35巻 わかな 下
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ことわりとは思へども、うれたくも言へる
かな、いでや、なぞ、かくことなることな
きあへしらひばかりを慰めにてはいかが過
ぐさむ、かかる人づてならで、一言をものたまひ聞こゆる世
ありなんや、と思ふにつけて、おほかたにては惜しくめでた
しと思ひきこゆる院の御ため、なまゆがむ心や添ひにたらむ。
晦日の日は、人々あまた参りたまへり。な
まものうくすずろはしけれど、そのあたり
の花の色をも見てや慰むと思ひて参りたま
ふ。殿上の賭弓、二月とありしを過ぎて、三月、はた、御忌
月なれば口惜しくと人々思ふに、二の院にかかるまとゐある
べしと聞き伝へて、例の集ひたまふ。左右の大将、さる御仲
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らひにて参りたまへば、次将たちなどいどみかはして、小弓
とのたまひしかど、歩弓のすぐれたる上手どもありければ、
召し出でて射させたまふ。
殿上人どもも、つきづきしきかぎりは、みな、前後の心、
こまどりに方分きて、暮れゆくままに、今日にとぢむる霞の
けしきもあわたたしく、乱るる夕風に、花の蔭、いとど立つ
ことやすからで、人々いたく酔ひ過ぎたまひて、「艶なる賭
物ども、こなたかなた人々の御心見えぬべきを、柳の葉を百
たび当てつべき舎人どものうけばりて射取る、無心なりや。
すこしここしき手つきどもをこそ、いどませめ」とて、大将
たちよりはじめておりたまふに、衛門督、人よりけにながめ
をしつつものしたまへば、かの片はし心知れる御目には、見
つけつつ、なほいと気色異なり、わづらはしきこと出で来べ
き世にやあらん、と我さへ思ひ尽きねる心地す。この君たち、
御仲いとよし。さる仲らひといふ中にも、心かはしてねんご
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ろなれば、はかなきことにても、もの思はしくうち紛るるこ
とあらんを、いとほしくおぼえたまふ。
みづからも、大殿を見たてまつるに気恐ろしくまばゆく、
かかる心はあるべきものか、なのめならんにてだに、けしか
らず人に点つかるべきふるまひはせじと思ふものを、まして
おほけなきこと、と思ひわびては、かのありし猫をだに得て
しがな、思ふこと語らふべくはあらねど、かたはらさびしき
慰めにもなつけむ、と思ふに、もの狂ほしく、いかでかは盗
み出でむと、それさへぞ難きことなりける。
女御の御方に参りて、物語など聞こえ紛ら
はしこころみる。いと奥深く、心恥づかし
き御もてなしにて、まほに見えたまふこと
もなし。かかる御仲らひにだに、け遠くならひたるを、ゆく
りかにあやしくはありしわざぞかしとは、さすがにうちおぼ
ゆれど、おぼろけにしめたるわが心から、浅くち思ひなされ
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ず。
春宮に参りたまひて、論なう通ひたまへる
ところあらんかしと目とどめて見たてまつ
るに、にほひやかになどはあらぬ御容貌な
れど、さばかりの御ありさま、はた、いとことにて、あてに
なまめかしくおはします。
内裏の御猫の、あまた引き連れたりけるはらからどもの所
どころに散れて、この宮にも参れるが、いとをかしげにて歩
くを見るに、まづ思ひ出でらるれば、(柏木)「六条院の姫宮の
御方にはべる猫こそ、いと見えねやうなる顔してをかしうは
べしか。はつかになむ見たまへし」と啓したまへば、猫わざ
とらうたくせさせたまふ御心にて、くはしく問はせたまふ。
(柏木)「唐猫の、ここのに違へるさましてなむはべりし。同じ
やうなるものなれど、心をかしく人馴れたるはあやしくなつ
かしきものになむはべる」など、ゆかしく思さるばかり聞こ
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えなしたまふ。
聞こしめしおきて、桐壼の御方より伝へて聞こえさせたま
ひければ、まゐらせたまへり。「げに、いとうつくしげなる
猫なりけり」と人々興ずるを、衛門督は、尋ねんと思したり
きと御気色を見おきて、日ごろ経て参りたまへり。童なりし
より、朱雀院のとりわきて思し使はせたまひしかば、御山住
みに後れきこえては、またこの宮にも親しう参り、心寄せき
こえたり。御琴など教へきこえたまふとて、(柏木)「御猫ども
あまた集ひはべりにけり。いづら、この見し人は」と尋ねて
見つけたまへり。いとらうたくおぼえてかき撫でてゐたり。
宮も、「げにをかしきさましたりけつ。心なむまだなつぎが
たきは、見馴れぬ人を知るにやあらん。ここなる猫どもこと
に劣らずかし」とのたまへば、(柏木)「これは、さるわきまへ
心もをさをさはべらぬものなれど、その中にも心賢きは、お
のづから魂はべらむかし」など聞こえて、(柏木)「まさるども
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さぶらふめるを、これはしばし賜りあづからむ」と申したま
ふ。心の中に、あながちにをこがましく、かつはおぼゆ。
つひにこれを尋ねとりて、夜もあたり近く臥せたまふ。明
けたてば、猫のかしづきをして、撫で養ひたまふ。人げ遠か
りし心もいとよく馴れて、ともすれば衣の裾にまつはれ、寄
り臥し、睦るるを、まめやかにうつくしと思ふ。いといたく
ながめて、端近く寄り臥したまへるに、来てねうねうといと
らうたげになけぱ、かき撫でて、うたてもすすむかな、とほ
ほ笑まる。
(柏木)「恋ひわぶる人のかたみと手ならせばなれよ何とて
なく音なるらん
これも昔の契りにや」と、顔を見つつのたまへば、いよいよ
らうたげになくを、懐に入れてながめゐたまへり。御達など
は、「あやしくにはかなる猫のときめくかな。かやうなるも
の見入れたまはぬ御心に」と咎めけり。宮より召すにもまゐ
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らせず、とり籠めてこれを語らひたまふ。
左大将殿の北の方は、大殿の君たちよりも、
右大将の君をば、なほ昔のままに、疎から
ず思ひきこえたまへり。心ばへのかどかど
しくけ近くおはする君にて、対面したまふ時々も、こまやか
に隔てたる気色なくもてなしたまへれば、大将も、淑景舎な
どのうとうとしく及びがたげなる御心ざまのあまりなるに、
さま異なる御睦びにて、思ひかはしたまへり。
男君、今は、まして、かのはじめの北の方をももて離れは
てて、並びなくもてかしづききこえたまふ。この御腹には、
男君達のかぎりなれば、さうざうしとて、かの真木柱の姫君
を得てかしづかまほしくしたまへど、祖父宮など、さらにゆ
るしたまはず、「この君をだに、人笑へならぬさまにて見む」
と思しのたまふ。
親王の御おぼえいとやむごとなく、内裏にも、この宮の御
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心寄せいとこよなくて、このことと奏したまふことをばえ背
きたまはず、心苦しきものに思ひきこえたまへり。おほかた
も、いまめかしくおはする宮にて、この院、大殿にさしつぎ
たてまつりては、人も参り仕うまつり、世人も重く思ひきこ
えけり。大将も、さる世の重しとなりたまふべき下形なれば、
姫君の御おぼえ、などてかは軽くはあらむ。聞こえ出づる
人々事にふれて多かれと、思しも定めず。衛門督を、さも気
色ばまばと思すべかめれど、猫には思ひおとしたてまつるに
や、かけても思ひよらぬぞ口惜しかりける。母君の、あやし
くなほひがめる人にて、世の常のありさまにもあらずもて消
ちたまへるを口惜しきものに思して、継母の御あたりをぱ、
心っけてゆかしく思ひて、いまめきたる御心ざまにぞものし
たまひける。
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兵部卿宮、なほ一ところのみおはして、御
心につきて思しけることどもはみな違ひて、
世の中もすさまじく、人笑へに思さるるに、
さてのみやはあまえて過ぐすべきと思して、このわたりに気
色ばみ寄りたまへれば、大宮、「何かは。かしづかむと忌は
む女子をば、宮せにつぎては、親王たちにこそは見せたてま
つらめ。ただ人の、すくよかになほなほしきをのみ、今の世
の人のかしこくする、品なきわざなり」とのたまひて、いた
くも悩ましたてまつりたまはずうけひき申したまひつ。親王、
あまり恨みどころなきをさうざうしと思せど、おほかたの侮
りにくきあたりなれば、えしも言ひすべしたまはでおはしま
しそめぬ。いと二なくかしづききこえたまふ。
大宮は、女子あまたものしたまひて、さまざまもの嘆かし
きをりをり多かるに、もの懲りしねべけれど、なほこの君の
ことの思ひ放ちがたくおばえてなむ、母君は、あやしきひが
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ものに、年ごろにそへてなりまさりたまふ、大将、はた、わ
が言に従はずとて、おろかに見棄てられためれば、いとなむ
心苦しき、とて、御しつらひをも、起居御手づから御覧じ入
れ、よろづにかたじけなく御心に入れたまへり。
宮は、亡せたまひにける北の方を、世とともに恋ひきこえ
たまひて、ただ、昔の御ありさまに似たてまつりたらむ人を
見む、と思しけるに、あしくはあらねど、さま変りてぞもの
したまひけると思すに、口惜しくやありけむ、通ひたまふさ
まいとものうげなり。大宮、いと心づきなきわざかなと思し
嘆きたり。母君も、さこそひがみたまへれど、うつし心出で
くる時は、口惜しくうき世と思ひはてたまふ。大将の君も、
さればよ、いたく色めきたまへる親王を、とはじめよりわが
御心にゆるしたまはざりしことなればにや、ものしと思びた
まへり。
尚侍の君も、かく頼もしげなき御さまを、近く聞きたまふ
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には、さやうなる世の中を見ましかば、こなたかなたいかに
思し見たまはましなど、なまをかしくもあはれにも思し出で
けり。その昔も、け近く見きこえむとは、思ひよらざりきか
し、ただ、情々しう、心深きさまにのたまひわたりしを、あ
へなくあはつけきやうにや、聞きおとしたまひけむ、といと
恥づかしく、年ごろも思しわたることなれば、かかるあたり
にて聞きたまはむことも、心づかひせらるべくなど思す。
これよりも、さるべきことは扱ひきこえたまふ。せうとの
君たちなどして、かかる御気色も知らず顔に、憎からず聞こ
えまつはしなどするに、心苦しくて、もて離れたる御心はな
きに、大北の方といふさがな者ぞ、常にゆるしなく怨じきこ
えたまふ。(大北の方)「親王たちは、のどかに二心なくて見たま
はむをだにこそ、はなやかならぬ慰めには思ふべけれ」とむ
つかりたまふを、宮も漏り聞きたまひては、いと聞きならは
ぬことかな、昔いとあはれと思ひし人をおきても、なほはか
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なき心のすさぴは絶えざりしかど、かうきびしきもの怨じは
ことになかりしものを、心づきなく、いとど昔を恋ひきこえ
たまひつつ、古里にうちながめがちにのみおはします。さ言
ひつつも、二年はかりになりぬれば、かかる方に目馴れて、
たださる方の御仲にて過ぐしたまふ。
はかなくて、隼月も重なりて、内裏の帝御
位に即かせたまひて十八年にならせたまひ
ぬ。(冷泉帝)「次の君とならせたまふべき皇子
おはしまさず、もののはえなきに、世の中はかなくおぼゆる
を、心やすく思ふ人々にも対面し、私ざまに心をやりて、の
どかに過ぐさまほしくなむ」と、年ごろ思しのたまはせつる
を、日ごろいと重くなやませたまふことありて、にはかにお
りゐさせたまひぬ。世の人、飽かず盛りの御世を、かくのが
れたまふことと暗しみ嘆けど、春宮もおとなびさせたまひに
たれば、うち継ぎて、世の中の政などことに変るけぢめも
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なかりけり。
太政大臣、致仕の表奉りて、籠りゐたまひぬ。(致仕の大臣)
「世の中の常なきにより、かしこき帝の君も位を去りたまひ
ぬるに、年ふかき身の冠を挂けむ、何か惜しからん」と思し
のたまふべし。左大将、右大臣になりたまひてぞ、世の中
の政仕うまつりたまひける。女御の君は、かかる御世をも
待ちつけたまはで亡せたまひにければ、限りある御位を得た
まへれど、物の背後の心地してかひなかりけり。六条の女御
の御腹の一の宮、坊にゐたまひぬ。さるべきこととかねて思
ひしかど、さしあたりてはなほめでたく、目おどろかろるわ
ざなりけり。右大将の君、大笛言になりたまひね。いよいよ
あらまほしき御仲らひなり。
六条院は、おりゐたまひぬる冷泉院の御嗣おはしまさぬを
飽かず御心の中に思す。同じ筋なれど、思ひ悩ましき御事な
うて過ぐしたまへるばかりに、罪は穏れて、末の世まではえ
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伝ふまじかりける御宿世、口惜しくさうざうしく思せど、人
にのたまひあはせぬことなればいぶせくなむ。
春宮の女御は、御子たちあまた数そひたまひて、いとど御
おぼえ並びなし。源氏のうちつづき后にゐたまふべきことを、
世人飽かず思へるにつけても、冷泉院の后は、ゆゑなくて、
あながちにかくしおきたまへる御心を思すに、いよいよ六条
院の御事を、年月にそへて、限りなく思ひきこえたまへり。
院の帝、思しめししやうに、御幸もところせからで渡りた
まひなどしつつ、かくてしも、げにめでたくあらまほしき御
ありさまなり。
姫宮の御事は、帝、御心ととめて思ひ
えたまふ。おほかたの世にも、あまねくも
てかしづかれたまふを、対の上の御勢ひに
はえまさりたまはず。年月経るままに、御仲いとうるはしく
睦びきこえかはしたまひて、いささか飽かぬことなく、隔て
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も見えたまはぬものから、(紫の上)「今は、かうおほぞうの住ま
ひならで、のどやかに行ひをもとなむ思ふ。この世はかばか
りと、見はてつる心地する嵩にもなりにけり。さりぬべきさ
まに思しゆるしてよ」とまめやかに聞こえたまふをりをりあ
るを、(源氏)「あるまじくつらき御事なり。みづから深き本意
あることなれど、とまりてさうざうしくおぼえたまひ、ある
世に変らん御ありさまのうしろめたさによりこそ、ながらふ
れ。つひにそのこと遂げなん後に、ともかくも思しなれ」な
どのみ妨げきこえたまふ。
女御の君、ただ、こなたを、まことの御親にもてなしきこ
えたまひて、御方は隠れ処の御後見にて、卑下しものしたま
へるしもぞ、なかなか行く先頼もしげにめでたかりける。尼
君も、ややもすれば、たへぬよろこびの涙、ともすれば落ち
つつ、目をさへ拭ひただして、命長き、うれしげなる例にな
りてものしたまふ。
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住吉の御願かつがつはたしたまはむとて、
春宮の女御の御祈りに詣でたまはむとて、
かの箱あけて御覧ずれば、さまざまのいか
めしきことども多かり。年ごとの春秋の神楽に、かならず長
き世の折りを加へたる願ども、げにかかる御勢ひならでは、
はたしたまふべきこととも思ひおきてざりけり。ただ走り書
きたるおもむきの、才々しくはかばかしく、仏神も聞き入れ
たまふべき言の葉明らかなり。いかでさる山伏の聖心に、か
かることどもを思ひよりけむと、あはれにおほけなくも御覧
ず。さるべきにて、しばしかりそめに身をやつしける昔の世
の行ひ入にやありけむなど思しめぐらすに、いとど軽々しく
も思されざりけり。
このたびは、この心をばあらはしたまはず、ただ、院の御
