V 常夏の女の検討

 常夏の女は、雨夜の品定めの後半部分、すなわち帚木〔六〕〜〔一五〕の中の帚木〔一三〕の癡者の物語を受けている。帚木〔一三〕のあとに夕顔〔二六〕〔三〇〕〔三一〕が書かれたことは疑いない。ここをもとにして、夕顔物語の執筆順序を決めていく。帚木〔一三〕では頭中将が自ら語り、その内容は、光源氏は聞き知っているが惟光は知らされていない。また右近は当初よりその女のそばについていた乳母の子であり、夕顔〔二六〕の如く常夏のことをかなり詳細に知っている当事者である。夕顔の巻で常夏のことは惟光と右近によって報告されていくが、その紹介のされ方が現行の順序ではおかしなところがある。また夕顔の怪死後に頭中将が源氏を訪ねているが、ここでの源氏の心の動きに不自然さが認められるので詳細に検討する。
前章で検討した常夏的夕顔を中心として遊女的夕顔の節、夕顔〔三〕〔五前〕〔五後〕〔八前〕〔九前〕〔九後〕〔二〇〕〔二六〕〔二七〕〔三〇〕〔三一〕が検討する主たる節である。

 

  1 惟光報告と帚木〔一三〕との関係

 初めに夕顔〔三〕〔五前〕〔五後〕を検討し、執筆順序を明確にする。夕顔の巻の中で最初にこの女について紹介されるのが夕顔〔三〕であるが、ここでは揚名の介の家だろうとか、その兄弟の宮仕人だろうとか推測しているだけで、帚木〔一三〕の癡者の物語の何も受けていない(表14)。それどころか全く無関係な内容である。帚木〔一三〕では常夏の身分について殆ど触れていないのに、突如として宮仕人だろうなどと推定されるのである。だが、それも何の発展もなく消えてしまって夕顔〔五〕となっている。
 帚木〔一三〕→夕顔〔三〕と書かれ、常夏=夕顔と最初から構想していたならば、夕顔〔三〕には帚木〔一三〕の内容が採り入れられてしかるべきである。それがないのだから帚木〔一三〕より以前に書かれたことになる。夕顔〔三〕は遊女性ある夕顔であるから遊女的夕顔の方が先に執筆され、そのあとで常夏となったと考えられる。
 この女について惟光が源氏に二回目の報告をしているのは夕顔〔五前〕である。夕顔〔五〕が前・後に分けられることはUで述べた。「隣の事知りて侍る者呼びて、問はせ侍りしかど、はかばかしくも申し侍らず。いと忍びて五月の頃ほひよりものし給ふ人なむあるべけれど、その人とは、さらに家のうちの人にだに知らせず」「げに若き女どもの透影見え侍り」「顔こそいとよく侍りしか。物思へる

表14 帚木〔一三〕夕顔〔二六〕〔五前〕〔三〕の夕顔紹介の比較
帚木〔一三〕
(頭中将の経過報告)
夕顔〔二六〕
(右近からの報告)  
夕顔〔五前〕
(惟光からの報告)
夕顔〔三〕
(惟光からの報告)
いと忍びて見そめたりし人の

馴れ行くままに…たえだれ忘れ
ぬものに思う給へしを
久しきとだえをも…ただ朝夕に
もてつけたらむ有様に見えて…
親もなく、いと心細げにて…ら
うたげなりき
幼き者などもありしに
この見給ふるわたりより…うた
てある事をなむ、さる便ありて、
かすめいはせたりける
瞿麦の花を折りて……
…あはれはかけよなでしこの露
…なほ常夏にしくものぞなき
…あらし吹きそふ秋も来にけり
心安くて、またとだえ置き侍り
し程に、あともなくこそかき消
ちて失せにしか
瞿麦のらうたく侍りしかば、い
かで尋ねむと
これこそのたまへるはかなき例
なめれ  
頭の中将なむ、まだ少将
にものし給ひし時、見そ
め奉らせ給ひて

