47巻 あげまき
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あまた年耳馴れたまひにし川風も、この秋
はいとはしたなくもの悲しくて、御はての
こといそがせたまふ。おほかたのあるべか
しきことどもは、中納言殿、阿闍梨などぞ仕うまつりたまひ
ける。ここには法服のこと、経の飾り、こまかなる御みつか
ひを、人の聞こゆるに従ひて営みたまふもいとものはかなく
あはれに、かかるよその御後見なからましかばと見えたり。
みづからも参でたまひて、今はと脱ぎ棄てたまふほどの御と
ぶらひ浅からず聞こえたまふ。阿閣梨もここに参れり。名香
の糸ひき乱りて、「かくても経ぬる」など、うち語らひたま
ふほどなりけり。結びあげたるたたりの、簾のつまより几帳
の綻びに透きて見えければ、そのことと心得て、(薫)「わが涙
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をば玉にぬかなん」とうち誦じたまへる、伊勢の御もかうこ
そはありけめとをかしく聞こゆるも、内の人は、聞き知り顔
にさし答へたまはむもつつましくて、「ものとはなしに」と
か、貫之がこの世ながらの別れをだに、心細き筋にひきかけ
けむをなど、げに古言ぞ人の心をのぶるたよりなりけるを思
ひ出でたまふ。
御願文つくり、経、仏供養せらるべき心ばへなど書き出で
たまへる硯のついでに、客人、
(薫)あげまきに長き契りをむすびこめおなじ所によりも
あはなむ
と書きて、見せたてまつりたまへれば、例の、とうるさけれ
ど、
(大君)ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に長き契りをいかが
むすばん
とあれば、(薫)「あはずは何を」と、恨めしげにながめたまふ。
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みづからの御上は、かくそこはかとなくもて消ちて恥づか
しげなるに、すがすがともえのたまひよらで、宮の御事をぞ
まめやかに聞こえたまふ。(薫)「さしも御心に入るまじきこと
を、かやうの方にすこし進みたまへる御本性に、聞こえそめ
たまひけむ負けじ魂にやと、とざまかうざまにいとよくなん
御気色見たてまつる。まことにうしろめたくはあるまじげな
るを、などかくあながちにしももて離れたまふらむ。世のあ
りさまなど思しわくまじくは見たてまつらぬを、うたて、
遠々しくのみもてなさせたまへば、かばかりうらなく頼みき
こゆる心に違ひて恨めしくなむ。ともかくも思しわくらむさ
まなどを、さはやかに
うけたまはりにしが
な」と、いとまめだち
て聞こえたまへば、
(大君)「違へきこえじの
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心にてこそは、かうまであやしき世の例なるありさまにて、
隔てなくもてなしはべれ。それを思しわかざりけるこそは、
浅きこともまじりたる心地すれ。げにかかる住まひなどに、
心あらむ人は、思ひ残すことはあるまじきを、何ごとにも後
れそめにける中に、こののたまふめる筋は、いにしへも、さ
らにかけて、とあらばかからばなど、行く末のあらましごと
にとりまぜて、のたまひおくこともなかりしかば、なほかか
るさまにて、世づきたる方を思ひ絶ゆべく思しおきてけると
なむ思ひあはせはべれば、ともかくも聞こえん方なくて。さ
るは、すこし世籠りたるほどにて、深山隠れには心苦しく見
えたまふ人の御上を、いとかく朽木にはなしはてずもがなと、
人知れずあつかはしくおぼえはべれど、いかなるべき世にか
あらむ」と、うち嘆きてもの思ひ乱れたまひけるほどのけは
ひいとあはれげなり。
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けざやかにおとなびてもいかでかはさかし
がりたまはむとことわりにて、例の、古人
召し出でてぞ語らひたまふ。(薫)「年ごろは、
ただ後の世ざまの心ばへにて進み参りそめしを、もの心細げ
に思しなるめりし御末のころほひ、この御事どもを心にまか
せてもてなしきこゆべくなんのたまひ契りてしを、思しおき
てたてまつりたまひし御ありさまどもには違ひて、御心ばへ
どもの、いといとあやにくにもの強げなるは、いかに、思し
おきつる方の異なるにやと疑はしきことさへなむ。おのづか
ら聞き伝へたまふやうもあらむ。いとあやしき本性にて、世
の中に心をしむる方なかりつるを、さるべきにてや、かうま
でも聞こえ馴れにけん。世人もやうやう言ひなすやうあべか
めるに、同じくは昔の御事も違へきこえず、我も人も、世の
常に心とけて聞こえ通はばやと思ひよるは、つきなかるべき
ことにても、さやうなる例なくやはある」などのたまひつづ
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けて、(薫)「宮の御事をも、かく聞こゆるに、うしろめたくは
あらじとうちとけたまふさまならぬは、内々に、さりとも思
ほしむけたる事のさまあらむ。なほ、いかに、いかに」とう
ちながめつつのたまへば、例の、わろびたる女ばらなどは、
かかることには憎きさかしらも言ひまぜて言よがりなどもす
めるを、いとさはあらず、心の中には、あらまほしかるべき
御事どもをと思へど、(弁)「もとより、かく人に違ひたまへる
御癖どもにはべればにや、いかにもいかにも、世の常に、何
やかやなど思ひよりたまへる御気色になむはべらぬ。かくて
さぶらふこれかれも、年ごろだに、何の頼もしげある木の本
の隠ろへもはべらざりき。身を棄てがたく思ふかぎりはほど
ほどにつけてまかで散り、昔の古き筋なる人も、多く見たて
まつり棄てたるあたりに、まして、今は、しばしも立ちとま
りがたげにわびはべりつつ、おはしましし世にこそ、限りあ
りて、かたほならむ御ありさまはいとほしくもなど、古代な
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る御うるはしさに、思しもとどこほりつれ、今は、かう、ま
た頼みなき御身どもにて、いかにもいかにも世になびきたま
へらんを、あながちに譲りきこえむ人は、かへりてものの心
をも知らず、言ふかひなきことにてこそはあらめ、いかなる
人か、いとかくて世をば過ぐしはてたまふべき、松の葉をす
きて勤むる山伏だに、生ける身の棄てがたさによりてこそ、
仏の御教へをも、道々別れては行ひなすなれなどやうの、よ
からぬことを聞こえ知らせ、若き御心ども乱れたまひぬべき
こと多くはべるめれど、たわむべくもものしたまはず、中の
宮をなむ、いかで人めかしくもあつかひなしたてまつらむと
思ひきこえたまふべかめる。かく山深くたづねきこえさせた
まふめる御心ざしの、年経て見たてまつり馴れたまへるけは
ひも、疎からず思ひきこえさせたまひ、今は、とざまかうざ
まに、こまかなる筋聞こえ通ひたまふめるに、かの御方をさ
やうにおもむけて聞こえたまはばとなむ思すべかめる。宮の
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御文などはべるめるは、さらにまめまめしき御事ならじとは
べるめる」と聞こゆれば、(薫)「あはれなる御一言を聞きおき、
露の世にかかづらはむ限りは聞こえ通はむの心あれば、いづ
方にも見えたてまつらむ、同じことなるべきを、さまで、は
た、思しよるなる、いとうれしきことなれど、心の引く方な
む、かばかり思ひ棄つる世に、なほとまりぬべきものなりけ
れば、あらためてさはえ思ひなすまじくなむ。世の常になよ
びかなる筋にもあらずや。ただかやうに物隔てて、言残いた
るさまならず、さしむかひて、とにかくに定めなき世の物語
を隔てなく聞こえて、つつみたまふ御心の隈残らずもてなし
たまはむなん、はらからなどのさやうに睦ましきほどなるも
なくて、いとさうざうしくなん、世の中の思ふことの、あは
れにも、をかしくも、愁はしくも、時につけたるありさまを、
心にこめてのみ過ぐる身なれば、さすがにたづきなくおぼゆ
るに、疎かるまじく頼みきこゆる。后の宮、はた、馴れ馴れ
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しく、さやうに、そこはかとなき思ひのままなるくだくだし
さを聞こえふるべきにもあらず。三条宮は、親と思ひきこゆ
べきにもあらぬ御若々しさなれど、限りあれば、たやすく馴
れきこえさせずかし。そのほかの女は、すべていと疎く、つ
つましく恐ろしくおぼえて、心からよるべなく心細きなり。
なほざりのすさびにても、懸想だち夫ることはいとまばゆく、
ありつかず、はしたなきこちごちしさにて、まいて心にしめ
たる方のことは、うち出づることも難くて、恨めしくもいぶ
せくも、思ひきこゆる気色をだに見えたてまつらぬこそ、我
ながら限りなくかたくなしきわざなれ。宮の御事をも、さり
ともあしざまには聞こえじと、まかせてやは見たまはぬ」な
ど言ひゐたまへり。老人、はた、かばかり心細きに、あらま
ほしげなる御ありさまを、いと切に、さもあらせたてまつら
ばやと思へど、いづ方も恥づかしげなる御ありさまどもなれ
ば、思ひのままにはえ聞こえず。
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今宵はとまりたまひて、物語などのどやか
に聞こえまほしくて、やすらひ暮らしたま
ひつ。あざやかならず、もの恨みがちなる
御気色やうやうわりなくなりゆけば、わづらはしくて、うち
とけて聞こえたまはむこともいよいよ苦しけれど、おほかた
にてはありがたくあはれなる人の御心なれば、こよなくもも
てなしがたくて対面したまふ。仏のおはする中の戸を開けて、
御灯明の灯けざやかにかかげさせて、簾に屏風をそへてぞお
はする。外にも大殿油まゐらすれど、(薫)「なやましうて無礼
なるを。あらはに」など諫めて、かたはら臥したまへり。御
くだものなど、わざとはなくしなしてまゐらせたまへり。御
供の人々にも、ゆゑゆゑしき肴などして出ださせたまへり。
廊めいたる方に集まりて、この御前は人げ遠くもてなして、
しめじめと物語聞こえたまふ。うちとくべくもあらぬものか
ら、なつかしげに愛敬づきてもののたまへるさまの、なのめ
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ならず心に入りて、思ひ焦らるるもはかなし。
かくほどもなき物の隔てばかりを障りどころにて、おぼつ
かなく思ひつつ過ぐす心おそさの、あまりをこがましくもあ
るかなと思ひつづけらるれど、つれなくて、おほかたの世の
中のことども、あはれにもをかしくも、さまざま聞きどころ
多く語らひきこえたまふ。内には、人々近くなどのたまひお
きつれど、さしももて離れたまはざらなむと思ふべかめれば、
いとしもまもりきこえず、さし退きつつ、みな寄り臥して、
仏の御灯火もかかぐる人もなし。ものむつかしくて、忍びて
人召せどおどろか
ず。(大君)「心地の
かき乱り、なやま
しくはべるを、た
めらひて、暁方に
もまた聞こえん」
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とて、入りたまひなむとする気色なり。(薫)「山路分けはべり
つる人は、ましていと苦しけれど、かく聞こえうけたまはる
に慰めてこそはべれ。うち棄てて入らせたまひなば、いと心
細からむ」とて、屏風をやをら押し開けて入りたまひぬ。い
とむくつけくて、なからばかり入りたまへるにひきとどめら
れて、いみじくねたく心憂ければ、(大君)「隔てなきとはかか
るをや言ふらむ。めづらかなるわざかな」とあはめたまへる
さまのいよいよをかしければ、(薫)「隔てぬ心をさらに思しわ
かねば、聞こえ知らせむとぞかし。めづらかなりとも、いか
なる方に思しよるにかはあらむ。仏の御前にて誓言も立ては
べらむ。うたて、な怖ぢたまひそ。御心破らじと思ひそめて
はべれば。人はかくしも推しはかり思ふまじかめれど、世に
違へる痴者にて過ぐしはべるぞや」とて、心にくきほどなる
灯影に、御髪のこぼれかかりたるを掻きやりつつ見たまへば、
人の御けはひ、思ふやうに、かをりをかしげなり。
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かく、心細くあさましき御住み処に、すいたらむ人は障りど
ころあるまじげなるを、我ならで尋ね来る人もあらましかば、
さてややみなまし、いかに口惜しきわざならましと、来し方
の心のやすらひさへあやふくおぼえたまへど、言ふかひなく
うしと思ひて泣きたまふ御気色のいといとほしければ、かく
はあらで、おのづから心ゆるびしたまふをりもありなむと思
ひわたる。わりなきやうなるも心苦しくて、さまよくこしら
へきこえたまふ。(大君)「かかる御心のほどを思ひよらで、あ
やしきまで聞こえ馴れにたるを、ゆゆしき袖の色など見あら
はしたまふ心浅さに、みづからの言ふかひなさも思ひ知らる
るに、さまざま慰む方なく」と恨みて、何心もなくやつれた
まへる墨染の灯影を、いとはしたなくわびしと思ひまどひた
まへり。(薫)「いとかくしも思さるるやうこそはと恥づかしき
に聞こえむ方なし。袖の色をひきかけさせたまふはしもこと
わりなれど、ここら御覧じ馴れぬる心ざしのしるしには、さ
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ばかりの忌おくべく、今はじめたる事めきてやは思さるべき。
なかなかなる御わきまへ心になむ」とで、かの物の音聞きし
有明の月影よりはじめて、をりをりの思ふ心の忍びがたくな
りゆくさまを、いと多く聞こえたまふに、恥づかしくもあり
けるかなと疎ましく、かかる心ばへながらつれなくまめだち
たまひけるかなと聞きたまふこと多かり。
御かたはらなる短き几帳を、仏の御方にさし隔てて、かり
そめに添ひ臥したまへり。名香のいとかうばしく匂ひて、樒
