源氏物語解体新書

〜視覚と嗅覚の深淵な世界から〜

上田 裕一・上田 英代

第1章 鏡よ!鏡! 世界で一番美しい人は誰? 白雪姫の世界から

(1)一番美しいと決めるのは誰?

 鏡に向かって美しい妃が誰が一番美しいかと尋ねている姿はウォルトディズニーのアニメ映画を見たものなら鮮明に記憶していることだろう。戦後間もなく白黒からカラーに代わってのディズニー特有の色彩豊かなかわいい多くのキャラクターは魅力的であった。その中にあって冷たく残酷な継母の美貌に対するひときわ強い執着が見事に描かれていた。白雪姫の物語はディズニー版白雪姫が本筋となってしまった。
だがその内容はグリム童話の原作とは重要な点で異なっている。
原作は
「鏡よ鏡、国じゅうでいちばん美しい女はだれ?」
と聞いて、鏡が、
「あなたです、お妃さま、あなたが国じゅうでいちばん美しい」
と答えるのを聞いて、満足していました。
ところが、白雪姫が、7歳になり、いつものように、妃が鏡に聞きますと、
「白雪姫は、あなたより千倍も美しい!」
と、こたえるではありませんか。


 このくだりには、白雪姫と一回も会っていない妃なら「国中で」と特定の相手との比較を持ち出さないのは納得がいく。毎日とは言えないまでもいつも会っているとしたら何か物足りない。妃は、白雪姫の美貌と比較は済んでいるはずであるから、白雪姫より美しいかと鏡の精に聞くであろう。この点、倉橋由美子『大人のための残酷物語』ではきちんとした比較をしている。

  王様はまもなく若いお妃を迎えました。これがまた目を見張るほど美しい方でしたけれども、大層気品が高く、白雪姫がまるで天使の人形のように美しいのを見た時から心は穏やかではありませんでした。
  新しいお妃は秘蔵の魔法の鏡を取り出してかう尋ねました。
 「鏡や、教へておくれ。誰がこの国で一番綺麗なの」すると鏡は答えました。
 「女王様、一番綺麗なのは女王様です」
 「本当ですか。あの白雪姫も綺麗でせう」
 「ですが、白雪姫はまだ子供です。女王様とは比較になりません」
 それを聞いたお妃は、一度は安心したものの、考えてみればまた不安が募るのでした。


