1巻 桐壷



                     紫のかがやく花と日の光思ひあはざる
                     ことわりもなし      (晶子)
 どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の 貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親 兄弟の勢力に恃む所があって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その 人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬の焔を燃やさないわけもなかっ た。夜の御殿の宿直所から退る朝、続いてその人ばかりが召される夜、目に見耳に聞いて口惜 しがらせた恨みのせいもあったかからだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へ下がっ ていがちということになると、いよいよ帝はこの人にばかり心をお引かれになるという御様子 で、人が何と批評をしようともそれに御遠慮などというものがおできにならない。御聖徳を伝 える歴史の上にも暗い影の一所残るようなことにもなりかねない状態になった。高官たちも殿 上役人たちも困って、御覚醒になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度を とるほどの御寵愛ぶりであった。唐の国でもこの種類の寵姫、楊家の女の出現によって乱が醸 されたなどと蔭ではいわれる。今やこの女性が一天下の煩いだとされるに至った。馬嵬の駅が

いつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気の中でも、ただ 深い御愛情だけをたよりにして暮らしていた。父の大納言はもう故人であった。母の未亡人が 生まれのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢カのある派手な家の娘たちにひけをとらせな いよき保護者たりえた。それでも大官の後援者を持たぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思 いをするようだった。
 前生の縁が深かったか、またもないような美しい皇子までがこの人からお生まれになった。 寵姫を母とした御子を早く御覧になりたい思召しから、正規の日数が立つとすぐに更衣母子を 宮中へお招きになった。小皇子はいかなる美なるものよりも美しいお顔をしておいでになった。 帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生まれになって、重い外戚が背景になっていて、疑い もない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌にならぶことが おできにならぬため、それは皇家の長子として大事にあそばされ、これは御自身の愛子として 非常に大事がっておいでになった。更衣は初めから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽 い身分ではなかった。ただお愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女と言ってよいほど のりっぱな女ではあったが、始終おそばへお置きになろうとして、殿上で音楽その他のお催し 事をあそばす際には、だれよりもまず先にこの人を常の御殿へお呼びになり、またある時はお 引き留めになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができずそのまま昼も侍しているようなことに なったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子のお生まれになって以後目に立って重々 しくお扱いになったから、東宮にもどうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一

の皇子の御生母の女御は疑いを持っていた。この人は帝の最もお若い時に入内した最初の女御 であった。この女御がする批難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかった。この女御 へ済まないという気も十分に持っておいでになった。帝の深い愛を信じながらも、悪く言う者 と、何かの欠点を捜し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無カな家を背景として いる心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった。
 住んでいる御殿は御所の中の東北の隅のような桐壼であった。幾つかの女御や更衣たちの御 殿の廊を通い路にして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直をする更衣が上がり下がりして 行く桐壼であったから、始終ながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みが量んでいくのも道 理と言わねばならない。召されることがあまり続くころは、打ち橋とか通い廊下のある戸口と かに意地の悪い仕掛けがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾が一度でいたんでしまう ようなことがあったりする。またある時はどうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠がさ されてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしが言い合わせて、桐壼の 更衣の通り路をなくして辱しめるようなことなどもしばしばあった。数え切れぬほどの苦しみ を受けて、更衣が心をめいらせているのを御覧になると帝はいっそう憐れを多くお加えになっ て、清涼殿に続いた後涼殿に住んでいた更衣をほかへお移しになって桐壼の更衣へ休息室とし てお与えになった。移された人の恨みはどの後宮よりもまた深くなった。
