源氏は、人違いと知りつつ軒端の荻と契った。そして、
「忘れで待ち給へよ」
「(消息は)このちひさき上人などに伝へて、聞えむ。」
と、約束していたにもかかわらず(空蝉[四])、二条院にもどって、小君を前にして空蝉への「よろづに怨みかつは語ひ給ふ」だけで、「かの人もいかに思ふらむといとほし」がりはするものの、色々考え直してしまい、軒端の荻には「御言づけ」もない。軒端の荻のほうでは、初体験で「ものはづかしき心地して」自室に帰るも、御消息がないので、「小君の渡りありくにつけても、胸のみ塞れ」る思いをしている(空蝉[六])。その後、伊予の介が赴任の挨拶で源氏の邸を訪れた時、「女をば、さるべき人にあづけて」と軒端の荻の縁談話を告げても、源氏は、「主つよくなるとも、かはらずうちとけぬべく見えし様なるを頼みて」御心を動かすこともなかった(夕顔六)。実際に、「蔵人の少将をなむ通はす」と聞くと蔵人の少将に、自分と軒端の荻と関係があったことが知られてしまうのを心わづらふだけで、「いかに思ふらむ」とは考えるが、発覚しても「罪ゆるしてむ」と思うのである。軒端の荻は、源氏からの消息を見て、「見すれば心憂しと思へど」と、返事を書いてしまうのである(夕顔[二九])。結論として、碁打ちの夜の軒端の荻との契りは源氏にとっては、思い上がりが、軒端の荻には、やるせない感情が残ったのであって決して契ることによって、二人の関係が発展したわけではない。
さらにこの契りが偶然に起きたものではない。小君の誘導もさることながら、空蝉の小袿に誘われていることに問題がある。源氏が関係を持ちたかったのは空蝉であり、それへの加担者として小君が存在する。偶然のことで源氏と契ったのが軒端の荻であったことに対し、小君には、本懐をとげられなかった源氏を慰めはしても、軒端の荻には、偶然の災いが及んでしまったと思う程度で何等の反省心も生じていない。さらに小君は、源氏と軒端の荻が関係したことを知らない可能性もある。源氏を母屋に入れたあとは、「うしろめたう思ひつつ寝」ていたわけだから、母屋の几帳のなかの出来事は知らないとも考えられる(空蝉[五])。
また、翌朝、源氏が小君に「有様宣ひて」も源氏は、自分をさけてしまった空蝉の心を恨み小君の舞台まわしの幼さをなじるだけで、軒端の荻と契ったことは言わなかった可能性が強い。そうであるからこそ、空蝉に源氏の消息を届けにゆくときも、小君の脳裏には、軒端の荻のことは浮かんでこないのであろう。
しかし、空蝉のほうは、軒端の荻に偶然の結果として、男性関係を生じさせてしまったと思うことはできない。空蝉自身、同様な状態で源氏に抱かれてしまった経験があるから、軒端の荻も当然のこととして、性関係を強いられるであろうことは思い至るであろう。源氏からの誘いを拒否してきた空蝉にとっては、源氏が忍んできたことは不慮のこととしてよいであろうが、同室の軒端の荻を一人残して自分だけが源氏との性関係を嫌って身を隠した点に問題がある。
何故ならば、空蝉は軒端の荻の継母とはいえ軒端の荻の母親であるからである。母親とすれば、娘に男性を通じさせるとすれば、娘の将来の幸せを望んで行うであろう。しかし、結果は望むべき方向にゆかなかったことだけは確かである。また、もしこれが母親としての行動であったとしたら、予想に反してしまったことに対し、娘には重大な責任が生じてくるはずである。それに対して、空蝉はどう思ったのであろうか。いや、それよりも一体、空蝉は娘の将来を考えて源氏を通わせたか否か、それが問題なのである。母親としての責任、もしくは情があれば、これ等の点は当然表明されてよい筈である。が不思議なことに現在の源氏物語にはその点はまったく描写されていないのである。そんな馬鹿なことが有り得ようか。たとえ空蝉が源氏の魅力にいかにおぼれようと、欠落するような性質のものではない。逆に娘の幸せも考えず、娘への詫びもなければ、母親としての情が一切表現されていない、という点で、源氏物語では空蝉が母親として設定されていない可能性が生じるのである。
現在の解釈では空蝉と軒端の荻は、母・娘の関係とされるが、空蝉物語のなかで、空蝉のことを、「軒端の荻の母」と明確に書かれている個所はどこにもなく、また軒端の荻を「空蝉の娘」と表現している個所もない。つまり、両者には直接的に親族関係を示す描写はないのである。廻り廻った表現から、母娘関係が成立するのであって、この点からも、母親の心情に深く立ち入って検討することが次に必要となる。
空蝉は、軒端の荻がまどろんでしまったあと、源氏が忍んで来たことを「いとかうばしくうちにほふに」知り、顔をあげてみると、几帳の隙間に源氏の寄るけはひがして、「あさましく」思って、単衣一つを着て、すべるように逃げ出したのであって、軒端の荻に全く知らせていない(空蝉[三後])。
2 空蝉の母親としての態度
当然の結果として、源氏は「ただ一人臥した」軒端の荻と契ってしまう。つまり、空蝉は、闖入者の源氏から自らは守ったが、娘である軒端の荻は守ってやらなかったのである。そして、源氏からの消息を持ってきた小君に対し言った叱言は、「あさましかりしに。とかう紛はしても、人の思ひけん事さり所なきに、いとなむ理なき」であって軒端の荻のことは一言もない。心わづらふのは持ってゆかれた小