物詣でにて出で立ちたまふ。浦伝ひのもの騒がしかりしほど、
そこらの御願ども、みなはたし尽くしたまへれども、なほ世
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の中にかくおはしまして、かかるいろいろの栄えを見
につけても、神の御助けは忘れがたくて、対の上も具しきこ
えさせたまひて、詣でさせたまふ、響き世の常ならず。いみ
じく事どもそぎ棄てて、世のわづらひあるまじくとはぶかせ
たまへど、限りありければ、めづらかによそほしくなむ。
上達部も、大臣二ところをおきたてまつりては、みな仕う
まつりたまふ。舞人は、衛府の次将どもの、容貌きよげに丈
だち等しきかぎりを選らせたまふ。この選びに入らぬをば恥
に愁へ嘆きたるすき者どもありけり。陪従も、石清水、賀茂
の臨時の祭などに召す人々の、道々のことにすぐれたるかぎ
りをととのへさせたまへり。加はりたる二人なむ、近衛府の
名高きかぎりを召したりける。御神楽の方には、いと多く仕
うまつれり。内裏、春宮、院の殿上人、方々に分かれて、心
寄せ仕うまつる。数も知らず、いろいろに尽くしたる上達部
の御馬、鞍、馬副、随身、小舎人童、次々の舎人などまで、
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ととのへ飾りたる見物またなきさまなり。
女御殿、対の上は、一つに奉りたり。次の御車には、明石
の御方、尼君忍びて乗りたまへり。女御の御乳母、心知りに
て乗りたり。方々の副車、上の御方の五つ、女御殿の五つ、
明石の御あかれの三つ、目もあやに飾りたる装束ありさま言
へばさらなり。さるは、(源氏)「尼君をば、同じくは、老の波
の皺のぶばかりに人めかしくて詣でさせむ」と、院はのたま
ひけれど、(明石の君)「このたびは、かくおほかたの響きに、立
ちまじらむもかたはらいたし。もし思ふやうならむ世の中を
待ち出でたらば」と、御方はしづめたまひけるを、残りの命
うしろめたくて、かつがつ物ゆかしがりて、慕ひ参りたまふ
なりけり。さるべきにて、もとよりかくにほひたまふ御身ど
もよりも、いみじかりける契りあらはに思ひ知らるる人の御
ありさまなり。
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十月中の十日なれば、神の斎垣にはふ葛も
色変りて、松の下紅葉など、音にのみ秋を
聞かぬ顔なり。ことごとしき高麗、唐土の
楽よりも、東遊の耳馴れたるは、なつかしくおもしろく、波
風の声に響きあひて、さる木高き松風に吹きたてたる笛の音
も、外にて聞く調べには変りて身にしみ、琴にうち合はせた
る拍子も、鼓を離れてととのへとりたる方、おどろおどろし
からぬも、なまめかしくすごうおもしろく、所がらはまして
聞こえけり。山藍に摺れる竹の節は
松の緑に見えまがひ、かざしの花の
いろいろは秋の草に異なるけぢめ分
かれで何ごとにも目のみ紛ひいろふ。
求子はつる末に、若やかなる上達部、
は肩ぬぎておりたまふ。にほひもな
く黒き袍衣に、蘇芳襲の、葡萄染の
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袖をにはかにひき綻ばしたるに、紅深き衵の袂の、うちし
ぐれたるにけしきばかり濡れたる、松原をば忘れて、紅葉の
散るに思ひわたさる。見るかひ多かる姿どもに、いと白く枯
れたる荻を高やかにかざして、ただ一かへり舞ひて入りぬる
は、いとおもしろく飽かずぞありける。
大殿、昔のこと思し出でられ、中ごろ沈みたまひし世のあ
りさまも、目の前のやうに思さるるに、その世のこと、うち
乱れ語りたまふべき人もなければ、致仕の大臣をぞ恋しく思
ひきこえたまひける。入りたまひて、二の車にしのて、
(源氏)たれかまた心を知りて住吉の神世を経たる松にこと
問ふ
御畳紙に書きたまへり。尼君うちしほたる。かかる世を見る
につけても、かの浦にて、今はと別れたまひしほど、女御の
君のおはせしありさまなど思ひ出づるも、いとかたじけなか
りける身の宿世のほどを思ふ。世を背きたまひし人も恋しく、
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さまざまにもの悲しきを、かつはゆゆしと言忌して、
(尼君)住の江をいけるかひある渚とは年経るあまも今日や
知るらん
おそくは便なからむと、ただうち思ひけるままなりけり。
(尼君)昔こそまづ忘られね住吉の神のしるしを見るにつけ
ても
と独りごちけり。
夜一夜遊び明かしたまふ。二十日の月遥かに澄みて、海の
面おもしろく見えわたるに、霜のいとこちたくおきて、松原
も色紛ひて、よろづのことそぞろ寒く、おもしろさもあはれ
さもたち添ひたり。対の上、常の垣根の内ながら、時々につ
けてこそ、興ある朝夕の遊びに耳ふり目馴れたまひけれ、御
門より外の物見をさをさしたまはず、ましてかく都の外の歩
きはまだならひたまはねば、めづらしくをかしく思さる。
(紫の上)住の江の松に夜ぶかくおく霜は神のかけたる木綿
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髪かも
篁朝臣の、「比良の山さへ」と言ひける雪の朝を思しやれ
ば、祭の心うけたまふしるしにやと、いよいよ頼もしくなむ。
女御の君、
神人の手にとりもたる榊葉に木綿かけ添ふるふかき夜の
霜
中務の君、
祝子が木綿うちまがひおく霜はげにいちじるき神のしる
しか
次々、数知らず多かりけるを、何せむにかは聞きおかむ。か
かるをりふしの歌は、例の上手めきたまふ男たちもなかなか
出で消えして、松の千歳より離れていまめかしきことなけれ
ば、うるさくてなむ。
ほのぼのと明けゆくに、霜はいよいよ深くて、本末もたど
たどしきまで、酔ひ過ぎにたる神楽おもてどもの、おのが顔
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をば知らで、おもしろきことに心はしみて、庭燎も影しめり
たるに、なほ「万歳、万歳」と榊葉をとり返しつつ、祝ひき
こゆる御世の末、思ひやるぞいとどしきや。よろづのこと飽
かずおもしろきままに、千夜を一夜になさまほしき夜の、何
にもあらで明けぬれば、返る波に競ふも口惜しく若き人々思
ふ。
松原に、はるばると立てつづけたる御車どもの、風にうち
なびく下簾の隙々も、常磐の蔭に花の錦をひき加へたると見
ゆるに、袍衣のいろいろけぢめおきて、をかしき懸盤とりつ
づきて物まゐりわたすをぞ、下人な
どは、目につきてめでたしとは思へ
る。尼君の御前にも、浅香の折敷に、
青鈍の表をりて、精進物をまゐると
て、「目ざましき女の宿世かな」と、
おのがじしはしりうごちけり。
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詣でたまひし道はことごとしくて、わづらはしき神宝さま
ざまにところせげなりしを、帰さはよろづの逍遥を尽くした
まふ。言ひつづくるも、うるさくむつかしきことどもなれば。
かかる御ありさまをも、かの入道の、聞かず見ぬ世にかけ離
れたうべるのみなむ飽かざりける、難きことなりかし、まじ
らはましも見苦しくや。世の中の人、これを例にて、心高く
なりぬべきころなめり。よろづのことにつけてめであさみ、
世の言種にて、「明石の尼君」とぞ、幸ひ人に言ひける。か
の致仕の大殿の近江の君は、双六打つ時の言葉にも、「明石
の尼君、明石の尼君」とぞ賽はこひける。
入道の帝は、御行ひをいみじくしたまひて、
内裏の御事をも聞き入れたまはず。春秋の
行幸になむ、昔思ひ出でられたまふことも
まじりける。姫宮の御事をのみぞ、なほえ思し放たで、この
院をば、なほおほかたの街後見に思ひきこえたまひて、内々
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の御心寄せあるべく奏せさせたまふ。二品になりたまひて、
御封などまさる、いよいよはなやかに御勢ひ添ふ。
対の上、かく年月にそへて方々にまさりたまふ御おぼえに、
わが身はただ一ところの御もてなしに人には劣らねど、あま
り年つもりなば、その御心ばへもつひにおとろへなん、さら
む世を見はてぬさきに心と背きにしがな、とたゆみなく思し
わたれど、さかしきやうにや思さむとつつまれて、はかばか
しくもえ聞こえたまはず。内裏の帝さへ、御心寄せことに聞
こえたまへば、おろかに聞かれたてまつらんもいとほしくて、
渡りたまふこと、やうやう等しきやうになりゆく、さるべき
こと、ことわりとは思ひながら、
さればよとのみやすからず思さ
れけれど、なほつれなく同じさ
まにて過ぐしたまふ。春宮の御
さしつぎの女一の宮をこなたに
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とりわきてかしづきたてまつりたまふ。その御あつかひにな
ん、つれづれなる御夜離れのほども慰めたまひける。いづれ
も分かず、うつくしくかなしと思ひきこえたまへり。
夏の御方は、かくとりどりなる御孫あつかひをうらやみて、
大将の君の典侍腹の君を切に迎へてぞかしづきたまふ。いと
をかしげにて、心ばへも、ほどよりはされおよすけたれば、
大殿の君もらうたがりたまふ。少なき御嗣と思ししかど、末
にひろごりて、こなたかなたいと多くなつ添ひたまふを、今
は、ただ、これをうつくしみあつかひたまひてぞ、つれづれ
も慰めたまひける。
右の大殿の参り辻うまつりたまふこと、いにしへよりもま
さりて親しく、今は、北の方もおとなびはてて、かの昔のか
けかけしき筋思ひ離れたまふにや、さるべきをりも渡りまう
でたまひつつ、対の上にも御対面ありて、あらまほしく聞こ
えかはしたまひけり。姫宮のみぞ、同じさまに若くおほどき
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ておはします。女御の君は、今は、公ざまに思ひ放ちきこえ
たまひて、この宮をばいと心苦しく、幼からむ御むすめのや
うに、思ひはぐくみたてまつりたまふ。
朱雀院の、今はむげに世近くなりぬる心地
してもの心細きを、さらにこの世のことか
へりみじと思ひ棄つれど、対面なんいま一
たびあらまほしきを、もし恨み残りもこそすれ、ことごとし
きさまならで渡りたまふべく聞こえたまひければ、大殿も、
「げにさるべきことなり。かかる御気色なからむにてだに、
進み参りたまふべきを。ましてかう待ちきこえたまひけるが
心苦しきこと」と、参りたまふべきこと思しまうく。
ついでなくすさまじきさまにてやは、這ひ渡りたまふべき、
何わざをしてか、御覧ぜさせたまふべき、と思しめぐらす。
のたび足りたまはむ年、若菜など調じてやと思して、さま
ざまの御法服のこと、斎の御設けのしつらひ、何くれと、さ
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まことに変れることどもなれば、人の御心しらひども入りつ
つ思しめぐらす。
いにしへも、遊びの方に御心とどめさせたまへりしかば、
舞人、楽人などを心ことに定め、すぐれたるかぎりをととの
へさせたまふ。右の大殿の御子ども二人、大将の御子、典
侍腹の加へて三人、まだ小さき七つより上のは、みな殿上せ
させたまふ。兵部卿宮の童孫王、すべてさるべき宮たちの御
子ども、家の子の君たち、みな選び出でたまふ。殿上の君た
ちも、容貌よく、同じき舞の姿も心ことなるべきを定めて、
あまたの舞の設けをせさせたまふ。いみじかるべきたびのこ
ととて、皆人心を尽くしたまひてなん。道々の物の師、上手
暇なきころなり。
宮は、もとより琴の御琴をなん習ひたまひ
けるを、いと若くて院にもひきわかれたて
まつりたまひにしかば、おばつかなく思し
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て、(朱雀院)「参りたまはむついでに、かの御琴の音なむ聞かま
ほしき。さりとも琴ばかりは弾きとりたまひつらん」と、後
言に聞こえたまひけるを、内裏にも聞こしめして、(帝)「げに、
さりとも、けはひことならむかし。院の御前にて、手尽くし
たまはむついでに、参り来て聞かばや」などのたまはせける
を、大殿の君は伝へ闘きたまひて、年ごろさりぬべきついで
ごとには、教へきこゆることもあるを、そのけはひはげにま
さりたまひにたれど、まだ聞こしめしどころあるもの深き手
には及ばぬを、何心もなくて参りたまへらんついでに、聞こ
しめさんとゆるしなくゆかしがらせたまはんは、いとはした
なかるべきことにも、といとほしく思して、このごろぞ御心
とどめて教へきこえたまふ。
調べことなる手二つ三つ、おもしろき大曲どもの、四季に
つけて変るべき響き、空の寒さ温さを調へ出でて、やむごと
なかるべき手のかぎりを、とりたてて教へきこえたまふに、
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心もとなくおはするやうなれど、やうやう心得たまふままに、
いとよくなりたまふ。(源氏)「昼はいと人しげく、なほ一たぴ
も揺し按ずる暇も心あわたたしけれぱ、夜々なむ静かに事の
心も染めたてまつるべき」とて、対にも、そのころは御暇
聞こえたまひて、明け暮れ教へきこえたまふ。
女御の君にも、対の上にも、琴は習はした
てまつりたまはざりければ、このをり、を
さをさ耳馴れぬ手ども弾きたまふらんをゆ
かしと思して、女御も、わざとありがたき御暇を、ただしば
しと聞こえたまひてまかでたまへり。御子二ところおはする
を、またも気色ばみたまひて、五月ばかりにぞなりたまへれ
ば、神事などにことつけておはしますなりけり。十一日過ぐ
しては、参りたまふべき御消息うちしきりあれど、かかるつ
いでにかくおもしろき夜々の御遊びをうらやましく、などて
我に伝へたまはざりけむとつらく思ひきこえたまふ。
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冬の夜の月は、人に違ひてめでたまふ御心なれば、おもし
ろき夜の雪の光に、をりにあひたる手ども弾きたまひつつ、
さぶらふ人々も、すこしこの方にほのめきたるに、御琴ども
とりどりに弾かせて、遊びなどしたまふ。年の暮れつ方は、
対などにはいそがしく、こなたかなたの御営みに、おのづか
ら御覧じ入るることどもあれば、(紫の上)「春のうららかならむ
夕などに、いかでこの御琴の音聞かむ」とのたまひわたるに、
年返りぬ。
院の御賀、まづおほやけよりせさせたまふ
ことどもいとこちたきに、さしあひては便
なく思されて、すこしほど過ごしたまふ。
二月十余日と定めたまひて、楽人、舞人など参りつつ、御遊
び絶えず。(源氏)「この対に常にゆかしくする御琴の音、いか
でかの人々の箏、琵琶の音も合はせて、女楽試みさせむ。た
だ今の物の上手どもこそ、さらにこのわたりの人々の御心し
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らひどもにまさらね。はかばかしく伝へとりたることはをさ
をさなけれど、何ごともいかで心に知らぬことあらじとなむ
幼きほどに思ひしかぱ、世にある物の師といふかぎり、また
高き家々のさるべき人の伝へどもをも残さす試みし中に、い
と深く恥づかしきかなとおぼゆる際の人なむなかりし。その
昔よりも、また、このごろの若き人々のされよしめき過ぐす
に、はた、浅くなりにたるべし。琴、はた、まして、さらに
まねぶ人なくなりにたりとか。この御琴の音ばかリだに伝へ
たる人をさをさあらじ」とのたまへば、河心なくうち笑みて、
うれしく、かくゆるしたまふほどになりにけると思す。二十
二一ばかりになりたまへど、なほいといみじく片なりにきび
はなる心地して、細くあえかにうつくしくのみ見えたまふ。
(源氏)「院にも見えたてまつりたまはで年経ぬるを、ねびまさ
りたまひにけりと御覧ずばかり、用意加へて見えたてまつり
たまへ」と事にふれて教へきこえたまふ。げに、かかる御