 第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着の式が行なわれた。前にあった第一の皇子のそ の式に劣らぬような派手な準傭の費用が宮廷から支出された。それにつけても世問はいろいろ

に批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌と聡明さとが類のないものであったから、だれも 皇子を悪く思うことはできなかった。有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も 人間世界に生まれてくるものかと皆驚いていた。その年の夏のことである。御息所−皇子女 の生母になった更衣はこう呼ばれるのである−はちょっとした病気になって、実家へさがろ うとしたが帝はお許しにならなかった。どこかからだが悪いということはこの人の常のことに なっていたから、帝はそれほどお驚きにならずに、
 「もうしばらく御所で養生をしてみてからにするがよい」
 と言っておいでになるうちにしだいに悪くなって、そうなってからほんの五、六日のうちに 病は重体になった。母の未亡人は泣く泣くお暇を願って帰宅させることにした。こんな場合に はまたどんな呪詛が行なわれるかもしれない、皇子にまで禍いを及ぼしてはとの心づかいから、 皇子だけを宮中にとどめて、目だたぬように御息所だけが退出するのであった。この上留める ことは不可能であると帝は思召して、更衣が出かけて行くところを見送ることのできぬ御尊貴 の御身の物足りなさを堪えがたく悲しんでおいでになった。
 はなやかな顔だちの美人が非常に痩せてしまって、心の中には帝とお別れして行く無限の悲 しみがあったがロヘは何も出して言うことのできないのがこの人の性質である。あるかないか に弱っているのを御覧になると帝は過去も未来も真暗になった気があそばすのであった。泣く 泣くいろいろな頼もしい将来の約束をあそばされても更衣はお返辞もできないのである。目つ きもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しいふうになって寝ている
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のであったから、これはどうなることであろうという不安が大御心を襲うた。更衣が宮中から 輦車で出てよい御許可の宣旨を役人へお下しになったりあそばされても、また病室へお帰りに なると今行くということをお許しにならない。
 「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて 家へ行ってしまうことはできないはずだ」
 と、帝がお言いになると、そのお心持ちのよくわかる女も、非常に悲しそうにお顔を見て、
 「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
 死がそれほど私に迫って来ておりませんのでしたら」
 これだけのことを息も絶え絶えに言って、なお帝にお言いしたいことがありそうであるが、 まったく気カはなくなってしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝 は思召したが、今日から始めるはずの祈祷も高僧たちが承っていて、それもぜひ今夜から始め ねばなりませぬというようなことも申し上げて方々から更衣の退出を促すので、別れがたく思 召しながらお帰しになった。
 帝はお胸が悲しみでいっぱいになってお眠りになることが困難であった。帰った更衣の家へ お出しになる尋ねの使いはすぐ帰って来るはずであるが、それすら返辞を聞くことが待ち遠し いであろうと仰せられた帝であるのに、お使いは、
 「夜半過ぎにお卒去になりました」
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 と言って、故大納言家の人たちの泣き騒いでいるのを見ると力が落ちてそのまま御所へ帰っ て来た。
 更衣の死をお聞きになった帝のお悲しみは非常で、そのまま引きこもっておいでになった。 その中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思召したが、母の忌服中の皇子が、穢れ のやかましい宮中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった。 皇子はどんな大事があったともお知りにならず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお顔にも涙が流れ てばかりいるのだけを不思議にお思いになるふうであった。父子の別れというようなことはな んでもない場合でも悲しいものであるから、この時の帝のお心持ちほどお気の毒なものはなか った。
 どんなに惜しい人でも遺骸は遺骸として扱われねばならぬ、葬儀が行なわれることになって、 母の未亡人は遺骸と同時に火葬の煙になりたいと泣きこがれていた。そして葬送の女房の車に しいて望んでいっしょに乗って愛宕の野にいかめしく設けられた式場へ着いた時の未亡人の心 はどんなに悲しかったであろう。