三年ばかりは志ある様に
通ひ給ひしを
親達は早う亡せ給ひにき
一昨年の春ぞものし給へ
りし。女にて
去年の秋頃、…いと恐し
き事の聞え参で来しに





はひ隠れ給へりし


幼き人惑したりと、中将
の憂へしは、さる人や








顔こそいとよく侍り
しか

物思へるけはひして
ある人々も忍びてう
ち泣く様など




五月の頃ほひよりも
のし給ふ人なむある
べけれど













揚名の介なる人の






男は田舎に罷りて、
妻なむ若く事好み
て、兄弟など宮仕
人にて…さらばそ
の宮仕人ななり


けはひして、ある人々も忍びてうち泣く様などなむ、しるく見え侍る」等々。夕顔〔五前〕のここでも帚木〔一三〕の内容は全く採り入れられていない。せいぜい「物思へるけはひして、ある人々も忍びてうち泣く様などなむ」などが常夏に近いとしても、常夏を思い出させる撫子が全く欠落している点で、夕顔〔五前〕が帚木〔一三〕を受けているとするのは無理である。
 次に夕顔〔五前〕と遊女的夕顔が描写されている夕顔〔三〕を比較してみよう(表15)。惟光が夕顔〔三〕で事情を聴取したのは「この宿守なる男」で、「心知れらむ者」であったが充分な情報は得られない。もし順当に夕顔〔三〕→〔五前〕の執筆順序だとすると、揚名の介なり宮仕人なりが筋として

表15 夕顔〔三〕〔五前〕〔五後〕の比較   
分類
 節 
 問 う 相 手 
 住の主人 
夕顔の身分推定
源氏の積極性
遊女的
[三]
この宿守なる男を
   呼びて問ひ聞く
      (積極的)
揚名の介なる
人の家
その宮人仕人ななりなほこのわたりの心知
れらむ者を召して問へ
      (命令)
児めき
 て的
[五前] 隣の事知りて侍る者
 呼びて、問はせ侍りし
      (間接的)
なし かしづく人
物思へるけはひ
知らばやと思ほしたり

      (願望)
遊女的 [五後] なし なし かの下が下と、人の
思ひ棄てし住なれど

なほ言ひ寄れ。
尋ね寄らでは、さうざ
うしかりなむ(命令)

夕顔〔五前〕へ進展していってよいにもかかわらず、全く展開をみせないばかりか関係さえしていない。更に夕顔〔三〕で「兄弟など宮仕人にて来通ふ、と申す。……下人のえ知り侍らぬにやあらむ」という惟光の報告を聞いて源氏は「さらばその宮仕人ななり、したり顔に物なれて言へるかな」と夕顔の素姓について一応の推測を終え、自分の身分がわからぬようにして和歌を贈って(行動して)いるのに、夕顔〔五前〕で「隣の事知りて侍る者呼びて、問はせ侍りしかど、はかばかしくも申し侍らず」と惟光の報告があり、源氏が「うち笑み給ひて、知らばや」と思うのは全くおかしいのである。
 つまり夕顔〔三〕の源氏が推定を終えて行動したことが先で、夕顔〔五前〕の「知りたい」という欲求が後になるというのはまことに不自然なのである。扇の持ち主を探すのにも夕顔〔三〕では源氏は積極的である。「心知れらむ者を召して問へ」と命令的であり、惟光も「この宿守なる男を呼びて問ひ聞く」と直接的である。対照的に夕顔〔五前〕では、惟光は「隣の事知りて侍る者呼びて、問はせ侍りしかど」と間接的であり、源氏も「うち笑み給ひて、知らばやと思ほしたり」とさほど積極的ではない。源氏の夕顔に対する興味が減少してしまったのなら夕顔〔三〕→〔五前〕でよいのだが、夕顔との関係を深めようとする源氏の表現としたら矛盾する。
 それ故執筆は、時間的に夕顔〔五前〕→夕顔〔三〕→帚木〔一三〕→夕顔〔二六〕〔三〇〕〔三一〕ということになる。つまり夕顔は、下の品風児めきて的性格(夕顔〔五前〕)→遊女性(夕顔〔三〕)→常夏(夕顔〔二六〕)へと発展していったと考えられる。
 夕顔〔五後〕は夕顔〔三〕と比較すると、「かの下が下」と「揚名の介(有名無実の官で得分はない)」、「なほ言ひ寄れ」と「召して問へ」など同じ表現であり、夕顔=遊女期のものである。そうなると夕顔〔五〕の後半、「かの下が下と、人の思ひ棄てし住なれど」が問題となる。これは帚木〔六〕〜〔一五〕を前提としていると考えられるから、夕顔〔五後〕は帚木〔一三〕の後に書かれたことになる。この夕顔〔五後〕については惟光を論じることで詳述する。

