49巻  やどり木




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そのころ、藤壼と聞こゆるは、故左大臣殿
の女御になむおはしける、まだ春宮と聞こ
えさせし時、人よりさきに参りたまひにし
かば、睦ましくあはれなる方の御思ひはことにものしたまふ
めれど、そのしるしと見ゆるふしもなくて年経たまふに、中
宮には、宮たちさへあまたここらおとなびたまふめるに、さ
やうのことも少なくて、ただ女宮一ところをぞ持ちたてまつ
りたまへりける。わがいと口惜しく人に圧されたてまつりぬ
る宿世嘆かしくおぼゆるかはりに、この宮をだにいかで行く
末の心も慰むばかりにて見たてまつらむと、かしづききこえ
たまふことおろかならず。御容貌もいとをかしくおはすれば、
帝もらうたきものに思ひきこえさせたまへり。女一の宮を、

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世にたぐひなきものにかしづききこえさせたまふに、おほか
たの世のおぼえこそ及ぶべうもあらね、内々の御ありさまは
をさをさ劣らず、父大臣の御勢ひいかめしかりしなごりいた
く衰へねば、ことに心もとなきことなどなくて、さぶらふ
人々のなり、姿よりはじめ、たゆみなく、時々につけつつ、
ととのへ好み、いまめかしくゆゑゆゑしきさまにもてなした
まへり。
十四になりたまふ年、御裳着せたてまつり
たまはんとて、春よりうちはじめて、他事
なく思しいそぎて、何ごともなべてならぬ
さまにと思しまうく。いにしへより伝はりたりける宝物ども、
このをりにこそはと探し出でつつ、いみじく営みたまふに、
女御、夏ごろ、物の怪にわづらひたまひて、いとはかなく亡
せたまひぬ。言ふかひなく口惜しきことを内裏にも思し嘆く。
心ばへ情々しく、なつかしきところおはしつる御方なれば、

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殿上人どもも、「こよなくさうざうしかるべきわざかな」と
惜しみきこゆ。おほかたさるまじき際の女官などまで、しの
びきこえぬはなし。
 宮は、まして、若き御心地に心細く悲しく思し入りたるを、
聞こしめして、心苦しくあはれに思しめさるれば、御四十九
日過ぐるままに忍びて参らせたてまつらせたまへり。日々に
渡らせたまひつつ見たてまつらせたまふ。黒き御衣にやつれ
ておはかるさま、いとどらうたげにあてなる気色まさりたま
へり。心ざまもいとよくおとなびたまひて、母女御よりもい
ますこしづしやかに重りかなるところはまさりたまへるを、
うしろやすくは見たてまつらせたまへど、まことには、御母
方とても、後見と頼ませたまふべき伯父などやうのはかばか
しき人もなし。わづかに大蔵卿、修理大夫などいふは、女御
にも異腹なりける。ことに世のおぼえ重りかにもあらず、や
むごとなからぬ人々を頼もし人にておはせんに、女は心苦し

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きこと多かりぬべきこそいとほしけれなど、御心ひとつなる
やうに思しあつかふも安からざりけり。
御前の菊うつろひはてで盛りなるころ、空
のけしきのあはれにうちしぐるるにも、ま
づこの御方に渡らせたまひて、昔のことな
ど聞こえさせたまふに、御答へなども、おほどかなるものか
らいはけなからずうち聞こえさせたまふを、うつくしく思ひ
きこえさせたまふ。かやうなる御さまを見知りぬべからん人
のもてはやしきこえんも、などかはあらん、朱雀院の姫宮を
六条院に譲りきこえたまひしをりの定めどもなど思しめし出
づるに、しばしは、いでや飽かずもあるかな、さらでもおは
しなましと聞こゆることどもありしかど、源中納言の人より
ことなるありさまにてかくよろづを後見たてまつるにこそ、
その昔の御おぼえ衰へず、やんごとなきさまにてはながらへ
たまふめれ、さらずは、御心より外なることどもも出で釆て、

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おのづから人に軽められたまふこともやあらまし、など思し
つづけて、ともかくも御覧ずる世にや思ひ定めましと思しよ
るには、やがてそのついでのままに、この中納言より外に、
よろしかるべき人、また、なかりけり。宮たちの御かたはら
にさし並べたらんに、何ごとも目ざましくはあらじを、もと
より思ふ人持たりて、聞きにくきことうちまずまじく、はた、
あめるを、つひにはさやうのことなくてしもえあらじ、さら
ぬさきに、さもやほのめかしてまし、など、をりをり思しめ
しけり。
 御碁など打たせたまふ。暮れゆくままに、時雨をかしきほ
どにて、花の色もタ映えしたるを御覧じて、人召して、(帝)
「ただ今、殿上には誰々か」と間はせたまふに、「中務の親王、
上野の親王、中納言源朝臣さぶらふ」と奏す。(帝)「中納言
の朝臣こなたへ」と仰せ言ありて参りたまへり。げに、かく
とりわきて召し出づるもかひありて、遠くよりかをれる匂ひ

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よりはじめ人に異なるさましたま
へり。(帝)「今日の時雨、常よりこ
とにのどかなるを、遊びなどすさ
まじき方にて、いとつれづれなる
を、いたづらに日を送る戯れにて、
これなんよかるべき」とて、碁盤
召し出でて、御碁の敵に召し寄す。
いつもかやうに、け近くならしまつはしたまふにならひにた
れば、さにこそはと思ふに、(帝)「よき賭物はありぬべけれど、
軽々しくはえ渡すまじきを、何をかは」などのたまはする御
気色、いかが見ゆらん、いとど心づかひしてさぶらひたまふ。
 さて打たせたまふに、三番に数一つ負けさせたまひぬ。(帝)
「ねたきわざかな」とて、(帝)「まづ、今日は、この花一枝ゆ
るす」とのたまはすれば、御答へ聞こえさせで、下りておも
しろき枝を折りて参りたまへり。

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(薫)世のつねの垣根ににほふ花ならば心のままに折りて
  見ましを
と奏したまへる、用意あさからず見ゆ。
(帝)霜にあへず枯れにし園の菊なれどのこりの色はあせ
  ずもあるかな
とのたまはす。
 かやうに、をりをりほのめかさせたまふ御気色を人づてな
らず、うけたまはりながら、例の心の癖なれば、急がしくし
もおぼえず。いでや、本意にもあらず、さまざまにいとほし
き人々の御事どもをも、よく聞き過ぐしつつ年経ぬるを、今
さらに聖よのものの、世に還り出でん心地すべきこと、と思
ふも、かつはあやしや、ことさらに心を尽くす人だにこそあ
なれとは思ひながら、后腹におはせばしもとおばゆる心の中
ぞ、あまりおほけなかりける。

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かかることを、右大殿ほの聞きたまひて、
六の君はさりともこの君にこそは、しぶし
ぶなりとも、まめやかに恨み寄らばつひに
は、え否びはてじ、と思しつるを、思ひの外のこと出で来ぬ
べかなりとねたく思されければ、兵部卿宮、はた、わざとに
はあらねど、をりをりにつけつつをかしきさまに聞こえたま
ふことなど絶えざりければ、さばれ、なほざりのすきにはあ
りとも、さるべきにて御心とまるやうもなどかなからん、水
漏るまじく思ひ定めんとても、なほなほしき際に下らん、は
た、いと人わろく飽かぬ心地すべし、など思しなりにたり。
(夕霧)「女子うしろめたげなる世の末にて、帝だに婿求めた
まふ世に、まして、ただ人の盛り過ぎんもあいなし」など、
そしらはしげにのたまひて、中宮をもまめやかに恨み申した
まふことたび重なれば、聞こしめしわづらひて、(中宮)「いと
ほしく、かくおほなおほな思ひ心ざして年経たまひぬるを、

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あやにくにのがれきこえたまはんも情なきやうならん。親王
たちは、御後見からこそともかくもあれ。上の、御代も末に
なりゆくとのみ思しのたまふめるを、ただ人こそ、ひと事に
定まりぬれば、また心を分けんことも難げなめれ、それだに、
かの大臣の、まめだちながらこなたかなたうらやみなくもて
なして、ものしたまはずやはある。まして、これは、思ひお
きてきこゆることもかなはば、あまたもさぶらはむになどか
あらん」など、例ならず言つづけて、あるべかしく聞こえさ
せたまふを、わが御心にも、もとよりもて離れて、はた、思
さぬことなれば、あながちにはなどてかはあるまじきさまに
も聞こえさせたまはん。ただ、いと事うるはしげなるあたり
にとり籠められて、心やすくならひたまへるありさまのとこ
ろせからんことをなま苦しく思すにものうきなれど、げに、
この大臣にあまり怨ぜられはてんもあいなからんなど、やう
やう思し弱りにたるなるべし。あだなる御心なれば、かの按

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察大納言の紅梅の御方をもなほ思し絶えず、花紅葉につけて
ものたまひわたりつつ、いづれをもゆかしくは思しけり。さ
れどその年はかはりぬ。
女二の宮も御服はてぬれば、いとど何ごと
にかは憚りたまはん、さも聞こえ出でば、
と思しめしたる御気色など告げきこゆる
人々もあるを、あまり知らず顔ならんもひがひがしうなめげ
なりと思しおこして、ほのめかしまゐらせたまふをりをりも
あるに、はしたなきやうはなどてかはあらん、そのほどに思
し定めたなりと伝にも聞く、みづから御気色をも見れど、心
の中には、なほ飽かず過ぎたまひにし人の悲しさのみ忘るべ
き世なくおぼゆれば、うたて、かく契り深くものしたまひけ
る人の、などてかはさすがに疎くては過ぎにけんと心得がた
く思ひ出でらる。口惜しき品なりとも、かの御ありさまにす
こしもおぼえたらむ人は、心もとまりなんかし、昔ありけん

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香の煙につけてだに、いま一たび見たてまつるものにもがな、
とのみおぼえて、やむごとなき方ざまに、いつしかなど急ぐ
心もなし。
右大殿には急ぎたちて、八月ばかりにと聞
こえたまひけり。二条院の対の御方には、
聞きたまふに、さればよ、いかでかは、数
ならぬありさまなめれば、かならず人笑へにうきこと出で来
んものぞとは、思ふ思ふ過ぐしつる世ぞかし、あだなる御心
と聞きわたりしを、頼もしげなく思ひながら、目に近くては、
ことにつらげなることも見えず、あはれに深き契りをのみし
たまへるを、にはかに変りたまはんほど、いかがは安き心地
はすべからむ、ただ人の仲らひなどのやうに、いとしもなご
りなくなどはあらずとも、いかに安げなきこと多からん、な
ほいとうき身なめれば、つひには山住みに還るべきなめり、
と思すにも、やがて跡絶えなましよりは、山がつの待ち思は

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んも人笑へなりかし、かへすがへすも、宮ののたまひおきし
ことに違ひて草のもとを離れにける心軽さを、恥づかしくも
つらくも思ひ知りたまふ。
 故姫君の、いとしどけなげにものはかなきさまにのみ何ご
とも思しのたまひしかど、心の底のづしやかなるところはこ
よなくもおはしけるかな、中納言の君の、今に忘るべき世な
く嘆きわたりたまふめれど、もし世におはせましかば、また
かやうに思すことはありもやせまし、それを、いと深くいか
でさはあらじと思ひ入りたまひて、とざまかうざまにもて離
れんことを思して、かたちをも変へてんとしたまひしぞかし、
かならずさるさまにてぞおはせまし、今思ふに、いかに重り
かなる御心おきてならまし、亡き御影どもも、我をば、いか
にこよなきあはつけさと見たまふらん、と恥づかしく悲しく
思せど、何かは、かひなきものから、かかる気色をも見えた
てまつらんと忍びかへしで、、聞きも入れぬさまにて過ぐした

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まふ。
 宮は、常よりも、あはれになつかしく、起き臥し語らひ契
りつつ、この世のみならず、長きことをのみぞ頼めきこえた
まふ。さるは、この五月ばかりより、例ならぬさまになやま
しくしたまふこともありけり。こちたく苦しがりなどはした
まはねど、常よりも物まゐることいとどなく、臥してのみお
はするを、まださやうなる人のありさまよくも見知りたまは
ねば、ただ暑きころなればかくおはするなめりとぞ思したる。
さすがにあやしと思しとがむることもありて、(匂宮)「もし。
いかなるぞ。さる人こそ、かやうにはなやむなれ」などのた
まふをりもあれど、いと恥づかしくしたまひて、さりげなく
のみもてなしたまへるを、さし過ぎ聞こえ出づる人もなけれ
ば、たしかにもえ知りたまはず。
 八月になりぬれば、その日など、外よりぞ伝へ聞きたまふ。
宮は、隔てんとにはあらねど、言ひ出でんほど心苦しくいと

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ほしく思されて、さものたまはぬを、女君は、それさへ心憂
くおぼえたまふ。忍びたることにもあらず、世の中なべて知
りたることを、そのほどなどだにのたまはぬことと、いかが
恨めしからざらん。かく渡りたまひにし後は、ことなること
なければ、内裏に参りたまひても、夜とまることはことにし
たまはず、ここかしこの御夜離れなどもなかりつるを、には
かにいかに思ひたまはんと心苦しき紛らはしに、このごろは、
時々御宿直とて参りなどしたまひつつ、かねてよりならはし
きこえたまふをも、ただつらき方にのみぞ思ひおかれたまふ
べき。
中納言殿も、いといとほしきわざかなと聞
きたまふ。花心におはする宮なれば、あは
れとは思すとも、いまめかしき方にかなら
ず御心移ろひなんかし、女方も、いとしたたかなるわたりに
て、ゆるびなくきこえまつはしたまはば、月ごろも、さもな

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らひたまはで、待つ夜多く過ぐしたまはんこそ、あはれなる
べけれ、など思ひよるにつけても、あいなしや、わが心よ、
何しに譲りきこえけん、昔の人に心をしめてし後、おほかた
の世をも思ひ離れてすみはてたりし方の心も濁りそめにしか
ば、ただかの御事をのみとざまかうざまには思ひながら、さ
すがに人の心ゆるされであらむことは、はじめより思ひし本
意なかるべしと憚りつつ、ただいかにして、すこしもあはれ
と思はれて、うちとけたまへらん気色をも見んと、行く先の
あらましごとのみ思ひつづけしに、人は同じ心にもあらずも
てなして、さすがに一方にもえさし放つまじく思ひたまへる
慰めに、同じ身ぞと言ひなして、本意ならぬ方におもむけた
まひしがねたく恨めしかりしかば、まづその心おきてを違へ
んとて、急ぎせしわざぞかし、など、あながちに女々しくも
の狂ほしく率て歩きたばかりきこえしほど、思ひ出づるも、
いとけしからざりける心かなと、かへすがへすぞ侮しき。

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宮も、さりとも、そのほどのありさま思ひ出でたまはば、
わが聞かんところをもすこしは憚りたまはじやと思ふに、
いでや、今は、そのをりのことなど、かけてものたまひ出
でざめりかし、なほあだなる方に進み、移りやすなる人は、
女のためのみにもあらず、頼もしげなく軽々しきこともあり
ぬべきなめりかし、など憎く思ひきこえたまふ。わがまこ
とにあまり一方にしみたる心ならひに、人はいとこよなくも
どかしく見ゆるなるべし。かの人をむなしく見なしきこえた
まうてし後思ふには、帝の御むすめを賜んと思ほしおきつる
もうれしくもあらず、この君を見ましかばとおぼゆる心の月
日にそへてまさるも、ただ、かの御ゆかりと思ふに、思ひ離
れがたきぞかし、はらからといふ中にも、限りなく思ひかは
したまへりしものを、いまはとなりたまひにしはてにも、と
まらん人を同じことと思へとて、よろづは思はずなることも
なし、ただ、かの思ひおきてしさまを違へたまへるのみなん