 「死んだ人を見ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷いをさますた めに行く必要があります」
 と賢そうに言っていたが、車から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れ ていたと女房たちは思った。
 宮中からお使いが葬場へ来た。更衣に三位を贈られたのである。勅使がその宣命を読んだ時
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ほど未亡人にとって悲しいことはなかった。三位は女御に相当する位階である。生きていた日 に女御とも言わせなかったことが帝には残り多く思召されて贈位を賜わったのである。こんな ことででも後宮のある人々は反感を持った。同情のある人は故人の美しさ、性格のなだらかさ などで憎むことのできなかった人であると、今になって桐壼の更衣の真価を思い出していた。 あまりにひどい御殊寵ぶりであったからその当時は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前 のことを思っていた。優しい同情深い女性であったのを、帝付きの女官たちは皆恋しがってい た。「なくてぞ人は恋しかりける」とはこうした場合のことであろうと見えた。時は人の悲し みにかかわりもなく過ぎて七日七日の仏事が次々に行なわれる、そのたびに帝からはお弔いの 品々が下された。
 愛人の死んだのちの日がたっていくにしたがってどうしようもない寂しさばかりを帝はお覚 えになるのであって、女御、更衣を宿直に召されることも絶えてしまった。ただ涙の中の御朝 タであって、拝見する人までがしめっぽい心になる秋であった。
 「死んでからまでも人の気を悪くさせる御寵愛ぶりね」
 などと言って、右大臣の娘の弘徽殿の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。帝は一の皇 子を御覧になっても更衣の忘れがたみの皇子の恋しさばかりをお覚えになって、親しい女官や、 御自身のお乳母などをその家へおつかわしになって若宮の様子を報告させておいでになった。
 野分ふうに風が出て肌寒の覚えられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人がお思われにな って、靫負の命婦という人を使いとしてお出しになった。夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけ
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させて、そのまま深い物思いをしておいでになった。以前にこうした月夜は音楽の遊びが行な われて、更衣はその一人に加わってすぐれた音楽者の素質を見せた。またそんな夜に詠む歌な ども平凡ではなかった。彼女の幻は帝のお目に立ち添って少しも消えない。しかしながらどん なに濃い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。
 命婦は故大納言家に着いて車が門から中へ引き入れられた刹那からもう言いようのない寂し さが味わわれた。末亡人の家であるが、一人娘のために住居の外見などにもみすぼらしさがな いようにと、りっぱな体裁を保って暮らしていたのであるが、子を失った女主人の無明の日が 続くようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなった。またこのごろの 野分の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさ し込んだその南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人はすぐにもものが言えないほどまた も悲しみに胸をいっぱいにしていた。
 「娘を死なせました母親がよくも生きていられたものというように、運命がただ恨めしゅう ございますのに、こうしたお使いが荒ら屋へおいでくださるとまたいっそう自分が恥ずかしく てなりません」
 と言って、実際堪えられないだろうと思われるほど泣く。
 「こちらへ上がりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございま すと、先日典侍は陛下へ申し上げていらっしゃいましたが、私のようなあさはかな人間でも ほんとうに悲しさが身にしみます」
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 と言ってから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。
 「当分夢ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやく落ち着くととも に、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな時はどうすればよいのか、せ めて話し合う人があればいいのですがそれもありません。目だたぬようにして時々御所へ来ら れてはどうですか。若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられ る人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宮中へ入れることにして、あなたもいっ しょにおいでなさい」
 「こういうお言葉ですが、涙にむせ返っておいでになって、しかも人に弱さを見せまいと御 遠慮をなさらないでもない御様子がお気の毒で、ただおおよそだけを承っただけでまいりまし た」
