2巻 帚木


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                   中川の皐月の水に人似たりかたればむ
                   せびよればわななく    (晶子)
 光源氏、すばらしい名で、青春を盛り上げてできたような人が思われる。自然奔放な好色生 活が想像される。しかし実際はそれよりずっと質素な心持ちの青年であった。その上恋愛とい う一つのことで後世へ自分が誤って伝えられるようになってはと、異性との交渉をずいぶん内 輪にしていたのであるが、ここに書く話のような事が伝わっているのは世間がおしゃべりであ るからなのだ。自重してまじめなふうの源氏は恋愛風流などには遠かった。好色小説の中の交 野の少将などには笑われていたであろうと思われる。
 中将時代にはおもに宮中の宿直所に暮らして、時たまにしか舅の左大臣家へ行かないので、 別に恋人を持っているかのような疑いを受けていたが、この人は世間にざらにあるような好色 男の生活はきらいであった。まれには風変わりな恋をして、たやすい相手でない人に心を打ち 込んだりする欠点はあった。
 梅雨のころ、帝の御謹慎日が幾日かあって、近臣は家へも帰らずに皆宿直する、こんな日が 続いて、例のとおりに源氏の御所住まいが長くなった。大臣家ではこうして途絶えの多い婿君 を恨めしくは思っていたが、やはり衣服その他贅沢を尽くした新調品を御所の桐壼へ運ぶのに 倦むことを知らなんだ。左大臣の子息たちは宮中の御用をするよりも、源氏の宿直所への勤め
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のほうが大事なふうだった。そのうちでも宮様腹の中将は最も源氏と親しくなっていて、遊戯 をするにも何をするにも他の者の及ばない親交ぶりを見せた。大事がる舅の右大臣家へ行くこ とはこの人もきらいで、恋の遊びのほうが好きだった。結婚した男はだれも妻の家で生活する が、この人はまだ親の家のほうにりっぱに飾った居間や書斎を持っていて、源氏が行く時には 必ずついて行って、夜も、昼も、学問をするのも、遊ぶのもいっしょにしていた。謙遜もせず、 敬意を表することも忘れるほどぴったりと仲よしになっていた。
 五月雨がその日も朝から降っていた夕方、殿上役人の詰め所もあまり人影がなく、源氏の桐 壼も平生より静かな気のする時に、灯を近くともしていろいろな書物を見ていると、その本を 取り出した置き棚にあった、それぞれ違った色の紙に書かれた手紙の殻の内容を頭中将は見 たがった。
 「無難なのを少しは見せてもいい。見苦しいのがありますから」
 と源氏は言っていた。
 「見苦しくないかと気になさるのを見せていただきたいのですよ。平凡な女の手紙なら、私 には私相当に書いてよこされるのがありますからいいんです。特色のある手紙ですね、怨みを 言っているとか、ある夕方に来てほしそうに書いて来る手紙、そんなのを拝見できたらおもし ろいだろうと思うのです」
 と恨まれて、初めからほんとうに秘密な大事の手紙などは、だれが盗んで行くか知れない棚 などに置くわけもない、これはそれほどの物でないのであるから、源氏は見てもよいと許した。
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中将は少しずつ読んで見て言う。
 「いろんなのがありますね」
 自身の想像だけで、だれとか彼とか筆者を当てようとするのであった。上手に言い当てるの もある、全然見当違いのことを、それであろうと深く追究したりするのもある。そんな時に源 氏はおかしく思いながらあまり相手にならぬようにして、そして上手に皆を中将から取り返し てしまった。
 「あなたこそ女の手紙はたくさん持っているでしょう。少し見せてほしいものだ。そのあと なら棚のを全部見せてもいい」
 「あなたの御覧になる価値のある物はないでしょうよ」
 こんな事から頭中将は女についての感想を言い出した。
 「これならば完全だ、欠点がないという女は少ないものであると私は今やっと気がつきまし た。ただ上っつらな感情で達者な手紙を書いたり、こちらの言うことに理解を持っているよう な利巧らしい人はずいぶんあるでしょうが、しかもそこを長所として取ろうとすれば、きっと 合格点にはいるという者はなかなかありません。自分が少し知っていることで得意になって、 ほかの人を軽蔑することのできる厭味な女が多いんですよ。親がついていて、大事にして、深 窓に育っているうちは、その人の片端だけを知って男は自分の想像で十分補って恋をすること になるというようなこともあるのですね。顔がきれいで、娘らしくおおようで、そしてほかに 用がないのですから、そんな娘には一つくらいの芸の上達が望めないこともありませんからね。
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それができると、仲に立った人間がいいことだけを話して、欠点は隠して言わないものですか ら、そんな時にそれはうそだなどと、こちらも空で断定することは不可能でしょう、真実だろ うと思って結婚したあとで、だんだんあらが出てこないわけはありません」
 中将がこう言って歎息した時に、そんなありきたりの結婚失敗者ではない源氏も、何か心に うなずかれることがあるか微笑をしていた。
 「あなたが今言った、一つくらいの芸ができるというほどのとりえね、それもできない人が あるだろうか」
 「そんな所へは初めからだれもだまされて行きませんよ、何もとりえのないのと、すべて完 全であるのとは同じほどに少ないものでしょう。上流に生まれた人は大事にされて、欠点も目 だたないで済みますから、その階級は別ですよ。中の階級の女によってはじめてわれわれはあ ざやかな、個性を見せてもらうことができるのだと思います。またそれから一段下の階級には どんな女がいるのだか、まあ私にはあまり興味が持てない」
 こう言って、通を振りまく中将に、源氏はもう少しその観察を語らせたく思った。
 「その階級の別はどんなふうにつけるのですか。上、中、下を何で決めるのですか。よい家 柄でもその娘の父は不遇で、みじめな役人で貧しいのと、並み並みの身分から高官に成り上が っていて、それが得意で贅沢な生活をして、初めからの貴族に負けないふうでいる家の娘と、 そんなのはどちらへ属させたらいいのだろう」
 こんな質問をしている所へ、左馬頭と藤式部丞とが、源氏の謹慎日を共にしようとして出て
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来た。風流男という名が通っているような人であったから、中将は喜んで左馬頭を問題の中へ 引き入れた。不謹慎な言葉もそれから多く出た。
 「いくら出世しても、もとの家柄が家柄だから世間の思わくだってやはり違う。またもとは いい家でも逆境に落ちて、何の昔の面影もないことになってみれば、貴族的な品のいいやり方 で押し通せるものではなし、見苦しいことも人から見られるわけだから、それはどちらも中の 品ですよ。受領といって地方の政治にばかり関係している連中の中にもまたいろいろ階級があ りましてね、いわゆる中の品として恥ずかしくないのがありますよ。また高官の部類へやっと はいれたくらいの家よりも、参議にならない四位の役人で、世間からも認められていて、もと の家柄もよく、富んでのんきな生活のできている所などはかえって朗らかなものですよ。不足 のない暮らしができるのですから、倹約もせず、そんな空気の家に育った娘に軽蔑のできない ものがたくさんあるでしょう。宮仕えをして思いがけない幸福のもとを作ったりする例も多い のですよ」
 左馬頭がこう言う。
 「それではまあ何でも金持ちでなければならないんだね」
 と源氏は笑っていた。
 「あなたらしくないことをおっしゃるものじゃありませんよ」
 中将はたしなめるように言った。左馬頭はなお話し続けた。
 「家柄も現在の境遇も一致している高貴な家のお嬢さんが凡庸であった場合、どうしてこん
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な人ができたのかと情けないことだろうと思います。そうじゃなくて地位に相応なすぐれたお 嬢さんであったら、それはたいして驚きませんね。当然ですもの。私らにはよくわからない社 会のことですから上の品は省くことにしましょう。こんなこともあります。世間からはそんな 家のあることなども無視されているような寂しい家に、思いがけない娘が育てられていたとし たら、発見者は非常にうれしいでしょう。意外であったということは十分に男の心を引くカに なります。父親がもういいかげん年寄りで、醜く肥った男で、風采のよくない兄を見ても、娘 は知れたものだと軽蔑している家庭に、思い上がった娘がいて、歌も上手であったりなどした ら、それは本格的なものではないにしても、ずいぶん興味が持てるでしょう。完全な女の選に ははいりにくいでしょうがね」