 

   2 惟光報告と頭中将との関係

 次に夕顔〔八前〕では惟光の再度の垣間見の報告がある。類型分類からすれば、児めきて的夕顔(らうたげ)でもあり、夕顔=常夏(忘れざりし人)で、どちらとも断定できないところである。  惟光の懸想の様子からすれば、夕顔〔五後〕と同じで特徴は夕顔=遊女的でもあり、夕顔のほとんどすべてを網羅している如くである。
 ここで初めて夕顔の相手として頭中将が登場する。明らかに夕顔=常夏であると読者に推測させてゆく。ではこの推測をさせるのにその間の筋の運びに無理はないのであろうか。
 惟光の報告を聞いた源氏は「もしかのあはれに忘れざりし人にや」と思うのである。惟光が頭中将を見たことについては問題はない。しかし、それを聞いて源氏がすぐ常夏を連想するのは無理と考える。というのは、童は右近に「中将殿こそ、これより渡り給ひぬれ」と言っているのである。頭中将の通っている相手が常夏であるとすれば、昨年の秋より全く通っていないのだから、童が「これより渡り給ひぬれ」と声をあげるのは不自然であろう。なぜなら「心安くて、またとだえ置き侍りし程に、あともなくこそかき消ちて失せにしか」(帚木〔一三〕)なのであるから、自分から身を隠し、頭中将を渡って来られなくしているのは常夏の君のほうなのである。だから、中将の君が通って行きますよと積極的に呼ぶのはおかしいのである。「(頭中将であると)『いかでさは知るぞ、いで見む』とて、はひ渡る」のも不自然である。もしこの女が本当に常夏の君なら、少なくともまわりのもの皆で、見よう見ようとするような状態ではないはずである。かえって見つからないように、シーンとさせるはずである。逆に、まあ、中将様がお通りになるわといって見たがる様子であれば、常夏の君ではないことになるのである。
 さらにこの惟光の垣間見報告には子供、すなわち撫子がいない。「ちひさき子どもなどの侍る」の子どもが常夏の子供と考えられないでもない。しかし、常夏の撫子はいったいこのとき何歳であったろう。訪れなくなった主人(頭中将)の記憶もない撫子が、主人がいるようなことを言うなどあり得ようか。ここでの「ちひさき子ども」は常夏の子供ではない。童子として仕えているものが通って来る主人のことを話してしまうので(「言過しつべきも」)、女房たちが「いひ粉はして」「人なきさまを強ひてつくり侍る」のである。夕顔は、本妻が恐ろしくて隠れただけの存在では常夏とは断定できず、頭中将が探している撫子があってはじめて、和歌をとりかわした撫子の親としての常夏となりうるのである。とすれば、夕顔〔八前〕の夕顔はもしかして頭中将が通う女にはなりえても、現在はどこに移ってしまったのかわからず、それにおいおい忘れられてゆく存在の帚木〔一三〕で語られた常夏とするには不自然すぎる。
 だからこそ紫式部は、この時点では「もしかのあはれに忘れざりし人にや」としか書けず、直接常夏とは言っていないのである。夕顔〔八前〕の表現は、頭中将、夕顔の「いとらうたげ」さ、「ちひさき子ども」などを挿入付加することにより、夕顔→常夏へと移行させる準備をし、読者の想いのなかに、夕顔はひょっとして常夏ではないかと類推させようとしたのである。さすがに紫式部である。「児めきて」も「遊女」も「常夏」も、すべて漠然とした表現で、一体として夕顔としてしまった。これをもって今までの夕顔が常夏ですよと導いてゆくのである。夕顔〔八前〕はそれ故、夕顔=常夏期となる。
 夕顔〔九後〕では夕顔〔八前〕の「もしかのあはれに忘れざりし人にや」は「かの頭の中将の常夏疑はしく」と変わってゆく。夕顔と常夏は、はるかに遠い関係であった(夕顔〔八前〕)にもかかわらず、常夏と実名で推測され、かなり夕顔=常夏に近付いてきた。しかし、物語の進行から見れば、源氏は夕顔のところに「いとしばしばおはします」(夕顔〔九前〕)関係であるから、本当に夕顔=常夏であるかどうかを「いと知らまほしげ」(夕顔〔八前〕)であるならば、夕顔に直接聞けば確かめられたはずである。しかし、「かの頭の中将の常夏疑はしく」(〔九後〕)のまま身分を明らかにしていない。
 この不自然さは、すでに「児めきて」的夕顔を主人公として物語が進められているところへ、その主人公が実は常夏であったとするために夕顔〔八前〕が強引に後期挿入されていったと考えられると、直接本人に身分問わない訳も納得できる。つまり、なにがしの院で怪死する児めきて的夕顔の物語を進めている時は、怪奇性を保つためにお互いの正体を不明にしているのだから、ここでは身分を問わないのである。だから夕顔〔九前〕の「その人と尋ね出で給はねば、われも名のりをし給はで」のあとに「かの頭の中将の常夏疑はしく」(夕顔〔九後〕)を挿入したのである。
 また、「いとしばしばおはします」(〔九前〕)とすでに通って来ているのであるが、夕顔〔八前〕で「いと知らまほしげ」なる文章が挿入されると、当然「しばしばおはします」ときに知りたいことを相手に確かめるのが自然であり、いつまでも疑問のまま残しておくのはしごく不自然なことになるのである。しかし、すでに書かれている夕顔が、後期挿入された時点からはっきり常夏となってしまったら、源氏との会話も常夏のものとなって、それまでの夕顔としての会話や行動では不充分となるであろうし、また逆に常夏としてはあってはならない部分も出て来よう。だからこそ、少なくとも夕顔が死ぬまでは明確に夕顔=常夏としなかったのである。