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口惜しう恨めしきふしにて、この世には残るべきとのたまひ
しものを、天翔りても、かやうなるにつけては、いとどつら
しとや見たまふらむ、などつくづくと、人やりならぬ独り寝
したまふ夜な夜なは、はかなき風の音にも目のみ覚めつつ、
来し方行く先、人の上さへあぢきなき世を思ひめぐらしたま
ふ。
 なげのすさびにものをも言ひふれ、け近く使ひ馴らしたま
ふ人夕の中には、おのづから憎からず思さるるもありぬべけ
れど、まことには心とまるもなきこそさはやかなれ。さるは、
かの君たちのほどに劣るまじき際の人々も、時世に従ひつつ
衰へて心細げなる住まひするなどを、尋ねとりつつあらせた
まひなどいと多かれど、今はと世を遁れ背き離れんとき、こ
の人こそと、とりたてて心とまる絆になるばかりなることは
なくて過ぐしてんと思ふ心深かりしを、いでさもわろく、わ
が心ながらねぢけてもあるかななど、常よりも、やがてまど

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ろまず明かしたまへる朝
に、霧の籬より、花の
色々おもしろく見えわた
る中に、朝顔のはかなげ
にてまじりたるを、なほ
ことに目とまる心地した
まふ。「明くる間咲きて」
とか、常なき世にもなずらふるが、心苦しきなめりかし、格
子も上げながら、いとかりそめにうち臥しつつのみ明かした
まへば、この花の開くるほどをも、ただ独りのみぞ見たまひ
ける。
 人召して、(薫)「北の院に参らむに、ことごとしからぬ車さ
し出でさせよ」とのたまへば、(家人)「宮は、昨日より内裏に
なんおはしますなる。昨夜、御車率て帰りはべりにき」と申
す。(薫)「さばれ、かη対の御方のなやみたまふなるとぶらひ

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きこえむ。今日は、内裏に参るべき日なれば、日たけぬさき
に」とのたまひて、御装束したまふ。出でたまふままに、下
りて花の中にまじりたまへるさま、ことさらに艶だち色めき
てももてなしたまはねど、あやしく、ただうち見るになまめ
かしく恥づかしげにて、いみじく気色だつ色好みどもになず
らふべくもあらず、おのづからをかしくぞ見えたまひける。
朝顔を引き寄せたまへる、露いたくこぼる。
(薫)「今朝のまの色にやめでんおく露の消えぬにかかる花
  と見る見る
はかな」と独りごちて、折りて持たまへり。女郎花をば見過
ぎてぞ出でたまひぬる。
明けはなるるままに、霧たち満ちたる空を
かしきに、女どちはしどけなく朝寝したま
へらむかし、格子、妻戸などうち叩き声づ
くらんこそ、うひうひしかるべけれ、朝まだき、まだき来に

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けり、と思ひながら、人召し
て、中門の開きたるより見せた
まへば、供人「御格子どもまゐ
りてはべるべし。女房の御けは
ひもしはべりつ」と申せば、下
りて、霧の紛れにさまよく歩み入りたまへるを、宮の忍びた
る所より帰りたまへるにやと見るに、露にうちしめりたまへ
るかをり、例の、いとさまことに匂ひ来れば、(女房)「なほめ
ざましくおはすかし。心をあまりをさめたまへるぞ憎き」な
ど、あいなく若き人々は聞こえあへり。おどろき顔にはあら
ず、よきほどにうちそよめきて御褥さし出でなどするさまも、
いとめやすし。(薫)「これにさぶらへとゆるさせたまふほどは、
人々しき心地すれど、なほかかる御簾の前にさし放たせたま
へる愁はしさになん、しばしばもえさぶらはぬ」とのたまへ
ば、(女房)「さらば、いかがははべるべからむ」など聞こゆ。

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(薫)「北面などやうの隠れぞかし、かかる古人などのさぶらは
んにことわりなる休み所は。それも、また、ただ御心なれば、
愁へきこゆべきにもあらず」とて、長押に寄りかかりておは
すれば、例の、人々、「なほ、あしこもとに」などそそのか
しきこゆ。
 もとよりけはひはやりかに男々しくなどはものしたまはぬ
人柄なるを、いよいよしめやかにもてなしをさめたまへれば、
今はみづから聞こえたまふことも、やうやう、うたてつつま
しかりし方すこしづつ薄らぎて面馴れたまひにたり。(薫)「な
やましく思さるらむさまも、いかなれば」など問ひきこえた
まへど、はかばかしくも答へきこえたまはず、常よりもしめ
りたまへる気色の心苦しきもあはれに思ほえたまひて、こま
やかに、世の中のあるべきやうなどを、はらからやうの者の
あらましやうに、教へ慰めきこえたまふ。
声なども、わざと似たまへりともおぼえざりしかど、あや

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しきまでただそれとのみおぼゆるに、人目見苦しかるまじく
は、簾も引き上げてさし対ひきこえまほしく、うちなやみた
まへらん容貌ゆかしくおぼえたまふも、なほ世の中にもの思
はぬ人は、えあるまじきわざにやあらむとぞ思ひ知られたま
ふ。(薫)「人々しくきらきらしき方にははべらずとも、心に思
ふことあり、嘆かしく身をもてなやむさまになどはなくて過
ぐしつべきこの世と、みづから思ひたまへし。心から、悲し
きことも、をこがましく悔しきもの思ひをも、かたがたに安
からず思ひはべるこそいとあいなけれ。官位などいひて、大
事にすめる、ことわりの愁へにつけて嘆き思ふ人よりも、こ
れや、いますこし罪の深さはまさるらむ」など言ひつつ、折
りたまへる花を、扇にうち置きて見ゐたまへるに、やうやう
赤みもて行くもなかなか色のあはひをかしく見ゆれば、やを
らさし入れて、
(薫)よそへてぞ見るべかりける白露のちぎりかおきし朝

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  顔の花
ことさらびてしももてなさぬに、露を落さで持たまへりける
よとをかしく見ゆるに、置きながら枯るるけしきなれば、
(中の君)「消えぬまに枯れぬる花のはかなさにおくるる露は
  なほぞまされる
何にかかれる」といと忍びて言もつづかず、つつましげに言
ひ消ちたまへるほど、なほいとよく似たまへるものかなと思
ふにも、まづぞ悲しき。
(薫)「秋の空は、いますこしながめのみまさりはべる。つれ
づれの紛らはしにもと思ひて、先つころ、宇治にものしては
べりき。庭も籬もまことにいとど荒れはててはべりしに、た
へがたきこと多くなん。故院の亡せたまひて後、二三年ばか
りの末に、世を背きたまひし嵯峨院にも、六条院にも、さし
のぞく人の心をさめん方なくなんはべりける。木草の色につ
けても、涙にくれてのみなん帰りはべりける。かの御あたり

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の人は、上下心浅き人なくこそはべりけれ、方々集ひものせ
られける人々も、みな所どころあかれ散りつつ、おのおの思
ひ離るる住まひをしたまふめりしに、はかなきほどの女房な
どは、まして心をさめん方なくおぼえけるままに、ものおぼ
えぬ心にまかせつつ山、林に入りまじり、すずろなる田舎人
になりなど、あはれにまどひ散るこそ多くはべりけれ。さて、
なかなかみな荒らしはて、忘れ草生ほして後なん、この右大
臣も渡り住み、宮たちなども方々ものしたまへば、昔に返り
たるやうにはべめる。さる世にたぐひなき悲しさと見たまへ
しことも、年月経れば、思ひさますをりの出で来るにこそは
と見はべるに、げに限りあるわざなりけりとなん見えはべる。
かくは聞こえさせながらも、かのいにしへの悲しさは、まだ
いはけなくもはべりけるほどにて、いとさしもしまぬにやは
べりけん。なほ、この近き夢こそ、さますべき方なく思ひた
まへらろるは、同じこと、世の常なき悲しびなれど、罪深き

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方はまさりてはべるにやと、それさへなん心憂くはべる」と
て泣きたまへるほど、いと心深げなり。
 昔の人をいとしも思ひきこえざらん人だに、この人の思ひ
たまへる気色を見んには、すずろにただにもあるまじきを、
まして、我もものを心細く思ひ乱れたまふにつけては、いと
ど常よりも、面影に恋しく悲しく思ひきこえたまふ心なれば、
いますこしもよほされて、ものもえ聞こえたまはず、ためら
ひかねたまへるけはひを、かたみにいとあはれと思ひかはし
たまふ。
(中の君)「世のうきよりはなど、人は言ひしをも、さやうに思
ひくらぶる、心もことになくて年ごろは過ぐしはべりしを、今
なん、なほいかで静かなるさまにても過ぐさまほしく思うた
まふるを、さすがに心にもかなはざめれば、弁の尼こそうら
やましくはべれ。この二十日あまりのほどは、かの近き寺の
鐘の声も聞きわたさまほしくおぼえはべるを、忍びて渡させ

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たまひてんやと聞こえさせ
ばやとなん思ひはべりつ
る」とのたまへば、(薫)「荒
らさじと思すとも、いかで
かは。心やすき男だに、往
き来のほど、荒ましき山道にはべれば、思ひつつなん月日も
隔たりはべる。故宮の御忌日は、かの阿闍梨にさるべきこと
どもみな言ひおきはべりにき。かしこは、なほ、尊き方に思
し譲りてよ。時々見たまふ合につけては、心まどひの絶えせ
ぬもあいなきに、罪失ふさまになしてばやとなん思ひたまふ
るを、またいかが思しおきつらん。ともかくも定めさせたま
はんに従ひてこそはとてなん。あるべからむやうにのたまは
せよかし。何ごとも疎からずうけたまはらんのみこそ、本意
のかなふにてははべらめ」など、まめだちたることどもを聞
こえたまふ。経仏など、この上も供養じたまふべきなめり。

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かやうなるついでにことつけて、やをら籠りゐなばやなどお
もむけたまへる気色なれば、(薫)「いとあるまじきことなり。
なほ何ごとも心のどかに思しなせ」と教へきこえたまふ。
 日さし上がりて、人々参り集まりなどすれば、あまり長居
も事あり顔ならむによりて、出でたまひなんとて、(薫)「いづ
こにても御簾の外にはならひはべらねば、はしたなき心地し
はべりてなん。いま、また、かやうにもさぶらはん」とて立
ちたまひぬ。宮の、などか、なきをりには来つらんと思ひた
まひぬべき御心なるもわづらはしくて、侍所の別当なる右
京大夫召して、(薫)「昨夜まかでさせたまひぬとうけたまはり
て参りつるを、まだしかりければ口惜しきを。内裏にや参る
べき」とのたまへば、(大夫)「今日は、まかでさせたまひなん」
と申せば、(薫)「さらば、夕つ方も」とて出でたまひぬ。

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なほ、この御けはひありさまを聞きたまふ
たびごとに、などて昔の人の御心おきてを
もて違へて思ひ隈なかりけんと、悔ゆる心
のみまさりて、心にかかりたるもむつかしく、なぞや、人や
りならぬ心ならんと思ひ返したまふ。そのままに、まだ精進
にて、いとど、ただ、行ひをのみしたまひつつ、明かし暮ら
したまふ。母宮の、なほいとも若くおほどきてしどけなき御
心にも、かかる御気色をいとあやふくゆゆしと思して、
(女三の宮)「幾世しもあらじを、見たてまつらむほどは、なほか
ひあるさまにて見えたまへ。世の中を思ひ棄てたまはんをも、
かかるかたちにては、妨げきこゆべきにもあらぬを、この世
の言ふかひなき心地すべき心まどひに、いとど罪や得んとお
ぼゆる」とのたまふが、かたじけなくいとほしくて、よろづ
を思ひ消ちつつ、御前にてはもの思ひなきさまをつくりたま
ふ。

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右大殿には、六条院の東の殿磨きしつら
ひて、限りなくよろづをととのへて待ちき
こえたまふに、十六日の月やうやうさし上
がるまで心もとなければ、いとしも御心に入らぬことにて、
いかならんと安からず思ほして、案内したまへば、「このタ
つ方内裏より出でたまひて、二条院になむおはしますなる」
と人申す。思す人持たまへればと心やましけれど、今宵過ぎ
んも人笑へなるべければ、御子の頭中将して聞こえたまへ
り。
 (タ霧)大空の月だにやどるわが宿に待つ宵すぎて見えぬ君
  かな
 宮は、なかなか今なんとも見えじ、心苦しと思して、内裏
におはしけるを、御文聞こえたまへりける、御返りやいかが
ありけん、なほいとあはれに思されければ、忍びて渡りたま
へりけるなりけり。らうたげなるありさまを見棄てて出づべ

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き心地もせず、いとほしければ、よろづに契り慰めて、もろ
ともに月をながめておはするほどなりけり。女君は、日ごろ
もよろづに思ふこと多かれど、いかで気色に出ださじと念じ
返しつつ、つれなくさましたまふことなれば、ことに聞きも
とどめぬさまに、おほどかにもてなしておはする気色いとあ
はれなり。
 中将の参りたまへるを聞きたまひて、さすがにかれもいと
ほしければ、出でたまはんとて、(匂宮)「いま、いととく参り
来ん。ひとり月な見たまひそ。心そらなればいと苦し」と聞
こえおきたまひて、なほかたはらいたければ、隠れの方より
寝殿へ渡りたまふ、御後手を見送るに、ともかくも思はねど、
ただ枕の浮きぬべき心地すれば、心憂きものは人の心なりけ
り、と我ながら思ひ知らる。

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幼きほどより、心細くあはれなる身どもに
て、世の中を思ひと、とめたるさまにもおは
せざりし人一ところを頼みきこえさせて、
さる山里に年経しかど、いつとなくつれづれにすごくありな
がら、いとかく心にしみて世をうきものとも思はざりしに、
うちつづきあさましき御事どもを思ひしほどは、世にまたと
まりて片時経べくもおぼえず、恋しく悲しきことのたぐひあ
らじと思ひしを、命長くて今までもながらふれば、人の思ひ
たりしほどよりは、人にもなるやうなるありさまを、長かる
べきこととは思はねど、見るかぎりは憎げなき御心ばえもて
なしなるにやうやう思ふこと薄らぎてありつるを、このふし
の身のうさ、はた、言はん方なく、限りとおぼゆるわざなり
けり、ひたすら世に亡くなりたまひにし人々よりは、さりと
も、これは、時々もなどかはとも思ふべきを、今宵かく見棄
てて出でたまふつらさ、来し方行く先みなかき乱り、心細く

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いみじきが、わが心ながら思ひやる方なく心憂くもあるかな、
おのづからながらへば、など慰めんことを思ふに、さらに姨
捨山の月澄みのぼりて、夜更くるままによろづ思ひ乱れたま
ふ。松風の吹き来る音も、荒ましかりし山おろしに思ひくら
ぶれば、いとのどかになつかしくめやすき御住まひなれど、
今宵はさもおぼえず、椎の葉の音には劣りて思ほゆ。
  (中の君)山里の松のかげにもかくばかり身にしむ秋の風は
  なかりき
来し方忘れにけるにやあらむ。
 老人どもなど、「今は入らせたまひね。月見るは忌みはべ
るものを。あさましく、はかなき御くだものをだに御覧じ入
れねば、いかにならせたまはん。あな見苦しや。ゆゆしう思
ひ出でらるることもはべるを、いとこそわりなく」とうち嘆
きて、(女房)「いで、この御事よ。さりとも、かうて、おろか
にはよもなりはてさせたまはじ。さ言へど、もとの心ざし深

