4巻 夕顔


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                   うき夜半の悪夢と共になつかしきゆめ
                   もあとなく消えにけるかな  (晶子)
 源氏が六条に恋人を持っていたころ、御所からそこへ通う途中で、だいぶ重い病気をし尼に なった大弐の乳母を訪ねようとして、五条辺のその家へ来た。乗ったままで車を入れる大門が しめてあったので、従者に呼び出させた乳母の息子の惟光の来るまで、源氏はりっぱでないそ の辺の町を車からながめていた。惟光の家の隣に、新しい檜垣を外囲いにして、建物の前のほ うは上げ格子を四、五間ずっと上げ渡した高窓式になっていて、新しく白い簾を掛け、そこか らは若いきれいな感じのする額を並べて、何人かの女が外をのぞいている家があった。高い窓 に顔が当たっているその人たちは非常に背の高いもののように思われてならない。どんな身分 の者の集まっている所だろう。風変わりな家だと源氏には思われた。今日は車も簡素なのにし て目だたせない用意がしてあって、前駆の者にも人払いの声を立てさせなかったから、源氏は 自分のだれであるかに町の人も気はつくまいという気楽な心持ちで、その家を少し深くのぞこ うとした。門の戸も蔀風になっていて上げられてある下から家の全部が見えるほどの簡単なも のである。哀れに思ったが、ただ仮の世の相であるから宮も藁屋も同じことという歌が思われ て、われわれの住居だって一所だとも思えた。端隠しのような物に青々とした蔓草が勢いよく かかっていて、それの白い花だけがその辺で見る何よりもうれしそうな顔で笑っていた。そこ
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に白く咲いているのは何の花かという歌を口ずさんでいると、中将の源氏につけられた近衛の 随身が車の前に膝をかがめて言った。
 「あの白い花を夕顔と申します。人間のような名でございまして、こうした卑しい家の垣根 に咲くものでございます」
 その言葉どおりで、貧しげな小家がちのこの通りのあちら、こちら、あるものは倒れそうに なった家の軒などにもこの花が咲いていた。
 「気の毒な運命の花だね。一枝折ってこい」
 と源氏が言うと、蔀風の門のある中へはいって随身は花を折った。ちょっとしゃれた作りに なっている横戸の口に、黄色の生絹の袴を長めにはいた愛らしい童女が出て来て随身を招いて、 白い扇を色のつくほど薫物で燻らしたのを渡した。
 「これへ載せておあげなさいまし。手で提げては不恰好な花ですもの」
  随身は、夕顔の花をちょうどこの時門をあけさせて出て来た惟光の手から源氏へ渡してもら った。
 「鍵の置き所がわかりませんでして、たいへん失礼をいたしました。よいも悪いも見分けら れない人の住む界わいではございましても、見苦しい通りにお待たせいたしまして」
 と惟光は恐縮していた。車を引き入れさせて源氏の乳母の家へ下りた。惟光の兄の阿闍梨、 乳母の婿の三河守、娘などが皆このごろはここに来ていて、こんなふうに源氏自身で見舞いに 来てくれたことを非常にありがたがっていた。尼も起き上がっていた。
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 「もう私は死んでもよいと見られる人間なんでございますが、少しこの世に未練を持ってお りましたのはこうしてあなた様にお目にかかるということがあの世ではできませんからでござ います。尼になりました功徳で病気が楽になりまして、こうしてあなた様の御前へも出られた のですから、もうこれで阿弥陀様のお迎えも快くお待ちすることができるでしょう」
 などと言って弱々しく泣いた。
 「長い間恢復しないあなたの病気を心配しているうちに、こんなふうに尼になってしまわれ たから残念です。長生きをして私の出世する時を見てください。そのあとで死ねば九品蓮台の 最上位にだって生まれることができるでしょう。この世に少しでも飽き足りない心を残すのは よくないということだから」
 源氏は涙ぐんで言っていた。欠点のある人でも、乳母というような関係でその人を愛してい る者には、それが非常にりっぱな完全なものに見えるのであるから、まして養君がこの世のだ れよりもすぐれた源氏の君であっては、自身までも普通の者でないような誇りを覚えている彼 女であったから、源氏からこんな言葉を聞いてはただうれし泣きをするばかりであった。息子 や娘は母の態度を飽き足りない歯がゆいもののように思って、尼になっていながらこの世への 未練をお見せするようなものである、俗縁のあった方に惜しんで泣いていただくのはともかく もだがというような意味を、肱を突いたり、目くばせをしたりして兄弟どうしで示し合ってい た。源氏は乳母を憐んでいた。
 「母や担母を早く失くした私のために、世話する役人などは多数にあっても、私の最も親し
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く思われた人はあなただったのだ。大人になってからは少年時代のように、いつもいっしょに いることができず、思い立つ時にすぐに訪ねて来るようなこともできないのですが、今でもま だあなたと長く逢わないでいると心細い気がするほどなんだから、生死の別れというものがな ければよいと昔の人が言ったようなことを私も思う」
 しみじみと話して、袖で涙を拭いている美しい源氏を見ては、この方の乳母でありえたわが 母もよい前生の縁を持った人に違いないという気がして、さっきから批難がましくしていた兄 弟たちも、しんみりとした同情を母へ持つようになった。源氏が引き受けて、もっと祈祷を頼 むことなどを命じてから、帰ろうとする時に惟光に蝋燭を点させて、さっき夕顔の花の載せら れて来た扇を見た。よく使い込んであって、よい薫物の香のする扇に、きれいな字で歌が書か れてある。
  心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花
 散らし書きの字が上品に見えた。少し意外だった源氏は、風流遊戯をしかけた女性に好感を 覚えた。惟光に、
 「この隣の家にはだれが住んでいるのか、聞いたことがあるか」
 と言うと、惟光は主人の例の好色癖が出てきたと思った。
 「この五、六日母の家におりますが、病人の世話をしておりますので、隣のことはまだ聞い ておりません」
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 惟光が冷淡に答えると、源氏は、
 「こんなことを聞いたのでおもしろく思わないんだね。でもこの扇が私の興昧をひくのだ。 この辺のことに詳しい人を呼んで聞いてごらん」
 と言った。はいって行って隣の番人と逢って来た惟光は、
 「地方庁の介の名だけをいただいている人の家でございました。主人は田舎へ行っているそ うで、若い風流好きな細君がいて、女房勤めをしているその姉妹たちがよく出入りすると申し ます。詳しいことは下人で、よくわからないのでございましょう」
 と報告した。ではその女房をしているという女たちなのであろうと源氏は解釈して、いい気 になって、物馴れた戯れをしかけたものだと思い、下の品であろうが、自分を光源氏と見て詠 んだ歌をよこされたのに対して、何か言わねばならぬという気がした。というのは女性にはほ だされやすい性格だからである。懐紙に、別人のような字体で書いた。
  寄りてこそそれかとも見め黄昏れにほのぼの見つる花の夕顔
 花を折りに行った随身に持たせてやった。夕顔の花の家の人は源氏を知らなかったが、隣の 家の主人筋らしい貴人はそれらしく思われて贈った歌に、返事のないのにきまり悪さを感じて いたところへ、わざわざ使いに返歌を持たせてよこされたので、またこれに対して何か言わね ばならぬなどと皆で言い合ったであろうが、身分をわきまえないしかただと反感を持っていた 随身は、渡す物を渡しただけですぐに帰って来た。
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 前駆の者が馬上で掲げて行く松明の明りがほのかにしか光らないで源氏の車は行った。高窓 はもう戸がおろしてあった。その隙間から蛍以上にかすかな灯の光が見えた。
 源氏の恋人の六条貴女の邸は大きかった。広い美しい庭があって、家の中は気高く上手に住 み馴らしてあった。まだまったく源氏の物とも思わせない、打ち解けぬ貴女を扱うのに心を奪 われて、もう源氏は夕顔の花を思い出す余裕を持っていなかったのである。早朝の帰りが少し おくれて、日のさしそめたころに出かける源氏の姿には、世間から大騒ぎされるだけの美は十 分に備わっていた。
 今朝も五条の蔀風の門の前を通った。以前からの通り路ではあるが、あのちょっとしたこと に興味を持ってからは、行き来のたびにその家が源氏の目についた。幾日かして惟光が出て来 た。
 「病人がまだひどく衰弱しているものでございますから、どうしてもそのほうの手が離せま せんで、失礼いたしました」
こんな挨拶をしたあとで、少し源氏の君の近くへ膝を進めて惟光朝臣は言った。
 「お話がございましたあとで、隣のことによく通じております者を呼び寄せまして、聞かせ たのでございますが、よくは話さないのでございます。この五月ごろからそっと来て同居して いる人があるようですが、どなたなのか、家の者にもわからせないようにしていますと申すの です。時々私の家との間の垣根から私はのぞいて見るのですが、いかにもあの家には若い女の 人たちがいるらしい影が簾から見えます。主人がいなければつけない裳を言いわけほどにでも