のいとはなやかに薫れるけはひも、人よりはけに仏をも思ひ
きこえたまへる御心にてわづらはしく、墨染のいまさらに、
をりふし心焦られしたるやうにあはあはしく、思ひそめしに
違ふべければ、かかる忌なからむほどに、この御心にも、さ
りともすこしたわみたまひなむなど、せめてのどかに思ひな
したまふ。秋の夜のけはひは、かからぬ所だに、おのづから
あはれ多かるを、まして峰の嵐も羅の虫も、心細げにのみ聞
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きわたさる。常なき世の御物語に時々さし答へたまへるさま、
いと見どころ多くめやすし。いぎたなかりつる人々は、かう
なりけりとけしきとりてみな入りぬ。宮ののたまひしさまな
ど思し出づるに、げに、ながらへば心の外にかくあるまじき
ことも見るべきわざにこそはと、もののみ悲しくて、水の音
に流れそふ心地したまふ。
はかなく明け方になりにけり。御供の人々
起きて声づくり、馬どものいばゆる音も、
旅の宿のあるやうなど人の語る思しやられ
て、をかしく思さる。光見えつる方の障子を押し開けたまひ
て、空のあはれなるをもろともに見たまふ。女もすこしゐざ
り出でたまへるに、ほどもなき軒の近さなれば、しのぶの露
もやうやう光見えもてゆく。かたみに、いと艶なるさま容貌
どもを、(薫)「何とはなくて、ただかやうに月をも花をも、同
じ心にもて遊び、はかなき世のありさまを聞こえあはせてな
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む過ぐさまほしき」と、いとなつかしきさまして語らひきこ
えたまへば、やうやう恐ろしさも慰みて、(大君)「かういとは
したなからで、物隔ててなど聞こえば、まことに心の隔ては
さらにあるまじくなむ」と答へたまふ。
明くなりゆき、むら鳥の立ちさまよふ羽風近く聞こゆ。夜
深き朝の鐘の音かすかに響く。(大君)「今だに。いと見苦しき
を」と、いとわりなく恥づかしげに思したり。(薫)「事あり顔
に朝露もえ分けはべるまじ。また、人はいかが推しはかりき
こゆべき。例のやうになだらかにもてなさせたまひて、ただ
世に違ひたることにて、今より後も、ただ、かやうにしなさ
せたまひてよ。よにうしろめたき心はあらじと思せ。かばか
りあながちなる心のほども、あはれと思し知らぬこそかひな
けれ」とて、出でたまはむの気色もなし。あさましく、かた
はならむとて、(大君)「今より後は、さればこそ、もてなした
まはむままにあらむ。今朝は、また、聞こゆるに従ひたまへ
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かし」とて、いと術なしと思したれば、(薫)「あな苦しや。暁
の別れや、まだ知らぬことにて、げにまどひぬべきを」と嘆
きがちなり。鶏も、いづ方にかあらむ、ほのかに音なふに、
京思ひ出でらる。
(薫)山里のあはれ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼら
けかな
女君、
(大君)鳥の音もきこえぬ山と思ひしを世のうきことは尋ね
来にけり
障子口まで送りたてまつりたまひて、昨夜入りし戸口より出
でて、臥したまへれどまどろまれず。なごり恋しくて、いと
かく思はましかば、月ごろも今まで心のどかならましやなど、
帰らむこともものうくおぼえたまふ。
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姫宮は、人の思ふらむことのつつましきに、
とみにもうち臥されたまはで、頼もしき人
なくて世を過ぐす身の心憂きを、ある人ど
もも、よからぬこと何やかやと次々に従ひつつ言ひ出づめる
に、心より外のことありぬべき世なめりと思しめぐらすには、
この人の御けはひありさまの疎ましくはあるまじく、故宮も、
さやうなる心ばへあらばと、をりをりのたまひ思すめりしか
ど、みづからはなほかくて過ぐしてむ、我よりはさま容貌も
盛りにあたらしげなる中の宮を、人並々に見なしたらむこそ
うれしからめ、人の上になしては、心のいたらむ限り思ひ後
見てむ、みづからの上のもてなしは、また誰かは見あつかは
む、この人の御さまの、なのめにうち紛れたるほどならば、
かく見馴れぬる年ごろのしるしに、うちゆるぶ心もありぬべ
きを、恥づかしげに見えにくき気色も、なかなかいみじくつ
つましきに、わが世はかくて過ぐしはててむ、と思ひつづけ
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て、音泣きがちに明かしたまへるに、なごりいとなやましけ
れば、中の宮の臥したまへる奥の方に添ひ臥したまふ。
例ならず人のささめきしけしきもあやしとこの宮は思しつ
つ寝たまへるに、かくておはしたればうれしくて、御衣ひき
着せたてまつりたまふに、ところせき御移り香の紛るべくも
あらずくゆりかをる心地すれば、宿直人がもてあつかひけむ
思ひあはせられて、まことなるべしといとほしくて、寝ぬる
やうにてものものたまはず。客人は、弁のおもと呼び出でた
まひて、こまかに語らひおき、御消息すくすくしく聞こえお
きて出でたまひぬ。総角を戯れにとりなししも、心もて「尋
ばかり」の隔てにても対面しつるとや、この君も思すらむと
いみじく恥づかしければ、心地あしとてなやみ暮らしたまひ
つ。人々、(女房)「日は残りなくなりはべりぬ。はかばかしく、
はかなきことをだに、また仕うまつる人もなきに、をりあし
き御なやみかな」と聞こゆ。中の宮、組などしはてたまひて、
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「心葉など、えこそ思
ひよりはべらね」と、
せめて聞こえたまへば、
暗くなりぬる紛れに起
きたまひてもろともに
結びなどしたまふ。中
納言殿より御文あれど、(大君)「今朝よりいとなやましくなむし
とて、人づてにぞ聞こえたまふ。「さも見苦しく。若々しく
おはす」と人々つぶやききこゆ。
御服などはてて、脱ぎ棄てたまへるにつけ
ても、片時も後れたてまつらむものと思は
ざりしを、はかなく過ぎにける月日のほど
を思すに、いみじく思ひの外なる身のうさと、泣き沈みたま
へる御さまども、いと心苦しげなり。月ごろ黒くならはした
まへる御姿、薄鈍にて、いとなまめかしくて、中の宮はげに
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いと盛りにて、うつくしげなるにほひまさりたまへり。御髪
などすましつくろはせて見たてまつりたまふに、世のもの思
ひ忘るる心地して、めでたければ、人知れず、近劣りしては
思はずやあらむと頼もしくうれしくて、今はまた見譲る人も
なくて、親心にかしづきたてて見きこえたまふ。
かの人は、つつみきこえたまひし藤の衣もあらためたまへ
らむ九月も静心なくて、またおはしたり。「例のやうに聞こ
えむ」と、また御消息あるに、心あやまりして、わづらはし
くおぼゆれば、とかく聞こえすまひて対面したまはず。(薫)
「思ひのほかに心憂き御心かな。人もいかに思ひはべらむ」
と、御文にて聞こえたまへり。(大君)「今はとて脱ぎ棄てはべ
りしほどの心まどひに、なかなか沈みはべりてなむ、え聞こ
えぬ」とあり。
恨みわびて、例の人召してよろづにのたまふ。世に知らぬ
心細さの慰めには、この君をのみ頼みきこえたる人々なれば、
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思ひにかなひたまひて、世の常の住み処に移ろひなどしたま
はむを、いとめでたかるべきことに言ひあはせて、「ただ入
れたてまつらむ」と、みな語らひあはせけり。
姫宮、そのけしきをば深く見知りたまはねど、かく、とり
わきて人めかしなつけたまふめるに、うちとけて、うしろめ
たき心もやあらむ、昔物語にも、心もてやは、とあることも
かかることもあめる、うちとくまじき人の心にこそあめれ、
と思ひよりたまひて、せめて恨み深くは、この君をおし出で
む、劣りざまならむにてだに、さても見そめてば、あさはか
にはもてなすまじき心なめるを、まして、ほのかにも見そめ
てば慰みなむ、言に出でては、いかでかは、ふとさることを
待ちとる人のあらむ、本意になむあらぬとうけひく気色のな
かなるは、かたへは、人の思はむことを、あいなう浅き方に
やなど、つつみたまふならむ、と思し構ふるを、気色だに知
らせたまはずは罪もや得むと、身をつみていとほしければ、
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よろづにうち語らひて、(大君)「昔の御おもむけも、世の中を
かく心細くて過ぐしはつとも、なかなか人笑へに軽々しき心
つかふななどのたまひおきしを、おはせし世の御絆にて、行
ひの御心を乱りし罪だにいみじかりけむを、今はとて、さば
かりのたまひし一言をだに違へじと思ひはべれば、心細くな
どもことに思はぬを、この人々の、あやしく心ごはきものに
憎むめるこそ、いとわりなけれ。げにさのみ、やうのものと
過ぐしたまはむも、明け暮るる月日にそへても、御事をのみ
こそ、あたらしく心苦しくかなしきものに思ひきこゆるを、
君だに世の常にもてなしたまひて、かかる身のありさまも面
だたしく、慰むばかり見たてまつりなさばや」と聞こえたま
へば、いかに思すにかと心憂くて、(中の君)「一ところをのみや
は、さて世にはてたまへとは聞こえたまひけむ。はかばかし
くもあらぬ身のうしろめたさは、数そひたるやうにこそ思さ
れためりしか。心細き御慰めには、かく朝タに見たてまつる
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より、いかなる方にか」と、なま恨めしく思ひたまへれば、
げにといとほしくて、(大君)「なほ、これかれ、うたてひがひ
がしきものに言ひ思ふべかめるにつけて、思ひ乱れはべるぞ
や」と言ひさしたまひつ。
暮れゆくに、客人は帰りたまはず。姫宮いとむつかしと思
す。弁参りて、御消息ども聞こえ伝へて、恨みたまふをこと
わりなるよしをつぶつぶと聞こゆれば、答へもしたまはず、
うち嘆きて、いかにもてなすべき身にかは、一ところおはせ
ましかば、ともかくもさるべき人にあつかはれたてまつりて、
宿世といふなる方につけて、身を心ともせぬ世なれば、みな
例のことにてこそは、人笑へなる咎をも隠すなれ、あるかぎ
りの人は年つもり、さかしげにおのがじしは思ひつつ、心を
やりて似つかはしげなることを聞こえ知らすれど、こははか
ばかしきことかは、人めかしからぬ心どもにて、ただ一方に
言ふにこそは、と見たまへば、ひき動かしつばかり聞こえあ
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へるもいと心憂く疎ましくて、動ぜられたまはず。同じ心に
何ごとも語らひきこえたまふ中の宮は、かかる筋にはいます
こし心も得ずおほどかにて、何とも聞き入れたまはねば、あ
やしくもありける身かなと、ただ奥ざまに向きておはすれば、
(女房)「例の色の御衣ども、奉りかへよ」など、そそのかしき
こえつつ、みなさる心すべかめる気色を、あさましく、げに
何の障りどころかはあらむ、ほどもなくて、かかる御住まひ
のかひなき、山なしの花ぞのがれむ方なかりける。
客人は、かく顕証にこれかれにも口入れさせず、忍びやか
に、いつありけむことともなくもてなしてこそと思ひそかた
まひけることなれば、(薫)「御心ゆるしたまはずは、いつもい
つもかくて過ぐさむ」と思しのたまふを、この老人の、おの
がじし語らひて、顕証にささめき、さは言へど、深からぬけ
に、老いひがめるにや、いとほしくぞ見ゆる。
姫宮思しわづらひて、弁が参れるにのたまふ。(大君)「年ご
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ろも、人に似ぬ御心寄せとのみのたまひわたりしを聞きおき、
今となりては、よろづに残りなく頼みきこえて、あやしきま
でうちとけにたるを、思ひしに違ふさまなる御心ばへのまじ
りて、恨みたまふめるこそわりなけれ。世に人めきてあらま
ほしき身ならば、かかる御事をも、何かはもて離れても思は
まし。されど、昔より思ひ離れそめたる心にて、いと苦しき
を。この君の盛り過ぎたまはむも口惜し。げに、かかる住ま
ひもただこの御ゆかりにところせくのみおぼゆるを、まこと
に昔を思ひきこえたまふ心ざしならば、同じことに思ひなし
たまへかし。身を分けたる、心の中はみな譲りて、見たてま
つらむ心地なむすべき。なほかうやうによろしげにを聞こえ
なされよ」と恥ぢらひたるものから、あるべきさまをのたま
ひつづくれば、いとあはれと見たてまつる。
(弁)「さのみこそは、さきざきも御気色を見たまふれば、い
とよく聞こえさすれど、さはえ思ひあらたむまじき、兵部卿
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宮の御恨み深さまさるめれば、またそなたざまに、いとよく
後見きこえむとなむ聞こえたまふ。それも思ふやうなる御事
どもなり。二ところながらおはしまして、ことさらにいみじ
き御心尽くしてかしづききこえたまはむに、えしもかく世に
ありがたき御事ども、さし集ひたまはざらまし。かしこけれ
ど、かくいとたづきなげなる御ありさまを見たてまつるに、
いかになりはてさせたまはむと、うしろめたく悲しくのみ見
たてまつるを、後の御心は知りがたけれど、うつくしくめで
たき御宿世どもにこそおはしましけれとなむ、かつがつ思ひ
きこゆる。故宮の御遺言違へじと思しめす方はことわりなれ
ど、それは、さるべき人のおはせず、品ほどならぬことやお
はしまさむと思して、戒めきこえさせたまふめりしにこそ。
この殿のさやうなる心ばへものしたまはましかば、一ところ
をうしろやすく見おきたてまつりて、いかにうれしからまし