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く思ひそめつる仲は、なごりなからぬものぞ」など言ひあへ
るも、さまざまに聞きにくく、今は、いかにもいかにもかけ
て言はざらなむ、ただにこそ見めと思さるるは、人には言は
せじ、我ひとり恨みきこえんとにやあらむ。(女房)「いでや、
中納言殿のさばかりあはれなる御心深さを」など、その昔の
人々は言ひあはせて、「人の御宿世のあやしかりけることよ」
と言ひあへり。
宮は、いと心苦しく思しながら、いまめか
しき御心は、いかでめでたきさまに待ち思
はれんと心げさうして、えならずたきしめ
たまへる御けはひ言はん方なし。待ちつけきこえたまへる所
のありさまも、いとをかしかりけり。人のほど、ささやかに
あえかになどはあらで、よきほどになりあひたる心地したま
へるを、いかならむ、ものものしくあざやぎて、心ばへもた
をやかなる方はなく、もの誇りかになどやあらむ、さらばこ

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そ、うたてあるべけれなどは思せど、さやなる御けはひには
あらぬにや、御心ざしおろかなるべくも思されざりけり。秋
の夜なれど、更けにしかばにや、ほどなく明けぬ。
 帰りたまひても、対へはふともえ渡りたまはず、しばし大
殿籠りて、起きてぞ御文書きたまふ。「御気色けしうはあら
ぬなめり」と、御前なる人々つきしろふ。(女房)「対の御方こ
そ心苦しけれ。天の下にあまねき御心なりとも、おのづから
けおさるることもありなんかし」など、ただにしもあらず、
みな馴れ仕うまつりたる人々なれば、安からずうち言ふども
もありて、すべて、なほ、ねたげなるわざにぞありける。御  
返りも、こなたにてこそはと思せど、夜のほどのおぼつかな
さも、常の隔てよりはいかが、と心苦しければ、急ぎ渡りた
まふ。

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寝くたれの御容貌いとめでたく見どころあ
りて、入りたまへるに、臥したるもうたて
あれば、すこし起き上がりておはするに、
うち赤みたまへる顔のにほひなど、今朝しも常よりことにを
かしげさまさりて見えたまふに、あいなく涙ぐまれて、しば
しうちまもりきこえたまふを、恥づかしく思してうつぶした
まへる、髪のかかり髪ざしなど、なほいとありがたげなり。
宮も、なまはしたなきに、こまやかなることなどは、ふとも
え言ひ出でたまはぬ面隠しにや、(匂宮)「などかくのみなやま
しげなる御気色ならむ。暑きほどのこととかのたまひしかば、
いっしかと涼しきほど待ち出でたるも、なほはればれしから
ぬは、見苦しきわざかな。さまざまにせさすることも、あや
しく験なき心地こそすれ。さはありとも、修法はまた延べて
こそはよからめ。験あらむ僧をがな。なにがし僧都をぞ、夜
居にさぶらはすべかりける」などやうなるまめごとをのたま

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へば、かかる方にも言よきは心づきなくおぼえたまへど、む
げに答へきこえざらむも例ならねば、(中の君)「昔も、人に似ぬ
ありさまにて、かやうなるをりはありしかど、おのづからい
とよくおこたるものを」とのたまへば、(匂宮)「いとよくこそ
さはやかなれ」とうち笑ひて、なつかしく愛敬づきたる方は
これに並ぶ人はあらじかしとは思ひながら、なほ、また、と
くゆかしき方の心焦られも立ちそひたまへるは、御心ざしお
ろかにもあらぬなめりかし。
 されど見たまふほどは、変るけぢめもなきにや、後の世ま
で誓ひ頼めたまふことどもの尽きせぬを聞くにつけても、げ
に、この世は、短かめる命待つ間も、つらき御心は見えぬべ
ければ、後の契りや違はぬこともあらむと思ふにこそ、なほ
こりずまにまたも頼まれぬべけれとて、いみじく念ずべかめ
れど、え忍びあへぬにや、今日は泣きたまひぬ。日ごろも、
いかでかう思ひけりと見えたてまつらじと、よろづに紛らは

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しつるを、さまざまに思ひ集むることし多かれば、さのみも
えもて隠されぬにや、こぼれそめてはとみにもえためらはぬ
を、いと恥づかしくわびしと思ひて、いたく背きたまへば、
強ひてひき向けたまひつつ、(匂宮)「聞こゆるままに、あはれ
なる御ありさまと見つるを、なほ隔てたる御心こそありけれ
な。さらずは夜のほどに思し変りにたるか」とて、わが御袖
して涙を拭ひたまへば、(中の君)「夜の間の心変りこそ、のたま
ふにつげて、推しはかられはべりぬれ」とて、すこしほほ笑
みぬ。(匂宮)「げに、あが君や、幼の御もの言ひやな。さりと
まことには心に隈のなければ、いと心やすし。いみじくこと
わりして聞こゆとも、いとしるかるべきわざぞ。むげに世の
ことわりを知りたまはぬこそ、らうたきものからわりなけれ。
よし、わが身になしても思ひめぐらしたまへ。身を心ともせ
ぬありさまなりかし。もし思ふやうなる世もあらば、人にま
さりける、心ざしのほど、知らせたてまつるべき一ふしなんあ

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る。たはやすく言出づべきことにもあらねば、命のみこそ」
などのたまふほどに、かしこに奉れたまへる御使、いたく酔
ひすぎにければ、すこし禅るべきことども忘れて、けざやか
にこの南面に参れり。
海人の刈るめづらしき玉藻にかづき埋もれ
たるを、さなめりと人々見る。いつのほど
に急ぎ書きたまひつらん、と見るも、安か
らずはありけんかし。宮も、あながちに隠すべきにはあらね
ど、さしぐみはなほいとほしきを、すこしの用意はあれかし
とかたはらいたけれど、今はかひなければ、女房して御文と
り入れさせたまふ。同じくは、隔てなきさまにもてなしはて
てむと思ほして、ひき開けたまへるに、継母の宮の御手なめ
りと見ゆれば、いますこし心やすくて、うち置きたまへり。
宣旨書きにても、うしろめたのわざや。(落葉の宮)「さかしらは
かたはらいたさに、そそのかしはべれど、いとなやましげに

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てなむ。
  女郎花しをれぞまさる朝露のいかにおきけるなごりなる
  らん」
あてやかにをかしく書きたまへり。
(匂宮)「かごとがましげなるもわづらはしや。
まことは、心やすくてしばしはあらむと思
ふ世を、思ひの外にもあるかな」などはの
たまへど、また二つとなくて、さるべきものに思ひならひた
るただ人の仲こそ、かやうなることの恨めしさなども、見る
人苦しくはあれ、田心へばこれはいと難し。つひにかかるべき
御事なり。宮たちと聞こゆる中にも、筋ことに世人思ひきこ
えたれば、幾人も幾人もえたまはんことも、もどきあるまじ
ければ、人も、この御方いとほしなども思ひたらぬなるべし。
かばかりものものしくかしづき据ゑたまひて、心苦しき方お
ろかならず思したるをぞ、幸ひおはしけると聞こゆめる。み

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づからの心にも、あまりに馴らはしたまうて、にはかにはし
たなかるべきが嘆かしきなめり。かかる道を、いかなれば浅
からず人の思ふらんと、昔物語などを見るにも、人の上に
ても、あやしく聞き思ひしは、げにおろかなるまじきわざな
りけり、とわが身になりてぞ、何ごとも思ひ知られたまひけ
る。
 宮は、常よりもあはれに、うちとけたるさまにもてなした
まひて、(匂宮)「むげに物まゐらざなるこそ、いとあしけれ」
とて、よしある御くだもの召し寄せ、また、さるべき人召し
て、ことさらに調ぜさせなどしつつ、そそのかしきこえたま  
へど、いと遥かにのみ思したれば、(匂宮)「見苦しきわざかな」
と嘆ききこえたまふに、暮れぬれば、夕つ方寝殿へ渡りたま
ひぬ。風涼しく、おほかたの空をかしきころなるに、いまめ
かしきにすすみたまへる御心なれば、いとどしく艶なるに、
もの思はしき人の御心の中は、よろづに忍びがたきことのみ

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ぞ多かりける。蜩の鳴く声に、山の蔭のみ恋しくて、
  (中の君)おほかたに聞かましものをひぐらしの声うらめし
  き秋の暮かな
 今宵は、まだ更けぬに出でたまふなり。御前駆の声の遠く
なるままに、海人も釣すばかりになるも、我ながら憎き心か
なと、思ふ思ふ聞き臥したまへり。はじめよりもの思はせた
まひしありさまなどを思ひ出づるも、疎ましきまでおぼゆ。
このなやましきこともいかならんとすらむ、いみじく命短き
族なれば、かやうならんついでにもや、はかなくなりなむと
すらん、と思ふには、惜しからねど、悲しくもあり、また、
いと罪深くもあなるものを、など、まどろまれぬままに思ひ
明かしたまふ。
その日は、后の宮なやましげにおはします
とて、誰も誰も参りたまへれど、御風邪に
おはしましければ、ことなることもおはし

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まさずとて、大臣は昼まかでたまひにけり。中納言の君さそ
ひきこえたまひて、ひとつ御車にてぞ出でたまひにける。今
宵の儀式いかならん、きよらを尽くさんと思すべかめれど、
限りあらんかし。この君も、心恥づかしけれど、親しき方の
おぼえは、わが方ざまに、また、さるべき人もおはせず、も
ののはえにせんに、心ことに、はた、おはする人なればなめ
りかし。例ならず急がしく参でたまひて、人の上に見なした
るを、口惜しとも思ひたらず、何やかやともろ心にあつかひ
たまへるを、大臣は、人知れず、なまねたしと思しけり。
宵すこし過ぐるほどにおはしましたり。寝
殿の南の席、東によりて街座まゐれり。
御台八つ、例の御皿などうるはしげにきよ
らにて、また小さき台二つに、華足の皿どもいまめかしくせ
させたまひて、餅まゐらせたまへり。めづらしからぬこと書
きおくこそ憎けれ。大臣、渡りたまひて、「夜いたう更けぬ」

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と女房してそそのかし申したまへど、いとあざれて、とみに
も出でたまはず。北の方の御はらからの左衛門督、藤宰相な
どばかりものしたまふ、
 からうじて出でたまへる御さま、いと見るかひある心地す。
主の頭中将、盃ささげて御台まゐる。次々の御土器、二たび、
三たびまゐりたまふ。中納言のいたくすすめたまへるに、宮
すこしほほ笑みたまへり。「わづらはしきわたりを」と、ふ
さはしからず思ひて言ひしを思し出づるなめり。されど、月
知らぬやうにていとまめなり。東の対に出でたまひて、御供
の人々もてはやしたまふ。おぼえある殿上人どもいと多かり。
四位六人は、女の装束に           
細長そへて、五位十人は、
三重襲の唐衣、裳の腰も
みなけぢめあるべし。六
位四人は、綾の細長、停

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など、かつは限りあることを飽かず思しければ、物の色、し   
ざまなどをぞきよらを尽くしたまへりける。召次、舎人など  
の中には、乱りがはしきまで、いかめしくなんありける。げ
に、かく、にぎははしく華やかなることは見るかひあれば、
物語などにも、まづ言ひたてたるにやあらむ、されど、くは
しくは、えぞ数へたてざりけるとや。
中納言殿の御前の中に、なまおぼえあざや
かならぬや、暗き紛れに立ちまじりたりけ
ん、帰りてうち嘆きて、(薫の従者)「わが殿の、
などか、おいらかに、この殿の御婿にうちならせたまふまじ
き。あぢきなき御独り住みなりや」と、中門のもとにてつぶ
やきけるを聞きつけたまひて、をかしとなん思しける。夜の
更けてねぶたきに、かのもてかしづかれつる人々は心地よげ
に酔ひ乱れて寄り臥しぬらんかしと、うらやましきなめりか
し。

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 君は、入りて臥したまひて、はしたなげなるわざかな、こ
とごとしげなるさましたる親の出でゐて、離れぬ仲らひな
れど、これかれ、灯明かくかかげて、すすめきこゆる盃など
を、いとめやすくもてなしたまふめりつるかな、と宮の御あ
りさまをめやすく思ひ出でたてまつりたまふ。げに、我にて
も、よしと思ふ女子持たらましかば、この宮をおきたてまっ
りて、内裏にだにえ参らせざらましと思ふに、誰も誰も、宮
に奉らんと心ざしたまへるむすめは、なほ源中納言にこそと、
とりどりに言ひならふなるこそ、わがおぼえの口惜しくはあ
らぬなめりな、さるは、いとあまり世づかず、古めきたるも
のを、など、心おごりせらる。内裏の御気色あること、まこ
とに思したたむに、かくのみものうくおぼえば、いかがすべ
からん、面だたしきことにはありとも、いかがはあらむ、い
かにぞ、故君にいとよく似たまへらん時に、うれしからむか
し、と思ひよらるるは、さすがにもて離るまじき心なめりか

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し。
例の、寝ざめがちなるつれづれなれば、按
察の君とて、人よりはすこし思ひましたま
へるが肩。におはして、その夜は明かしたま
ひつ。明け過ぎたらむを、人の名むべきにもあらぬに、苦し
げに急ぎ起きたまふを、ただならず思ふべかめり。
  (按察の君)うちわたし世にゆるしなき関川をみなれそめけ
  ん名こそ惜しけれ
いとほしければ、
  (薫)深からずうへは見ゆれど関川のしたのかよひはたゆ
  るものかは
深しとのたまはんにてだに頼もしげなきを、この上の浅さは、
いとど心やましくおぼゆらむかし。妻戸押し開けて、(薫)「ま
ことは、この空見たまへ、いかでかこれを知らず顔にては明
かさんとよ。艶なろ人まねにてはあらで、いとど明かしがた

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くなりゆく、夜な夜なの寝ざめには、この世かの世までなむ
思ひやられてあはれなる」など、言ひ紛らはしてぞ出でたま
ふ。ことにをかしき言の数を尽くさねど、さまのなまめかし
き見なしにやあらむ、情なくなどは人に思はれたまはず。か
りそめの戯れ言をも言ひそめたまへる人の、け近くて見たて
まつらばやとのみ思ひきこゆるにや、あながちに、世を背き
たまへる宮の御方に、縁を尋ねつつ参り集まりてさぶらふも、
あはれなることほどほどにつけつつ多かるべし。
宮は、女君の御ありさま昼見きこえたまふ
に、いとど御心ざしまさりけり。大きさよ
きほどなる人の、様体いときよげにて、髪
の下り端、頭つきなどぞ、ものよりことにあなめでたと見え
たまひける。色あひあまりなるまでにほひて、ものものしく
気高き顔の、まみいと恥づかしげにらうらうじく、すべて何
ごとも足らひて、容貌よき人と言はむに飽かぬところなし。

