36巻 柏   木






P289
衛門督の君、かくのみなやみわたりたまふ
ことなほおこたらで、年も返りぬ。大臣、
北の方思し嘆くさまを見たてまつるに、強
ひてかけ離れなむ命かひなく、罪重かるべきことを思ふ心は
心として、また、あながちにこの世に離れがたく惜しみとど
めまほしき身かは、いはけなかりしほどより、思ふ心ことに
て、河ごとをも人にいま一際まさらむと、公私のことにふ
れて、なのめならず思ひのぽりしかど、その心かなひがたか
りけりと、一つ二つのふしごとに、身を思ひおとしてしこな  
た、なべての世の中すさまじう思ひなりて、後の世の行ひに
本意深くすすみにしを、親たちの御恨みを思ひて、野山にも
あくがれむ道の重き絆なるべくおぼえしかば、とざまかうざ

P290
まに紛らはしつつ過ぐしつるを、つひに、なほ世に立ちまふ
べくもおぽえぬもの思ひの一方ならず身に添ひにたるは、我
より外に誰かはつらき、心づからもてそこなひつるにこそあ
めれ、と思ふに、恨むべき人もなし。神仏をもかこたむ方な
きは、これみなさるべきにこそはあらめ、誰も千歳の松なら
ぬ世は、つひにとまろべきにもあらぬを、かく人にもす二し
うち偲ばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふ人
あらむをこそは、一つ思ひに燃えぬるしるしにはせめ、せめ
てながらへば、おのづから、あるまじき名をも立ち、我も人
も安からね乱れ出で来るやうもあらむよりは、なめしと心お
いたまふらんあたりにも、さりとも思しゆるいてむかし、よ
ろづのこと、いまはのとぢめには、みな消えぬべきわざなり、
また異ざまの過ちしなければ、年ごろもののをりふしごとに
は、まつはしならひたまひにし方のあはれも出で来なん、な
ど、つれづれに思ひつづくるも、うち返しいとあぢきなし。
P291
などかく、ほどもなくしなしつる身ならん、
とかきくらし思ひ乱れて、沈も浮きぬばか
り人やりならず流し添へつつ、いささか隙
ありとて人々立ち去りたまへるほどに、かしこに御文奉れた
まふ。
(泊木)「今は限りになりにてはべるありさまは、おのづから
聞こしめすやうもはべらんを、いかがなりぬるとだに御耳と
どめさせたまはぬも、ことわりなれど、いとうくもはべるか
な」など聞こゆるに、いみじうわななけば、思ふこともみな
書きさして、
(柏木)「いまはとて燃えむ煙もむすぽほれ絶えぬ思ひのな
ほや残らむ                       
あはれとだにのたまはせよ。心のどめて、、人やりならぬ闇に
まどはむ道の光にもしはべらむ」と聞こえたまふ。
           
侍従にも、懲リずまに、あはれなることどもを言ひおこせ
P292
たまへり。(柏木)「みづからも、いま一たぴ言ふべきことなむ」
とのたまへれぱ、この人も、童よりさるたよりに参り通ひつ
つ見たてまつり馴れたる人なれば、おほけなき心こそうたて
おぼえたまひつれ、いまはと聞くはいと悲しうて、泣く泣く、
(小侍従)「なほ、この御返り。まことにこれをとぢめにもこそは
べれ」と聞こゆれば、(女三の宮)「我も、今日か明日かの心地し
てもの心細ければ、おほかたのあはれぱかりは思ひ知らるれ
ど、いと心憂きことと思ひ懲りにしかば、いみじうなむつつ
ましき」とて、さらに書いたまはず。
御心本性の、強くづしやかなるにはあらねど、恥づかしげ
なる人の御気色のをりをりにまほならぬがいと恐ろしうわび
しきなるべし。されど御硯などまかなひて責めきこゆれば、
しぶしぶに書いたまふ。とりて、忍びて、宵の紛れにかしこ
に参りぬ。
大臣は、かしこき行者、葛城山より請じ出でたる、待ちう
P293
けたまひて、加持まゐらせむとしたまふ。御修法、読経など
もいとおどろおどろしう騒ぎたり。人の申すままに、さまざ
ま聖だつ験者などの、をさをさ世にも聞こえず深き山に籠り
たるなどをも、兄弟の君たちを適はしつつ、尋ね、召すに、
けにくく心づきなき山伏どもなどもいと多く参る。わづちひ
たまふさまの、そこはかとなくものを心細く思ひて、音をの
み時々泣きたまふ。陰陽師なども、多くは、女の霊とのみ占
ひ申しけれぱ、さることもやと思せど、さらに物の怪のあら
はれ出で来るもなきに思ほしわづらひて、かかる隈々をも尋
ねたまふなりけり。
この聖も、丈高やかに、まぷしつべたましくて、荒らかに
おどろおどろしく陀羅尼読むを、(柏木)「いであな憎や。罪の
深き身にやあらむ、陀羅尼の声高きはいとけ恐ろしくて、い
よいよ死ぬべくこそおぼゆれ」とて、やをらすべり出でて、
この侍従と語らひたまふ。             
P294
大臣は、さも知りたまはず、うちやすみたると人々して申
させたまへば、さ思して、忍びやかにこの聖と物語したまふ。
おとなぴたまへれど、なほはなやぎたるところつきてもの笑
ひしたまふ大臣の、かかる者どもと対ひゐて、このわづらひ
そめたまひしありさま、何ともなくうちたゆみつつ重りたま
へること、(致仕の大臣)「まことにこの物の怪あらはるべう念じ
たまへ」など、こまやかに語らひたまふもいとあはれなり。
(柏木)「かれ聞きたまへ。何の罪とも思しよらぬに。占ひよ
りけむ女の霊こそ、まことにさる御執の身にそひたるならば、
厭はしき身をひきかへ、やむごとなくこそなりぬべけれ。さ
てもおほけなき心ありて、さるまじき過ちを引き出でて、人
の御名をも立て、身をもかへり見ぬたぐひ、昔の世にもなく
やはありけると思ひなほすに、なほけはひわづらはしう、か
の御心にかかる咎を知られたてまつりて、世にながらへむこ
ともいとまばゆくおぽゆるは、げにことなる御光なるべし。
P295
深き過ちもなきに、見あはせたてまつりし夕のほどより、や
がてかき乱り、まどひそめにし魂の、身にも還らずなりにし
を、かの院の内にあくがれ歩かぱ、結びとどめたまへよ」な
ど、いと弱げに、殼のやうなるさまして泣きみ笑ひみ語らひ
たまふ。
宮も、ものをのみ恥づかしうつつましと思したるさまを語
る。さて、うちしめり、面痩せたまへらむ御さまの、面影に
