1   序

 女主人公「空蝉」は、雨夜の品定めの帚木、空蝉の巻に主に登場する。つまり桐壷帚木、空蝉と続く現行巻順の第二、三巻に集約される物語である。藤壷との密会は、本文には書かれていないので、「空蝉」は源氏の好色人としての事実上初めての相手である。桐壷の巻では、親同士が決めた葵の上との結婚、藤壷への思慕の情が語られるだけで、好色人としての実際の濡場などまったくない。それが、帚木の巻で空蝉という人妻に会って初めて強引な性関係が描写される。源氏の恋の遍歴の第一歩が人妻であったこと、しかもその性関係には、母性愛も、マザーコンプレックスもその契機となっていないこと、二人の間で何の消息もかわすことなく、面識もないまま契ったこと、などに連続物語としては、筋の展開の不自然さを感じるのである。
 その点、現行の巻順に執筆されたのでないとする後期挿入説では説明しやすい。例えば、青柳説では、若紫、藤壷、朧月夜、六条御息所、麗景殿女御の妹三の君などと契ったあとであり、武田説では、もっとあとで空蝉との契りが行われるから、源氏の女性経験としては、人妻を相手にしたとしても納得のできるものとなる。しかしこれ等の後期挿入説で、空蝉に関する不自然さがすべてにわたり解消するわけではない。源氏が人妻を盗寝するまでの好色人としての実績が備わったと考えてもよいと許容するだけである。つまり源氏の側から言えば、それだけの行動をとってもまあおかしくないということである。
 空蝉の側から言えば、どうであろうか。源氏と契ったのち、夫である伊予の介の夢にまで出て来るのではないか、と恐れるのであるから、当時としても夫婦間の一定の行動規範はあったものと考えられる。決して自由な性関係が、許されていた訳ではない。物語中でも、軒端の荻の所に蔵人の少将が通うようになると、消息をきっかけにして、過去の契りが蔵人の少将に知られてしまうことを源氏自身罪として捉えているのであるから、これ等の規範は、現在とあまり異なってはいない。すなわち、現在の言葉での未婚の間の契りは、恐ろしいことや、罪にはあたらないかも知れないが、しかし、一定の決まった相手を通わせたり、人妻となった場合には、それ以外の男性との情交は許容されなかったのではないか。
 帚木[八]の雨夜の品定めのなかで、左馬頭が、
「大方の世につけて見るにはとがなきも、わが物とうち頼むべきを選らむに、多かる中にも、えなむ思ひ定むまじかりける」
 男女の仲でみるととがのない女でも、自分の物(妻)として信頼のおける女を選ぼうとすると、女が多いといっても、どうもよう決定する気になれまいと思うのであるよ。と話しており、単なる男女間と人妻とする場合の差を述べており、また「狭き家のうちの主とすべき、人一人を思ひめぐらすにも・・・」と、妻をうちの主として捉え決定する難しさを述べている。
 とすれば、やはり空蝉のとった行動を妻という立場から詳細に吟味する必要があることとなる。
 更に、現行の解釈では、空蝉は、伊予の介の後妻であり、その継娘が軒端の荻であるから、空蝉のとった継娘に対する態度からも考えてみる必要がある。
 空蝉は、紀伊守邸に逗留している時、方違へに立ち寄った源氏に肉体関係を強いられてしまう。伊予の介の後妻ということもあって源氏のその後の誘いには乗らなかった。しかし、紀伊守が任国に下向した際、母屋で碁を打った後に、継娘と同室に寝ていて、源氏の忍んで来る気配に気付き、小袿を脱ぎ残して身を隠してしまう。結果的に残された軒端の荻が源氏の夜這いの相手をさせられてしまう。この結末が幸せなものとなっていくのであろうか?それなら空蝉のとった行動は母親として娘の幸せを考えての行動とみなされるから問題はないのだが、幸せにはなってゆかないとすれば、母屋から逃げる形で、源氏と軒端の荻を結びつけてしまった空蝉の行為は問題である。何故なら、曲りなりにも、空蝉と軒端の荻は、母娘関係にあるからである。母親が娘に男を通わす時、娘に悪意を持つような例外を除き娘がそのことにより幸せになることを望んで行うであろうし、又望んだとしても期待に反することが多いが故に性関係を持たせることに一層慎重とならざるを得ない。男女双方が見もしらぬ場合は、突発的に行われる性関係などいましめるのが本筋であって、だますような形で、自分に降りかかった危険を娘の方へ押し付けることなど論外である。
 勿論、時代とか社会の変化に伴って人間心理も変化してゆくだろうから、現在の常識では考えられない部分も生じるであろう。性に対する態度なり慣習も西欧の倫理観が導入される前と後ではかなり違っては来ている。しかし、だからといって空蝉のとった行動が自然であり、人間心理として普遍性を有するとはいえないであろう。人間心理の真髄をより明らかにし、人間理解をより深化させる文筆力を持っていた紫式部が、どうして空蝉にこのような行動をとらせたのであろうか。空蝉にまつわる数々の不自然さは一体どこから生じたのであろうか。本論では、軒端の荻と源氏との結末から考え、これ等の点を解明してゆくつもりである。さらに、源典侍論で明らかにした如く、挿入が巻単位で行われたのではなく、細分化された節単位でも行われたことを明確にし、空蝉物語の執筆順序を決めて行く。
 日本古典全書本の分類に準拠し著者の細分も含めた目次を次に示す。

日本古典全書 空蝉関係の巻目次

帚木

一六、 源氏左大臣邸に赴く
一七前、源氏中川なる紀伊守の宅に方違をなす
一七後、紀伊守仰言承りて「伊予の守の朝臣の家につつしむ事侍りて、・・」と歎く
一八、 紀伊守、源氏を歓待す、女房等源氏の噂をなす
一九前、源氏、空蝉姉弟の身の上を聞く
一九後、「伊予の介は、かしづくや」と源氏、紀伊守に問う
二0、 空蝉隣室に臥し、小君と語る
二一、 源氏、空蝉に忍び一夜を語らふ
二二、 源氏、空蝉と和歌を贈答して別る
二三、 源氏左大臣邸に帰り、紀伊守を召し小君を所望す
二四前、源氏小君を語らひ、空蝉に消息す
二四中、紀伊守すき心に、この継母の有様を惜しきものに思ふ
二四後、空蝉うちとけたる御答も聞えず。
二五、 源氏再び中川の家を訪れ、空蝉に逢はんとして果たさず

空蝉

一、 源氏失望して中川より帰る
二、 源氏三度中川の家に到り、空蝉と軒端の荻とを垣間見る
三前、 源氏碁打ちの後、小君をせきたてる
三中、 源氏「紀伊守の妹もこなたにあるか」と問ふ
三後、 源氏空蝉に忍ぶ、空蝉小袿をぬぎて遁る
四、 源氏人違して軒端の荻と契る
五、 源氏暁の暗にまぎれて二条院に帰る
六、 源氏小君に托して空蝉に文をやる、空蝉煩悶す

夕顔

二八 空蝉、夫の任国に下らんとし、源氏と和歌の贈答をなす
二九 源氏軒端の荻に消息す
三二 空蝉伊予に下る、源氏小袿をかへし様々のものをおくる

関屋

一、 空蝉夫に伴はれて帰京す
二、 源氏石山詣で、常陸介の一行にあふ
三、 右衛門佐を通じて空蝉と消息
四、 常陸介死、河内守の懸想

玉鬘

四一、 歳暮、装束を新調して女達に贈る

初音

一二、 空蝉の尼君を訪ひて語る