不特定多数との比較では十分納得がいかず、白雪姫という特定の対象との比較を持ち出す心理、そしてたとえ今世界一でも、いつか覆される不安のためには

 毎日のように鏡を取り出しては答えを確かめざるにはいられませんでした。

美しい妃は鏡に映る自らの容貌をどの程度、自らで評価しているのだろうか? 鏡を見て、美しい自分は当然分かるし、感じるであろう。妃が今までに会って見たりした人と比較することも可能であろう。この場合は、他者を見ている自分と鏡が手元にあればそこに映った自分、手元になければ自分の姿のイメージとの比較できる。だが比較している両者の容姿に微妙な違いが生じている。この違いに注目することが源氏物語を腑分けしていく取っ掛かりとなる。  比較する相手は何を見ててもいいのだし、ぼおーっとしててもいい。自然に振舞っていて良いのだが、鏡に映る本人の姿は自分を見ている自分の容姿の確認であって自然に振舞っている姿は鏡を2枚用意せざるを得ない。鏡に映った過去の容姿のおぼろげながらのイメージとの比較は可能でも、自然さがに違いがでる。同等のレベルでの比較ではない。
まして見る相手、比較する相手の数には限度があるからその範囲内の美人との限定付であるから世界の中で一番かは分からない。妃は、自分の姿を見て「この世で一番自分が美しい」とは判断できない。一番を望めば誰かに聞かなければならない。だから権威ある判定し判断する審査官が必要なので、鏡に聞いたのであろう。
 初版では、実際に王妃が言った言葉は『鏡に閉じ込められし男よ…』(Slave in the Magic Mirror…)であったとのこと。姿を映す鏡と判定者をしっかりと分けていた。それにもまして、妃は、千倍も美しい白雪姫を実際にその目で見ているのに、どうして自分が劣っていると判断できないのか?世界で一番はまず自分の見ている周囲の特定の顔との比較をしてからであろう。そこで決着がついてしまい白雪姫のほうが美しいとなったら、不特定多数との比較はもはや必要がないはずで鏡に聞くのは敗北や屈辱や愚行の上乗せであろう。
 客観的な美人の判定基準、個人としての判断を妃が持てないとしたほうがよい。そもそも美人と判断するのは自分だけでは不十分で他者の判断が優先するということであろう。他者の持っている美人の判定基準ですらその人自身の体験などからくるものである。どうやってそれらを集めて共通した基準に出来るか?
 源氏物語では光源氏は超美貌の持ち主として描かれている。光源氏は皆から稀なる美男子として称賛されている。称賛され方が尋常なら銅の鏡や水溜りに映る自分の美しさに納得できるであろう。光源氏の場合は尋常ならずの程度であった。 映像の固定化をする写真やビデオをなどがない時代にどのようにして判定が行われたのか。鏡に映る自分は、自分を見ている自分の容姿であって視線はギラギラと自分に向かっている。ナチュラルな自分の容姿とは程遠い。
 そして現代のガラスの鏡ほど綺麗に歪みなく映るようになったのはいつ頃からか。現代でも戦後の物資不足のときの鏡は若干歪みがあり美人の判定には使える代物は少なかった。時代をさかのぼると銅などの金属の鏡、水溜りなどの水鏡に映ることで自らの容姿を判断していたはずである。他者を肉眼で見るのは直視で歪まないが、自分を映して見るときは反射像で歪みが出る。時代をさかのぼれば鏡の歪みも酷くなる。となると平安時代では鏡に映る自分よりも自らが見ている他者のほうが数段美しく見えたはずだ。頭中将という対抗する美男子がいたなら光源氏の心理状態はいかなるものになるのか、張り合うぐらい美意識にとらわれていたとすると、お妃のように『鏡よ、鏡!!』と確かめたくなるであろう。
 残念ながら美を判定してくれる鏡はない。周囲から美しい、頭中将より数段美貌だといわれても、光源氏が頭中将を見る限りは彼のほうが美しく見えてしまう。このような心理状況で過剰とも言えるこの称賛は光源氏の性格にどのように反映されていくのか、そこに源氏物語前半の主人公の視覚の世界から生じる性格的な歪みまで深読みする必要がある。
 生まれてきたポジションで、自己評価や美男子であることの自己表現のニュアンスが異なってくる。母である更衣が身分が低かった故の出自の低さ、後見人不在、母、祖母ともに幼少時期に死別、そのため早々と政治・権力の中枢から下ろされた美男の感情とはいかなるものであったのか、詳細に検討しよう。

(2)物語の変遷 固定化されたイメージ

 いったん出来上がった作品は、真の内容から離れてイメージが出来上がり、後続の読者に影響を与えていく。イメージを持って読んだその読者はイメージをさらに強固なイメージにしていくことが往々にしてある。内容とイメージとの関係をまず、短い物語である白雪姫を前提として検討し、源氏物語ではいかようであったかを検討していく。源氏物語は紫式部が作って以来、日本文学において重要なウエイトを持っている。いや持たされているのではないか。