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後見なくては、ましていはけなくおはします御ありさま隠れ
なからましと人々も見たてまつる。
正月二十日ばかりになれぱ、空もをかしき
ほどに、風ぬるく吹きて、御前の梅も盛り
になりゆく。おほかたの花の木どももみな
けしきばみ、霞みわたりにけり。(源氏)「月たたば、御いそぎ
近く、もの騒がしからむに、掻き合はせたまはむ御琴の音も、
試楽めきて人言ひなさむを、このごろ静かなるほどに試みた
まへ」とて、寝殿に渡したてまつりたまふ。御供に、我も我
もとものゆかしがりて、参上らまほしがれど、こなたに遠き
をば選りとどめさせたまひて、すこしねびたれど、よしある
かぎり選りてさぶらはせたまふ。
童べは、容貌すぐれたる四人、赤色に桜の汗衫、薄色の織
物の衵、浮紋の表袴、紅の擣ちたる、さまもてなしすぐれ
たるかぎりを召したり。女御の御方にも、御しつらひなどい
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とど改まれるころの曇り
なきに、おのおのいどま
しく尽くしたる装ひども
あざやかに、二なし。童
は、青色に蘇芳の汗衫、
唐綾の表袴、衵は山吹な
る唐の綺を、同じさまにととのへたり。明石の御方のは、こ
とごとしからで、紅梅二人、桜二人、青磁のかぎりにて、福
濃く薄く、擣目などえならで着せたまへり。宮の御方にも、
かく集ひたまふべく聞きたまひて、童べの姿ばかりは、こと
につくろはせたまへり。青丹に、柳の汗衫、葡萄染の衵など、
ことに好ましくめづらしきさまにはあらねど、おほかたのけ
はひの、いかめしく気高きことさへいと並びなし。
廂の中の御障子を放ちて、こなたかなた御几帳ばかりをけ
ぢめにて、中の間は院のおはしますべき御座よそひたり。今
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日の拍子合はせには童べを召さんとて、右の大殿の三郎、尚
侍の君の御腹の兄君笙の笛、左大将の御太郎横笛と吹かせて、
簀子にさぶらはせたまふ。内には、御褥ども並ベて、御琴ど
もまゐりわたす。秘したまふ御琴ども、うるはしき紺地の袋
どもに入れたる取り出でて、明石の御方に琵琶、紫の上に和
琴、女御の君に箏の御琴、宮には、かくことごとしき琴はま
だえ弾きたまはずやとあやふくて、例の手馴らしたまへるを
ぞ調べて奉りたまふ。
(源氏)「箏の御琴は、ゆるぶとなけれど、なほかく物に合は
するをりの調べにつけて、琴柱の立処乱るるものなり。よく
その心しらひととのふべきを、女はえ張りしづめじ。なほ、
大将をこそ召し寄せつべかめれ。この雷吹ども、まだいと幼
げにて拍子ととのへむ頼み強からず」と笑ひたまひて、(源氏)
大将、こなたに」と召せば、御方々恥づかしく、心づかひ
しておはす。明石の君をはなちては、いづれもみな棄てがた
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き御弟子どもなれば、御心加へて、大将の聞きたまはむに、
難なかるべくと思す。女御は、常に上の聞こしめすにも、物
に合はせつつ弾き馴らしたまへれぱうしろやすきを、和琴こ
そ、いくばくならぬ調べなれど、跡定まりたることなくて、
なかなか女のたどりぬべけれ、春の琴の音は、みな掻き合は
するものなるを、乱るるところもやとなまいとほしく思す。
大将、いといたく心げさうして、御前のことごとしくうる
はしき御試みあらむよりも、今日の心づかひはことにまさり
ておぼえたまへば、あざやかなろ御直衣、香にしみたる御衣
ども、袖いたくたきしめて、ひきつくろひて参りたまふほど
暮れはてにけり。ゆゑある黄昏時の空に、花は、去年の古雪
思ひ出でられて、枝もたわむばかり咲き乱れたり。ゆるるか
にうち吹く風に、えならず匂ひたる御簾の内の薫りも吹きあ
はせて、鶯さそふつまにしつべく、いみじき殿のあたりのに
ほひなり。御簾の下より、箏の御琴の思すこしさし出でて、
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(源氏)「軽々しきやうなれど、これが緒ととのへて調
まへ。ここにまた疎き人の入るべきやうもなきを」とのたま
へば、うちかしこまりて賜りたまふほど、用意多くめやすく
て、壱越調の声に発の緒を立てて、ふとも調べやらでさぶら
ひたまへば、(源氏)「なほ掻き合はせばかりは、手一つ、すさ
まじからでこそ」とのたまへぱ、(タ霧)「さらに、今日の御遊
びのさしいらへにまじらふばかりの手づかひなむおぼえずは
べりける」と気色ばみたまふ。(源氏)「さもあることなれど、
女楽にえ言まぜでなむ逃げにけると伝はらむ名こそ惜しけ
れ」とて笑ひたまふ。調べはてて、をかしきほどに掻き合は
せばかり弾きてまゐらせたまひつ。この御孫の君たちの、い
とうつくしき宿直姿どもにて、吹き合はせたる物の音ども、
まだ若けれど、生ひ先ありていみじくをかしげなり。
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御琴どもの調べどもととのひはてて、掻き
合はせたまへるほど、いづれとなき中に、
琵琶はすぐれて上手めき、神さびたる手づ
かひ、澄みはてておもしろく聞こゆ。和琴に、大将も耳とど
めたまへるに、なつかしく愛敬づきたる御爪音に、掻き返し
たる音のめづらしくいまめきて、さらに、このわざとある上
手どもの、おどろおどろしく掻きたてたる調べ調子に劣らず
にぎははしく、大和琴にもかかる手ありけりと聞き驚かる。
深き御労のほど、あらはに聞こえておもしろきに、大殿御心
落ちゐて、いとあつがたく思ひきこえたまふ。箏の御琴は、
物の隙々に、心もとなく漏り出づる物の音がらにて、うつく
しげになまめかしくのみ聞こゆ。琴は、なほ若き方なれど、
習ひたまふ盛りなれば、たどたどしからず、いとよく物に響
きあひて、優になりにける御琴の音かなと大将聞きたまふ。
拍子とりて唱歌したまふ。院も、時々扇うち嶋らして加へた
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まふ御声、昔よりもいみじくおもしろく、すこしふつつかに
ものものしき気添ひて聞こゆ。大将も、声いとすぐれたまへ
る人にて、夜の静かになりゆくままに、言ふ限りなくなつか
しき夜の御遊ぴなり。
月、心もとなきころなれば、灯籠こなたか
なたにかけて、灯よきほどにともさせたま
へり。宮の御方をのぞきたまへば、人よ
りけに小さくうつくしげにて、ただ御衣のみある心地す。に
ほひやかなる方は後れて、ただいとあてやかにをかしく、二
月の中の十日ばかりの青柳の、
わづかにしだりはじめたらむ心
地して、鶯の羽風にも乱れぬべ
くあえかに見えたまふ。桜の細
長に、御髪は左右よりこぼれか
かりて、柳の糸のさましたり。
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これこそは、限りなき人の御ありさまなめれと見ゆるに、
女御の君は、同じやうなる御なまめき姿のいましにほひ
加はりて、もてなしけはひ心にくく、よしあるさましたまひ
て、よく咲きこぼれたる藤の花の、夏にかかりてかたはらに
並ぶ花なき朝ぼらけの心地ぞしたまへる。さるは、いとふく
らかなるほどになりたまひて、なやましくおぼえたまひけれ
ば、御琴も押しやりて、脇息におしかかりたまへり。ささや
かになよびかかりたまへるに、御脇息は例のほどなれば、お
よびたる心地して、ことさらに小さく作らばやと見ゆるぞい
とあはれげにおはしける。紅梅の御衣に、御髪のかかりはら
はらときよらにて、灯影の御姿世になくうつくしげなるに、
紫の上は、葡萄染にやあらむ、色濃き小袿、薄蘇芳の細長に
御髪のたまれるほど、こちたゆるるかに、大きさなどよき
ほどに様体あらまほしく、あたりににほひ満ちたる心地して、
花といはば桜にたとへても、なほ物よりすぐれたるけはひこ
P193
とにものしたまふ。
かかる御あたりに、明石は気おさるべきを、いとさしもあ
らず、もてなしなど気色ばみ恥づかしく、心の底ゆかしきさ
まして、そこはかとなくあてになまめかしく見ゆ。柳の織物
の細長、萌黄にやあらむ、小袿着て、羅の裳のはかなげなる
ひきかけて、ことさら卑下したれど、けはひ、思ひなし、心
にくく悔らはしからず。高麗の青地の錦の端さしたる褥に、
まほにもゐで、琵琶をうち置きて、ただけしきばかり弾きか
けて、たをやかにつかひなしたる霞のもてなし、音を聞くよ
りも、またありがたくなつかしくて、五月まつ花橘、花も実
も具して拝し折れるかをりおぼゆ。
これもかれも、うちとけぬ御けはひどもを聞き見たまふに、
大将も、いと内ゆかしくおぼえたまふ。対の上の、見しをり
よりも、ねびまさりたまへらむありさまゆかしきに、静心も
なし。宮をば、いますこしの宿世及ばましかば、わがものに
P194
ても見たてまつりてまし、心のいとぬるきぞ侮しきや。院は
たびたびさやうにおもむけて、後言にものたまはせけるを、
とねたく思へど、すこし心やすき方に見えたまふ御けはひに、
侮りきこゆとはなけれど、いとしも心は動かざりけり。この
御方をば、何ごとも思ひ及ぶべき方なく、け遠くて年ごろ過
ぎぬれば、いかでか、ただ、おほかたに、心寄せあるさまを
も見えたてまつらんとばかりの、口惜しく嘆かしきなりけり。
あながちに、あるまじくおほけなき心などはさらにものした
まはず、いとよくもてをさめたまへり、、
夜更けゆくけはひ冷やかなり。臥待の月は
つかにさし出でたる、(源氏)「心もとなしや、
春の朧月夜よ。秋のあはれ、はた、かうや
うなる物の音に、虫の声よりあはせたろ、ただならず、こよ
なく響きそふ心地すかし」とのたまへば、大将の君、「秋の
夜の隈なき月には、よろづのものとどこほりなきに、琴笛の
P195
音も明らかに、澄める心地はしはべれど、なほことさらにつ
くりあはせたるやうなる空のけしき、花の露もいろいろ目移
ろひ心散りて、限りこそはべれ。春の空のたどたどしき霞の
間より、朧なる月影に、静かに吹き合はせたろやうには、い
かでか。笛の音なども、艶に澄みのぼりはてずなむ。女は春
をあはれぶと古き人の言ひおきはべりける、げにさなむはべ
りける。なつかしくもののととのほることは、春の夕暮こそ
ことにはべりけれ」と申したまへば、(源氏)「いな、この定め
よ。いにしへより人の分きかねたることを、末の世に下れる
人つえ明らめはつまじくこそ。物の調べ、曲のものどもはし
も、げに律をば次のものにしたるは、さもありかし」などの
たまひて、(源氏)「いかに。ただ今、有職のおぼえ高きその人
かの人、御前などにて、たびたび試みさせたまふに、すぐれ
たるは数少なくなりためるを、その兄と思へる上手どもいく
ばくえまねびとらぬにやあらむ。このかくほのかなる女たち
P196
の御中に弾きまぜたらむに、際離るべくこそおぼえね。年ご
ろかく埋れて過ぐすに、耳などもすこしひがひがしくなりに
たるにやあらむ、口惜しうなむ。あやしく、人の才、はかな
くとりすることども、もののはえありてまさるところなる。
その御前の御遊びなどに、ひときざみに選ばるる人々、それ
かれといかにぞ」とのたまへば、大将、「それをなむとり申
さむと思ひはべりつれど、明らかならぬ心のままにおよすけ
てやはと思ひたまふる。上りての世を聞きあはせはべらねば
にや、衛門督の和琴、兵部卿宮の御琵琶などをこそ、このご
ろめづらかなる例にひき出ではべめれ。げにかたはらなきを、
今宵うけたまはる物の音どもの、みな等しく耳驚きはべるは。
なほかくわざともあらね御遊びと、かねて思うたまへたゆみ
ける心の騒ぐにやはべらむ、唱歌などいと仕うまつリにくく
なむ。和琴は、かの大臣ばかリこそ、かく、をりにつけてこ
しらへなびかしたる音など、心にまかせて掻きたてたまへる
P197
は、いとことにものしたまへ、をさをさ際離れぬものにはべ
めるを、いとかしこくととのひてこそはべりつれ」と、めで
きこえたまふ。(源氏)「いと、さ、ことごとしき際にはあらぬ
を、わざとうるはしくもとりなさるるかな」とて、したり顔
にほほ笑みたまふ。
(源氏)「げに、けしうはあらぬ弟子どもなりかし。琵琶はし
も、ここに口入るべきことまじらぬを、さ言へど、物のけは
ひことなるべし。おぼえぬ所にて聞きはじめたりしに、めづ
らしき物の声かなとなむおぼえしかど、そのをりよりはまた
こよなくまさりにたるをや」と、せめてわれ賢にかこちなし
たまへば、女房などはすこしつきしろふ、
(源氏)「よろづのこと、道々につけて習ひまねばば、才とい
ふもの、いづれも界なくおぼえつつ、わが心地に飽くべき限
りなく習ひとらんことはいと難けれど、何かは、そのたどり
深き人の、今の世にをさをさなければ、片はしをなだらかに
P198
まねび得たらむ人、さる片かどに心をやりてもありぬべきを、
琴なむなほわづらはしく、手触れにくきものはありける。こ
の琴は、まことに跡のままに尋ねとりたる昔の人は、天地を
なびかし、鬼神の心をやはらげ、よろづの物の音のうちに従
ひて、悲しび深き者も、よろこびに変リ、賤しく貧しき者も、
高き世にあらたまり、宝にあづかり、世にゆるさるるたぐひ
多かりけり。この国に弾き伝ふるはじめつ方まで、深くこの
ことを心得たる人は、多くの年を知らぬ国に過ぐし、身をな
きになして、この琴をまねびとらむとまどひてだに、し得る
は難くなむありける。げに、はた明らかに空の月星を動かし、
時ならぬ霜雪を降らせ、雲雷を騒がしたる例、上がりたる
世にはありけり。かく限りなきものにて、そのままに習ひと
る人のありがたく、世の末なればにや、いづこのその昔の片
はしにかはあらむ。されど、なほ、かの鬼神の耳とどめ、か
たぶきそめにけるものなればにや、なまなまにまねびて、思
P199
ひかなはぬたぐひありける後、これを弾く人よからずとかい
ふ難をつけて、うるさきままに、今は、をさをさ伝ふる人な
しとか。いと口借しきことにこそあれ。琴の音を離れては、
何ごとをか物をととのへ知るしるべとはせむ。げに、よろづ
のこと、衰ふるさまはやすくなりゆく世の中に、独り出で離
れて、心を立てて、唐土、高麗と、この世にまどひ歩き、親
子を離れむことは、世の中にひがめる者になりぬべし。など
か、なのめにて、なほこの道を通はし知るばかりの端をば、
知りおかざらむ。調べひとつに手を弾き尽くさむことだに、
量りもなき物ななり、いはんや、多くの調べ、わづらはしき
曲多かるを、心に入りし盛りには、世にありとあリ、ここに
伝はりたる譜といふものの限りをあまねく見あはせて、後々
は師とすべき人もなくてなむ、好み習ひしかど、なほ上がり
ての人には、当たるべくもあらじをや。まして、この後とい
ひては、伝はるべき末もなき、いとあはれになむ」などのた
P200
まへば、大将、げにいと
口惜しく恥づかしと思す。
(源氏)「この皇子たちの
御中に、思ふやうに生ひ
出でたまふものしたまは
ば、その世になむ、そも
さまでながらへとまるやうあらば、いくばくならぬ手の限り
もとどめたてまつるべき。二の宮、今より気色ありて見えた
まふを」などのたまへば、明石の君は、いと面だたしく、涙
ぐみて聞きゐたまへり。
女御の君は、箏の御琴をば、上に譲りきこ
えて、寄り臥したまひぬれば、あづまを大
殿の御前にまゐりて、け近き御遊びになり
ぬ。葛城遊びたまふ、はなやかにおもしろし。大殿、折り返
しうたひたまふ御声たとへむ方なく愛敬づきめでたし。月や
P201
うやうさし上がるままに、花の色香ももてはやされて、げに
いと心にくきほどなり。
箏の琴は、女御の御爪音は、いとらうたげになつかしく、
母君の御けはひ加はりて、揺の音深く、いみじく澄みて聞こ
えつるを、この御手づかひは、また、さま変りて、ゆるるか
におもしろく、聞く人ただならず、すずろはしきまで愛敬づ
き、輪の手など、すべて、さらに、いとかどある御琴の音な
り。返り声に、みな調べ変りて、律の掻き合はせども、なつ