見たてまつる心地して思ひやられたまへば、げにあくがるら
む魂や行き通ふらむなど、いとどしき心地も乱るれば、(柏木)
「今さらに、この御事よ、かけても聞こえじ。この世は、か
う、はかなくて過ぎぬるを、長き世の絆にもこそと思ふなむ
いといとほしき。心苦しき御事を、たひらかにとだにいかで
聞きおいたてまつらむ。見し夢を、心ひとつに思ひあはせて、
また語る人もなきが、いみじういぶせくもあるかな」など、
とり集め思ひしみたまへるさまの深きを、かつはいとうたて
P296
恐ろしう思へど、あはれ、はた、え忍ば
ず、この人もいみじう泣く。         
紙燭召して御返り見たまへぱ、御手も
なほいとはかなげに、をかしきほどに書
いたまひひて、(女三の宮)「心苦しう聞きながら、いかでかは。た
だ推しはかり。残らむ、とあるは、
立ちそひて消えやしなましうきことを思ひみだるる煙く
 らべに
後るべうやは」とばかりあるを、あはれにかたじけなしと思
ふ。
(柏木)「いでや、この煙ばかりこそはこの世の思ひ出ならめ。
はかなくもありけるかな」と、いとど泣きまさりたまひて、
御返り、臥しながらうち休みつつ書いたまふ。言の葉のつづ
きもなう、あやしき鳥の跡のやうにて、
(柏木)「行く方なき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ち
P297
は離れじ           
夕はわきてながめさせたまへ。咎めきこえさせたまはむ人目
をも、今は心やすく思しなりて、かひなきあはれをだにも絶
えずかけさせたまへ」など書き乱りて、心地の苦しさまさり
ければ、(柏木)「よし。いたう更けぬさきに、帰り参りたまひ
て、かく限りのさまになんとも聞こえたまへ。今さらに、人
あやしと思ひあはせむを、わが世の後さへ思ふこそ苦しけれ。
いかなる昔の契りにて、いとかかることしも心にしみけむ」
と、泣く泣くゐざり入りたまひぬれば、例は、無期に対へ据
ゑて、すずろ言をさへ言はせまほしうしたまふを、言少なに
ても、と思ふがあはれなるに、えも出でやらず。
御ありさまを乳母も語りていみじく泣きまどふ。大臣など
の思したる気色ぞいみじきや。(致仕の大臣)「昨日今日すこしよ
ろしかりつるを、などかいと弱げには見えたまふ」と騒ぎた
まふ。(柏木)「何か。なほとまりはべるまじきなめり」と聞こ
P298
えたまひて、みづからも泣いたまふ。
宮はこの暮つ方より、なやましうしたまひ
けるを、その御けしきと見たてまつり知り
たる人々騒ぎ満ちて、大殿にも聞こえたり
ければ、驚きて渡りたまへり。御心の中は、あな口惜しや、
思ひまずる方なくて見たてまつらましかば、めづらしくうれ
しからまし、と思せど、人にはけしき漏らさじと思せば、験
者など召し、御修法はいつとなく不断にせらるれば、僧ども
の中に験あるかぎりみな参りて、加持まゐり騒ぐ。
夜一夜なやみ明かさせたまひて、目さし上がるほどに生ま
れたまひぬ。男君と聞きたまふに、かく忍びたることの、あ
やにくにいちじるき顔つきにて、さし出でたまへらんこそ苦
しかるべけれ、女こそ、何となく紛れ、あまたの人の見るも
のならねば安けれ、と思すに、また、かく心苦しき疑ひまじ
りたるにては、心やすき方にものしたまふもいとよしかし、
P299
さてもあやしや、わが世とともに恐ろしと思ひし事の報いな
めり、この世にて、かく思ひかけぬことにむかはりぬれば、
後の世の罪もすこし軽みなんや、と思す。人、はた、知らぬ
ことなれば、かく心ことなる御腹にて、末に出でおはしたる
御おぽえいみじかりなんと、思ひ営み仕うまつる。
御産屋の葬式いかめしうおどろおどろし。御方々、ざまざ
まにし出でたまふ御産養、世の常の折敷、衝重、高圷など
の心ばへも、ことさらに心々にいどましさ見えつつなむ。五
日の夜、中宮の御方より、子持の御前の物、女房の中にも、
品々に思ひ当てたる際々、公事にいかめしうせさせたまへり。
御粥、屯食五十具、所
どころの饗、院の下部、
庁の召次所、何かの隈
までいかめしくせさせ
たまへり。宮司、大夫
P300
よりはじめて院の殿上人みな参れり。
七夜は、内裏より、それも公ざまなり。致仕の大臣など、
心ことに仕うまつりたまふべきに、このころは、何ごとも思
されで、おほぞうの御とぷらひのみぞありける。宮たち、上
達部などあまた参りたまふ。おほかたのけしきも、世になき
までかしづききこえたまへど、大殿の、御心の中に心苦しと
思すことありて、いたうももてはやしきこえたまはず、御遊
びなどはなかりけり。
宮は、さばかりひはづなる御さまにて、い
とむくつけう、ならはぬことの恐ろしう思
されけるに、御湯なども聞こしめさず、身
の心憂きことをかかるにつけても思し入れば、さはれ、この
ついでにも死なばやと思す。大殿は、いとよう人目を飾り思
せど、まだむつかしげにおはするなどを、とりわきても見た
てまつりたまはずなどあれば、老いしらへる人などは、「い
P301
でや、おろそかにもおはしますかな。めづらしうさし出でた
まへる御ありさまの、かばかりゆゆしきまでにおはします
を」とうつくしみきこゆれば、片耳に聞きたまひて、さのみ
こそは思し隔つることもまさらめと恨めしう、わが身つらく
て、尼にもなりなばやの御心つきぬ。
夜なども、こなたには大殿籠らず、昼つ方など4、さしのぞ
きたまふ。(源氏)「世の中のはかなきを見るままに、行く末短
うもの心細うて、行ひがちになりにてはべれば、かかるほど
のらうがはしき心地するによりえ参り来ぬを、いかが、御心
地はさはやかに思しなりにたりや。心苦しうこそ」とて、御
几帳のそばよりさしのぞきたまへり。御頭もたげたまひて、
(女三の宮)「なほ、え生きたるまじき心地なむしはべるを、かか
る人は罪も重かなり、尼になりて、もしそれにや生きとまる
と試み、また亡くなるとも、罪を夫ふことにもやとなむ思ひ
はべる」と、常の御けはひよりはいとおとなびて聞こえたま
P302
ふを、源氏「いとうたて、ゆゆしき御事なり。などてかさま
では思す。かかることは、さのみこそ恐ろしかなれど、さて