 と言って、また帝のお言づてのほかの御消息を渡した。
 「涙でこのごろは目も暗くなっておりますが、過分なかたじけない仰せを光明にいたしまし て」
 未亡人はお文を拝見するのであった。
 時がたてば少しは寂しさも紛れるであろうかと、そんなことを頼みにして日を送っていても、
 日がたてばたつほど悲しみの深くなるのは困ったことである。どうしているかとばかり思い
 やっている小児も、そろった両親に育てられる幸福を失ったものであるから、子を失ったあ
 なたに、せめてその子の代わりとして面倒を見てやってくれることを頼む。
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 などこまごまと書いておありになった。
  宮城野の露吹き結ぶ風の音に小萩が上を思ひこそやれ
 という御歌もあったが、未亡人はわき出す涙が妨げて明らかには拝見することができなかっ た。
 「長生きをするからこうした悲しい目にもあうのだと、それが世間の人の前に私をきまり悪 くさせることなのでございますから、まして御所へ時々上がることなどは思いもよらぬことで ございます。もったいない仰せを伺っているのですが、私が伺候いたしますことは今後も実行 はできないでございましょう。若宮様は、やはり御父子の情というものが本能にありますもの と見えて、御所へ早くおはいりになりたい御様子をお見せになりますから、私はごもっともだ とおかわいそうに思っておりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに 申し上げてくださいませ。良人も早く亡くしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ず くめの私が御いっしょにおりますことは、若宮のために縁起のよろしくないことと恐れ入って おります」
 などと言った。そのうち若宮ももうお寝みになった。
 「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宮にお目にかかりまして、くわしく御様子も 陛下へ御報告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃい ますでしょうから、それではあまりおそくなるでございましょう」
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 と言って命婦は帰りを急いだ。
 「子をなくしました母親の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの話をさせて いただきたいのですから、公のお使いでなく、気楽なお気持ちでお休みがてらまたお立ち寄り ください。以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲し い勅使であなたをお迎えするとは何ということでしょう。返す返す運命が私に長生きさせるの が苦しゅうございます。故人のことを申せば、生まれました時から親たちに輝かしい未来の望 みを持たせました子で、父の大納言はいよいよ危篤になりますまで、この人を宮中へ差し上げ ようと自分の思ったことをぜひ実現させてくれ、自分が死んだからといって今までの考えを捨 てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遺言いたしましたが、確かな後援者なしの 宮仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたし ましてはただ遺言を守りたいばかりに陛下へ差し上げましたが、過分な御寵愛を受けまして、 そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、皆さんの御 嫉妬の積もっていくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいた しましたのですから、陛下のあまりに深い御愛情がかえって恨めしいように、盲目的な母の愛 から私は思いもいたします」
 こんな話をまだ全部も言わないで未亡人は涙でむせ返ってしまったりしているうちにますま す深更になった。
 「それは陛下も仰せになります。自分の心でありながらあまりに穏やかでないほどの愛しよ
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うをしたのも前生の約束で長くはいっしょにおられぬ二人であることを意識せずに感じていた のだ。自分らは恨めしい因縁でつながれていたのだ、自分は即位してから、だれのためにも苦 痛を与えるようなことはしなかったという自信を持っていたが、あの人によって負ってならぬ 女の恨みを負い、ついには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっ と愚劣な者になっているのを思うと、自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいと お話しになって湿っぽい御様子ばかりをお見せになっています」
 どちらも話すことにきりがない。命婦は泣く泣く、
 「もう非常に遅いようですから、復命は今晩のうちにいたしたいと存じますから」
 と言って、帰る仕度をした。落ちぎわに近い月夜の空が澄み切った中を涼しい風が吹き、人 の悲しみを促すような虫の声がするのであるから帰りにくい。
  鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜飽かず降る涙かな
 車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ。