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二十に一つ二つぞあまりたまへりける。いはけなきほどなら
ねば、片なりに飽かぬところなく、あざやかに盛りの花と見
えたまへり。限りなくもてかしづきたまへるに、かたほなら
ず。げに、親にては、心もまどはしたまひつべかりけり。。た
だ、やはらかに愛敬づきらうたきことぞ、かの対の御方はま
づ思ほし出でられける。もののたまふ答へなども、恥ぢらひ
たれど、また、あまりおぼつかなくはあらず、すべていと見
どころ多く、かどかどしげなり。よき若人ども三十人ばか
り、童六人かたほなるなく、装束なども、例のうるはしきこ
とは目馴れて思さるべかめれば、ひき違へ、心得ぬまで好み
そしたまへる。三条殿腹の大君を、春宮に参らせたまへるよ
りも、この御事をば、ことに思ひおきてきこえたまへるも、
宮の御おぼえありさまからなめり。

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かくて後、二条院に、え心やすく渡りたま
はず。軽らかなる御身ならねば、思すまま
に昼のほどなどもえ出でたまはねば、やが
て、同じ南の町に、年ごろありしやうにおはしまして、暮る
れば、また、えひき避きても渡りたまはずなどして、待ち遠
なるをりをりあるを、かからんとすることとは思ひしかど、
さしあたりては、いとかくやはなごりなかるべき、げに、心
あらむ人は、数ならぬ身を知らでまじらふべき世にもあらざ
りけり、とかへすがへすも、山路分け出でけんほど、現とも
おぼえず悔しく悲しければ、なほ、いかで忍びて渡りなむ、
むげに背くさまにはあらずとも、しばし心をも慰めばや、
憎げにもてなしなどせばこそ、うたてもあらめ、など心ひと
つに思ひあまりて、恥づかしけれど、中納言殿に文奉れたま
ふ。
 (中の君)一日の御事は、阿闍梨の伝へたりしに、くはしく聞

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 きはべりにき。かかる御心のなごりなからましかば、いか
 にいとほしくと思ひたまへらるるにも、おろかならずのみ
 なん。さりぬべくは、みづからも。
と聞こえたまへり。
 陸奥国紙に、ひきつくろはずまめだち書きたまへるしも、
いとをかしげなり。宮の御忌日に、例のことどもいと尊くせ
させたまへりけるを、よろこびたまへるさまの、おどろおど
ろしくはあらねど、げに思ひ知りたまへるなめりかし。例は、
これより奉る御返りをだにつつましげに思ほして、はか、はか
しくもつづけたまはぬを、「みづから」とさへのたまへるが
めづらしくうれしきに、心ときめきもしぬべし。宮の、いま
めかしく好みたちたまへるほどにて、思しおこたりけるも、
げに心苦しく推しはからるれば、いとあはれにて、をかしや
かなることもなき御文を、うちも置かずひき返しひき返し見
ゐたまへり。御返りは、

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 (薫)うけたまはりぬ。一日は、聖だちたるさまにて、こと
 さらに忍びはべしも、さ思ひたまふるやうはべるころほひ
 にてなん。なごりとのたまはせたるこそ、すこし浅くなり
 にたるやうにと、恨めしく思うたまへらるれ。よろづはさ
 ぶらひてなん。あななかしこ。
と、すくよかに、白き色紙のこはごはしきにてあり。
さて、またの日のタつ方ぞ渡りたまへる。
人知れず思ふ心しそひたれば、あいなくひ
づかひいたくせられて、なよよかなる街衣
どもを、いとど匂はしそへたまへるは、あまりおどろおどろ
しきまであるに、丁子染の扇のもてならしたまへる移り香な
どさへたとへん方なくめでたし。
 女君も、あやしかりし夜のことなど思ひ出でたまふをりを
りなきにしもあらねば、まめやかにあはれなる御心ばへの人
に似ずものしたまふを見るにつけても、さてあらましをとば

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かりは思ひやしたまふらん。いはけなきほどにしおはせねば、
恨めしき人の御ありさまを思ひくらぶるには、何ごともいと
どこよなく思ひ知られたまふにや、常に隔て多かるもいとほ
しく、もの思ひ知らぬさまに思ひたまふらむなど思ひたまひ  
て、今日は、御簾の内に入れたてまつりたまひて、母屋の簾
に几帳そへて、我はすこしひき入りて対面したまへり。(薫)
「わざと召しとはべらざりしかど、例ならずゆるさせたまへ
りしよろこびに、すなはちも参らまほしくはべりしを、宮渡
らせたまふとうけたまはりしかば、をりあしくやはとて、今
日になしはべりにける。さるは、年ごろの心のしるしもやう
やうあらはれはべるにや、隔てすこし薄らぎはべりにける御
簾の内よ。めづらしくはべるわざかな」とのたまふに、なほ
いと恥づかしく、言ひ出でん言葉もなき心地すれど、(中の君)
「一日、うれしく聞きはべりし心の中を、例の、ただむすぼ
けれながら過ぐしはべりなば、思ひ知る片はしをだにいかで

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かはと口惜しさに」と、いとつつましげにのたまふが、いた
く退きて、絶え絶えほのかに聞こゆれば、心もとなくて、(薫)
「しと遠くもはべるかな。まめやかに聞こえさせうけたまは
らまほしき世の御物語もはべるものを」とのたまへば、げに
と思して、すこし身じろき寄りたまふけはひを聞きたまふに
も、ふと胸うちつぶるれど、さりげなく、いとどしづめたる
さまして、宮の御心ばへ思はずに浅うおはしけると思しく、
かつは言ひもうとめ、また慰めも、かたがたにしづしづと聞
こえたまひつつおはす。
女君は、人の御恨めしさなどは、うち出で
語らひきこえたまふべきことにもあらねば、
ただ、世やはうきなどやうに思はせて、言
少なに紛らはしつつ、山里にあからさまに渡したまへと思し
く、いとねむごろに思ひてのたまふ。(薫)「それはしも、心ひ
とつにまかせては、え仕うまつるまじきことにはべなり。な

P426
ほ、宮に、ただ心うつくしく聞こえさせたまひて、かの御気
色に従ひてなんよくはべるべき。さらずは、すこしも違ひ目
ありて、心軽くもなど思しものせんに、いとあしくはべりな
ん。さだにあるまじくは、道のほども御送り迎へも、下り立
ちて仕うまつらんに、何の偉りかははべらむ。うしろやすく
人に似ぬ心のほどは、宮もみな知らせたまへり」などは言ひ
ながら、をりをりは、過ぎにし方の悔しさを忘るるをりなく、
ものにもがなやととり返さまほしきとほのめかしつつ、やう
やう暗くなりゆくまでおはするに、いとうるさくおぼえて、
(中の君)「さらば、心地もなやましくのみはべるを、また、よろ
しく思ひたまへられんほどに、何ごとも」とて、入りたまひ
ぬるけしきなるが、いと口惜しければ、(薫)「さても、いつば
かり思したつべきにか。いと茂くはべし道の草も、すこしう
ち払はせはべらんかし」と心とりに聞こえたまへば、しばし
入りさして、(中の君)この月は過ぎぬめれば、朔日のほどにも、

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とこそは思ひはべれ。ただ、いと忍びてこそよからめ。何か、
世のゆるしなどことごとしく」とのたまふ声の、いみじくら
うたげなるかなと、常よりも昔思ひ出でらるるに、えつつみ
あへで、寄りゐたまへる柱のもとの簾の下より、やをらおよ
びて御袖をとらへつ。
 女、さりや、あな心憂と思ふに、何ごとかは言はれん、も
のも言はで、いとど引き入りたまへば、それにっきていと馴
れ顔に、半らは内に入りて添ひ臥したまへり。(薫)「あらずや。
忍びてはよかるべく思すこともありけるがうれしきは、ひが
耳か、聞こえさせんとぞ。うとうとしく思すべきにもあらぬ。
を、心憂の御気色や」と恨みたまへば、答へすべき心地もせ
ず、思はずに憎く思ひたりぬるを、せめて思ひしづめて、
(中の君)「思ひの外なりける御心のほどかな。人の思ふらんこと
よ。あさまし」とあばめて、泣きぬべき気色なる、すこしは
ことわりなればいとほしけれど、(薫)「これは各あるばかりの

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ことかは。かばかりの対面は、いにしへをも思し出でよかし、
過ぎにし人の御ゆるしもありしものを。いとこよなく思しけ
るこそ、なかなかうたてあれ。すきずきしくめざましき心は
あらじと、心やすく思ほせ」とて、いとのどやかにはもてな
したまへれど、月ごろ、悔しと思ひわたる心の中の苦しきま
でなりゆくさまをつくづくと言ひつづけたまひて、ゆるすべ
き気色にもあらぬに、せん方なく、いみじとも世の常なり。  
なかなか、むげに心知らざらん人よりも恥づかしく心づきな  
くて、泣きたまひぬるを、(薫)「こはなぞ。あな若々し」とは
言ひながら、言ひ知らずらうたげに心苦しきものから、用意
深く恥づかしげなるけはひなどの、見しほどよりもこよなく  
ねびまさりたまひにけるなどを見るに、心からよそ人にしな
して、かくやすからずものを思ふことと、悔しきにも、また、
げに音は泣かれけり。
 近くさぶらふ女房二人ばかりあれど、すずろなる男のうち

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入り来たるならばこそは、こはいかなることぞとも参り寄ら
め、疎からず聞こえかはしたまふ御仲らひなめれば、さるや
うこそはあらめと思ふに、かたはらいたければ、知らず顔に
てやをら退きぬるぞ、いとほしきや。男君は、いにしへを悔
ゆる心の忍びがたさなどもいとしづめがたかりぬべかめれど、
昔だにありがたかりし御心の用意なれば、なほいと思ひのま
まにももてなしきこえたまはざりけり。かやうの筋は、こま
かにも、えなんまねびつづけざりける。かひなきものから、
人目のあいなきを思へば、よろづに思ひ返して出でたまひぬ。
まだ宵と思ひつれど、暁近うなりにけるを、
見咎むる人もやあらんとわづらはしきも、
女の御ためのいとほしきぞかし。なやまし
げに聞きわたる御心地はことわりなりけり、いと恥づかし
と思したりつる腰のしるしに、多くは心苦しくおぼえてやみ
ぬるかな、例のをこがましの心や、と思へど、情なからむこ  

P430
とはなほいと本意なかるべし、また、たちまちのわが心の乱  
れにまかせて、あながちなる心をつかひて後、心やすくしも
はあらざらむものから、わりなく忍び歩かんほども心づくし
に、女のかたがた思し乱れんことよ、など、さかしく思ふに
せかれず、今の間も恋しきぞわりなかりける。さらに見では
えあるまじくおぼえたまふも、かへすがへすあやにくなる心
なりや。昔よりはすこし細やぎて、あてにらうたかりつるけ
はひなどは、たち離れたりともおぽえず、身にそひたる心地
して、さらに他事もおぼえずなりにたり。宇治にいと渡らま
ほしげに思いためるを、さもや渡しきこえてましなど思へど、
まさに、宮は、ゆるしたまひてんや、さりとて、忍びて、は
た、いと便なからむ、いかさまにしてかは、人目見苦しから
で、思ふ心のゆくべき、と心もあくがれてながめ臥したまへ   
り。
 まだいと深き朝に御文あり。例の、うはべはけざやかなる

P431
立文にて、
  (薫)「いたづらに分けつる道の露しげみむかしおぽゆる秋
  の空かな
御気色の心憂さは、ことわり知らぬつらさのみなん。聞こえ
させむ方なく」とあり。御返しなからむも、人の、例ならず
見咎むべきを、いと苦しければ、(中の君)「うけたまはりぬ。い
となやましくて、え聞こえさせず」とばかり書きつけたまへ
るを、あまり言少ななるかなとさうざうしくて、をかしかり
つる御けはひのみ恋しく思ひ出でらる。
 すこし世の中をも知りたまへるけにや、さばかりあさまし
くわりなしとは思ひたまへりつるものから、ひたぶるにいぶ
せくなどはあらで、い
とらうらうじく恥づか
しけなる気色もそひて、  
さすがになつかしく言

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ひこしらへなどして、出だしたまへるほどの心ばへなどを思
ひ出づるも、ねたく悲しく、さまざまに心にかかりて、わび
しくおぼゆ。何ごとも、いにしへにはいと多くまさりて思ひ
出でらる。何かは、この宮離れはてたまひなば、我を頼もし
人にしたまふべきにこそはあめれ、さても、あらはれて心や
すきさまにはえあらじを、忍びつつまた思ひます人なき心の
とまりにてこそはあらめ、など、ただ、このことのみつとお
ぼゆるぞ、けしからぬ心なるや。さばかり心深げにさかしが
りたまへど、男といふものの心憂かりけることよ。亡き人の
御悲しさは言ふかひなきことにて、いとかく苦しきまではな
かりけり。これは、よろづにぞ思ひめぐらされたまひける。
「今日は宮渡らせたまひぬ」など、人の言ふを聞くにも、後
見の心は失せて、胸うちつぶれていとうらやましくおぼゆ。

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宮は、日ごろになりにけるは、わが心さへ
恨めしく思されて、にはかに渡りたまへる
なりけり。何かは、心隔てたるさまにも見
えたてまつらじ、山里にと思ひ立つにも、頼もし人に思ふ人
も疎ましき心そひたまへりけり、と見たまふに、世の中いと
ところせく思ひなられて、なほいとうき身なりけりと、ただ、
消えせぬほどはあるにまかせておいらかならんと思ひはてて、
いとらうたげに、うつくしきさまにもてなしてゐたまへれば、
いとどあはれに、うれしく思されて、日ごろの怠りなど限り
なくのたまふ。御腹もすこしふくらかになりにたるに、かの
恥ぢたまふしるしの帯のひき結はれたるほどなどいとあはれ
に、まだかかる人を近くても見たまはざりければ、めづらし
くさへ思したり。うちとけぬ所にならひたまひて、よろづの
こと心やすくなつかしく思さるるままに、おろかならぬこと
どもを尽きせず契りのたまふを聞くにつけても、かくのみ言

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よきわざにやあらむと、あながちなりつる人の御気色も思ひ
出でられて、年ごろあはれなる心ばへとは思ひわたりつれど、
かかる方ざまにては、あれをもあるまじきことと思ふにぞ、
この御行く先の頼めは、いでやと思ひながらも、すこし耳と
まりける。
 さても、あさましくたゆめたゆめて、入り来たりしほどよ、
昔の人に疎くて過ぎにしことなど語りたまひし心ばへは、げ
にありがたかりけりと、なほ、うちとくべく、はた、あらざ
りけりかし、など、いよいよ心づかひせらるるにも、久しく
とだえたまはんことはいともの恐ろしかるべくおぼえたまへ
ば、言に出でて言はねど、過ぎぬる方よりはすこしまつはし
ざまにもてなしたまへるを、宮は、いとど限りなくあはれと
思ほしたるに、かの人の御移り香のいと深くしみたまへるが、
世の常の香の香に入れたきしめたるにも似ずしるき匂ひなる
を、その刀道の人にしおはすれば、あやしと咎め出でたまひて、

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いかなりしことぞと気色とりたまふに、事の外にもて離れぬ
ことにしあれば、言はん方なくわりなくていと苦しと思した
るを、さればよ、かならずさることはありなん、よもただに
は思はじと思ひわたることぞかし、と御心騒ぎけり。さるは、
単衣の御衣なども脱ぎかへたまひてけれど、あやしく心より
外にぞ身にしみにける。
 (匂宮)「かばかりにては、残りありてしもあらじ」と、よろ
づに肝きにくくのたまひつづくるに、心憂くて身ぞ置き所な
き。(匂宮)「思ひきこゆるさまことなるものを、我こそさきに
など、かやうにうち背く際はことにこそあれ。また御心おき
たまふばかりのほどやは経ぬる。思ひの外にうかりける御心
かな」と、すべてまねぶべくもあらずいとほしげに聞こえた
まへど、ともかくも答へたまはぬさへ、いとねたくて、
  (匂宮)また人に馴れける袖の移り香をわが身にしめてうら
  みつるかな

