、葬儀は今日のうちにす ることになって、故人の甥の大和守である人が万端の世話をしていた。亡骸だけでもせめて見 ていたいと宮はお惜しみになるのであったが、そうしたところでしかたのないことであると皆 が申し上げて、入棺などのことをしている騒ぎの最中に左大将は来た。
 「今日弔問に行っておかないでは、あとは皆、そうしたことに私の携われない暦になってい るから」
 などと、表面は言って、心の中では宮のお悲しみが悲しく想像され、少しでも早く小野へ行 きたく思っているのに、
 「そんなにまですぐにお駆けつけになるほどの御関係でもないではございませんか」
 と家従たちが諌めるのを退けてしいて出て来たのである。しかも遠距離ですぐにも行き着く
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ことのできない道は夕霧をますます悲しませたのであった。山荘は凄惨の気に満ちていた。最 後の式の行なわれる所は仕切りで隠して人々は例の西の縁側のほうへ大将にまわってもらった。
 妻戸の前の縁側によりかかって夕霧は女房を呼び出したが、だれも皆平静な気持ちでいる者 はないのである。大将が来たことで少し慰められるところがあって少将が応接に出た。夕霧も 急にものは言えないのであった。すぐ泣くふうの人ではないのであるが、ここの悲しい空気に 人々の様子も想像されて無常の世の道理も自身に近い人の上に実証されたことにひどく心を打 たれているのである。ややしばらくして、
 「少しおよろしいように伺ったものですから、安心していたのですが、何たることが起こっ たのでしょう。どんな悪夢でもさめる時はあるのですが、これはそうした希望も持てませんこ とを悲しく思います」
 と宮への御挨拶を申し入れた。御息所が煩悶していたことをお思いになって、大将が原因で 免れがたい運命とはいえ母君はお亡くなりになったとお思いになると、恨めしい因縁の人の弔 問に宮はお返辞すらあそばさない。
 「どう仰せられますと申し上げればよろしゅうございましょう。重いお身柄をお忘れになっ てすぐにこの遠い所をお弔みにおいでくださいました御好意を無視あそばすようなお扱いもあ まりでございましょうから」
 女房が口々に言うと、
 「いいかげんに言っておくがいい。何を何と言っていいか今はそんなこともわからない」
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 宮がこう言って横になっておしまいになったのももっともなこの場合のことであったから、 女房が、
 「ただ今のところ宮様はお亡れになった方同然でいらっしゃいます。おいでくださいました ことは申し上げておきました」
 と夕霧へ言った。この人たちは涙にむせかえっているのであるから、
 「何とも申し上げようのないことですから、私の心も少し落ち着き、宮様の御気分もお静ま りになったころにまた参りましょう。どうしてそんな急変が来たのか、私はその理由だけを知 りたい」
 と大将は女房に言った。露骨には言わないが少将は御息所の煩悶した一昼夜のことを少し夕 霧に知らせて、
 「そう申してまいればお恨み言になっていけません。今日は頭が混乱しておりまして間違っ てお話し申し上げることがあるかもしれません。それでは宮様のお悲しみもいずれはおあきら めにならなければならないことでございますから、御気分のお落ち着きになりますころにまた おいでくださいまし」
 と言った。その人たちも気を顛倒させている様子を見ては、大将も言いたいことが口から出 ない。
 「私の心なども暗闇になったように思われるのですから、宮様としてはごもっともです。極 力お慰め申し上げて、あなたがたの力で今後少しのお返事でもいただけるように計らってくだ
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さい」
 などと言いおいて、長い立ち話をしていることもさすがに出入りの人の多い今日の山荘では 軽々しく見られることであろうとはばかって大将は帰ることにした。今夜のうちに済ませるた めに納棺その他のことを着々進行させている物音にも、盛大ならぬ葬儀の悲哀が感ぜられて、 大将はこの近くにある自家の荘園から侍たちを招いて、いろいろな役を分担して助けることを 命じていった。急なことであったから自然簡単で済ませることになった葬儀が、これによって 外見をきわめてよくすることができるようになった。大和守も、
 「すべて殿様のありがたい御親切のおかげでございます」
 と感謝していた。