かしくいまめきたるに、琴は、五箇の調べ、あまたの手の中
に、心とどめてかならず弾きたまふべき五六の撥を、いとお
もしろくすまして弾きたまふ、さらにかたほならず、いとよ
く澄みて聞こゆ。春秋よろづの物に通へる調べにて、通はし
わたしつつ弾きたまふ心しらひ、教へきこえたまふさま違へ
ず、いとよくわきまへたまへるを、いとうつくしく面だたし
く思ひきこえたまふ。
P202
この君たちのいとうつくしく吹きたてて、
切に心入れたるを、らうたがりたまひて、
(源氏)「ねぶたくなりにたらむに。今宵の遊
びは長くはあらで、はつかなるほどにと思ひつるを、とどめ
がたき物の音どもの、いづれともなきを、聞きわくほどの耳
とからぬたどたどしさに、いたく更けにけり。心なきわざな
りや」とて、笙の笛吹く君に、土器さしたまひて、御衣脱ぎ
てかづけたまふ。横笛の君には、こなたより、織物の細長に、
袴などことごとしからぬさまに、けしきばかりにて、大将の
君には、宮の御方より盃さし出でて、宮の御装束一領かづけ
たてまつりたまふを、大殿、「あやしや。物の師をこそまづ
はものめかしたまはめ。愁はしきことなり」とのたまふに、
宮のおはします御几帳のそばより御笛を奉る。うち笑ひたま
ひてとりたまふ。いみじき高麗笛なり。すこし吹き鳴らした
まへば、みな立ち出でたまふほどに、大将立ちとまりたまひ
P203
て、御子の持ちたまへる笛をとりて、いみじくおもしろく吹
きたてたまへるが、いとめでたく聞こゆれば、いづれもいづ
れも、みな、御手を離れぬものの伝へ伝へ、いと二なくのみ
あるにてぞ、わが御才のほどありがたく思し知られける。
大将殿は、君たちを御車に乗せて、月の澄めるにまかでた
まふ。道すがら、箏の琴の変りていみじかりつるぎも耳につ
きて、恋しくおぼえたまふ。わが北の方は、故大宮の教へき
こえたまひしかど、心にもしめたまはざりしほどに別れたて
まつりたまひにしかば、ゆるるかにも弾きとりたまはで、男
君の御前にては、恥ぢてさらに弾きたまはず、何ごともただ
おいらかにうちおほどきたるさまして、子どもあつかひを暇
なく次々したまへば、をかしきところもなくおぼゆ。さすが
に、腹あしくてものねたみうちしたる、愛敬づきてうつくし
き人ざまにぞものしたまふめる。
P204
院は、対へ渡りたまひぬ。上は、とまりた
まひて、宮に御物語など聞こえたまひて、
暁にぞ渡りたまへる。日高うなるまで大殿
籠れり。(源氏)「宮の御琴の音は、いとうるさくなりにけりな。
いかが聞きたまひし」と聞こえたまへば、(紫の上)「はじめつ方、
あなたにてほの聞きしはいかにぞやありしを、いとこよなく
なりにけり。いかでかは、かく紅事なく教へきこえたまはむ
には」と答へきこえたまふ。(源氏)「さかし。手を取る取る、
おぼつかなからぬ物の師なりかし。これかれにも、うるさく
わづらはしくて暇いるわざなれば、教へたてまつらぬを、院
にも内裏にも、琴はさりとも習はしきこゆらんとのたまふと
聞くがいとほしく、さりともさばかりのことをだに、かくと
りわきて御終見にと預けたまへるしるしにはと思ひ起こして
なむ」など聞こえたまふついでにも、(源氏)「昔、世づかぬほ
どをあつかひ思ひしさま、その世には暇もありがたくて、心
P205
のどかにとりわき教へきこゆることなどもなく、近き世にも、
何となく次々紛れつつ過ぐして、聞きあつかはぬ御琴の音の
出でばえしたりしも面目ありて、大将のいたくかたぶき驚き
たりし気色も、思ふやうにうれしくこそありしか」など聞こ
えたまふ。
かやうの筋も、今は、また、おとなおとなしく、宮たちの
御あつかひなどとりもちてしたまふさまも、至らぬことなく、
すべて何ごとにっけても、もどかしくたどたどしきことまじ
らず、ありがたき人の御ありさまなれば、いとかく具しぬる
人は世に久しからぬ例もあなるをと、ゆゆしきまで思ひきこ
えたまふ。さまざまなる人のありさまを見集めたまふままに、
とりあつめ足らひたることは、まことにたぐひあらじとのみ
思ひきこえたまへり。今年は三十七にぞなりたまふ。
見たてまつりたまひし年月のことなども、あはれに思し出
でたるついでに、(源氏)「さるべき御祈祷など、常よりもどり
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わきて、今年はつつしみたまへ。もの騒がしくのみありて、
思ひいたらぬこともあらむを、なほ思しめぐらして、大きな
ることどももしたまはば、おのづからせさせてむ。故僧都の
ものしたまはずなりにたるこそ、いと口惜しけれ。おほかた
にてうち頼まむにも、いとかしこかりし人を」などのたまひ
出づ。(源氏)「みづからは、幼くより、人に異なるさまにて、
ことごとしく生ひ出でて、今の世のおぼえありさま、来し方
にたぐひ少なくなむありける。されど、また、世にすぐれて
悲しき目を見る方も、人にはまさりけりかし。まづは、思ふ
人にさまざま後れ、残りとまれる齢の末にも、飽かず悲しと
思ふこと多く、あぢきなくさるまじきことにつけても、あや
しくもの思はしく、心に飽かずおぼゆること添ひたる身にて
過ぎぬれば、それにかへてや、思ひしほどよりは、今までも、
ながらふるならむとなむ思ひ知らるる。君の御身には、かの
一ふしの別れより、あなたこなた、もの思ひとて心乱りたま
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ふばかりのことあらじとなん思ふ。后といひ、ましてそれよ
り次々は、やむごとなき人といへど、みなかならずやすから
ぬもの思ひ添ふわざなり。高きまじらひにつけても心乱れ、
人に争ふ思ひの絶えぬもやすげなきを、親の窓の内ながら過
ぐしたまへるやうなる心やすきことはなし。その方は、人に
すぐれたりける宿世とは思し知るや。思ひの外に、この宮の
かく渡りものしたまへるこそは、なま苦しかるべけれど、そ
れにつけては、いとど加ふる心ざしのほどを、御みづからの
上なれば、思し知らずやあらむ。ものの心も深く知りたまふ
めれば、さりともとなむ思ふ」と聞こえたまへば、(紫の上)「の
たまふやうに、ものはかなき身には過ぎにたるよそのおぼえ
はあらめど、心にたへぬもの嘆かしさのみうち添ふや、さは
みづからの祈りなりける」とて、残り多げなるけはひ恥づか
しげなり。
(紫の上)「まめやかには、いと行く先少なき心地するを、今年
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もかく知らず顔にて過ぐすは、いとうしろめたくこそ。さき
ざきも聞こゆること、いかで御ゆるしあらば」と聞こえたま
ふ。(源氏)「それはしも、あるまじきことになむ。さてかけ離
れたまひなむ世に残りては、何のかひかあらむ。ただかく何
となくて過ぐる年月なれど、明け暮れの隔てなきうれしさの
みこそ、ますことなくおぼゆれ。なほ思ふさまことなる心の
ほどを見はてたまへ」とのみ聞こえたまふを、例のことと心
やましくて、涙ぐみたまへる気色を、いとあはれと見たてま
つりたまひて、よろづに聞こえ紛らはしたまふ。
(源氏)「多くはあらねど、人のありさまの、
とりどりに口惜しくはあらねを見知りゆく
ままに、まことの心ばせおいらかに落ちゐ
たるこそ、いと難きわざなりけれとなむ思ひはてにたる。
大将の母君を、幼かりしほどに見そめて、やむごとなくえ
避らぬ筋には思ひしを、常に仲よからず、隔てある心地して
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やみにしこそ、今思へばいとほしく悔しくもあれ、また、わ
が過ちにのみもあらざりけりなど、心ひとつになむ思ひ出づ
る。うるはしく重りかにて、そのことの飽かぬかなとおぼゆ
ることもなかりき。ただ、いとあまり乱れたるところなく、
すくすくしく、すこしさかしとやいふべかりけむと思ふには
頼もしく、見るにはわづらはしかりし人ざまになむ。
中宮の御母御息所なむ、さまことに心深くなまめかしき例
にはまづ思ひ出でらるれど、人見えにくく、苦しかりしさま
になむありし。恨むべきふしぞ、げにことわりとおぼゆるふ
しを、やがて長く思ひつめて深く怨ぜられしこそ、いと苦し
かりしか。心ゆるびなく恥づかしくて、我も人もうちたゆみ、
朝夕の睦びをかはさむには、いとつつましきところのありし
かば、うちとけては見おとさるることやなど、あまりつくろ
ひしほどに、やがて隔たりし仲ぞかし。いとあるまじき名を
立ちて、身のあはあはしくなりぬる嘆きを、いみじく思ひし
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めたまへりしがいとほしく、げに、人柄を思ひしも、我罪あ
る心地してやみにし慰めに、中宮を、かく、さるべき御契り
とはいひながら、とりたてて、世の譏り、人の恨みをも知ら
ず心寄せたてまつるを、かの世ながらも見なほされぬらん。
今も昔も、なほざりなる心のすさびに、いとほしく侮しきこ
とも多くなむ」と、来し方の人の御上、すこしづつのたまひ
出でて、(源氏)「内裏の御方の御後見は、何ばかりのほどなら
ずと侮りそめて、心やすきものに思ひしを、なほ心の底見え
ず、際なく深きところある人になん。うはべは人になびき、
おいらかに見えながら、うちとけぬ気色下に籠りて、そこは
かとなく恥づかしきところこそあれ」とのたまへば、(紫の上)
「他人は見ねば知らぬを、これは、まほならねど、おのづか
ら気色見るをりをりもあるに、いとうちとけにくく、心恥づ
かしきありさましるきを、いとたとしへなき裏なさを、いか
に見たなふらんとつつましけれど、女御はおのづから思しゆ
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るすらむとのみ思ひてなん」とのたまふ。
さばかり、めざましと心おきたまへりし人を、今は、かく
ゆるして見えかはしなどしたまふも、女御の御ための真心な
るあまりぞかしと思すに、いとありがたければ、(源氏)「君こ
そは、さすがに隈なきにはあらぬものから、人により事にし
たがひ、いとよく二筋に心づかひはしたまひけれ。さらに、
ここら見れど、御ありさまに以たる人はなかりけり。いと気
色こそものしたまへ」とほほ笑みて聞こえたまふ。
(源氏)「宮に、いとよく弾きとりたまへりしことのよろこび
聞こえむ」とて、夕つ方渡りたまひぬ。
我に心おく人やあらん、とも思したらず、いといたく若び
て、ひとへに御琴に心入れておはす。(源氏)「今は、暇ゆるし
てうち休ませたまへかし。物の師は心ゆかせてこそ。いと苦
上かりつる日ごろのしるしありて、うしろやすくなりたまひ
にけり」とて、御琴ども押しやりて大殿籠りぬ。
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対には、例のおはしまさぬ夜は、宵居した
まひて、人々に物語など読ませて聞きたま
ふ。かく、世のたとひに言ひ集めたる昔
語どもにも、あだなる男、色好み、二心ある人にかかづらひ
たる女、かやうなることを言ひ集めたるにも、つひによる方
ありてこそあめれ、あやしく浮きても過ぐしつるありさまか
な、げに、のたまひつるやうに、人よりことなる宿世もあり
ける身ながら、人の忍びがたく飽かぬことにするもの思ひ離
れぬ身にてややみなむとすらん、あぢきなくもあるかな、な
ど思ひつづけて、夜更けて大殿籠りぬる暁方より、御胸をな
やみたまふ。人々見たてまつりあつかひて、「御消息聞こえ
させむ」と聞こゆるを、(紫の上)「いと便ないこと」と制したま
ひて、たへがたきをおさへて明かしたまひつ。御身もぬるみ
て、御心地もいとあしけれど、院もとみに渡りたまはぬほど、
かくなむとも聞こえず。
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女御の御方より御消息あるに、「かくなやましくてなむ」
と聞こえたまへるに、驚きてそなたより聞こえたまへるに、
胸つぶれて急ぎ渡りたまへるに、いと苦しげにておはす。
(源氏)「いかなる御心地ぞ」とて探りたてまつりたまへば、い
と熱くおはすれば、咋日聞こえたまひし御つつしみの筋など
思しあはせたまひて、いと恐ろしく思さる。御粥などこなた
にまゐらせたれど御覧じも入れず、日一日添ひおはして、よ
ろづに見たてまつり嘆きたまふ。はかなき御くだものをだに、
いとものうくしたまひて、起き上がりたまふこと絶えて、一日
ごろ経ぬ。いかならむと思し騒ぎて、御祈祷ども数知らずは
じめさせたまふ。僧召して、御加持などせさせたまふ。そこ
所ともなくいみじく苦しくしたまひて、胸は時々おこりつつ
わづらひたまふさま、たへがたく苦しげなり。さまざまの御
つつしみ限りなけれど、験も見えず。重しと見れど、おのづ
からおこたるけぢめあるは頼もしきを、いみじく心細く悲し
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と見たてまつりたまふに、他事思されねば、御賀の響きもし
づまりぬ。かの院よりも、かくわづらひたまふよし聞こしめ
して、御とぶらひいとねむごろにたびたび聞こえたまふ。
同じさまにて、二月も過ぎぬ。言ふ限りなく思し嘆きて、
こころみに所を変へたまはむとて、二条院に渡したてまつり
たまひつ。院の内ゆすり満ちて、思ひ嘆く人多かり。冷泉院
も聞こしめし嘆く。この人亡せたまはば、院もかならず世を
背く御本意遂げたまひてむと、大将の君なども、心を尽くし
て見たてまつりあつかひたまふ。御修法などは、おほかたの
をばさるものにて、とりわきて仕うまつらせたまふ。いぎさ
かもの思し分く隙には、(紫の上)「聞こゆることを、さも心う
く」とのみ恨みきこえたまへど、限りありて別れはてたまは
むよりも、目の前にわが心とやつし葉てたまはむ御ありさま
を見ては、さらに片時たふまじくのみ、惜しく悲しかるべけ
れば、(源氏)「昔より、みづからぞかかる本意深きを、とまり
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てさうざうしく思されん心苦しさにひかれつつ過ぐすを、さ
かさまにうち棄てたまはむとや思す」とのみ、惜しみきこえ
たまふに、げにいと頼みがたげに弱りつつ、限リのさまに見
えたまふをりをり多かるを、いかさまにせむと思しまどひつ
つ、宮の御方にも、あからさまに渡りたまはず。御琴どむも
すさまじくて、みな引き籠められ、院の内の人々は、みなあ
る限り二条院に集ひ参りて、この院には、火を消ちたるやう
にて、ただ、女どちおはして、人ひとりの御けはひなりけり
と見ゆ。
女御の君も渡りたまひて、もろともに見たてまつりあつか
ひたまふ。(紫の上)「ただにもおはしまさで、物の怪などいと恐
ろしきを、早く参りたまひね」と、苦しき御心地にも聞こえ
たまふ。若宮のいとうつくしうておはしますを見たてまつり
たまひても、いみじく泣きたまひて、(紫の上)「おとなびたまは
むを、え見たてまつらずなむなむこと。忘れたまひなむか
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し」とのたまへば、女御、せきあへず悲しと思したり。(源氏)
「ゆゆしく。かくな思しそ。さりとも、けしうはものしたま
はじ。心によりなむ、人はともかくもある。おきて広き器も
のには、幸ひもそれに従ひ、狭き心ある人は、さるべきにて、
高き身となりても、ゆたかにゆるべる方は後れ、急なる人は
久しく常ならず、心ぬるくなだらかなる人は、長き例なむ多
かりける」など、仏神にもこの御心ばせのありがたく罪軽き
さまを申しあきらめさせたまふ。
御修法の阿闍梨たち、夜居などにても、近くさぶらふ限り
のやむごとなき僧などは、いとかく思しまどヘる御けはひを
聞くに、いといみじく心苦しければ、心を起こして祈りきこ
ゆ。すこしよろしきさまに見えたまふ時、五六日うちまぜつ
つ、また重りわづらひたまふこと、いつとなくて月日を経た
まふは、なほ、いかにおはすべきにか、よかるまじき御心地
