43巻  こうばい




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そのころ、按察大納言と聞こゆるは、故致
仕の大臣の二郎なり、亡せたまひにし衛門
督のさしつぎよ、童よりらうらうじう、は
なやかなる心ばへものしたまひし人にて、なりのぼりたまふ
年月にそへて、まいていと世にあるかひあり、あらまほしう
もてなし、御おぼえいとやむごとなかりけり。北の方二人も
のしたまひしを、もとよりのは亡くなりたまひて、今ものし
たまふは、後太政大臣の御むすめ、真木柱離れがたくしたま
ひし君を、式部卿宮にて、故兵部卿の親王にあはせたてまつ
りたまへりしを、親王亡せたまひて後忍びつつ通ひたまひし
かど、年月経れば、えさしも憚りたまはぬなめり。御子は、
故北の方の御腹に、二人のみぞおはしければ、さうざうしと

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て、神仏に祈りて、今の御腹にぞ男君一人まうけたまへる。
故宮の御方に、女君一ところおはす。隔てわかず、いづれを
も同じごと思ひきこえかはしたまへるを、おのおの御方の人
などはうるはしうもあらぬ心ばへうちまじり、なまくねくね
しきことも出で来る時々あれど、北の方、いと晴れ晴れしく
いまめきたる人にて、罪なくとりなし、わが御方ざまに苦し
かるべきことをもなだらかに聞きなし、思ひなほしたまへば、
聞きにくからでめやすかりけり。
君たち、同じほどに、すぎすぎおとなびた
まひぬれば、御裳など着せたてまつりたま
ふ。七間の寝殿広くおほきに造りて、南
面に、大納言殿、大君、西に中の君、東に宮の御方と住ませ
たてまつりたまへり。おほかたにうち思ふほどは、父宮のお
はせぬ心苦しきやうなれど、こなたかなたの御宝物多くな
どして、内々の儀式ありさまなど心にくく気高くなどもてな

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して、けはひあらまほしくおはす。
 例の、かくかしづきたまふ聞こえありて、次々に従ひつつ
聞こえたまふ人多く、内裏、春宮より御気色あれど,内裏に
は中宮おはします、いかばかりの人かはかの御けはひに並び
きこえむ、さりとて、思ひ劣り卑
下せんもかひなかるべし、春宮に
は、右大臣殿の並ぶ人なげにてさ
ぶらひたまへばきしろひにくけれ
ど、さのみ言ひてやは、人にまさ
らむと思ふ女子を宮仕に思ひ絶え
ては、何の本意かはあらむ、と思
したちて、参らせたてまつりたま
ふ。十七八のほどにて、うつくし
うにほひ多カる容貌したまへり。
中の君も、うちすがひて、あて

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になまめかしう、澄みたるさまはまさりて、をかしうおはす
めれば、ただ人にてはあたらしく見せまうき御さまを、兵部
卿宮のさも思したらばなど思したる。この若君を内裏にてな
ど見つけたまふ時は、召しまとはし、戯れがたきにしたまふ。
心ばへありて、奥推しはからるるまみ、額つきなり。
「せうとを見てのみはえやまじと大納言に申せよ」などのた
まひかくるを、「さなむ」と聞こゆれば、うち笑みて、いと
かひありと思したり。「人におとらむ宮仕よりは、この
宮にこそはよろしからむ女子は見せたてまつらまほしけれ。
心のゆくにまかせて、かしづきて見たてまつらんに命延びぬ
べき宮の御さまなり」とのたまひながら、まづ春宮の御事を
急ぎたまうて、春日の神の御ことわりも、わが世にやもし出
で来て、故大臣の、院の女御の御事を胸いたく思してやみに
し慰めのこともあらなむと心の中に祈りて、参らせたてまつ
りたまひつ。いと時めきたまふよし人々聞こゆ。かかる御ま