 白雪姫の物語は、ディズニーのアニメ映画によってイメージが出来上がったと言ってよいであろう。綺麗な物語である。白雪姫と王子様の素敵な結婚で、めでたしめでたしとなっている。だが本当にそうであろうか、グリム童話を今の子供たちにそのまま読み聞かせていいのだろうか。おかしな、または恐ろしい部分が混在していないであろうか?
 「世にも恐ろしい童話『世にも恐ろしいグリム童話』」 2000年日本 増井壮一では
  @ヘンゼルとグレーテル A青ひげ B灰かぶり(シンデレラ)
を取り上げている。
 「大人もぞっとする初版『グリム童話』」 由良弥生 三笠書房 2002-10
 では
  I.ヘンゼルとグレーテル II.トゥルーデおばさん III.長靴をはいた猫 IV.わがままな子ども V.灰かぶり(シンデレラ)VI.千匹皮 VII.赤ずきん VIII.ガチョウ番の娘 IX.兄と妹 
が検討されているが、両著書とも『白雪姫』がない。
 白雪姫の物語はいいイメージができ上がっているからであろう。
 綺麗に出来上がったディズニーのアニメ映画で継母の最後はどうなったのか?御存じであろうか?
 7人の小人たちに追われて雷に打たれて崖から落ちて亡くなっているのだ。だがその死は当然の報いであろうか?継母は確かに白雪姫を2回にわたって殺そうとした。その方法は直接手を下したわけではない。初回の猟師を介しての殺人は成功せずだから殺人犯ではない殺人未遂でしかも直接手をくだして殺してはいない、死亡すれば共同正犯で最高では死刑だが現在の裁きでは禁固刑でそれも終生ではないはずである。その後は直接行動する、首を絞める、櫛をさす、毒リンゴを食べさす。あまりにも幼稚である。さらに美を目的としているのだから殺すよりももっと適切な方法があったのではないか。結果的に殺せなかったにもかかわらず妃は嵐の中を必死で逃げ回り、最後は小人たちが直接人為的に手を下すのではなく、雷という天の裁きをもって亡くなる。
 そればかりではない、従来から指摘されているが白雪姫は何歳だったのか。女性美を世界的に競う美人コンテストは18歳以上であるが、そのイメージが出来上がっている今の読者はそのイメージに引っ張られて、その程度の年齢と漠然とイメージしてしまう。ところが白雪姫はまだ12才にもならない少女なのだ。つまり読者は文章をきちんと読んでいないのだ。イメージで読んでいるので、年齢的にも王子様との結婚はめでたしめでたしとなってしまう。日本の法律でも親が認めれば女性は16歳、認めない時は18歳以上で結婚が認められる。12歳という年齢はつまり違反行為のみならず、青少年保護法に淫猥として逮捕されてしまうではないか。
 ディズニーの白雪姫は大人に近いきれいな女性で胸もふっくらとしている。イメージが出来上がっている時は書かれているにもかかわらず、読み飛ばして自らのイメージに合わせて書かれた内容を忘却して納得する。
 もう一度、ストーリーをネット上で確認してみよう(Wikipedia)。
  ある国に、「白雪姫」と称される容貌に優れた王女がいた。しかし彼女の継母である王妃は、自分こそが世界で一番美しいと信じていた。彼女が秘蔵する魔法の鏡は、
 「世界で一番美しいのはだれか」との問いにいつも「それは王妃様です」と答え王妃は満足な日々を送っていた。
  白雪姫が7歳になったある日、王妃が魔法の鏡に「世界で一番美しい女性は」と訊ねたところ、「それは白雪姫です」との答えが返ってくる。怒りに燃える王妃は猟師を呼び出すと、白雪姫を殺し、証拠として彼女の肝臓(※作品によっては心臓となっている)を取って帰ってくるよう命じる。しかし猟師は白雪姫を不憫がり、殺さずに森の中に置き去りにする。そして王妃へは証拠の品として、イノシシの肝臓をかわりに持ち帰る。王妃はその肝臓を白雪姫のものだと信じ、大喜びで塩茹にして食べる。
  森に残された白雪姫は、7人の小人(sieben Zwerge、ドワーフ)たちと出会い、生活を共にするようになる。一方、白雪姫を始末して上機嫌の王妃が魔法の鏡に「世界で一番美しいのは?」と尋ねたところ「それは白雪姫です」との答えが返ってくる。白雪姫がまだ生きている事を知った王妃は物売りに化け、小人の留守を狙って腰紐を白雪姫に売りつける。そして腰紐を締めてあげる振りをして彼女を締め上げ、息を絶えさせる。
 やがて帰ってきた7人の小人は、事切れている白雪姫に驚き、腰紐を切って息を吹き返させる。一方、王妃が再び世界一の美女を魔法の鏡に尋ねたことにより、白雪姫が生きている事が露見する。
 王妃は毒を仕込んだ櫛を作り、再度物売りに扮して白雪姫を訪ねる。白雪姫は頭に櫛を突き刺され倒れるが、小人たちに助けられる。
  今度こそ白雪姫を始末したと上機嫌の王妃だが、魔法の鏡の答えで白雪姫の生還を悟る。王妃は、毒を仕込んだリンゴを造り、善良なリンゴ売りに扮して白雪姫を訪ねる。白雪姫は疑いも無くリンゴを齧り、息絶える。
 やがて帰ってきた小人たちは白雪姫が本当に死んでしまったものとして悲しみに暮れ、遺体をガラスの棺に入れる。そこに王子が通りかかり、白雪姫を一目見るなり、死体でもいいからと白雪姫をもらい受ける。
 白雪姫の棺をかついでいた家来のひとりが木につまずき、棺が揺れた拍子に白雪姫は喉に詰まっていたリンゴのかけらを吐き出し、息を吹き返す。蘇生した白雪姫に王子は喜び、自分の国に連れ帰って王妃として迎える。
 白雪姫と王子の結婚披露宴の席。王妃は真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊らされる。


