| 巻名 節 | 源典侍 物語 |
桐壷帝との関連 | 年 齢 | 位 | 執筆 順序 |
|---|---|---|---|---|---|
| 桐 壷〔一三〕 | 上に侍ふ ↓ |
三代の宮仕に伝はりぬるに | ないしのすけ 典侍 |
1 | |
| 紅葉賀〔一三〕 〜 〔一六〕 |
A | ↓→→→→→→→→→→→ ↓上の御梳櫛に侍ひける ↓ |
→年いたう老いたる |
典侍 内侍 |
4 |
| 葵 〔一五〕 | B | ↓ | 内侍のすけ | 5 | |
| 葵 〔四〇〕 | C | ↓ないたう軽め給ひそ ↓→→→→→→→→→→→ |
→祖母殿の上 |
内侍 |
6 |
| 賢 木〔一八〕 | ↓(桐壷帝崩御) やがて尼になり給へる ↓ |
ないしのかみ 尚 侍 |
2? | ||
| 朝 顔〔一一〕 | D | ↓ 祖母殿と笑はせ給ひし 尼になりて |
今しも来たる老のやうに | 源内侍 のすけ |
3 |
祖母おとどの原型を「院のうへ(桐壷帝)は、祖母おとどと笑はせ給ひし」(物語D)と書かれているからといって、桐壷帝から考えて、祖母にあたる人(又はそれと同等の愛着を持つ人)とするのは早計である。桐壷帝が愛称を使った時既に東宮及び源氏がおり、しかも桐壷帝に孫はいなかったので、祖母と呼ぶ場合は、桐壷帝から考えて母又は父帝の時代の人という意味と考えるべきである。しかも、実母でもないのに祖母の愛称で呼ばれているのであるから、桐壷帝に親しく仕えてもいたという二面性をも有する。
この様な内侍は、桐壷の巻〔十三〕にある「上にさぶらふ内侍のすけ」が、まさにあてはまるのである。一院、先帝、桐壷帝にと「三代の宮づかへ」をしており、一院は桐壷帝の父であるから、この内侍は桐壷帝が祖母おとどと呼ぶにふさわしい年齢であろうし、藤壷のことを奏上する如く桐壷帝に親しさをも感じさせる人物である。源氏にとっても、このときすでに母(御息所)及び実祖母は亡く、この内侍が母代り、祖母代りを勤めたとも推測され、源氏に、藤壷と母御息所と、「いとよう似給へり」桐壷〔十四〕と告げる役すら担う人物である。「上にさぶらふ内侍のすけ」は源氏にとっても、桐壷帝にとっても、祖母おとどと呼ぶのにふさわしい人物である。「なのりいづるにぞ、おぼしいづる」朝顔〔十一〕という言葉でもわかる様にその頃の源氏の年齢(七〜十二歳)から考えて、この内侍の記憶は年齢とともに希薄となったとしても想起されると考えられ、実生活でやや疎遠な間柄となっていても、名前も、そういえば、「源内侍のすけといひし人」と思い出す程なのである。三代に仕へ、充分年をとっていたうえに、その頃より二十年近い歳月がたっているにもかかわらず「いましも来たる老いのやうに」言うからこそほほえまれるのである。この三代に宮仕へした内侍こそ祖母おとどの原型と考えられるのである。
「院の御思ひに、やがて尼になり給へる」内侍のかみ(賢木〔十八〕)とは内侍のすけと官位が異なり、又源氏がこの時既に二十四歳になっていると考えられ、祖母おとどと会った時は三十二歳であることから、尼になっていることも、源内侍であることも充分に記憶されていると考えられるので、同一人物とはしがたい。しかしながら、桐壷帝の「内侍のすけ」を物語執筆継続中に紫式部が「内侍のかみ」と混同し、桐壷帝崩御時には、尼にさせてしまう。そして物語Dを書くに及んでは再び、「内侍のすけ」に戻るとともに、尼であるということが、付け加わったまま残ったと考えれば、尚より一層、源典侍物語の構想の変遷も納得されるのであるが、結論は保留したい。(表3)