にやと思し嘆く。御物の怪など言ひて出で来るもなし。なや
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みたまふさま、そこはかと見えず、ただ日にそへて弱りたま
ふさまにのみ見ゆれば、いともいとも悲しくいみじく思すに、
御心の暇もなげなり。
まことや、衛門督は中納言になりにきかし。
今の御世にはいと親しく思されて、いと時
の人なり。身のおぼえまさるにつけても、
思ふことのかなはぬ愁はしさを思ひわびて、二の宮の御姉の
二の宮をなむ得たてまつりてける。下臈の更衣腹におはしま
しければ、心やすき方まじりて思ひきこえたまへり。人柄も、
なべての人に思ひなずらふれば、けはひこよなくおはすれど、
もとよりしみにし方こそなほ深かりけれ、慰めがたき姨捨に
て、人目に咎めらるまじきばかりにもてなしきこえたまべり。
なほ、かの下の心忘られず、小侍従といふかたらひ人は、
宮の御侍従の乳母のむすめなりけり、その乳母の姉ぞ、かの
督の君の御乳母なりければ、早くよりけ近く聞きたてまつり
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て、まだ宮幼くおはしましし時より、いときよらになむおは
します、帝のかしづきたてまつりたまふさまなど、聞きおき
たてまつりて、かかる思ひもつきそめたるなりけり。
かくて、院も離れおはしますほど、人目少なくしめやかな
らむを推しはかりて、小侍従を迎へとりつつ、いみじう語ら
ふ。(柏木)「昔より、かく命もたふまじく思ふことを、かかる
親しきよすがありて、御ありさまを聞き伝へ、たへぬ心のほ
どをも聞こしめさせて頼もしきに、さらにそのしるしのなけ
れば、いみじくなむつらき。院の上だに、かくあまたにかけ
かけしくて、人に圧されたまふやうにて、独り大殿籠る夜な
夜な多く、つれづれにて過ぐしたまふなりなど、人の奏しけ
るついでにも、すこし悔い思したる御気色にて、同じくは、
ただ人の心やすき後見を定めむには、まめやかに仕うまつる
べき人をこそ定むべかりけれ、とのたまはせて、女二の宮の
なかなかうしろやすく、行く末長きさまにてものしたまふな
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ること、とのたまはせけるを伝へ聞きしに、いとほしくも口
惜しくも、いかが思ひ乱るる。げに、同じ御筋とは尋ねきこ
えしかど、それはそれとこそおぼゆるわざなりけれ」とうち
うめきたまへば、小侍従、「いで、あなおほけな。それをそ
れとさしおきたてまつりたまひて、また、いかやうに限りな
き御心ならむ」と言へば、うちほほ笑みて、(柏木)「さこそは
ありけれ。宮にかたじけなく聞こえさせ及びけるさまは、院
にも内裏にも聞こしめしけり。などてかは、さてもさぶらは
ざらまし、となむ事のついでにはのたまはせける。いでや、
ただ、いますこしの御いたはりあらましかば」など言へば、
(小侍従)「いと難き御事なりや。御宿世とかいふことはべなるを
本にて、かの院の言に出でてねむごろに聞こえたまはんに、
立ち並び妨げきこえさせたまふべき御身のおぼえとや思され
し。このごろこそ、すこしものものしく、御衣の色も深くな
りたまへれ」と言へば、言ふかひなくはやりかなる口ごはさ
P220
に、え言ひはてたまはで、(柏木)「今はよし。過ぎにし方をば
聞こえじや。ただ、かくありがたきものの隙に、け近きほど
にて、この心の中に思ふことのはしすこし聞こえさせつべく
たばかりたまへ。おほけなき心は、すべて、よし見たまへ、
いと恐ろしければ、思ひ離れてはべり」とのたまへば、(小侍従)
「これよりおほけなき心は、いかがはあらむ。いとむくつけ
きことをも思しよりけるかな。なにしに参りつらん」とはち
ぶく。
(柏木)「いで、あな聞きにく。あまりこちたくものをこそ言
ひなしたまふべけれ。世はいと定めなきものを、女御、后も
あるやうありてものしたまふたぐひなくやは。まして、その
御ありさまよ、思へばいとたぐひなくめでたけれど、内々は
心やましきことも多かるらむ。院の、あまたの御中に、また
並びなきやうにならはしきこえたまひしに、さしも等しから
ぬ際の御方々にたちまじり、めざましげなることもありぬべ
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くこそ。いとよく聞きはべりや。世の中はいと常なきものを、
一際に思ひ定めて、はしたなくつききりなることなのたまひ
そよ」とのたまへば、(小侍従)「人におとされたまへる御ありさ
まとて、めでたき方に改めたまふべきにやははべらむ。これ
は世の常の御ありさまにもはべらざめり。ただ、御後見なく
てただよはしくおはしまさむよりは、親ざまにと譲りきこえ
たまへしかば、かたみに、さこそ思ひかはしきこえさせたま
ひためれ。あいなき御おとしめ言になん」とはてはては腹立
つを、よろづに言ひこしらへて、(柏木)「まことは、さばかり
世になき御ありさまを見たてまつり馴れたまへる御心に、数
にもあらずあやしきなれ姿を、うちとけて御覧ぜられむとは、
さらに思ひかけぬことなり。ただ、一言、物越しにて聞こえ
知らすばかりは、何ばかりの御身のやつれにかはあらん。神
仏にも思ふこと申すは、罪あるわざかは」といみじき誓言を
しつつのたまへば、しばしこそ、いとあるまじきことに言ひ
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返しけれ、もの深からぬ若人は、人のかく身にかへていみじ
く思ひのたまふを、えいなびはてで、(小侍従)「もし、さりぬべ
き隙あらばたばかりはべらむ。院のおはしまさぬ夜は、御帳
のめぐりに人多くさぶらひて、御座のほとりに、さるべき人
かならずさぶらひたまへば、いかなるをりをかは、隙を見つ
けはべるべからん」とわびつつ参りぬ。
いかにいかにと目々に責められ困じて、さ
るべきをりうかがひつけて、消息しおこせ
たり。喜びながら、いみじくやつれ忍びて
おはしぬ。まことに、わが心にもいとけしからぬことなれば、
け近く、なかなか思ひ乱るることもまさるベきことまでは思
ひもよらず、ただ、いとほのかに、陶衣のつまばかりを見た
てまつりし春の夕の飽かず世とともに思ひ出でられたまふ御
ありさまをすこしけ近くて見たてまつり、思ふことをも聞こ
え知らせてば、一行の御返りなどもや見せたまふ、あはれと
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や思し知るとぞ思ひける。
四月十余日ばかりのことなり、御禊、明日とて、斎院に奉
りたまふ女房十二人、ことに上臈にはあらぬ若き人童べなど、
おのがじし物縫ひ化粧などしつつ、物見むと思ひまうくるも、
とりどりに暇なげにて、御前の方しめやかにて、人しげから
ぬをりなりけり。近くさぶらふ按察の君も、時々通ふ源中将
せめて呼び出ださせければ、下りたる間に、ただ、この侍従
ばかり近くはさぶらふなりけり。よきをりと思ひて、やをら
御帳の東面の御座の端に据ゑつ。さまでもあるべきことな
りやは。
宮は、何心もなく大殿籠
りにけるを、近く男のけは
ひのすれば、院のおはする
と思したるに、うちかしこ
まりたる気色見せて、床の
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下に抱きおろしたてまつるに、物におそはるるかとせめて見
開けたまへれば、あらぬ人なりけり。あやしく聞きも知らぬ
ことどもをぞ聞こゆるや。あさましくむくつけくなりて、人
召せど、近くもさぶらはねば、聞きつけて参るもなし。わな
なきたまふさま、水のやうに汗も流れて、ものもおぼえたま
はぬ気色、いとあはれにらうたげなり。(柏木)「数ならねど、
いとかうしも思しめさるべき身とは、思うたまへられずなむ。
昔よりかほけなき心のはべりしを、ひたぶろに籠めてやみは
べりなましかば、心の中に朽して過ぎぬべかりけるを、なか
なか漏らし聞こえさせて、院にも聞こしめされにしを、こよ
なくもて離れてものたまはせざリけるに、頼みをかけそめは
べりて、身の数ならぬ一際に、人より深き心ざしをむなしく
なしはべりぬることと動かしはべりにし心なむ、よろづ今は
かひなきことと思うたまへ返せど、いかばかりしみはべりに
けるにか、年月にそへて、口惜しくも、つらくも、むくつけ
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くも、あはれにも、いろいろに深く思うたまへまさるにせき
かねて、かくおほけなきさまを御覧ぜられぬるも、かつはい
と思ひやりなく恥づかしければ、罪重き心もさらにはべるま
じ」と言ひもてゆくに、この人なりけりと思すに、いとめざ
ましく恐ろしくて、つゆ答へもしたまはず。(柏木)「いとこと
わりなれど、世に例なきことにもはべらぬを、めづらかに情
なき御心ばへならば、いと心憂くて、なかなかひたぶるなる
心もこそつきはべれ。あはれとだにのたまはせば、それをう
けたまはりで、まかでなむ」とよろづに聞こえたまふ。
よその思ひやりはいつくしく、もの馴れて見えたてまつら
むも恥づかしく推しはかられたまふに、ただかばかり思ひつ
めたる片はし聞こえ知らせて、なかなかかけかけしきことは
なくてやみなむと思ひしかど、いとさばかり気高う恥づかし
げにはあらで、なつかしくらうたげに、やはやはとのみ見え
たまふ御けはひの、あてにいみじく思ゆることぞ、人に似さ
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せたまはざりける。さかしく思ひしづむる心も失せて、いづ
ちもいづちも率て隠したてまつりて、わが身も世に経るさま
ならず、跡絶えてやみなばやとまで思ひ乱れぬ。
ただいささかまどろむともなき夢に、この手馴らしし猫の
いとらうたげにうちなきて来たるを、この宮に奉らむとてわ
が率て来たると思しきを、何しに奉りつらむと思ふほどに。お
どろきて、いかに見えつるならむと思ふ。
宮は、いとあさましく、現ともおぼえたまはぬに、胸ふた
がりて思しおぼほるるを、(柏木)「なほ、かく、のがれぬ御宿
世の浅からざりけると思ほしなせ。みづからの心ながらも、
うつし心にはあらずなむおぼえはべる」。かのおぼえなかり
し、御簾のつまを猫の綱ひきたりし夕のことも、聞こえ出で
たり。げに、さはたありけむよとロ惜しく、契り心憂き御身
なりけり。院にも、今は、いかでかは見えたてまつらんと悲
しく心細くていと幼げに泣きたまふを、いとかたじけなく、
P227
あはれと見たてまつりて、人の御涙をさへ拭ふ袖は、いとど
露けさのみまさる。
明けゆくけしきなるに、出でむ方なくなかなかなり。(柏木)
「いかがはしはべるべき。いみじく憎ませたまへば、また聞
こえさせむこともありがたきを、ただ、一言御声を聞かせたま
へ」と、よろづに聞こえ悩ますも、うるさくわびしくて、も
ののさらに言はれたまはねば、(柏木)「はてはては、むくつけ
くこそなりはべりぬれ。またかかるやうはあらじ」と、いと
うしと思ひきこえて、(柏木)「さらば不用なめり。身をいたづ
らにやはなしはてぬ。いと棄てがたきによりてこそ、かくま
でもはべれ、今宵に限りはべりなむもいみじくなむ。つゆに
ても御心ゆるしたまふさまならば、それにかへつるにても棄
てはべりなまし」とて、かき抱きて出づるに、はてはいかに
しつるぞとあきれて思さる。隅の間の屏風をひきひろげて、
戸を押し開けたれば、渡殿の南の戸の、昨夜入りしがまだ開
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きながらあるに、まだ明け
ぐれのほどなるべし、ほの
かに見たてまつらんの心あ
れば、格子をやをら引き上
げて、(柏木)「かう、いとつ
らき御心にうつし心も失せ
はべりぬ。すこし思ひのどめよと思されば、あはれとだにの
たまはせよ」と、おどしきこゆるを、いとめづらかなりし思
して、ものも言はむとしたまへど、わななかれて、いと若々
しき御さまなり。
ただ明けに明けゆくに、いと心あわたたしくて、(柏木)「あ
はれなる夢語も聞こえさすべきを、かく憎ませたまへばこそ。
さりとも、いま、思しあはすることもはべりなむ」とて、の
どかならず立ち出づる明けぐれ、秋の空よりも心づくしなり。
(柏木)起きてゆく空も知られぬあけぐれにいづくの露のか
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かる袖なり
と、引き出でて秋心へきこゆれば、出でなむとするにすこし慰
めたまひて、
(女三の宮)あけぐれの空にうき身は消えななむ夢なりけりと
見てもやむべく
とはかなげにのたまふ声の、若くをかしげなるを、聞きさす
やうにて出でぬる魂は、まことに身を離れてとまりぬる心地
す。
女宮の御もとにも参でたまはで、大殿へぞ
忍びておはしぬる。うち臥したれど目もあ
はず、見つる夢のさだかにあはむことも難
きをさへ思ふに、かの猫のありしさま、いと恋しく思ひ出で
らる。さてもいみじき過ちしつる身かな、世にあらむことこ
そまばゆくなりぬれ、と恐ろしくそら恥づかしき心地して、
歩きなどもしたまはず。女の御ためはさらにもいはず、わが
P230
心地にもいとあるまじきことといふ中にも、むくつけくおぼ
ゆれば、思ひのままにもえ紛れ歩かず。帝の御妻をもとり過
ちて、事の聞こえあらむにかばかりおぼえむことゆゑは、身
のいたづらにならむ苦しくおぼゆまじ。しかいちじるき罪に
は当たらずとも、この院に目を側かられたてまつらむことは、
いと恐ろしく恥づかしくおぼゆ。
限りなき女と聞こゆれど、すこし世づきたる心ばへまじり、
上はゆゑあり、児めかしきにも従はぬ下の心添ひたるこそ、
とあることかかることにうちなびき、心かはしたまふたぐひ
もありけれ、これは深き心もおはせねど、ひたおもむきにも
の怖ぢしたまへる御心に、ただ今しも人の見聞きつけたらむ
やうにまばゆく恥づかしく思さるれば、明かき所だにえゐ
ざり出でたまはず。いと口惜しき身なりけりとみづから思し
知るべし。
なやましげになむとありければ、大殿聞きたまひて、いみ
P231
じく御心を尽くしたまふ御事にうち添へて、またいかにと驚
かせたまひて渡りたまへり。そこはかと苦しげなることも見
えたまはず、いといたく恥ぢらひしめりて、さやかにも見あ
はせたてまつりたまはぬを、久しくなりぬる絶え間を恨めし
く思すにやといとほしくて、かの御心地のさまなど聞こえた
まひて、(源氏)「いまはのとぢめにもこそあれ。今さらにおろ
かなるさまを見えおかれじとてなむ。いはけなかりしほどよ
りあつかひそめて見放ちがたければ、かう、月ごろよろづを
知らぬさまに過ぐしはべるぞ。おのづから、このほど過ぎば、
見なほしたまひてむ」など聞こえたまふ。かく、けしきも知
りたまはぬもいとほしく心苦しく思されて、宮は、人知れず
戻ぐましく思さる。
督の君は、まして、なかなかなる心地のみまさりて、起き
臥し明かし暮らしわびたまふ。祭の日などは、物見にあらそ
ひ行く君達かき連れ来て言ひそそのかせど、なやましげにも
P232
てなして、ながめ臥したまへり。女宮をば、かしこまりおき
たるさまにもてなしきこえて、をさをさうちとけても見えた
てまつりたまはず、わが方に離れゐて、いとつれづれに心細
くながめゐたまへるに、童べの持たる葵を見たまひて、
(柏木)くやしくぞつみをかしけるあふひ草神のゆるせるか
ざしならぬに
と思ふもいとなかなかなり。世の中静かならぬ車の音などを
よそのことに聞きて、人やりならぬつれづれに、暮らしがた
くおぼゆ。
女宮も、かかる気色のすさまじげさも見知られたまへば、
何ごととは知りたまはねど、恥づかしくめざましきに、もの
思はしくぞ思されける。女房など物見にみな出でて人少なに
のどやかなれば、うちながめて、箏の琴なつかしく弾きまさ
ぐりておはするけはひも、さすがにあてになまめかしけれビ、
同じくは、いま一際及ばざりける宿世よと、なほおぼゆ。
P233