と、をりをりのたまはせしものを。ほどほどにつけて、思ふ
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人に後れたまひぬる人は、高きも下れるも、心の外に、ある
まじきさまにさすらふたぐひだにこそ多くはべるめれ。それ
みな例のことなめれば、もどき言ふ人もはべらず。まして、
かくばかり、ことさらにも作り出でまほしげなる人の御あり
さまに、心ざし深くありがたげに聞こえたまふを、あながち
にもて離れさせたまうて、思しおきつるやうに行ひの本意を
遂げたまふとも、さりとて雲、霞をやは」など、すべて言多
く申しつづくれば、いと憎く心づきなしと思して、ひれ臥し
たまへり。
中の宮も、あいなくいとほしき御気色かなと見たてまつり
たまひて、もろともに例のやうに御殿籠りぬ。うしろめたく、
いかにもてなさむとおぽえたまへど、ことさらめきてさし籠
り、隠ろへたまふべき物の隈だになき御住まひなれば、なよ
よかにをかしき御衣、上にひき着せたてまつりたまひて、ま
だけはひ暑きほどなれば、すこしまろび退きて臥したまへり。
P251
弁は、のたまひつるさまを客人に聞こゆ。いかなれば、い
とかくしも世を思ひ離れたまふらむ、聖だちたまへりしあた
りにて、常なきものに思ひ知りたまへるにやと思すに、いと
どわが心通ひておぽゆれば、さかしだち憎くもおぽえず。(薫)
「さらば、物越しなどにも、今はあるまじきこどに思しなる
にこそはあなれ。今宵ばかり、大殿籠るらむあたりにも、忍
びてたばかれ」とのたまへば、心して人とくしづめなど、心
知れるどちは思ひかまふ。
宵すこし過ぐるほどに、風の音荒らかにう
ち吹くに、はかなきさまなる蔀などはひし
ひしと紛るる音に、人の忍びたまへるふる
まひはえ聞きつけたまはじと思ひて、やをら導き入る。同じ
所に大殿籠れるをうしろめたしと思へど、常のことなれば、
外々にともいかが聞こえむ、御けはひをも、たどたどしから
ず見たてまつり知りたまへらむと思ひけるに、うちもまどろ
P252
みたまはねば、ふと聞きつけ
たまひてやおら起き出でたま
ひぬ。いととく這ひ隠れたま
ひぬ。何心もなく寝入りたま
へるを、いといとほしく、い
かにするわざぞと胸つぶれて、
もろともに隠れなばやと思へ
ど、さもえたち返らで、わななくわななく見たまへば、灯の
ほのかなるに、桂姿にて、いと馴れ顔に几帳の帷子を引き上
げて入りぬるを、いみじくいとほしく、いかにおぼえたまは
むと思ひながら、あやしき壁の面に屏周を立てたる背後のむ
つかしげなるにゐたまひぬ。あらましごとにてだにつらしと
思ひたまへりつるを、まいて、いかにめづらかに思し疎まむ
といと心苦しきにも、すべてはかばかしき後見なくて落ちと
まる身どもの悲しきを思ひつづけたまふに、今はとて山に登
P253
りたまひしタの御さまなどただ今の心地して、いみじく恋し
く悲しくおぽえたまふ。
中納言は、独り臥したまへるを、心しけるにやとうれしく
て、心ときめきしたまふに、やうやう、あらざりけりと見る。
いますこしうつくしくらうたげなるけしきはまさりてやとお
ぼゆ。あさましげにあきれまどひたまへるを、げに心も知ら
ざりけると見ゆれば、いといとほしくもあり、また、おし返
して、隠れたまへらむつらさの、まめやかに心憂くねたけれ
ば、これをもよそのものとはえ思ひはつまじけれど、なほ本
意の違はむ口惜しくて、うちつけに浅かりけりともおぽえた
てまつらじ、この一ふしはなほ過ぐして、つひに宿世のがれ
ずは、こなたざまにならむも、何かは他人のやうにやはと思
ひさまして、例の、をかしくなつかしきさまに語らひて明か
したまひつ。
老人どもは、しそしつと思ひて、「中の宮、いづこにかお
P254
はしますらむ。あやしきわざかな」とたどりあへり。「さり
とも、あるやうあらむ」など言ふ。(女房)「おほかた、例の、
見たてまつるに雛のぶる心地して、めでたくあはれに見まほ
しき御容貌ありさまを、などていともて離れては聞こえたま
ふらむ。何か、これは世の人の言ふめる恐ろしき神ぞつきた
てまつりたらむ」とは、歯うちすきて愛敬なげに言ひなす女
あり。また、「あな、まがまがし。なぞの物かつかせたまは
む。ただ、人に遠くて生ひ出でさせたまふめれば、かかるこ
とにも、つきづきしげにもてなしきこえたまふ人もなくおは
しますに、はしたなく思さるるにこそ。いま、おのづから見
たてまつり馴れたまひなば、思ひきこえたまひてん」など語
らひて、「とくうちとけて、思ふやうにておはしまさなむ」
と言ふ言ふ寝入りて、いびきなどかたはらいたくするもあり。
逢ふ人からにもあらぬ秋の夜なれど、ほどもなく明けぬる
心地して、いづれと分くべくもあらずなまめかしき御けはひ
P255
を、人やりならず飽かぬ心地して、(薫)「あひ思せよ。いと心
憂くつらき人の御さま、見ならひたまふなよ」など、後瀬を
契りて出でたまふ。我ながら、あやしく夢のやうにおぼゆれ
ど、なほつれなき人の御気色、いま。一たび見はてむの心に思
ひのどめつつ、例の、出でて臥したまへり。
弁参りて、「いとあやしく、中の宮はいづくにかおはしま
すらむ」と言ふを、いと恥づかしく思ひかけぬ御心地に、い
かなりけんことにかと思ひ臥したまへり。昨日のたまひしこ
とを思し出でて、姫宮をつらしと思ひきこえたまふ。明けに
ける光につきてぞ、壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる。
思すらむことのいといとほしければ、かたみにものも言はれ
たまはず。ゆかしげなく、心憂くもあるかな。今より後も心
ゆるいすべくもあらぬ世にこそと思ひ乱れたまへり。
弁はあなたに参りて、あさましかりける御心強さを聞きあ
らはして、いとあまり深く、人憎かりけることと、いとほし
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く思ひほれゐたり。(薫)「来し方のつらさはなほ残りある心地
して、よろづに思ひ慰めつるを、今宵なむまことに恥づかし
く、身も投げつべき心地する。棄てがたく落しおきたてまつ
りたまへりけん心苦しさを思ひきこゆる方こそ、また、ひた
ぶるに、身をもえ思ひ棄つまじけれ。かけかけしき筋は、い
づ方にも思ひきこえじ。うきもつらきも、かたがたに忘られ
たまふまじくなん。宮などの恥づかしげなく聞こえたまふめ
るを、同じくは心高くと思ふ方ぞことにものしたまふらんと
心得はてつれば、いとことわりに恥づかしくて、また、参り
て人々に見えたてまつらむこともねたくなむ。よし、かくを
こがましき身の上、また、人にだに漏らしたまふな」と怨じ
おきて、例よりも急ぎ出でたまひぬ。(女房)「誰が御ためもい
とほしく」とささめきあへり。
P257
姫宮も、いかにしつることぞ、もしおろか
なる心ものしたまはばと胸つぶれて心苦し
ければ、すべて、うちあはぬ人々のさかし
ら憎しと思す。さまざま思ひたまふに、御文あり。例よりは
うれしとおぼえたまふも、かつはあやし。秋のけしきも知ら
ず顔に、青き枝の、片枝いと濃くもみぢたるを、
(薫)おなじ枝を分きてそめける山姫にいづれか深き色と
とはばや
さばかり恨みつる気色も、言少なにことそぎて、おしつつみ
たまへるを、そこはかとなくもてなしてやみなむとなめりと
見たまふも、心騒ぎて見る。かしがましく、「御返り」と言
へば、「聞こえたまへ」と譲らむもうたておぼえて、さすが
に書きにくく思ひ乱れたまふ。
(大君)山姫の染むる心は分かねどもうつろふ方や深きなる
らん
P258
ことなしびに書きたまへるが、をかしく見えければ、なほえ
怨じはつまじくおぼゆ。身を分けてなど譲りたまふ気色はた
びたび見えしかど、うけひかぬにわびて構へたまへるなめり、
そのかひなく、かくつれなからむもいとほしく、情なきもの
に思ひおかれて、いよいよはじめの思ひかなひがたくやあら
ん、とかく言ひ伝へなどすめる老人の思はむところも軽々し
く、とにかくに心を染めけむだに悔しく、かばかりの世の中
を思ひ棄てむの心に、みづからもかなはざりけりと、人わろ
く思ひ知らるるを、ましておしなべたるすき者のまねに、同
じあたりかへすがへす漕ぎめぐらむ、いと人笑へなる棚無し
小舟めきたるべし、など、夜もすがら思ひ明かしたまひて、
まだ有明の空もをかしきほどに、兵部卿宮の御方に参りたま
ふ。
P259
三条宮焼けにし後は、六条院にぞ移ろひた
まへれば、近くては常に参りたまふ。宮も、
思すやうなる御心地したまひけり。紛るる
ことなくあらまほしき御住まひに、御前の前栽ほかのには似
ず、同じき花の姿も、木草のなびきざまもことに見なされて、
遣水にすめる月の影さへ絵に描きたるやうなるに、思ひつる
もしるく起きおはしましけり。風につきて吹きくる匂ひのい
としるくうち薫るに、ふとそれとうちおどろかれて、御直衣
奉り、乱れぬさまにひきつくろひて出でたまふ。階を上りも
はてず、ついゐたまへれば、
「なほ上に」などものたまはで、
高欄によりゐたまひて、世の中
の御物語聞こえかはしたまふ。
かのわたりのことをも、ものの
ついでには思し出でて、よろづ
P260
に恨みたまふもわりなしや。みづからの心にだにかなひがた
きをと思ふ思ふ、さもおはせなむと思ひなるやうのあれば、
例よりはまめやかに、あるべきさまなど申したまふ。
明けぐれのほど、あやにくに霧りわたりて、空のけはひ冷
やかなるに、月は霧に隔てられて、木の下も暗くなまめきた
り。山里のあはれなるありさま思ひ出でたまふにや、(匂宮)
「このごろのほどに、かたらず。後らかしたまふな」と語ら
ひたまふを、なほわづらはしがれば、
(匂宮)女郎花さける大野をふせぎつつ心せばくやしめを結
ふらむ
と戯れたまふ。
(薫)「霧ふかきあしたの原の女郎花心をよせて見る人ぞ見
る
なべてやは」など、ねたましきこゆれば、(匂宮)「あなかしが
まし」と、はてはては腹立ちたまひぬ。
P261
年ごろかくのたまへど、人の御ありさまをうしろめたく思
ひしに、容貌なども見おとしたまふまじく推しはからるる、
心ばせの近劣りするやうもやなどぞあやふく思ひわたりしを、
何ごとも口惜しくはものしたまふまじかめりと思へば、かの、
いとほしく、内々に思ひたばかりたまふありさまも違ふやう
ならむも情なきやうなるを、さりとて、さ、はた、え思ひあ
らたむまじくおぼゆれば、譲りきこえて、いづ方の恨みをも
負はじなど下に思ひかまふる心をも知りたまはで、心せばく
とりなしたまふもをかしけれど、(薫)「例の、軽らかなる御心
ざまに、もの思はせむこそ心苦しかるべけれ」など、親方に
なりて聞こえたまふ。(匂宮)「よし、見たまへ。かばかり心に
とまることなむまだなかりつる」など、いとまめやかにのた
まへば、(薫)「かの心どもには、さもやとうちなびきぬべき気
色は見えずなむはべる。仕うまつりにくき宮仕にぞはべる
や」とて、おはしますべきやうなどこまかに聞こえ知らせた
P262
まふ。
二十八日の彼岸のはてにて、よき日なりけ
れば、人知れず心づかひして、いみじく忍
びて率てたてまつる。后の宮など聞こしめ
し出でては、かかる御歩きいみじく制しきこえたまへばいと
わづらはしきを、切に思したることなれば、さりげなくとも
てあつかふもわりなくなむ。舟渡りなどもところせければ、
ことごとしき御宿なども借りたまはず、そのわたりいと近き
御庄の人の家に、いと忍びて宮をば下ろしたてまつりたまひ
て、おはしぬ。見咎めたてまつるべき人もなけれど、宿直人
はわづかに出でて歩くにも、けしき知らせじとなるべし。例
の、中納言殿おはしますとて経営しあへり。君たち、なまわ
づらはしく聞きたまへど、移ろふ方異ににほはしおきてしか
ばと姫宮思す。中の宮は、思ふ方異なめりしかば、さりとも
と思ひながら、心憂かりし後は、ありしやうに姉宮をも思ひ
P263
きこえたまはず、心おかれてものしたまふ。何やかやと御消
息のみ聞こえ通ひて、いかなるべきことにかと人々も心苦し
がる。
宮をば、御馬にて、暗き紛れにおはしまさせたまひて、弁
召し出でて、(薫)「ここもとにただ一言聞こえさすべきことな
むはべるを、思し放つさま見だてまつりてしに、いと恥づか
しけれど、ひたや籠りにてはえやむまじきを、いましばし更
かしてを、ありしさまには導きたまひてむや」など、うらも
なく語らひたまへば、いづ方にも同じことにこそはと思ひて
参りぬ。
さなむと聞こゆれば、さればよ、思ひ移りにけり、とうれ
しくて心落ちゐて、かの入りたまふべき道にはあらぬ廂の
障子をいとよく鎖して、対面したまへり。(薫)「一言聞こえさ
すべきが、また人聞くばかりののしらむはあやなきを、いさ
さか開けさせたまへ。いといぶせし」と聞こえたまへど、
P264
(大君)「いとよく聞こえぬべし」とて開けたまはず。今はと移
ろひなむを、ただならじとて言ふべきにや、何かは、例なら
ぬ対面にもあらず、人憎く答へで、夜も更かさじ、など思ひ
て、かばかりも出でたまへるに、障子の中より御袖をとらへ
て、引き寄せていみじく恨むれば、いとうたてもあるわざか
な、河に聞き入れつらむ、と悔しくむつかしけれど、こしら
へて出だしてむと思して、他人と思ひわきたまふまじきさま
にかすめつつ語らひたまへる心ばへなど、いとあはれなり。
宮は、教へきこえつるままに、一夜の戸口に寄りて、扇を
鳴らしたまへば、弁参りて導ききこゆ。さきざきも馴れにけ
る道のしるべ、をかしと思しつつ入りたまひぬるをも姫宮は
知りたまはで、こしらへ入れてむと思したり。をかしくもい
とほしくもおぼえて、内々に心も知らざりける、恨みおかれ
んも、罪避りどころなき心地すべければ、(薫)「宮の慕ひたま
ひつれば、え聞こえいなびで、ここにおはしつる、音もせで
P265
こそ紛れたまひぬれ。このさかしだつめる人や、語らはれた
てまつりぬらむ。中空に人笑へにもなりはべりぬべきかな」
とのたまふに、いますこし思ひよらぬことの、目もあやに心
づきなくなりて、(大君)「かく、よろづにめづらかなりける御
心のほども知らで、言ふかひなき心幼さも見えたてまつりに