   3 夕顔のしるべせし随身

 夕顔〔九前〕のさらなる破綻は、「夕顔のしるべせし随身」である。この随身はすでに夕顔側に顔が知られているのである。だから随身も扇の和歌のことは当然知っているのであろう。この破綻は後期挿入でどのように解決されるのか、検討しよう。
 随身は夕顔〔一〕〔三〕〔九前〕と続いて登場する。そこでの面の割れ方をみると、夕顔〔一〕の御随身は「押しあけたる門に入りて折る」ところに童が出て来て扇を差しだされる。そのとき惟光が出て来て夕顔側との物語は中断する。この時点で、夕顔〔三〕を読まない限り、また夕顔〔三〕の存在を前提としない限り、扇に和歌が書かれてあったことも、和歌の内容が何であったかもわからない。すなわち、夕顔〔一〕の随身は夕顔側に面が割れていないとして一向に差し支えなく、夕顔〔九前〕と矛盾しない。夕顔〔一〕と夕顔〔九前〕の間に夕顔〔三〕が挿入されたが故に破綻、すなわち夕顔〔三〕が入れば、随身はすべての関係を知っている存在となってしまう故に生じた不自然さなのである。夕顔と源氏は互いに見知らぬ関係であったというのが物語の当初の筋であったと考えられるのである。
 Uの検討では夕顔〔九前〕は遊女性(→B)としたが、ここで詳細に検討してみると、知らない男がしばしば通ってくることによって、主人公が「いとあやしく心得ぬ心地」に誘発された故の積極的な行動であって、彼女自身の積極性、遊女性から来るものではないとした方が適切となる。夕顔〔九前〕は夕顔〔三〕の挿入以前、すなわ夕顔=児めきて期、またはそれ以前の執筆であるとすれば、随身の矛盾が氷解する。
 夕顔〔九後〕では、「かの頭の中将の常夏疑はしく、語りし心ざま、先づ思ひ出でられ給へど」と、まさに夕顔=常夏で筋が運ばれてゆく。「何れか狐なるらむな」は夕顔〔一六〕の「狐などやうの物の」の呼応しているが、それを伏線とみるか、後期挿入のための不自然を解消しようとしたものとみるかは反芻しなくてはいけない。
 狐は〔九後〕では「世づかぬ御もてなし」で迷ってしまう夕顔に、どっちが狐であろう、だまされた気持ちになってよという意味に使われ、決して物の怪ではない。しかし、〔一六〕の狐は明らかに「人おびやかさむ」とする物の怪に近い「狐などやうの物」である。とすれば〔九後〕の狐は伏線ではなく、〔一六〕の節より以前に挿入するための不自然さを解消しようとする意味ととらねばならない。後期挿入はいろいろと前後の節に影響を与えてしまうから、違和感をなくすブリッジが工夫されるのである。