(柏木)もろかづら落葉をなににひろひけむ名は睦ましきか
ざしなれども
と書きすさびゐたる、いとなめげなる後言なりかし。
大殿の君は、まれまれ渡りたまひて、えふ
ともたち帰りたまはず、静心なく思さるる
に、「絶え入りたまひぬ」とて人参りたれ
ば、さらに何ごとも思し分かれず、御心もくれて渡りたまふ。
道のほどの心もとなきに、げにかの院は、ほとりの大路まで
人たち騒ぎたり。殿の内泣きののしるけはひいとまがまがし。
我にもあらで入りたまへれば、「日ごろはいささか隙見えた
まへるを、にはかになむかくおはします」とて、さぶらふか
ぎりは、我も後れたてまつらじとまどふさまども限りなし。
御修法どもの壇こぼち、僧なども、さるべきかぎりこそまか
でね、ほろほろと騒ぐを見たまふに、さらば限りにこそはと
思しはつるあさましさに、何ごとかはたぐひあらむ。
P234
(源氏)「さりとも物の怪
のするにこそあらめ。い
と、かく、ひたぶるにな
騒ぎそ」としづめたまひ
て、いよいよいみじき願どもを立て添へさせたまふ。すぐれ
たる験者どものかぎり召し集めて、「限りある御命にてこの
世尽きたまひぬとも、ただ、いましばしのどめたまへ。不動
尊の御本の誓ひあり。その日数をだにかけとどめたてまつり
たまへ」と、頭よりまことに黒煙をたてて、いみじき心を起
こして加持したてまつる。院も、ただ、いま一たび目を見あ
はせたまへ、いとあへなく限りなりつらんほどをだにえ見ず
なりにけることの侮しく悲しきを、と思しまどへるさま、と
まりたまふべきにもあらぬを見たてまつる心地ども、ただ推
しはかるべし。いみじき御心の中を仏も見たてまつりたまふ
にや、月ごろさらにあらはれ出で来ぬ物の怪、小さき童に移
P235
りて呼ばひののしるほどに、やうやう生き出でたまふに、う
れしくもゆゆしくも思し騒がる。
いみじく調ぜられて、(物の怪)「人はみな去りね。院一ところ
の御耳に聞こえむ。おのれを、月ごろ、調じわびさせたまふ
が情なくつらければ、同じくは思し知らせむと思ひつれど、
さすがに命もたふまじく身をくだきて思しまどふを見たてま
つれば、今こそ、かくいみじき身を受けたれ、いにしへの心
の残りてこそかくまでも参り来たるなれば、ものの心苦しさ
をえ見過ぐさでつひに現はれぬること。さらに知られじと思
ひつるものを」とて、髪を振りかけて泣くけはひ、ただ、昔
見たまひし物の怪のさまと見えたり。あさましくむくつけし
と思ししみにしことの変らねもゆゆしければ、この童の手を
とらへてひき据ゑて、さまあしくもせさせたまはず。(源氏)
「まことにその人か。よからぬ狐などいふなるもののたぶれ
たるが、亡き人の面伏せなること言ひ出づるもあなるを。た
P236
しかなる名のりせよ。また、人の知らざらんことの、心にし
るく思ひ出でられぬべからむを言へ。さてなむ、いささかに
ても信ずべき」とのたまへば、ほろほろといたく泣きて、
(物の怪)「わが身こそあらぬさまなれそれながらそらおぼれ
する君は君なり
いとつらし、つらし」と泣き叫ぶものから、さすがにもの恥
ぢしたるけはひ変らず、なかなかいと疎ましく心憂ければ、
もの言はせじと思す。
(物の怪)「中宮の御事にても、いとうれしくかたじけなしとな
む、天翔りても見たてまつれど、道異になりねれば、子の上
までも深くおぼえぬにやあらん、なほみづからつらしと思ひ
きこえし心の執なむとまるものなりける。その中にも、生き
ての世に、人よりおとして思し棄てしよりも、思ふどちの御
物語のついでに、心よからず憎かりしありさまをのたまひ出
でたりしなむ、いと恨めしく。今はただ亡きに思しゆるして、
P237
他人の言ひおとしめむをだに省き隠したまへとこそ思へ、と
うち思ひしばかりに、かくいみじき身のけはひなれば、かく
ところせきなり。この人を、深く憎しと思ひきこゆることは
なけれど、まもり強く、いと御あたり遠き心地してえ近づき
参らず、御声をだにほのかになむ聞きはべる。よし、今は、
この罪軽むばかりのわざをせさせたまへ。修法、読経とのの
しることも、身には苦しくわびしき炎とのみまつはれて、さ
らに尊きことも聞こえねば、いと悲しくなむ。中宮にも、こ
のよしを伝へきこえたまへ。ゆめ御宮仕のほどに、人ときし
ろひそねむ心つかひたまふな。斎宮におはしまししころほひ
の御罪軽むべからむ功徳のことを、かならずせさせたまへ。
いと悔しきことになむありける」など、言ひつづくれど、物
の怪に対ひて物語したまはむもかたはらいたければ、封じこ
めて、上をば、また他方に忍びて渡したてまつりたまふ。
P238
かく、亡せたまひにけりといふこと世の中
に満ちて、御とぶらひに聞こえたまふ人々
あるをいとゆゆしく思す。今日のかへさ見
に出でたまひける上達部など、帰りたまふ道に、かく人の申
せば、「いといみじきことにもあるかな。生けるかひありつ
る幸ひ人の光うしなふ日にて、雨はそぼ降るなりけり」と、
うちつけ言したまふ人もあり。また、「かく足らひぬる人は
かならずえ長からぬことなリ。『何を桜に』といふ古言もあ
るは。かかる人のいとど世にながらへて、世の楽しびを尽く
さば、かたはらの人苦しからん。今こそ、二品の宮は、もと
の御おぼえあらはれたまはめ。いとほしげにおされたりつる
御おぼえを」など、うらささめきけり。
衛門督、昨日、いと暮らしがたかりしを思ひて、今日は、
御弟ども、左大弁、藤宰相など奥の方に乗せて見たまひけ
り。かく言ひあへるを聞くにも胸うちつぶれて、(柏木)「何か
P239
うき世に久しかるべき」とうち誦じ独りごちて、かの院へみ
な参りたまふ。たしかならぬことなればゆゆしくやとて、た
だ、おほかたの御とぶらひに参りたまへるに、かく人の泣き
騒げば、まことなりけりとたち騒ぎたまへり。
式部卿宮も渡りたまひて、いといたく思しほれたるさまに
てぞ入りたまふ。人々の御消息もえ申し伝へたまはず。大将
の君、涙を拭ひて立ち出でたまへるに、(柏木)「いかに、いか
に。ゆゆしきさまに人の申しつれば、信じがたきことにてな
む。ただ、久しき御なやみをうけたまはり嘆きて参りつる
などのたまふ。(夕霧)「いと重くなりて、月日経たまへるを、
この暁より絶え入りたまへりつるを。物の怪のしたるになん
ありける。やうやう生き出でたまふやうに聞きなしはべりて、
今なむ皆人心しづむめれど、まだいと頼もしげなしや。心苦
しきことにこそ」とて、まことにいたく泣きたまへるけしき
なり。目もすこし腫れたり。衛門督、わがあやしき心ならひ
P240
にや、この君の、いとさしも親しからぬ継母の御事にいたく
心しめたまへるかな、と目をとどむ。
かく、これかれ参りたまへるよし聞こしめして、(源氏)「重
き病者のにはかにとぢめつるさまなりつるを、女房などは心
もえをさめず、乱りがはしく騒ぎはべりけるに、みづからも、
えのどめず心あわたたしきほどにてなむ。ことさらにな心、
かくものしたまへるよろこびは聞こゆべき」とのたまへり。
督の君は胸つぶれて、かかるをりのらうろうならずはえ参る
まじく、けはひ恥づかしく思ふも、心の中ぞ腹ぎたなかりけ
る。
かく、生き出でたまひての後しも、恐ろしく思して、また
またいみじき法どもを尽くして加へ行はせたまふ。うつし人
にてだに、むくつけかりし人の御けはひの、まして世かはり、
あやしきもののさまになりたまへらむを思しやるに、いと心
憂ければ、中宮をあつかひきこえたまふさへぞ、このをりは
P241
ものうく、言ひもてゆけば、女の身はみな同じ罪深きもとゐ
ぞかしと、なべての世の中いとはしく、かの、また、人も聞
かざりし御仲の睦物語にすこし語り出でたまへりしことを言
ひ出でたりしに、まことと思し出づるに、いとわづらはしぐ
思さる。
御髪おろしてむと切に思したれば、忌むことの力もやとて、
御頂しるしばかりはさみて、五戒ばかり受けさせたてまつ
りたまふ。御戒の師、忌むことのすぐれたるよし仏に申すに
も、あはれに尊き言まじりて、人わるく御かたはらに添ひゐ
たまひて、涙おし拭ひたまひつつ、仏を諸心に念じきこえた
まふさま、世にかしこくお
はする人も、いとかく御心
まどふことに当たりてはえ
しづめたまはぬわざなりけ
り。いかなるわざをして、
P242
これを救ひ、かけとどめたてまつらむとのみ夜昼思し嘆くに、
ほれぼれしきまで、御顔もすこし面痩せたまひにたり。
五月などは、まして、晴れ晴れしからぬ空
のけしきにえさはやぎたまはねど、ありし
よりはすこしよろしきさまなり。されど、
なほ絶えずなやみわたりたまふ。物の怪の罪救ふべきわざ、
日ごとに法華経一部づつ供養ぜさせたまふ。日ごとに、何く
れと尊きわざせさせたまふ。御枕上近くても、不断の御読
経、声尊きかぎりして読ませたまふ。現はれそめては、をり
をり悲しげなることどもを言へど、さらにこの物の怪去りは
てず。いとど暑きほどは息も絶えつついよいよのみ弱リたま
へば、言はむ方なく思し嘆きたり。亡きやうなる御心地にも、
かかる御気色を心苦しく見たてまつりたまひて、世の中に亡
くなりなむも、わが身にはさらに口惜しきこと残るまじけれ
ど、かく思しまどふめるに、むなしく見なされたてまつらむ
P243
がいと思ひ隈なかるべければ、思ひ起こして御湯などいささ
かまゐるけにや、六月になりてぞ時々御頭もたげたまひける。
めづらしく見たてまつりたまふにも、なほいとゆゆしくて、
六条院にはあからさまにもえ渡りたまはず。
姫宮は、あやしかりしことを思し嘆きしより、やがて例の
さまにもおはせず、なやましくしたまへど、おどろおどろし
くはあらず、立ちぬる月より物聞こしめさで、いたく青みそ
こなはれたまふ。かの人は、わりなく思ひあまる時々は夢の
やうに見たてまつりけれど、宮は、尽きせずわりなきことに
思したり。院をいみじく怖ぢきこえたまへる御心に、ありさ
まも人のほども等しくだにやはある、いたくよしめき、なま
めきたれば、おほかたの人目にこそ、なべての人にはまさり
てめでらるれ、幼くよりさるたぐひなき御ありさまになちひ
たまへる御心には、めざましくのみ見たまふほどに、かぐな
やみわたりたまふはあはれなる御宿世にぞありける。御乳母
P244
たち見たてまつり咎めて、
院の渡らせたまふこともい
とたまさかなるをつぶやき
恨みたてまつる。
かくなやみたまふと聞こ
しめしてぞ渡りたまふ。女
君は、暑くむつかしとて、
御髪すまして、すこしさはやかにもてなしたまへり。臥しな
がらうちやりたまへりしかば、とみにも乾かねど、つゆばか
りうちふくみまよふ筋もなくて、いときよらにゆらゆらとし
て、青み衰へたまへるしも、色は真青に白くうつくしげに、
透きたるやうに見ゆる御膚つきなど、世になくらうたげなり。
もぬけたる虫の殼などのやうに、まだいとただよはしげにお
はす。年ごろ住みたまはで、すこし荒れたりつる院の内、た
としへなく狭げにさへ見ゆ。昨日今日かくものおぼえたまふ
P245
隙にて、心ことに繕はれたる遣水、前栽の、うちつけに心地
よげなるを見出だしたまひても、あはれに今まで経にけるを
思ほす。
池はいと涼しげにて、蓮の花の咲きわたれるに、葉はいと
青やかにて、露きらきらと玉のやうに見えわたるを、(源氏)
「かれ見たまへ。おのれ独りも涼しげなるかな」とのたまふ
に、起き上がりて見出だしたまへるもいとめづらしければ、
(源氏)「かくて見たてまつるこそ夢の心地すれ。いみじく、わ
が身さへ限りとおぼゆるをりをりのありしはや」と涙を浮け
てのたまへば、みづからもあはれに思して、
(紫の上)消えとまるほどやは経べきたまさかに蓮の露のか
かるばかりを
とのたまふ。
(源氏)契りおかむこの世ならでも蓮葉に玉ゐる露の心へだ
つな
P246
出でたまふ方ざまはものうけれど、内裏にも院にも聞こし
めさむところあり、なやみたまふと聞きてもほど経ぬるを、
目に近きに心をまどはしつるほど、見たてまつることもをさ
をさなかりつるに、かかる雲間にさへやは絶え籠らむと思し
たちて渡りたまひぬ。
宮は、御心の鬼に、見えたてまつらんも恥づかしうつつま
しく思すに、ものなど聞こえたまふ御答へも聞こえたまはね
ば、日ごろの積もりを、さすがにさりげなくてつらしと思し
ける、と心苦しければ、とかくこしらへきこえたまふ。おと
なびたる人召して、御心地のさまなど問ひたまふ。「例のさ
まならぬ御心地になむ」とわづらひたまふ御ありさまを聞こ
ゆ。(源氏)「あやしく。ほど経てめづらしき御事にも」とばか
りのたまひて、御心の中には、年ごろ経ぬる人々だにもさる
ことなきを、不定なる御事にもやと思せば、ことにともかく
ものたまひあへしらひたまはで、ただうちなやみたまへるさ
P247
まのいとらうたげなるをあはれと見たてまつりたまふ。
からうじて思したちて渡りたまひしかば、ふともえ帰りた
まはで、二三日おはするほど、いかに、いかにとうしろめた
く思さるれば、御文をのみ書き尽くしたまふ。「いつの間に
積もる御言の葉にかあらむ。いでや、安からぬ世をも見るか
な」と若君の御過ちを知らぬ人は言ふ。侍従ぞ、かかるにつ
けても胸うち騒ぎける。
かの人も、かく渡りたまへりと聞くに、おほけなく心あや
まりして、いみじきことどもを書きつづけておこせたまへり。
対に、あからさまに渡りた
まへるほどに、人間なりけ
れば、忍びて見せたてまつ
る。(女三の宮)「むつかしき物
見するこそいと心憂けれ。
心地のいとどあしきに」と
P248
て臥したまへれば、(小侍従)「なほ、ただ。このはしがきのいと
ほしげにはべるぞや」とてひろげたれば、人の参るにいと苦
しくて、御几帳ひき寄せて去りぬ。いとど胸つぶるるに、院
入りたまへば、えよくも隠したまはで、御褥の下にさしはさ
みたまひつ。
夜さりつ方、二条院へ渡りたまはむとて、御暇聞こえた
まふ。(源氏)「ここには、けしうはあらず見えたまふを、まだ
いとただよはしげなりしを見棄てたるやうに思はるるも、今
さらにいとほしくてなむ。ひがひがしく聞こえなす人ありと
も、ゆめ心おきたまふな。いま見なほしたまひてむ」と語ら
ひたまふ。例は、なまいはけなき戯れ言などもうちとけ聞こ
えたまふを、いたくしめりて、さやかにも見あはせたてまつ
りたまはぬを、ただ世の恨めしき御気色と心得たまふ。昼の
御座にうち臥したまひて、御物語など聞こえたまふほどに暮
れにけり。すこし大殿籠り入りにけるに、蜩のはなやかに鳴
P249
くにおどろきたまひて、(源氏)「さらば、道たどたどしからぬ
ほどに」とて、御衣など奉りなほす。(女三の宮)「月待ちて、と
も言ふなるものを」と、いと若やかなろさましてのたまふは
憎からずかし。「その間にも」とや思すと、心苦しげに思し
て立ちとまりたまふ。
(女三の宮)夕露に袖ぬらせとやひぐらしの鳴くを聞く聞く起
きて行くらん
片なりなる御心にまかせて言ひ出でたまへるもらうたければ、
ついゐて、(源氏)「あな苦しや」とうち嘆きたまふ。
(源氏)待つ里もいかが聞くらむかたがたに心さわがすひぐ
らしの声
など思しやすらひて、なほ情なからむも心苦しければとまり
たまひぬ。静心なくさすがにながめられたまひて、御ぐだも
のばかりまゐりなどして、大殿籠りぬ。
P250
まだ朝涼みのほどに渡りたまはむとて、と
く起きたまふ。(源氏)「昨夜のかはほりを落
として。これは風ぬるくこそありけれ」と
て、御扇置きたまひて、昨日うたた寝したまへりし御座の
あたりを立ちとまりて見たまふに、御褥のすこしまよひたる
つまより、浅緑の薄様なる文の押しまきたる端見ゆるを、何
心もなく引き出でて御覧ずるに、男の手なり。紙の香などい
と艶に、ことさらめきたる書きざまなり。二重ねにこまごま
と書きたるを見たまふに、紛るべき方なくその人の手なりけ
りと見たまひつ。御鏡などあけてまゐらする人は、なほ見た
まふ文にこそはと心も知らぬに、小侍従見つけて、昨日の文
の色と見るに、いといみじく胸つぶつぶと鳴る心地す。御粥
などまゐる方に目も見やらず、いで、さりとも、それにはあ
らじ、いといみじく、さることはありなむや、隠いたまひて
けむ、と思ひなす。宮は、何心もなく、まだ大殿籠れり。あ
P251
ないはけな、かかる物を散らしたまひて、我ならぬ人も見つ