ける怠りに、思し侮るにこそは」と、言はむ方なく思ひたま
へり。
(薫)「今は言ふかひなし。ことわりは、かへすがへす聞こえ
させてもあまりあらば、抓みも捻らせたまへ。やむごとなき
方に思しよるめるを、宿世などいふめるもの、さらに心にか
なはぬものにはべるめれば、かの御心ざしはことにはべりけ
るを、いとほしく思ひたまふるに、かなはぬ身こそ置き所な
く心憂くはべりけれ。なほ、いかがはせむに思し弱りね。こ
の障子の固めばかりいと強きも、まことにもの清く推しはか
り聞こゆる人もはべらじ。しるべと誘ひたまへる人の御心に
P266
も、まさにかく胸ふたがりて明かすらむとは思しなむや」と
て、障子をも引き破りつべき気色なれば、いはむ方なく心づ
きなけれど、こしらへむと思ひしづめて、(大君)「こののたま
ふ宿世といふらむ方は、目にも見えぬことにて、いかにもい
かにも思ひたどられず、知らぬ涙のみ霧りふたがる心地して
なむ。こはいかにもてなしたまふぞと、夢のやうにあさまし
きに、後の世の例に言ひ出づる人もあらば、昔物語などに、
ことさらにをこめきて作り出でたる物の譬にこそはなりぬべ
かめれ。かく思しかまふる心のほどをも、いかなりけるとか
は推しはかりたまはむ。なほ、いとかく、おどろおどろしく
心憂く、なとり集めまどはしたまひそ。心より外にながらへ
ば、すこし思ひのどまりて聞こえむ。心地もさらにかきくら
すやうにて、いとなやましきを、ここにうち休まむ、ゆるし
たまへ」といみじくわびたまへば、さすがにことわりをいと
よくのたまふが心恥づかしくらうたくおぼえて、(薫)「あが君、
P267
御心に従ふことのたぐひなければこそ、かくまでかたくなし
くなりはべれ。いひ知らず憎く疎ましきものに思しなすめれ
ば、聞こえむ方なし。いとど世に跡とむべくなむおぼえぬ」
とて、(薫)「さらば、隔てながらも聞こえさせむ。ひたぶるに
なうち棄てさせたまひそ」とて、ゆるしたてまつりたまへれ
ば、這ひ入りて、さすがに入りもはてたまはぬを、いとあは
れと思ひて、(薫)「かばかりの御けはひを慰めにて明かしはべ
らむ。ゆめゆめ」と聞こえて、うちもまどろまず、いとどし
き水の音に目も覚めて、夜半の嵐に、山鳥の心地して明かし
例の、明けゆくけはひに、鐘の声など聞こゆ。いぎたなく
て出でたまふべき気色もなきよと心やましく、声づくりたま
ふも、げにあやしきわざなり。
(薫)「しるべせしわれやかへりてまどふべき心もゆかぬ明
けぐれの道
P268
かかる例、世にありけむや」とのたまへば、
(大君)かたがたにくらす心を思ひやれ人やりならぬ道にま
どはば
とほのかにのたまふを、いと飽かぬ心地すれば、(薫)「いかに。
こよなく隔たりてはべるめれば、いとわりなうこそ」など、
よろづに恨みつつ、ほのぼのと明けゆくほどに、昨夜の方よ
り出でたまふなり。いとやはらかにふるまひなしたまへる、
匂ひなど、艶なる御心げさうには、いひ知らずしめたまへり。
ねび人どもは、いとあやしく心得がたく思ひまどはれけれど、
さりともあしざまなる御心あらむやはと慰めたり。
暗きほどにと、急ぎ帰りたまふ。道のほども、帰るさはい。
と遥けく思されて、心やすくもえ行き通はざらむことのかね
ていと苦しきを、「夜をや隔てん」と思ひ悩みたまふなめり。
まだ人騒がしからぬ朝のほどにおはし着きぬ。廊に御車寄せ
て下りたまふ。異様なる女車のさまして隠ろへ入りたまふに、
P269
みな笑ひたまひて、(薫)「おろかならぬ宮仕の御心ざしとなむ
思ひたまふる」と申したまふ。しるべのおこがましさを、い
とねたくて愁へも聞こえたまはず。
宮は、いつしかと御文奉りたまふ。山里に
は、誰も誰も現の心地したまはず思ひ乱れ
たまへり。さまざまに思しかまへけるを色
にも出だしたまはざりけるよと、疎ましくつらく姉宮をば思
ひきこえたまひて、目も見あはせたてまつりたまはず。知ら
ざりしさまをも、さはさはとは
え明らめたまはで、ことわりに
心苦しく思ひきこえたまふ。
人々も、「いかにはべりしこと
んいか」など、御気色見たてまつ
れど、思しほれたるやうにて頼
もし人のおはすれば、あやしき
P270
わざかなと思ひあへり。御文もひきときて見せたてまつりた
まへど、さらに起き上がりたまはねば、「いと久しくなりぬ」
と御使わびけり。
(匂宮)世のつねに思ひやすらむ露ふかき道の笹原分けて釆
つるも
書き馴れたまへる墨つきなどのことさらに艶なるも、おほか
たにつけて見たまひしはをかしうおばえしを、うしろめたう
もの思はしくて、我さかし人にて聞こえむもいとつつましけ
れば、まめやかにあるべきやうをいみじくせめて書かせたて
まつりたまふ。紫苑色の細長一襲に三重襲の袴具して賜ふ。
御使苦しげに思ひたれば、包ませて供なる人になむ贈らせた
まふ。ことごとしき御使にもあらず、例奉れたまふ上童なり。
ことさらに、人にけしき漏らさじと思しければ、昨夜のさか
しがりし老人のしわざなりけりと、ものしくなむ聞こしめし
ける。
p271
その夜も、かのしるべ誘ひたまへど、(薫)「冷泉院にかなら
ずさぶらふべきことはべれば」とて、とまりたまひぬ。例の、
事にふれてすさまじげに世をもてなすと憎く思す。
いかがはせむ、本意ならざりしこととて、
おろかにやはと思ひ弱りたまひて、御しつ
らひなどうちあはぬ住み処のさまなれど、
さる方にをかしくしなして待ちきこえたまひけり。遥かなる
御中道を、急ぎおはしましたりけるも、うれしきわざなるぞ、
かつはあやしき。
正身は、我にもあらぬさまにてつくろはれたてまつりたま
ふままに、濃き御衣の袖のいといたく濡るれば、さかし人も
うち泣きたまひつつ、(大君)「世の中に久しくもとおぽえはべ
らねば、明け暮れのながめにもただ御事をのみなん心苦しく
思ひきこゆるに、この人々も、よかるべきさまのことと聞き
にくきまで言ひ知らすめれば、年経たる心どもには、さりと
P272
も世のことわりをも
知りたらむ、はかば
かしくもあらぬ心ひ
とつを立ててかくて
のみやは見たてまつ
らむと思ひなるやう
もありしかど、ただ
今、かく、思ひあへず、恥づかしきことどもに乱れ思ふべう
は、さらに思ひかけはべらざりしに、これや、げに、人の言
ふめるのがれがたき御契りなりけん。いとこそ苦しけれ。す
こし思し慰みなむに、知らざりしさまをも聞こえん。憎しと
な思し入りそ。罪もぞ得たまふ」と御髪を撫でつくろひつつ
聞こえたまへば、答へもしたまはねど、さすがに、かく思し
のたまふが、げにうしろめたくあしかれとも思しおきてじを、
人笑へに見苦しきことそひて、見あつかはれたてまつらむが
P273
いみじさをよろづに思ひゐたまへり。
さる心もなく、あきれたまへりしけはひだになべてならず
をかしかりしを、まいてすこし世の常になよびたまへるは、
御心ざしもまさるに、たはやすく通ひたまはざらむ山道の遥
けさも胸いたきまで思して、心深げに語らひ頼めたまへど、
あはれともいかにとも思ひわきたまはず。言ひ知らずかしづ
くもめの姫君も、すこし世の常の人げ近く、親、兄弟などい
ひつつ、人のたたずまひをも見馴れたまへるは、ものの恥づ
かしさも恐ろしさもなのめにやあらむ。家にあがめきこゆる
人こそなけれ、かく山深き御あたりなれば、人に遠くもの深
くてならひたまへる心地に、思ひかけぬありさまのつつまし
く恥づかしく、何ごとも世の人に似ずあやしう田舎びたらむ
かしと、はかなき御答へにても言ひ出でん方なくつつみたま
へり。さるは、この君しもぞ、らうらうじくかどある方のに
ほひはまさりたまへる。
P274
「三日に当る夜、餅なむまゐる」と人々の
聞こゆれば、ことさらにさるべき祝ひのこ
とにこそはと思して、御前にてせさせたま
ふもたどたどしく、かつは大人になりておきてたまふも、人
の見るらむこと憚られて、面うち赤めておはするさま、いと
をかしげなり。このかみ心にや、のどかに気高きものから、
人のためあはれに情々しくぞおはしける。
中納言殿より、「昨夜、参らむと思たまへしかど、宮仕の
労もしるしなげなる世に、思たまへ恨みてなむ。今宵は雑役
もやと思うたまへれど、宿直所のはしたなげにはべりし乱り
心地いとどやすからで、やすらはれはべる」と陸奥風紙に追
ひつぎ書きたまひて、設けの物どもこまやかに、縫ひなども
せざりける、いろいろおし巻きなどしつつ、御衣櫃あまた懸
籠入れて、老人のもとに、「人々の料に」とて賜へり。宮の
御方にさぶらひけるに従ひて、いと多くもえとり集めたまは
P275
ざりけるにやあらむ、ただなる絹、綾など下には入れ隠しつ
つ、御料と思しき二観いときよらにしたるを。単衣の御衣の
袖に、古代のことなれど、
(薫)小夜衣きてなれきとはいはずともかごとばかりはか
けずしもあらじ
と、おどしきこえたまへり。
こなたかなたゆかしげなき御事を、恥づかしういとど見た
まひて、御返りもいかがは聞こえんと思しわづらふほど、御
使、かたへは、逃げ隠れにけり。あやしき下人をひかへてぞ
御返り賜ふ。
(大君)へだてなき心ばかりは通ふともなれし袖とはかけじ
とぞ思ふ
心あわたたしく思ひ乱れたまへるなごりにいとどなほなほし
きを、思しけるままと待ち見たまふ人は、ただあはれにぞ思
ひなされたまふ。
P276
宮は、その夜、内裏に参りたまひて、えま
かでたまふまじげなるを、人知れず御心も
そらにて思し嘆きたるに、中宮、「なほか
く独りおはしまして、世の中にすいたまへる御名のやうやう
聞こゆる、なほいとあしきことなり。何ごとももの好ましく
立てたる心なつかひたまひそ。上もうしろめたげに思しのた
まふ」と、里住みがちにおはしますを諫めきこえたまへば、
いと苦しと思して、御宿直所に出でたまひて、御文書きて奉
れたまへる、なごりもいたくうちながめておはしますに、中
納言の君参りたまへり。
そなたの心寄せと思せば、例よりもうれしうて、(匂宮)「い
かがすべき。いとかく暗くなりぬめるを、心も乱れてなむ」
と嘆かしげに思したり。よく御気色を見たてまつらむと思し
て、(薫)「日ごろ経てかく参りたまへるを、今宵さぶらはせた
まはで急ぎまかでたまひなむ、いとどよろしからぬことにや
P277
思しきこえさせたまはん。台盤所の方にてうけたまはりつれ
ば、人知れず、わづらはしき宮仕のしるしに、あいなき勘当
やはべらむと、顔の色違ひはべりつる」と申したまへば、
(匂宮)「いと聞きにくくぞ思しのたまふや。多くは人のとりな
すことなるべし。世に咎めあるばかりの心は何ごとにかはつ
かふらむ。どころせき身のほどこそ、なかなかなるわざなり
けれ」とて、まことにいとはしくさへ思したり。いとほしう
見たてまつりたまひて、(薫)「同じ御騒がれにこそはおはすな
れ。今宵の罪にはかはりきこえさせて、身をもいたづらにな
しはべりなむかし。木幡の山に馬はいかがはべるべき。いと
どものの聞こえや、障りどころなからむ」と聞こえたまへば、
ただ暮れに暮れて更けにける夜なれば、思しわびて、御馬に
て出でたまひぬ。(薫)「御供にはなかなか仕うまつらじ。御
後見を」とて、この君は内裏にさぶらひたまふ。
P278
中宮の御方に参りたまへれば、(中宮)「宮は
出でたまひぬなり。あさましくいとほしき
御さまかな。いかに人見たてまつるらむ。
上聞こしめしては、諫めきこえぬが言ふかひなきと、思しの
たまふこそわりなけれ」とのたまはす。あまた宮たちのかく
おとなびととのひたまへど、大宮は、いよいよ若くをかしき
けはひなんまさりたまひける。女一の宮も、かくぞおはしま
すべかめる、いかならむをりに、かばかりにてももの近く御
声をだに聞きたてまつらむとあはれにおぼゆ。すいたる人の、
思ふまじき心つかふらむも、かやうなる御仲らひの、さすが
にけ遠からず入り立ちて心にかなはぬをりのことならむかし、
わが心のやうに、ひがひがしき心のたぐひやは、また世にあ
むべかめる、それに、なほ動きそめぬるあたりは、えこそ思
ひ絶えね、など思ひゐたまへり。さぶらふかぎりの女房の容
貌、心ざま、いづれとなくわろびたるなく、めやすくとりど
P279
りにをかしき中に、あてにすぐれて目にとまるあれど、さら
にさらに乱れそめじの心にて、いときすくにもてなしたまへ
り。ことさらに見えしらがふ人もあり。おほかた恥づかしげ
にもてしづめたまへるあたりなれば、うはべこそ心ばかりも
てしづめたれ、心々なる世の中なりければ、色めかしげにす
すみたる下の心漏りて見ゆるもあるを、さまざまにをかしく
もあはれにもあるかなと、立ちてもゐても、ただ常なきあり
さまを思ひありきたまふ。
かしこには、中納言殿のことごとしげに言
ひなしたまへりつるを、夜更くるまでおは
しまさで、御文のあるを、さればよと胸つ
ぶれておはするに、夜半近くなりて、荒ましき風のきほひに、
いともなまめかしくきよらにて、匂ひおはしたるも、いかが
おろかにおぼえたまはむ。正身も、いささかうちなびきて思
ひ知りたまふことあるべし。いみじくをかしげに盛りと見え
P280
て、ひきつくろひたまへるさまは、ましてたぐひあらじはや
とおぼゆ。さばかりよき人を多く見たまふ御目にだに、けし
うはあらず、容貌よりはじめて、多く近まさりしたりと思さ
るれば、山里の老人どもは、まして口つき憎げにうち笑みつ
つ、(女房)「かくあたらしき御ありさまを、なのめなる際の人
の見たてまつりたまはましかば、いかに口惜しからまし。思
ふやうなる御宿世」と聞こえつつ、姫宮の御心を、あやしく
ひがひがしくもてなしたまふを、もどき口ひそみきこゆ。
盛り過ぎたるさまどもに、あざやかなる花の色々、似つか
はしからぬをさし縫ひつつ、ありつかずとりつくろひたる姿
どもの、罪ゆるされたるもなきを見わたされたまひて、姫宮、
我もやうやう盛り過ぎぬる身ぞかし、鏡を見れば、痩せ痩せ
になりもてゆく、おのがじしは、この人どもも、我あしとや
は思へる、後手は知らず顔に、額髪をひきかけつつ色どりた
る顔づくりをよくしてうちふるまふめり、わが身にては、ま
P281
だいとあれがほどにはあらず、目も鼻もなほしとおぼゆるは
心のなしにやあらむ、とうしろめたう、見出だして臥したま