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女は、あさましくのたまひつづくるに、言ふべき方もなきを、
いかがはとて、
  (中の君)みなれぬる中の衣とたのみしをかばかりにてやか
  けはなれなん
とてうち泣きたまへる気色の、限りなくあはれなるを見るに
も、かかればぞかしといとど心やましくて、我もほろほろと
こぼしたまふぞ、色めかしき御心なるや。まことに、いみじ
き過ちありとも、ひたぶるにはえぞ疎みはつまじく、らうた
げに心苦しきさまのしたまへれば、えも恨みはてたまはず、
のたまひさしつつ、かつはこしらへきこえたまふ。
またの日も、心のどかに大殿籠り起きて、御手水、御粥な
どもこなたにまゐらす。御しつらひなども、さばかり輝くば  
かり高麗、唐土の錦、綾をたち童ねたる目うつしには、世の
常にうち馴れたる心地して、人々の姿も、萎えばみたるうち
まじりなどして、いと静かに見まはさる。君はなよよかなる

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薄色どもに、撫子の細長重ねて、うち乱れたまへる御さまの、
何ごともいとうるはしくことごとしきまで盛りなる人の御装
ひ、何くれに思ひくらぶれど、け劣りてもおぼえず、なつか
しくをかしきも、心ざしのおろかならぬに恥なきなめりかし。
まろにうつくしく肥えたりし人の、すこし細やぎたるに、色
はいよいよ白くなりて、あてにをかしげなり。かかる御移り
香などのいちじるからぬをりだに、愛敬づきらうたきところ
などの、なほ人には多くまさりて思さるるままには、これを
兄弟などにはあらぬ人のけ近く言ひ通ひて、事にふれつつ、
おのづから声、けはひをも聞き見馴れんは、いかでかただに
も思はん、かならずしかおばえぬべきことなるを、とわがい
と隈なき御心ならひに思し知らるれば、常に心をかけて、し
るきさまなる文などやあると、近き御厨子、小唐櫃などやう
の物をも、さりげなくて探したまへど、さる物もなし、ただ、
いとすくよかに言少なにてなほなほしきなどぞ、わざともな

P438
けれど、物にとりまぜなどしてもあるを、あやし、なほ、い
とかうのみはあらじかし、と疑はるるに、いとど今日は安か
らず思さるる、ことわりなりかし。かの人の気色も、心あら
む女のあはれと思ひぬべきを、などてかは、事の外にはさし
放たん、いとよきあはひなれば、かたみにぞ思ひかはすらむ
かし、と思ひやるぞ、わびしく腹立たしくねたかりける。な
ほいと安からざりければ、その日もえ出でたまはず。六条院
には、御文をぞ二たび三たび奉れたまふを、「いつのほどに
積もる御言の葉ならん」とつぶやく老人どもあり。
中納言の君は、かく、宮の籠りおはするを
聞くにも、心やましくおぼゆれど、わりな
しや、これはわが心のをこがましくあしき
ぞかし、うしろやすくと思ひそめてしあたりのことを、かく
は思ふべしや、と強ひてぞ思ひ返して、さは言へどえ思し棄
ざめりかしとうれしくもあり、人々のけはひなどの、なつ

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かしきほどに萎えばみためりしをと思ひやりたまひて、母宮
の御方に参りたまひて、(薫)「よろしき設けの物どもやさぶら
ふ。使ふべきこと」など申したまへば、(女三の宮)「例の、たた
む月の法事の料に、白きものどもやあらむ。染めたるなどは、
今はわざともしおかぬを、急ぎてこそせさせめ」とのたまへ
ば、(薫)「なにか。ことごとしき用にもはべらず。さぶらはん
に従ひてLとて、御匣殿などに問はせたまひて、女の装束ど
もあ支た領に、細長どもも、ただあるに従ひて、ただなる絹、
綾など取り具したまふ。みづ
からの御料と思しきには、わ
が御料にありける、紅の擣目 
なべてならぬに、白き綾ども         
など、あまた重ねたまへるに、   
袴の具はなかりけるに、いか
にしたるにか、腰のひとつあ

P440
るを、ひき結び加へて、
  (薫)むすびける契りことなる下紐をただひとすぢにうら
  みやはする
大輔の君とて、おとなおとなしき人の、睦ましげなるに遣は
す。「とりあへぬさまの見苦しきを、つきづきしくもて隠し
て」などのたまひて、御料のは、忍びやかなれど、箱にて、
っっみもことなり。御覧ぜさせねど、さきざきも、かやうな
る御心しらひは常のことにて目馴れにたれば、気色ばみ返し
などひこじろふべきにもあらねば、いかがとも思ひわづらは
で、人々にとり散らしなどしたれば、おのおのさし縫ひなど
す。若き人々の、御前近く仕うまつるなどをぞ、とりわきて
はつくろひたっべき。下仕どもの、いたく萎えばみたりつる
姿どもなどに、白き袷などにて、掲焉ならぬぞなかなかめや
すかりける。
 誰かは、何ごとをも後見かしづききこゆる人のあらむ。宮

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は、おろかならぬ御心ざしのほどにて、よろづをいかでと思
しおきてたれど、こまかなる内々のことまではいかがは思し
寄らむ。限りもなく人にのみかしづかれてならはせたむへれ
ば、世の中うちあはずさびしきこと、いかなるものとも知り
たまはぬ、ことわりなり。艶に、そぞろ寒く花の露をもてあ
そびて世は過ぐすべきものと思したるほどよりは、思す人の
ためなれば、おのづから、をりふしにつけつつ、まめやかな
るこどまでもあつかひ知らせたまふこそ、ありがたくめづら
かなることなめれば、「いでや」など、譏らはしげに聞こゆ
る御乳母などもありけり。童べなどの、なりあざやかならぬ、
をりをりうちまじりなどしたるをも、女君はいと恥づかしく、
なかなかなる住まひにもあるかななど、人知れずは思すこと
なきにしもあらぬに、ましてこのごろは、世に響きたる御あ
りさまのはなやかさに、かつは宮の内の人の見思ふらんこと
も、人げなきことと、思し乱るることもそひて嘆かしきを、

P442
中納言の君はいとよく推しはかりきこえたまへば、疎からむ
あたりには、見苦しくくだくだしかりぬべき心しらひのさま
も、侮るとはなけれど、任かは、ことごとしくしたて顔なら
むも、なかなかおぼえなく見咎むる人やあらんと思すなりけ
り。今ぞ、また、例の、めやすきさまなるものどもなどせさ
せたまひて、御小桂織らせ、綾の料賜せなどしたまひける。
この君しもぞ、宮に劣りきこえたまはず、さまことにかしづ
きたてられて、かたはなるまで心おごりもし、世を思ひ澄ま
して、あてなる心ばへはこよなけれど、故親王の御山住みを
見そめたまひしよりぞ、さびしき所のあはれさはさまことな
りけりと心苦しく思されて、なべての世をも思ひめぐらし、
深き情をもならひたまひにける。いとほしの人ならはしやと
ぞ。

P443
かくて、なほ、いかでうしろやすくおとな
しき人にてやみなんと思ふにも従はず、心
にかかりて苦しければ、御文などを、あり
しよりはこまやかにて、ともすれば、忍びあまりたる気色見
せつつ聞こえたまふを、女君、いとわびしきことそひにたる
身と思し嘆かる。ひとへに知らぬ人ならば、あなものぐるほ
しとはしたなめさし放たんにもやすかるべきを、昔よりさま
ことなる頼もし人にならひ釆て、今さらに仲あしくならむも、
なかなか人目あやしかるべし、さすがに、あさはかにもあら
ぬ御心ばへありさまのあはれを知らぬにはあらず、さりとて、
心かはし顔にあひしらはんも、いとつつましく、いかがはす
べからむ、とよろづに思ひ乱れたまふ。さぶらふ人々も、す
こしものの言ふかひありぬべく若やかなるはみなあたらし、
見馴れたるとては、かの山里の古女ばらなり、思ふ心をも同
じ心になつかしく言ひあはすべき人のなきままには、故姫君

P444
を思ひ出できこえたまはぬをりなし。おはせましかば、この
人もかかる心をそへたまはましやといと悲しく、宮のつらく
なりたまはん嘆きよりも、このこといと苦しくおぼゆ。
男君も、強ひて思ひわびて、例の、しめや
かなるタつ方おはしたり。やがて端に御
褥さし出でさせたまひて、(中の君)「いとなや
ましきほど「にてなん、え聞こえさせぬ」と、人して聞こえ出
だしたまへるを聞くに、いみじくつらくて涙の落ちぬべきを、
人目につつめば、強ひて紛らはして、(薫)「なやませたまふを
りは、知らぬ僧なども近く参り寄るを。医師などの列にても、
御簾の内にはさぶらふまじくやは。かく人づてなる御消息な
む、かひなき心地する」とのたまひて、いとものしげなる御
気色なるを、一夜ももののけしき見し人々、げにいと見苦し
くはべるめりとて、母屋の御簾うちおろして、夜居の僧の座
に入れたてまつるを、女君、まことに心地もいと苦しけれど、

P445
人のかく言ふに、掲焉ならむも、また、いかがとつつましけ
れば、ものうながらすこしゐざり出でて、対面したまへり。
 いとほのかに、時々もののたまふ御けはひの、昔の人のな
やみそめたまへりしころまづ思ひ出でらるるも、ゆゆしく悲
しくて、かきくらす心地したまへば、とみにものもえ言はれ
ず、ためらひてぞ聞こえたまふ。こよなく奥まりたまへるも
いとつらくて、簾の下より几帳をすこし押し入れて、例の、
馴れ馴れしげに近づき寄りたまふがいと苦しければ、わりな
しと思して、少将といひし人を近く呼び寄せて、(中の君)「胸な
ん痛き。しばしおさへて」とのたまふを聞きて、(薫)「胸はお
さへたるはいと苦しくはべるものを」とうち嘆きてゐなほり
たまふほども、げにぞ下やすからぬ。(薫)「いかなれば、かく
しも常になやましくは思さるらむ。人に問ひはべりしかば、
しばしこそ心地はあしかなれ、さて、また、よろしきをりあ
りなどこそ教へはべしか。あまり若々しくもてなさせたまふ

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なめり」とのたまふに、いと恥づかしくて、(中の君)「胸はいつ
ともなくかくこそははべれ。昔の人もさこそはものしたまひ
しか。長かるまじき人のするわざとか、人圭言ひはべるめ
る」とぞのたまふ。げに、誰も干年の松ならぬ世をと思ふに
は、いと心苦しくあはれなれば、この召し寄せたる人の聞か
んもつつまれず、かたはらいたき筋のことをこそ選りとどむ
れ、昔より思ひきこえしさまなどを、かの御耳ひとつには心
得させながら、人はまたかたはにも聞くまじきさまに、さま
よくめやすくぞ言ひなしたまふを、げにありがたき御心ばへ
にもと聞きゐたりけり。
 何ごとにつけても、故君の御事をぞ尽きせず思ひたまへる。
(薫)「いはけなかりしほどより、世の中を思ひ離れてやみぬべ
き心づかひをのみならひはべしに、さるべきにやはべりけん、
疎きものからおろかならず思ひそめきこえはべりし一ふしに、
かの本意の聖心はさすがに違ひやしにけへ慰めばかりに

P447
ここにもかしこにも行きかかづらひて、人のありさまを見ん
につけて、紛るることもやあらんなど思ひよるをりをりはべ
れど、さらに外ざまにはなびくべくもはべらざりけり。よろ
づに思ひたまへわびては、心のひく方の強からぬわざなりけ
れば、すきがましきやうに思さるらむと恥づかしけれど、あ
るまじき心のかけてもあるべくはこそめざましからめ、ただ
かばかりのほどにて、時々思ふことをも聞こえさせうけたま
はりなどして、隔てなくのたまひ通はむを、誰かは咎め出づ
べき。世の人に似ぬ心のほどは、皆人にもどかるまじくはべ
るを。なほうしろやすく思したれ」など、恨みみ泣きみ聞こ
えたまふ。(中の君)「うしろめたく思ひきこえば、かくあやしと
人も見思ひぬべきまでは聞こえはべるべくや。年ごろ、こな
たかなたにつけつつ、見知ることどものはべりしかばこそ、
さまことなる頼もし人にて、今はこれよりなどおどろかしき
こゆれ」とのたまへば、(薫)「さやうなるをりもおぼえはべら

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ぬものを、いとかしこきことに思しおきてのたまはするや。
この御山里出立いそぎに、からうじて召し使はせたまふべき。
それも、げに、御覧じ知る方ありてこそはと、おろかにやは
思ひはべる」などのたまひて、なほいともの恨めしげなれど、
聞く人あれば、思ふままにもいかでかはつづけたまはん。
外の方をながめ出だしたれば、やうやう暗
くなりにたるに、虫の声ばかり紛れなくて、
山の方小暗く、何のあやめも見えぬに、い
としめやかなるさまして寄りゐたまへるも、わづらはしとの
み内には思さる。(薫)「限りだにある」など、忍びやかにうち
誦じて、(薫)「思うたまへわびにてはべり。音なしの里求めま
ほしきを、かの山里のわたりに、わざと寺などはなくとも、
昔おぽゆる人形をも作り、絵にも描きとりて、行ひはべらむ
となん思うたまへなりにたる」とのたまへば、(中の君)「あはれ
なる御願ひに、また、うたて御手洗川近き心地する人形こそ、

P449
思ひやりいとほしくはべれ。黄金求むる絵師も。こそなど、う
しろめたくぞはべるや」とのたまへば、(薫)「そよ。その工匠
も絵師も、いかでか心にはかなふべきわざならん。近き世に
花降らせたる工匠もはべりけるを、さやうならむ変化の人も
がな」と、とざまかうざまに忘れん方なきよしを、嘆きたま
ふ気色の、心深げなるもいとほしくて、いますこし近くすべり
寄りて、(中の君)「人形のついでに、いとあやしく、思ひよるま
じきことをこそ思ひ出ではべれ」とのたまふけはひのすこし
なつかしきもいとうれしくあはれにて、(薫)「何ごとにか」と
言ふままに、几帳の下より手をとらふれば、いとうるさく思
ひならるれど、いかさまにして、かかる心をやめて、なだら
かにあらんと思へば、この近き人の思はんことのあいなくて、
さりげなくもてなしたまへり。
 (中の君)「年ごろは世にやあらむとも知らざりつる人の、この
夏ごろ、遠き所よりものして尋ね出でたりしを、疎くは思ふ

P450
まじけれど、また、うちつけに、さしも何かは睦び思はんと
思ひはべりしを、先つころ来たりしこそ、あやしきまで昔人
の御けはひに通ひたりしかば、あはれにおぼえなりにしか。
形見など、かう思しのたまふめるは、なかなか何ごともあさ
ましくもて離れたりとなん、見る人々も言ひはべりしを、い
とさしもあるまじき人のいかでかはさはありけん」とのたま
ふを、夢語かとまで聞く。(薫)「さるべきゆゑあればこそは、
さやうにも睦びきこえらるらめ。などか、今まで、かくもか
すめさせたまはざらん」とのたまへば、(中の君)「いさや、その
ゆゑも、いかなりけんこととも思ひわかれはべらず。ものは
かなきありさまどもにて世に落ちとまりさすらへんとすらむ
こととのみ、うしろめたげに思したりしことどもを、ただ一
人かき集めて思ひ知られはべるに、また、あいなきことをさ
へうちそへて、人も聞きつたへんこそ、いといとほしかるべ
けれ」とのたまふ気色見るに、宮の忍びてものなどのたまひ