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じらひの馴れたまはぬほどに、はかばかしき御後見なくては
いかがとて、北の方そひてさぶらひたまふは、まことに限り
もなく思ひかしづき後見きこえたまふ。
殿は、つれづれなる心地して、西の御方は、
ひとつにならひたまひて、いとさうざうし
くながめたまふ。東の姫君も、うとうとし
くかたみにもてなしたまはで、夜々は一所に御殿籠り、よろ
づの御事習ひ、はかなき御遊びわざをも、こなたを師のやう
に思ひきこえてぞ誰も習ひ遊びたまひける、もの恥ぢを、世
の常ならずしたまひて、母北の方にだに、さやかにはをさを
ささし向かひたてまつりたまはず、かたはなるまでもてなし
たまふものから、心ばへけはひの埋れたるさまならず、愛敬
づきたまへること、はた、人よりすぐれたまへり。かく内裏
参りや何やとわが方ざまをのみ思ひいそぐやうなるも心苦
しなど思して、「さるべからむさまに思し定めてのたま

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へ。同じこととこそは仕うまつらめ」と、母君にも聞こえた
まひけれど、「さらにさやうの世づきたるさま思ひたつ
べきにもあらぬ気色なれば、なかなかならむことは心苦しか
るべし。御宿世にまかせて、世にあらむかぎりは見たてまつ
らむ。後ぞあはれにうしろめたけれど、世を背く方にても、
おのづから人笑へにあはつけきことなくて過ぐしたまはな
ん」などうち泣きて、御心ばせの思ふやうなることをぞ聞こ
えたまふ。
 いづれも分かず親がりたまへど、御容貌を見ばやとゆかし
う思して、「隠れたまふこそ心憂けれ」と恨みて、人知
れず、見えたまひぬべしやとのぞき歩きたまへど、絶えてか
たそばをだにえ見たてまつりたまはず。「上おはせぬほ
どは、立ちかはりて参り来べきを、うとうとしく思し分くる
御気色なれば心憂くこそ」など聞こえて、御簾の前にゐたま
へば、御答へなどほのかに聞こえたまふ、御声けはひなどあ

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てにをかしう、さま容貌思ひやられて、あはれにおぼゆる人
の御ありさまなり。わが御姫君たちを人に劣らじと思ひおご
れど、この君にえしもまさらずやあらむ、かかればこそ、世
の中の広き内裏はわづらはしけれ、たぐひあらじと思ふにま
さる方もおのづからありぬべかめり、など、いとどいぶかし
う思ひきこえたまふ。
  「月ごろ何となくもの騒がしきほどに、御琴の音をだ
にうけたまはらで久しうなりはべりにけり。西の方にはべる
人は、琵琶を心に入れてはべる、さも、まねび取りつべくや
おぼえはべらん。なまかたほにしたるに、聞きにくき物の音
がらなり。同じくは御心とどめて教へさせたまへ。翁は、と
りたてて習ふ物はべらざりしかど、その昔さかりなりし世に
遊びはべりし力にや、聞き知るばかりのわきまへは、何ごと
にもいとつきなうははべらざりしを、うちとけても遊ばさね
ど、時々うけたまはる御琵琶の音なむ昔おぼえはべる。故六

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条院の御伝へにて、右大臣なん、このごろ世に残りたまへる。
源中納言、兵部卿宮、何ごとにも昔の人に劣るまじういと契
りことにものしたまふ人々にて、遊びの方はとりわきて心と
どめたまへるを、手づかひすこしなよびたる撥音などなん、
大臣には及びたまはずと思ひたまふるを、この御琴の音こそ、
いとよくおぼえたまへれ。琵琶は、押手しづやかなるをよき
にするものなるに、柱さすほど、撥音のさま変りて、なまめ
かしう聞こえたるなん、女の御事にて、なかなかをかしかり
ける。いで遊ばさんや。御琴まゐれ」とのたまふ。女房など
は、隠れたてまつるもをさをさなし。いと若き上臈だつが、
見えたてまつらじと思ふはしも、心にまかせてゐたれば、
  「さぶらふ人さへかくもてなすが安からぬ」と腹立ちた
まふ。

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若君、内裏へ参らむと宿直姿にて参りたま
へる、わざとうるはしき角髪よりもいとを
かしく見えて、いみじくうつくしと思した
り。麗景殿に御ことつけ聞こえたまふ。「譲りきこえて、
今宵もえ参るまじく。なやましくなんと聞こえよ」とのたま
ひて、「笛すこし仕うまつれ。ともすれば御前の御遊び
に召し出でらるる、かたはらいたしや。まだいと若き笛を」
とうち笑みて、双調吹かせたまふ。いとをかしう吹いたまへ
ば、「けしうはあらずなりゆくは、このわたりにておの
づから物に合はするけなり。なほ掻き合はせさせたまへ」と
責めきこえたまへば、苦しと思したる気色ながら、爪弾きに
いとよく合はせて、ただすこし掻き鳴らいたまふ。皮笛ふつ
つかに馴れたる声して。
この東のつまに、軒近き紅梅のいとおもしろく匂ひたるを
見たまひて、「御前の花、心ばへありて見ゆめり。兵部