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女たちがつけておりますから、主人である女が一人いるに違いございません。昨日夕日がすっ かり家の中へさし込んでいました時に、すわって手紙を書いている女の顔が非常にきれいでし た。物思いがあるふうでございましたよ。女房の中には泣いている者も確かにおりました」
 源氏はほほえんでいたが、もっと詳しく知りたいと思うふうである。自重をなさらなければ ならない身分は身分でも、この若さと、この美の備わった方が、恋愛に興味をお持ちにならな いでは、第三者が見ていても物足らないことである。恋愛をする資格がないように思われてい るわれわれでさえもずいぶん女のことでは好奇心が動くのであるからと惟光は主人をながめて いた。
 「そんなことから隣の家の内の秘密がわからないものでもないと思いまして、ちょっとした 機会をとらえて隣の女へ手紙をやってみました。するとすぐに書き馴れた達者な字で返事がま いりました、相当によい若い女房もいるらしいのです」
 「おまえは、なおどしどし恋の手紙を送ってやるのだね。それがよい。その人の正体が知れ ないではなんだか安心ができない」
 と源氏が言った。家は下の下に属するものと品定めの人たちに言われるはずの所でも、そん な所から意外な趣のある女を見つけ出すことがあればうれしいに違いないと源氏は思うのであ る。
 源氏は空蝉の極端な冷淡さをこの世の女の心とは思われないと考えると、あの女が言うまま になる女であったなら、気の毒な過失をさせたということだけで、もう過去へ葬ってしまった
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かもしれないが、強い態度を取り続けられるために、負けたくないと反抗心が起こるのである とこんなふうに思われて、その人を忘れている時は少ないのである。これまでは空爆階級の女 が源氏の心を引くようなこともなかったが、あの雨夜の品定めを聞いて以来好奇心はあらゆる ものに動いて行った。何の疑いも持たずに一夜の男を思っているもう一人の女を憐まないので はないが、冷静にしている空蝉にそれが知れるのを、恥ずかしく思って、いよいよ望みのない ことのわかる日まではと思ってそれきりにしてあるのであったが、そこへ伊予介が上京して来 た。そして真先に源氏の所へ伺候した。長い旅をして来たせいで、色が黒くなりやつれた伊予 の長官は見栄も何もなかった。しかし家柄もいいものであったし、顔だちなどに老いてもなお 整ったところがあって、どこか上品なところのある地方官とは見えた。任地の話などをしだす ので、湯の郡の温泉話も聞きたい気はあったが、何ゆえとなしにこの人を見るときまりが悪く なって、源氏の心に浮かんでくることは数々の罪の思い出であった。まじめな生一本の男と対 っていて、やましい暗い心を抱くとはけしからぬことである。人妻に恋をして三角関係を作る 男の愚かさを左馬頭の言ったのは真理であると思うと、源氏は自分に対して空蝉の冷淡なのは 恨めしいが、この良人のためには尊敬すべき態度であると思うようになった。
 伊予介が娘を結婚させて、今度は細君を同伴して行くという噂は、二つとも源氏が無関心で 聞いていられないことだった。恋人が遠国へつれられて行くと聞いては、再会を気長に待って いられなくなって、もう一度だけ逢うことはできぬかと、小君を味方にして空蝉に接近する策 を講じたが、そんな機会を作るということは相手の女も同じ目的を持っている場合だっても困
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難なのであるのに、空蝉のほうでは源氏と恋をすることの不似合いを、思い過ぎるほどに思っ ていたのであるから、この上罪を重ねようとはしないのであって、とうてい源氏の思うように はならないのである。空蝉はそれでも自分が全然源氏から忘れられるのも非常に悲しいことだ と思って、おりおりの手紙の返事などに優しい心を見せていた。なんでもなく書く簡単な文字 の中に可憐な心が混じっていたり、芸術的な文章を書いたりして源氏の心を惹くものがあった から、冷淡な恨めしい人であって、しかも忘れられない女になっていた。もう一人の女は他人 と結婚をしても思いどおりに動かしうる女だと思っていたから、いろいろな噂を聞いても源氏 は何とも思わなかった。秋になった。このごろの源氏はある発展を遂げた初恋のその続きの苦 悶の中にいて、自然左大臣家へ通うことも途絶えがちになって恨めしがられていた。六条の貴 女との関係も、その恋を得る以前ほどの熱をまた持つことのできない悩みがあった。自分の態 度によって女の名誉が傷つくことになってはならないと思うが、夢中になるほどその人の恋し かった心と今の心とは、多少懸隔のあるものだった。六条の貴女はあまりにものを思い込む性 質だった。源氏よりは八歳上の二十五であったから、不似合いな相手と恋に墜ちて、すぐにま た愛されぬ物思いに沈む運命なのだろうかと、待ち明かしてしまう夜などには煩悶することが 多かった。
 霧の濃くおりた朝、帰りをそそのかされて、睡むそうなふうで歎息をしながら源氏が出て行 くのを、貴女の女房の中将が格子を一間だけ上げて、女主人に見送らせるために几帳を横へ引 いてしまった。それで貴女は頭を上げて外をながめていた。いろいろに咲いた植え込みの花に
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心が引かれるようで、立ち止まりがちに源氏は歩いて行く。非常に美しい。廊のほうへ行くの に中将が供をして行った。この時節にふさわしい淡紫の薄物の裳をきれいに結びつけた中将の 腰つきが艶であった。源氏は振り返って曲がり角の高欄の所へしばらく中将を引き据えた。な お主従の礼をくずさない態度も額髪のかかりぎわのあざやかさもすぐれて優美な中将だった。
 「咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎうき今朝の朝顔
 どうすればいい」
 こう言って源氏は女の手を取った。物馴れたふうで、すぐに、
  朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて花に心をとめぬとぞ見る
 と言う。源氏の焦点をはずして主人の侍女としての挨拶をしたのである。美しい童侍の恰 好のよい姿をした子が、指貫の袴を露で濡らしながら、草花の中へはいって行って朝顔の花を 持って来たりもするのである、この秋の庭は絵にしたいほどの趣があった。源氏を遠くから知 っているほどの人でもその美を敬愛しない者はない、情趣を解しない山の男でも、休み場所に は桜の蔭を選ぶようなわけで、その身分身分によって愛している娘を源氏の女房にさせたいと 思ったり、相当な女であると思う妹を持った兄が、ぜひ源氏の出入りする家の召使にさせたい とか皆思った。まして何かの場合には優しい言葉を源氏からかけられる女房、この中将のよう な女はおろそかにこの幸福を思っていない。情人になろうなどとは思いも寄らぬことで、女主
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人の所へ毎日おいでになればどんなにうれしいであろうと思っているのであった。
それから、あの惟光の受け持ちの五条の女の家を探る件、それについて惟光はいろいろな材 料を得てきた。
 「まだだれであるかは私にわからない人でございます。隠れていることの知れないようにと ずいぶん苦心する様子です。閑暇なものですから、南のほうの高い窓のある建物のほうへ行っ て、車の音がすると若い女房などは外をのぞくようですが、その主人らしい人も時にはそちら へ行っていることがございます。その人は、よくは見ませんがずいぶん美人らしゅうございま す。この間先払いの声を立てさせて通る車がございましたが、それをのぞいて女の童が後ろの 建物のほうへ来て、『右近さん、早くのぞいてごらんなさい、中将さんが通りをいらっしゃい ます』と言いますと相当な女房が出て来まして、『まあ静かになさいよ』と手でおさえるよう にしながら、『まあどうしてそれがわかったの、私がのぞいて見ましょう』と言って前の家の ほうへ行くのですね、細い渡り板が通路なんですから、急いで行く人は着物の裾を引っかけて 倒れたりして、橋から落ちそうになって、『まあいやだ』などと大騒ぎで、もうのぞきに出る 気もなくなりそうなんですね。車の人は直衣姿で、随身たちもおりました。だれだれも、だれ だれもと数えている名は頭中将の随身や少年侍の名でございました」
 などと言った。
 「確かにその車の主が知りたいものだ」
 もしかすればそれは頭中将が忘られないように話した常夏の歌の女ではないかと思った源氏
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の、も少しよく探りたいらしい顔色を見た惟光は、
 「われわれ仲間の恋と見せかけておきまして、実はその上に御主人のいらっしゃることもこ ちらは承知しているのですが、女房相手の安価な恋の奴になりすましております。向こうでは 上手に隠せていると思いまして私が訪ねて行ってる時などに、女の童などがうっかり言葉をす べらしたりいたしますと、いろいろに言い紛らしまして、自分たちだけだというふうを作ろう といたします」