更に、「女御・更衣あまたさぶらふ」(桐壷〔一〕)の女御・更衣という語も、「このさかりにいどみ給ひし女御・更衣」(物語D)と使われ第一部中に、他の一ヶ所を加え、三ヶ所にしかないことも、上にさぶらふ内侍のすけが祖母おとどの原型とする考え方を補強する証左である。このことは、物語D作成時には、桐壷の巻が、存在していたと推定せられ、「乙女前後までいった時、再び戻って桐壷を書いた」とする青柳説は、そのままでは採りがたいのである。又武田氏の如く、源氏物語の起筆が桐壷の巻であり、原型源氏物語で現在の巻順であるとするのも安易すぎると考えたい。
紫式部が何故、物語Dを書く時桐壷の巻を参照したのか、桐壷の巻と朝顔の巻との密着性を考えると、このあたりの巻前後で、桐壷に戻ったとする青柳説も一理あるのである。筆者の説は、起筆は現在の桐壷の巻の一部分「輝く日の宮」であり、朝顔・乙女前後までいった時、再び戻って桐壷の巻の他部分「壷前栽」を加筆した。現在の桐壷の巻は、執筆時期の異なる二つの部分から形成されており、青柳、武田両氏の説はある意味で正しく、ある意味では、誤りなのである。詳論は、別稿で論ずる積もりである。
| 末 摘 花(睦れ) | 源 典 侍(挑み) | |||
|---|---|---|---|---|
| 情事の意志と 行為 |
源 氏 相 手 |
意志(少し有) 行為(無) 意志(無) 行為(無) |
意志(有) 行為(有?) 意志(多有) 行為(有?) |
|
| 三人の居場所 と行動 |
源 氏 相 手 頭中将 |
命婦の局 →→→↓ 寝 殿 →同乗帰宅 寝殿の透垣→→→↑ |
局→→↓ 局 →局にて添い寝→騒動 局近く→→→→→→→↑ |
|
| 源 氏 と 頭 中 将 と の 関 係 |
発覚前 | 源 氏 頭中将 |
ただならで、……あとにつきて 暴露の意図(無) |
見つけられむことははづかしければ いかで見あらはさむ 懲りぬやといはむ 暴露の意図(有) |
| 発覚時 | 源 氏 頭中将 |
ねたしと思せど 心も得ず思ひける |
いと口惜しく 見つけたる心地、いとうれし |
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| 発覚後 | 源 氏 頭中将 |
すこしをかしうなりぬ かう慕ひありかば 一つ車に乗りて |
この帝をえざらましかば、と思す などてかさしもあらむ 物隠しは懲りぬらむかし さるべき折のおどしぐさにせむ |
末摘花の場合、頭中将に露見したのはただ源氏が末摘花邸にしのび居たということであって、源氏すら末摘花の琴の音をそば耳たてているだけで、「物やいひ寄らましと思せど、うちつけにや思さむと心はづかしくてやすらひ給ふ。」のである。「かうのみ見つけらるるをねたしと思せど、かの撫子は、え尋ね知らぬを」とは、かの撫子との対比から、肉体関係を持たなかったこの様な(かうのみ)ありさまを見つけられただけだったので、しのび行ったことだけを見つけられたのは「ねたし」だけれども、肉体関係のあるかの撫子、またはゆくえ不明のその娘のことを知られていないのは、頭中将との関係でも、もっけの幸いである。と源氏は思ったのである。
頭中将としても「うちよりもろともに罷で給ひける、・・・・引き別れ給ひけるを、何方ならむとただならで、われも行く方あれど、あとにつきてうかがひけり。」であって、どこに行くのかと普段と違うので好奇心も手伝って頭中将としては行く先はあったのであるが、そっとあとをつけただけで、源氏の情事を執拗に詮索しているわけではない。そして「振り棄てさせ給へるつらさに・・・かう、慕ひありかば・・・」であって、決して源氏にいどみ合ってはいない。源氏の方でも頭の中将のその「つらさ」を言われても、「ねたけれど」であって、そんな頭の中将を見ていると、「すこしをかしうなりぬ。」である。つまり、源氏の方にも、融合する気持ちはあっても、挑み合いする気持ちは少しもみえない。跡をつけるとは「人のおもひよらぬことよ」と憎むのも本当の憎悪の感情ではないことも素直に読めば、理解されるのである。そのあとも、頭の中将と「ひとつ車に乗りて・・・笛吹き合はせて大殿に」仲良く帰ってゆくのである。