P451
けん人の忍ぶ草摘みおきたりけるなるべしと見知りぬ。  
 似たりとのたまふゆかりに耳とまりて、(薫)「かばかりにて
は。同じくは言ひはてさせたまひてよ」と、いぶかしがりた
まへど、さすがにかたはらいたくて、えこまかにも聞こえた
まはず。(中の君)「尋ねんと思す心あらば、そのわたりとは聞こ
えつべけれど、くはしくしもえ知らずや。また、あまり言は
ば、心おとりもしぬべきことになん」とのたまへば、(薫)「世
を海中にも、魂のあり処尋ねには、心の限り進みぬべきを、
いとさまで思ふべきにはあらざなれど、いとかく慰めん方な
きよりはと思ひよりはべる。人形の願ひばかりには、などか
は山里の本尊にも思ひはべらざらん。なほたしかにのたまは
せよ」と、うちつけに責めきこえたまふ。(中の君)「いさや、い
にしへの御ゆるしもなかりしことを、かくまで漏らしきこゆ
るも、いと口軽けれど、変化の工匠求めたまふいとほしさに
こそ、かくも」とて、(中の君)「いと遠き所に年ごろ経にけるを、

P452
母なる人の愁はしきことに思ひて、あながちに尋ねよりしを、
はしたなくもえ答へではべりしにものしたりしなり。ほのか
なりしかばにや、何ごとも思ひしほどよりは見苦しからずな   
ん見えし。これをいかさまにもてなさむと嘆くめりしに、仏
にならんは、いとこよなきことにこそはあらめ、さまではい
かでかは」など聞こえたまふ。
 さりげなくて、かくうるさき心をいかで言ひ放つわざもが
なと思ひたまへると見るはつらけれど、さす、がにあはれなり。
あるまじきこととは深く思ぴたまへるものから、顕証に、は
したなきさまには、んもてなしたまはぬも、見知りたまへるに
こそはと思ふ心ときめきに、夜もいたく更けゆくを、内には
人目いとかたはらいたくおばえたまひて、うちたゆめて入り
たまひぬれば、男君、ことわりとはかへすがへす思へど、な
ほいと恨めしく口惜しきに、思ひしづめん方もなき心地して
涙のこぼるるも人わろければ、よろづに思ひ乱るれど、ひた

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ぶるに浅はかならむもてなし、はた、なほいとうたて、わが
ためもあいなかるべければ、念じかへして、常よりも嘆きが
ちにて出でたまひぬ。
 かくのみ思ひては、いかがすべからむ、苦しくもあるべき
かな、いかにしてかは、おほかたの世にはもどきあるまじき
さまにて、さすがに思ふ心のかなふわざをすべからむ、など、
下り立ちて練じたる心ならねばにや、わがため、人のためも
心やすかるまじきことを、わりなく思ほし明かす。似たりと
のたまひつる人も、いかでかはまことかとは見るべき、さば
かりの際なれば、思ひよらんに難くはあらずとも、入の、本
意にもあらずは、うるさくこそあるべけれ、など、なほそな
たざまには心もたたず。
宇治の宮を久しく見たまはぬ時は、いとど
昔遠くなる心地して、すずろに心細ければ、
九月二十余日ばかりにおはしたり。いとど

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しく風のみ吹き払ひて、心すごく荒ましげなる水の音のみ宿  
守にて、人影もことに見えず。見るにはまづかきくらし、悲
しきことぞ限りなき。弁の尼召し出でたれば、障子口に、奇
鈍の几帳さし出でて参れり。(弁の尼)「いとかしこけれど、まし
ていと恐ろしげにはべれば、つつましくてなむ」と、まほに
は出で来ず。(薫)「いかにながめたまふらんと思ひやるに、同
じ心なる人もなき物語も聞こえんとてなん。はかなくも積も
る年月かな」とて、涙をひと目浮けておはするに、老人はい
とどさらにせきあへず。(弁の尼)「人の上にて、あいなくものを
思すめりしころの空ぞかしと思ひたまへ出づるに、いつとは
べらぬ中にも、秋の風は身にしみてつらくおぼえはべりて、
げにかの嘆かせたまふめりしもしるき世の中の御ありさまを、
ほのかにうけたまはるも、さまざまになん」と聞こゆれば、
薫「とあることもかかることも、ながらふればなほるやうも
あるを、あぢきなく思ししみけんこそ、わが過ちのやうにな

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ほ悲しけれ。このごろの御ありさまは、何か、それこそ世の
常なれ、されど、うしろめたげには見えきこえざめり。言ひ
ても言ひても、むなしき空にのぼりぬる煙のみこそ、誰もの
がれぬことながら、後れ先だつほどは、なほいと言ふかひな
かりけり」とても、また泣きたまひぬ。
阿闍梨召して、例の、かの御忌日の経仏の
ことなどのたまふ。(薫)「さて、ここに時々
ものするにつけても、かひなきことの安か
らずおぼゆるがいと益なきを、この寝殿こぼちて、かの山寺
のかたはらに堂建てむとなん思ふを、同じくはとくはじめて
ん」とのたまひて、堂いくつ、廊ども、僧房などあるべきこ
とども書き出でのたまひなどせさせたまふを、阿闍梨「いと尊
きこと」と聞こえ知らす、(薫)「昔の人の、ゆゑある御住まひ
に占め造りたまひけん所をひきこばたん、情なきやうなれど、 
その御心ざしも功徳の方には進みぬべく思しけんを、とまり

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たまはん人々を思しやりて、えさはおきてたまはざりけるに
や。今は、兵部卿宮の北の方こそはしりたまふべければ、か
の宮の御料とも言ひつべくなりにたり。されば、ここながら
寺になさんことは便なかるべし。心にまかせてさもえせじ。
所のさまもあまり川面近く、顕証にもあれば、なほ寝殿を失
ひて、異ざまにも造りかへんの心にてなん」とのたまへば、
(阿闍梨)「とざまかうざまに、いともかしこく尊き御心なり。昔、
別れを悲しびて、骨をつつみてあまたの年頸にかけてはべり
ける人も、仏の御方便にてなん、かの骨の嚢を棄てて、つひ
に聖の道にも入りはべりにける。この寝殿を御覧ずるにつけ
て、御心動きおはしますらん、ひとつにはたいだいしきこと
なり。また、後の世のすすめともなるべきことにはべりけり。
急ぎ仕うまつるべし。暦の博士はからひ申してはべらむ目を
うけたまはりて、もののゆゑ知りたらん工匠二三人を賜りて、
こまかなろことどもは、仏の御教へのままに仕うまつらせは

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べらむ」と申す。とかくのたまひ定めて、御庄の人ども召し
て、このほどのことども、阿闍梨の言はんままにすべきよし
など仰せたまふ。はかなく暮れぬれば、その夜はとどまりた
まひぬ。
このたびばかりこそ見めと思して、立ちめ
ぐりつつ見たまへば、仏もみなかの寺に移
してければ、尼君の行ひの具のみあり。い
とはかなげに住まひたるを、あはれに、いかにして過ぐすら
んと見たまふ。(薫)「この寝殿は、変へて造るべきやうあり。
造り出でんほどは、かの廊にものしたまへ。京の宮にとり渡
さるべき物などあらば、庄の人召して、あるべからむやうに
ものしたまへ」など、まめやかなることどもを語らひたまふ。
ほかにては、かばかりにさだ過ぎなん人を、何かと見入れた
まふべきにもあらねど、夜も近く臥せて、昔物語などせさせ
たまふ。故権大納言の君の御ありさまも、聞く人なきに心や

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すくて、いとこまやかに聞こゆ。(弁の尼)「いまはとなりたまひ
しほどに、めづらしくおはしますらん御ありさまをいぶかし
きものに思ひきこえさせたまふめりし御気色などの思ひたま
へ出でらるるに、かく思ひかけはべらぬ世の末に、かくて見
たてまつりはべるなん、かの御世に睦ましく仕うまつりおき
ししるしのおのづからはべりけると、うれしくも悲しくも思
ひたまへられはべる。心憂き命のほどにて、さまざまのこと
を見たまへ過ぐし、思ひたまへ知りはべるなん、いと恥づか
しく、心憂くはべる。宮よりも、時々は参りて見たてまつれ、
おぼつかなく絶え籠りはてぬるは、こよなく思ひ隔てけるな
めりなどのたまはするをりをりはべれど、ゆゆしき身にてな
ん、阿弥陀仏より外には、見たてまつらまほしき人もなくな
りてはべる」など聞こゆ。故姫君の御事ども、はた尽きせず、
年ごろの御ありさまなど語りて、何のをり河とのたまひし、
花紅葉の色を見ても、はかなく詠みたまひける歌語などを、

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つきなからず、うちわななきたれど語るに、児めかしく言少
ななるものからをかしかりける人の御心ばへかなとのみ、い
とど聞きそへたまふ。宮の御方は、いますこしいまめかしき
ものから、心ゆるさざらん人のためには、はしたなくもてな
したまひつべくこそものしたまふめるを、我にはいと心深
く情々しとは見えて、いかで過ごしてんとこそ思ひたまへれ、
など、心の中に思ひくらべたまふ。
さて、もののついでに、かの形代のことを
言ひ出でたまへり。(弁の尼)「京に、このごろ、
はべらんとはえ知りはべらず。人づてにう
けたまはりしことの筋ななり。故宮の、まだかかる山里住み
もしたまはず、故北の方の亡せたまへりけるほど近かりける
ころ、中将の君とてさぶらひける上臈の、心ばせなどもけし
うはあらざりけるを、いと忍びてはかなきほどにもののたま
はせけるを、知る人もはべらざりけるに、女子をなん産みて

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はべりけるを、さもやあらんと思すことのありけるからに、
あいなくわづらはしくものしきやうに思しなりて、またとも
御覧じ入るることもなかりけり。あいなくそのことに思し懲
りて、やがておほかた聖にならせたまひにけるを、はしたな
く思ひてえさぶらはずなりにけるが、陸奥国の守の妻になり
たりけるを、一年、上りて、その君たひらかにものしたまふ
よし、このわたりにもほのめかし申したりけるを、聞こしめ
しつけて、さらにかかる消息あるべきことにもあらずとのた
まはせ放ちければ、かひなくてなん嘆きはべりける。さて、
また、常陸になりて下りはべりにけるが、この年ごろ音にも
聞こえたまはざりつるが、この春、上りて、かの宮には尋ね
参りたりけるとなん、ほのかに聞きはべりし。かの君の年は、
二十ばかりにはなりたまひぬらんかし。いとうつくしく生ひ
出でたまふがかなしきなどこそ、中ごろは、文にさへ書きつ
づけてはべめりしか」と聞こゆ。

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くはしく聞きあきらめたまひて、さらば、まことにてもあ
らんかし、見ばやと思ふ心出で来ぬ。(薫)「昔の御けはひに、
かけてもふれたらん人は、知らぬ国までも尋ね知らまほしき
心あるを。数まへたまはざりけれど、け近き人にこそはあな
れ。わざとはなくとも、このわたりにおとなふをりあらむつ
いでに、かくなん言ひしと伝へたまへ」などばかりのたまひ
おく。(弁の尼)「母君は、故北の方の御姪なり。弁も離れぬ仲ら
ひにはべるべきを、その昔はほかほかにはべりて、くはしく
も見たまへ馴れざりき。先つころ、京より、大輔がもとより
申したりしは、かの君なん、いかでかの御墓にだに参らん、
とのたまふなる、さる心せよ、などはべりしかど、まだ、こ
こにさしはへてはおとなはずはべめり。いま、さらば、さや
のついでに、かかる仰せなど伝へはべらむ」と聞こゆ。

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明けぬれば帰りたまはんとて、昨夜後れて
持てまゐれる絹、綿などやうのもの、阿闍
梨に贈らせたまふ。尼君にも賜ふ。法師ば
ら、尼君の下衆どもの料にとて、布などいふ物をさへ召して
賜ぶ。心細き住まひなれど、かかる御とぶらひたゆまざりけ
れば、身のほどにはいとめやすく、しめやかにてなん行ひけ
る。木枯のたへがたきまで吹きとほしたるに、残る梢もなく
散り敷きたる紅葉を踏み分けける跡も見えぬを見わたして、
とみにもえ出でたまはず。いとけしきある深山木にやどりた
る蔦の色ぞまだ残りたる。こだになどすこし引き取らせたま
ひて、宮へと思しくて、持たせたまふ。
  (薫)やどり木と思ひいでずは木のもとの旅寝もいかにさ
  びしからまし
と独りごちたまふを聞きて、尼君、
  荒れはつる朽木のもとをやどり木と思ひおきけるほどの

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  悲しさ
あくまで古めきたれど、ゆゑなくはあらぬをぞいささかの慰
めには思しける。
宮に紅葉奉れたまへれば、男宮おはしまし
けるほどなりけり。「南の宮より」とて、
何心なく持てまゐりたるを、女君、例のむ
つかしきこともこそと苦しく思せど、とり隠さんやは。宮、
「をかしき蔦かな」と、ただならずのたまひて、召し寄せて
見たまふ。御文には、
 (薫)日ごろ、何ごとかおはしますらむ。山里にものしはべ
 りて、いとど峰の朝霧にまどひはべりつる、御物語もみづ
 からなん。かしこの寝殿、堂になすべきこと、阿闍梨に言
 ひつけはべりにき。御ゆるしはべりてこそは、外に移すこ
 ともものしはべらめ。弁の尼にさるべき仰せ言はつかはせ。
 などぞある。(匂宮)「よくもつれなく書きたまへる文かな。ま

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ろありとぞ聞きつらむ」とのたまふも、すこしは、げに、さ
やありつらん。女君は、事なきをうれしと思ひたまふに、あ
ながちにかくのたまふをわりなしと思して、うち怨じてゐた
まへる御さま、よろづの罪もゆるしつべくをかし。(匂宮)「返
り事書きたまへ。見じや」とて、外ざまに向きたまへり。あ
まえて書かざらむもあやしければ、
 (中の君)山里の御歩きのうらやましくもはべるかな。かしこ
 は、げに、さやうにてこそよくと思ひたまへしを。ことさ
 らに、また、巌の中もとめんよりは、荒らしはつまじく思
 ひはべるを、いかにもさるべきさまになさせたまはば、お
 ろかならずなん。
と聞こえたまふ。かく憎き気色もなき御睦びなめりと見たま
ひながら、わが御心ならひに、ただならじと思すが安からぬ
なるべし。

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枯れ枯れなる前栽の中に、尾花の、物より
ことに手をさし出でて招くがをかしく見ゆ
るに、まだ穂に出でさしたるも、露をつら
ぬきとむる玉の緒、はかなげにうちなびきたるなど、例のこ
となれど、タ風なほあはれなるころなりかし。
  (匂宮)穂にいでぬもの思ふらししのすすき招くたもとの露
  しげくして
なつかしきほどの御衣どもに、直衣ばかり着たまひて、琵琶
を弾きゐたまへり。黄鐘調の掻き合はせを、いとあはれに弾
きなしたまへば、女君も心に入
りたまへることにて、もの怨じ
もえしはてたまはず、小さき御
几帳のつまより、脇息に寄りか
かりてほのかにさし出でたまへ
る、いと見まほしくらうたげな