 「いとどしく虫の音しげき浅茅生に露置き添ふる雲の上人
 かえって御訪問が恨めしいと申し上げたいほどです」
 と未亡人は女房に言わせた。意匠を凝らせた贈り物などする場合でなかったから、故人の形 見ということにして、唐衣と裳の一揃えに、髪上げの用具のはいった箱を添えて贈った。
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 若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住まいをしなれていて、寂しく 物足らず思われることが多く、お優しい帝の御様子を思ったりして、若宮が早く御所へお帰り になるようにと促すのであるが、不幸な自分がごいっしょに上がっていることも、また世間に 批難の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宮とお別れしている苦痛に も堪えきれる自信がないと未亡人は思うので、結局若宮の宮中入りは実行性に乏しかった。
 御所へ帰った命婦は、まだ宵のままで御寝室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思っ た。中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして凡庸でない女房四、五人 をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。このごろ始終帝の御覧になるものは、玄 宗皇帝と楊貴妃の恋を題材にした白楽天の長恨歌を、亭子院が絵にあそばして、伊勢や貫之に 歌をお詠ませになった巻き物で、そのほか日本文学でも、支那のでも、愛人に別れた人の悲し みが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命婦にこまごまと大納言家の様子をお聞 きになった。身にしむ思いを得て来たことを命婦は外へ声をはばかりながら申し上げた。未亡 人の御返事を帝は御覧になる。
 もったいなさをどう始末いたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せを承りましても
 愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。
  荒き風防ぎし蔭の枯れしより小萩が上ぞしづ心無き
 というような、歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのために落ち着か
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ない心で詠んでいるのであるからと寛大に御覧になった。帝はある程度まではおさえていねば ならぬ悲しみであると思召すが、それが御困難であるらしい。はじめて桐壼の更衣の上がって 来たころのことなどまでがお心の表面に浮かび上がってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘 いした。その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一 人でも生きていられるものであると思うと自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いにな った。
 「死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人への酬いは、更衣を後宮の一段高い位置に すえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかも皆夢になった」
 とお言いになって、未亡人に限りない同情をしておいでになった。
 「しかし、あの人はいなくても若宮が天子にでもなる日が来れば、故人に后の位を贈ること もできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」
 などという仰せがあった。命婦は贈られた物を御前へ並べた。これが唐の幻術師が他界の楊 貴妃に逢って得て来た玉の簪であったらと、帝はかいないこともお思いになった。
  尋ね行くまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく
 絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現は限りがあって、それほ どのすぐれた顔も持っていない。太液の池の蓮花にも、未央宮の柳の趣にもその人は似ていた であろうが、また唐の服装は華美ではあったであろうが、更衣の持った柔らかい美、艶な姿態
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をそれに思い比べて御覧になると、これは花の色にも鳥の声にもたとえられぬ最上のものであ った。お二人の間はいつも、天に在っては比翼の鳥、地に生まれれば連理の枝という言葉で永 久の愛を誓っておいでになったが、運命はその一人に早く死を与えてしまった。秋風の音にも 虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになる時、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿の宿直に もお上がりせずにいて、今夜の月明に更けるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は 不愉快に思召した。このころの帝のお心持ちをよく知っている殿上役人や帝付きの女房なども 皆弘徽殿の楽音に反感を持った。負けぎらいな性質の人で更衣の死などは眼中にないというふ うをわざと見せているのであった。