袿が「いせをの海士のしほなれ」て汗臭かったのではないかという心配である。そうなればなおさらあとに残した軒端の荻のことなど、どうでも良くなっていると推測される。一体これが母親としての態度であろうか。
また「ありしながらの我が身ならば」と思うと忍び難く、遂には「しのびしのびに濡るる袖かな」と自らの感情を発露してしまう。ここには、恋に溺れる女の心情が基調で母親としての感情は全くない(空蝉[六])。
その後、源氏へ「さるべきをりをりの御いらへなどなつかしく聞え」ることはあっても、その際、軒端の荻への詫びや自責の念など生じていない(夕顔[六])。
又、伊予に下ることが間近になって、心細くなってしまって、「お忘れではございませんか、思い乱れる時もあります。」という恋歌を贈ってしまう。この時も軒端の荻への自責の念など生じていない。
以上の如く、源氏から自らの危険を回避しただけであり、娘への危険も考慮せず、娘が源氏と契ることで幸せになるであろうという判断もない。源氏と契ったあとの軒端の荻の苦境に対しても同情もなければ、そのような結末に導いた自責の念もない。あるのはただただ恋する女の情念である。
空蝉は、「ともかくも思ひわかれず」母屋から逃げ出したのであるから、源氏と軒端の荻が契ったことを知らなかったと仮定すれば、その態度はなんとか弁明されるであろう。しかしながら、空蝉の知る源氏とは、以前空蝉が紀伊守邸でされたように夜這いを堂々と行い、強引に関係を持たされてしまったごとく女性にとって危険な存在であったはずである。そして今回も、几帳のわずかな間に迫って来ていたのである。自らは逃げ出せとしても、そこに一人臥していた軒端の荻になんらかの危険が迫ったであろうことは、母屋から遠く逃げ、その場のことは直接知らなくとも、推測されるはずである。しかも、その危険の及ぶのが娘であったとしたら、心配でその夜は眠れなかったであろう。翌日とて、軒端の荻の様子などに注意が払われる筈である。にもかかわらず、そのような描写は全くない。
それだけではない、軒端の荻と二人で寝ていれば源氏は何もできなかった筈である。抵抗しても源氏は再び、空蝉と初めての契りのときの如く抱き上げてゆくのであろうか。今回は、方違へでも何の訪問でもないのである。純然たる夜這いであるから、前回の様な態度は取り得ないはずである。空蝉が逃げださなかった方が、軒端の荻は安全であったことになる。軒端の荻を起こしさえすれば当然自分自身も安全なはずである。この様に空蝉が、「やをら起き出でて、生絹なる単衣一つを着て、すべり出で」たことは、空蝉と、軒端の荻が母娘であるとすると、ひどく不自然で納得がゆかない行動となるのである。
軒端の荻にしても、母屋である継母のところで寝ていたら、男に犯されてしまい、しかもその継母は、はじめは一緒であったのにいなくなっていたことへの疑惑が生じてよいはずである。また、実父の後妻のところにしのび込む男がいたとしたら、なんらかの感情が走るはずである。それがなかったら軒端の荻は、空蝉を親と思っていたのであろうか。と考えたくなる。
自分のところにしのんで来たと錯覚するには、犯されたのが自室の西の御方ならともかく、継母の寝室である母屋であったのだから無理がある。
紫式部自身ですら、「たどらむ人は、心得つべけれど」(察しのよい人ならば、真相をきっと悟るに違いないのだけれども・・・)と述べているくらいなのだから、どこか不自然なのである。それを「いと若き心地に・・・えしも思ひわかず」と処理されているのである。
軒端の荻が、こんなことにも気付かないとすれば、白痴としかいいようがない。「若き心地」なら、より一層、周囲の状況に敏感であろう。母屋での突然の性関係ならばなおさらのことである。継母に男がしのんで来ると直感するのが自然である。それすら気付かないとしたら、軒端の荻が白痴であるか、空蝉を母親と思っていないか、空蝉が母屋に住んでいる女性ではなくてたまたま逗留している女性であるかであろう。
空蝉を「空蝉」として有名にしたこのくだりも強い不自然さが感じられるのである。
軒端の荻の幸せも考えず、自分のところにしのんで来た源氏と契らせ、結果がうまくいったならともかく、悩んでいる軒端の荻に対して、良心の呵責も詫びもなく過ごす空蝉に、軒端の荻のまがりなりにも母親であることの情などどこにも感じられない。軒端の荻にしても、空蝉を母親と思っていないと結論されるのである。
ということは、現在の解釈では、空蝉と軒端の荻は、母娘の関係になっているから、この点を説明するとすれば、源氏物語制作のある時期まで、空蝉と軒端の荻とは、母・娘関係ではなく、後期挿入の時点で肉親関係となった考える以外にはないのである。
その時期も、母親なり、娘なりの心情に立ち入るにはこみいりすぎて挿入し難く、又無理に挿入すれば、すでに書き流布してしまった先行の源氏物語に矛盾が生じるし、かといって直接的に肉親関係を表現すれば、物語の筋立てがこわれてしまう時期、つまり空蝉系物語最後の挿入であるとみるのである。