 と言いながら、同意を促すように式部丞のほうを見ると、自身の妹たちが若い男の中で相当 な評判になっていることを思って、それを暗に言っているのだと取って、式部丞は何も言わな かった。そんなに男の心を引く女がいるであろうか、上の品にはいるものらしい女の中にだっ て、そんな女はなかなか少ないものだと自分にはわかっているがと源氏は思っているらしい。 柔らかい白い着物を重ねた上に、袴は着けずに直衣だけをおおように掛けて、からだを横にし ている源氏は平生よりもまた美しくて、女性であったらどんなにきれいな人だろうと思われた。 この人の相手には上の上の品の中から選んでも飽き足りないことであろうと見えた。
 「ただ世間の人として見れば無難でも、実際自分の妻にしようとすると、合格するものは見 つからないものですよ。男だって官吏になって、お役所のお勤めというところまでは、だれも
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できますが、実際適所へ適材が行くということはむずかしいものですからね。しかしどんなに 聡明な人でも一人や二人で政治はできないのですから、上官は下僚に助けられ、下僚は上に従 って、多数の力で役所の仕事は済みますが、一家の主婦にする人を選ぶのには、ぜひ備えさせ ねばならぬ資格がいろいろと幾つも必要なのです。これがよくてもそれには適しない。少しは 譲歩してもまだなかなか思うような人はない。世間の多数の男も、いろいろな女の関係を作る のが趣味ではなくても、生涯の妻を捜す心で、できるなら一所懸命になって自分で妻の教育の やり直しをしたりなどする必要のない女はないかとだれも思うのでしょう。必ずしも理想に近 い女ではなくても、結ばれた縁に引かれて、それと一生を共にする、そんなのはまじめな男に 見え、また捨てられない女も世間体がよいことになります。しかし世間を見ると、そう都合よ くはいっていませんよ。お二方のような貴公子にはまして対象になる女があるものですか。私 などの気楽な階級の者の中にでも、これと打ち込んでいいのはありませんからね。見苦しくも ない娘で、それ相応な自重心を持っていて、手紙を書く時には蘆手のような簡単な文章を上手 に書き、墨色のほのかな文字で相手を引きつけて置いて、もっと確かな手紙を書かせたいと男 をあせらせて、声が聞かれる程度に接近して行って話そうとしても、息よりも低い声で少しし かものを言わないというようなのが、男の正しい判断を誤らせるのですよ。なよなよとしてい て優し味のある女だと思うと、あまりに柔順すぎたりして、またそれが才気を見せれば多情で ないかと不安になります。そんなことは選定の最初の関門ですよ。妻に必要な資格は家庭を預 かることですから、文学趣味とかおもしろい才気などはなくてもいいようなものですが、まじ
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め一方で、なりふりもかまわないで、額髪をうるさがって耳の後ろへはさんでばかりいる、た だ物質的な世話だけを一所懸命にやいてくれる、そんなのではね。お勤めに出れば出る、帰れ ば帰るで、役所のこと、友人や先輩のことなどで話したいことがたくさんあるんですから、そ れは他人には言えません。理解のある妻に話さないではつまりません。この話を早く聞かせた い、妻の意見も聞いて見たい、こんなことを思っているとそとででも独笑が出ますし、一人で 涙ぐまれもします。また自分のことでないことに公憤を起こしまして、自分の心にだけ置いて おくことに我慢のできぬような時、けれども自分の妻はこんなことのわかる女でないのだと思 うと、横を向いて一人で思い出し笑いをしたり、かわいそうなものだなどと独言を言うように なります。そんな時に何なんですかと突っ慳貧に言って自分の顔を見る細君などはたまらない ではありませんか。ただ一概に子供らしくておとなしい妻を持った男はだれでもよく仕込むこ とに苦心するものです。たよりなくは見えても次第に養成されていく妻に多少の満足を感じる ものです。一緒にいる時は可憐さが不足を補って、それでも済むでしょうが、家を離れている 時に用事を言ってやりましても何ができましょう。遊戯も風流も主婦としてすることも自発的 には何もできない、教えられただけの芸を見せるにすぎないような女に、妻としての信頼を持 つことはできません。ですからそんなのもまただめです。平生はしっくりといかぬ夫婦仲で、 淡い憎しみも持たれる女で、何かの場合によい妻であることが痛感されるのもあります」
 こんなふうな通な左馬頭にも決定的なことは言えないと見えて、深い歎息をした。
 「ですからもう階級も何も言いません。容貌もどうでもいいとします。片よった性質でさえ
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なければ、まじめで素直な人を妻にすべきだと思います。その上に少し見識でもあれば、満足 して少しの欠点はあってもよいことにするのですね。安心のできる点が多ければ、趣味の教育 などはあとからできるものですよ。上品ぶって、恨みを言わなければならぬ時も知らぬ顔で済 ませて、表面は賢女らしくしていても、そんな人は苦しくなってしまうと、凄文句や身にしま せる歌などを書いて、思い出してもらえる材料にそれを残して、遠い郊外とか、まったく世間 と離れた海岸とかへ行ってしまいます。子供の時に女房などが小説を読んでいるのを聞いて、 そんなふうの女主人公に同情したものでしてね、りっぱな態度だと涙までもこぼしたものです。 今思うとそんな女のやり方は軽佻で、わざとらしい。自分を愛していた男を捨てて置いて、そ の際にちょっとした恨めしいことがあっても、男の愛を信じないように家を出たりなどして、 無用の心配をかけて、そうして男をためそうとしているうちに取り返しのならぬはめに至りま す。いやなことです。りっぱな態度だなどとほめたてられると、図に乗ってどうかすると尼な んかにもなります。その時はきたない未練は持たずに、すっかり恋愛を清算した気でいますが、 まあ悲しい、こんなにまであきらめておしまいになってなどと、知った人が訪問して言い、真 底から憎くはなっていない男が、それを聞いて泣いたという話などが聞こえてくると、召使や 古い女房などが、殿様はあんなにあなたを思っていらっしゃいますのに、若いおからだを尼に などしておしまいになって惜しい。こんなことを言われる時、短くして後ろ梳きにしてしまっ た額髪に手が行って、心細い気になると自然に物思いをするようになります。忍んでももう涙 を一度流せばあとは始終泣くことになります。御弟子になった上でこんなことでは仏様も末練
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をお憎みになるでしょう。俗であった時よりもそんな罪は深くて、かえって地獄へも落ちるよ うに思われます。また夫婦の縁が切れずに、尼にはならずに、良人に連れもどされて来ても、 自分を捨てて家出をした妻であることを良人に忘れてもらうことはむずかしいでしょう。悪く てもよくてもいっしょにいて、どんな時もこんな時も許し合って暮らすのがほんとうの夫婦で しょう。一度そんなことがあったあとでは真実の夫婦愛がかえってこないものです。また男の 愛がほんとうにさめている場合に家出をしたりすることは愚かですよ。恋はなくなっていても 妻であるからと思っていっしょにいてくれた男から、これを機会に離縁を断行されることにも なります。なんでも穏やかに見て、男にほかの恋人ができた時にも、全然知らぬ顔はせずに感 情を傷つけない程度の怨みを見せれば、それでまた愛を取り返すことにもなるものです。浮気 な習慣は妻次第でなおっていくものです。あまりに男に自由を与えすぎる女も、男にとっては 気楽で、その細君の心がけがかわいく思われそうでありますが、しかしそれもですね、ほんと うは感心のできかねる妻の態度です。つながれない船は浮き歩くということになるじゃありま せんか、ねえ」
 中将はうなずいた。
 「現在の恋人で、深い愛着を覚えていながらその女の愛に信用が持てないということはよく ない。自身の愛さえ深ければ女のあやふやな心持ちも直して見せることができるはずだが、ど うだろうかね。方法はほかにありませんよ。長い心で見ていくだけですね」
 と頭中将は言って、自分の妹と源氏の中はこれに当たっているはずだと思うのに、源氏が