けたらましかば、と思すも、心劣りして、さればよ、いとむ
げに心にくきところなき御ありさまをうしろめたしとは見る
かし、と思す。
出でたまひぬれば人々すこし散れねるに、侍従寄りて、
(小侍従)「昨日の物はいかがせさせたまひてし。今朝、院の御覧
じつる文の色こそ似てはべりつれ」と聞こゆれば、あさまし
と思して、涙のただ出で来に出で来れば、いとほしきものか
ら、言ふかひなの御さまやと見たてまつる。(小侍従)「いづくに
かは置かせたまひてし。人々の参りしに、事あり顔に近ぐさ
ぶらはじと、さばかりの忌をだに、
心の鬼に避りはべしを。入らせた
まひしほどは、すこしほど経はべ
りにしを、隠させたまひつらむと
なむ思うたまへし」と聞こゆれば、
P252
(女三の宮)「いさとよ。見しほどに入りたまひしかば、ふともえ
起きあがらでさしはさみしを、忘れにけり」とのたまふに、
いと聞こえむ方なし。寄りて見ればいづくのかはあらむ。
(小侍従)「あないみじ。かの君もいといたく怖ぢ憚りて、けしき
にても漏り聞かせたまふことあらばとかしこまりきこえたま
ひしものを。ほどだに経ず、かかることの出でまうで来るよ。
すべていはけなき御ありさまにて、人にも見えさせたまひけ
れば、年ごろさばかり忘れがたく、恨みみ言ひわたりたまひし
かど、かくまで思うたまへし御事かは。誰が御ためにもいと
ほしくはべるべきこと」と憚りもなく聞こゆ。心やすく若く
おはすれば、馴れきこえたるなめり。答へもしたまはで、た
だ泣きにのみぞ泣きたまふ。いとなやましげにて、つゆばか
りの物も聞こしめさねば、「かくなやましくせさせたまふを、
見おきたてまつりたまひて、今は、おこたりはて、たまひにた
る御あつかひに、心を入れたまへること」とつらく思ひ言ふ。
P253
大殿は、この文のなほあやしく思さるれば、
人見ぬ方にて、うち返しつつ見たまふ。さ
ぶらふ人々の中に、かの中納言の手に似た
る手して書きたるかとまで思しよれど、言葉づかひきらきら
と紛ふべくもあらぬことどもあり。年を経て思ひわたりける
ことの、たまさかに本意かなひて、心やすからぬ筋を書き尽
くしたる言葉、いと見どころありてあはれなれど、いとかく
さやかには書くべしや、あたら、人の、文をこそ思ひやりな
く書きけれ、落ち散ることもこそと思ひしかば、昔、かやう
にこまかなろべきをりふしにも、言そぎつつこそ書き紛らは
ししか、人の深き用意は難きわざなりけり、とかの人の心を
さへ見おとしたまひつ。
さても、この人をばいかがもてなしきこゆべき、めづらし
きさまの御心地もかかることの紛れにてなりけり、いで、あ
な、心憂や、かく人づてならず憂きことを知る知る、ありし
P254
ながら見たてまつらんよ、とわが御心ながらも、え思ひなほ
すまじくおぼゆるを、なほざりのすさびと、はじめより心を
とどめぬ人だに、また異ざまの心分くらむと思ふは心づきな
く思ひ。隔てらるるを、まして、これは、さま異に、おほけな
き人の心にもありけるかな、帝の御妻をも過つたぐひ、昔も
ありけれど、それは、また、いふ方異なり、宮仕といひて、
我も人も同じ君に馴れ仕うまつるほどに、おのづからさるべ
き方につけても心をかはしそめ、ものの紛れ多かりぬべきわ
ざなり、女御、更衣といへど、とある筋かかる方につけてか
たほなる人もあり、心ばせかならず重からねうちまじりて、
思はずなることもあれど、おぼろけの定かなる過ち見えぬほ
どは、さてもまじらふやうもあらむに、ふとしもあらはなら
ぬ紛れありぬべし、かくばかりまたなきさまにもてなしきこ
えて、内々の心ざし引く方よりも、いつくしくかたじけなき
ものに思ひはぐくまむ人をおきて、かかることはさらにたぐ
P255
ひあらじ、と爪はじきせられたまふ。
帝と聞こゆれど、ただ素直に、公ざまの心ばへばかりにて、
宮仕のほどもものすさまじきに、心ざし深き私のねぎ言にな
びき、おのがじしあはれを尽くし、見過ぐしがたきをりの答
へをも言ひそめ、自然に心通ひそむらむ伸らひは、同じけし
からぬ筋なれど、寄る方ありや、わが身ながらも、さばかり
の人に心分けたまふべくはおぼえぬものを、といと心づきな
けれど、また気色に出だすべきことにもあらずなど思し乱る
るにつけて、故院の上も、かく、御心には知ろしめしてや、
知らず顔をつくらせたまひけむ、思へば、その世のことこそ
は、いと恐ろしくあるまじき過ちなりけれ、と近き例を思す
にぞ、恋の山路はえもどくまじき御心まじりける。
つれなしづくりたまへど、もの思し乱るる
さまのしるければ、女君、消え残りたるい
とほしみに渡りたまひて、人やりならず心
P256
苦しう思ひやりきこえたまふにやと思して、(紫の上)「心地はよ
ろしくなりにてはべるを、かの宮のなやましげにおはすらむ
に、とく渡りたまひにしこそいとほしけれ」と聞こえたまへ
ば、(源氏)「さかし。例ならず見えたまひしかど、異なる心地
にもおはせねば、おのづから心のどかに思ひてなむ。内裏よ
りは、たびたび御使ありけり。今日も御文ありつとか。院の
いとやむごとなく聞こえつけたまへれば、上もかく思したる
なるべし。すこしおろかになどもあらむは、こなたかなた思
さんことのいとほしきぞや」とて、うめきたまへば、(紫の上)
「内裏の聞こしめさむよりも、みづから眼めしと思ひきこえ
たまはむこそ、心苦しからめ。我は思しとがめずとも、よか
らぬさまに聞こえなす人々かならずあらんと思へば、いと苦
しくなむ」などのたまへば、(源氏)「げに、あながちに思ふ人
のためには、わづらはしきよすがなけれど、よろづにたどり
深きこと、とやかくやと、おほよそ人の思はむ心さへ思ひめ
P257
ぐらさるるを、これはただ、国王の御心やおきたまはむ、と
ばかりを憚らむは、浅き心地ぞしける」と、ほほ笑みてのた
まひ紛らはす。渡りたまはむことは、(源氏)「もろともに帰り
てを。心のどかにあらむ」とのみ聞こえたまふを、(紫の上)「こ
こには、しばし、心やすくてはべらむ。まづ、渡りたまひて、
人の御心も慰みなむほどにを」と聞こえかはしたまふほどに、
日ごろ経ぬ。
姫宮は、かく渡りたまはぬ日ごろの経るも、人の御つらさ
にのみ思すを、今は、わが御怠りうちまぜてかくなりぬると
思すに、院も聞こしめしつけていかに思しめさむと、世の中
つつましくなん。
かの人も、いみじげにのみ言ひわたれども、小侍従も、わ
づらはしく思ひ嘆きて、「かかることなむありし」と告げて
ければ、いとあさましく、いつのほどにさること出で来けむ、
かかることは、あり経れば、おのづからけしきにても漏り出
P258
づるやうもやと思ひしだにいとつつましく、空に目つきたる
やうにおぼえしを、まして、さばかり違ふべくもあらざりし
ことどもを見たまひてけむ、恥づかしく、かたじけなく、か
たはらいたきに、朝夕涼みもなきころなれど、身も凍むる心
地して、言はむ方なくおぼゆ。年ごろ、まめ事にもあだ事に
も召しまつはし、参リ馴れつるものを、人よりはこまやかに
思しとどめたる御気色のあはれになつかしきを、あさましく
おほけなきものに心おかれたてまつリては、いかでかは目を
も見あはせたてまつらむ、さりとて、かき絶え、ほのめき参ら
ざらむも人目あやしく、かの御心にも思しあはせむことのい
みじさ、などやすからず思ふに、心地もいとなやましくて、
内裏へも参らず。さして重き罪には当たろべきならねど、身
のいたづらになりぬる心地すれば、さればよと、かつはわが
心もいとつらくおぼゆ。いでや、静やかに心にくきけはひ見
えたまはぬわたりぞや、まづは、かの御簾のはさまも、さる
P259
べきことかは、軽々しと大将の思ひたまへる気色見えきかし、
など、今ぞ思ひあはする、しひて、このことを思ひさまさむ
と思ふ方にて、あながちに難つけたてまつらまほしきにやあ
らむ。よきやうとても、あまりひたおもむきにおほどかにあ
てなる人は、世のありさまも知らず、かつさぶらふ人に心お
きたまふこともなくて、かくいとほしき御身のためも人のた
めもいみじきことにもあるかな、とかの御事の心苦しさも、
え思ひ放たれたまはず。
宮は、いとらうたげにてなやみわたりたま
ふさまのなほいと心苦しく、かく思ひ放ち
たまふにつけては、あやにくに、うきに紛
れぬ恋しさの苦しく思さるれば、渡りたまひて見たてまづつ
たまふにつけても、胸いたくいとほしく思さる。御祈祷など
さまざまにせさせたまふ。おほかたつことはありしに変らず、
なかなかいたはしくやむごとなくもてなしきこゆるさまを増
P260
したまふ。け近くうち語らひきこえたまふさまは、いとこよ
なく御心隔たりてかたはらいたければ、人目ばかりをめやす
くもてなして、思しのみ乱るるに、この御心の中しもぞ苦し
かりける。さること見き、ともあらはしきこえたまはぬに、
みづからいとわりなく思したるさまも心幼し。いとかくおは
するけぞかし、よきやうといひながら、あまり心もとなく後
れたる、頼もしげなきわざなり、と思すに、世の中なべてう
しろめたく、女御の、あまりやはらかにおびれたまへるこそ、
かやうに心かけきこえむ人は、まして心乱れなむかし、女は
かうはるけどころなくなよびたるを、人も侮らはしきにや、
さるまじきにふと目とまり、心強からぬ過ちはし出づるなり
けり、と思す。
右大臣の北の方の、とりたてたる後見もなく、幼くよりも
のはかなき世にさすらふるやうにて生ひ出でたまひけれど、
かどかどしく労ありて、我もおほかたには親めきしかど、憎
P261
き心の添はぬにしもあらざりしを、なだらかにつれなくもて
なして過ぐし、この大臣の、さる無心の女房に心あはせて入
り来たりけむにも、けざやかにもて離れたるさまを人にも見
え知られ、ことさらにゆるされたるありさまにしなして、わ
が心と罪あるにはなさずなりにしなど、今思へば、いかにか
どあることなりけり、契り深き仲なりければ、長くかくてた
もたむことは、とてもかくても同じごとあらましものから、
心もてありしこととも、世人も思ひ出でば、すこし軽々しき
思ひ加はりなまし、いといたくもてなしてしわざなり、と思
し出づ。
二条の尚侍の君をば、なほ絶えず思ひ出で
きこえたまへど、かくうしろめたき筋のこ
とうきものに思し知りて、かの御心弱さも
すこし軽く思ひなされたまひけり。つひに御本意のことした
まひてけりと聞きたまひては、いとあはれに口惜しく御心動
P262
きて、まづとぷらひきこえたまふ。今なむ、とだににほはし
たまはざりけるつらさを浅からず聞こえたまふ。
(源氏)「あまの世をよそに聞かめや須磨の浦に藻塩たれし
も誰ならなくに
さまざまなる世の定めなさを心に思ひつめて、今まで後れき
こえぬる口惜しさを、思し棄てつとも、避りがたき御回向の
中にはまづこそはとあはれになむ」など、多く聞こえたまへ
り。とく思し立ちにしことなれど、この御妨げにかかづらひ
て、人にはしかあらはしたまはぬことなれど、心の中あはれ
に、昔よりつらき御契りをさすがに浅くしも思し知られぬな
ど、方々に思し出でらる。御返り、今はかくしも通ふまじき
御文のとぢめと思せぱ、あはれにて、心とどめて書きたまふ。
墨つきなどいとをかし。(尚侍)「常なき世とは身ひとつにのみ
知りはべりにしを、後れぬとのたまはせたるになむ、げに、
あま舟にいかがは思ひおくれけむ明石の浦にいさりせし
P263
回向には、あまねきかどにても、いかがは」とあり。濃き青
鈍の紙にて、樒にさしたまへる、例のことなれど、いたく過
ぐしたる筆づかひ、なほ古りがたくをかしげなり。
二条院におはしますほどにて、女君にも、今はむげに絶え
ぬることにて、見せたてまつりたまふ。(源氏)「いといたくこ
そ辱められたれ。げに心づきなしや。さまざま心細き世の中
のありさまを、よく見過ぐしつるやうなるよ。なべての世の
ことにても、はかなくものを言ひかはし、時々によせて、あ
はれをも知り、ゆゑをも過ぐさず、よそながらの睦びかはし
つべき人は、斎院とこの君とこそは残りありつるを、かくみ
な背きはてて、斎院、はた、いみじう勤めて、紛れなく行ひ
にしみたまひにたなり。なほ、ここらの人のありさまを聞き
見る中に、深く思ふさまに、さすがになつかしきことの、か
の人の御なずらひにだにもあらざりけるかな。女子を生ほし
P264
たてむことよ、いと難かるべきわざなりけり。宿世などいふ
らんものは目に見えぬわざにて、親の心にまかせがたし。生
ひたたむほどの心づかひは、なほ力入るべかめり。よくこそ
あまた方々に、心を乱るまじき契りなりけれ、年深くいらざ
りしほどは、さうざうしのわざや、さまざまに見ましかばと
なむ、嘆かしきをりをりありし。若宮を心して生ほしたてた
てまつりたまへ。女御は、ものの心を深く知りたまふほどな
らで、かく暇なきまじらひをしたまへば、何ごとも心もとな
き方にぞものしたまふらむ。皇女たちなむ、なほ飽くかぎり
人に点つかるまじくて、世をのどかに過ぐしたまはむに、う
しろめたかるまじき心ぱせ、つけまほしきわざなりける。限
りありて、とざまかうざまの後見まうくるただ人はおのづ
からそれにも助けられぬるを」など聞こえたまへば、(紫の上)
「はかばかしきさまの御後見ならずとも、世にながらへむか
ぎりは、見たてまつらぬやうあらじ、と思ふを、いかなら
P265
む」とて、なほものを心細げにて、かく心にまかせて行ひを
もとどこほりなくしたまふ人々を、うらやましく思ひきこえ
たまへり。
(源氏)「尚侍の君に、さま変りたまへらむ装束など、まだ裁
ち馴れぬほどはとぶらふべきを、袈裟などはいかに縫ふもの
ぞ。それせさせたまへ。一領は、六条の東の君にものしつけ
む。うるはしき法服だちては、うたて見る目もけ疎かるべし。
さすがに、その心ばへ見せてを」など聞こえたまふ。青鈍の
一領をここにはせさせたまふ。作物所の人召して、忍びて、
尼の御具どものさるべき
はじめのたまはす。御
褥、上蓆、屏風、几帳な
どのことも、いと忍びて、
わざとがましくいそがせ
たまひけり。
P266
かくて、山の帝の御賀も延びて、秋とあり
しを、八月は、大将の御忌月にて、楽所の
こと行ひたまはむに便なかるべし、九月は、
院の大后の崩れたまひにし月なれば、十月にと思しまうくる
を、姫宮いたくなやみたまへば、また延びぬ。衛門督の御あ
づかりの宮なむ、その月には参りたまひける。太政大臣ゐた
ちて、いかめしく、こまかに、もののきよら、儀式を尽くし
たまへりけり。督の君も、そのついでにぞ、思ひ起こして出
でたまひける。なほなやましく、例ならず病づきてのみ過ぐ
したまふ。
宮もうちはへて、ものをつつましく、いとほしとのみ思し
嘆くけにやあらむ、月多く重なりたまふままに、いと苦しげ
におはしませば、院は、心憂しと思ひきこえたまふ方こそあ
れ、いとらうたげにあえかなるさまして、かくなやみわたり
たまふを、いかにおはせむと嘆かしくて、さまざまに思し嘆
P267
く。御祈祷など、今年は、紛れ多くて過ぐしたまふ。
御山にも聞こしめして、らうたく恋しと思ひきこえたまふ。
月ごろかくほかほかにて、渡りたまふこともをさをさなきや
うに人の奏しければ、いかなるにかと御胸つぶれて、世の
も今さらに恨めしく思して、対の方のわづらひけるころは、
なほ、そのあつかひにと聞こしめしてだに、なま安からざり
しを、その後なほりがたくものしたまふらむは、そのころほ
ひ便なきことや出で来たりけむ、みづから知りたまふことな
らねど、よからぬ御後見どもの心にて、いかなることかあり
けむ、内裏わたりなどのみやびをかはすべき仲らひなどにも、
けしからずうきこと言ひ出づるたぐひも聞こゆかし、とさへ
思しよるも、こまやかなること思し棄ててし世なれど、なほ
この道は離れがたくて、宮に御文こまやかにてありけるを、
大殿おはしますほどにて見たまふ。
(朱雀院)そのこととなくて、しばしばも聞こえぬほどに、お
P268
ぼつかなくてのみ年月の過ぐるなむあはれなりける。なや
みたまふなるさまは、くはしく聞きし後、念誦のついでに
も思ひやらるるは、いかが。世の中さびしく、思はずなる
ことありとも、忍び過ぐしたまへ。恨めしげなる気色など、
おぼろけにて見知り顔にほのめかす、いと品おくれたるわ