 月も落ちてしまった。
  雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生の宿
 命婦が御報告した故人の家のことをなお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。
 右近衛府の士官が宿直者の名を披露するのをもってすれば午前二時になったのであろう。人 目をおはばかりになって御寝室へおはいりになってからも安眠を得たもうことはできなかった。
 朝のお目ざめにもまた、夜明けも知らずに語り合った昔の御追憶がお心を占めて、寵姫の在 った日も亡いのちも朝の政務はお怠りになることになる。お食欲もない。簡単な御朝食はしる しだけお取りになるが、帝王の御朝餐として用意される大床子のお料理などは召し上がらない ものになっていた。それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、それらの人は皆この状態を
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歎いていた。すべて側近する人は男女の別なしに困ったことであると歎いた。よくよく深い前 生の御縁で、その当時は世の批難も後宮の恨みの声もお耳には留まらず、その人に関すること だけは正しい判断を失っておしまいになり、また死んだあとではこうして悲しみに沈んでおい でになって政務も何もお顧みにならない、国家のためによろしくないことであるといって、支 那の歴朝の例までも引き出して言う人もあった。
 幾月かののちに第二の皇子が宮中へおはいりになった。ごくお小さい時ですらこの世のもの とはお見えにならぬ御美貌の備わった方であったが、今はまたいっそう輝くほどのものに見え た。その翌年立太子のことがあった。帝の思召しは第二の皇子にあったが、だれという後見の 人がなく、まただれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、かえってその地位 は若宮の前途を危険にするものであるとお思いになって、御心中をだれにもお洩らしにならな かった。東宮におなりになったのは第一親王である。この結果を見て、あれほどの御愛子でも やはり太子にはおできにならないのだと世間も言い、弘徽殿の女御も安心した。その時から宮 の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないと言って一心に 御仏の来迎を求めて、とうとう亡くなった。帝はまた若宮が祖母を失われたことでお悲しみに なった。これは皇子が六歳の時のことであるから、今度は母の更衣の死に逢った時とは違い、 皇子は祖母の死を知ってお悲しみになった。今まで始終お世話を申していた宮とお別れするの が悲しいということばかりを未亡人は言って死んだ。
 それから若宮はもう宮中にばかりおいでになることになった。七歳の時に書初めの式が行な
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われて学問をお始めになったが、皇子の類のない聡明さに帝はお驚きになることが多かった。
 「もうこの子をだれも憎むことができないでしょう。母親のないという点だけででもかわい がっておやりなさい」
 と帝は些言いになって、弘徽殿へ昼間おいでになる時もいっしょにおつれになったりしてそ のまま御簾の中にまでもお入れになった。どんな強さ一方の武士だっても仇敵だってもこの人 を見ては笑みが自然にわくであろうと思われる美しい少童でおありになったから、女御も愛を 覚えずにはいられなかった。この女御は東宮のほかに姫宮をお二人お生みしていたが、その 方々よりも第二の皇子のほうがおきれいであった。姫宮がたもお隠れにならないで賢い遊び相 手としてお扱いになった。学問はもとより音楽の才も豊かであった。言えぼ不自然に聞こえる ほどの天才児であった。
 その時分に高麗人が来朝した中に、上手な人相見の者が混じっていた。帝はそれをお聞きに なったが、宮中へお呼びになることは亭子院のお誡めがあっておできにならず、だれにも秘密 にして皇子のお世話役のようになっている右大弁の子のように思わせて、皇子を外人の旅宿す る鴻臚館へおやりになった。
 相人は不審そうに頭をたびたび傾けた。
 「国の親になって最上の位を得る人相であって、さてそれでよいかと拝見すると、そうなる ことはこの人の幸福な道でない。国家の柱石になって帝王の輔佐をする人として見てもまた違 うようです」
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 と言った。弁も漢学のよくできる官人であったから、筆紙をもってする高麗人との問答には おもしろいものがあった。詩の贈答もして高麗人はもう日本の旅が終わろうとする期に臨んで 珍しい高貴の相を持つ人に逢ったことは、今さらにこの国を離れがたくすることであるという ような意味の作をした。若宮も送別の意味を詩にお作りになったが、その詩を非常にほめてい ろいろなその国の贈り物をしたりした。
 朝廷からも高麗の相人へ多くの下賜品があった。その評判から東宮の外戚の右大臣などは第 二の皇子と高麗の相人との関係に疑いを持った。好遇された点が腑に落ちないのである。聡明 な帝は高麗人の言葉以前に皇子の将来を見通して、幸福な道を選ぼうとしておいでになった。 それでほとんど同じことを占った相人に価値をお認めになったのである。四品以下の無品親王 などで、心細い皇族としてこの子を置きたくない、自分の代もいつ終わるかしれぬのであるか ら、将来に最も頼もしい位置をこの子に設けて置いてやらねばならぬ、臣下の列に入れて国家 の柱石たらしめることがいちばんよいと、こうお決めになって、以前にもましていろいろの勉 強をおさせになった。大きな天才らしい点の現われてくるのを御覧になると人臣にするのが惜 しいというお心になるのであったが、親王にすれば天子に変わろうとする野心を持つような疑 いを当然受けそうにお思われになった。上手な運命占いをする者にお尋ねになっても同じよう な答申をするので、元服後は源姓を賜わって源氏の某としようとお決めになった。