ながらへぬわざならばこそあらめ」と聞こえたまふ。
御心の中には、まことに、さも思しよりてのたまはば、さ
やうにて見たてまつらむはあはれなりなむかし、かつ見つつ
も、事にふれて心おかれたまはむが心苦しう、我ながらもえ
思ひなほすまじう、うきことのうちまじりぬべきを、おのづ
からおろかに人の見咎むることもあらむが、いといとほしう、
院などの聞こしめさむことも、わが怠りにのみこそはならめ、
御なやみにことつけて、さもやなしたてまつりてまし、な
ど思しよれど、また、いとあたらしう、あはれに、かばかり
遠き御髪の生ひ先を、しかやつさむことも心苦しければ、
(源氏)「なほ、強く思しなれ。けしうはおはせじ。限りと見ゆ
る人も、たひらかなる例近ければ、さすがに頼みある世にな
む」など聞こえたまひて、御湯まゐりたまふ。いといたう青
P303
み痩せて、あさましうはかなげにてうち臥したまへる御さま、
おほどきうつくしげなれば、いみじき過ちありとも、心弱く
ゆるしつべき御さまかなと見たてまつりたまふ。
山の帝は、めづらしき御事たひらかなりと
聞こしめして、あはれにゆかしう思ほすに、
かくなやみたまふよしのみあれば、いかに
ものしたまふべきにかと、御行ひも乱れて思しけり。
さばかり弱りたまへる人の物を聞こしめさで日ごろ経たま
へば、いと頼もしげなくなりたまひて、年ごろ見たてまつら
ざりしほどよりも、院のいと恋しくおぼえたまふを、(女三の宮)
「またも見たてまつらずなりぬるにや」といたう泣いたまふ。
かく聞こえたまふさま、さるべき人して伝え奏せさせたまひ
ければ、いとたへがたう悲しと思して、あるまじきこととは
思しめしながら、夜に隠れて出でさせたまへり。
かねてさる御消息もなくて、にはかにかく渡りおはしまい
P304
たれば、主の院驚きかし
こまりきこえたまふ。
(朱雀院)「世の中を、かへり
見すまじ思ひはべりし
かど、なほ、まどひさめ
がたきものはこの道の闇
になむはべりければ、行ひも懈怠して、もし後れ先だつ道の
道理のままならで別れなば、やがてこの恨みもやかたみに残
らむとあぢきなさに、この世の譏りをば知らで、かくものし
はべる」と聞こえたまふ。御容貌異にても、なまめかしうな
つかしきさまにうち忍びやつれたまひて、うるはしき御法服
ならず、墨染の御姿あらまほしうきよらなるも、うらやまし
く見たてまつりたまふ。例の、まづ涙落としたまふ。(源氏)
「わづらひたまふ御さま、ことなる御なやみにもはべらず、
ただ月ごろ弱りたまへる御ありさまに、はかばかしう物など
P305
もまゐらぬつもりにや、かくものしたまふにこそ」など聞こ
えたまふ。
(源氏)「かたはらいたき御座なれども」とて、御帳の前に、
御褥まゐりて入れたてまつりたまふ。宮をも、とかう人々つ
くろひきこえて、床の下におろしたてまつる。御几帳すこし
押しやらせたまひて、(朱雀院)「夜居加持僧などの心地すれど、
まだ験つくばかりの行ひにもあらねばかたはらいたけれど、
ただ、おぼつかなくおぽえたまふらむさまを、さながら見た
まふべきなり」とて、御目おし拭はせたまふ。宮も、いと弱
げに泣いたまひて、(女三の宮)「生くべうもおぽえはべらぬを、
かくおはしまいたるついでに、尼になさせたまひてよ」と聞
こえたまふ。(朱雀院)「さる御本意あらば、いと尊きことなるを、
さすがに限らぬ命のほどにて、行く末遠き人は、かへりて事
の乱れあり、世の人に譏らるるやうありねべきことになん、
なほ憚りぬべき」などのたまはせて、大殿の君に、(朱雀院)「か
P306
くなむ進みのたまふを、いまは限りのさまならぱ、片時のほ
どにても、その助けあるべきさまにてとなむ思ひたまふる」
とのたまへば、(源氏)「日ごろもかくなむのたまへど、邪気な
どの人の心たぶろかして、かかる方にすすむるやうもはべな
るをとて、聞きも入れはべらぬなり」と聞こえたまふ。(朱雀院)
「物の怪の教へにても、それに負けぬとて、あしかるべきこ
とならばこそ憚らめ、弱りにたる人の、限りとてものしたま
はむことを聞き過ぐさむは、後の悔心苦しうや」とのたむふ。
御心の中、限りなううしろやすく譲りおきし御事を承けと
りたまひて、さしも心ざし深からず、わが思ふやうにはあら
ぬ御気色を、事にふれつつ、年ごろ聞こしめし思しつめける
こと、色に出でて恨みきこえたまふべきにもあらねば、世の
人の思ひ言ふらむところも口惜しう思しわたるに、かかるを
りにもて離れなむも、何かは、人笑へに世を恨みたるけしき
ならで、さもあらざらむ、おほかたの後見には、なほ頼まれ
P307
ぬぺき街おきてなるを、ただ預けおきたてまつりししるしに
は思ひなして、憎げに背くさまにはあらずとも、御処分に、
広くおもしろき宮賜りたまへるを繕ひて住ませたてまつらむ、
わがおはします世に、さる方にても、うしろめたからず聞き
おき、また、かの大殿も、さ言ふとも、いとおろかにはよも
思ひ放ちたまはじ、その心ばへをも見はてむ、と思ほしとり
て、(朱雀院)「さらば、かくものしたるついでに、忌むこと受け
たまはむをだに結縁にせむかし」とのたまはす。
大殿の君、うしと思す方も忘れて、こはいかなるべきこと
ぞと悲しく口惜しけれぱ、えたへたまはず、内に入りて、
(源氏)「などか、いくばくもはべるまじき身をふり棄てて、か
うは思しなりにける。なほ、しばし心を静めたまひて、御湯 
まゐり、物などをも聞こしめせ。専きことなりとも、御身弱
うては行ひもしたまひてんや。かつはつくろひたまひてこ
そ」と聞こえたまへど、頭ふりて、いとつらうのたまふと思
P308
したり。つれなくて、恨めしと思すこともありけるにやと見
たてまつりたまふに、いとほしうあはれなり。
とかく聞こえ返さひ思しやすらふほどに、夜明け方になり
ぬ。帰り入らむに、道も昼ははしたなかるべしと急がせたま
ひて、御祈祷にさぶらふ中に、やむごとなう尊きかぎり召し
入れて、御髪おろさせたまふ。いと盛りにきよらなる衛髪を
そぎ棄てて、忌むこと受けたまふ作法悲しう口惜しければ、
大殿はえ忍びあへたまはず、いみじう泣いたまふ。院、はた、