 と言って笑った。
 「おまえの所へ尼さんを見舞いに行った時に隣をのぞかせてくれ」
 と源氏は言っていた。たとえ仮住まいであってもあの五条の家にいる人なのだから、下の品 の女であろうが、そうした中におもしろい女が発見できればと思うのである。源氏の機嫌を取 ろうと一所懸命の惟光であったし、彼自身も好色者で他の恋愛にさえも興味を持つほうであっ たから、いろいろと苦心をした末に源氏を隣の女の所へ通わせるようにした。
 女のだれであるかをぜひ知ろうともしないとともに、源氏は自身の名もあらわさずに、思い きり質素なふうをして多くは車にも乗らずに通った。深く愛しておらねばできぬことだと惟光 は解釈して、自身の乗る馬に源氏を乗せて、自身は徒歩で供をした。
 「私から申し込みを受けたあすこの女はこの態を見たら驚くでしょう」
 などとこぼしてみせたりしたが、このほかには最初タ顔の花を折りに行った随身と、それか ら源氏の召使であるともあまり顔を知られていない小侍だけを供にして行った。それから知れ
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ることになってはとの気づかいから、隣の家へ寄るようなこともしない。女のほうでも不思議 でならない気がした。手紙の使いが来るとそっと人をつけてやったり、男の夜明けの帰りに道 を窺わせたりしても、先方は心得ていてそれらをはぐらかしてしまった。しかも源氏の心は十 分に惹かれて、一時的な関係にとどめられる気はしなかった。これを不名誉だと思う自尊心に 悩みながらしばしば五条通いをした。恋愛問題ではまじめな人も過失をしがちなものであるが、 この人だけはこれまで女のことで世間の批難を招くようなことをしなかったのに、夕顔の花に 傾倒してしまった心だけは別だった。別れ行く間も昼の間もその人をかたわらに見がたい苦痛 を強く感じた。源氏は自身で、気違いじみたことだ、それほどの価値がどこにある恋人かなど と反省もしてみるのである。驚くほど柔らかでおおような性質で、深味のあるような人でもな い。若々しい一方の女であるが、処女であったわけでもない。貴婦人ではないようである。ど こがそんなに自分を惹きつけるのであろうと不思議でならなかった。わざわざ平生の源氏に用 のない狩衣などを着て変装した源氏は顔なども全然見せない。ずっと更けてから、人の寝静ま ったあとで行ったり、夜のうちに帰ったりするのであるから、女のほうでは昔の三輪の神の話 のような気がして気味悪く思われないではなかった。しかしどんな人であるかは手の触覚から でもわかるものであるから、若い風流男以外な者に源氏を観察していない。やはり好色な隣の 五位が導いて来た人に違いないと惟光を疑っているが、その人はまったく気がつかぬふうで相 変わらず女房の所へ手紙を送って来たり、訪ねて来たりするので、どうしたことかと女のほう でも普通の恋の物思いとは違った煩悶をしていた。源氏もこんなに真実を隠し続ければ、自分
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も女のだれであるかを知りようがない、今の家が仮の住居であることは間違いのないことらし いから、どこかへ移って行ってしまった時に、自分は呆然とするばかりであろう。行くえを失 ってもあきらめがすぐつくものならよいが、それは断然不可能である。世間をはばかって間を 空ける夜などは堪えられない苦痛を覚えるのだと源氏は思って、世間へはだれとも知らせない で二条の院へ迎えよう、それを悪く言われても自分はそうなる前生の因縁だと思うほかはない、 自分ながらもこれほど女に心を惹かれた経験が過去にないことを思うと、どうしても約束事と 解釈するのが至当である、こんなふうに源氏は思って、
 「あなたもその気におなりなさい。私は気楽な家へあなたをつれて行って夫婦生活がした い」こんなことを女に言い出した。
 「でもまだあなたは私を普通には取り扱っていらっしゃらない方なんですから不安で」
 若々しく夕顔が言う。源氏は微笑された。
 「そう、どちらかが狐なんだろうね。でも欺されていらっしゃればいいじゃない」
 なつかしいふうに源氏が言うと、女はその気になっていく。どんな欠点があるにしても、こ れほど純な女を愛せずにはいられないではないかと思った時、源氏は初めからその疑いを持っ ていたが、頭中将の常夏の女はいよいよこの人らしいという考えが浮かんだ。しかし隠して いるのはわけのあることであろうからと思って、しいて聞く気にはなれなかった。感情を害し た時などに突然そむいて行ってしまうような性格はなさそうである、自分が途絶えがちになっ たりした時には、あるいはそんな態度に出るかもしれぬが、自分ながら少し今の情熱が緩和さ
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れた時にかえって女のよさがわかるのではないかと、それを望んでもできないのだから途絶え の起こってくるわけはない、したがって女の気持ちを不安に思う必要はないのだと知っていた。
 八月の十五夜であった。明るい月光が板屋根の隙間だらけの家の中へさし込んで、狭い家の 中の物が源氏の目に珍しく見えた。もう夜明けに近い時刻なのであろう。近所の家々で貧しい 男たちが目をさまして高声で話すのが聞こえた。
 「ああ寒い。今年こそもう商売のうまくいく自信が持てなくなった。地方廻りもできそうで ないんだから心細いものだ。北隣さん、まあお聞きなさい」
 などと言っているのである。哀れなその日その日の仕事のために起き出して、そろそろ労働 を始める音なども近い所でするのを女は恥ずかしがっていた。気どった女であれば死ぬほどき まりの悪さを感じる場所に違いない。でも夕顔はおおようにしていた。人の恨めしさも、自分 の悲しさも、体面の保たれぬきまり悪さも、できるだけ思ったとは見せまいとするふうで、自 分自身は貴族の子らしく、娘らしくて、ひどい近所の会話の内容もわからぬようであるのが、 恥じ入られたりするよりも感じがよかった。ごほごほと雷以上の恐い音をさせる唐臼なども、 すぐ寝床のそばで鳴るように聞こえた。源氏もやかましいとこれは思った。けれどもこの貴公 子も何から起こる音とは知らないのである。大きなたまらぬ音響のする何かだと思っていた。 そのほかにもまだ多くの騒がしい雑音が聞こえた。白い麻布を打つ砧のかすかな音もあちこち にした。空を行く雁の声もした。秋の悲哀がしみじみと感じられる。庭に近い室であったから、 横の引き戸を開けて二人で外をながめるのであった。小さい庭にしゃれた姿の竹が立っていて、
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草の上の露はこんなところのも二条の院の前栽のに変わらずきらきらと光っている。虫もたく さん鳴いていた。壁の中で鳴くといわれて人間の居場所に最も近く鳴くものになっている蟋蟀 でさえも源氏は遠くの声だけしか聞いていたかったが、ここではどの虫も耳のそばへとまって 鳴くような風変わりな情趣だと源氏が思うのも、夕顔を深く愛する心が何事も悪くは思わせな いのであろう。白い袷に柔らかい淡紫を重ねたはなやかな姿ではない、ほっそりとした人で、 どこかきわだって非常によいというところはないが繊細な感じのする美人で、ものを言う様子 に弱々しい可憐さが十分にあった。才気らしいものを少しこの人に添えたらと源氏は批評的に 見ながらも、もっと深くこの人を知りたい気がして、
 「さあ出かけましょう。この近くのある家へ行って、気楽に明日まで話しましょう。こんな ふうでいつも暗い間に別れていかなければならないのは苦しいから」
 と言うと、
 「どうしてそんなに急なことをお言い出しになりますの」
 おおように夕顔は言っていた。変わらぬ恋を死後の世界にまで続けようと源氏の誓うのを見 ると何の疑念もはさまずに信じてよろこぶ様子などのうぶさは、一度結婚した経験のある女と は思えないほど可憐であった。源氏はもうだれの思わくもはばかる気がなくなって、右近に随 身を呼ばせて、車を庭へ入れることを命じた。夕顔の女房たちも、この通う男が女主人を深く 愛していることを知っていたから、だれともわからずにいながら相当に信頼していた。
 ずっと明け方近くなってきた。この家に鶏の声は聞こえないで、現世利益の御岳教の信心な
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のか、老人らしい声で、起ったりすわったりして、とても忙しく苦しそうにして祈る声が聞か れた。源氏は身にしむように思って、朝露と同じように短い命を持つ人間が、この世に何の慾 を持って祈祷などをするのだろうと聞いているうちに、
 「南無当来の導師」
 と阿弥陀如来を呼びかけた。
 「そら聞いてごらん。現世利益だけが目的じゃなかった」
 とほめて、
  優婆塞が行なふ道をしるべにて来ん世も深き契りたがふな
 とも言った。玄宗と楊貴妃の七月七日の長生殿の誓いは実現されない空想であったが、五十 六億七千万年後の弥勒菩薩出現の世までも変わらぬ誓いを源氏はしたのである。
  前の世の契り知らるる身のうさに行く末かけて頼みがたさよ
 と女は言った。歌を詠む才なども豊富であろうとは思われない。月夜に出れば月に誘惑され て行って帰らないことがあるということを思って出かけるのを躊躇する夕顔に、源氏はいろい ろに言って同行を勧めているうちに月もはいってしまって東の空の白む秋のしののめが始まっ てきた。
 人目を引かぬ間にと思って源氏は出かけるのを急いだ。女のからだを源氏が軽々と抱いて車