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目を閉じたままで何も言わぬのを、物足らずも口惜しくも思った。左馬頭は女の品定めの審判 者であるというような得意な顔をしていた。中将は左馬頭にもっと語らせたい心があってしき りに相槌を打っているのであった。
 「まあほかのことにして考えてごらんなさい。指物師がいろいろな製作をしましても、一時 的な飾り物で、決まった形式を必要としないものは、しゃれた形をこしらえたものなどに、こ れはおもしろいと思わせられて、いろいろなものが、次から次へ新しい物がいいように思われ ますが、ほんとうにそれがなければならない道具というような物を上手にこしらえ上げるのは 名人でなければできないことです。また絵所に幾人も画家がいますが、席上の絵の描き手に選 ばれておおぜいで出ます時は、どれがよいのか悪いのかちょっとわかりませんが、非写実的な 蓬莱山とか、荒海の大魚とか、唐にしかいない恐ろしい獣の形とかを描く人は、勝手ほうだい に誇張したもので人を驚かせて、それは実際に遠くてもそれで通ります。普通の山の姿とか、 水の流れとか、自分たちが日常見ている美しい家や何かの図を写生的におもしろく混ぜて描き、 われわれの近くにあるあまり高くない山を描き、木をたくさん描き、静寂な趣を出したり、あ るいは人の住む邸の中を忠実に描くような時に上手と下手の差がよくわかるものです。字でも そうです。深味がなくて、あちこちの線を長く引いたりするのに技巧を用いたものは、ちょっ と見がおもしろいようでも、それと比べてまじめに丁寧に書いた字で見栄えのせぬものも、二 度目によく比べて見れば技巧だけで書いた字よりもよく見えるものです。ちょっとしたことで もそうなんです、まして人間の問題ですから、技巧でおもしろく思わせるような人には永久の
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愛が持てないと私は決めています。好色がましい多情な男にお思いになるかもしれませんが、 以前のことを少しお話しいたしましょう」
 と言って、左馬頭は膝を進めた。源氏も目をさまして聞いていた。中将は左馬頭の見方を尊 重するというふうを見せて、頬杖をついて正面から相手を見ていた。坊様が過去未来の道理を 説法する席のようで、おかしくないこともないのであるが、この機会に各自の恋の秘密を持ち 出されることになった。
 「ずっと前で、まだつまらぬ役をしていた時です。私に一人の愛人がございました。容貌な どはとても悪い女でしたから、若い浮気な心には、この人とだけで一生を暮らそうとは思わな かったのです。妻とは思っていましたが物足りなくて外に情人も持っていました。それでとて も嫉妬をするものですから、いやで、こんなふうでなく穏やかに見ていてくれればよいのにと 思いながらも、あまりにやかましく言われますと、自分のような者をどうしてそんなにまで思 うのだろうとあわれむような気になる時もあって、自然身持ちが修まっていくようでした。こ の女というのは、自身にできぬものでも、この人のためにはと努力してかかるのです。教養の 足りなさも自身でつとめて補って、恥のないようにと心がけるたちで、どんなにも行き届いた 世話をしてくれまして、私の機嫌をそこねまいとする心から勝ち気もあまり表面に出さなくな り、私だけには柔順な女になって、醜い容貌なんぞも私にきらわれまいとして化粧に骨を折り ますし、この顔で他人に逢っては、良人の不名誉になると思っては、遠慮して来客にも近づき ませんし、とにかく賢妻にできていましたから、同棲しているうちに利巧さに心が引かれても
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いきましたが、ただ一つの嫉妬癖、それだけは彼女自身すらどうすることもできない厄介なも のでした。当時私はこう思ったのです。とにかくみじめなほど私に参っている女なんだから、 懲らすような仕打ちに出ておどして嫉妬を改造してやろう、もうその嫉妬ぶりに堪えられない、 いやでならないという態度に出たら、これほど白分を愛している女なら、うまく自分の計画は 成功するだろうと、そんな気で、ある時にわざと冷酷に出まして、例のとおり女がおこり出し ている時、『こんなあさましいことを言うあなたなら、どんな深い縁で結ばれた夫婦の中でも 私は別れる決心をする。この関係を破壊してよいのなら、今のような邪推でも何でももっとす るがいい。将来まで夫婦でありたいなら、少々つらいことはあっても忍んで、気にかけないよ うにして、そして嫉妬のない女になったら、私はまたどんなにあなたを愛するかしれない、人 並みに出世してひとかどの官吏になる時分にはあなたがりっぱな私の正夫人でありうるわけ だ』などと、うまいものだと自分で思いながら利己的な主張をしたものですね。女は少し笑っ て、『あなたの貧弱な時代を我慢して、そのうち出世もできるだろうと待っていることは、そ れは待ち遠しいことであっても、私は苦痛とも思いません。あなたの多情さを辛抱して、よい 良人になってくださるのを待つことは堪えられないことだと思いますから、そんなことをお言 いになることになったのは別れる時になったわけです』そう口惜しそうに言ってこちらを憤慨 させるのです。女も自制のできない性質で、私の手を引き寄せて一本の指にかみついてしまい ました。私は『痛い痛い』とたいそうに言って、『こんな傷までもつけられた私は杜会へ出ら れない。あなたに侮辱された小役人はそんなことではいよいよ人並みに上がってゆくことはで
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きない。私は坊主にでもなることにするだろう』などとおどして、『じゃあこれがいよいよ別 れだ』と言って、指を痛そうに曲げてその家を出て来たのです。
 『手を折りて相見しことを数ふればこれ一つやは君がうきふし
 言いぶんはないでしょう』と言うと、さすがに泣き出して、
 『うき節を心一つに数へきてこや君が手を別るべきをり』
 反抗的に言ったりもしましたが、本心ではわれわれの関係が解消されるものでないことをよ く承知しながら、幾日も幾日も手紙一つやらずに私は勝手な生活をしていたのです。加茂の臨 時祭りの調楽が御所であって、更けて、それは霙が降る夜なのです。皆が退散する時に、自分 の帰って行く家庭というものを考えるとその女の所よりないのです。御所の宿直室で寝るのも みじめだし、また恋を風流遊戯にしている局の女房を訪ねて行くことも寒いことだろうと思わ れるものですから、どう思っているのだろうと様子も見がてらに雪の中を、少しきまりが悪い のですが、こんな晩に行ってやる志で女の恨みは消えてしまうわけだと思って、はいって行く と、暗い炉を壁のほうに向げて据え、暖かそうな柔らかい、綿のたくさんはいった着物を大き な炙り籠に掛けて、私が寝室へはいる時に上げる几帳のきれも上げて、こんな夜にはきっと来 るだろうと待っていたふうが見えます。そう思っていたのだと私は得意になりましたが、妻自 身はいません。何人かの女房だけが留守をしていまして、父親の家へちょうどこの晩移って行
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ったというのです。艶な歌も詠んで置かず、気のきいた言葉も残さずに、じみにすっと行って しまったのですから、つまらない気がして、やかましく嫉妬をしたのも私にきらわせるためだ ったのかもしれないなどと、むしゃくしゃするものですからありうべくもないことまで忖度し ましたものです。しかし考えてみると用意してあった着物なども平生以上によくできています し、そういう点では実にありがたい親切が見えるのです。自分と別れた後のことまでも世話し ていったのですからね、彼女がどうして別れうるものかと私は慢心して、それからのち手紙で 交渉を姶めましたが、私へ帰る気がないでもないようだし、まったく知れない所へ隠れてしま おうともしませんし、あくまで反抗的態度を取ろうともせず、『前のようなふうでは我慢がで きない、すっかり生活の態度を変えて、一夫一婦の道を取ろうとお言いになるのなら』と言っ ているのです。そんなことを言っても負げて来るだろうという自信を持って、しばらぐ懲らし てやる気で、一婦主義になるとも言わず、話を長引かせていますうちに、非常に精神的に苦し んで死んでしまいましたから、私は自分が責められてなりません。家の妻というものは、あれ ほどの者でなければならないと今でもその女が思い出されます。風流ごとにも、まじめな間題 にも話し相手にすることができましたし、また家庭の仕事はどんなことにも通じておりました。 染め物の立田姫にもなれたし、七夕の織姫にもなれたわけです」