もとより、とりわきてやむごとなう、人よりもすぐれて見た
てまつらむと思ししを、この世にはかひなきやうにないたて
まつるも飽かず悲しけれぱ、うちしほたれたまふ。宋復院「か
くても、たひらかにて、同じうは念諦をも勤めたまへ」と聞
こえおきたまひて、明けはてぬるに急ぎて出でさせたまひぬ。
宮は、なほ弱う消え入るやうにしたまひて、はかばかしう
もえ見たてまっらず、ものなども聞こえたまはず。大殿も、
P309
「夢のやうに思ひたまへ乱るる心まどひに、かう昔おぼえた
る御幸のかしこまりをも、え御覧ぜられねらうがはしさは、
ことさらに参りはべりてなむ」と聞こえたまふ。御送りに
人々参らせたまふ。(朱雀院)「世の中の、今日か明日かにおぼえ
はべりしほどに、また知る人もなくてただよはむことのあは
れに避りがたうおぱえはべしかぱ、御本意にはあらざりけめ
ど、かく聞こえつけて、年ごろは心やすく思ひたまへつるを、
もしも生きとまりはべらば、さま異に変りて、人繁き住まひ
はつきなかるべきを、さるべき山里などにかけ離れたらむあ
りさまも、また、さすがに心細かるべくや。さまに従ひて、
なほ、思し放つまじく」など聞こえたまへば、(源氏)「さらに、
かくまで仰せらるるなむ、かへりて恥づかしう思ひたまへら
るる。乱れ心地とかく乱れはべりて、何ごともえわきまへは
べらず」とて、げにいとたへがたげに思したり。   
P310
後夜の御加持に、御物の怪出で来て、(物の怪)
「かうぞあるよ。いとかしこう取り返しつ
と、一人をば思したりしが、いとねたかり
しかば、このわたりにさりげなくてなむ日ごろさぶらひつる。
今は帰りなむ」とてうち笑ふ。いとあさましう、さは、この
物の径のここにも離れざりけるにやあらむ、と思すに、いと
ほしう悔しう思さる。宮、すこし生き出でたまふやうなれど、
なほ頼みがたげに見えたまふ。さぶらふ人々も、いと言ふか
ひなうおぱゆれど、かうてもたひらかにだにおはしまさば、
と念じつつ、御修法、また延べて、たゆみなく行はせなど、
よろづにせさせたまふ。
かの衛門督は、かかる御事を聞きたまふに、
いとど消え入るやうにしたまひて、むげに
頼む方少なうなりたまひにたり。女宮のあ
はれにおぼえたまへば、ここに渡りたまはむことは、今さら
P311
に、軽々しきやうにもあらむを、上も大臣も、かくつと添ひ
おはすれば、おのづからとりはづして、見たてまつりたまふ
やうもあらむにあぢきなしと思して、(柏木)「かの宮に、とか
くしていま一たび参でむ」とのたまふを、さらにゆるしき、こ
えたまはず。
誰にも、この宮の御事を聞こえつけたまふ。はじめより、
母御息所はをさをさ心ゆきたまはざりしを、この大臣のゐた
ちねむごろに聞こえたまひて、心ざし深かりしに負けたまひ
て、院にも、いかがはせむと思しゆるしけるを、二品の宮の
御事思ほし乱れけるついでに、(朱雀院)「なかなか、この宮は、
行く先うしろやすく、まめやかなる後見まうけたまへり」と
のたまはすと聞きたまひしを、かたじけなう思ひ出づ。(柏木)
「かくて見棄てたてまつりぬるなめりと思ふにつけては、さ
まざまにいとほしけれど、心より外なる命なれば、たへぬ契
り恨めしうて、思し嘆かれむが心苦しきこと。御心ざしあり
P312
てとぶらひものせさせたまへ」と、母上にも聞こえたまふ。
(母北の方)「いで、あなゆゆし。後れたてまつりては、いくばく
世に経べき身とて、かうまで行く先のことをばのたまふ」と
て、泣きにのみ泣きたまへば、え聞こえやりたまはず、右大
弁の君にぞ、おほかたのことどもはくはしう聞こえたまふ。
心ばへのどかによくおはしつる君なれば、兄弟の君たちも、
まだ、末々の若きは、親とのみ頼みきこえたまへるに、かう
心細うのたまふを悲しと思はぬ人なく、殿の内の人も嘆く一
おほやけも惜しみ口惜しがらせたまふ。かく、限りと聞こし
めして、にはかに権大納言になさせたまへり。よろこぴに思
ひおこして、いま一たびも参りたまふやうもやあると思しの
たまはせけれど、さらにえためらひやりたまはで、苦しき中
にもかしこまり申したまふ。大臣も、かく重き御おぽえを見
たまふにつけても、いよいよ悲しうあたらしと思しまどふ。
大将の君、常にいと深う思ひ嘆きとぶらひきこえたまふ。
P313
御よろこびにも、まづ参でたまへり。このおはする対のほと
り、こなたの御門は、罵、車たちこみ、人騒がしう騒ぎみち
たり。今年となりては、起き上がることもをさをさしたまは
ねば、重々しき御さまに、乱れながらはえ対面したまはで、
思ひつつ弱りぬることと思ふに口惜しければ、(柏木)「なほこ
なたに入らせたまへ。いとらうがはしきさまにはべる罪は、
おのづから思しゆるされなむ」とて、臥したまへる枕上の方
に、僧などしばし出だしたまひて、入れたてまつりたまふ。
早うより、いささか隔てたまふことなう睦びかはしたまふ
御仲なれば、別れむことの悲しう恋しかるべき嘆き、親はら
からの御思ひにも劣らず。今日はよろこびとて、心地よげな
らましをと思ふに、いと口惜しうかひなし。(夕霧)「などかく
頼もしげなくはなりたまひにける。今日は、かかる御よろこ
びに、いささかすくよかにもや、とこそ思ひはべりつれ」と
て、几帳のつまを引き上げたまへれば、(柏木)「いとロ惜しう、
P314
その人にもあらずなりにてはべりや」とて、鳥帽子ぱかり押
し入れて、すこし起き上がらむとしたまへど、いと苦しげな
り。白き衣どもの、なつかしうなよよかなるをあまた重ねて、
衾ひきかけて臥したまへり。御座のあたりもの清げに、けは
ひ香ばしう、心にくくぞ住みなしたまへる、うちとけながら
用意ありと見ゆ。重くわづらひたる人は、おのづから髪、髭
も乱れ、ものむつかしきけはひも添ふわざなるを、痩せさら
ぱひたるしも、いよいよ白うあてはかなるさまして、沈をそ
ばだてて、ものなど聞こえたまふけはひいと弱げに、息も絶
えつつあはれげなり。
(タ霧)「久しうわづらひたまへるほどよりは、ことにいたう
もそこなはれたまはざりけり。常の御容貌よりも、なかなか
まさりてなむ見えたまふ」とのたまふものから、涙おし拭ひ
