I 序

 源典侍物語は、源氏物語の第一部内にとどまっており、紅葉賀の巻(〔十三〕〔十四〕〔十五〕〔十六〕:物語Aと称しておく。)、葵の巻(〔十五〕:物語Bと称しておく。〔四十〕:物語Cと称しておく。)、朝顔の巻(〔十一〕:物語Dと称しておく。)の三巻で語られる。
 この内、物語Cは末摘花を思わす叙述があり、これが葵の巻に存在するが故に、後期挿入説をおびやかす意味をもつ。すなわち、青柳説(1) では、葵の巻は若紫グループに属し、末摘花の巻は帚木グループに属す。それ故物語Cは若紫グループの中に帚木グループの内容が混入している個所となり、これのみで青柳氏の仮説は崩れるからである。青柳氏自身も、この点について処理しがたいと述べており、「ひるがえって思うに、一体この源典侍という老女が出て来ると、いつも前後の調子が崩れて来る」と述べ、「後人が手を入れた所なのではないか」と推論している。武田説(2) でも、葵の巻は紫の上系に属し、末摘花の巻が玉鬘系に属するとかわるだけで、崩れるのは青柳説と同様である。それ故、「これは本来あったものとしては、合理的に理解できない所であり、後のさかしらな挿入と見る方が自然である。」とさえ述べている。
 これは一体どうしたことだろうか。両氏とも、この物語に内在する矛盾や不整合を説明する為の複数作家説に反対して、式部の精神発展を考慮した同一人物による後期挿入説を提唱したのではなかったか。その両氏が物語Cに於ては、自ら批判した複数作家説に戻ってしまうのはあまりにも安易ではなかろうか。「この帖のこの文は、成立の仮説に都合が悪いから後の追加と見るということは許されない」玉上氏(3) のこの説に筆者も賛成である。本当に紫式部自身が書いたとは考えられないだろうか。源氏物語が紫式部の作とされているのであるから、原則的には物語Cを含む源典侍物語も、やはりまず紫式部の作であるという立場に立って詳細に検討するべきで、もう一度、両氏とは違った角度から、物語Cを検討しなおす必要があると考えられる。
 又、源典侍は実在したとされている(4) 。源内侍とも源典侍とも呼ばれ、紫式部の亡夫宣孝の兄説孝の妻明子である。典侍源明子は寛弘四年五月に辞表を出している。しかしこの時は慰留され、なほ暫くその職に留まっていたようである。ただ彼女に代わったのが同じく源氏の『源典侍』であるため、いつ辞職したかは究明できない。この頃紫式部は源氏物語を執筆していたし(寛弘五年 紫式部日記)公任の「このわたりに若紫やさぶらふ」のやりとりのごとく、宮中に広まっていたことは疑い得ない。とすると、源典侍は実在の源典侍にいかなる影響を与えたであろうか、また作者である紫式部は、いかなる意図をもってこの作品を作ったのであろうか。推論を試みたい。
 本論は、各帖に分散している源典侍に関する話の全体を源典侍物語として捉え、検討する主旨を述べ、IIで通常行われている解釈を記し、III で物語の内容を原文に即して検討を行い、
1.源典侍の名称が、年いたう老いたる内侍→かの内侍→かの内侍=祖母殿の上→祖母おとど=源内侍のすけ、と各巻で違いが生じているので、葵〔四十〕が後人の挿入とすると源典侍の同一性は存在し得ず、源典侍の構成が成り立たないので、すべて紫式部の作と結論した。
2.各源典侍の前後に於ける接続関係では、紅葉賀、葵の部分で前後の矛盾や繰り返しがあり、挿入が疑われ、却って朝顔の巻で、前後の断絶がない。
3.紅葉賀で肉体関係を結んだにもかかわらず、朝顔の巻では肉体関係や好色茶番劇の記憶すらない点で、朝顔の巻が他の巻に対して独立であることを示し、執筆順序考察の基礎固めを行った。
 IVで、源典侍物語執筆の順序・時期の考察を行ない、
1.源典侍物語全体の執筆順序を示すとともに、祖母おとどに肉体関係を賦与するタブー侵犯、源典侍という固有名詞が最後に述べられる不自然さについて説明した。
2.祖母という肉親関係の愛称から考えて、祖母おとどの原型を桐壷の巻〔十三〕の、「上にさぶらふ内侍のすけ」に求め、紫式部の採った物語拡大の手法を明らかにした。
3.「隠ろへごと」論との相違を述べ、頭中将像が源氏との関係で、端役→睦れ→挑みへと段階的に発展してゆくことを明らかにし、源典侍物語後期挿入部分を、従来の説に反し帚木、末摘花よりも後に書いたとした。
4.葵の巻の巻名の由来を考察し、源典侍の和歌中で「あふひ」を使用したのは、後期挿入の不自然さを解消する技法であることを示した。
5.三代に仕えた内侍(桐壷)から、尼になった祖母殿(朝顔)へと発展させ、更に好色茶番劇を行わせ(紅葉賀)、最後に祖母殿=源内侍(葵)とした紫式部の意図は一体何だったのかを、幼少時から宮仕え後の式部の置かれた状況を分析することによって明らかにした。