 と語った左馬頭は、いかにも亡き妻が恋しそうであった。
 「技術上の織姫でなく、永久の夫婦の道を行っている七夕姫だったらよかったですね。立田 姫もわれわれには必要な神様だからね。男にまずい服装をさせておく細君はだめですよ。そん
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な人が早く死ぬんだから、いよいよ良妻は得がたいということになる」
 中将は指をかんだ女をほめちぎった。
 「その時分にまたもう一人の情人がありましてね、身分もそれは少しいいし、才女らしく歌 を詠んだり、達者に手紙を書いたりしますし、音楽のほうも相当なものだったようです。感じ の悪い容貌でもありませんでしたから、やきもち焼きのほうを世話女房にして置いて、そこへ はおりおり通って行ったころにはおもしろい相手でしたよ。あの女が亡くなりましたあとでは、 いくら今さら愛惜しても死んだものはしかたがなくて、たびたびもう一人の女の所へ行くよう になりますと、なんだか体裁屋で、風流女を標榜している点が気に入らなくて、一生の妻にし てもよいという気はなくなりました。あまり通わなくなったころに、もうほかに恋愛の相手が できたらしいのですね、十一月ごろのよい月の晩に、私が御所から帰ろうとすると、ある殿上 役人が来て私の車へいっしょに乗りました。私はその晩は父の大納言の家へ行って泊まろうと 思っていたのです。途中でその人が、『今夜私を待っている女の家があって、そこへちょっと 寄って行ってやらないでは気が済みませんから』と言うのです。私の女の家は道筋に当たって いるのですが、こわれた土塀から池が見えて、庭に月のさしているのを見ると、私も寄って行 ってやっていいという気になって、その男の降りた所で私も降りたものです。その男のはいっ て行くのはすなわち私の行こうとしている家なのです。初めから今日の約束があったのでしょ う。男は夢中のようで、のぼせ上がったふうで、門から近い廊の室の縁側に腰を掛けて、気ど ったふうに月を見上げているんですね。それは実際白菊が紫をぼかした庭へ、風で紅葉がたく
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さん降ってくるのですから、身にしむように思うのも無理はないのです。男は懐中から笛を出 して吹きながら合い間に『飛鳥井に宿りはすべし蔭もよし』などと歌うと、中ではいい音のす る倭琴をきれいに弾いて合わせるのです。相当なものなんですね。律の調子は女の柔らかに弾 くのが御簾の中から聞こえるのもはなやかな気のするものですから、明るい月夜にはしっくり 合っています。男はたいへんおもしろがって、琴を弾いている所の前へ行って、『紅葉の積も り方を見るとだれもおいでになった様子はありませんね。あなたの恋人はなかなか冷淡なよう ですね』などといやがらせを言っています。菊を折って行って、『琴の音も菊もえならぬ宿な がらつれなき人を引きやとめける。だめですね』などと言ってまた『いい聞き手のおいでにな った時にはもっとうんと弾いてお聞かせなさい』こんな嫌味なことを言うと、女は作り声をし て『こがらしに吹きあはすめる笛の音を引きとどむべき言の葉ぞなき』などと言ってふざけ合 っているのです。私がのぞいていて憎らしがっているのも知らないで、今度は十三絃を派手に 弾き出しました。才女でないことはありませんがきざな気がしました。遊戯的の恋愛をしてい る時は、宮中の女房たちとおもしろおかしく交際していて、それだけでいいのですが、時々に もせよ愛人として通って行く女がそんなふうではおもしろくないと思いまして、その晩のこと を口実にして別れましたがね。この二人の女を比べて考えますと、若い時でさえもあとの風流 女のほうは信頼のできないものだと知っていました。もう相当な年配になっている私は、これ からはまたそのころ以上にそうした浮華なものがきらいになるでしょう。いたいたしい萩の露 や、落ちそうな笹の上の霰などにたとえていいような艶な恋人を持つのがいいように今あなた
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がたはお思いになるでしょうが、私の年齢まで、まあ七年もすればよくおわかりになりますよ、 私が申し上げておきますが、風流好みな多情な女には気をおつけなさい。三角関係を発見した 時に良人の嫉妬で問題を起こしたりするものです」
 左馬頭は二人の貴公子に忠言を呈した。例のように中将はうなずく。少しほほえんだ源氏も 左馬頭の言葉に真理がありそうだと思うらしい。あるいは二つともばかばかしい話であると笑 っていたのかもしれない。
 「私もばか者の話を一つしよう」
 中将は前置きをして語り出した。
 「私がひそかに情人にした女というのは、見捨てずに置かれる程度のものでね、長い関係に なろうとも思わずにかかった人だったのですが、馴れていくとよい所ができて心が惹かれてい った。たまにしか行かないのだけれど、とにかく女も私を信頼するようになった。愛しておれ ば恨めしさの起こるわけのこちらの態度だがと、自分のことだけれど気のとがめる時があって も、その女は何も言わない。久しく間を置いて逢っても始終来る人といるようにするので、気 の毒で、私も将来のことでいろんな約束をした。父親もない人だったから、私だけに頼らなけ ればと思っている様子が何かの場合に見えて可憐な女でした。こんなふうに穏やかなものだか ら、久しく訪ねて行かなかった時分に、ひどいことを私の妻の家のほうから、ちょうどまたそ のほうへも出入りする女の知人を介して言わせたのです。私はあとで聞いたことなんだ。そん なかわいそうなことがあったとも知らず、心の中では忘れないでいながら手紙も書かず、長く
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行きもしないでいると、女はずいぶん心細がって、私との間に小さな子なんかもあったもんで すから、煩悶した結果、撫子の花を使いに持たせてよこしましたよ」
 中将は涙ぐんでいた。
 「どんな手紙」
 と源氏が聞いた。
 「なに、平凡なものですよ。『山がつの垣は荒るともをりをりに哀れはかけよ撫子の露』っ てね。私はそれで行く気になって、行って見ると、例のとおり穏やかなものなんですが、少し 物思いのある顔をして、秋の荒れた庭をながめながら、そのころの虫の声と同じような力のな いふうでいるのが、なんだか小説のようでしたよ。『咲きまじる花は何れとわかねどもなほ常 夏にしくものぞなき』子供のことは言わずに、まず母親の機嫌を取ったのですよ。『打ち払ふ 袖も露けき常夏に嵐吹き添ふ秋も来にけり』こんな歌をはかなそうに言って、正面から私を恨 むふうもありません。うっかり涙をこぼしても恥ずかしそうに紛らしてしまうのです。恨めし い理由をみずから追究して考えていくことが苦痛らしかったから、私は安心して帰って来て、 またしばらく途絶えているうちに消えたようにいなくなってしまったのです。まだ生きておれ ば相当に苦労をしているでしょう。私も愛していたのだから、もう少し私をしっかり離さずに つかんでいてくれたなら、そうしたみじめな目に逢いはしなかったのです。長く途絶えて行か ないというようなこともせず、妻の一人として待遇のしようもあったのです。撫子の花と母親 の言った子もかわいい子でしたから、どうかして捜し出したいと思っていますが、今に手がか
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りがありません。これはさっきの話のたよりない性質の女にあたるでしょう。素知らぬ顔をし ていて、心で恨めしく思っていたのに気もつかず、私のほうではあくまでも愛していたという のも、いわば一種の片恋と言えますね。もうぼつぼつ今は忘れかけていますが、あちらではま だ忘れられずに、今でも時々はつらい悲しい思いをしているだろうと思われます。これなどは 男に永久性の愛を求めようとせぬ態度に出るもので、確かに完全な妻にはなれませんね。だか らよく考えれば、左馬頭のお話の嫉妬深い女も、思い出としてはいいでしょうが、今いっしょ にいる妻であってはたまらない。どうかすれば断然いやになってしまうでしょう。琴の上手な 才女というのも浮気の罪がありますね。私の話した女も、よく本心の見せられない点に欠陥が あります。どれがいちばんよいとも言えないことは、人生の何のこともそうですがこれも同じ です。何人かの女からよいところを取って、悪いところの省かれたような、そんな女はどこに もあるものですか。吉祥天女を恋人にしようと思うと、それでは仏法くさくなって困るという ことになるだろうからしかたがない」