 母君を何も残らぬ無にしておしまいになったことで、宮は伏し転んで悲しんでおいでになっ た。親は子にこのかたがたのような片時離れぬ習慣はつけておくべきでないと思い、宮のこの 御状態を女房たちはまた歎き合った。大和守が葬儀の跡の始末を皆してから、
 「こんなふうになさいまして、まだながく寂しい山荘においでになることは御無理です。い っそうお悲しみが紛れないことになりましょう」
 などと宮へ申し上げるのであったが、宮は母君の煙におなりになった場所にせめて近くいた いと思召す心から、このままここへ永住あそばすお考えを持っておいでになった。忌中だけこ もっている僧たちは東の座敷からそちらの廊の座敷、下屋までを使って、わずかな仕切りをし て住んでいた。西の端の座敷を急ごしらえの居間にして宮はおいでになるのである。朝になる
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ことも夜になることも宮は忘れておいでになるうちに日がたって九月になった。山おろしが烈 しくなり、もう葉のない枝は防風林でも皆なくなった。寂しさの身にしむこの季節のことであ るから、空の色にも悲しみが誘われて、宮は歎きを続けておいでになる。命さえも思うどおり にならぬと悲しんでおいでになるのであった。女房たちも二重三重に悲しみをするばかりであ る。夕霧からは毎日のようにお見舞いの手紙が送られた。寂しい念仏僧を喜ばせるに足るよう な物もしばしば贈られた。宮へは真心の見える手紙を次々にお送りして、自分の恋に対して御 冷淡である恨みを語るほかには、今も御息所の死を悲しむ真情を言い続けた消息であった。し かも宮はそれらを手に取ってながめようともあそばさないのである。あのいまわしかった事件 を、衰弱しきった病体で御息所は確かに悲しみもだえて死んだことをお思いになると、そのこ とが母君の後世の妨げにもなったような気があそばされて、悲しさが胸に詰まるほどにも思召 されるのであるから、大将に触れたことを言うと、その人を恨めしく思召してお泣きになるの を見て、女房たちも手の出しようがないのである。一行のお返事さえ得られないのを、初めの 間は悲しみにおぼれておいでになるからであろうと大将は解釈していたが、今に至るも同じこ とであるのを見ては、どんな悲しみにも際限はあるはずであるのに、今になってもまだ自分の 音信に取り合わぬ態度をお続けになるのはどうしたことであろう、あまりに人情がおわかりに ならぬと恨めしがるようになった。関係もないことをただ文学的につづり、花とか蝶とか言っ ているのであったなら、冷眼に御覧になることもやむをえないことであるが、自身の悲しいこ とに同情して音信をする人には、親しみを覚えていただけるわけではないか、祖母の大宮がお
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亡れになって、自分が非常に悲しんでいる時に、太政大臣はそれほどにも思わないで、だれも 経験しなければならぬ尊親の死であるというふうに見ていて、儀式がかったことだけを派手に 行なって万事了るという様子であったのに、自分は反感を感じたものだし、かえって昔の婿で おありになった六条院が懇切に身を入れてあとの仏事のことなどをいろいろとあそばされたの に感激したものである。これは自分の父であるというだけで思ったことではない、その時に故 人の柏木が自分は好きになったのである。静かな性質で人情のよくわかる彼は、自分と同じよ うに祖母の宮の死を深く悲しんでいたのに心を惹かれたものであった。この宮は何という感受 性の乏しいお心なのであろうと、こんなことを毎日思い続けていた。夫人は山荘の宮と大将の 関係はどうなっていたのであろう、御息所とは始終手紙の往復をしていたようであるがと腑に 落ちず思って、夕方空にながめ入って物思いをしている良人の所へ、若君に短い手紙を持たせ てやった。ちょっとした紙の端なのである。
  哀れをもいかに知りてか慰めん在るや恋しき無きや悲しき
 どちらだか私にはわからないのですから。
 夕霧は微笑しながら嫉妬が夫人にいろいろなことを言わせるものであると思った。御息所を 対象にしていたろうとはあまりにも不似合いな忖度であると思ったのである。すぐに返事を書 いたが、それは実際問題を避けた無事なものである。
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  何れとも分きて眺めん消えかへる露も草葉の上と見ぬ世に
 人生のことがことごとく悲しい。
まだこんなふうに隠しだてをされるのであるかと、人生の悲しみはさしおいて夫人は歎いた。


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