て、(タ霧)「後れ先だつ隔てなくとこそ契りきこえしか、いみ
じうもあるかな。この御心地のさまを何ごとにて重ねたま
P315
ふとだに、え聞きわきはべらず。かく親しきほどながら、お
ぼつかなくのみ」などのたまふに、(柏木)「心には、重くなる
けぢめもおぼえはべらず。そこ所と苦しきこともなければ、
たちまちにかうも思ひたまへざりしほどに、月日も経で弱り
はべりにければ、今はうつし心も失せたるやうになん。惜し
げなき身をさまざまにひきとどめらるる祈祷、願などの力に
や、さすがにかかづらふも、なかなか苦しうはべれぱ、心も
てなむ、急ぎたつ心地しはべる。さるは、この世の別れ、避
りがたきことはいと多うなむ。親にも仕うまつりさして、今
さらに御心どもを悩まし、君に仕うまつることもなかぱのほ
どにて、身をかへりみる方、はた、ましてはかばかしからぬ
恨みをとどめつる、おほかたの嘆きをばさるものにて、また
心の中に思ひたまへ乱るることのはべるを、かかるいまはの
きざみにて、何かは漏らすべきと思ひはべれど、なほ忍びが
たきことを誰にかは愁へはべらむ。これかれあまたものすれ
P316
ど、さまざまなることにて、さらに、かすめはべらむもあい
なしかし。六条院にいささかなる事の違ひ目ありて、月ごろ、
心の中に、かしこまり申すことなむはべりしを、いと本意な
う、世の中心細う思ひなりて、病づきぬとおぼえはべしに、
召しありて、院の御賀の楽所の試みの日参りて、御気色を賜
りしに、なほゆるされぬ御心ぱへあるさまに御眼尻を見たて
まつりはべりて、いとど世にながらへむことも憚り多うおぼ
えなりはべりて、あぢきなう思ひたまへしに心の騒ぎそめて、
かく静まらずなりぬるになむ。人数には思し入れざりけめど、
いはけなうはべし時より、深く額み申す心のはべりしを、い
かなる讒言などのありけるにかと、これなむこの世の愁へに
て残りはべるべければ、論なう、かの後の世の妨げにもやと
思ひたまふるを、事のついではべらば、御耳とどめて、よろ
しう明らめ申させたまへ。亡からむ後にも、この勘事ゆるさ
れたらむなむ、御徳にはべるべき」などのたまふままに、い
P317
と苦しげにのみ見えまされば、いみじうて、心の中に思ひあ
はすることどもあれビ、さしてたしかにはえしも推しはから
ず。
 (夕霧)「いかなろ御心の鬼にかは。さらにさやうなる御気色
もなく、かく重りたまへるよしをも聞きおどろき嘆きたまふ
こと、限りなうこそ口惜しがり申したまふめりしか。など、
かく思すことあるにては、今まで残いたまひつらむ。こなた
かなた明らめ申すべかりけるものを。いまは、言ふかひなし
や」とて、とり返さまほしう悲しく思さる。(柏木)「げにいさ
さかも隙ありつるをり、聞こえうけたまはるべうこそはべり
けれ。されど、いとかう今日明日としもやはと、みづからな
がら知らぬ命のほどを思ひのどめはべりけるもはかなくなむ。
このことはさらに御心より漏らしたまふまじ。さるべきつい
ではべらむをりには、御用意加へたまへとて、聞こえおくに
なむ。一条にものしたまふ宮、事にふれてとぶらひきこえた
P318
まへ。心苦しきさまにて、院などにも聞こしめされたまはむ
を、つくろひたまへ」などのたまふ。言はまほしきことは多
かるべけれど、心地せむ方なくなりにければ、(柏木)「出でさ
せたまひね」と、手かききこえたまふ。加持まゐる僧ども近
う参り、上、大臣などおはし集まりて、人々もたち騒げば、
泣く泣く出でたまひぬ。
 女御をばさらにも聞こえず、この大将の御方なども、いみ
じう嘆きたまふ。心おきてのあまねく、人の兄心にものし
たまひければ、右の大殿の北の方も、この君をのみぞ、睦ま
しきものに思ひきこえたまひければ、よろづに思ひ嘆さたま
ひて、御祈祷などとりわきてせさせたまひけれど、やむ薬な
らねば、かひなきわざになむありける。女宮にも、つひ一にえ
対面しきこえたまはで、泡の消え入るやうにて亡せたまひぬ。
年ごろ、下の心こそねむごろに深くもなかりしか、おほか
たには、いとあらまほしくもてなしかしづききこえて、気な
P319
つかしう、心ばへをかしう、うちとけぬさまにて過ぐいたま
ひければ、つらきふしもことになし。ただかく短かりける御  
身にて、あやしくなべての世すさまじう思ひたまへけるなり
けりと思ひ出でたまふにいみじうて、思し入りたるさまいと
心苦し。御息所も、いみじう人笑へに口惜しと見たてまつり
嘆きたまふこと限りなし。大臣、北の方などは、まして言は
む方なく、我こそ先立ため、世のことわりなうつらいことと
焦がれたまへど何のかひなし。
 尼宮は、おほけなき心もうたてのみ思されて、世にながか
れとしも思さざりしを、かくなむと聞きたまふはさすがにい
とあはれなリかし。若君の御事をさぞと思ひたりしも、げに
かかるべき契りにてや思ひの外に心憂きこともありけむと思 
しよるに、さまざまもの心細うてうち泣かれたまひぬ。
P320
三月になれば、空のけしきもものうららか
にて、この君五十日のほどになりたまひて、
いと白ううつくしう、ほどよりはおよすけ
て、物語などしたまふ。大殿渡りたまひて、(源氏)「御心地は
さはやかになりたまひにたりや。いでや、いとかひなくもは
べるかな。例の御ありさまにてかく見なしたてまつらましか
ば、いかにうれしうはべらまし。心憂く思し棄てけること」
と、涙ぐみて恨みきこえたまふ。目々に渡りたまひて、今し
も、やむごとなく限りなきさまにもてなしきこえたまふ。
 御五十日に餅まゐらせたまはむとて、かたちことなる御さ
まを、人々、いかになど聞こえやすらへど、院渡らせたまひ
て、(源氏)「何か。女にものしたまはばこそ、同じ筋にていま
いましくもあらめ」とて、南面に小さき御座などよそひてま
ゐらせたまふ。御乳母いとはなやかに装束きて、御前の物、
色々を尽くしたる籠物、檜破子の心ばへどもを、内にも外に
P321
も、本の心を知らぬことなれば、とり散らし、何心もなきを、
いと心苦しうまばゆきわざなりやと思す。
宮も起きゐたまひて、御髪の末のところせう広ごりたるを、