 中将がこう言ったので皆笑った。
 「式部の所にはおもしろい話があるだろう、少しずつでも聞きたいものだね」
 と中将が言い出した。
 「私どもは下の下の階級なんですよ。おもしろくお思いになるようなことがどうしてござい ますものですか」
 式部丞は話をことわっていたが、頭中将が本気になって、早く早くと話を責めるので、
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 「どんな話をいたしましてよろしいか考えましたが、こんなことがございます。まだ文章生 時代のことですが、私はある賢女の良人になりました。さっきの左馬頭のお話のように、役所 の仕事の相談相手にもなりますし、私の処世の方法なんかについても役だつことを教えていて くれました。学問などはちょっとした博士などは恥ずかしいほどのもので、私なんかは学問の ことなどでは、前で口がきけるものじゃありませんでした。それはある博士の家へ弟子になっ て通っておりました時分に、先生に娘がおおぜいあることを聞いていたものですから、ちょっ とした機会をとらえて接近してしまったのです。親の博士が二人の関係を知るとすぐに杯を持 ち出して白楽天の結婚の詩などを歌ってくれましたが、実は私はあまり気が進みませんでした。 ただ先生への遠慮でその関係はつながっておりました。先方では私をたいへんに愛して、よく 世話をしまして、夜分寝んでいる時にも、私に学問のつくような話をしたり、官吏としての心 得方などを言ってくれたりいたすのです。手紙は皆きれいな字の漢文です。仮名なんか一字だ って混じっておりません。よい文章などをよこされるものですから別れかねて通っていたので ございます。今でも師匠の恩というようなものをその女に感じますが、そんな細君を持つのは、 学問の浅い人間や、まちがいだらけの生活をしている者にはたまらないことだとその当時思っ ておりました。またお二方のようなえらい貴公子方にはそんなずうずうしい先生細君なんかの 必要はございません。私どもにしましても、そんなのとは反対に歯がゆいような女でも、気に 入っておればそれでいいのですし、前生の縁というものもありますから、男から言えばあるが ままの女でいいのでございます」
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 これで式部丞が口をつぐもうとしたのを見て、頭中将は今の話の続きをさせようとして、
 「とてもおもしろい女じゃないか」
 と言うと、その気持ちがわかっていながら式部丞は、自身をばかにしたふうで話す。
 「そういたしまして、その女の所へずっと長く参らないでいました時分に、その近辺に用の ございましたついでに、寄って見ますと、平生の居間の中へは入れないのです。物越しに席を 作ってすわらせます。嫌味を言おうと思っているのか、ばかばかしい、そんなことでもすれば 別れるのにいい機会がとらえられるというものだと私は思っていましたが、賢女ですもの、 軽々しく嫉妬などをするものではありません。人情にもよく通じていて恨んだりなんかもしや しません。しかも高い声で言うのです。『月来、風病重きに堪えかね極熱の草薬を服しました。 それで私はくさいのでようお目にかかりません。物越しででも何か御用があれば承りましょ う』ってもっともらしいのです。ばかばかしくて返辞ができるものですか、私はただ『承知い たしました』と言って帰ろうとしました。でも物足らず思ったのですか『このにおいのなくな るころ、お立ち寄りください』とまた大きな声で言いますから、返辞をしないで来るのは気の 毒ですが、ぐずぐずもしていられません。なぜかというと草薬の蒜なるものの臭気がいっぱい なんですから、私は逃げて出る方角を考えながら、『ささがにの振舞ひしるき夕暮れにひるま 過ぐせと言ふがあやなき。何の口実なんだか』と言うか言わないうちに走って来ますと、あと から人を追いかけさせて返歌をくれました。『逢ふことの夜をし隔てぬ中ならばひるまも何か 眩ゆからまし』というのです。歌などは早くできる女なんでございます」
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 式部丞の話はしずしずと終わった。貴公子たちはあきれて、
 「うそだろう」
 と爪弾きをして見せて、式部をいじめた。
 「もう少しよい話をしたまえ」
 「これ以上珍しい話があるものですか」
 式部丞は退って行った。
 「総体、男でも女でも、生かじりの者はそのわずかな知識を残らず人に見せようとするから 困るんですよ。三史五経の学問を始終引き出されてはたまりませんよ。女も人間である以上、 社会百般のことについてまったくの無知識なものはないわけです。わざわざ学問はしなくても、 少し才のある人なら、耳からでも目からでもいろいろなことは覚えられていきます。自然男の 知識に近い所へまでいっている女はつい漢字をたくさん書くことになって、女どうしで書く手 紙にも半分以上漢宇が混じっているのを見ると、いやなことだ、あの人にこの欠点がなければ という気がします。書いた当人はそれほどの気で書いたのではなくても、読む時に音が強くて、 言葉の舌ざわりがなめらかでなく嫌味になるものです。これは貴婦人もするまちがった趣味で す。歌詠みだといわれている人が、あまりに歌にとらわれて、むずかしい故事なんかを歌の中 へ入れておいて、そんな相手になっている暇のない時などに詠みかけてよこされるのはいやに なってしまうことです、返歌をせねば礼儀でなし、またようしないでいては恥だし困ってしま いますね。宮中の節会の日なんぞ、急いで家を出る時は歌も何もあったものではありません。
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そんな時に菖蒲に寄せた歌が贈られる、九月の菊の宴に作詩のことを思って一所懸命になって いる時に、菊の歌。こんな思いやりのないことをしないでも場合さえよければ、真価が買って もらえる歌を、今贈っては目にも留めてくれないということがわからないでよこしたりされる と、ついその人が軽蔑されるようになります。何にでも時と場合があるのに、それに気がつか ないほどの人間は風流ぶらないのが無難ですね。知っていることでも知らぬ顔をして、言いた いことがあっても機会を一、二度ははずして、そのあとで言えばよいだろうと思いますね」
 こんなことがまた左馬頭によって言われている間にも、源氏は心の中でただ一人の恋しい方 のことを思い続けていた。藤壼の宮は足りない点もなく、才気の見えすぎる方でもないりっぱ な貴女であるとうなずきながらも、その人を思うと例のとおりに胸が苦しみでいっぱいになっ た。いずれがよいのか決められずに、ついには筋の立たぬものになって朝まで話し続けた。
 やっと今日は天気が直った。源氏はこんなふうに宮中にばかりいることも左大臣家の人に気 の毒になってそこへ行った。一糸の乱れも見えぬというような家であるから、こんなのがまじ めということを第一の条件にしていた、昨夜の談話者たちには気に入るところだろうと源氏は 思いながらも、今も初めどおりに行儀をくずさぬ、打ち解けぬ夫人であるのを物足らず思って、 中納言の君、中務などという若いよい女房たちと冗談を言いながら、暑さに部屋着だけになっ ている源氏を、その人たちは美しいと思い、こうした接触が得られる幸福を覚えていた。大臣 も娘のいるほうへ出かけて来た。部屋着になっているのを知って、几帳を隔てた席について話 そうとするのを、
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 「暑いのに」
 と源氏が顔をしかめて見せると、女房たちは笑った。
 「静かに」
 と言って、脇息に寄りかかった様子にも品のよさが見えた。
 暗くなってきたころに、
 「今夜は中神のお通り路になっておりまして、御所からすぐにここへ来てお寝みになっては よろしくございません」
 という、源氏の家従たちのしらせがあった。
 「そう、いつも中神は避けることになっているのだ。しかし二条の院も同じ方角だから、ど こへ行ってよいかわからない。私はもう疲れていて寝てしまいたいのに」
 そして源氏は寝室にはいった。
 「このままになすってはよろしくございません」
 また家従が言って来る。紀伊守で、家従の一人である男の家のことが上申される。
 「中川辺でございますがこのごろ新築いたしまして、水などを庭へ引き込んでございまして、 そこならばお涼しかろうと思います」
 「それは非常によい。からだが大儀だから、車のままではいれる所にしたい」
 と源氏は言っていた。隠れた恋人の家は幾つもあるはずであるが、久しぶりに帰ってきて、