それに反し、源典侍との場面ではその初めから、頭中将は、「この君の、いたうまめだち過ぐして、常にもどき給ふが妬きを、つれなくて、うちうち忍び給ふ方々多かめるを、いかで見あらはさんとのみ思ひわたるに、」と、情事の暴露について意図的であり「これを見つけたる心地いとうれし。」と、やっと念願がかなったことを述べている。「少しおどし聞えて・・・懲りぬやと言」ってやろうという作意すらある。「やをら入り」来て、太刀まわりのあと、源氏は、「いと口惜しく、見つけられぬること」と思いつつ臥すのであって、翌朝のやりとりも、頭中将から送られて来た、その夜の証拠品も「いかで取りつらむと心やまし」くであって源典侍から誤って返された「この帯を得ざらましかば、と」、頭中将との「挑み合い」が如実に表わされている。
そのことは源典侍物語の最後の節で、「やむごとなき御腹々の親王たちだに、上の御もてなしのこよなきに、わづらはしがりて、いとことにさり聞え給へるを、この中将は、さらにおし消たれ聞えじ、と、はかなき事につけても、思ひ挑み聞え給ふ。この君一人ぞ、姫君の、御一腹なりける。帝の御子といふばかりにこそあれ、われも同じ大臣と聞ゆれど、御おぼえ殊なるが、皇女腹にてまたなくかしづかれたるは、何ばかり劣るべき際と覚え給はぬなるべし。人がらもあるべき限り整ひて、何事もあらまほしく、足らひてぞものし給ひける。この御中どものいどみこそあやしかりしか。されどうるさくてなむ。」と紫式部はまとめあげているのである。(表4)
以上、総括すると末摘花では、肉体関係が発生・発覚せず、源氏に対し頭の中将は、睦れの関係であり、源典侍では、肉体関係が発覚し、源氏に対し、頭の中将は、挑みの関係となっている。
この事は、物語Aと帚木の巻との制作次元を考える際、やはり注意する必要がある。「宮腹の中将は、中に親しく(源氏に)馴れ聞え給ひて、遊戯をも、人よりは心安く、なれなれしくふるまひたり。」も「夜昼、学問をも、遊びをも(源氏と)もろともにして、をさをさ立ち後れず、何処にてもまつはれ聞え給ふ程に、自ら、かしこまりもえおかず、心の中に思ふ事をも隠しあへずなむ、睦れ聞え給ひける。」(帚木〔四〕)も、末摘花で示されている源氏と頭の中将との関係と等しく、睦れの関係であって物語Aで示された挑みの関係ではない。頭の中将は、従来指摘されている如く、源氏の容姿、風貌、才能のすばらしさを強調するための端役、引立てるための小道具役から、主要人物として、その筋や構成に対して積極的に働きかける位置をとる人物へと、格上げされるのであるが、主要人物として描かれる場合も、源氏との関係ですぐには対等とはならず、一旦睦れの関係に移行し、さらに挑みの関係ー対等自立へと変化していったと考えられるのである。
とすれば、帚木〔四〕と物語A(紅葉賀〔十六〕)との、頭の中将紹介は、重複するものとは考えられず、帚木〔四〕以前に物語Aが書かれたとする根拠はなく、頭の中将の役割変化からすれば、帚木〔四〕は、端役から睦れの関係への変化であり、紅葉賀〔十六〕は、睦れの関係から挑みの関係への変化を意図したものであり、両者はあいまって、端役→睦れ→挑みへの変化を十全に説明するものである。帚木〔四〕の紹介よりも物語Aでの紹介が詳細となるのも、以前の役割を取り除き、かつ、新たな役割賦与のためそれだけ叙述が多くなるためである。
以上の如くで、源典侍挿話(物語A)は、帚木、夕顔、末摘花の系列には属さず、この制作次元は単なる「隠ろへごと」としてとらえる説とは異なり、帚木の巻以後さらに末摘花の巻以後に書かれたとせざるを得ない。