いと苦しと思して、額など撫でつけておはするに、几帳を引
きやりてゐたまへば、いと恥づかしうて背きたまへる、いと
ど小さう綱りたまひて、御髪は惜しみきこえて長うそぎたり
ければ、背後はことにけぢめも見えたまはぬほどなり。すぎ
すぎ見ゆる鈍色ども、黄がちなる今様色など着たまひて、ま
だありつかぬ御かたはら目、かくてしもうつくしき子どもの
心地して、なまめかしう
をかしげなり。(源氏)「い
で、あな心憂。墨染こそ、
なほ、いとうたて目もく
るる色なりけれ。かやう
にても見たてまつること
P322
は絶ゆまじきぞかしと思ひ慰めはべれど、古りがたうわりな
き心地する涙の人わろさを、いと、かう、思ひ棄てられたて
まつる身の咎、に思ひなすも、さまざまに胸いたう口惜しくな
む。取り返すものにもがなや」と、うち嘆きたまひて、(源氏)
「今はとて思し離れば、まことに御心と厭ひ棄てたまひける
と、恥づかしう心憂くなむおばゆべき。なほあはれと思せ」
と聞こえたまへば、(女三の宮)「かかるさまの人は、もののあは
れも知らぬものと聞きしを、ましてもとより知らぬことにて、
いかがは聞こゆべからむ」とのたまへば、(源氏)「かひなのこ
とや。思し知る方もあらむものを一とばかりのたまひさして、
若君を見たてまつりたまふ。
 御乳母たちは、やむごとなくめやすきかぎりあまたさぶら
ふ。召し出でて、仕うまつるべき心おきてなどのたまふ。
(源氏)「あはれ、残り少なき世に生ひ出づべき人にこそ」とて、
抱きとりたまへば、いと心やすくうち笑みて、つぶつぶと肥
P323
えて白ううつくし。大将などの児生ひほのかに思し出づるに
は以たまはず。女御の御宮たち、はた、父帝の御方ざまに、
王気づきて気高うこそおはしませ、ことにすぐれてめでたう
しもおはせず。この君、いとあてなるに添へて愛敬づき、ま
みのかをりて、笑がちなるなどをいとあはれと見たまふ。忍
ひなしにや、なほいとようおぼえたりかし。ただ今ながら、
まなこゐののどかに、恥づかしきさまもやう離れて、かをり
をかしき顔ざまなり。宮は、さしも思しわかず、人、はた、
さらに知らぬことなれば、ただ一ところの御心の中にのみぞ、
あはれ、はかなかりける人の契りかなと見たまふに、おほか
たの世の定めなさも思しつづけられて、涙のほろほろとこぼ
れぬるを、今日は事忌すべき日をとおし拭ひ隠したまふ。
(源氏)「静かに思ひて嗟くに堪へたり」とうち誦じたまふ。五
十八を十とり棄てたる御齢なれど、末になりたる心地したま
ひて、いとものあはれに思さる。「汝が爺に」とも、諫めま
P324
ほしう思しけむかし。
この事の心知れる人、女房の中にもあらむかし、知らぬこ
そねたけれ、をこなりと見るらん、と安からず思せど、わが
御咎あることはあへなむ、二つ言はむには、女の御ためこそ
いとほしけれ、など思して、色にも出だしたまはず。いと何
心なう物語して笑ひたまへる、まみ口つきのうつくしきも、
心知らざらむ人はいかがあらむ、なほ、いとよく似通ひたり
けり、と見たまふに、親たちの、子だにあれかしと泣いたま
ふらむにもえ見せず、人知れずはかなき形見ばかりをとどめ
おきて、さばかり思ひあがりおよすけたりし身を、心もて失
ひつるよ、とあはれに惜しければ、めざましと思ふ心もひき
返し、うち泣かれたまひぬ。
 人々すべり隠れたるほどに、宮の御もとに寄りたまひて、
(源氏)「この人をばいかが見たまふや。かかる人を棄てて、背
きはてた与ひぬべき世にやありける。あな心憂」とおどろか
P325
しきこえたまへば、顔うち赤めておはす。
 (源氏)「誰が世にか種はまきしと人問はばいかが岩根の松
  はこたへむ
あはれなり」など忍びて聞こえたまふに、御答へもなうて、
ひれ臥したまへり。ことわりと思せば、強ひても聞こえたま
はず。いかに思すらむ、もの深うなどはおはせねど、いかで
かはただには、と推しはかりきこえたまふも、いと心苦しう
なむ。
大将の君は、かの心に余りてほのめかし出
でたりしを、いかなることにかありけむ、
すこしものおぼえたるさまならましかば、
さばかりうち出でそめたりしに、いとよう気色ばみてましを、
言ふかひなきとぢめにて、をりあしう、いぶせくて、あはれ
にもありしかな、と面影忘れがたうて、はらからの君たちよ
りも、強ひて悲しとおぼえたまひけり。女宮のかく世を背き
P326
たまへるありさま、おどろおどろしき御なやみにもあらで、
すがやかに思したちけるほどよ、また、さりともゆるしきこ
えたまふべきことかは、二条の上の、さばかり限りにて、泣
く泣く申したまふと聞きしをば、いみじきことに思して、つ
ひにかくかけとどめたてまつりたまへるものを、など、とり
集めて思ひくだくに、なほ昔より絶えず見ゆる心ばへ、え忍
ばぬをりをりありきかし、いとようもて静めたるうはべは、
人よりけに用意あり、のどかに、何ごとをこの人の心の中に
思ふらむと、見る人も苦しきまでありしかど、すこし弱きと
ころつきて、なよび過ぎたりしけぞかし、いみじうとも、さ
るまじきことに心を乱りて、かくしも身にかふべきことにや
はありける、人のためにもいとほしう、わが身は、いたづら
にやなすべき、さるべき昔の契りといひながら、いと軽々し
うあぢきなきことなりかし、など心ひとつに思へど、女君に
だに聞こえ出でたまはず、さるべきついでなくて、院にも、
P327
また、え申したまはざりけり。さるは、かかることをなむか
すめしと申し出でて、御気色も見まほしかりけり。  
 父大臣、母北の方は、涙のいとまなく思し沈みて、はかな
く過ぐる日数をも知りたまはず、御わざの法服、御装束、
何くれのいそぎをも、君たち御方々とりどりになむせさせ
たまひける。経、仏のおきてなども、右大弁の君せさせたま
ふ。七日七日の御誦経などを、人の聞こえおどろかすにも、  
(致仕の大臣)「我にな聞かせそ。かくいみじと思ひまどふに、な
かなか道妨げにもこそ」とて、亡きやうに思しほれたり。
一条宮には、まして、おぼつかなうて別れ
たまひにし恨みさへ添ひて、日ごろ経るま
まに、広き宮の内人げ少なう心細げにて、