 

   4 夕顔にまつわる源氏と頭中将

 さて常夏の元の相手である頭中将は、このあと夕顔〔二〇〕で登場する。源氏が夕顔の怪死に遭遇し二條院に臥しているときに、内裏より御使いとして頭中将が見舞いに訪れた。源氏が一夜無断外泊したためである。紫式部はこのとき夕顔=常夏と構想していたか否か? もし常夏とすれば、源氏は女の元の愛人と、しかもなまなましい死の直後に対面するのだから、二人の対面の様相や心の動きにはその関係がにじみでるはずである。実際にはいかなるものであったろうか。
 源氏は頭中将に、乳母の訪問にゆき、下人の死病にあい、今は「しはぶきやみ」にかかってしまっていると伝える。頭中将は「いかなる行触にかからせ給ふぞや。のべやらせ給ふ事こそ、まことと思う給へられね」と言い、源氏は「胸つぶれ」てしまう。
 ここの「胸つぶれ」であるが、岩波の日本古典体系の註の如く、頭中将に「空事らしいと急所をつかれたから、はっとする」だけならば、この段階では夕顔=常夏ではない。なぜなら、頭中将の恋人と関係し、怪死にかかわったことに対する何の思いも、頭中将を前にして生じていないからである。夕顔=常夏であるならば、夕顔〔三〇〕の如く「頭の中将を見給ふにも、あいなく胸騒ぎて、かの瞿麦の生ひたつ有様、聞かせまほしけれど」と相手の気持ちになった思いが、夕顔〔二〇〕のこの時点で生じてくるはずである。かの瞿麦をかの常夏としただけでこの文章は夕顔〔二〇〕に使えるほどである。しかし、実際はそうは書かれていない。頭中将を見てもこの感情が表現されておらず、あとになって表現されるという無理が生じたのは、夕顔〔二〇〕執筆の時点では夕顔を常夏とは構想していなかったからである。
 また「胸つぶれ給ひて」が夕顔〔三〇〕の「胸騒ぎて」と同一であったとしたら、穢れについて「奏し給へ」のあと、蔵人の弁を呼んで再び参内できぬ訳(空事)を内裏に報告するようなことはしまい。「胸つぶれ給ひて」は、源氏が内裏に知らせず外泊し、体調を崩したにもかかわらず、帝からの御見舞いの頭中将に言い訳し、とりつくろおうとした。しかし、「まことと思う給へられね」と見抜かれてしまったので、胸がどきんとしたのである。決して夕顔(=常夏)を死なせてしまった申し訳なさや、契ってしまったうしろめたさのために頭中将に「胸騒ぎ」したのではない。
 ひょっとして常夏のことではないか? と頭中将にも読者にも思わせる作者の意図があるならば、源氏は再度頭中将を呼んで話をするのであろう。どちらにしても、夕顔〔二〇〕では夕顔=常夏とはならない。つまり〔二〇〕は頭中将が登場するだけであって、この執筆時は夕顔を常夏として加筆した時期ではなく、夕顔は子供のいない夕顔のままで、夕顔=常夏となる以前に執筆されていると考えるのである。児めきて的夕顔の時期でよい。
 夕顔が怪死して後、夕顔〔二六〕で右近が夕顔=常夏であると語る。充分すぎるほど語る。帚木〔一三〕と比較すればほとんどそのコピーであることがわかる。(前出の表14)。無論、「幼き人」にも話が及んでいる。