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卿宮内裏におはすなり。一枝折りてまゐれ。知る人ぞ知る」
とて、「あはれ、光る源氏といはゆる御盛りの大将など
におはせしころ、童にてかやうにてまじらひ馴れきこえしこ
そ、世とともに恋しうはべれ。この宮たちを世人もいとこと
に思ひきこえ、げに人にめでられんとなりたまへる御ありさ
まなれど、端が端にもおばえたまはぬは、なほたぐひあらじ
と思ひきこえし心のなしにやありけん。おほかたにて思ひ出
でたてまつるに、胸あく世なく悲しきを、け近き人の後れた
てまつりて生きめぐらふは、おぼろけの命長さならじかしと
こそおぼえはべれ」など、聞こえ出でたまひて、ものあはれ
にすごく思ひめぐらししをれたまふ。
 ついでの忍びがたきにや、花折らせて、急ぎ参らせたまふ。
  「いかがはせん。昔の恋しき御形見にはこの宮ばかりこ
そは。仏の隠れたまひけむ御なごりには、阿難が光放ちけん
を、二たび出でたまへるかと疑ふさかしき聖のありけるを。

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闇にまどふはるけ所に、聞こえをかさむかし」とて、
   心ありて風のにほはす園の梅にまづ鶯のとはずや
  あるべき
と、紅の紙に若やぎ書きて、この君の懐紙にとりまぜ、押し
たたみて出だしたてた支ふを、幼き心に、いと馴れきこえま
ほしと思へば、急ぎ参りたまひぬ。
中宮の上の御局より御宿直所に出でたまふ
ほどなり。殿上人あまた御送りに参る中に
見つけたまひて、「昨日は、などいと
とくはまかでにし。いつ参りつるぞ」などのたまふ。
「とくまかではべりにし
侮しさに、まだ内裏にお
はしますと人の申しつれ
ば、急ぎつるや」と、
幼げなるものから馴れ聞

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こゆ。「内裏ならで、心やすき所にも時々は遊べかし。
若き人どものそこはかとなく集まる所ぞ」とのたまふ。この
君召し放ちて語らひたまへば、人々は近くも参らず、まかで
散りなどして、しめやかになりぬれば、「春宮には、暇
すこしゆるされにためりな。いとしげう思ほしまとはすめり
しを、時とられて人わろかめり」とのたまへば、「まつ
はさせたまひしこそ苦しかりしか。御前にはしも」と聞こえ
さしてゐたれば、「我をば人げなしと思ひ離れたるとな。
ことわりなり。されど安からずこそ。古めかしき同じ筋にて、
東と聞こゆなるは、あひ思ひたまひてんやと忍びて語らひ
きこえよ」などのたまふついでに、この花を奉れば、うち笑
みて、「恨みて後ならましかば」とて、うちも置かず御覧ず。
枝のさま、花ぶさ、色も香も世の常ならず。園に匂へ
る紅の、色にとられて香なん白き梅には劣れると言ふめるを、
いとかしこくとり並べても咲きけるかな」とて、御心とどめ

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たまふ花なれば、かひありてもてはやしたまふ。
  「今宵は宿直なめり。やがてこなたにを」と召し籠め
つれば、春宮にもえ参らず、花も恥づかしく思ひぬべくかう
ばしくて、け近く臥せたまへるを、若き心地には、たぐひな
くうれしくなつかしう思ひきこゆ。「この花の主は、な
ど春宮にはうつろひたまはざりし」、「知らず。心知ら
む人になどこそ、聞きはべりしか」など語りきこゆ。大納言
の御心ばへは、わが方ざまに思ふべかめれと聞きあはせたま
へど、思ふ心は異にしみぬれば、この返り事、けざやかにも
のたまひやらず。つとめてこの君のまかづるに、なほざりな
るやうにて、
   花の香にさそはれぬべき身なりせば風のたよりを過
  ぐさましやは
さて、「なほ、今は、翁どもにさかしらせさせで、忍び
やかに」とかへすがへすのたまひて、この君も東のをばやむ