方角除けにほかの女の所へ行っては夫人に済まぬと思っているらしい。呼び出して泊まりに行
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くことを紀伊守に言うと、承知はして行ったが、同輩のいる所へ行って、
 「父の伊予守−伊予は太守の国で、官名は介になっているが事実上の長官である−の家 のほうにこのごろ障りがありまして、家族たちが私の家へ移って来ているのです。もとから狭 い家なんですから失礼がないかと心配です」と迷惑げに言ったことがまた源氏の耳にはいると、
 「そんなふうに人がたくさんいる家がうれしいのだよ、女の人の居所が遠いような所は夜が こわいよ。伊予守の家族のいる部屋の几帳の後ろでいいのだからね」
 冗談混じりにまたこう言わせたものである。
 「よいお泊まり所になればよろしいが」
 と言って、紀伊守は召使を家へ走らせた。源氏は微行で移りたかったので、まもなく出かけ るのに大臣へも告げず、親しい家従だけをつれて行った。あまりに急だと言って紀伊守がこぼ すのを他の家従たちは耳に入れないで、寝殿の東向きの座敷を掃除させて主人へ提供させ、そ こに宿泊の仕度ができた。庭に通した水の流れなどが地方官級の家としては凝ってできた住宅 である。わざと田舎の家らしい柴垣が作ってあったりして、庭の植え込みなどもよくできてい た。涼しい風が吹いて、どこでともなく虫が鳴き、蛍がたくさん飛んでいた。源氏の従者たち は渡殿の下をくぐって出て来る水の流れに臨んで酒を飲んでいた。紀伊守が主人をよりよく待 遇するために奔走している時、一人でいた源氏は、家の中をながめて、前夜の人たちが階級を 三つに分けたその中の品の列にはいる家であろうと思い、その話を思い出していた。思い上が った娘だという評判の伊予守の娘、すなわち紀伊守の妹であったから、源氏は初めからそれに
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興味を持っていて、どの辺の座敷にいるのであろうと物音に耳を立てていると、この座敷の西 に続いた部屋で女の衣摺れが聞こえ、若々しい、媚めかしい声で、しかもさすがに声をひそめ てものを言ったりしているのに気がついた。わざとらしいが悪い感じもしなかった。初めその 前の縁の格子が上げたままになっていたのを、不用意だといって紀伊守がしかって、今は皆戸 がおろされてしまったので、その室の灯影が、襖子の隙間から赤くこちらへさしていた。源氏 は静かにそこへ寄って行って中が見えるかと思ったが、それほどの隙間はない。しばらく立っ て聞いていると、それは襖子の向こうの中央の間に集まってしているらしい低いさざめきは、 源氏自身が話題にされているらしい。
 「まじめらしく早く奥様をお持ちになったのですからお寂しいわけですわね。でもずいぶん 隠れてお通いになる所があるんですって」
 こんな言葉にも源氏ははっとした。自分の作っているあるまじい恋を人が知って、こうした 場合に何とか言われていたらどうだろうと思ったのである。でも話はただ事ばかりであったか ら皆を聞こうとするほどの興味が起こらなかった。式部卿の宮の姫君に朝顔を贈った時の歌な どを、だれかが得意そうに語ってもいた。行儀がなくて、会話の中に節をつけて歌を入れたが る人たちだ、中の品がおもしろいといっても自分には我慢のできぬこともあるだろうと源氏は 思った。
 紀伊守が出て来て、灯籠の数をふやさせたり、座敷の灯を明るくしたりしてから、主人には 遠慮をして菓子だけを献じた。
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 「わが家はとばり帳をも掛けたればって歌ね、大君来ませ婿にせんってね、そこへ気がつか ないでは主人の手落ちかもしれない」
 「通人でない主人でございまして、どうも」
 紀伊守は縁側でかしこまっていた。源氏は縁に近い寝床で、仮臥のように横になっていた。 随行者たちももう寝たようである。紀伊守は愛らしい子供を幾人も持っていた。御所の侍童を 勤めて源氏の知った顔もある。縁側などを往来する中には伊予守の子もあった。何人かの中に 特別に上品な十二、三の子もある。どれが子で、どれが弟かなどと源氏は尋ねていた。
 「ただ今通りました子は、亡くなりました衛門督の末の息子で、かわいがられていたのです が、小さいうちに父親に別れまして、姉の縁でこうして私の家にいるのでございます。将来の ためにもなりますから、御所の侍童を勤めさせたいようですが、それも姉の手だけでははかば かしく運ばないのでございましょう」
 と紀伊守が説明した。
 「あの子の姉さんが君の継母なんだね」
 「そうでございます」
 「似つかわしくないお母さんを持ったものだね。その人のことは陛下もお聞きになっていら っしって、宮仕えに出したいと衛門督が申していたが、その娘はどうなったのだろうって、い つかお言葉があった。人生はだれがどうなるかわからないものだね」
 老成者らしい口ぶりである。
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 「不意にそうなったのでございます。まあ人というものは昔も今も意外なふうにも変わって ゆくものですが、その中でも女の運命ほどはかないものはございません」
 などと紀伊守は言っていた。
 「伊予介は大事にするだろう。主君のように思うだろうな」
 「さあ。まあ私生活の主君でございますかな。好色すぎると私はじめ兄弟はにがにがしがっ ております」
 「だって君などのような当世男に伊予介は譲ってくれないだろう。あれはなかなか年は寄っ てもりっぱな風采を持っているのだからね」
 などと話しながら、
 「その人どちらにいるの」
 「皆下屋のほうへやってしまったのですが、間にあいませんで一部分だけは残っているかも しれません」
 と紀伊守は言った。
 深く酔った家従たちは皆夏の夜を板敷で仮寝してしまったのであるが、源氏は眠れない、一 人臥をしていると思うと目がさめがちであった。この室の北側の襖子の向こうに人のいるらし い音のする所は紀伊守の話した女のそっとしている室であろうと源氏は思った。かわいそうな 女だとその時から思っていたのであったから、静かに起きて行って襖子越しに物声を聞き出そ うとした。その弟の声で、
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 「ちょいと、どこにいらっしゃるの」
 と言う。少し涸れたきれいな声である。
 「私はここで寝んでいるの。お客様はお寝みになったの。ここと近くてどんなに困るかと思 っていたけれど、まあ安心した」
 と、寝床から言う声もよく似ているので姉弟であることがわかった。
 「廂の室でお寝みになりましたよ。評判のお顔を見ましたよ。ほんとうにお美しい方だっ た」
 一段声を低くして言っている。
 「昼だったら私ものぞくのだけれど」
 睡むそうに言って、その顔は蒲団の中へ引き入れたらしい。もう少し熱心に聞けばよいのに と源氏は物足りない。
 「私は縁の近くのほうへ行って寝ます。暗いなあ」
 子供は燈心を掻き立てたりするものらしかった。女は襖子の所からすぐ斜いにあたる辺で寝 ているらしい。
 「中将はどこへ行ったの。今夜は人がそばにいてくれないと何だか心細い気がする」 低い下の室のほうから、女房が、
「あの人ちょうどお湯にはいりに参りまして、すぐ参ると申しました」
 と言っていた。源氏はその女房たちも皆寝静まったころに、掛鉄をはずして引いてみると襖
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子はさっとあいた。向こう側には掛鉄がなかったわけである。そのきわに几帳が立ててあった。 ほのかな灯の明りで衣服箱などがごたごたと置かれてあるのが見える。源氏はその中を分ける ようにして歩いて行った。
 小さな形で女が一人寝ていた。やましく思いながら顔を掩うた着物を源氏が手で引きのける まで女は、さっき呼んだ女房の中将が来たのだと思っていた。
 「あなたが中将を呼んでいらっしゃったから、私の思いが通じたのだと思って」
 と源氏の宰相中将は言いかけたが、女は恐ろしがって、夢に襲われているようなふうで ある。「や」と言うつもりがあるが、顔に夜着がさわって声にはならなかった。
 「出来心のようにあなたは思うでしょう。もっともだけれど、私はそうじゃないのですよ。 ずっと前からあなたを思っていたのです。それを聞いていただきたいのでこんな機会を待って いたのです。だからすべて皆前生の縁が導くのだと思ってください」
 柔らかい調子である。神様だってこの人には寛大であらねばならぬだろうと思われる美しさ で近づいているのであるから、露骨に、
 「知らぬ人がこんな所へ」