へり。恥づかしげならむ人に見えむことは、いよいよかたは
らいたく、いま一二年あらば衰へまさりなむ、はかなげなる
身のありさまを、と御手つきの細やかにか弱くあはれなるを
さし出でても、世の中を思ひつづけたまふ。
宮は、ありがたかりつる御暇のほどを思し
めぐらすに、なほ心やすかるまじきことに
こそはと、いと胸ふたがりておぽえたまひ
けり。大宮の聞こえたまひしさまなど語つきこえたまひて、
(匂宮)「思ひながらとだえあらむを、いかなるにかと思すな。
夢にてもおろかならむに、かくまでも参り来まじきを、心の
ほどやいかがと疑ひて思ひ乱れたまはむが心苦しさに、身を
棄ててなむ。常にかくはえまどひ歩かじ。さるべきさまにて、
近く渡したてまつらむ」といと深く聞こえたまへど、絶え間
P282
あるべく思さるらむは、音に聞きし御心のほどしるきにやと
心おかれて、わが御ありさまから、さまざまもの嘆かしくて
なむありける。
明けゆくほどの空に、妻戸おし開けたまひて、もろともに
誘ひ出でて見たまへば、霧りわたれるさま、所がらのあはれ
多くそひて、例の、柴積む舟のかすかに行きかふ跡の白波、
目馴れずもある住まひのさまかなと、色なる御心にはをかし
く思しなさる。山の端の光やうやう見ゆるに、女君の御容貌
のまほにうつくしげにて、限りなくいつきすゑたらむ姫宮も
かばかりこそはおはすべかめれ、思ひなしの、わが方ざまの
いといつくしきぞかし、こまやかなるにほひなど、うちとけ
て見まほしう、なかなかなる心地す。水の音なひなつかしか
らず、宇治橋のいともの古りて見えわたさるるなど、霧晴れ
ゆけば、いとど荒ましき岸のわたりを、(匂宮)「かかる所にい
かで年を経たまふらむ」など、うち涙ぐまれたまへるを、い
P283
と恥づかしと聞きたまふ。
男の御さまの、限りなくなまめかしくきよらにて、この世
のみならず契り頼めきこえたまへば、思ひよらざりしことと
は思ひながら、なかなか、かの目馴れたりし中納言の恥づか
しさよりはとおぽえたまふ。かれは思ふ方異にて、いといた
く澄みたる気色の、見えにく
く恥づかしげなりしに、よそ
に思ひきこえしは、ましてこ
よなく遥かに、一行書き出で
たまふ御返り事だにつつまし
くおぼえしを、久しうとだえ
たまはむは、心細からむと思
ひならるるも、我ながらうた
てと思し知りたまふ。
人々いたく声づくりもよほ
P284
しきこゆれば、京におはしまさむほど、はしたなからぬほど
にと、いと心あわたたしげにて、心より外ならむ夜離れをか
へすがへすのたまふ。
(匂宮)中絶えむものならなくに橋姫のかたしく袖や改半に
ぬらさん
出でがてに、たち返りつつやすらひたまふ。
(中の君)絶えせじのわがたのみにや宇治橋のはるけき中を
待ちわたるべき
言には出でねど、もの嘆かしき御けはひ限りなく思されけり。
若き人の御心にしみぬべく、たぐひ少なげなる朝明の姿を
見送りて、なごりとまれる御移り香なども、人知れずものあ
はれなるは、ざれたる御心かな。今朝ぞ、もののあやめも見
ゆるほどにて、人々のぞきて見たてまつる。(女房)「中納言殿
は、なつかしく恥づかしげなるさまぞそひたまへりける。思
ひなしのいま一際にや、この御さまは、いとことに」などめ
P285
で聞こゆ。
道すがら、心苦しかりつる御気色を思し出
でつつ、たちも返りなまほしく、さまあし
きまで思せど、世の聞こえを忍びて帰らせ
たまふほどに、えたはやすくも紛れさせたまはず。御文は、
明くる日ごとに、あまた返りづつ奉らせたまふ。おろかには
あらぬにやと思ひながら、おぼつかなき日数の積もるを、い
と心づくしに見じと思ひしものを、身にまさりて心苦しくも
あるかなと、姫宮は思し嘆かるれど、いとどこの君の思ひ沈
みたまはむにより、つれなくもてなして、みづからだに、な
ほかかること思ひ加へじといよいよ深く思す。
中納言の君も、待遠にぞ思すらむかしと思ひやりて、わが
過ちにいとほしくて、宮を聞こえおどろかしつつ、絶えず御
気色を見たまふに、いといたく思ほし入れたるさまなれば、
さりともとうしろやすかりけり
P286
九月十日のほどなれば、野山のけしきも思
ひやらるるに、時雨めきてかきくらし、空
のむら雲おそろしげなる夕暮、宮いとど静
心なくながめたまひて、いかにせむと御心ひとつを出でたち
かねたまふ。をり推しはかりて参りたまへり。(薫)「ふるの山
里いかならむ」と、おどろかしきこえたまふ。いとうれしと
思して、もろともに誘ひたまへば、例の、ひとつ御車にてお
はす。
分け入りたまふままにぞ、まいてながめたまふらむ心の中
いとど推しはかられたまふ。道のほども、ただこのことの心
苦しきを語らひきこえたまふ。黄昏時のいみじく心細げなる
に、雨は冷やかにうちそそきて、秋はつるけしきのすごきに、
うちしめり濡れたまへる匂ひどもは、世のものに似ず艶にて、
うち連れたまへるを、山がつどもは、いかが心まどひもせざ
らむ。
P287
女ばら、日ごろうちつぶやきつるなごりなく笑みさかえつ
つ、御座ひきつくろひなどす。京に、さるべき所どころに行
き散りたるむすめども、姪だつ人二三人尋ね寄せて参らせた
り。年ごろ侮りきこえける心あさき人々、めづらかなる客人
と思ひおどろきたり。姫宮も、をりうれしく思ひきこえたま
ふに、さかしら人のそひたまへるぞ、恥づかしくもありぬべ
く、なまわづらはしく思へど、心ばへののどかにもの深くも
のしたまふを、げに人はかくはおはせざりけりと見あはせた
まふに、ありがたしと思ひ知らる。
宮を、所につけてはいとことにかしづき入れたてまつりて、
この君は、主方に心やすくもてなしたまふものから、まだ客
人居のかりそめなる方に出だし放ちたまへれば、いとからし
と思ひたまへり。恨みたまふもさすがにいとほしくて、物越
しに対面したまふ。(薫)「戯れにくくもあるかな。かくてのみ
や」と、いみじく恨みきこえたまふ。やうやうことわり知り
P288
たまひにたれど、人の御上にてもものをいみじく思ひ沈みた
まひて、いとどかかる方をうきものに思ひはてて、なほひた
ぶるに、いかでかくうちとけじ、あはれと思ふ人の御心も、
かならずつらしと思ひぬべきわざにこそあめれ、我も人も見
おとさず、心違はでやみにしがな、と思ふ心づかひ深くした
まへり。宮の御ありさまなども問ひきこえたまへば、かすめ
つつ、さればよと思しくのたまへば、いとほしくて、思した
る御さま、気色を見ありくやうなど語りきこえたまふ。
例よりは心うつくしく語らひて、(大君)「なほかくもの思ひ
加ふるほど過ごし、心地もしづまりて聞こえむ」とのたまふ。
人憎く、け遠くはもて離れぬものから、障子の固めもいと強
し、しひて破らむをば、つらくいみじからむと思したれば、
思さるるやうこそはあらめ、軽々しく異ざまになびきたまふ
こと、はた、世にあらじと、心のどかなる人は、ぎいへど、
いとよく思ひしづめたまふ。(薫)「ただいとおぽつかなく、物
P289
隔てたるなむ、胸あかぬ心地するを。ありしやうにて聞こえ
む」と貴めたまへど、(大君)「常よりもわが面影に恥づるころ
なれば、疎ましと見たまひてむもさすがに苦しきは、いかな
るにか」と、ほのかにうち笑ひたまへるけはひなど、あやし
うなつかしくおぼゆ。(薫)「かかる御心にたゆめられたてまつ
りて、つひにいかになるべき身にか」と嘆きがちにて、例の、
遠山鳥にて明けぬ。宮は、支だ旅寝なるらむとも思さで、
(匂宮)「中納言の、主方に心のどかなる気色こそうらやましけ
れ」とのたまへば、女君、あやしと聞きたまふ。
わりなくておはしましては、ほどなく帰り
たまふが飽かず苦しきに、宮ものをいみじ
く思したり。御心の中を知りたまはねば、
女方には、またいかならむ、人笑へにやと思ひ嘆きたまへば、
げに心づくしに苦しげなるわざかなと見ゆ。京にも、隠ろへ
て渡りたまふべき所もさすがになし。六条院には、左の大殿
P290
片つ方に住みたまひて、さばかりいかでと思したる六の君の
御事を思しよらぬに、なま恨めしと思ひきこえたまふべかめ
り。すきずきしき御さまとゆるしなく譏りきこえたまひて、
内裏わたりにも愁へきこえたまふべかめれば、いよいよおぽ
えなくて出だし据ゑたまはむも憚ることいと多かり。なべて
に思す人の際は、宮仕の筋にて、なかなか心やすげなり、さ
やうの並々には思されず、もし世の中移りて、帝、后の思し
おきつるままにもおはしまさば、人より高きさまにこそなさ
めなど、ただ今は、いとはなやかに心にかかりたまへるまま
に、もてなさむ方なく、苦しかりけり。
中納言は、三条宮造りはてて、さるべきさ
まにて渡したてまつらむと思す。げに、た
だ人は心やすかりけり。かくいと心苦しき
御気色ながら、やすからず忍びたまふからに、かたみに思ひ
悩みたまふべかめるも、心苦しくて、忍びてかく通ひたまふ
P291
よしを、中宮などにも漏らし聞こしめさせて、しばしの御騒
がれはいとほしくとも、女方の御ためは各もあらじ、いと、
かく、夜をだに明かしたまはぬ苦しげさよ、いみじくもてな
してあらせたてまつらばや、など思ひて、あながちにも隠ろ
へず。
更衣など、はかばかしく誰かはあつかふらむなど思して、
御帳の帷子、壁代など、三条宮造りはてて渡りたまはむ心ま
うけにしおかせたまへる
を、(薫)「まづさるべき
なむ」など、いと忍びて
聞こえたまひて、奉れた
まふ。さまざまなる女房
の装束、御乳母などにも
のたまひつつ、わざとも
せさせたまひけり。
P292
十月一日ごろ、網代もをかしきほどならむ
とそそのかしきこえたまひて、紅葉御覧ず
べく申しさだめたまふ。親しき宮人ども、
殿上人の睦ましく思すかぎり、いと忍びてと思せど、ところ
せき御勢ひなれば、おのづから事ひろごりて、左の大殿の宰
相中将参りたまふ。さてはこの中納言ばかりぞ、上達部
は仕うまつりたまふ。ただ人は多かり。
かしこには、(薫)「論なく中宿したまはむを、さるべきさま
に思せ。さきの春も、花見に尋ね参り来しこれかれ、かかる
たよりに事寄せて、時雨の紛れに見たてまつりあらはすやう
もぞはべる」など、こまやかに聞こえたまへり。御簾かけか
へ、ここかしこかき払ひ、岩隠れに積もれる紅葉の朽葉すこ
しはるけ、遣水の水草払はせなどぞしたまふ。よしあるくだ
もの、肴など、さるべき人なども奉れたまへり。かつはゆか
しげなけれど、いかがはせむ、これもさるべきにこそはと思
P293
ひゆるして、心まうけしたまへり。
舟にて上り下り、おもしろく遊びたまふも聞こゆ。ほのぼ
のありさま見ゆるを、そなたに立ち出でて、若き人々見たて
まつる。正身の御ありさまはそれと見わかねども、紅葉を葺
きたる舟の飾りの錦と見ゆるに、声々吹き出づる物の音ども、
風につきておどろおどろしきはでおぼゆ。世人のなびきかし
づきたてまつるさま、かく忍びたまへる道にも、いとことに
いつくしきを見たまふにも、げに七夕ばかりにても、かかる
彦星の光をこそ待ち出でめとおぼえたり。
文作らせたまふべき心まうけに、博士などもさぶらひけり。
黄昏時に、御舟さし寄せて遊びつつ文作りたまふ。紅葉を薄
く濃くかざして、海仙楽といふものを吹きて、おのおの心ゆ
きたる気色なるに、宮は、あふみの海の心地して、をちかた
人の恨みいかにとのみ御心そらなり。時につけたる題出だし
て、うそぶき誦じあへり。
P294
人のまよひすこししづめておはせむと中納
言も思して、さるべきやうに聞こえたまふ
ほどに、内裏より、中宮の仰せ言にて、宰
相の御兄の衛門督、ことごとしき随身ひき連れてうるはしき
さまして参りたまへり。かうやうの御歩きは、忍びたまふと
すれどおのづから事ひろごりて、後の例にもなるわざなるを、
重々しき人数あまたもなくて、にはかにおはしましにけるを
聞こしめしおどろきて、殿上人あまた具して参りたるにはし
たなくなりぬ。宮も中納言も、苦しと思して、物の興もなく
なりぬ。御心の中をば知らず、酔ひ乱れて遊び明かしつ。
今日は、かくてと思すに、また、宮の大夫、さらぬ殿上人
などあまた奉れたまへり。心あわたたしく口惜しくて、帰り
たまはむそらなし。かしこには御文をぞ奉れたまふ。をかし
やかなることもなく、いとまめだちて、思しけることどもを
こまごまと書きつづけたまへれど、人目しげく騒がしからむ
P295
にとて、御返りなし。数ならぬありさまにては、めでたき御
あたりにまじらはむ、かひなきわざかなといとど思し知りた
まふ。よそにて隔たる月日は、おぽつかなさもことわりに、
さりともなど慰めたまふを、近きほどにののしりおはして、
つれなく過ぎたまふなむ、つらくも口惜しくも思ひ乱れたま
ふ。
宮は、まして、いぶせくわりなしと思すこと限りなし。網
代の氷魚も心寄せたてまつりて、いろいろの木の葉にかきま
ぜもてあそぶを、下人などはいとをかしきことに思へれば、
人に従ひつつ、心ゆ
く御歩きに、みづか
らの御心地は、胸の
みつとふたがりて、
空をのみながめたま
ふに、この古宮の梢
P296
は、いとことにおもしろく、常磐木に這ひかかれる蔦の色な
ども、もの深げに見えて、遠目さへすごげなるを、中納言の
君も、なかなか頼めきこえけるを、愁はしきわざかなとおぽ
ゆ。
去年の春、御供なりし君たちは、花の色を思ひ出でて、後
れてここにながめたまふらむ心細さを言ふ。かく忍び忍びに
通ひたまふとほの聞きたるもあるべし。心知らぬもまじりて、
おほかたに、とやかくやと、人の御上は、かかる山隠れなれ
ど、おのづから聞こゆるものなれば、「いとをかしげにこそ
ものしたまふなれ」「箏の琴上手にて、故宮の明け暮れ遊び
ならはしたまひければ」など、口々言ふ。宰相中将、
いつぞやも花のさかりにひとめ見し木の本さへや秋はさ
びしき
主方と思ひて言へば、中納言、
(薫)桜こそ思ひ知らすれ咲きにほふ花も紅葉もつねなら
P297
ぬ世を
衛門督、
いづこより秋はゆきけむ山里の紅葉のかげは過ぎうきも
のを
宮の大夫、
見し人もなき山里の岩垣に心ながくも這へる葛かな
中に老いしらひて、うち泣きたまふ。親王の若くおはしける
世のことなど思ひ出づるなめり。宮、
(匂宮)秋はててさびしさまさる木のもとを吹きなすぐしそ
峰の松風