 このあとは夕顔〔二七〕から〔三三〕までであるが、〔二八〕〔二九〕〔三二〕は空蝉、軒端の荻のことで、夕顔=常夏は出てこない。従って〔二七〕〔三〇〕〔三一〕が検討の対象となる。
 夕顔〔三〇〕では「頭の中将を見給ふにも、あいなく胸騒ぎて、かの瞿麦の生ひたつ有様、聞かせまほしけれど」と、明らかに頭中将との関係で夕顔=常夏であり、〔三一〕でもやはり「頭の君に懼ぢ聞えて、……右近は別人なりければ、……若君の上をだにえ聞かず」で、これも夕顔〔二六〕を受けており、当然「夕顔の宿」の主人公は常夏としてよい。〔二六〕を後期挿入して問題となるのは残す〔二七〕のみとなる。〔二六〕の次に〔二七〕を書いたのか否か、それを検討してみる。
 まず第一に、〔二六〕で「右近を召出でて、のどやかなる夕暮に、物語などし給ひて」とあるにもかかわらず、〔二七〕は「夕暮の静かなるに、空の気色いとあはれに」と始まり、同じ日の同一時刻の頃の設定なのに書き出しが二度あること。
 第二に、〔二六〕で語られた多くのことが〔二七〕ではほとんど発展していないこと。夕顔が十九歳であり、右近が夕顔の御乳母の子であることだけである。〔二七〕を〔二六〕と比較して更に問題としたいのは、「三位の君のらうたがり給ひて」である。〔二六〕で「親達は早う失せ給ひにき。三位の中将となむ聞えし」と、親は三位の中将と断定しているのに、続く〔二七〕では「十九歳におなりでしょうか。三位の君さまがかわいがられて」とぼかした表現である。
 第三に、〔二七〕では頭中将のことなど全く意識されていない。
 第四は撫子のことである。〔二六〕では、源氏は「人にさとは知らせで、われに得させよ」と意見を表明し、右近も「さらばいとうれしくなむ侍るべき」と会話したにもかかわらず、その撫子に関する文章が〔二七〕には一ヵ所もない。右近にも源氏にも、常夏のことも頭中将のことも撫子のことも、全く不在としか思えない。〔二六〕があればあるほど〔二七〕は浮き上がったものに感じられる。つまり、〔二七〕がすでに書かれていて、そこへ〔二六〕を挿入して夕顔=常夏にしたために生じた違和感である。
 以上のことから、夕顔〔二七〕の中の夕顔の年齢十九歳、三位の君をもとにして帚木〔一三〕を加え、夕顔〔二六〕を後期挿入したものと考える。

 以上、夕顔=常夏を中心に検討してきたが、現状の如く、すべてを常夏とするのは無理で、「かのあはれに忘れざりし人にや」(〔八前〕)「かの頭の中将の常夏疑はしく、語りし心ざま、先づ思ひ出でられ給へど」(〔九後〕)「頭の中将なむ、まだ少将にものし給ひし時」(〔二六〕)「頭の中将を見給ふにも、あいなく胸騒ぎて、かの瞿麦の……」(〔三〇〕)「頭の君に懼ぢ聞えて、……若君の上をだにえ聞かず」(〔三一〕)などの語句から夕顔〔八前〕〔九後〕〔二六〕〔三〇〕〔三一〕のみが、紫式部が意図的に夕顔を常夏の女にしてゆくために加筆した節である。
 それ故、夕顔は、「あてはかに児めきて」的夕顔から遊女的夕顔→常夏へと変化してゆくと結論される。執筆順序は次ページ表16の如くになる。

表16 Vまでの執筆順序の結論  (表13参照)