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り。
  (中の君)「秋はつる野辺のけしきもしのすすきほのめく風に
  つけてこそ知れ
わが身ひとつの」とて涙ぐまるるが、さすがに恥づかしけれ
ば、扇を紛らはしておはする心の中も、らうたく推しはから
るれど、かかるにこそ人もえ思ひ放たざらめと疑はしき方た
だならで隈めしきなめり。
 菊の、まだよくもうつろひはてで、わざとつくろひたてさ
せたまへるは、なかなか打そきに、いかなる一本にかあらむ、
いと見どころありてうつろひたるを、とりわきて折らせたま
ひて、(匂宮)「花の中に偏に」と誦じたまひて、(匂宮)「なにがし
の皇子の、この花めでたる夕ぞかし、いにしへ天人の翔りて、
琵琶の手教へけるは。何ごとも浅くなりにたる世はものうし
や」とて、御琴さし置きたまふを、口惜しと思して、中の君
「心こそ浅くもあらめ、昔を伝へたらむことさへは、などて

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かさしも」とて、おぼつかなき手などをゆかしげに思したれ
ば、(匂宮)「さらば、ひとりごとはさうざうしきに、さし答へ
したまへかし」とて、人召して、箏の御琴とり寄せさせて、
弾かせたてまつりたまへど、(中の君)「昔こそまねぶ人もものし
たまひしか、はかばかしく弾きもとめずなりにしものを」と
つつましげにて手もふれたまはねば、(匂宮)「かばかりのこと
も、隔てたまへるこそ心憂けれ。このごろ見るわたりは、ま
だいと心とくべきほどにもならねど、片なりなる初ごとをも
隠さずこそあれ。すべて、女は、やはらかに心うつくしきな
んよきこととこそ、その中納言も定むめりしか。かの君に、
はた、かくもつつみたまはじ。
こよなき御仲なめれば」など、
まめやかに恨みられてぞ、う    
ち嘆きてすこし調べたまふ。
ゆるびたりければ、盤渉調に

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合はせたまふ掻き合はせなど、爪音をかしげに聞こゆ。伊勢
の海うたひたまふ御声のあてにをかしきを、女ばら物の背後
に近づき参りて、笑みひろごりてゐたり。(女房)「二心おはし
ますはつらけれど、それもことわりなれば、なほわが御前を
ば幸ひ人とこそ申さめ。かかる御ありさまにまじらひたまふ
べくもあらざりし年ごろの御住まひを、また帰りなまほしげ
に思して、のたまはするこそいと心憂けれ」など、ただ言ひ
に言へば、若き人々は、「あなかまや」などと制す。
御琴ども教へたてまつりなどして、三四日
籠りおはして、御物忌などことつけたまふ
を、かの殿には恨めしく思して、大臣、内
裏より出でたまひけるままにここに参りたまへれば、宮、
「ことごとしげなるさまして、何しにいましつるぞとよ」と
むつかりたまへど、あなたに渡りたまひて対面したまふ。
(夕霧)「ことなることなきほどは、この院を見で久しくなりは

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べるもあはれにこそ」など、昔の御物語どもすこし聞こえた
まひて、やがて引き連れきこえたまひて出でたまひぬ。御子
どもの殿ばら、さらぬ上達部、殿上人などもいと多くひきつ
づきたまへる、勢ひこちたきを見るに、並ぶべくもあらぬぞ
屈しいたかりける。人々のぞきて見たてまつりて、(女房)「さ
も、きよらにおはしける大臣かな。さばかり、いづれとなく
若く盛りにて、きよげにおはさうずる御子どもの、似たまふ
べきもなかりけり。あなめでたや」と言ふもあり。また、
(女房)「さばかりやむごとなげなる御さまにて、わざと迎へに
参りたまへるこそ憎けれ。やすげなの世の中や」など、うち
嘆くもあるべし。御みづからも、来し方を思ひ出づるよりは
じめ、かのはなやかなる御仲らひに立ちまじるべくもあらず、
かすかなる身のおぼえをといよいよ心細ければ、なほ心やす
く籠りゐなんのみこそ目やすからめなど、いとどおぼえたま
ふ。はかなくて年も暮れぬ。

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正月晦日方より、例ならぬさまになやみた
まふを、宮、まだ御覧じ知らぬことにて、
いかならむと思し嘆きて、御修法など、所
どころにてあまたせさせたまふに、またまたはじめそへさせ
たまふ。いといたくわづらひたまへば、后の宮よりも御とぶ
らひあり。かくて三年になりぬれど、一ところの御心ざしこ
そおろかならね、おほかたの世にはものものしくももてなし
きこえたまはざりつるを、このをりぞ、いづこにもいづこに
も聞こしめしおどろきて、御とぶらひ、ども聞こえたまひける。
中納言の君は、宮の思しさわぐに劣らず、
いかにおはせんと嘆きて、心苦しくうしろ
めたく思さるれど、限りある御とぶらひば
かりこそあれ、あまりもえ参でたまはで、忍びてぞ御祈祷な
どもせさせたまひける。さるは、女二の宮の御裳着、ただこ
のころになりて、世の中響き営みののしる。よろづのこと、

P471
帝の御心ひとつなるやうに思しいそげば、御後見なきしもぞ、
なかなかめでたげに見えける。女御のしおきたまへることを
ばさるものにて、作物所、さるべき受領どもなど、とりどり
に仕うまつることどもいと限りなし。やがて、そのほどに、
参りそめたまふべきやうにありければ、男方も心づかひした
まふころなれど、例のことなれば、そなたざまには心も入ら
で、この御事のみいとほしく嘆かる。
二月の朔日ごろに、直物とかいふことに、
権大納言になりたまひて、右大将かけたま
ひつ。右の大殿左にておはしけるが、辞し
たまへるところなりけり。よろこびに所どころ歩きたまひて、
この宮にも参りたまへり。いと苦しくしたまへば、こなたに
おはしますほどなりければ、やがて参りたまへり。憎などさ
ぶらひて便なき方にとおどろきたまひて、あざやかなる御直
衣、御下襲など奉り、ひきつくろひたまひて、下りて答の拝

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したまふ、御さまどもとりどりにいとめでたく、(薫)「やがて、
今宵、衛府の人に禄賜ふ饗の所に」と請じたてまつりたまふ
を、なやみたまふ人によりてぞ思したゆたひたまふめる。右
大臣殿のしたまひけるままにとて、六条院にてなんありける。
垣下の親王たち、上達部、大饗に劣らず、あまり騒がしきま
でなん集ひたまひける。この宮も渡りたまひて、静心なけれ
ば、まだ事はてぬに急ぎ帰りたまひぬるを、大殿の御方には、
「いとあかずめざまし」とのたまふ。劣るべくもあらぬ御ほ
どなるを、ただ今のおぼえのはなやかさに思しおごりて、お
したちもてなしたまへるなめりかし。
からうじて、その暁に、男にて生まれたま
へるを、宮もいとかひありてうれしく思し
たり。大将殿も、よろこびにそへてうれし
く思す。昨夜おはしましたりしかしこまりに、やがて、この
御よろこびもうちそへて、立ちながら参りたまへり。かく籠

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りおはしませば、参りたまはぬ人なし。御産養、三日は、
例の、ただ宮の御私事にて、五日の夜は、大将殿より屯食
五十具、碁手の銭、椀飯などは世の常のやうにて、子持の御
前の衝重三十、児の御衣五重襲にて、御襁褓などぞ、ことご
としからず忍びやかにしなしたまへれど、こまかに見れば、   
わざと目馴れぬ心ばへなど見えける。宮の御前にも浅香の折
敷、高圷どもにて、粉熟まゐらせたまへり。女房の御前には、
衝重をばさるものにて、檜破子三十、さまざまし尽くしたる
ことどもあり。人目にことごとしくは、ことさらにしなした
まはず。七日の夜は、后の宮の御産養なれば、参りたまふ
人々多かり。宮の大夫
をはじめて、殿上人、
上達部数知らず参りた
まへり。内裏にも聞こ
しめして、(帝)「宮のは

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じめておとなびたまふなるには、いかでか」とのたまはせて、
御佩刀奉らせたまへり。九日も、大殿より仕うまつらせたま
へり。よろしからず思すあたりなれど、宮の思さんところあ
れば、御子の君達など参りたまひて。すべていと思ふことな
げにめでたければ、御みづからも、月ごろ、もの思はしく心
地のなやましきにつけても、心細く思しわたりつるに、かく
面、たたしくいまめかしきことどもの多かれば、すこし慰みも
やしたまふらむ。大将殿は、かくさへおとなびはてたまふめ
れば、いとどわが方ざまはけ遠くやならむ、また、宮の御心
ざしもいとおろかならじ、と思ふは口惜しけれど、また、は
じめよりの心おきてを思ふにはいとうれしくもあり。
かくて、その月の二十日あまりにぞ、藤壼
の宮の御裳着のことありて、またの日なん
大将参りたまひける夜のことは忍びたるさ
まなり。天の下響きていつくしう見えつる御かしづきに、た

P475
だ人の具したてまつりたまふぞ、なほあかず心苦しく見ゆる。
「さる御ゆるしはありながらも、ただ今、かく、急がせたま
ふまじきことぞかし」と、譏らはしげに思ひのたまふ人もあ
りけれど、思したちぬること、すがすがしくおはします御心
にて、来し方の例なきまで同じくはもてなさんと思しおきつ
るなめり。帝の御婿になる人は、昔も今も多かれど、かく、
盛りの御世に、ただ入のやうに婿とり急がせたまへるたぐひ
は少なぐやありけん。右大臣も、「めづらしかりける人の御
おぼえ宿世なり。故院だに、朱雀院の御末にならせたまひて、
今はとやつしたまひし際にこそ、かの母宮を得たてまつりた
まひしか。我は、まして、人もゆるさぬものを、拾ひたりし
や」とのたまひ出づれば、宮は、げにと思すに、恥づかしく
て御答へもえしたまはず。
 三日の夜は、大蔵卿よりはじめて、かの御方の心寄せにな
させたまへる人々、家司に仰せ言賜ひて、忍びやかなれど、  

P476
かの御前、随身、車副、舎人まで禄賜す。そのほどのことど
もは、私事のやうにぞありける。
かくて後は、忍び忍びに参りたまふ。心の
中には、なほ忘れがたきいにしへざまのみ
おぽえて、畳は里に起き臥しながめ暮らし
て、暮るれば心より外に急ぎ参りたまふをも、ならはぬ心地
にいとものうく苦しくて、まかでさせたてまつらむとぞ思し
おきてける。母宮は、いとうれしきことに思したり。おはし
ます寝殿譲りきこゆべくのたまへど、(薫)「いとかたじけなか
らむ」とて、御念誦堂の間に廊をつづけて造らせたまふ。
西面に移ろひたまふべきなめり。東の対どもなども、焼けて
後、うるはしく新しくあらまほしきを、いよいよ磨きそへつ
つ、こまかにしつらはせたまふ。
 かかる御心づかひを、内裏にも聞かせたまひて、ほどなく
うちとけ移ろひたまはんをいかがと思したり。帝と聞こゆれ

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ど、心の闇は同じことなんおはしましける。母宮の御もとに
御使ありける御文にも、ただこのことをなむ聞こえさせたま
ひける。故朱雀院の、とりわきて、この尼宮の御事をば聞こ
えおかせたまひしかば、かく世を背きたまへれど、衰へず、
河ごとももとのままにて、奏せさせたまふことなどは、かな
らず聞こしめし入れ、御用意深かりけり。かく、やむごとな
き御心どもに、かたみに限りもなくもてかしづき騒がれたま
ふ面だたしさも、いかなるにかあらむ、心の中にはことにう
れしくもおぼえず、なほ、ともすればうちながめつつ、宇治
の寺造ることを急がせたまふ。
宮の若君の五十日になりたまふ日数へとり
て、その餅のいそぎを心に入れて、籠物、
檜破子などまで見入れたまひつつ、世の常
のなべてにはあらずと思し心ざして、沈、紫檀、銀、黄金な
ど、道々の細工どもいと多く召しさぶらはせたまへば、我劣

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らじとさまざまのこと、ともをし出づめり。
みづからも、例の、宮のおはしまさぬ隙に
おはしたり。心のなしにやあらむ、います
こし重々しくやむごとなげなる気色さへそ
ひにけりと見ゆ。今は、さりともむつかしかりしすずろごと
などは、紛れたまひにたらんと思ふに、心やすくて対面した
まへり。されど、ありしながらの気色に、まづ涙ぐみて、(薫)
「心にもあらぬまじらひ、いと思ひの外なるものにこそと、
世を思ひたまへ乱るることなんまさりにたる」と、あいだち
なくぞ愁へたまふ。(中の君)「いとあさましき御事かな。人もこ
そおのづからほのかにも漏り聞きはべれ」などはのたまへど、
かばかりめでたげなることどもにも慰まず、忘れがたく思ひ
たまふらむ心深さよとあはれに思ひきこえたまふに、おろか
にもあらず思ひ知られたまふ。おはせましかばと、口惜しく
思ひ出できこえたまへど、それも、わがありさまのやうにぞ、

P479
うらやみなく身を恨むべかりけるかし、何ごとも、数ならで
は、世の人めかしきこともあるまじかりけり、とおぼゆるに
ぞ、いとど、かのうちとけはてでやみなんと、思ひたまへり
し心おきては、なほ、いと重々しく思ひ出でられたまふ。
 若君を切にゆかしがりきこえたまへば、恥づかしけれど、
何かは、隔て顔にもあらむ、わりなきことひとつにつけて、
恨みらるるより外には、いかでこの人の御心に違はじ、と思
へば、みづからはともかくも答へきこえたまはで、乳母して         
さし出でさせたまへり。さらなることなれば、憎げならんや
は、ゆゆしきまで白くうつくしくて、たかやかに物語し、う
ち笑ひなどしたまふ顔を見るに、わがものにて見まほしくう
らやましきも、世の思ひ離れがたくなりぬるにやあらむ。さ
れど、言ふかひなくなりたまひにし人の、世の常のありさま
にて、かやうならむ人をもとどめおきたまへらましかばとの
みおぼえて、このごろ面だたしげなる御あたりに、いつしか

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などは思ひよられぬこそ、あまりすべなき君の御心なめれ。
かく女々しくねぢけて、まねびなすこそいとほしけれ、しか
わろびかたほならん人を、帝のとりわき切に近づけて、睦び
たまふべきにもあらじものを、まことしき方ざまの御心おき
てなどこそは、めやすくものしたまひけめとぞ推しはかるべ
き。
 げに、いとかく幼きほどを見せたまへるもあはれなれば、
例よりは物語などこまやかに聞こえたまふほどに、暮れぬれ
ば、心やすく夜をだに更かすまじきを苦しうおぼゆれば、嘆
く嘆く出でたまひぬ。(女房)「をかしの人の御匂ひや。折りつ
れば、とかや言ふやうに、鶯も尋ね来ぬべかめり」など、わ
づらはしがる若き人もあり。
夏にならば、三条宮ふたがる方になりぬべ
しと定めて、四月の朔日ごろ、節分とかい
ふことまだしき前に渡したてまつりたまふ。