とて、いといたく涙ぐみたまへるを、ほのかに知る人は、げ
に深く思すなりけり、今日のたよりを過ぐしたまふ心苦しさ、
と見たてまつる人あれど、ことごとしくひきつづきて、えお
はしまし寄らず。作りける文の、おもしろき所どころうち誦
じ、やまと歌もことにつけて多かれど、かやうの酔ひの紛れ
P298
に、ましてはかばかしきことあらむやは。片はし書きとどめ
てだに見苦しくなむ。
かしこには、過ぎたまひぬるけはひを、遠
くなるまで聞こゆる前駆の声々、ただなら
ずおぽえたまふ。心まうけしつる人々も、
いと口借しと思へり。姫宮は、まして、なほ音に聞く月草の
色なる御心なりけり、ほのかに人の言ふを聞けば、男といふ
ものは、そら言をこそいとよくすなれ、思はぬ人を思ふ顔に
とりなす言の葉多かるものと、この人数ならぬ女ばらの、昔
物語に言ふを、さるなほなほしき中にこそは、けしからぬ心
あるもまじるらめ、何ごとも筋ことなる際になりぬれば、人
の聞き思ふことつつましく、ところせかるべきものと思ひし
は、さしもあるまじきわざなりけり、あだめきたまへるやう
に、故宮も聞き伝へたまひて、かやうにけ近きほどまでは思
しよらざりしものを、あやしきまで心深げにのたまひわたり、
P299
思ひの外に見たてまつるにつけてさへ、身のうさを思ひそふ
るが、あぢきなくもあるかな、かく見劣りする御心を、かつ
はかの中納言もいかに思ひたまふらむ、ここにもことに恥づ
かしげなる人はうちまじらねど、おのおの思ふらむが人笑へ
にをこがましきこと、と思ひ乱れたまふに、心地も違ひて、
いとなやましくおぼえたまふ。
正身は、たまさかに対面したまふ時、限りなく深きことを
頼め契りたまへれば、さりともこよなうは思し変らじと、お
ぼつかなきもわりなき障りこそはものしたまふらめと、心の
中に思ひ慰めたまふ方あり。ほど経にけるが思ひいられたま
はぬにしもあらぬに、なかなかにてうち過ぎたまひぬるを、
つらくも口惜しくも思ほゆるに、いとどものあはれなり。忍
びがたき御気色なるを、人並々にもてなして、例の人めきた
る住まひならば、かうやうにもてなしたまふまじきをなど、
姉宮はいとどしくあはれと見たてまつりたまふ。
P300
我も、世にながらへば、かうやうなること見つべきにこそ
はあめれ、中納言の、とざまかうざまに言ひ歩きたまふも、
人の心を見むとなりけり、心ひとつにもて離れて思ふとも、
こしらへやる限りこそあれ、ある人のこりずまに、かかる筋
のことをのみ、いかでと思ひためれば、心より外に、つひに
もてなされぬべかめり、これこそは、かへすがへす、さる心
して世を過ぐせとのたまひおきしは、かかることもやあらむ
の諫めなりけり、さもこそはうき身どもにて、さるべき人に
も後れたてまつらめ、やうのものと、人笑へなることをそふ
るありさまにて、亡き御影をさへ悩ましたてまつらむがいみ
じさ、なほ我だに、さるもの思ひに沈まず、罪などいと深か
らぬさきに、いかで亡くなりなむ、と思し沈むに、心地もま
ことに苦しければ、物もつゆばかりまゐらず、ただ亡からむ
後のあらましごとを、明け暮れ思ひつづけたまふに、もの心
細くて、この君を見たてまつりたまふもいと心苦しく、我に
P301
さへ後れたまひて、いかにいみじく慰む方なからむ、あたら
しくをかしきさまを、明け暮れの見物にて、いかで人々しく
も見なしたてまつらむと思ひあつかふをこそ、人知れぬ行く
先の頼みにも思ひつれ、限りなき人にものしたまふとも、か
ばかり人笑へなる目を見てむ人の、世の中にたちまじり、例
の人ざまにて経たまはんは、たぐひ少なく心憂からむ、など
思しつづくるに、言ふかひもなく、この世にはいささか思ひ
慰む方。なくて過ぎぬべき身どもなめり、と心細く思す。
宮は、たち返り、例のやうに忍びてと出で
立ちたまひけるを、内裏に、「かかる御忍
び事により、山里の御歩きもゆくりかに思
したつなりけり。軽々しき御ありさまと、世人も下に譲り申
すなり」と、衛門督の漏らし申したまひければ、中宮も聞こ
しめし嘆き、上もいとどゆるさぬ御気色にて、「おほかた心
にまかせたまへる御里住みのあしきなり」と、きびしきこと
P302
ども出で来て、内裏につとさぶらはせたてまつりたまふ。左
の大殿の六の君をうけひかず思したることなれど、おしたち
て参らせたまふべくみな定めらる。
中納言殿聞きたまひて、あいなくものを思ひありきたまふ。
わがあまり異様なるぞや、さるべき契りやありけむ、親王の
うしろめたしと思したりしさまもあはれに忘れがたく、この
君たちの御ありさまけはひも、ことなることなくて世に衰へ
たまはむことの惜しくもおぼゆるあまりに、人々しくももて
なさばやと、あやしきまでもてあつかはるるに、宮もあやに
くにとりもちて責めたまひしかば、わが思ふ方は異なるに譲
らるるありさまもあいなくて、かくもてなしてしを、思へば、
悔しくもありけるかな、いづれもわがものにて見たてまつら
むに、咎むべき人もなしかし、ととり返すものならねど、を
こがましく心ひとつに思ひ乱れたまふ。
宮は、まして、御心にかからぬをりなく、恋しくうしろめ
P303
たしと思す。「御心につきて思す人あらば、ここに参らせて、
例ざまにのどやかにもてなしたまへ。筋ことに思ひきこえた
まへるに、軽びたるやうに人の聞こゆべかめるも、いとなむ
口惜しき」と、大宮は明け暮れ聞こえたまふ。
時雨いたくしてのどやかなる日、女一の宮
の御方に参りたまへれば、御前に人多くも
さぶらはず、しめやかに、御絵など御覧ず
るほどなり。御几帳ばかり隔てて、御物語聞こえたまふ。限
りもなくあてに気高きものから、なよびかにをかしき御けは
ひを、年ごろ二つなきものに思ひきこえたまひて、またこの
御ありさまになずらふ人世にありなむや、冷泉院の姫宮ばか
りこそ、御おぼえのほど、内々の御けはひも心にくく聞こゆ
れど、うち出でむ方もなく思しわたるに、かの山里人は、ら
うたげにあてなる方の劣りきこゆまじきぞかしなど、まづ思
ひ出づるにいとど恋しくて、慰めに、御絵どものあまた散り
P304
たるを見たまへば、
をかしげなる女絵ど
もの、恋する男の住まひなど按きまぜ、山里のをかしき家居
など、心々に世のありさま描きたるを、よそへらるること多
くて、御目とまりたまへば、すこし聞こえたまひてかしこへ
奉らむと思す。在五が物語描きて、妹に琴教へたるところの、
「人の結ばん」と言ひたるを見て、いかが思すらん、すこし
近く参り寄りたまひて、(匂宮)「いにしへの人も、さるべきほ
どは、隔てなくこそならはしてはべりけれ。いとうとうとし
くのみもてなさせたまふこそ」と、忍びて聞こえたまへば、
いかなる絵にかと思すに、おし巻き寄せて、御前にさし入れ
たまへるを、うつぶして御覧ずる御髪のうちなびきてこぼれ
出でたるかたそばばかり、ほのかに見たてまつりたまふが飽
かずめでたく、すこしももの隔てたる人と思ひきこえましか
ばと思すに、忍びがたくて、
P305
(匂宮)若草のねみむものとは思はねどむすぽほれたる心地
こそすれ
御前なりつる人々は、この宮をばことに恥ぢきこえて、物
の背後に隠れたり。ことしもこそあれ、うたてあやしと思せ
ば、ものものたまはず。ことわりにて、「うらなくものを」
と言ひたる姫君も、ざれて憎く思さる。紫の上の、とりわき
てこの二ところをばならはしきこえたまひしかば、あまたの
御中に、隔てなく思ひかはしきこえたまへり。世になくかし
づききこえたまひて、さぶらふ人々も、かたほにすこし飽か
ぬところあるははしたなげなり。やむごとなき人の御むすめ
などもいと多かり。御心の移ろひやすきは、めづらしき人々
にはかなく語らひつきなどしたまひつつ、かのわたりを思し
忘るるをりなきものから、訪れたまはで日ごろ経ぬ。
P306
待ちきこえたまふ所は、絶え間遠き心地し
て、なほかくなめりと心細くながめたまふ
に、中納言おはしたり。なやましげにした
まふと聞きて、御とぶらひなりけり。いと心地まどふばかり
の御なやみにもあらねど、ことつけて、対面したまはず。(薫)
「おどろきながら、遥けきほどを参り来つるを。なほかのな
やみたまふらむ御あたり近く」と、切におぼつかながりきこ
えたまへば、うちとけて住まひたまへる方の御簾の前に入れ
たてまつる。いとかたはらいたきわざと苦しがりたまへど、
けにくくはあらで、御頭もたげ、御答へなど聞こえたまふ。
宮の、御心もゆかでおはし過ぎにしありさまなど語りきこ
えたまひて、(薫)「のどかに思せ。心焦られして、な恨みきこ
えたまひそ」など教へきこえたまへば、(大君)「ここには、と
もかくも聞こえたまはざめり。亡き人の御諫めはかかること
にこそと見はべるばかりなむ、いとほしかりける」とて、泣
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きたまふ気色なり。いと心苦しく、我さへ恥づかしき心地し
て、(薫)「世の中はとてもかくても、ひとつさまにて過ぐすこ
と難くなむはべるを、いかなることをも御覧じ知らぬ御心ど
もには、ひとへに恨めしなど思すこともあらむを、強ひて思
しのどめよ。うしろめたくは、よにあらじとなん思ひはべ
る」など、入の御上をさへあつかふも、かつはあやしくおぼ
ゆ。
夜々は、まして、いと苦しげにしたまひければ、疎き人の
御けはひの近きも、中の宮の苦しげに思したれば、(女房)「な
ほ、例の、あなたに」と人々聞こゆれど、(薫)「まして、かく、
わづらひたまふほどのおぼつかなさを。思ひのままに参り来
て、出だし放ちたまへれば、いとわりなくなむ。かかるをり
の御あつかひも、誰かははかばかしく仕うまつる」など、弁
のおもとに語らひたまひて、御修法どもはじむべきことのた
まふ。いと見苦しく、ことさらにもいとはしき身をと聞きた
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まへど、思ひ隈なくのたまはむもうたてあれば、さすがに、
ながらへよと思ひたまへる心ばへも、あはれなり。
またの朝に、(薫)「すこしもよろしく思さる
や。昨日ばかりにてだに聞こえさせむ」と
あれば、(大君)「日ごろ経ればにや、今日は
いと苦しくなむ。さらば、こなたに」と言ひ出だしたまへり。
いとあはれに、いかにものしたまふべきにかあらむ、ありし
よりはなつかしき御気色なるも、胸つぶれておぼゆれば、近
く寄りて、よろづのことを聞こえたまふ。(大君)「苦しくてえ
聞こえず。すこしためらはむほどに」とて、いとかすかにあ
はれなるけはひを、限りなく心苦しくて、嘆きゐたまへり。
さすがに、つれづれとかくておはしがたければ、いとうしろ
めたけれど、帰りたまふ。(薫)「かかる御庄まひはなほ苦しか
りけり。所避りたまふに事よせて、さるべき所に移ろはした
てまつらむ」など聞こえおきて、阿闍梨にも、御祈濤心に入
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るべくのたまひ知らせて出でたまひぬ。
この君の御供なる人の、いつしかと、ここ
なる若き人を語らひ寄りたるありけり。お
のがじしの物語に、「かの宮の、御忍び歩
き制せられたまひて、内裏にのみ籠りおはしますこと。左の
大殿の姫君をあはせたてまつりたまふべかなる、女方は年ご
ろの御本意なれば、思しとどこほることなくて、年の内にあ
りぬべかなり。宮はしぶしぶに思して、内裏わたりにも、た
だすきがましきことに御心を入れて、帝、后の御戒めにしづ
まりたまふべくもあらざめり。わが殿こそ、なほあやしく人
に似たまはず、あまりまめにおはしまして、人にはもて悩ま
れたまへ。ここにかく渡りたまふのみなむ、目もあやに、お
ぼろけならぬことと人申す」など語りけるを、(女房)「さこそ
言ひつれ」など、人々の中にて語るを聞きたまふに、いとど
胸ふたがりて、今は限りにこそあなれ、やむごとなき方に定
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まりたまはぬほどの、な
ほざりの御すさびにかく
まで思しけむを、さすが
に中納言などの思はんと
ころを思して、言の葉の
かぎり深きなりけり、と
思ひなしたまふに、とも
かくも人の御つらさは思ひ知られず、いとど身の置き所なき
心地して、しをれ臥したまへり。
弱き御心地は、いとど世に立ちとまるべくもおぼえず。恥
づかしげなる人々にはあらねど、思ふらむところの苦しけれ
ば、聞かぬやうにて寝たまへるを、姫宮、もの思ふ時のわざ
と聞きし、うたた寝の御さまのいとらうたげにて、腕を枕に
て寝たまへるに、御髪のたまりたるほどなど、ありがたくう
つくしげなるを見やりつつ、親の諫めし言の葉も、かへすが
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へす思ひ出でられたまひて悲しければ、罪深かなる底にはよ
も沈みたまはじ、いづくにもいづくにも、おはすらむ方に迎
へたまひてよ、かくいみじくもの思ふ身どもをうち棄てたま
ひて、夢にだに見えたまはぬよ、と思ひつづけたまふ。
タ暮の空のけしきいとすごくしぐれて、木の下吹き払ふ風
の音などに、たとへん方なく、来し方行く先思ひつづけられ
て、添ひ臥したまへるさまあてに限りなく見えたまふ。自き
御衣に、髪は梳ることもしたまはでほど経ぬれど、迷ふ筋な
くうちやられて、日ごろにすこし青みたまへるしも、なまめ
かしさまさりて、ながめ出だしたまへるまみ額つきのほども、
見知らん人に見せまほし。
昼寝の君、風のいと荒きにおどろかせれて起き上がりたま
へり。山吹、薄色などはなやかなる色あひに、御顔はことさ
らに染めにほはしたらむやうに、いとをかしくはなばなとし
て、いささかもの思ふべきさまもしたまへらず。(中の君)「故宮
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の夢に見えたまへる、いともの思したる気色にて、このわた
りにこそほのめきたまひつれ」と語りたまへば、いとどしく
悲しさそひて、(大君)「亡せたまひて後、いかで夢にも見たて