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に乗せ右近が同乗したのであった。五条に近い帝室の後院である某院へ着いた。呼び出した院 の預かり役の出て来るまで留めてある車から、忍ぶ草の生い茂った門の廂が見上げられた。た くさんにある大木が暗さを作っているのである。霧も深く降っていて空気の湿っぽいのに車の 簾を上げさせてあったから源氏の袖もそのうちべったりと濡れてしまった。
 「私にははじめての経験だが妙に不安なものだ。
  いにしへもかくやは人の惑ひけんわがまだしらぬしののめの道
 前にこんなことがありましたか」
と聞かれて女は恥ずかしそうだった。
 「山の端の心も知らず行く月は上の空にて影や消えなん
 心細うございます、私は」
 凄さに女がおびえてもいるように見えるのを、源氏はあの小さい家におおぜい住んでいた人 なのだから道理であると思っておかしかった。
 門内へ車を入れさせて、西の対に仕度をさせている間、高欄に車の柄を引っかけて源氏らは 庭にいた。右近は艶な情趣を味わいながら女主人の過去の恋愛時代のある場面なども思い出さ れるのであった。預かり役がみずから出てする客人の扱いが丁寧きわまるものであることから、 右近にはこの風流男の何者であるかがわかった。物の形がほのぼの見えるころに家へはいった。
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にわかな仕度ではあったが体裁よく座敷がこしらえてあった。
 「だれというほどの人がお供しておらないなどとは、どうもいやはや」  などといって預かり役は始終出入りする源氏の下家司でもあったから、座敷の近くへ来て右 近に、
 「御家司をどなたかお呼び寄せしたものでございましょうか」
 と取り次がせた。
 「わざわざだれにもわからない場所にここを選んだのだから、おまえ以外の者にはすべて秘 密にしておいてくれ」
 と源氏は口留めをした。さっそくに調えられた粥などが出た。給仕も食器も間に合わせを忍 ぶよりほかはない。こんな経験を持たぬ源氏は、一切を切り放して気にかけぬこととして、恋 人とはばからず語り合う愉楽に酔おうとした。
 源氏は昼ごろに起きて格子を自身で上げた。非常に荒れていて、人影などは見えずにはるば ると遠くまでが見渡される。向こうのほうの木立ちは気味悪く古い大木に皆なっていた。近い 値え込みの草や灌木などには美しい姿もない。秋の荒野の景色になっている。池も水草でうず められた凄いものである。別れた棟のほうに部屋などを持って預かり役は住むらしいが、そこ とこことはよほど離れている。
 「気味悪い家になっている。でも鬼なんかだって私だけはどうともしなかろう」
と源氏は言った。まだこの時までは顔を隠していたが、この態度を女が恨めしがっているの
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を知って、何たる錯誤だ、不都合なのは自分である、こんなに愛していながらと気がついた、
 「夕露にひもとく花は玉鉾のたよりに見えし縁こそありけれ
あなたの心あてにそれかと思うと言った時の人の顔を近くに見て幻滅が起こりませんか」 と言う源氏の君を後目に女は見上げて、
  光ありと見し夕顔のうは露は黄昏時のそら目なりけり
 と言った。冗談までも言う気になったのが源氏にはうれしかった。打ち解けた瞬間から源氏 の美はあたりに放散した。古くさく荒れた家との対照はまして魅惑的だった。
 「いつまでも真実のことを打ちあけてくれないのが恨めしくって、私もだれであるかを隠し 通したのだが、負けた。もういいでしょう、名を言ってください、人間離れがあまりしすぎま す」
 と源氏が言っても、
 「家も何もない女ですもの」
 と言ってそこまではまだ打ち解けぬ様子も美しく感ぜられた。
 「しかたがない。私が悪いのだから」
 と怨んでみたり、永久の恋の誓いをし合ったりして時を送った。
 惟光が源氏の居所を突きとめてきて、用意してきた菓子などを座敷へ持たせてよこした。こ
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れまで白ばくれていた態度を右近に恨まれるのがつらくて、近い所へは顔を見せない。惟光は 源氏が人騒がせに居所を不明にして、一日を犠牲にするまで熱心になりうる相手の女は、それ に価する者であるらしいと想像をして、当然自己のものになしうるはずの人を主君にゆずった 自分は広量なものだと嫉妬に似た心で自嘲もし、羨望もしていた。
 静かな静かな夕方の空をながめていて、奥のほうは暗くて気味が悪いと夕顔が思うふうなの で、縁の簾を上げて夕映えの雲をいっしょに見て、女も源氏とただ二人で暮らしえた一日に、 まだまったく落ち着かぬ恋の境地とはいえ、過去に知らない満足が得られたらしく、少しずつ 打ち解けた様子が可憐であった。じっと源氏のそばへ寄って、この場所がこわくてならぬふう であるのがいかにも若々しい。格子を早くおろして灯をつけさせてからも、
 「私のほうにはもう何も秘密が残っていないのに、あなたはまだそうでないのだからいけな い」
 などと源氏は恨みを言っていた。陛下はきっと今日も自分をお召しになったに違いないが、 捜す人たちはどう見当をつけてどこへ行っているだろう、などと想像をしながらも、これほど までにこの女を溺愛している自分を源氏は不思議に思った。六条の貴女もどんなに煩悶をして いることだろう、恨まれるのは苦しいが恨むのは道理であると、恋人のことはこんな時にもま ず気にかかった。無邪気に男を信じていっしょにいる女に愛を感じるとともに、あまりにまで 高い自尊心にみずから煩わされている六条の貴女が思われて、少しその点を取り捨てたならと、 眼前の人に比べて源氏は思うのであった。
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 十時過ぎに少し寝入った源氏は枕の所に美しい女がすわっているのを見た。
 「私がどんなにあなたを愛しているかしれないのに、私を愛さないで、こんな平凡な人をつ れていらっしって愛撫なさるのはあまりにひどい。恨めしい方」
 と言って横にいる女に手をかけて起こそうとする。こんな光景を見た。苦しい襲われた気持 ちになって、すぐ起きると、その時に灯が消えた。不気味なので、太刀を引き抜いて枕もとに 置いて、それから右近を起こした。右近も恐ろしくてならぬというふうで近くへ出て来た。
 「渡殿にいる宿直の人を起こして、蝋燭をつけて来るように言うがいい」
 「どうしてそんな所へまで参れるものでございますか、暗うて」
 「子供らしいじゃないか」
 笑って源氏が手をたたくとそれが反響になった。限りない気味悪さである。しかもその音を 聞きつけて来る者はだれもない。夕顔は非常にこわがってふるえていて、どうすればいいだろ うと思うふうである。汗をずっぷりとかいて、意識のありなしも疑わしい。
 「非常に物恐れをなさいます御性質ですから、どんなお気持ちがなさるのでございましょう か」
 と右近も言った。弱々しい人で今日の昼間も部屋の中を見まわすことができずに空をばかり ながめていたのであるからと思うと、源氏はかわいそうでならなかった。
 「私が行って人を起こそう。手をたたくと山彦がしてうるさくてならない。しばらくの間こ こへ寄っていてくれ」
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 と言って、右近を寝床のほうへ引き寄せておいて、両側の妻戸のロヘ出て、戸を押しあけた のと同時に渡殿についていた灯も消えた。風が少し吹いている。こんな夜に侍者は少なくて、 しかもありたけの人は寝てしまっていた。院の預かり役の息子で、平生源氏が手もとで使って いた若い男、それから侍童が一人、例の随身、それだけが宿直をしていたのである。源氏が呼 ぶと返辞をして起きて来た。
 「蝋燭をつけて参れ。随身に弓の絃打ちをして絶えず声を出して魔性に備えるように命じて くれ。こんな寂しい所で安心をして寝ていていいわけはない。先刻惟光が来たと言っていたが、 どうしたか」
 「参っておりましたが、御用事もないから、夜明けにお迎えに参ると申して帰りましてござ います」
 こう源氏と問答をしたのは、御所の滝口に勤めている男であったから、専門家的に弓絃を鳴 らして、
 「火危し、火危し」
 と言いながら、父である預かり役の住居のほうへ行った。源氏はこの時刻の御所を思った。 殿上の宿直役人が姓名を奏上する名対面はもう終わっているだろう、滝口の武士の宿直の奏上 があるころであると、こんなことを思ったところをみると、まだそう深更でなかったに違いな い。寝室へ帰って、暗がりの中を手で探ると夕顔はもとのままの姿で寝ていて、右近がそのそ ばで、うつ伏せになっていた。
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 「どうしたのだ。気違いじみたこわがりようだ。こんな荒れた家などというものは、狐など が人をおどしてこわがらせるのだよ。私がおればそんなものにおどかされはしないよ」
 と言って、源氏は右近を引き起こした。
 「とても気持ちが悪うございますので下を向いておりました。奥様はどんなお気持ちでいら っしゃいますことでしょう」
 「そうだ、なぜこんなにばかりして」