 いかがであろうか、この最後のくだりはディズニーよりも残酷ではないか。
晴れのおめでたい結婚披露宴にわざわざ王妃を招待したうえで「真っ赤に焼けた鉄の靴」をはかせて、「死ぬまで踊らされる」。残酷な刑の執行と言わざるを得ない。披露宴のダンスは本来喜びのダンスである。公開処刑のために結婚披露宴を行い、その場所で残酷な刑を行うとすれば、拷問処刑の最高のサディズムではないか。そして死刑の前提となるような、白雪姫の母親に対する憎しみ、復讐の感情も言葉もない。たとえ有ったとしても、素敵な王子様と結婚できた喜びが白雪姫の復讐心を和らげるだろうがそれもない。何もない。さらに王様はどうしていたのか、結婚式に呼ばれていないのか。

 墨野氏は、この点を出版されている童話で調べている。 (http://www.geocities.co.jp/MusicHall/5164/essay/shirayuki.htm 2004年11月28日)
 それによると継母の処刑シーンは、
福武書店 しらゆきひめ:あり、
岩波書店 グリム童話集2:あり、
こぐま社 子どもに語るグリムの童話2:あり、
福音館書店 グリムの昔話2:あり、
童話館出版 グリムの昔話 林の道編:あり、
西村書店 グリム童話集:あり
 で圧倒的に処刑ありで通してます。
講談社 ブルーフのおはなし文庫 しらゆきひめ:なし(継母のその後は不明)
ではあいまい決着、
児童図書館 しらゆきひめ:なし(鏡を破片が心臓に刺さって死亡)、
偕成社 グリムどうわ(2年生):継母はお城に出かけていって、兵隊に捕まりますが「そのあと、お妃がどうなったかは、恐ろしくてお話できません」、
 ディズニーアニメ小説版(偕成社)白雪姫:なし(稲妻に撃たれて崖下に転落して死亡)
で初めて、処刑は回避されたのです。

(3)グリム童話『白雪姫』の変遷とその異常な話の内容

 『白雪姫』は、ドイツのヘッセン州の民話で後に、グリム兄弟の『グリム童話』Kinder und Hausmarchen (KHM) に、KHM 53 として収載された。エーレンベルク稿(1810年手稿)、初版本(1812・15年版)で1857年が最終稿である。
 初版では、白雪姫を殺そうとし、又最後に焼けた靴を履かされて殺されたのは、継母では無く実の母であったとされる。実母だったら、白雪姫の残酷な仕打ちは実母殺しとなる。また母親も同様卑劣な母親となってしまう。殺し方と相まって残酷すぎておとぎ話にはならない。
初版本では実母で
 この妃は、その美しさを鼻にかけた、高慢な人でした。  「鏡よ鏡、国じゅうでいちばん美しい女はだれ?」  と聞いて、鏡が、
 「あなたです、お妃さま、あなたが国じゅうでいちばん美しい」
 と答えるのを聞いて、満足していました。
 ところが、白雪姫が、7歳になり、いつものように、妃が鏡に聞きますと、
 「白雪姫は、あなたより千倍も美しい!」
 と、こたえるではありませんか。


「白雪姫」(第2版以降)では、実母が継母と改められ
 継母が「鏡よ、鏡。この国で一番美しいのはだれ?」と尋ねると、
 鏡は「お妃さま、あなたはここではなるほどいちばん美しい。
 でも、白雪姫は、あなたより千倍も美しい」と答えた