まつらむと思ふを、さらにこそ見たてまつらね」とて、二と
ころながらいみじく泣きたまふ。このごろ明け暮れ思ひ出で
たてまつれば、ほのめきもやおはすらむ、いかで、おはすら
む所に尋ね参らむ。罪深げなる身どもにてと、後の世をさへ
思ひやりたまふ。外国にありけむ香の煙ぞ、いと得まほしく
思さるる。
いと暗くなるほどに、宮より御使あり。を
りはすこしもの思ひ慰みぬべし。御方はと
みにも見たまはず。(大君)「なほ心うつくし
うおいらかなるさまに聞こえたまへ。かくてはかなくもなり
はべりなば、これよりなごりなき方に、もてなしきこゆる人
もや出で来むとうしろめたきを。まれにもこの人の思ひ出で
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きこえたまはむに、さやうなるあるまじき心つかふ人はえあ
らじと思へば、つらきながらなむ頼まれはべる」と聞こえた
まへば、(中の君)「後らさむと思しけるこそ、いみじくはべれ」
と、いよいよ顔をひき入れたまふ。(大君)「限りあれば、片時
もとまらじと思ひしかど、ながらふるわざなりけりと思ひは
べるぞや。明目知らぬ世の、さすがに嘆かしきも、誰がため
惜しき命にかは」とて、大殿油まゐらせて見たまふ。 1
例の、こまやかに書きたまひて、
(匂宮)ながむるは同じ雲居をいかなればおぽつかなさをそ
ふる時雨ぞ
「かく袖ひつる」などいふこともやありけむ、耳馴れにたる、
なほあらじごとと見るにつけても、恨めしさまさりたまふ。
さばかり世にありがたき御ありさま容貌を、いとど、いかで
人にめでられむと、好ましく艶にもてなしたまへれば、若き
人の心寄せたてまつりたまはむことわりなり。ほど経るにつ
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けても恋しく、さばかりところせきまで契りおきたまひしを、
さりとも、いとかくてはやまじと思ひなほす心ぞ常にそひけ
る。御返り、(使者)「今宵参りなん」と聞こゆれば、これかれ
そそのかしきこゆれば、ただ一言なん、
(中の君)あられふる深山の里は朝夕にながむる空もかきく
らしつつ
かくいふは、神無月の晦日なりけり。月も
隔たりぬるよと、宮は敵心なく思されて、
今宵今宵と思しつつ、障り多みなるほどに、
五節などとく出で来たる年にて、内裏わたりいまめかしく紛
れがちにて、わざともなけれど過ぐいたまふほどに、あさま
しく待ち遠なり。はかなく人を見たまふにつけても、さるは
御心に離るるをりなし。左の大殿のわたりのこと、大宮も、
「なほさるのどやかなる御後見をまうけたまひて、そのほか
に尋ねまほしく思さるる人あらば参らせて、重々しくもてな
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したまへ」と聞こえたまへど、(匂宮)「しばし。さ思うたまふ
るやうなむ」など聞こえいなびたまひて、まことにつらき目
はいかでか見せむなど思す御心を知りたまはねば、月日にそ
へてものをのみ思す。
中納言も、見しほどよりは軽びたる御心か
な、さりともと思ひきこえけるもいとほし
く心からおぼえつつ、をさをさ参りたまは
ず。山里には、いかにいかにととぶらひきこえたまふ。この
月となりては、すこしよろしくおはすと聞きたまひけるに、
公私もの騒がしきころにて、五六日人も奉れたまはぬに、
いかならむとうちおどろかれたまひて、わりなきことのしげ
さをうち棄てて参でたまふ。
修法は、おこたりはてたまふまでとのたまひおきけるを、
よろしくなりにけりとて、阿闍梨をも帰したまひければ、い
と人少なにて、例の、老人出で来て御ありさま聞こゆ。「そ
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こはかと痛きところもなく、おどろおどろしからぬ御なやみ
に、物をなむさらに聞こしめさぬ。もとより、人に似たまは
ずあえかにおはします中に、この宮の御事出で来にし後、い
とどもの思したるさまにて、はかなき御くだものだに御覧じ
入れざりしつもりにや、あさましく弱くなりたまひて、さら
に頼むべくも見えたまはず。世に心憂くはべりける身の命の
長さにて、かかることを見たてまつれば、まづいかで先立ち
きこえなむと思ひたまへ入りはべり」と言ひもやらず泣くさ
ま、ことわりなり。(薫)「心憂く。などか、かくとも告げたま
はざりける。院にも内裏にも、あさましく事しげきころにて、
日ごろもえ聞こえざりつるおぼつかなさ」とて、ありし方に
入りたまふ。御枕上近くてもの聞こえたまへど、御声もな
きやうにて、え答へたまはず。(薫)「かく重くなりたまふまで、
誰も誰も告げたまはざりけるが、つらくも。思ふにかひなき
こと」と恨みて、例の、阿闍梨、おほかた世に験ありと聞こ
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ゆる人のかぎり、あまた請じたまふ。御修法、読経、明くる
日よりはじめさせたまはむとて、殿人あまた参り集ひ、上下
の人たち騒ぎたれば、心細さのなごりなく頼もしげなり。
暮れぬれば、「例の、あなたに」と聞こえて、御湯漬など
まゐらむとすれど、(薫)「近くてだに見たてまつらむ」とて、
南の廂は僧の座なれば、東面のいますこしけ近き方に、屏
風など立てさせて入りゐたまふ。中の宮苦しと思したれど、
この御仲をなほもて離
れたまはぬなりけりと
みな思ひて、うとくも
えもてなし隔てず。初
夜よりはじめて、法華
経を不断一読ませたま
ふ。声尊きかぎり十二
人して、いと尊し。
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灯はこなたの南の間にともして、内は暗きに、几帳を引き
上げて、すこしすべり入りて見たてまつりたまへば、老人ど
も二三人ぞさぶらふ。中の宮は、ふと隠れたまひぬれば、い
と人少なに、心細くて臥したまへるを、(薫)「などか御声をだ
に聞かせたまはぬ」とて、御手をとらへておどろかしきこえ
たまへば、(大君)「心地にはおぼえながら、もの言ふがいと苦
しくてなん。日ごろ、訪れたまはざりつれば、おぼつかなく
て過ぎはべりぬべきにやと口惜しくこそはべりつれ」と息の
下にのたまふ。(薫)「かく、待たれたてまつるほどまで、参り
来ざりけること」とて、さくりもよよと泣きたまふ。御ぐし
など、すこし熱くぞおはしける。(薫)「何の罪なる御心地にか。
人の嘆き負ふこそかくはあむなれ」と、御耳にさし当てて、
ものを多く聞こえたまへば、うるさうも恥づかしうもおぼえ
て、顔をふたぎたまへり。いとどなよなよとあえかにて臥し
たまへるを、むなしく見なして、いかなる心地せむと、胸も
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ひしげておぼゆ。(薫)「日ごろ、見たてまつりたまひつらむ御
心地もやすからず思されつらむ。今宵だに心やすくうち休ま
せたまへ。宿直人さぶらふべし」と聞こえたまへば、うしろ
めたけれど、さるやうこそはと思して、すこし退きたまへり。
直面にはあらねど、這ひよりつつ見たてまつりたまへば、
いと苦しく恥づかしけれど、かかるべき契りこそはありけめ
と思して、こよなうのどかにうしろやすき御心を、かの片つ
方の人に見くらべたてまつりたまへば、あはれとも思ひ知ら
れにたり。むなしくなりなむ後の思ひ出にも、心ごはく、思
ひ限なからじとつつみたまひて、はしたなくもえおし放ちた
まはず。夜もすがら人をそそのかして、御湯などまゐらせた
てまつりたまへど、つゆばかりまゐる気色もなし。いみじの
わざや、いかにしてかはかけとどむべきと、言はむ方なく思
ひゐたまへり。
P320
不断経の暁方のゐかはりたる声のいと尊き
に、阿闍梨も夜居にさぶらひてねぶりたる、
うちおどろきて陀羅尼読む。老いかれにた
れど、いと功づきて頼もしう聞こゆ。(阿闍梨)「いかが今宵はお
はしましつらむ」など聞こゆるついでに、故宮の御事など聞
こえ出でて、鼻しばしばうちかみて、(阿闍梨)「いかなる所にお
はしますらむ。さりとも涼しき方にぞと思ひやりたてまつる
を、先つころ夢になむ見えおはしましし。俗の御かたちにて、
世の中を深う厭ひ離れしかば、心とまることなかりしを、い
ささかうち思ひしことに乱れてなん、ただしばし願ひの所を
隔たれるを思ふなんいと悔しき、すすむるわざせよと、いと
さだかに仰せられしを、たちまちに仕うまつるべきことのお
ばえはべらねば、たへたるに従ひて行ひしはべる法師ばら五
六人して、なにがしの念仏なん仕うまつらせはべる。さては
思ひたまへ得たることはべりて、常不軽をなむつかせはべ
P321
る」など申すに、君もいみじう泣きたまふ。かの世にさへ妨
げきこゆらん罪のほどを、苦しき心地にも、いとど消え入り
ぬばかりおぼえたまふ。いかで、かのまだ定まりたまはざら
むさきに参でて、同じ所にもと聞き臥したまへり。
阿闍梨は言少なにて立ちぬ。この常不軽、そのわたりの
里々、京まで歩きけるを、暁の嵐にわびて、阿闍梨のさぶら
ふあたりを尋ねて、中門のもとにゐて、いと尊くつく。回向
の末つ方の心ばへいとあはれなり。客人もこなたにすすみた
る御心にて、あはれ忍
ばれたまはず。中の宮、
切におぼつかなくて、
奥の方なる几帳の背後
に寄りたまへるけはひ
を聞きたまひて、あざ
やかにゐなほりたまひ
P322
て、(薫)「不軽の声はいかが聞かせたまひつらむ。重々しき道
には行はぬことなれど、尊くこそはべりけれ」とて、
(薫)霜さゆる汀の千鳥うちわびてなく音かなしき朝ぼら
けかな
言葉のやうに聞こえたまふ。つれなき人の御けはひにも通ひ
て、思ひよそへらるれど、答へにくくて、弁してぞ聞こえた
まふ。
(中の君)あかつきの霜うちはらひなく干鳥もの思ふ人の心
をや知る
似つかはしからぬ御かはりなれど、ゆゑなからず聞こえなす。
かやうのはかなしごとも、つつましげなるものから、なつか
しうかひあるさまにとりなしたまふものを、今はとて別れな
ば、いかなる心地せむと思ひまどひたまふ。
宮の夢に見えたまひけむさま思しあはするに、かう心苦し
き御ありさまどもを、天翔りてもいかに見たまふらむと推し
P323
はかられて、おはしましし御寺にも御誦経せさせたまふ。所
どころに御祈濤の使出だしたてさせたまひ、公にも私にも、
御暇のよし申したまひて、祭、祓、よろづにいたらぬことな
くしたまへど、物の罪めきたる御病にもあらざりければ、何
の験も見えず。
みづからも、たひらかにあらむとも仏をも
念じたまはばこそあらめ、なほかかるつい
でにいかで亡せなむ、二の君のかくそひゐ
て、残りなくなりぬるを、今はもて離れむ方なし、さりとて、
かうおろかならず見ゆめる心ばへの、見劣りして我も人も見
えむが、心やすからずうかるべきこと、もし命強ひてとまら
ば、病にことつけて、かたちをも変へてむ、さてのみこそ、
長き心をもかたみに見はつべきわざなれ、と思ひしみたまひ
て、とあるにてもかかるにても、いかでこの思ふことしてむ
と思すを、さまでさかしきことはえうち出でたまはで、中の
P324
宮に、(大君)「心地のいよいよ頼もしげなくおぼゆるを、忌む
ことなん、いと験ありて命延ぶることと聞きしを、さやうに
阿闍梨にのたまへ」と聞こえたまへば、みな泣き騒ぎて、
(女房)「いとあるまじき御事なり。かくばかり思しまどふめる
中納言殿も、いかがあへなきやうに思ひきこえたまはむ」と、
似げなきことに思ひて、頼もし人にも申しつがねば、口借し
う思す。
かく籠りゐたまへれば、聞きつぎつつ、御
とぶらひにふりはへものしたまふ人もあり。
おろかに思されぬことと見たてまつれば、
殿人、親しき家司などは、おのおのよろづの御祈濤をせさせ、
嘆ききこゆ。
豊明は今日ぞかしと、京思ひやりたまふ。風いたう吹き
て、雪の降るさまあわたたしう荒れまどふ。都にはいとかう
しもあらじかしと、人やりならず心細うて、疎くてやみぬべ
^
P325
きにやと思ふ契りはつらけれど、恨むべうもあらず、なつか
しうらうたげなる御もてなしを、ただしばしにても例になし
て、思ひつることども語らはばや、と思ひつづけてながめた
まふ。光もなくて暮れはてぬ。
(薫)かきくもり日かげも見えぬ奥山に心をくらすころに
もあるかな
ただ、かくておはするを頼みにみな思ひきこえたり。例の、
近き方にゐたまへるに、御几帳などを、風のあらはに吹きな
せば、中の宮奥に入りたまふ。見苦しげなる人々も、かかや
き隠れぬるほどに、いと近う寄りて、(薫)「いかが思さるる。
心地に思ひ残すことなく、念じきこゆるかひなく、御声をだ
に聞かずなりにたれば、いとこそわびしけれ。後らかしたま
はば、いみじうつらからむ」と泣く泣く聞こえたまふ。もの
おぼえずなりにたるさまなれど、顔はいとよく隠したまへり。
(大君)「よろしきひまあらば、聞こえまほしきこともはべれど、
P326
ただ消え入るやうにのみなりゆくは、口惜しきわざにこそ」
と、いとあはれと思ひたまへる気色なるに、いよいよせきと
どめがたくて、ゆゆしう、かく心細げに思ふとは見えじとつ
つみたまへど、声も惜しまれず。
いかなる契りにて、限りなく思ひきこえながら、つらきこ
と多くて別れたてまつるべきにか、すこしうきさまをだに見
せたまはばなむ、思ひさますふしにもせむ、とまもれど、い
よいよあはれげにあたらしく、をかしき御ありさまのみ見ゆ。
腕などもいと細うなりて、影のやうに弱げなるものから、色
あひも変らず、白ううつくしげになよなよとして、白き御衣
どものなよびかなるに、衾を押しやりて、中に身もなき雛を
臥せたらむ心地して、御髪はいとこちたうもあらぬほどにう
ちやられたる、枕より落ちたるきはの、つやつやとめでたう
をかしげなるも、いかになりたまひなむとするぞと、あるべ
きものにもあらざめりと見るが、惜しきことたぐひなし。こ
P327
こら久しくなやみて、ひきもつくろはぬけはひの、心とけず
恥づかしげに、限りなうもてなしさまよふ人にも多うまさり