 と言って、手で探ると夕顔は息もしていない。動かしてみてもなよなよとして気を失ってい るふうであったから、若々しい弱い人であったから、何かの物怪にこうされているのであろう と思うと、源氏は歎息されるばかりであった。蝋燭の明りが来た。右近には立って行くだけの 力がありそうもないので、閨に近い几帳を引き寄せてから、
 「もっとこちらへ持って来い」
 と源氏は言った。主君の寝室の中へはいるというまったくそんな不謹慎な行動をしたことが ない滝口は座敷の上段になった所へもよう来ない。
 「もっと近くへ持って来ないか。どんなことも場所によることだ」
 灯を近くへ取って見ると、この閨の枕の近くに源氏が夢で見たとおりの容貌をした女が見え て、そしてすっと消えてしまった。昔の小説などにはこんなことも書いてあるが、実際にある とはと思うと源氏は恐ろしくてならないが、恋人はどうなったかという不安が先に立って、自 身がどうされるだろうかという恐れはそれほどなくて横へ寝て、
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 「ちょいと」
 と言って不気味な眠りからさまさせようとするが、夕顔のからだは冷えはてていて、息はま ったく絶えているのである。頼りにできる相談相手もない。坊様などはこんな時のカになるも のであるがそんな人もむろんここにはいない。右近に対して強がって何かと言った源氏であっ たが、若いこの人は、恋人の死んだのを見ると分別も何もなくなって、じっと抱いて、
 「あなた。生きてください。悲しい目を私に見せないで」
 と言っていたが、恋人のからだはますます冷たくて、すでに人ではなく遺骸であるという感 じが強くなっていく。右近はもう恐怖心も消えて夕顔の死を知って非常に泣く。紫宸殿に出て 来た鬼は貞信公を威嚇したが、その人の威に押されて逃げた例などを思い出して、源氏はしい て強くなろうとした。
 「それでもこのまま死んでしまうことはないだろう。夜というものは声を大きく響かせるか ら、そんなに泣かないで」
 と源氏は右近に注意しながらも、恋人との歓会がたちまちにこうなったことを思うと呆然と なるばかりであった。滝口を呼んで、
 「ここに、急に何かに襲われた人があって、苦しんでいるから、すぐに惟光朝臣の泊まって いる家に行って、早く来るように言えとだれかに命じてくれ。兄の阿闍梨がそこに来ているの だったら、それもいっしょに来るようにと惟光に言わせるのだ。母親の尼さんなどが聞いて気 にかけるから、たいそうには言わせないように。あれは私の忍び歩きなどをやかましく言って
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止める人だ」
 こんなふうに順序を立ててものを言いながらも、胸は詰まるようで、恋人を死なせることの 悲しさがたまらないものに思われるのといっしょに、あたりの不気味さがひしひしと感ぜられ るのであった。もう夜中過ぎになっているらしい。風がさっきより強くなってきて、それに鳴 る松の枝の音は、それらの大木に深く囲まれた寂しく古い院であることを思わせ、一風変わっ た鳥がかれ声で鳴き出すのを、梟とはこれであろうかと思われた。考えてみるとどこへも遠く 離れて人声もしないこんな寂しい所へなぜ自分は泊まりに来たのであろうと、源氏は後悔の念 もしきりに起こる。右近は夢中になって夕顔のそばへ寄り、このまま慄え死にをするのでない かと思われた。それがまた心配で、源氏は一所懸命に右近をつかまえていた。一人は死に、一 人はこうした正体もないふうで、自身一人だけが普通の人間なのであると思うと源氏はたまら ない気がした。灯はほのかに瞬いて、中央の室との仕切りの所に立てた屏風の上とか、室の中 の隅々とか、暗いところの見えるここへ、後ろからひしひしと足音をさせて何かが寄って来る 気がしてならない、惟光が早く来てくれればよいとばかり源氏は思った。彼は泊まり歩く家を 幾軒も持った男であったから、使いはあちらこちらと尋ねまわっているうちに夜がぼつぼつ明 けてきた。この間の長さは千夜にもあたるように源氏には思われたのである。やっとはるかな 所で鳴く鶏の声がしてきたのを聞いて、ほっとした源氏は、こんな危険な目にどうして自分は あうのだろう、自分の心ではあるが恋愛についてはもったいない、思うべからざる人を思った 報いに、こんな後にも前にもない例となるようなみじめな目にあうのであろう、隠してもあっ
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た事実はすぐに噂になるであろう、陛下の思召しをはじめとして人が何と批評することだろう、 世間の嘲笑が自分の上に集まることであろう、とうとうついにこんなことで自分は名誉を傷つ けるのだなと源氏は思っていた。
 やっと惟光が出て来た。夜中でも暁でも源氏の意のままに従って歩いた男が、今夜に限って そばにおらず、呼びにやってもすぐの間に合わず、時間のおくれたことを源氏は憎みながらも 寝室へ呼んだ。孤独の悲しみを救う手は惟光にだけあることを源氏は知っている。惟光をそば へ呼んだが、自分が今言わねばならぬことがあまりにも悲しいものであることを思うと、急に は言葉が出ない。右近は隣家の惟光が来た気配に、亡き夫人と源氏との交渉の最初の時から今 日までが連続的に思い出されて泣いていた。源氏も今までは自身一人が強い人になって右近を 抱きかかえていたのであったが、惟光の来たのにほっとすると同時に、はじめて心の底から大 きい悲しみが湧き上がってきた。非常に泣いたのちに源氏は躊躇しながら言い出した。
 「奇怪なことが起こったのだ。驚くという言葉では現わせないような驚きをさせられた。人 のからだにこんな急変があったりする時には、僧家へ物を贈って読経をしてもらうものだそう だから、それをさせよう、願を立てさせようと思って阿闍梨も来てくれと言ってやったのだが、 どうした」
 「昨日叡山へ帰りましたのでございます。まあ何ということでございましょう、奇怪なこと でございます。前から少しはおからだが悪かったのでございますか」
 「そんなこともなかった」
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 と言って泣く源氏の様子に、惟光も感動させられて、この人までが声を立てて泣き出した。 老人はめんどうなものとされているが、こんな場合には、年を取っていて世の中のいろいろな 経験を持っている人が頼もしいのである。源氏も右近も惟光も皆若かった。どう処置をしてい いのか手が出ないのであったが、やっと惟光が、
 「この院の留守役などに真相を知らせることはよくございません。当人だけは信用ができま しても、秘密の洩れやすい家族を持っていましょうから。ともかくもここを出ていらっしゃい ませ」
 と言った。
 「でもここ以上に人の少ない場所はほかにないじゃないか」
 「それはそうでございます。あの五条の家は女房などが悲しがって大騒ぎをするでしょう、 多い小家の近所隣へそんな声が聞こえますとたちまち世間へ知れてしまいます、山寺と申すも のはこうした死人などを取り扱い馴れておりましょうから、人目を紛らすのには都合がよいよ うに思われます」
 考えるふうだった惟光は、
 「昔知っております女房が尼になって住んでいる家が東山にございますから、そこへお移し いたしましょう。私の父の乳母をしておりまして、今は老人になっている者の家でございます。 東山ですから人がたくさん行く所のようではございますが、そこだけは閑静です」
 と言って、夜と朝の入り替わる時刻の明暗の紛れに車を縁側へ寄せさせた。源氏自身が遺骸
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を車へ載せることは無理らしかったから、茣蓙に巻いて惟光が車へ載せた。小柄な人の死骸か らは悪感は受けないできわめて美しいものに思われた。残酷に思われるような扱い方を遠慮し て、確かにも巻かなんだから、茣蓙の横から髪が少しこぼれていた。それを見た源氏は目がく らむような悲しみを覚えて煙になる最後までも自分がついていたいという気になったのである が、
 「あなた様はさっそく二条の院へお帰りなさいませ。世間の者が起き出しませんうちに」
 と惟光は言って、遺骸には右近を添えて乗せた。自身の馬を源氏に提供して、自身は徒歩で、 袴のくくりを上げたりして出かけたのであった。ずいぶん迷惑な役のようにも思われたが、悲 しんでいる源氏を見ては、自分のことなどはどうでもよいという気に惟光はなったのである。
 源氏は無我夢中で二条の院へ着いた。女房たちが、
 「どちらからのお帰りなんでしょう。御気分がお悪いようですよ」
 などと言っているのを知っていたが、そのまま寝室へはいって、そして胸をおさえて考えて みると自身が今経験していることは非常な悲しいことであるということがわかった。なぜ自分 はあの車に乗って行かなかったのだろう、もし蘇生することがあったらあの人はどう思うだろ う、見捨てて行ってしまったと恨めしく思わないだろうか、こんなことを思うと胸がせき上が ってくるようで、頭も痛く、からだには発熱も感ぜられて苦しい。こうして自分も死んでしま うのであろうと思われるのである。八時ごろになっても源氏が起きぬので、女房たちは心配を しだして、朝の食事を寝室の主人へ勧めてみたが無駄だった。源氏は苦しくて、そして生命の
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危険が迫ってくるような心細さを覚えていると、宮中のお使いが来た。帝は昨日もお召しにな った源氏を御覧になれなかったことで御心配をあそばされるのであった。左大臣家の子息たち も訪問して来たがそのうちの頭中将にだけ、