早晩実母から継母に改められて当然である。だが継母だとしても、人を殺す行為(子殺し)だけでなく、「殺した子供の肝臓を塩茹でにして食べる」1812年(カニバリズム/アントロポファ)である。恐ろしい継母だ。実母だったら人間ではないとさえ言える。
 また白雪姫を助けるのは7人の人殺しだったが、二版以降は7人の小人に変わった。
ガラスの棺の白雪姫を王子が城に運んでも、ずっと眠ったままで、王子は四六時中、白雪姫を見つめていた期間があり、彼女が目覚めるまで時間がかかった。
白雪姫がリンゴを吐き出した理由は、作品によっては
 家来が藪に足を取られて倒れ、その拍子に吐き出した
 王子が白雪姫を抱いているとき藪に足を取られて倒れ、その拍子に吐き出した
 家来が白雪姫を運ぶのに疲れ、苛立って白雪姫を蹴りその拍子に吐き出した
などとするものも存在する。
継母の最期は、作品によっては
 毒リンゴを食べさせた後に再び鏡に訊ねたところ白雪姫がまだなお生きていることを知り、怒りの余り発狂し街へ飛び出しそのまま狂い死んでしまう
 白雪姫がまだなお生きていることを知り、癇癪を起こして鏡を叩き割り、その破片が心臓に刺さる
 隣国の王子の妃が最も美しいと聞いて結婚式を見に行き、妃が死んだ筈の白雪姫と知ってショック死
 7人の小人に崖から突き落とされ殺害される
などとするものもある。また、低年齢向けの絵本では継母の最期が描かれないものもある。
 キスして生き返るシーンが有名、継母は7人の小人に追われ、突然の雷に打たれて崖から落ちる。それはディズニーアニメだけの話らしい。
 つまり初版から改定版はグリム兄弟が推敲しキチンと印刷され書籍として残されているにもかかわらず、違う内容のものがあることはどうしてであろう。話の内容によって、読者の側が手を入れてしまうのだろう。
ネット上では
『昔買った本には、白雪姫は父親と性的関係にあって、6歳程度で色っぽい白雪姫に嫉妬した実母が狩人に殺すように依頼。でも狩人に逃がしてもらって小人の家へ。小人全員とセックスする白雪姫。』って感じだったんだけど。と載せているものもある。
名前: メスピペット(ネブラスカ州) 投稿日: 2010/04/16(金) 18:56:33.97 ID:yTyVqMIx 
「死体売っとくれ」ってああた!小人が断ると「じゃあタダでおくれ」と言います。図々しいにもほどがありそうですが、小人はそれで納得してタダであげてしまいます。
白雪姫を殺そうとした妃(継母)に白雪姫の結婚式の招待状が届きます。で、この継母はのこのこと結婚式に出かけていって、そこで世にも残酷な方法で処刑されてしまうのです。
 そう、結婚式の会場で惨殺されるのです。真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされて、死ぬまで飛び跳ねるのです。信じられますか?いかに白雪姫を殺そうとした悪い継母とはいえ、自分の結婚式の会場で焼き殺すとは・・・高砂の白雪姫は、どんな表情でそれを見つめていたのでしょうか?継母とはいえ、自分の母の断末魔の悲鳴をどんな気持ちで聞いたのでしょうか?
最初に見たのは、斉藤尚子さん訳の絵本でした。驚きました。なんと!絵本にもしっかりとこのエンディングが書かれていたのです。さすがに絵はありませんでしたが、妃が倒れて死ぬシーンもちゃんと書かれています。 「嘘だ!こんなハズはない!」次に見たのは「ブルーフのおはなし文庫」の中の「しらゆきひめ」です。これはとても可愛い絵の絵本で、さすがにあのエンディングは書かれていませんでした。

  王子のキッスも童話にしては行き過ぎかも知れないが
福武書店 しらゆきひめ:なし、
講談社 ブルーフのおはなし文庫 しらゆきひめ:なし
児童図書館 しらゆきひめ:なし、
岩波書店 グリム童話集2:なし、
こぐま社 子どもに語るグリムの童話2:なし、
福音館書店 グリムの昔話2:なし、
童話館出版 グリムの昔話 林の道編:なし、
偕成社 グリムどうわ(2年生):なし、
西村書店 グリム童話集:なし
  あるのは、偕成社 ディズニーアニメ小説版 白雪姫:あり、
で1937の白雪姫の映画によるものである。 以上をまとめると 初版での異常とされる特徴
 実母が自分の子を殺そうとする物語   子殺し
 殺した子供の肝臓を塩茹にして食べる  カニバリズム
 死んだ娘に恋をする 死体フェチ、ネクロフィリア(死体愛好家)
 7歳の幼児に恋をする ロリータ
 実母を殺す 親殺し
内容の不一致
 7歳の幼女が結婚する
  →もし王子が城に連れて行き10年ほど過ぎたのならOK、
  だがその間、鏡で確認している母親はどうなっているの?
 縫い物していて針を刺して指から血が滴り落ちて美しい
 お金をだして死体を買う提案→ただで譲ってもらう
 何で真っ赤に焼けた鉄の靴なの →踊れないよ
 継母親は殺人未遂なのにも拘わらず、極刑の死刑にしている。
などである。
白雪姫の物語から、世界一美しいと自己判断するのはきわめて難しいということと、物語は変遷しながら少しずつ違和感や常識から外れる内容は修正されていく。さらに一旦イメージが出来上がると、書かれていることを無視してイメージに合わせて読みこなしてしまうなどの結論が導かれる。この3点を心して光源氏の真髄にせまろう。