親しく使ひ馴らしたまひし人は、なほ参りとぶらひきこゆ。
好みたまひし鷹、馬など、その方の預りどもも、みな属く所
なう思ひ倦じて、かすかに出で入るを見たまふも、事にふれ
P328
てあはれは尽きぬものになむありける。もて使ひたまひし御
調度ども、常に弾きたまひし琵琶、和琴などの緒もとり放ち
やつされて音をたてぬも、いと埋れいたきわざなりや。
 御前の木立いたうけぶりて、花は時を忘れぬけしきなるを
ながめつつ、もの悲しく、さぷらふ人々も鈍色にやつれつつ、
さびしうつれづれなる昼つ方、前駆はなやかに追ふ音してこ
こにとまりぬる人あり。「あはれ、故殿の御けはひとこそ、
うち忘れては思ひつれ」とて泣くもあり。大将殿のおはした
るなりけり。衛消息聞こえ入れたまへつ。例の、弁の君、宰
相などのおはしたると思しつるを、いと恥づかしげにきよら
なるもてなしにて入りたまへり。
 母屋の席に御座よそひて入れたてまつる。おしなべたるや
うに人々のあへしらひきこえむは、かたじけなきさまのした
まへれば、御息所ぞ、対面したまへる。(夕霧)「いみじきことを
思ひたまへ嘆く心は、さるべき人々にも越えてはべれど、限
P329
りあれば聞こえさせやる方なうて、世の常になりはべつにけ
り。いまはのほどにも、のたまひおくことはべりしかば、お
ろかならずなむ。瀧ものどめがたき世なれど、後れ先だつほ
どのけぢめには、思ひたまへ及ばむに従ひて深き心のほどを
も御覧ぜられにしがなとなむ。神事などの繁きころほひ、
私の心ざしにまかせて、つくづくと籠りゐはべらむも例な
らぬことなりければ、立ちながら、はた、なかなかに飽かず
思ひたまへらるべうてなむ、日ごろを過ぐしはべりにける。
大臣などの心を乱りたまふさま見聞きはべるにつけても、親
子の道の闇をばさるものにて、かかる御仲らひの、深く思ひ
とどめたまひけむほどを推しはかりきこえさするに、いと尽
きせずなむ」とて、しばしぱおし拭ひ鼻うちかみたまふ。あ
ざやかに気高きものから、なつかしうなまめいたり。
御息所も鼻声になりたまひて、「あはれなることは、その
常なき世のさがにこそは。いみじとても、また、たぐひなき
P330
ことにやはと、年つもりぬる人はしひて心強うさましはべる
を、さらに思し入りたるさまのいとゆゆしきまで、しばしも
たち後れたまふまじきやうに見えはべれば、すべていと心憂
かりける身の、今までながらへはべりば、かくかたがたには
かなき世の末のありさまを見たまへ過ぐすべきにやといと静
心なくなむ。おのづから近き御仲らひにて、聞き及ぱせたま
ふやうもはべりけむ。はじめつ方より、をさをさうけひきき
こえざりし御事を、大臣の御心むけも心苦しう、院にもよろ
しきやうに思しゆるいたる御気邑などのはべしかば、さらば
みづからの心おきての及ばぬなつけりと思ひたまへなしてな
む見たてまつりつるを、かく夢のやうなることを見たまふる
に思ひたまへあはすれぱ、みづからの心のほどなむ、同じう
は強うもあらがひきこえましをと思ひはべるに、なほいと悔
しう。それはかやうにしも思ひよりはべらざりきかし。皇女
たちは、おぽろけのことならで、あしくもよくも、かやうに
P331
世づきたまふことは、心にくからぬことなりと、古めき心に
は思ひはべりしを、いづ方にもよらず、中空にうき御宿世な
りければ、何かは、かかるついでに煙にも紛れたまひなむは、
この御身のための人聞きなどはことに口暗しかろまじけれど、
さりとても、しかすくよかにえ思ひ静むまじう、悲しう見た
てまつりはべるに、いとうれしう浅からぬ御とぶらひのたび
たびになりはべるめるを、ありがたうもと聞こえはべるも、
さらばかの御契りありけるにこそはと、思ふやうにしも見え
ざりし御心ばへなれど、いまはとてこれかれにつけおきたま
ひける御遺言のあはれなるになむ、うきにもうれしき瀬はま
じりはべりける」とて、いといたう泣いたまふけはひなり。
大将も、とみにえためらひたまはず、「あやしう、いとこ  
よなくおよすけたまへりし人の、かかるべうてや、この二三
年のこなたなむ、いたうしめりてもの心細げに見えたまひし
かば、あまり世のことわりを思ひ知り、もの深うなりぬる人
P332
の、澄み過ぎて、かかる例、心うつくしからず、かへりては
あざやかなる方のおぼえ薄らぐものなりとなむ、常にはかば
かしからぬ心に諫めきこえしかば、心浅しと思ひたまへりし。
よろづよりも、人にまさりて、げにかの思し嘆くらむ御心の
中の、かたじけなけれど、いと心苦しうもはぺるかな」など、
なつかしうこまやかに聞こえたまひて、ややほど経てぞ出で
たまふ。
かの君は、五六年のほどの年長なりしかど、なほいと若や
かになまめき、あいだれてものしたまひし。これは、いとす
くよかに重々しく、男々しきけはひして、顔のみぞいと若う
きよらなること、人にすぐれたまへる。若き人々は、もの悲
しさも少し紛れて見出だしたてまつる。御前近き桜のいとお
もしろきを、「今年ばかりは」とうちおばゆるも、いまいま
しき筋なりけれぱ、(夕霧)「あひ見むことは」と口すさびて、
(タ霧)時しあればかはらぬ色ににほひけり片枝枯れにし宿
P333
の桜も
わざとならず誦じなして立ちたまふに、いととう、 。
(御息所)この春は柳のめにぞ玉はぬく咲き散る花のゆくへ
知らねば
と聞こえたまふ。いと深きよしにはあらねど、いまめかしう
かどありとは言はれたまひし更衣なりけり。げにめやすきほ
どの用意なめりと見たまふ。
致仕の大殿にやがて参りたまへれば、君た
ちあまたものしたまひけり。「こなたに入
らせたまへ」とあれぱ、殿の御出居の方に
入りたまへり。ためらひて対面したまへり。古りがたうきよ
げなる御容貌いたう痩せおとろへて、御髭などもとりつくろ
ひたまはねばしげりて、親の孝よりもけにやつれたまへり。
見たてまつりたまふよりいと忍びがたけれぱ、あまりにをさ
まらず乱れ落つる涙こそはしたなけれと思へぱ、せめてぞも
P334
て隠したまふ。大臣も、とりわ
き御仲よくものしたまひしをと
ちてえとどめたまはず、尽きせ
ぬ御事どもを聞こえかはしたまふ。