 「お立ちになったままでちょっとこちらへ」
 と言わせて、源氏は招いた友と御簾を隔てて対した。
 「私の乳母の、この五月ごろから大病をしていました者が、尼になったりなどしたものです から、その効験でか一時快くなっていましたが、またこのごろ悪くなりまして、生前にもう一 度だけ訪問をしてくれなどと言ってきているので、小さい時から世話になった者に、最後に恨 めしく思わせるのは残酷だと思って、訪問しましたところがその家の召使の男が前から病気を していて、私のいるうちに亡くなったのです。恐縮して私に隠して夜になってからそっと遺骸 を外へ運び出したということを私は気がついたのです。御所では神事に関した御用の多い時期 ですから、そうした穢れに触れた者は御遠慮すべきであると思って謹慎をしているのです。そ れに今朝方からなんだか風邪にかかったのですか、頭痛がして苦しいものですからこんなふう で失礼します」
 などと源氏は言うのであった。中将は、
 「ではそのように奏上しておきましょう。昨夜も音楽のありました時に、御自身でお指図を なさいましてあちこちとあなたをお捜させになったのですが、おいでにならなかったので、御 機嫌がよろしくありませんでした」
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 と言って、帰ろうとしたがまた帰って来て、
 「ねえ、どんな穢れにおあいになったのですか、さっきから伺ったのはどうもほんとうとは 思われない」
 と、頭中将から言われた源氏ははっとした。
 「今お話ししたようにこまかにではなく、ただ思いがけぬ穢れにあいましたと申し上げてく ださい。こんなので今日は失礼します」
 素知らず顔には言っていても、心にはまた愛人の死が浮かんできて、源氏は気分も非常に悪 くなった。だれの顔も見るのが物憂かった。お使いの蔵人の弁を呼んで、またこまごまと頭中 将に語ったような行触れの事情を帝へ取り次いでもらった。左大臣家のほうへもそんなことで 行かれぬという手紙が行ったのである。
 日が暮れてから惟光が来た。行触れの件を発表したので、二条の院への来訪者は皆庭から取 り次ぎをもって用事を申し入れて帰って行くので、めんどうな人はだれも源氏の居間にいなか った。惟光を見て源氏は、
 「どうだった、だめだったか」
 と言うと同時に袖を顔へ当てて泣いた。惟光も泣く泣く言う、
 「もう確かにお亡れになったのでございます。いつまでお置きしてもよくないことでござい ますから、それにちょうど明日は葬式によい日でしたから、式のことなどを私の尊敬する老僧 がありまして、それとよく相談をして頼んでまいりました」
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 「いっしょに行った女は」
 「それがまたあまりに悲しがりまして、生きていられないというふうなので、今朝は渓へ飛 び込むのでないかと心配されました。五条の家へ使いを出すというのですが、よく落ち着いて からにしなければいけないと申して、とにかく止めてまいりました」
 惟光の報告を聞いているうちに、源氏は前よりもいっそう悲しくなった。
 「私も病気になったようで、死ぬのじゃないかと思う」
 と言った。
 「そんなふうにまでお悲しみになるのでございますか、よろしくございません。皆運命でご ざいます。どうかして秘密のうちに処置をしたいと思いまして、私も自身でどんなこともして いるのでございますよ」
 「そうだ、運命に違いない。私もそう思うが軽率な恋愛漁りから、人を死なせてしまったと いう責任を感じるのだ。君の妹の少将の命婦などにも言うなよ。尼君なんかはまたいつもああ いったふうのことをよくないよくないと小言に言うほうだから、聞かれては恥ずかしくてなら ない」
 「山の坊さんたちにもまるで話を変えてしてございます」
 と惟光が言うので源氏は安心したようである。主従がひそひそ話をしているのを見た女房な どは、
 「どうも不思議ですね、行触れだとお言いになって参内もなさらないし、また何か悲しいこ
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とがあるようにあんなふうにして話していらっしゃる」
 腑に落ちぬらしく言っていた。
 「葬儀はあまり簡単な見苦しいものにしないほうがよい」
 と源氏が惟光に言った。
 「そうでもございません。これは大層にいたしてよいことではございません」
 と否定してから、惟光が立って行こうとするのを見ると、急にまた源氏は悲しくなった。
 「よくないことだとおまえは思うだろうが、私はもう一度遺骸を見たいのだ。それをしない ではいつまでも憂鬱が続くように思われるから、馬ででも行こうと思うが」
 主人の望みを、とんでもない軽率なことであると思いながらも惟光は止めることができなか った。
 「そんなに思召すのならしかたがございません。では早くいらっしゃいまして、夜の更けぬ うちにお帰りなさいませ」
 と惟光は言った。五条通いの変装のために作らせた狩衣に着更えなどして源氏は出かけたの である。病苦が朝よりも加わったこともわかっていて源氏は、軽はずみにそうした所へ出かけ て、そこでまたどんな危険が命をおびやかすかもしれない、やめたほうがいいのではないかと も思ったが、やはり死んだ夕顔に引かれる心が強くて、この世での顔を遺骸で見ておかなけれ ば今後の世界でそれは見られないのであるという思いが心細さをおさえて、例の惟光と随身を 従えて出た。非常に路のはかがゆかぬ気がした。十七日の月が出てきて、加茂川の河原を通る
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ころ、前駆の者の持つ松明の淡い明りに鳥辺野のほうが見えるというこんな不気味な景色にも 源氏の恐怖心はもう麻痺してしまっていた。ただ悲しみに胸が掻き乱されたふうで目的地に着 いた。凄い気のする所である。そんな所に住居の板屋があって、横に御堂が続いているのであ る。仏前の燈明の影がほのかに戸からすいて見えた。部屋の中には一人の女の泣き声がして、 その室の外と思われる所では、僧の二、三人が話しながら声を多く立てぬ念仏をしていた。近 くにある東山の寺々の初夜の勤行も終わったころで静かだった。清水の方角にだけ灯がたくさ んに見えて多くの参詣人の気配も聞かれるのである。主人の尼の息子の僧が尊い声で経を読む のが聞こえてきた時に、源氏はからだじゅうの涙がことごとく流れて出る気もした。中へはい って見ると、灯をあちら向きに置いて、遺骸との間に立てた屏風のこちらに右近は横になって いた。どんなに佗しい気のすることだろうと源氏は同情して見た。遺骸はまだ恐ろしいという 気のしない物であった。美しい顔をしていて、まだ生きていた時の可憐さと少しも変わってい なかった。
 「私にもう一度、せめて声だけでも聞かせてください。どんな前生の縁だったかわずかな間 の関係であったが、私はあなたに傾倒した。それだのに私をこの世に捨てて置いて、こんな悲 しい目をあなたは見せる」
 もう泣き声も惜しまずはばからぬ源氏だった。僧たちもだれとはわからぬながら、死者に断 ちがたい愛着を持つらしい男の出現を見て、皆涙をこぼした。源氏は右近に、
 「あなたは二条の院へ来なければならない」
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 と言ったのであるが、
 「長い間、それは小さい時から片時もお離れしませんでお世話になりました御主人ににわか にお別れいたしまして、私は生きて帰ろうと思う所がございません。奥様がどうおなりになっ たかということを、どうほかの人に話ができましょう。奥様をお亡くししましたほかに、私は また皆にどう言われるかということも悲しゅうございます」
 こう言って右近は泣きやまない。
 私も奥様の煙といっしょにあの世へ参りとうございます」
 「もっともだがしかし、人世とはこんなものだ。別れというものに悲しくないものはないの だ。どんなことがあっても寿命のある間には死ねないのだよ。気を静めて私を信頼してくれ」
 と言う源氏が、また、
 「しかしそういう私も、この悲しみでどうなってしまうかわからない」
 と言うのであるから心細い。
 「もう明け方に近いころだと思われます。早くお帰りにならなければいけません」
 惟光がこう促すので、源氏は顧みばかりがされて、胸も悲しみにふさがらせたまま帰途につ いた。露の多い路に厚い朝霧が立っていて、このままこの世でない国へ行くような寂しさが味 わわれた。某院の閨にいたままのふうで夕顔が寝ていたこと、その夜上に掛けて寝た源氏自身 の紅の単衣にまだ巻かれていたこと、などを思って、全体あの人と自分はどんな前生の因縁が あったのであろうと、こんなことを途々源氏は思った。馬をはかばかしく御して行けるふうで
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もなかったから、惟光が横に添って行った。加茂川堤に来てとうとう源氏は落馬したのである。 失心したふうで、
 「家の中でもないこんな所で自分は死ぬ運命なんだろう。二条の院まではとうてい行けない 気がする」
 と言った。惟光の頭も混乱状態にならざるをえない。自分が確とした人間だったら、あんな ことを源氏がお言いになっても、軽率にこんな案内はしなかったはずだと思うと悲しかった。 川の水で手を洗って清水の観音を拝みながらも、どんな処置をとるべきだろうと煩悶した。源 氏もしいて自身を励まして、心の中で御仏を念じ、そして惟光たちの助けも借りて二条の院へ 行き着いた。