(4)光源氏の美貌の自己認識

 現在では、美男子の記録ができる。写真、映画、ビデオなどなどで集められ、繰り返し見比べることが可能である。日本人の美男子は昭和初期は長谷川一夫であったが現在はいかがであろうか。
スターたちのランキングもあろう。恋人にしたいランキングもあろう(この類は女性のお嫁さんにしたいランキングのほうが一般的だが)。美意識は民族・国柄によっても違うはずだが世界ランキングもある。聞くところではエスキモー民族は美人には入れられない日本人のリンゴほっぺの顔を好むという。また、評価する人たちの年代によってもことなる。となると、光源氏の時代では自らを認識できなかったが、認識できる時代になった現代では対象が広くなりすぎてランキングをつけられなくなってしまった。やっぱり鏡の精が絶対者として評価判断を下さない限り順位は決まらない。
 つまり、光源氏を絶世の美男子としているだけである。

1.本文の洗い出し
それでは、源氏物語の本文に光源氏の容姿を述べている内容を全て検討してみよう。本人の自覚・自意識と周囲の賛美に分けられるだろうか?(古典総合研究所語彙検索-源氏物語「新編日本古典文学全集」)

桐壺
@-018-10 世になくきよらなる玉の男御子さへ生まれたまひぬ。
@-018-13 参らせて御覧ずるに、めづらかなる児の御容貌なり。

@-021-04 この皇子のおよすけ
@-021-05 もておはする御容貌心ばへありがたくめづらしきまで見えた
@-021-06 まふを、

@-037-07 月日経て若宮参りたまひぬ。いとどこの世
@-037-08 のものならずきよらにおよすけたまへれば、
@-037-09 いとゆゆしう思したり。
@-039-01 いみじき武士、仇敵なりとも、見てはうち笑まれぬべき
@-039-02 さまのしたまへれば、えさし放ちたまはず。女御子たち二と
@-039-03 ころ、この御腹におはしませど、なずらひたまふべきだにぞ
@-039-04 なかりける。

@-044-09 にたぐひなしと見たてまつりたまひ、名高うおはする宮の御
@-044-10 容貌にも、なほにほはしさはたとへむ方なく、うつくしげな
@-044-11 るを、世の人光る君と聞こゆ。

@-045-08 角髪結ひたまへるつらつき、顔のにほひ、さま変へたまはむ
@-045-09 こと惜しげなり、大蔵卿くら人仕うまつる。いときよらなる
@-045-10 御髪をそぐほど心苦しげなるを、上は、御息所の見ましかば
@-045-11 と思し出づるに、たへがたきを心づよく念じかへさせたまふ。

@-046-04 あさましううつくしげさ添ひたまへり。

@-050-07  光る君といふ名は、高麗人のめできこえてつけたてまつり
@-050-08 けるとぞ言ひ伝へたるとなむ。

帚木
@-091-12 おしなべたらぬ若人どもに、戯れ言などのたまひつつ、暑
@-091-13 さに乱れたまへる御ありさまを、見るかひありと思ひきこえ

@-098-03 (小君)「廂にぞ大殿籠りぬる。
@-098-04 音に聞きつる御ありさまを見たてまつりつる、げにこそめで
@-098-05 たかりけれ」とみそかに言ふ。

@-109-02 ひて、うちとけたる御答へも聞こえず。ほのかなりし御けは
@-109-03 ひありさまは、げになべてにやはと、思ひ出できこえぬには

@-113-03 たはらに臥せたまへり。若くなつかしき御ありさまをうれし
@-113-04 くめでたしと思ひたれば、つれなき人よりはなかなかあはれ
@-113-05 に思さるとぞ。

空蝉
@-139-08 おし拭ひたまへる袖の匂ひも、いとところせきまで薫り満ち
@-139-09 たるに、げによに思へば、おしなべたらぬ人の御宿世ぞかし

夕顔
@-147-12 色々乱れたるを、過ぎがてにやすらひたまへるさま、げにた
@-147-13 ぐひなし。

@-148-15 ほしきにや、この御光を見たてまつるあたりは、ほどほどに
@-149-01 つけて、わがかなしと思ふむすめを仕うまつらせばやと願ひ、
@-149-02 もしは口惜しからずと思ふ姉妹など持たる人は、いやしきに
@-149-03 ても、なほこの御あたりにさぶらはせんと思ひよらぬはなか
@-149-04 りけり。