て、こまかに見るままに、魂もしづまらむ方なし。
(薫)「つひにうち棄てたまひてば、世にし、ばしもとまるべき
にもあらず。命もし限りありてとまるべうとも、深き山にさ
すらへなむとす。ただ、いと心苦しうてとまりたまはむ御事
をなん思ひきこゆる」と答へさせたてまつらむとて、かの御
事をかけたまへば、顔隠したまへる御袖をすこしひきなほし
て、(大君)「かくはかなかりけるものを、思ひ隈なきやうに思
されたりつるもかひなければ、このとまりたまはむ人を、同
じことと思ひきこえたまへとほのめかしきこえしに、違へた
まはざらましかば、うしろやすからましと、これのみなむ恨
めしきふしにてとまりぬべうおぼえはべる」とのたまへば、
(薫)「かくいみじうもの思ふべき身にやありけん、いかにもい
かにも、ことざまにこの世を思ひかかづらふ方のはべらざり
P328
つれば、御おもむけにしたがひきこえずなりにし。今なむ、
悔しく心苦しうもおぼゆる。されども、うしろめたくな思ひ
きこえたまひそ」などこしらへて、いと苦しげにしたまへば、
修法の阿闍梨ども召し入れさせ、さまざまに験あるかぎりし
て、加持まゐらせさせたまふ。我も仏を念ぜさせたまふこと
限りなし。
世の中をことさらに厭ひ離れねとすすめた
まふ仏などの、いとかくいみじきものは思
はせたまふにやあらむ、見るままにものの
枯れゆくやうにて、消えはてたまひぬるはいみじきわざかな。
ひきとどむべき方なく、足摺もしつべく、人のかたくなしと
見むこともおぼえず。限りと見たてまつりたまひて、中の宮
の、後れじと思ひまどひたまへるさまもことわりなり。ある
にもあらず見えたまふを、例の、さかしき女ばら、今はいと
ゆゆしきこととひきさけたてまつる。
P329
中納言の君は、さりとも、いとかかることあらじ、夢かと
思して、御殿油を近うかかげて見たてまつりたまふに、隠し
たまふ顔も、ただ寝たまへるやうにて、変りたまへるところ
もなく、うつくしげにてうち臥したまへるを、かくながら、
虫の殼のやうにても見るわざならましかばと思ひまどはる。
今はのことどもするに、御髪をかきやるに、さとうち匂ひた
る、ただありしながらの匂ひになつかしうかうばしきも、あ
りがたう、何ごとにてこの人をすこしもなのめなりしと思ひ
さまさむ、まことに世の中を思ひ棄てはつるしるべならば、
恐ろしげにうきことの、悲しさもさめぬべきふしをだに見つ
けさせたまへと仏を念じたまへど、
いとど思ひのどめむ方なくのみあ
れば、言ふかいなくて、ひたぶる
に煙にだになしはててむと思ほし
て、とかく例の作法どもするぞ、
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あさましかりける。空を歩むやうに漂ひつつ、限りのありさ
まさへはかなげにて、煙も多くむすぼほれたまはずなりぬる
もあへなしと、あきれて帰りたまひぬ。
御忌に籠れる人数多くて、心細さはすこし
紛れぬべけれど、中の宮は、人の見思はん
ことも恥づかしき身の心憂さを思ひ沈みた
まひて、また亡き人に見えたまふ。宮よりも御とぶらひいと
しげく奉れたまふ。思はずにつらしと思ひきこえたまへりし
気色も思しなほらでやみぬるを思すに、いとうき人の御ゆか
りなり。
中納言、かく世のいと心憂くおぼゆるついでに、本意遂げ
んと思さるれど、三条宮の思さむことに憚り、この君の御事
の心苦しさとに思ひ乱れて、かののたまひしやうにて、形見
にも見るべかりけるものを、下の心は、身をわけたまへりと
も移ろふべくはおぼえざりしを、かうもの思はせたてまつる
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よりは、ただうち語らひて、尽きせぬ慰めにも見たてまつり
通はましものを、など思す。かりそめに京にも出でたまはず、
かき絶え、慰む方なくて籠りおはするを、世人も、おろかな
らず思ひたまへることと見聞きて、内裏よりはじめたてまつ
りて、御とぶらひ多かり。
はかなくて日ごろは過ぎゆく。七日七日の
ことども、いと尊くせさせたまひつつ、お
ろかならず孝じたまへど、限りあれば、御
衣の色の変らぬを、かの御方の心寄せわきたりし人々の、い
と黒く着かへたるをほの見たまふも、
(薫)くれなゐに落つる涙もかひなきはかたみの色をそめ
ぬなりけり
聴色の氷とけぬかと見ゆるを、いとど濡らしそへつつながめ
たまふさま、いとなまめかしうきよげなり。人々のぞきつつ
見たてまつりて、(女房)「言ふかひなき御事をばさるものにて、
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この殿のかくならひたてまつりて、今はとよそに思ひきこえ
むこそ、あたらしく口惜しけれ。思ひの外なる御宿世にもお
はしけるかな。かく深き御心のほどを、かたがたに背かせた
まへるよ」と泣きあへり。
この御方には、(薫)「昔の御形見に、今は何ごとも聞こえ、
うけたまはらむとなん思ひたまふる。うとうとしく思し隔つ
な」と聞こえたまへど、よろづのことうき身なりけりと、も
ののみつつましくて、まだ対面してものなど聞こえたまはず。
この君は、けざやかなる方に、いますこし児めき、気高くお
はするものから、なつかしくにほひある心ざまぞ劣りたまへ
りけると、事にふれておぼゆ。
雪のかきくらし降る日、ひねもすにながめ
暮らして、世の人のすさまじきことに言ふ
なる十二月の月夜の曇りなくさし出でたる
を、簾捲き上げて見たまへば、向かひの寺の鐘の声、枕をそ
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ばだてて、今日も暮れぬとかすかなるを聞きて、
(薫)おくれじと空ゆく月をしたふかなつひにすむべきこ
の世ならねば
風のいとはげしければ、蔀おろさせだまふに、四方の山の
鏡と見ゆる汀の氷、月影にいとおもしろし。京の家の限りな
くと磨くも、えかうはあらぬはやとおぼゆ。わづかに生き出
でてものしたまはましかば、もろともに聞こえましと思ひつ
づくるぞ、胸よりあまる心地する。
(薫)恋ひわびて死ぬるくすりのゆかしきに雪の山にや跡
を消なまし
半なる偈教へむ鬼もがな、ことつけて身も投げむと思すぞ、
心きたなき聖心なりける。
人々近く呼び出でたまひて、物語などせさせたまふけはひ
などの、いとあらまほしく、のどやかに心深きを見たてまつ
る人々、若きは、心にしめてめでたしと思ひたてまつる、老
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いたるは、ただ口惜しういみじきことを、いとど思ふ。(女房)
「御心地の重くならせたまひしことも、ただこの宮の御事を、
思はずに見たてまつりたまひて、人笑へにいみじと思すめり
しを、さすがにかの御方には、かく思ふと知られたてまつら
じと、ただ御心ひとつに世を恨みたまふめりしほどに、はか
なき御くだものをも聞こしめしふれず、ただ弱りになむ弱ら
せたまふめりし。うはべには、何ばかりことごとしくもの深
げにももてなさせたまはで、下の御心の限りなく、何ごとも
思すめりしに、故宮の御戒めにさへ違ひぬることと、あいな
う人の御上を思し悩みそめしなり」と聞こえて、をりをりに
のたまひしことなど語り出でつつ、誰も誰も泣きまどふこと
尽きせず。
わが心から、あぢきなきことを思はせたて
まつりけむことと、とり返さまほしく、な
べての世もつらきに、念誦をいとどあはれ
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にしたまひて、まどろむほどなく明かしたまふに、まだ夜深
きほどの雪のけはひいと寒げなるに、人々声あまたして、馬
の音聞こゆ。何人かはかかるさ夜半に雪を分くべきと、大徳
たちも驚き思へるに、宮、狩の御衣にいたうやつれて、濡れ
濡れ入りたまへるなりけり。うち叩きたまふさま、さななり
と聞きたまひて、中納言は、隠ろへたる方に入りたまひて、
忍びておはす。御忌は日数残りたりけれど、心もとなく思し
わびて、夜一夜雪にまどはされてぞおはしましける。
日ごろのつらさも紛れぬべきほどなれど、対面したまふべ
き心地もせず、思し嘆きたるさまの恥づかしかりしを、やが
て見なほされたまはずなりにしも、今より後の御心あらたま
らむはかひなかるべく思ひしみてものしたまへば、誰も誰も
いみじうことわりを聞こえ知らせつつ、物越しにてぞ、目ご
ろの怠り尽きせずのたまふを、つくづくと聞きゐたまへる。
これもいとあるかなきかにて、後れたまふまじきにやと聞こ
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ゆる御けはひの心苦しさを、うしろめたういみじと宮も思し
たり。
今日は御身を棄ててとまりたまひぬ。(匂宮)「物越しならで」
といたくわびたまへど、(中の君)「いますこしものおぼゆるほど
まではべらば」とのみ聞こえたまひて、つれなきを、中納言
も気色聞きたまひて、さるべき人召し出でて、(薫)「御ありさ
まに違ひて、心浅きやうなる御もてなしの、昔も、今も、心
憂かりける、月ごろの罪は、さも思ひきこえたまひぬべきこ
となれど、憎からぬさまにこそ勘へたてまつりたまはめ。か
やうなることまだ見知らぬ御心にて、苦しう思すらん」など、
忍びてさかしがりたまへば、いよいよ、この君の御心も恥づ
かしくて、え聞こえたまはず。(匂宮)「あさましく心憂くおは
しけり。聞こえしさまをもむげに忘れたまひけること」と、
おろかならず嘆き暮らしたまへり。
夜のけしき、いとどけはしき風の音に、人やりならず嘆き
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臥したまへるもさすがにて、例の、物隔てて聞こえたまふ。
千々の社をひきかけて、行く先長きことを契りきこえたまふ
も、いかでかく口馴れたまひけむと心憂けれど、よそにてつ
れなきほどの疎ましさよりはあはれに、人の心もたをやぎぬ
べき御さまを、一方にもえ疎みはつまじかりけりと、ただつ
くづくと聞きて、
(中の君)来し方を思ひいづ。るもはかなきを行く末かけてな
にたのむらん
と、ほのかにのたまふ。なかなかいぶせう心もとなし。
(匂宮)「行く末をみじかきものと思ひなば目のまへにだに
そむかざらなん
何ごともいとかう見るほどなき世を、罪深くな思しないそ」
と、よろづにこしらへたまへど、(中の君)「心地もなやましくな
む」とて入りたまひにけり。人の見るらんもいと人わろくて、
嘆き明かしたまふ。恨みむもことわりなるほどなれど、あま
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りに人憎くもと、つらき涙の落つれば、ましていかに思ひつ
らむとさまざまあはれに思し知らる。
中納言の、主方に住み馴れて、人々やすらかに呼び使ひ、
人もあまたして物まゐらせなどしたまふを、あはれにもをか
しうも御覧ず。いといたう痩せ青みて、ほれぼれしきまでも
のを思ひたれば、心苦しと見たまひて、まめやかにとぶらひ
たまふ。ありしさまなど、かひなきことなれど、この宮にこ
そは聞こえめと思へど、うち出でむにつけても、いと心弱く、
かたくなしく見えたてまつらむに憚りて、言少ななり。音を
のみ泣きて日数経にければ、顔変りのしたるも見苦しくはあ
らで、いよいよものきよげになまめいたるを、女ならばかな
らず心移りなむと、おのがけしからぬ御心ならひに思しよる
も、なまうしろめたかりければ、いかで人の譏りも恨みをも
はぶきて、京に移ろはしてむと思す。
かくつれなきものから、内裏わたりにも聞こしめしていと
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あしかるべきに思しわびて、今日は帰らせたまひぬ。おろか
ならず言の葉を尽くしたまへど、つれなきは苦しきものをと、
一ふしを思し知らせまほしくて、心とけずなりぬ。
年の暮れがたには、かからぬ所だに、空の
けしき例には似ぬを、荒れぬ日なく降り積
む雪にうちながめつつ明かし暮らしたまふ
心地、尽きせず夢のやうなり。宮よりも、御誦経などこちた
きまでとぶらひきこえたまふ。かくてのみやは、新しき年さ
へ嘆き過ぐさむ、ここかしこにも、おぼつかなくて閉ぢ籠り
たまへることを聞こえたまへば、今はとて帰りたまはむ心地
も、たとへむ方なし。かくおはしならひて、人しげかりつる
なごりなくならむを、思ひわぶる人々、いみじかりしをりの
さし当たりて悲しかりし騒ぎよりも、うち静まりていみじく
おぼゆ。(女房)「時々、をりふし、をかしやかなるほどに聞こ
えかはしたまひし年ごろよりも、かくのどやかにて過ぐした
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まへる日ごろの御ありさまけはひのなつかしく情深う、はか
なきことにもまめなる方にも、思ひやり多かる御心ばへを、
今は限りに見たてまつりさしつること」と、おぼほれあへり。
かの宮よりは、「なほかう参り来ることもいと難きを、思
ひわびて、近う渡いたてまつるべきことをなむ、たばかり出
でたる」と聞こえたまへり。后の宮聞こしめしつけて、中納
言もかくおろかならず思ひほれてゐたなるは、げに、おしな
べて思ひがたうこそは誰も思さるらめと心苦しがりたまひて、
二条院の西の対に渡いたまひて、時々も通ひたまふべく、忍
びて聞こえたまひければ、女一の宮の御方にこと寄せて思し
なるにやと思しながら、おぼつかなかるまじきはうれしくて、
のたまふなりけり。さななりと中納言も聞きたまひて、三条
宮も造りはてて、渡いたてまつらむことを思ひしものを、か
の御代りになずらヘても見るべかりけるをなど、ひきかへし
心細し。宮の思しよろめりし筋は、いと似げなきことに思ひ
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離れて、おほかたの御後見は、我ならではまた誰かはと思す
とや。