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明日とての日、藤壼に上渡らせたまひて、。藤の花の宴せさせ
たまふ。南の廂の御簾あげて、倚子立てたり。公事にて、主
の宮の仕うまつりたまふにはあらず、上達部、殿上人の饗な
ど内蔵寮より仕うまつれり。右大臣、按察大納言、藤中納言、
左兵衛督、親王たちは三の宮、常陸の宮などさぶらひたまふ。
南の庭の藤の花のもとに、殿上人の座はしたり。後涼殿の
東に、楽所の人々召して、暮れゆくほどに、双調に吹きて。
上の御遊びに、宮の御方より御琴ども、笛など出ださせたま
へば、大臣をはじめたてまつりて、御前にとりつつまゐりた
まふ。故六条院の御手づから書きたまひて、入道の宮に奉ら
せたまひし琴の譜二巻、五葉の枝につけたるを、大臣取りた
まひて奏したまふ。次々に、箏の御琴、琵琶、和琴など、朱
雀院の物どもなりけり。笛は、かの夢に伝へし、いにしへの
形見のを、またなきものの音なりとめでさせたまひければ、
このをりのきよらより、または、いつかははえばえしきつい

P482
でのあらむと思して、取う
出たまへるなめり。大臣和
琴、三の宮琵琶など、とり
どりに賜ふ。大将の御笹は、
今日ぞ世になき音の限りは
吹きたてたまひける。殿上人の中にも、唱歌につきなからぬ
どもは召し出でて、おもしろく遊ぶ。
 宮の御方より、粉熟まゐらせたまへり。沈の折敷四つ、紫
檀の高圷、藤の村濃の打敷に折枝縫ひたり。銀の様器、瑠璃
の御盃、瓶子は紺瑠璃なり。兵衛督、御まかなひ仕うまつ
りたまふ。御盃まゐりたまふに、大臣しきりては便なかるべ
し、宮たちの御中に、はた、さるべきもおはせねば、大将に
譲りきこえたまふを、憚り申したまへど、御気色もいかがあ
りけん、御盃ささげて「をし」とのたまへる声づかひもてな
しさへ、例の公事なれど、人に似ず見ゆるも、今日はいとど

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見なしさへそふにやあらむ。さし返し賜りて、下りて舞踏し
たまへるほどいとたぐひなし。上臈の親王たち大臣などの賜
りたまふだにめでたきことなるを、これは、まして、御婿に
てもてはやされたてまつりたまへる、御おぼえおろかならず
めづらしきに、限りあれば下りたる座に帰り着きたまへるほ
ど、心苦しきまでぞ見えける。
 按察大納言は、我こそかかる目も見んと思ひしか、ねたの
わざやと思ひゐたまへり。この宮の御母女御をぞ、昔、心か
けきこえたまへりけるを、参りたまひて後も、なほ思ひ離れ
ぬさまに聞こえ通ひたまひて、はては宮を得たてまつらむの
心つきたりければ、御後見のぞむ気色も漏らし申しけれど、
聞こしめしだに伝へずなりにければ、いと心やましと思ひて、
(大納言)「人柄は、げに契りことなめれど、なぞ時の帝のことご
としきまで婿かしづきたまふべき。またあらじかし。九重の
内に、おはします殿近きほどにて、ただ人のうちとけさぶら

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ひて、はては宴や何やともて騒がるることは」など、いみじ
く譏りつぶやき申したまひけれど、さすがゆかしかりければ
参りて、心の中にぞ腹立ちゐたまへりける。
 紙燭さして歌ども奉る。文台のもとに寄りつつ置くほどの
気色は、おのおのしたり顔なりけれど、例の、いかにあやし
げに古めきたりけんと思ひやれば、あながちにみなも尋ね書
かず。上の町も、上臈とて、御口つきどもは、ことなること
見えざめれど、しるしばかりとて、一つ二つぞ問ひ聞きたり
し。これは、大将の君の、下りて御かざし折りてまゐりたま
へりけるとか。
  (薫)すべらきのかざしに折ると藤の花およばぬ枝に袖か
  けてけり
うけばりたるぞ、憎きや。
  (帝)よろづ世をかけてにほはん花なれば今日をもあかぬ
  色とこそみれ

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  君がため折れるかざしは紫の雲におとらぬ花のけしきか
  (大納言)世のつねの色とも見えず雲居までたちのぼりたる
  藤波の花
これやこの腹立つ大納言のなりけんと見ゆれ。かたへはひが
言にもやありけん。かやうに、ことなるをかしきふしもなく
のみぞあなりし。
 夜更くるままに、御遊びいとおもしろし。大将の君の、安
名尊うたひたまへる声ぞ、限りなくめでたかりける。按察も、
昔すぐれたまへりし御声のなごりなれば、今もいとものもの
しくて、うち合はせたまへり。右の大殿の御七郎、童にて笙
の笛吹く。いとうつくしかりければ御衣賜す。大臣下りて舞
踏したまふ。暁近うなりてぞ帰らせたまひける。禄ども、上
達部、親王たちには、上より賜す。殿上人、楽所の人々には、
宮の御方より品々に賜ひけり。

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その夜さりなん、宮まかでさせたてまつり
たまひける、儀式いと心ことなり。上の女
房、さながら御送り仕うまつらせたまひけ
る。廂の御車にて、廂なき糸毛三つ、黄金造り六つ、ただの
檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕八人づつさぶらふに、また、
御迎への出車ども十二、本所の人々乗せてなんありける。御
送りの上達部、殿上人、六位など、言ふ限りなききよらを尽
くさせたまへり。
 かくて心やすくうちとけて見たてまつりたまふに、いとを
かしげにおはす。ささやかにあてにしめやかにて、ここはと
見ゆるところなくおはすれば、宿世のほど口惜しからざりけ
りと、心おごりせらるるものから、過ぎにし方の忘らればこ
そはあらめ、なほ、紛るるをりなく、もののみ恋しくおぼゆ
れば、この世にては慰めかねつべきわざなめり、仏になりて
こそは、あやしくつらかりける契りのほどを、何の報いとあ

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きらめて思ひはなれめと思ひつつ、寺のいそぎにのみ心をば
入れたまへり。
賀茂の祭など騒がしきほど過ぐして、二十
日あまりのほどに、例の、宇治へおはした
り。造らせたまふ御堂見たまひて、すべき
ことどもおきてのたまひ、さて、例の、朽木のもとを見たま
へ過ぎんがなほあはれなれば、そなたざまにおはするに、女
車のこしごとしきさまにはあらぬ一つ、荒ましき東男の腰に
物負へるあまた具して、下人も       
数多く頼もしげなるけしきにて、        
橋より今渡り来る見ゆ。田舎び 
たるものかなと見たまひつつ、      
殿はまづ入りたまひて、御前ど
もはまだたち騒ぎたるほどに、
この車も、この宮をさして来る  

P487
なりけりと見ゆ。御随身どもかやかやと言ふを制したまひて、
「何人ぞ」と問はせたまへば、声うちゆがみたる者、「常陸前
司殿の姫君の初瀬の御寺に詣でてもどりたまへるなり。はじ
めもここになん宿りたまへりし」と申すに、おいや、聞きし
人ななりと思し出でて、人々をば他方に隠したまひて、「は
や御車入れよ、ここに、また、人宿りたまへど、北面にな
ん」と言はせたまふ。
 御供の人もみな狩衣にて、ことごとしからぬ姿どもなれど、
なほけはひやしるからん、わづらはしげに思ひて、馬どもひ
き避けなどしつつ、かしこまりつつぞをる。車は入れて、廊の
の西のつまにぞ寄する。この寝殿はまだあらはにて、簾もか
けず、下ろし籠めたる中の二間に立て隔てたる障子の穴より
のぞきたまふ。御衣の鳴れば、脱ぎおきて、直衣、指貫のか
ぎりを着てぞおはする。とみにも下りで、尼君に消息して、
かくやむごとなげなる人のおはするを、誰ぞなど案内するな

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るべし。君は、車をそれと聞きたまひつるより、(薫)「ゆめ、
その人にまろありとのたまふな」と、まづ口がためさせたま
ひてければ、みなさ心得て、「はやう下りさせたまへ。客人
はものしたまへど、他方になん」と言ひ出だしたり。
 若き人のある、まづ下りて、簾うちあぐめり。御前のさま
よりは、このおもと馴れてめやすし。また、おとなびたる人
いま一人下りて、「はやう」と言ふに、(浮舟)「あやしくあらは
なる、心地こそすれ」と言ふ声、ほのかなれどあてやかに聞こ
ゆ。(女房)「例の御事。こなたは、さきざきもおろしこめての
みこそははべれ。さては、また、いづこのあらはなるべき
ぞ」と、心をやりて言ふ。つつましげに下るるを見れば、ま
づ、頭つき様体細やかにあてなるほどは、いとよくもの思ひ
出でられぬべし。扇をつとさし隠したれば、顔は見えぬほど
心もとなくて、胸うちつぶれつつ見たまふ。車は高く、下る
る所はくだりたるを、この人々はやすらかに下りなしつれど、

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いと苦しげにややみて、ひさしく下りてゐざり入る。濃き袿
に、撫子と思しき細長、若苗色の小桂着たり。四尺の屏風を、
この障子にそヘて立てたるが上より見ゆる穴なれば残るとこ
ろなし。こなたをばうしろめたげに思ひて、あなたざまに向
きてぞ添ひ臥しぬる。(女房)「さも苦しげに思したりつるか
な。泉川の舟渡りも、まことに、今日は、いと恐ろしくこそ
ありつれ。この二月には、水の少なかりしかばよかりしなり
けり。いでや、歩くは、東国路を思へば、いづこか恐ろしか
らん」など、二人して、苦しとも思ひたらず言ひゐたるに、
主は音もせでひれ臥したり。腕をさし出でたるが、まろらか
にをかしげなるほども、常陸殿などいふべくは見えず、まこ
とにあてなり。
 やうやう腰いたきまで立ちすくみたまへど、人のけはひせ
じとて、なほ動かで見たまふに、若き人、「あなかうばしや。
いみじき香の香こそすれ。尼君のたきたまふにやあらむ」。

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老人、「まことにあなめでたの物の香や。京人はなほいとこ
そみやびかにいまめかしけれ。天下にいみじきことと思した  
りしかど、東国にてかかる薫物の香は、え合はせ出でたまは  
ざりきかし。この尼君は、住まひかくかすかにおはすれど、  
装束のあらまほしく、鈍色、青鈍といへど、いときよらにぞ
あるや」などほめゐたり。あなたの簀子より童来て、「御湯
などまゐらせたまへ」とて、折敷どももとりつづきてさし入
る。くだもの取り寄せなどして、(女房)「ものけたまはる。こ
れ」など起こせど、起きねば、二人して、栗などやうのもの 
にや、ほろほろと食ふも、聞き知らぬ心地には、かたはらい
たくて退きたまへど、また、ゆかしくなりつつ、なほ立ち寄
り立ち寄り見たまふ。これよりまさる際の人々を、后の宮を
はじめてここかしこに、容貌よきも心あてなるも、ここらあ
くまで見あつめたまへど、おぼろけならでは目も心もとまら 
ず、あまり人にもどかるるまでものしたまふ心地に、ただ今

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は、何ばかりすぐれて見ゆることもなき人なれど、かく立ち
去りがたく、あながちにゆかしきも、いとあやしきしなり。
尼君は、この殿の御方にも、御消息聞こえ
出だしたりけれど、(供人)「御心地なやまし
とて、今のほどうち休ませたまへるなり」
と、御供の人々心しらひて言ひたりければ、この君を尋ねま
ほしげにのたまひしかば、かかるついでにもの言ひふれんと
思ほすによりて、日暮らしたまふにや、と思ひて、かくのぞ
きたまふらんとは知らず、例の、御庄の預りどものまゐれる、
破子や何やと、こなたにも入れたるを、東国人どもにも食は
せなど、事ども行ひおきて、うち化粧じて、客人の方に来た
り。ほめつる装束、げにいとかはらかにて、みめもなほよし
よししくきよげにぞある。(弁の尼)「昨日おはしつきなんと待ち
きこえさせしを、などか今日も日たけては」と言ふめれば、
この老人、「いとあやしく苦しげにのみせさせたまへば、咋

P492
日はこの泉川のわたりにて、今朝も無期に御心地ためらひて
なん」と答へて、起こせば、今ぞ起きゐたる。尼君を恥ぢら
ひて、そばみたるかたはらめ、これよりはいとよく見ゆ。ま
ことにいとよしあるまみのほど、髪ざしのわたり、かれをも、
くはしくつくづくとしも見たまはざりし御顔なれど、これを
見るにつけて、ただそれと思ひ出でらるるに、例の、涙落ち
ぬ。尼君の答へうちする声けはひ、宮の御方にもいとよく似
たりと聞こゆ。
 あはれなりける人かな、かかりけるものを、今まで尋ねも
知らで過ぐしけることよ、これより口惜しからん際の品なら
んゆかりなどにてだに、かばかり通ひきこえたらん人を得て
はおろかに思ふまじき心地するに、まして、これは、知られ
たてまつらざりけれど、まことに故宮の御子にこそはありけ
れと見なしたまひては、限りなくあはれにうれしくおぼえた
まふ。ただ今も、はひ寄りて、世の中におはしけるものを、

P493
と言ひ慰めまほし。蓬莱まで尋ねて、釵のかぎりを伝へて見
たまひけん帝はなほいぶせかりけん、これは別人なれど、慰
めどころありぬべきさまなりとおぼゆるは、この人に契りの
おはしけるにやあらむ。尼君は、物語すこししてとく入りぬ。
人の各めつるかをりを、近くのぞきたまふなめりと心得てけ
れば、うちとけごとも語らはずなりぬるなるべし。
日暮れもていけば、君もやをら出でて、御
衣など着たまひてぞ、例召し出づる障子口
に尼君呼びて、ありさまなど問ひたまふ。
(薫)「をりしもうれしく参で来あひたるを、いかにぞ、かの聞
こえしことは」とのたまへば、(弁の尼)「しか仰せ言はべりし後
は、さるべきついではべらばと待ちはべりしに、去年は過ぎ
て、この二月になん、初瀬詣のたよりにはじめて対面しては
べりし。かの母君に、思しめしたるさまはほのめかしはべり
しかば、いとかたはらいたく、かたじけなき御よそへにこそ

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ははべるなれなどなんはべりしかど、そのころほひは、のど
やかにおはしまさずとうけたまはりし、をり便なく思ひたま
へつつみて、かくなんとも聞こえさせはべらざりしを、また、
この月にも詣でて、今日帰りたまふなめり。行き帰りの中宿
には、かく睦びらるるも、ただ過ぎにし御けはひを尋ねきこ
ゆるゆゑになんはべめる。かの母君は、さはることありて、
このたびは、独りものしたまふめれば、かくおはしますとも、
何かはものしはべらんとて」と聞こゆ。(薫)「田舎びたる人ど
もに、忍びやつれたる歩きも見えじとて口かためつれど、い
かがあらむ、下衆どもは隠れあらじかし。さて、いかがすべ
き。独りものすらんこそなかなか心やすかなれ。かく契り深
くてなん参り来あひたると伝へたまへかし」とのたまへば、
(弁の尼)「うちつけに、いつのほどなる御契りにかは」とうち笑
ひて、(弁の尼)「さらば、しか伝へはべらん」とて入るに、
  (薫)かほ鳥の声も聞きしにかよふやとしげみを分けて今

P496
  日ぞ尋ぬる
ただ口ずさみのやうにのたまふを、入りて語りけり。


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