ざになむ。
など、教へきこえたまへり。
いといとほしく心苦しく、かかる内々のあさましきをば聞
こしめすべきにはあらで、わが怠りに本意なくのみ聞き思す
らんことをとばかり思しつづけて、(源氏)「この御返りをばい
かが聞こえたまふ。心苦しき御消息に、まろこそいと苦しけ
れ。思はずに思ひきこゆることありとも、おろかに人の見咎
むばかりはあらじとこそ思ひはべれ。誰が聞こえたるにかあ
らむ」とのたまふに、恥ぢらひて背きたまへる御姿もいとら
うたげなり、いたく面痩せて、もの思ひ屈したまへる、いと
P269
どあてにをかし。
(源氏)「いと幼き御心ばへを見おきたまひて、
いたくはうしろめたがりきこえたまふなり
けりと、思ひあはせたてまつれば、今より
後もよろづになむ。かうまでもいかで聞こえじと思へど、上
の、御心に背くと聞こしめすらむことの安からずいぶせきを、
ここにだに聞こえ知らせでやはとてなむ。至り少なく、ただ
人の聞こえなす方にのみ寄るべかめる御心には、ただおろか
に浅きとのみ思し、また今は、こよなくさだすぎにたるあり
さまも、侮らはしく目馴れてのみ見なしたまふらむも、方々
に口惜しくも、うれたくもおぼゆるを、院のおはしまさむほ
どは、なほ心をさめて、かの思しおきてたるやうありけむ、
さだすぎ人をも、同じくなずらへきこえて、いたくな軽めた
まひそ。いにしへより本意深き道にも、たどり薄かるべき女
方にだにみな思ひ後れつつ、いとぬるきこと多かるを、みづ
P270
からの心には、何ばかり思しまよふべきにはあらねど、今は
と棄てたまひけむ世の後見におきたまへる御心ばへのあはれ
にうれしかりしを、ひきつづき、争ひきこゆろやうにて、同
じさまに見棄てたてまつらんことのあへなく思されむにつつ
みてなむ。心苦しと思ひし人々も、今は、かけとどめらるる
絆ぱかりなるもはべらず。女御も、かくて行く末は知りがた
けれど、御子たち数そひたまふめれば、みづからの世だにの
どけくはと見おきつべし。その外は、誰も誰も、あらむに従
ひて、もろともに身を棄てむも惜しかるまじき齢どもになり
にたるを、やうやう涼しく思ひはべろ。院の御世の残り久し
くもおはせじ。いとあつしくいとどなりまさりたまひて、も
の心細げにのみ思したるに、今さらに思はすなろ御名漏り聞
こえて、御心乱りたまふな。この世はいと安し。事にもあら
ず。後の世の御道の妨げならむも、罪いと恐ろしからむ」な
ど、まほにそのこととは明かしたまはねど、つくづくと聞こ
P271
えつづけたまふに、涙のみ落ちつつ、我にもあらず思ひしみ
ておはすれば、我もうち泣きたまひて、(源氏)「人の上にても
もどかしく聞き思ひし古人のさかしらよ、身にかはることに
こそ。いかに、うたての翁やと、むつかしくうるさき御心添
ふらむ」と恥ぢたまひつつ、御硯ひき寄せたまひて、手づか
らおし磨り、紙とりまかなひ、喜かせたてまつりたまへど、
御手もわななきて、え書きたまはず。かのこまかなりし返り
事は、いとかくしもつつまず、通はしたまふらむかしと思し
やるに、いと憎ければ、よろづのあはれもさめぬべけれど、
言葉など教へて書かせた
てまつりたまふ。
参りたまはむことは、
この月かくて過ぎぬ。二
の宮の御勢ひことにて参
りたまひけるを、古めか
P272
しき御身ざまにて、立ち並ぴ顔ならむも憚りある心地しけり。
(源氏)「十一月はみづからの忌月なり。年の終はり、はた、い
ともの騒がし。また、いとどこの御姿も見苦しく、待ち見た
まはむをと思ひはべれど、さりとてさのみ延ぶべきことにや
は。むつかしくもの思し乱れず、あきらかにもてなしたまひ
て、このいたく面痩せたまへるつくろひたまへ」など、いと
らうたしと、さすがに見たてまつりたまふ。
衛門督をば、何ざまのことにも、ゆゑあるべきをりふしに
は、かならずことさらにまつはしたまひつつのたまはせあは
せしを、絶えてさる御消息もなし。人、あやしと思ふらんと
思せど、見むにつけても、いとどほれぼれしき方恥づかしく、
見むには、また、わが心もただならずやと思し返されつつ、
やがて、月ごろ参りたまはぬをも咎めなし。おほかたの人は、
なほ例ならずなやみわたりて、院に、はた、御遊びなどなき
年なればとのみ思ひわたるを、大将の君ぞ、あるやうあるこ
P273
となるべし、すき者はさだめて、わが気色とりしことには忍
ばぬにやありけむ、と思ひよれど、いとかく定かに残りなき
さまならむとは思ひよりたまはざりけり。
十二月になりにけり。十余日と定めて、舞
ども馴らし、殿の内ゆすりてののしる。二
条院の上は、まだ渡りたまはざりけるを、
この試楽によりぞ、えしづめはてで渡りたまへる。女御の君
も里におはします。このたびの御子は、また男にてなむおは
しましける。すぎすぎいとをかしげにておはするを、明け暮
れもてあそびたてまつりたまふになむ、過ぐる齢のしるし、
うれしく思されける。試楽に、右大臣殿の北の方も渡リたま
へり。大将の君、丑寅の町にて、まづ内々に、調楽のやうに
明け暮れ遊び馴らしたまひければ、かの御方は御前のものは
見たまはず。
衛門督を、かかることのをりもまじらはせざらむは、いと
P274
はえなくさうざうしかるべき中に、人、あやしとかたぶきぬ
べきことなれば、参りたまふべきよしありけるを、重くわづ
らふよし申して参らず。さるは、そこはかと苦しげなる病に
もあらざなるを、思ふ心のあるにやと心苦しく思して、とり
わきて御消息遺はす。父大臣も、「などか、返さひ申されけ
る。ひがひがしきやうに、院にも聞こしめさむを、おどろお
どろしき病にもあらず、助けて参りたまへ」とそそのかした
まふに、かく重ねてのたまへれば、苦しと思ふ思ふ参りぬ。
まだ上達部なども集ひたまはぬほどなりけり。例の、け近
き御簾の内に入れたまひて、母屋の御簾おろしておはします。
げに、いといたく痩せ痩せに青みて、例も、誇りかにはなや
ぎたる方は、弟の君たちにはもて消たれて、いと用意あり顔
にしづめたるさまぞことなるを、いとどしづめてさぶらひた
まふさま、などかは皇女たちの御傍にさし並べたらむにさ
らに咎あるまじきを、ただ事のさまの、誰も誰も、いと思ひ
P275
やりなきこそいと罪ゆるしがたけれ、など御目とまれど、さ
りげなく、いとなつかしく、(源氏)「そのこととなくて、対面
もいと久しくなりにけり。月ごろは、いろいろの病者を見あ
つかひ、心の暇なきほどに、院の御賀のため、ここにものし
たまふ皇女の、法事仕うまつりたまふべくありしを、次々と
どこほること繁くて、かく年もせめつれば、え思ひのごとく
もしあへで、型のごとくなむ斎の御鉢まゐるベきを、御賀な
どいへば、ことごとしきやうなれど、家に生ひ出づる童べの
数多くなりにけるを御覧ぜさせむとて、舞など習はしはじめ
し、そのことをだにはたさんとて、拍子ととのへむこと、ま
た誰にかはと思ひめぐらしかねてなむ、月ごろとぶらひなの
したまはぬ恨みも棄ててける」とのたまふ御気色の、うらな
きやうなるものから、いといと恥づかしきに、顔の色違ふら
むとおぼえて、御答へもとみにえ聞こえず。
(柏木)「月ごろ、方々に思しなやむ御事うけたまはり嘆きは
P276
べりながら、春のころほひより、例もわづらひはべる乱り脚
病といふものところせく起こりわづらひはべりて、はかばか
しく踏み立つることもはべらず、月ごろに添へて沈みはべり
てなむ、内裏などにも参らず、世の中跡絶えたるやうにて籠
りはべる。院の御齢足りたまふ年なり、人よりさだかに数
へたてまつり仕うまつるべきよし、致仕の大臣思ひおよび申
されしを、冠を挂け、車を惜しまず棄ててし身にて、進み仕
うまつらむにつく所なし、げに下臈なりとも、同じごと深き
ところはべらむ、その心御覧ぜられよ、ともよほし申さるる
ことのはべしかば、重き病をあひ動けてなむ、参りてはべし。
今は、いよいよいとかすかなるさまに思し澄まして、いかめ
しき御よそひを待ちうけたてまつりたまはむこと、願はしく
も思すまじく見たてまつりはべしを、事どもをばそがせたま
ひて、静かなる御物語の深き御願ひかなはせたまはむなむ、
まさりてはべるべき」と申したまへば、いかめしく聞きし御
P277
賀のことを、女二の宮の御方ざまには言ひなさぬも、労あり
と思す。
(源氏)「ただかくなむ。事そぎたるさまに世人は浅く見るべ
きを、さはいへ。ど、心得てものせらるるに、さればよとなむ、
いとど思ひなられはべる。大将は、公方は、やうやうおとな
ぶめれど、かうやうに情ひたる方は、もとよりしまぬにやあ
らむ。かの院、何ごとも心及びたまはぬことはをさをさなき
中にも、楽の方のことは御心とどめて、いとかしこく知りと
とのへたまへるを、さこそ思し棄てたるやうなれ、静かに聞
こしめし澄まさむこと、今しもなむ心づかひせらるべき。か
の大将ともろともに見入れて、舞の童べの用意、心ばへよく
加へたまへ。物の師などいふものは、ただわが立てたること
こそあれ、いと口惜しきものなり」など、いとなつかしくの
たまひつくるを、うれしきものから苦しくつつましくて、言
少なにて、この御前をとく立ちなむと思へば、例のやうにこ
P278
まやかにもあらでやうやうすべり出でぬ。
東の御殿にて、大将のつくろひ出だしたまふ楽人、舞人
の装束のことなど、またまた行ひ加へたまふ。あるべき限り
いみじく尽くしたまへるに、いとどくはしき心しらひ添ふも、
げにこの道はいと深き人にぞものしたまふめる。
今日は、かかる試みの日なれど、御方々もの見たまはむに、
見どころなくはあらせじとて、かの御賀の日は、赤き白橡に、
葡萄染の下襲を着るべし、今日は、青色に蘇芳襲、楽人三十
人、今目は白襲を着たる、辰巳の方の釣殿につづきたる廊を
楽所にして、山の南の側より御前に出づるほど、仙遊霞とい
ふもの遊びて、雪のただいささか散るに、春のとなり近く、
梅のけしき見るかひありてほほ笑みたり。廂の御簾の内にお
はしませば、式部卿宮、右大臣ばかりさぶらひたまひて、そ
れより下の上達部は、簀子に、わざとならぬ日のことにて、
御饗応などけ近きほどに仕うまつりなしたり。
P279
右の大殿の四郎君、大将殿の三郎君、兵部卿宮の孫王の君
たち二人は万歳楽、まだいと小さきほどにて、いとらうたげ
なり。四人ながらいづれとなく、高き家の子にて、容貌をか
しげにかしづき出でたる、思ひなしもやむごとなし。また、
大将の御典侍腹の二郎君、式部卿宮の兵衛督といひし、今
は源中納言の御子皇ジャウ、右の大殿の三郎君陵王、大将殿の太
郎落蹲、さては太平楽、喜春楽などいふ舞どもをなむ、同じ
御仲らひの君たち、大人たちなど舞ひける。暮れゆけば、御
簾上げさせたまひて、ものの興まさるに、いとうつくしき御
孫の君たちの容貌姿にて、
舞のさまも世に見えぬ手
を尽くして、御師どもも、
おのおの手の限りを教へ
きこえけるに、深きかど
かどしさを加へてめづら
P280
かに舞ひたまふを、いづれをもいとらうたしと思す。老いた
まへる上達部たちは、みな涙落としたまふ。式部卿宮も、御
孫を思して、御鼻の色づくまでしほたれたまふ。
主の院、「過ぐる齢にそへては、酔泣きこそとどめがたき
わざなりけれ。衛門督心とどめてほほ笑まるる、いと心恥づ
かしや。さりとも、いましばしならむ。さかさまに行かぬ年
月よ。老は、えのがれぬわざなり」とてうち見やりたまふに、
人よりけにまめだち屈じて、まことに心地もいとなやましけ
れば、いみじきことも目もとまらぬ心地する人をしも、さし
分きて空酔ひをしつつかくのたまふ、戯れのやうなれど、い
とど胸つぶれて、盃のめぐり来るも頭いたくおぼゆれば、け
しきばかりにて紛らはすを御覧じ咎めて、持たせながらたび
たび強ひたまへば、はしたなくてもてわづらふさま、なべて
の人に似ずをかし。
P281
心地かき乱りてたへがたければ、まだ事も
はてぬにまかでたまひぬるままに、いとい
たくまどひて、例の、いとおどろおどろし
き酔ひにもあらぬを、いかなればかかるならむ、つつましと
ものを思ひつろに、気ののぼりぬるにや、いとさいふばかり、
臆すべき心弱さとはおぼえぬを、言ふかひなくもありけるか
な、とみづから恩ひ知らる。しばしの酔ひのまどひにもあら
ざりけり。やがて、いといたくわづらひたまふ。大臣、母北
の方思し騒ぎて、よそよそにていとおぼつかなしとて、殿に
渡したてまつりたまふを、女宮の思したるさま、またいと心
苦し。
事なくて過ぐすべき頃は心のどかにあいな頼みして、いと
しもあらぬ御心ざしなれど、今はと別れたてまつるべき門出
にやと思ふは、あはれに悲しく、後れて思し嘆かむことのか
たじけなきをいみじと思ふ。母御息所も、いといみじく嘆き
P282
たまひて、(御息所)「世の事として、親をばなほさるものにおき
たてまつりて、かかる御仲らひは、とあるをりもかかるをり
も、離れたまはぬこそ例のことなれ、かくひき別れて、たひ
らかにものしたまふまでも過ぐしたまはむが心づくしなるべ
きことを。しばしここにてかくて乱みたまへ」と、御かたは
らに御几帳ばかりを隔てて見たてまつりたまふ。(柏木)「こと
わりや。数ならぬ身にて、及びがたき御仲らひになまじひに
ゆるされたてまつりてさぶらふしるしには、長く世にはべり
て、かひなき身のほども、すこし人と等しくなるけぢめをも
や御覧ぜらるるとこそ思うたまへつれ、いといみじくかくさ
へなりはべれば、深き心ざしをだに御覧じはてられずやなり
はべりなむと思うたまふるになむ、とまりがたき心地にも、
え行きやるまじく思ひたまへらるる」など、かたみに泣きた
まひて、とみにもえ渡りたまはねば、また、母北の方うしろ
めたく思して、(母北の方)「などか、まづ見えむとは思ひたまふ
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まじき。我は、心地もすこし例ならず心細き時は、あまたの
中にまづとりわきて、ゆかしくも頼もしくもこそおぼえたま
へ。かく、いとおぼつかなきこと」と恨みきこえたまふも、
また、いとことわりなり。(柏木)「人より先なりけるけぢめに
や、とりわきて思ひ馴らひたるを、今になほかなしくしたま
ひて、しばしも見えぬをば書しきものにしたまへば、心地の
かく限りにおぼゆるをりしも見えたてまつらざらむ、罪深く
いぶせかるべし。今はと頼みなく聞かせたまはば、いと忍び
て渡りたまひて御覧ぜよ。かならずまた対面たまはらむ。あ
やしくたゆく愚かなる本性にて、事にふれておろかに思さる
ることありつらむこそ、悔しくはべれ。かかる命のほどを知
らで、行く末長くのみ思ひはべりけること」と、泣く泣く渡
りたまひぬ。宮は、とまりたまひて、言ふ方なく思しこがれ
たり。
大殿に待ちうけきこえたまひて、よろづに騒ぎたまふ。さ
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るは、たちまちにおどろおどろしき御心地のさまにもあらず、
月ごろ物などをさらにまゐらざりけるに、いとどはかなき柑
子などをだに触れたまはず、ただ、やうやう物に引き入るる
やうにぞ見えたまふ。さる時の有職のかくものしたまへば、
世の中惜しみあたらしがりて、御とぶらひに参りたまはぬ人
なし。内裏よりも、院よりも、御とぶらひしばしば聞こえつ
つ、いみじく惜しみ思しめしたるにも、いとどしき親たちの
御心のみまどふ。六条院にも、いと口惜しきわざなりと思し
おどろきて、御とぶらひに、たびたび、ねむごろに父大臣に
も聞こえたまふ。大将は、ましていとよき御仲なれば、け近
くものしたまひつつ、いみじく嘆き歩きたまふ。
御賀は、二十五日になりにけり。かかる時
のやむごとなき上達部の重くわづらひたま
ふに、親はらから、あまたの人々、さる高
き御仲らひの嘆きしをれたまへるころほひにて、ものすさま
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じきやうなれど、次々にとどこほりつることだにあるを、さ
てやむまじきことなれば、いかでかは思しとどまらむ。女宮
の御心の中をぞ、いとほし思ひきこえさせたまふ。例の五
十寺の御誦経、また、かのおはします御寺に摩訶毘廬遮那
の。