 年月がたっても帝は桐壼の更衣との死別の悲しみをお忘れになることができなかった。慰み になるかと思召して美しい評判のある人などを後宮へ召されることもあったが、結果はこの世
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界には故更衣の美に準ずるだけの人もないのであるという失望をお味わいになっただけである。 そうしたころ、先帝−帝の従兄あるいは叔父君−の第四の内親王でお美しいことをだれも 言う方で、母君のお后が大事にしておいでになる方のことを、帝のおそばに奉仕している典 侍は先帝の宮廷にいた人で、后の宮へも親しく出入りしていて、内親王の御幼少時代をも知り、 現在でもほのかにお顔を拝見する機会を多く得ていたから、帝へお話しした。
 「お亡れになりました御息所の御容貌に似た方を、三代も宮廷におりました私すらまだ見た ことがございませんでしたのに、后の宮様の内親王様だけがあの方に似ていらっしゃいますこ とにはじめて気がつきました。非常にお美しい方でございます」
 もしそんなことがあったらと大御心が動いて、先帝の后の宮へ姫宮の御入内のことを懇切に お申し入れになった。お后は、そんな恐ろしいこと、東宮のお母様の女御が並みはずれな強い 性格で、桐壷の更衣が露骨ないじめ方をされた例もあるのに、と思召して話はそのままになっ ていた。そのうちお后もお崩れになった。姫宮がお一人で暮らしておいでになるのを帝はお聞 きになって、
 「女御というよりも自分の娘たちの内親王と同じように思って世話がしたい」
 となおも熱心に入内をお勧めになった。こうしておいでになって、母宮のことばかりを思っ ておいでになるよりは、宮中の御生活にお帰りになったら若いお心の慰みにもなろうと、お付 きの女房やお世話係の者が言い、兄君の兵部卿親王もその説に御賛成になって、それで先帝の 第四の内親王は当帝の女御におなりになった。御殿は藤壼である。典侍の話のとおりに、姫宮
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の容貌も身のおとりなしも不思議なまで、桐壼の更衣に似ておいでになった。この方は御身分 に批の打ち所がない。すべてごりっぱなものであって、だれも貶める言葉を知らなかった。桐 壼の更衣は身分と御愛寵とに比例の取れぬところがあった。お傷手が新女御の宮で癒されたと もいえないであろうが、自然に昔は昔として忘れられていくようになり、帝にまた楽しい御生 活がかえってきた。あれほどのこともやはり永久不変でありえない人間の恋であったのであろ う。
 源氏の君−まだ源姓にはなっておられない皇子であるが、やがてそうおなりになる方であ るから筆者はこう書く。−はいつも帝のおそばをお離れしないのであるから、自然どの女御 の御殿へも従って行く。帝がことにしばしばおいでになる御殿は藤壼であって、お供して源氏 のしばしば行く御殿は藤壼である。宮もお馴れになって隠れてばかりはおいでにならなかった。 どの後宮でも容貌の自信がなくて入内した者はないのであるから、皆それぞれの美を備えた人 たちであったが、もう皆だいぶ年がいっていた。その中へ若いお美しい藤壼の宮が出現されて その方は非常に恥ずかしがってなるべく顔を見せぬようにとなすっても、自然に源氏の君が見 ることになる場合もあった。母の更衣は面影も覚えていないが、よく似ておいでになると典侍 が言ったので、子供心に母に似た人として恋しく、いつも藤壼へ行きたくなって、あの方と親 しくなりたいという望みが心にあった。帝には二人とも最愛の妃であり、最愛の御子であった。
 「彼を愛しておやりなさい。不思議なほどあなたとこの子の母とは似ているのです。失礼だ と思わずにかわいがってやってください。この子の目つき顔つきがまたよく母に似ていますか
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ら、この子とあなたとを母と子と見てもよい気がします」
 など帝がおとりなしになると、子供心にも花や紅葉の美しい枝は、まずこの宮へ差し上げた い、自分の好意を受けていただきたいというこんな態度をとるようになった。現在の弘徽殿の 女御の嫉妬の対象は藤壼の宮であったからそちらへ好意を寄せる源氏に、一時忘れられていた 旧怨も再燃して憎しみを持つことになった。女御が自慢にし、ほめられてもおいでになる幼内 親王方の美を遠くこえた源氏の美貌を世間の人は言い現わすために光の君と言った。女御とし て藤壼の宮の御寵愛が並びないものであったから対句のように作って、輝く日の宮と一方を申 していた。
 源氏の君の美しい童形をいつまでも変えたくないように帝は思召したのであったが、いよい よ十二の歳に元服をおさせになることになった。その式の準備も何も帝御自身でお指図になっ た。前に東宮の御元服の式を紫宸殿であげられた時の派手やかさに落とさず、その日官人たち が各階級別々にさずかる饗宴の仕度を内蔵寮、穀倉院などでするのはつまり公式の仕度で、そ れでは十分でないと思召して、特に仰せがあって、それらも華麗をきわめたものにされた。