 毎夜続いて不規則な時間の出入りを女房たちが、
 「見苦しいことですね、近ごろは平生よりもよく微行をなさる中でも昨日はたいへんお加減 が悪いふうだったでしょう。そんなでおありになってまたお出かけになったりなさるのですか ら、困ったことですね」
 こんなふうに歎息をしていた。
 源氏白身が予言をしたとおりに、それきり床について煩ったのである。重い容体が二、三日 続いたあとはまた甚しい衰弱が見えた。源氏の病気を聞こし召した帝も非常に御心痛あそばさ れてあちらでもこちらでも間断なく祈祷が行なわれた。特別な神の祭り、祓い、修法などであ る。何にもすぐれた源氏のような人はあるいは短命で終わるのではないかといって、一天下の
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人がこの病気に関心を持つようにさえなった。
 病床にいながら源氏は右近を二条の院へ伴わせて、部屋なども近い所へ与えて、手もとで使 う女房の一人にした。惟光は源氏の病の重いことに顛倒するほどの心配をしながら、じっとそ の気持ちをおさえて、馴染のない女房たちの中へはいった右近のたよりなさそうなのに同情し てよく世話をしてやった。源氏の病の少し楽に感ぜられる時などには、右近を呼び出して居ま の用などをさせていたから、右近はそのうち二条の院の生活に馴れてきた。濃い色の喪服を着 た右近は、容貌などはよくもないが、見苦しくも思われぬ若い女房の一人と見られた。
 「運命があの人に授けた短い夫婦の縁から、その片割れの私ももう長くは生きていないのだ ろう。長い間たよりにしてきた主人に別れたおまえが、さぞ心細いだろうと思うと、せめて私 に命があれば、あの人の代わりの世話をしたいと思ったこともあったが、私もあの人のあとを 追うらしいので、おまえには気の毒だね」
 と、ほかの者へは聞かせぬ声で言って、弱々しく泣く源氏を見る右近は、女主人に別れた悲 しみは別として、源氏にもしまたそんなことがあれば悲しいことだろうと思った。二条の院の 男女はだれも静かな心を失って主人の病を悲しんでいるのである。御所のお使いは雨の脚より もしげく参入した。帝の御心痛が非常なものであることを聞く源氏は、もったいなくて、その ことによって病から脱しようとみずから励むようになった。左大臣も徹底的に世話をした、大 臣自身が二条の院を見舞わない日もないのである。そしていろいろな医療や祈祷をしたせいで か、二十日ほど重態だったあとに余病も起こらないで、源氏の病気は次第に回復していくよう
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に見えた。行触れの遠慮の正規の日数もこの日で終わる夜であったから、源氏は逢いたく思召 す帝の御心中を察して、御所の宿直所にまで出かけた。退出の時は左大臣が自身の車へ乗せて 邸へ伴った。病後の人の謹慎のしかたなども大臣がきびしく監督したのである。この世界でな い所へ蘇生した人間のように当分源氏は思った。
 九月の二十日ごろに源氏はまったく回復して、痩せるには痩せたがかえって艶な趣の添った 源氏は、今も思いをよくして、またよく泣いた。その様子に不審を抱く人もあって、物怪が憑 いているのであろうとも言っていた。源氏は右近を呼び出して、ひまな静かな日の夕方に話を して、
 「今でも私にはわからぬ。なぜだれの娘であるということをどこまでも私に隠したのだろう。 たとえどんな身分でも、私があれほどの熱情で思っていたのだから、打ち明けてくれていいわ けだと思って恨めしかった」
 とも言った。
 「そんなにどこまでも隠そうなどとあそばすわけはございません。そうしたお話をなさいま す機会がなかったのじゃございませんか。最初があんなふうでございましたから、現実の関係 のように思われないとお言いになって、それでもまじめな方ならいつまでもこのふうで進んで 行くものでもないから、自分は一時的な対象にされているにすぎないのだとお言いになっては 寂しがっていらっしゃいました」
 右近がこう言う。
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 「つまらない隠し合いをしたものだ。私の本心ではそんなにまで隠そうとは思っていなかっ た。ああいった関係は私に経験のないことだったから、ばかに世間がこわかったのだ。御所の 御注意もあるし、そのほかいろんな所に遠慮があってね。ちょっとした恋をしても、それを大 問題のように扱われるうるさい私が、あの夕顔の花の白かった日の夕方から、むやみに私の心 はあの人へ惹かれていくようになって、無理な関係を作るようになったのもしばらくしかない 二人の縁だったからだと思われる。しかしまた恨めしくも思うよ。こんなに短い縁よりないの なら、あれほどにも私の心を惹いてくれなければよかったとね。まあ今でもよいから詳しく話 してくれ、何も隠す必要はなかろう。七日七日に仏像を描かせて寺へ納めても、名を知らない ではね。それを表に出さないでも、せめて心の中でだれの菩提のためにと思いたいじゃない か」
 と源氏が言った。
 「お隠しなど決してしようとは思っておりません。ただ御自分のお口からお言いにならなか ったことを、お亡れになってからおしゃべりするのは済まないような気がしただけでございま す。御両親はずっと前にお亡くなりになったのでございます。殿様は三位中将でいらっしゃい ました。非常にかわいがっていらっしゃいまして、それにつけても御自身の不遇をもどかしく 思召したでしょうが、その上寿命にも恵まれていらっしゃいませんで、お若くてお亡くなりに なりましたあとで、ちょっとしたことが初めで頭中将がまだ少将でいらっしったころに通っ ておいでになるようになったのでございます。三年間ほどは御愛情があるふうで御関係が続い
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ていましたが、昨年の秋ごろに、あの方の奥様のお父様の右大臣の所からおどすようなことを 言ってまいりましたのを、気の弱い方でございましたから、むやみに恐ろしがっておしまいに なりまして、西の右京のほうに奥様の乳母が住んでおりました家へ隠れて行っていらっしゃい ましたが、その家もかなりひどい家でございましたからお困りになって、郊外へ移ろうとお思 いになりましたが、今年は方角が悪いので、方角避けにあの五条の小さい家へ行っておいでに なりましたことから、あなた様がおいでになるようなことになりまして、あの家があの家でご ざいますから侘しがっておいでになったようでございます。普通の人とはまるで違うほど内気 で、物思いをしていると人から見られるだけでも恥ずかしくてならないようにお思いになりま して、どんな苦しいことも寂しいことも心に納めていらしったようでございます」
 右近のこの話で源氏は自身の想像が当たったことで満足ができたとともに、その優しい人が ますます恋しく思われた。
 「小さい子を一人行方不明にしたと言って中将が憂鬱になっていたが、そんな小さい人があ ったのか」
 と問うてみた。
 「さようでございます。一昨年の春お生まれになりました。お嬢様で、とてもおかわいらし い方でございます」
 「で、その子はどこにいるの、人には私が引き取ったと知らせないようにして私にその子を くれないか。形見も何もなくて寂しくばかり思われるのだから、それが実現できたらいいね」
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 源氏はこう言って、また、
 「頭中将にもいずれは話をするが、あの人をああした所で死なせてしまったのが私だから、 当分は恨みを言われるのがつらい。私の従兄の中将の子である点からいっても、私の恋人だっ た人の子である点からいっても、私の養女にして育てていいわけだから、その西の京の乳母に も何かほかのことにして、お嬢さんを私の所へつれて来てくれないか」
 と言った。
 「そうなりましたらどんなに結構なことでございましょう。あの西の京でお育ちになっては あまりにお気の毒でございます。私ども若い者ばかりでしたから、行き届いたお世話ができな いということであっちへお預けになったのでございます」
 と右近は言っていた。静かな夕方の空の色も身にしむ九月だった。庭の植え込みの草などが うら枯れて、もう虫の声もかすかにしかしなかった。そしてもう少しずつ紅葉の色づいた絵の ような景色を右近はながめながら、思いもよらぬ貴族の家の女房になっていることを感じた。 五条のタ顔の花の咲きかかった家は思い出すだけでも恥ずかしいのである。竹の中で家鳩とい う鳥が調子はずれに鳴くのを聞いて源氏は、あの某院でこの鳥の鳴いた時に夕顔のこわがった 顔が今も可憐に思い出されてならない。
 「年は幾つだったの、なんだか普通の若い人よりもずっと若いようなふうに見えたのも短命 の人だったからだね」
 「たしか十九におなりになったのでございましょう。私は奥様のもう一人のほうの乳母の忘
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れ形見でございましたので、三位様がかわいがってくださいまして、お嬢様といっしょに育て てくださいましたものでございます。そんなことを思いますと、あの方のお亡くなりになりま したあとで、平気でよくも生きているものだと恥ずかしくなるのでございます。弱々しいあの 方をただ一人のたよりになる御主人と思って右近は参りました」