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ごとなく睦ましう思ひましたり。なかなか異方の姫君は、見
えたまひなどして、例のはらからのさまなれ ど、童心地に、
いと重りかにあらまほしうおはする心ばへを かひあるさまに
て見たてまつらばやと思ひ歩くに、春宮の御 方のいとはなや
かにもてなしたまふにつけて、同じこととは 思ひながらいと
飽かず口借しければ、この宮をだにけ近くて 見たてまつらば
やと思ひ歩くに、うれしき花のついでなり。
これは昨日の御返りなれば見 せたてまつる。

「ねたげにものたまへるかな。あまり

すきたる方にすすみたまへ るを、ゆるしき
こえずと聞きたまひて、右大臣、我らが見たて まつるには、
いとものまめやかに御心をさめたまふこそを かしけれ。あだ
人とせんに、足らひたまへる御さまを、強ひ てまめだちたま
はんも、見どころ少なくやならまし」などし りうごちて、今
日も参らせたまふに、また、

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一本つ昏のにほへる君が袖ふれば花もえならぬ名を
や散らさむ
とすきずきしや。あなかしこ」と、まめやかに聞こえたまへ
り。まことに言ひなさむと思ふところあるにやとさすがに御
心ときめきしたまひて、
花の香をにほはす宿にとめゆかば色にめづとや人の
とがめん
など、なほ・心解けず答へたまへるを、心やましと思ひゐたま
へり。
北の方まかでたまひて、内裏わたりのこと

のたまふついでに、  「若君の、一夜宿

直して、まかり出でたりし匂ひのいとをか
しかりしを、人はなほと思ひしを、宮のいと思ほし寄りて、
兵部卿宮に近づききこえにけり、むべ我をばすさめたりと、

気色とり、怨じたまへりしこそをかしかりしか。ここに、御

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消息やありし。さも見えざりしを」とのたまへ ば、  「さ
かし。梅の花めでたまふ君なれば、あなたのつ まの紅梅いと
盛りに見えしを、ただならで、折りて奉れたり しなり。移り
香はげにこそ心ことなれ。晴れまじらひしたま はん女などは、
さはえしめぬかな。源中納言は、かうざまに好 ましうはたき
匂はさで、人柄こそ世になけれ。あやしう、前 の世の契りい
かなりける報いにかと、ゆかしきことにこそあ れ。同じ花の
名なれど、梅は生ひ出でけむ根こそあはれなれ。 この宮など
のめでたまふ、さることぞかし」など、花によ そへてもまづ
かけきこえたまふ。
宮の御方は、もの思し知るほ どにねびまさ

りたまへれば、何ごとも見知り、聞きとど

めたまはぬにはあらねど、人 に見え、世づ
さたらむありさまは、さらにと思し離れたり。 世の人も、時
による心ありてにや、さし向かひたる御方々に は、心を尽く


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しき、一。又わぴ、いまめかしきこと多かれど、こなたはよろづ
につけ、ものしめやかに引き入りたまへるを、宮は御ふさひ
の方に聞き伝へたまひて、深う、いかでと思ほしなりにけり。
若君を常にまつはし寄せたまひつっ、忍びやかに御文あれど、
大納言の君深く心かけきこえたまひて、さも思ひたちてのた
まふことあらばと気色とり、心まうけしたまふを見るに、い
とほしう、  「ひき違へて、かう思ひよるべうもあらぬ方
にしも、なげの言の葉を尽くしたまふ、かひなげなること」
と、北の方も思しのたまふ。
はかなき御返りなどもなければ、負けじの御心そひて、思

ほしやむべくもあらず。何かは、人の御ありさま、などかは、
さても見たてまっらまほしう、生ひ先遠くなどは見えさせた
まふになど、北の方思ほしよる時々あれど、いといたう色め
きたまうて、通ひたまふ忍び所多く、八の宮の姫君にも、御
心ざし浅からで、いとしげう参で歩きたまふ、頼もしげなき

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御心の、あだあだしさなども、いとどつつましければ、まめ
やかには思ほし絶えたるを、かたじけなきばかりに、忍びて、
母君ぞ、たまさかにさかしらがり聞こえたまふ。


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