若紫
@-209-05 しきさまを人や見つらむ」とて簾おろしつ。(僧都)「この世に
@-209-06 ののしりたまふ光る源氏、かかるついでに見たてまつりたま
@-209-07 はんや。世を棄てたる法師の心地にも、いみじう世の愁へ忘
@-209-08 れ、齢のぶる人の御ありさまなり。

紅葉賀
@-312-06 女御、かくめでたきにつけても、ただならず思して、「神な
@-312-07 ど空にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし」とのたまふを、
@-312-08 若き女房などは、心憂しと耳とどめけり。

@-313-09 あなかしこ」とある御返り、目もあやなりし御さま容貌に、
@-313-10 見たまひ忍ばれずやありけむ、

@-314-06 かす。一日の源氏の御夕影ゆゆしう思されて、御誦経など所
@-314-07 どころにせさせたまふを、聞く人もことわりとあはれがりき
@-314-08 こゆるに、春宮の女御は、「あながちなり」と憎みきこえた
@-314-09 まふ。

@-314-15 吹きまよひ、色々に散りかふ木の葉の中より、青海波のかか
@-315-01 やき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。かざしの紅葉い
@-315-02 たう散りすきて、顔のにほひにけおされたる心地すれば、御
@-315-03 前なる菊を折りて左大将さしかへたまふ。日暮れかかるほど

@-315-06 して、今日はまたなき手を尽くしたる入綾のほど、そぞろ寒
@-315-07 くこの世のことともおぼえず。

@-324-08 一院ばかり、さては藤壼の三条宮にぞ参りたまへる。「今日
@-324-09 はまたことにも見えたまふかな。ねびたまふままに、ゆゆし
@-324-10 きまでなりまさりたまふ御ありさまかな」と、人々めできこ


A-025-15 式部卿宮、桟敷にてぞ見たまひける。いとまばゆきまでね
A-026-01 びゆく人の容貌かな、神などは目もこそとめたまへ、とゆゆ
A-026-02 しく思したり。

賢木
A-121-07 車の内にて、藤の御袂にやつれたまへれば、ことに見えたま
A-121-08 はねど、ほのかなる御ありさまを、世になく思ひきこゆべか
A-121-09 めり。

明石
A-234-12 のかに見たてまつるより、老忘れ齢のぶる心地して、笑みさ
A-234-13 かえて、まづ住吉の神をかつがつ拝みたてまつる。月日の光
A-234-14 を手に得たてまつりたる心地して、営み仕うまつることこと
A-234-15 わりなり。

A-238-13 君と言ひあはせて嘆く。正身は、おしなべての人だにめやす
A-238-14 きは見えぬ世界に、世にはかかる人もおはしけりと見たてま
A-238-15 つりしにつけて、身のほど知られて、いとはるかにぞ思ひき
A-239-01 こえける。親たちのかく思ひあつかふを聞くにも、似げなき
A-239-02 ことかなと思ふに、ただなるよりはものあはれなり。

朝顔
A-471-05 なきたまひて、(女五の宮)「いときよらにねびまさりたまひにけ
A-471-06 るかな。童にものしたまへりしを見たてまつりそめし時、世
A-471-07 にかかる光の出でおはしたることと驚かれはべりしを、時々
A-471-08 見たてまつるごとに、ゆゆしくおぼえはべりてなむ。内裏の
A-471-09 上なむいとよく似たてまつらせたまへると人々聞こゆるを、
A-471-10 さりとも劣りたまへらむとこそ推しはかりはべれ」と、なが
A-471-11 ながと聞こえたまへば、ことにかくさし向かひて人のほめぬ
A-471-12 わざかなと、をかし
A-471-13 く思す。

A-490-06 雪のいたう降り積もりたる上に、今も散り
A-490-07 つつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕
A-490-08 暮に、人の御容貌も光りまさりて見ゆ。

少女
B-071-04 帝は赤色の御衣奉れり。召しありて太政大臣参りたまふ。同
B-071-05 じ赤色を着たまへれば、いよいよ一つものとかかやきて見え
B-071-06 まがはせたまふ。

玉鬘
B-129-02 昔、光る源氏などいふ名は聞きわたりたて
B-129-03 まつりしかど、年ごろのうひうひしさに、
B-129-04 さしも思ひきこえざりけるを、ほのかなる大殿油に、御几帳
B-129-05 の綻びよりはつかに見たてまつる、いとど恐ろしくさへぞお
B-129-06 ぼゆるや。