 ともののしることができない。しかも女は情けなくてならないのである。
 「人まちがえでいらっしゃるのでしょう」
 やっと、息よりも低い声で言った。当惑しきった様子が柔らかい感じであり、可憐でもあっ た。
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 「違うわけがないじゃありませんか。恋する人の直覚であなただと思って来たのに、あなた は知らぬ顔をなさるのだ。普通の好色者がするような失礼を私はしません。少しだけ私の心を 聞いていただけばそれでよいのです」
 と言って、小柄な人であったから、片手で抱いて以前の襖子の所へ出て来ると、さっき呼ば れていた中将らしい女房が向こうから来た。
 「ちょいと」
 と源氏が言ったので、不思議がって探り寄って来る時に、薫き込めた源氏の衣服の香が顔に 吹き寄ってきた。中将は、これがだれであるかも、何であるかもわかった。情けなくて、どう なることかと心配でならないが、何とも異論のはさみようがない。並み並みの男であったなら できるだけの力の抵抗もしてみるはずであるが、しかもそれだって荒だてて多数の人に知らせ ることは夫人の不名誉になることであって、しないほうがよいのかもしれない。こう思って胸 をとどろかせながら従ってきたが、源氏の中将はこの中将をまったく無視していた。初めの座 敷へ抱いて行って女をおろして、それから襖子をしめて、
 「夜明けにお迎えに来るがいい」
 と言った。中将はどう思うであろうと、女はそれを聞いただけでも死ぬほどの苦痛を味わっ た。流れるほどの汗になって悩ましそうな女に同情は覚えながら、女に対する例の誠実な調子 で、女の心が当然動くはずだと思われるほどに言っても、女は人間の掟に許されていない恋に 共鳴してこない。
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 「こんな御無理を承ることが現実のことであろうとは思われません。卑しい私ですが、軽蔑 してもよいものだというあなたのお心持ちを私は深くお恨みに思います。私たちの階級とあな た様たちの階級とは、遠く離れて別々のものなのです」
 こう言って、強さで自分を征服しようとしている男を憎いと思う様子は、源氏を十分に反省 さす力があった。
 「私はまだ女性に階級のあることも何も知らない。はじめての経験なんです。普通の多情な 男のようにお取り扱いになるのを恨めしく思います。あなたの耳にも自然はいっているでしょ う、むやみな恋の冒険などを私はしたこともありません。それにもかかわらず前生の因縁は大 きな力があって、私をあなたに近づけて、そしてあなたからこんなにはずかしめられています。 ごもっともだとあなたになって考えれば考えられますが、そんなことをするまでに私はこの恋 に盲目になっています」
 まじめになっていろいろと源氏は説くが、女の冷ややかな態度は変わっていくけしきもない。 女は、一世の美男であればあるほど、この人の恋人になって安んじている自分にはなれない、 冷血的な女だと思われてやむのが望みであると考えて、きわめて弱い人が強さをしいてつけて いるのは弱竹のようで、さすがに折ることはできなかった。真からあさましいことだと思うふ うに泣く様子などが可憐であった。気の毒ではあるがこのままで別れたらのちのちまでも後悔 が自分を苦しめるであろうと源氏は思ったのであった。
 もうどんなに勝手な考え方をしても救われない過失をしてしまったと、女の悲しんでいるの
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を見て、
 「なぜそんなに私が憎くばかり思われるのですか。お嬢さんか何かのようにあなたの悲しむ のが恨めしい」
 と、源氏が言うと、
 「私の運命がまだ私を人妻にしません時、親の家の娘でございました時に、こうしたあなた の熱情で思われましたのなら、それは私の迷いであっても、他日に光明のあるようなことも思 ったでございましょうが、もう何もだめでございます。私には恋も何もいりません。ですから せめてなかったことだと思ってしまってください」
 と言う。悲しみに沈んでいる女を源氏ももっともだと思った。真心から慰めの言葉を発して いるのであった。
 鶏の声がしてきた。家従たちも起きて、
 「寝坊をしたものだ。早くお車の用意をせい」
 そんな命令も下していた。
 「女の家へ方違えにおいでになった場合とは違いますよ。早くお帰りになる必要は少しもな いじゃありませんか」
 と言っているのは紀伊守であった。
 源氏はもうまたこんな機会が作り出せそうでないことと、今後どうして文通をすればよいか、 どうもそれが不可能らしいことで胸を痛くしていた。女を行かせようとしてもまた引き留める
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源氏であった。
 「どうしてあなたと通信をしたらいいでしょう。あくまで冷淡なあなたへの恨みも、恋も、 一通りでない私が、今夜のことだけをいつまでも泣いて思っていなければならないのですか」
 泣いている源氏が非常に艶に見えた。何度も鶏が鳴いた。
  つれなさを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまで驚かすらん
 あわただしい心持ちで源氏はこうささやいた。女は己を省みると、不似合いという晴がまし さを感ぜずにいられない源氏からどんなに熱情的に思われても、これをうれしいこととするこ とができないのである。それに自分としては愛情の持てない良人のいる伊予の国が思われて、 こんな夢を見てはいないだろうかと考えると恐ろしかった。
  身の憂さを歎くにあかで明くる夜はとり重ねても音ぞ泣かれける
と言った。ずんずん明るくなってゆく。女は襖子の所へまで送って行った。奥のほうの人も、 こちらの縁のほうの人も起き出して来たんでざわついた。襖子をしめてもとの席へ帰って行く 源氏は、一重の襖子が越えがたい隔ての関のように思われた。
 直衣などを着て、姿を整えた源氏が縁側の高欄によりかかっているのが、隣室の縁低い衝立 の上のほうから見えるのをのぞいて、源氏の美の放つ光が身の中へしみ通るように思っている 女房もあった。残月のあるころで落ち着いた空の明かりが物をさわやかに照らしていた。変わ
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ったおもしろい夏の曙である。だれも知らぬ物思いを、心に抱いた源氏であるから、主観的に ひどく身にしむ夜明けの風景だと思った。言づて一つする便宜がないではないかと思って顧み がちに去った。
 家へ帰ってからも源氏はすぐに眠ることができなかった。再会の至難である悲しみだけを自 分はしているが、自由な男でない人妻のあの人はこのほかにもいろいろな煩悶があるはずであ ると思いやっていた。すぐれた女ではないが、感じのよさを十分に備えた中の品だ。だから多 くの経験を持った男の言うことには敬服される点があると、品定めの夜の話を思い出していた。
 このごろはずっと左大臣家に源氏はいた。あれきり何とも言ってやらないことは、女の身に とってどんなに苦しいことだろうと中川の女のことがあわれまれて、始終心にかかって苦しい はてに源氏は紀伊守を招いた。
 「自分の手もとへ、この間見た中納言の子供をよこしてくれないか。かわいい子だったから そばで使おうと思う。御所へ出すことも私からしてやろう」
 と言うのであった。
 「結構なことでございます。あの子の姉に相談してみましょう」
 その人が思わず引き合いに出されたことだけででも源氏の胸は鳴った。
 「その姉さんは君の弟を生んでいるの」
 「そうでもございません。この二年ほど前から父の妻になっていますが、死んだ父親が望ん でいたことでないような結婚をしたと思うのでしょう。不満らしいということでございます」
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 「かわいそうだね、評判の娘だったが、ほんとうに美しいのか」
 「さあ、悪くもないのでございましょう。年のいった息子と若い継母は親しくせぬものだと 申しますから、私はその習慣に従っておりまして何も詳しいことは存じません」
 と紀伊守は答えていた。
 紀伊守は五、六日してからその子供をつれて来た。整った顔というのではないが、艶な風采 を備えていて、貴族の子らしいところがあった。そばへ呼んで源氏は打ち解けて話してやった。 子供心に美しい源氏の君の恩顧を受けうる人になれたことを喜んでいた。姉のことも詳しく源 氏は聞いた。返辞のできることだけは返辞をして、つつしみ深くしている子供に、源氏は秘密 を打ちあけにくかった。けれども上手に嘘まじりに話して聞かせると、そんなことがあったの かと、子供心におぼろげにわかればわかるほど意外であったが、子供は深い穿鑿をしようとも しない。