 「弱々しい女が私はいちばん好きだ。自分が賢くないせいか、あまり聡明で、人の感情に動 かされないような女はいやなものだ。どうかすれば人の誘惑にもかかりそうな人でありながら、 さすがに慎ましくて恋人になった男に全生命を任せているというような人が私は好きで、おと なしいそうした人を自分の思うように教えて成長させていげればよいと思う」
 源氏がこう言うと、
 「そのお好みには遠いように思われません方の、お亡れになったことが残念で」 と右近は言いながら泣いていた。空は曇って冷ややかな風が通っていた。 寂しそうに見えた源氏は、
  見し人の煙を雲とながむれば夕の空もむつまじきかな
 と独言のように言っていても、返しの歌は言い出されないで、右近は、こんな時に二人そろ っておいでになったらという思いで胸の詰まる気がした。源氏はうるさかった砧の音を思い出 してもその夜が恋しくて、「八月九月正長夜、千声万声無止時」と歌っていた。
 今も伊予介の家の小君は時々源氏の所へ行ったが、以前のように源氏から手紙を託されて来
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るようなことがなかった。自分の冷淡さに懲りておしまいになったのかと思って、空蝉は心苦 しかったが、源氏の病気をしていることを聞いた時にはさすがに歎かれた。それに良人の任国 へ伴われる日が近づいてくるのも心細くて、自分を忘れておしまいになったかと試みる気で、
 このごろの御様子を承り、お案じ申し上げてはおりますが、それを私がどうしてお知らせす
 ることができましょう。
  問はぬをもなどかと問はで程ふるにいかばかりかは思ひ乱るる
 苦しかるらん君よりもわれぞ益田のいける甲斐なきという歌が思われます。
 こんな手紙を書いた。
 思いがけぬあちらからの手紙を見て源氏は珍しくもうれしくも思った。この人を思う熱情も 決して醒めていたのではないのである。
 生きがいがないとはだれが言いたい言葉でしょう。
  うつせみの世はうきものと知りにしをまた言の葉にかかる命よ
 はかないことです。
 病後の慄えの見える手で乱れ書きをした消息は美しかった。蝉の脱殻が忘れずに歌われてあ るのを、女は気の毒にも思い、うれしくも思えた。こんなふうに手紙などでは好意を見せなが らも、これより深い交渉に進もうという意思は空蝉になかった。理解のある優しい女であった
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という思い出だけは源氏の心に留めておきたいと願っているのである。もう一人の女は蔵人少 将と結婚したという噂を源氏は聞いた。それはおかしい、処女でない新妻を少将はどう思うだ ろうと、その良人に同情もされたし、またあの空蝉の継娘はどんな気持ちでいるのだろうと、 それも知りたさに小君を使いにして手紙を送った。
 死ぬほど煩悶している私の心はわかりますか。
  ほのかにも軒ばの荻をむすばずば露のかごとを何にかけまし
 その手紙を枝の長い荻につけて、そっと見せるようにとは言ったが、源氏の内心では粗相し て少将に見つかった時、妻の以前の情人の自分であることを知ったら、その人の気持ちは慰め られるであろうという高ぶった考えもあった。しかし小君は少将の来ていないひまをみて手紙 の添った荻の枝を女に見せたのである。恨めしい人ではあるが自分を思い出して情人らしい手 紙を送って来た点では憎くも女は思わなかった。悪い歌でも早いのが取柄であろうと書いて小 君に返事を渡した。
  ほのめかす風につけても下荻の半は霜にむすぼほれつつ
 下手であるのを酒落れた書き方で紛らしてある字の品の悪いものだった。灯の前にいた夜の 顔も連想されるのである。碁盤を中にして慎み深く向かい合ったほうの人の姿態にはどんなに 悪い顔だちであるにもせよ、それによって男の恋の減じるものでないよさがあった。一方は何
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の深味もなく、自身の若い容貌に誇ったふうだったと源氏は思い出して、やはりそれにも心の 惹かれるのを覚えた。まだ軒端の荻との情事は清算されたものではなさそうである。
 源氏はタ顔の四十九日の法要をそっと叡山の法華堂で行なわせることにした。それはかなり 大層なもので、上流の家の法会としてあるべきものは皆用意させたのである。寺へ納める故人 の服も新調したし寄進のものも大きかった。書写の経巻にも、新しい仏像の装飾にも費用は惜 しまれてなかった。惟光の兄の阿闍梨は人格者だといわれている僧で、その人が皆引き受けて したのである。源氏の詩文の師をしている親しい某文章博士を呼んで源氏は故人を仏に頼む願 文を書かせた。普通の例と違って故人の名は現わさずに、死んだ愛人を阿弥陀仏にお託しする という意味を、愛のこもった文章で下書きをして源氏は見せた。
 「このままで結構でございます。これに筆を入れるところはございません」
 博士はこう言った。激情はおさえているがやはり源氏の目からは涙がこぼれ落ちて堪えがた いように見えた。その博士は、
 「何という人なのだろう、そんな方のお亡くなりになったことなど話も聞かないほどの人だ のに、源氏の君があんなに悲しまれるほど愛されていた人というのはよほど運のいい人だ」
 とのちに言った。作らせた故人の衣裳を源氏は取り寄せて、袴の腰に、
  泣く泣くも今日はわが結ふ下紐をいづれの世にか解けて見るべき
 と書いた。四十九日の間はなおこの世界にさまよっているという霊魂は、支配者によって未
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来のどの道へ赴かせられるのであろうと、こんなことをいろいろと想像しながら般若心経の章 句を唱えることばかりを源氏はしていた。頭中将に逢うといつも胸騒ぎがして、あの故人が撫 子にたとえたという子供の近ごろの様子などを知らせてやりたく思ったが、恋人を死なせた恨 みを聞くのがつらくて打ちいでにくかった。
 あの五条の家では女主人の行くえが知れないのを捜す方法もなかった。右近までもそれきり 便りをして来ないことを不思議に思いながら絶えず心配をしていた。確かなことではないが通 って来る人は源氏の君ではないかといわれていたことから、惟光になんらかの消息を得ようと もしたが、まったく知らぬふうで、続いて今も女房の所へ恋の手紙が送られるのであったから、 人々は絶望を感じて、主人を奪われたことを夢のようにばかり思った。あるいは地方官の息子 などの好色男が、頭中将を恐れて、身の上を隠したままで父の任地へでも伴って行ってしまっ たのではないかとついにはこんな想像をするようになった。この家の持ち主は西の京の乳母の 娘だった。乳母の娘は三人で、右近だけが他人であったから便りを聞かせる親切がないのだと 恨んで、そして皆夫人を恋しがった。右近のほうでは夫人を頓死させた責任者のように言われ るのをつらくも思っていたし、源氏も今になって故人の情人が自分であった秘密を人に知らせ たくないと思うふうであったから、そんなことで小さいお嬢さんの消息も聞けないままになっ て不本意な月日が両方の間にたっていった。
 源氏はせめて夢にでも夕顔を見たいと、長く願っていたが比叡で法事をした次の晩、ほのか ではあったが、やはりその人のいた場所は某の院で、源氏が枕もとにすわった姿を見た女もそ
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こに添った夢を見た。このことで、荒廃した家などに住む妖怪が、美しい源氏に恋をしたがた めに、愛人を取り殺したのであると不思議が解決されたのである。源氏は自身もずいぶん危険 だったことを知って恐ろしかった。
 伊予介が十月の初めに四国へ立つことになった。細君をつれて行くことになっていたから、 普通の場合よりも多くの餞別品が源氏から贈られた。またそのほかにも秘密な贈り物があった。 ついでに空蝉の脱殼と言った夏の薄衣も返してやった。
  逢ふまでの形見ばかりと見しほどにひたすら袖の朽ちにけるかな
細々しい手紙の内容は省略する。贈り物の使いは帰ってしまったが、そのあとで空蝉は小君 を使いにして小袿の返歌だけをした。
  蝉の羽もたち変へてける夏ごろもかへすを見ても音は泣かれけり
 源氏は空蝉を思うと、普通の女性のとりえない態度をとり続けた女ともこれで別れてしまう のだと歎かれて、運命の冷たさというようなものが感ぜられた。
 今日から冬の季にはいる日は、いかにもそれらしく、時雨がこぼれたりして、空の色も身に 沁んだ。終日源氏は物思いをしていて、
  過ぎにしも今日別るるも二みちに行く方知らぬ秋の暮かな
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 などと思っていた。秘密な恋をする者の苦しさが源氏にわかったであろうと思われる。
 こうした空蝉とか夕顔とかいうようなはなやかでない女と源氏のした恋の話は、源氏自身が 非常に隠していたことがあるからと思って、最初は書かなかったのであるが、帝王の子だから といって、その恋人までが皆完全に近い女性で、いいことばかりが書かれているではないかと いって、仮作したもののように言う人があったから、これらを補って書いた。なんだか源氏に 済まない気がする。


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