B-130-03 てすこし寄す。(源氏)「面なの人や」とすこし笑ひたまふ。げ
B-130-04 にとおぼゆる御まみの恥づかしげさなり。

初音
B-152-08 かしうめでたく聞こゆ。何ごとも、さしいらへしたまふ御光
B-152-09 にはやされて、色をも音をもますけぢめ、ことになん分かれ
B-152-10 ける。

野分
B-266-07 て、見たてまつりたまふ。親ともおぼえず、若くきよげにな
B-266-08 まめきて、いみじき御容貌の盛りなり。

行幸
B-291-09 らにたぐひなうおはしますなりけり。源氏の大臣の御顔ざま
B-291-10 は、別物とも見えたまはぬを、思ひなしのいますこしいつか
B-291-11 しう、かたじけなくめでたきなり。さは、かかるたぐひはお
B-291-12 はしがたかりけり。

真木柱
B-364-15 つかしきほどに萎えたる御装束に、容貌も、かの並びなき御
B-365-01 光にこそ圧さるれど、いとあざやかに男々しきさまして、た
B-365-02 だ人と見えず、心恥づかしげなり。

藤裏葉
B-436-14 方は、父大臣にもまさりざまにこそあめれ。かれはただいと
B-436-15 切になまめかしう愛敬づきて、見るに笑ましく、世の中忘る
B-437-01 る心地ぞしたまふ、公ざまは、すこしたはれて、あざれたる
B-437-02 方なりし、ことわりぞかし。

B-444-02 すき御あはひと思さる。御子とも見えず、すこしが兄ばかり
B-444-03 と見えたまふ。別々にては、同じ顔を移しとりたると見ゆる
B-444-04 を、御前にては、さまざま、あなめでたと見えたまへり。大
B-444-05 臣は、薄き御直衣、白き御衣の唐めきたるが、紋けざやかに
B-444-06 艶々と透きたるを奉りて、なほ尽きせずあてになまめかしう
B-444-07 おはします。宰相殿は、すこし色深き御直衣に、丁子染の焦
B-444-08 がるるまで染める、白き綾のなつかしきを着たまへる、こと
B-444-09 さらめきて艶に見ゆ。

若菜下
C-221-09 つを、よろづに言ひこしらへて、(柏木)「まことは、さばかり
C-221-10 世になき御ありさまを見たてまつり馴れたまへる御心に、数
C-221-11 にもあらずあやしきなれ姿を、うちとけて御覧ぜられむとは、
C-221-12 さらに思ひかけぬことなり。

柏木
C-340-01 ちものものしうそぞろかにぞ見えたまひける。(女房)「かの大
C-340-02 殿は、よろづのことなつかしうなまめき、あてに愛敬づきた
C-340-03 まへることの並びなきなり。これは男々しうはなやかに、あ
C-340-04 なきよらとふと見えたまふにほひぞ、人に似ぬや」とうちさ
C-340-05 さめきて、「同じうは、かやうにても出で入りたまはましか
C-340-06 ば」など、人々言ふめり。

夕霧(夕霧の美貌)
C-471-14 さまもしたまはず、鬼神も罪ゆるしつべく、あざやかにもの
C-471-15 清げに若う盛りににほひを散らしたまへり、もの思ひ知らぬ
C-472-01 若人のほどに、はた、
C-472-02 おはせず、かたほな
C-472-03 るところなうねびと
C-472-04 とのほりたまへることわりぞかし、女にて、などかめでざら
C-472-05 む、鏡を見ても、などかおごらざらむ、とわが御子ながらも
C-472-06 思す。


C-550-01 その日ぞ出でゐたまへる。御容貌、昔の御光にもまた多く
C-550-02 添ひて、ありがたくめでたく見えたまふを、この古りぬる齢
C-550-03 の僧は、あいなう涙もとどめざりけり。

紫式部は夫宣孝を亡くしたとき
「かずならぬ心に身をばまかせねど身にしたがふは心なりけり」
と詠んでいるから、もっと光源氏の内面に迫っていいはずである。しかし
ながら光源氏の内面描写は少ない。
他者から見た描写が殆どで、光源氏が自覚しているとは言い難い。それに対する自分の感想なども述べられていない。つまり自分の美しさがわからない、それなのに自分から見れば過剰とも言える賛辞なのであるから当然疑念が湧いてくる。そしてライバルの頭中将を見ると美しく見える。自分を鏡で見ると、自然に振舞っている容姿ではなく注視している部分であり、彼を見れば見るほど疑念は深まる。


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