一条宮に参でたりつるありさまなど聞こえたまふ。いとど
しう春雨かと見ゆるまで、軒の雫に異ならず濡らしそへたま
ふ。畳紙に、かの「柳のめにぞ」とありつるを書いたまへる
を奉りたまへば、(致仕の大臣)「目も見えずや」と、おししぼり
つつ見たまふ。うちひそみつつぞ見たまふ御さま、例は心強
うあざやかに誇りかなる御気色なごりなう、人わろし。さる
はことなることなかめれど、この「玉はぬく」とあるふしの
げにと思さるるに心乱れて、久しうえためらひたまはず。
(致仕の大臣)「君の御母君の隠れたまヘリし秋なむ、世に悲しき
ことの際にはおぽえはべりしを、女は限りありて、見る人少
P335
なう、とあることもかかることもあらはならねば、悲しびも
隠ろへてなむありける。はかばかしからねど、朝廷も棄てた
まはず、やうやう人となり、官位につけてあひ頼む人々、お
のづから次々に多うなりなどして、驚き口惜しがるも類にふ
れてあるべし。かう深き思ひは、そのおほかたの世のおぼえ
も、官位も思ほえず、ただことなることなかりしみづからの
ありさまのみこそ、たへがたく恋しかりけれ。何ばかりのこ
とにてかは思ひさますべからむ」と、空を仰ぎて、なが一めたま
ふ。
タ暮の雲のけしき、鈍色に霞みて、花の散リたる梢どもを
も、今日ぞ目とどめたまふ。この御畳紙に、
(致仕の大臣)「木の下のしづくにぬれてさかさまにかすみの衣
着たる春かな
大将の君、
亡き人も思はざりけむうちすててタのかすみ君着たれ
P336
とは
弁の君、
うらめしやかすみの衣たれ書よと春よりさきに花の散り
けむ
御わざなど、世の常ならずいかめしうなむありける。大将殿
の北の方をばさるものにて、殿は心ことに、誦経なども、あ
はれに深き心ばへを加へたまふ。
かの一条宮にも、常にとぷらひきこえたま
ふ。四月ばかりの空は、そこはかとなう心
地よげに、一つ色なる四方の梢もをかしう
見えわたるを、もの思ふ宿は、よろづのことにつけて静かに
心細う暮らしかねたまふに、例の、渡りたまへり。庭もやう
やう青み出づる若草見えわたり、ここかしこの砂子薄き物の
隠れの方に、蓬も所得顔なり。前栽に心入れつくろひたま
ひしも、心にまかせて茂りあひ、一叢薄も頼もしげにひろご
P337
りて、虫の音添へむ秋思ひやらるるより、いとものあはれに
露けくて、分け入つたまふ。伊予簾かけわたして、鈍色の几
帳の更衣したる透影涼しげに見えて、よき童のこまやかに鈍
ばめる汗杉のつま、頭つきなどほの見えたる、をかしけれど、
なほ目おどろかるる色なりかし。
今日は、簀子にゐたまへぼ、褥さし出でたり。いと軽らか
なる御座なりとて、例の、御息所おどろかしきこゆれど、こ
のごろなやましとて寄り臥したまへり。とかく聞こえ紛らは
すほど、御前の木立ども、思ふことなげなろけしきを見たま
ふも、いとものあはれなり。
柏木と楓との、ものよりけに
若やかなる色して枝さしかは
したるを、(夕霧)「いかなる契
りにか、末あへる頼もしさ
よ」などのたまひて、忍びや
P338
かにさし寄りて、
(タ霧)「ことならばならしの枝にならさなむ葉守の神のゆ
るしありきと
御簾の外の隔てあるほどこそ、恨めしけれ」とて、長押に寄
りゐたまへり。「なよび姿、はた、いといたうたをやぎける
をや」とこれかれつきしろふ。この御あへしらひ聞こゆる少
将の君といふ人して、
(落葉の宮)「柏木に葉守の神はまさすとも人ならすベき宿の
梢か
うちつけなる御言の葉になむ、浅う思ひたまへなりぬる」と
聞こゆれば、げにと思すにすこしほほ笑みたまひぬ。
御息所ゐざり出でたまふけはひすれば、やをらゐなほりた
まひぬ。(御息所)「うき世の中を思ひたまへ沈む月日の積もるけ
ぢめにや、乱り心地もあやしう、ほれぽれしうて過ぐしはべ
るを、かくたびたび重ねさせたまふ御とぶらひのいとかたじ
P339
けなきに思ひたまへ起こしてなむ」とて、げになやましげな
る御けはひなり。(夕霧)「思ほし嘆くは世のことわりなれど、
また、いとさのみはいかが。よろづのことさるべきにこそは
べめれ。さすがに限りある世になむ」と慰めきこえたまふ。
この宮こそ、聞きしよりは、心の奥見えたまへ、あはれ、げ
にいかに人笑はれなることをとつ添へて思すらむと思ふbた
だならねば、いたう心とどめて、御ありさまも問ひきこえた
まひけり。容貌ぞいとまほにはえものしたまふまじけれど、
いと見苦しうかたはらいたきほどにだにあらずは、などて見
る目により人をも思ひ飽き、また、さるまじきに心をもまど
はすべきぞ、さまあしや、ただ心ばせのみこそ、言ひもてゆ
かむには、やむごとなかるべけれ、と思ほす。
(夕霧)「今は、なほ、昔に思ほしなずらへて、疎からずもて
なさせたまへなど、わざと懸想びてはあらねど、ねむごろ
に気色ばみて、聞こえたまふ。直衣姿いヒとあざやかにて、丈だ
P339
ちものものしうそぞろかにぞ見えたまひける。(女房)「かの大
殿は、よろづのことなつかしうなまめき、あてに愛敬づきた
まへることの並びなきなり。これは男々しうはなやかに、あ
なきよらとふと見えたまふにほひぞ、人に以ぬや」とうちさ
さめきて、「同じうは、かやうにても出で入りたまはましか
ば」など、人々言ふめり。
(夕霧)「右大将が塚に草初めて青し」と、う
ち口すさびて、それもいと近き世のことな
れば、さまざまに近う遠う、心乱るような
りし世の中に、高きも下れるも、惜しみあたらしがらぬはな
きも、むべむべしき方をばさるものにて、あやしう情をたて
たる人にぞものしたまひければ、さしもあるまじき公人、女
房などの年古めきたるどもさへ、恋ひ悲しびきこゆる。まし
て、上には、御遊びなどのをりごとにも、まづ思し出でてな
む偲ばせたまひける。「あはれ、衛門督」といふ言ぐさ、何
P340
ごとにつけても言はぬ人なし。六条院には、まして、あはれ
と思し出づること、月日にそへて多かり。この若者を、御心
ひとつには形見と見なしたまヘど、人の思ひよらぬことなれ
ば、いとかひなし。秋つ方になれば、この君はゐざりなど。


小学館 日本古典文学全集 (新版) 目次へ戻る

データベースへ戻る
サンプルへ戻る