 源氏の手紙を弟が持って来た。女はあきれて涙さえもこぼれてきた。弟がどんな想像をする だろうと苦しんだが、さすがに手紙は読むつもりらしくて、きまりの悪いのを隠すように顔の 上でひろげた。さっきからからだは横にしていたのである。手紙は長かった。終わりに、
  見し夢を逢ふ夜ありやと歎く間に目さへあはでぞ頃も経にける
 安眠のできる夜がないのですから、夢が見られないわけです。
 とあった。目もくらむほどの美しい字で書かれてある。涙で目が曇って、しまいには何も読
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めなくなって、苦しい思いの新しく加えられた運命を思い続けた。
 翌日源氏の所から小君が召された。出かける時に小君は姉に返事をくれと言った。
 「ああしたお手紙をいただくはずの人がありませんと申し上げればいい」
 と姉が言った。
 「まちがわないように言っていらっしったのにそんなお返辞はできない」
 そう言うのから推せば秘密はすっかり弟に打ち明けられたものらしい、こう思うと女は源氏 が恨めしくてならない。
 「そんなことを言うものじゃない。大人の言うようなことを子供が言ってはいげない。お断 わりができなければお邸へ行かなければいい」
 無理なことを言われて、弟は、
 「呼びにおよこしになったのですもの、伺わないでは」
 と言って、そのまま行った。好色な紀伊守はこの継母が父の妻であることを惜しがって、取 り入りたい心から小君にも優しくしてつれて歩きもするのだった。小君が来たというので源氏 は居間へ呼んだ。
 「昨日も一日おまえを待っていたのに出て来なかったね。私だけがおまえを愛していても、 おまえは私に冷淡なんだね」
 恨みを言われて、小君は顔を赤くしていた。
 「返事はどこ」
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 小君はありのままに告げるほかに術はなかった。
 「おまえは姉さんに無カなんだね、返事をくれないなんて」
 そう言ったあとで、また源氏から新しい手紙が小君に渡された。
 「おまえは知らないだろうね、伊予の老人よりも私はさきに姉さんの恋人だったのだ。頸の 細い貧弱な男だからといって、姉さんはあの不恰好な老人を良人に持って、今だって知らない などと言って私を軽蔑しているのだ。けれどもおまえは私の子になっておれ。姉さんがたより にしている人はさきが短いよ」
 と源氏がでたらめを言うと、小君はそんなこともあったのか、済まないことをする姉さんだ と思う様子をかわいく源氏は思った。小君は始終源氏のそばに置かれて、御所へもいっしょに 連れられて行ったりした。源氏は自家の衣裳係に命じて、小君の衣服を新調させたりして、言 葉どおり親代わりらしく世話をしていた。女は始終源氏から手紙をもらった。けれども弟は子 供であって、不用意に自分の書いた手紙を落とすようなことをしたら、もとから不運な自分が また正しくもない恋の名を取って泣かねばならないことになるのはあまりに自分がみじめであ るという考えが根底になっていて、恋を得るということも、こちらにその人の対象になれる自 信のある場合にだけあることで、自分などは光源氏の相手になれる者ではないと思う心から返 事をしないのであった。ほのかに見た美しい源氏を思い出さないわけではなかったのである。 真実の感情を源氏に知らせてもさて何にもなるものでないと、苦しい反省をみずから強いてい る女であった。源氏はしばらくの間もその人が忘られなかった。気の毒にも思い恋しくも思っ
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た。女が自分とした過失に苦しんでいる様子が目から消えない。本能のおもむくままに忍んで あいに行くことも、人目の多い家であるからそのことが知れては困ることになる、自分のため にも、女のためにもと思っては煩悶をしていた。
 例のようにまたずっと御所にいた頃、源氏は方角の障りになる日を選んで、御所から来る途 中でにわかに気がついたふうをして紀伊守の家へ来た。紀伊守は驚きながら、
 「前栽の水の名誉でございます」
 こんな挨拶をしていた。小君の所へは昼のうちからこんな手はずにすると源氏は言ってやっ てあって、約束ができていたのである。
 始終そばへ置いている小君であったから、源氏はさっそく呼び出した。女のほうへも手紙は 行っていた。自身に逢おうとして払われる苦心は女の身にうれしいことではあったが、そうか といって、源氏の言うままになって、自己が何であるかを知らないように恋人として逢う気に はならないのである。夢であったと思うこともできる過失を、また繰り返すことになってはな らぬとも思った。妄想で源氏の恋人気どりになって待っていることは自分にできないと女は決 めて、小君が源氏の座敷のほうへ出て行くとすぐに、
 「あまりお客様の座敷に近いから失礼な気がする。私は少しからだが苦しくて、腰でもたた いてほしいのだから、遠い所のほうが都合がよい」
 と言って、渡殿に持っている中将という女房の部屋へ移って行った。初めから計画的に来た 源氏であるから、家従たちを早く寝させて、女へ都合を聞かせに小君をやった。小君に姉の居
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所がわからなかった。やっと渡殿の部屋を捜しあてて来て、源氏への冷酷な姉の態度を恨んだ。  「こんなことをして、姉さん。どんなに私が無力な子供だと思われるでしょう」
 もう泣き出しそうになっている。
 「なぜおまえは子供のくせによくない役なんかするの、子供がそんなことを頼まれてするの はとてもいけないことなのだよ」
 としかって、
 「気分が悪くて、女房たちをそばへ呼んで介抱をしてもらっていますって申せばいいだろう。 皆が怪しがりますよ、こんな所へまで来てそんなことを言っていて」
 取りつくしまもないように姉は言うのであったが、心の中では、こんなふうに運命が決まら ないころ、父が生きていたころの自分の家へ、たまさかでも源氏を迎えることができたら自分 は幸福だったであろう。しいて作るこの冷淡さを、源氏はどんなにわが身知らずの女だとお思 いになることだろうと思って、自身の意志でしていることであるが胸が痛いようにさすがに思 われた。どうしてもこうしても人妻という束縛は解かれないのであるから、どこまでも冷やや かな態度を押し通して変えまいという気に女はなっていた。
 源氏はどんなふうに計らってくるだろうと、頼みにする者が少年であることを気がかりに思 いながら寝ているところへ、だめであるという報せを小君が持って来た。女のあさましいほど の冷淡さを知って源氏は言った。
 「私はもう自分が恥ずかしくってならなくなった」
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 気の毒なふうであった。それきりしばらくは何も言わない。そして苦しそうに吐息をしてか らまた女を恨んだ。
  帚木の心を知らでその原の道にあやなくまどひぬるかな
 今夜のこの心持ちはどう言っていいかわからない、と小君に言ってやった。女もさすがに眠 れないで悶えていたのである。それで、
  数ならぬ伏屋におふる身のうさにあるにもあらず消ゆる帚木
 という歌を弟に言わせた。小君は源氏に同情して、眠がらずに往ったり来たりしているのを、 女は人が怪しまないかと気にしていた。
 いつものように酔った従者たちはよく眠っていたが、源氏一人はあさましくて寝入れない。 普通の女と変わった意志の強さのますます明確になってくる相手が恨めしくて、もうどうでも よいとちょっとの間は思うがすぐにまた恋しさがかえってくる。
 「どうだろう、隠れている場所へ私をつれて行ってくれないか」
 「なかなか開きそうにもなく戸じまりがされていますし、女房もたくさんおります。そんな 所へ、もったいないことだと思います」
 と小君が言った。源氏が気の毒でたまらないと小君は思っていた。
 「じゃあもういい。おまえだけでも私を愛してくれ」
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 と言って、源氏は小君をそばに寝させた。若い美しい源氏の君の横に寝ていることが子供心 に非常にうれしいらしいので、この少年のほうが無情な恋人よりもかわいいと源氏は思った。


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