 清涼殿は東面しているが、お庭の前のお座敷に玉座の椅子がすえられ、元服される皇子の席、 加冠役の大臣の席がそのお前にできていた。午後四時に源氏の君が参った。上で二つに分けて 耳の所で輸にした童形の礼髪を結った源氏の顔つき、少年の美、これを永久に保存しておくこ とが不可能なのであろうかと惜しまれた。理髪の役は大蔵卿である。美しい髪を短く切るのを 惜しく思うふうであった。帝は御息所がこの式を見たならばと、昔をお思い出しになることに
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よって堪えがたくなる悲しみをおさえておいでになった。加冠が終わって、いったん休息所に 下がり、そこで源氏は服を変えて庭上の拝をした。参列の諸員は皆小さい大宮人の美に感激の 涙をこぼしていた。帝はまして御自制なされがたい御感情があった。藤壼の宮をお得になって 以来、紛れておいでになることもあった昔の哀愁が今一度にお胸へかえって来たのである。ま だ小さくて大人の頭の形になることは、その人の美を損じさせはしないかという御懸念もおあ りになったのであるが、源氏の君には今驚かれるほどの新彩が加わって見えた。加冠の大臣に は夫人の内親王との間に生まれた令嬢があった。東宮から後宮にとお望みになったのをお受け せずにお返辞を躊躇していたのは、初めから源氏の君の配偶者に擬していたからである。大臣 は帝の御意向をも伺った。
 「それでは元服したのちの彼を世話する人もいることであるから、その人をいっしょにさせ ればよい」
 という仰せであったから、大臣はその実現を期していた。
 今日の侍所になっている座敷で開かれた酒宴に、親王方の次の席へ源氏は着いた。娘の件 を大臣がほのめかしても、きわめて若い源氏は何とも返辞をすることができないのであった。 帝のお居間のほうから仰せによって内侍が大臣を呼びに来たので、大臣はすぐに御前へ行った。 加冠役としての下賜品はおそばの命婦が取り次いだ。白い大袿に帝のお召し料のお服が一襲で、 これは昔から定まった品である。酒杯を賜わる時に、次の歌を仰せられた。
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  いときなき初元結ひに長き世を契る心は結びこめつや
 大臣の女との結婚にまでお言い及ぼしになった御製は大臣を驚かした。
  結びつる心も深き元結ひに濃き紫の色しあせずば
 と返歌を奏上してから大臣は、清涼殿の正面の階段を下がって拝礼をした。左馬寮の御馬と 蔵人所の鷹をその時に賜わった。そのあとで諸員が階前に出て、官等に従ってそれぞれの下賜 品を得た。この日の御饗宴の席の折り詰めのお料理、籠詰めの菓子などは皆右大弁が御命令に よって作った物であった。一般の官吏に賜う弁当の数、一般に下賜される絹を入れた箱の多か ったことは、東宮の御元服の時以上であった。
 その夜源氏の君は左大臣家へ婿になって行った。この儀式にも善美は尽くされたのである。 高貴な美少年の婿を大臣はかわいく思った。姫君のほうが少し年上であったから、年下の少年 に配されたことを、不似合いに恥ずかしいことに思っていた。この大臣は大きい勢力を持った 上に、姫君の母の夫人は帝の御同胞であったから、あくまでもはなやかな家である所へ、今度 また帝の御愛子の源氏を婿に迎えたのであるから、東宮の外祖父で未来の関白と思われている 右大臣の勢カは比較にならぬほど気押されていた。左大臣は何人かの妻妾から生まれた子供を 幾人も持っていた。内親王腹のは今蔵人少将であって年少の美しい貴公子であるのを左右大臣 の仲はよくないのであるが、その蔵人少将をよその者に見ていることができず、大事にしてい
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る四女の婿にした。これも左大臣が源氏の君をたいせつがるのに劣らず右大臣から大事な婿君 としてかしずかれていたのはよい一対のうるわしいことであった。
 源氏の君は帝がおそばを離しにくくあそばすので、ゆっくりと妻の家に行っていることもで きなかった。源氏の心には藤壼の宮の美が最上のものに思われてあのような人を自分も妻にし たい、宮のような女性はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢は大事にされて育った美しい 貴族の娘とだけはうなずかれるがと、こんなふうに思われて単純な少年の心には藤壼の宮のこ とばかりが恋しくて苦しいほどであった。元服後の源氏はもう藤壼の御殿の御簾の中へは入れ ていただけなかった。琴や笛の音の中にその方がお弾きになる物の声を求めるとか、今はもう 物越しにより聞かれないほのかなお声を聞くとかが、せめてもの慰めになって宮中の宿直ばか りが好きだった。五、六日御所にいて、二、三日大臣家へ行くなど絶え絶えの通い方を、まだ 少年期であるからと見て大臣はとがめようとも思わず、相も変わらず婿君のかしずき騒ぎをし ていた。新夫婦付きの女房はことにすぐれた者をもってしたり、気に入りそうな遊びを催した り、一所懸命である。御所では母の更衣のもとの桐壼を源氏の宿直所にお与えになって、御息 所に侍していた女房をそのまま使わせておいでになった。更衣の家のほうは修理の役所、内匠 寮などへ帝がお命じになって、非常なりっぱなものに改築されたのである。もとから築山のあ るよい庭のついた家であったが、池なども今度はずっと広くされた。二条の院はこれである。 源氏はこんな気に入った家に自分の理想どおりの妻と暮らすことができたらと思って始終歎息 をしていた。
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 光の君という名は前に鴻臚館へ来た高麗人が、源氏の美貌と天才をほめてつけた名だとその ころ言われたそうである。


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