31巻 まきばしら




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(源氏)「内裏に聞こしめさむこともかしこし。
しばし人にあまねく漏らさじ」と諫めきこ
えたまへど、さしもえつつみあへたまはず。
ほど経れど、いささかうちとけたる御気色もなく、思はずに
うき宿世なりけりと思ひ入りたまへるさまのたゆみなきを、
いみじうつらしと思へど、おぼろけならぬ契りのほどあはれ
にうれしく思ふ。見るままにめでたく、思ふさまなる御容貌
ありさまを、よそのものに見はててやみなましよと思ふだに
胸つぶれて、石山の仏をも、弁のおもとをも、並べて頂かま
ほしう思へど、女君の深くものしと思し疎みにければ、えま
じらはで籠りゐにけり。げに、そこら心苦しげなることども
を、とりどりに見しかど、心浅き人のためにぞ寺の験もあら

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はれける。
 大臣も心ゆかず口惜しと思せど、言ふかひなきことにて、
誰も誰もかくゆるしそめたまへることなれば、ひき返しゆる
さぬ気色を見せむも、人のためいとほしうあいなしと思して、
儀式いと二なくもてかしづきたまふ。
いつしかと、わが殿に渡いたてまつらんこ
とを思ひいそぎたまへど、軽々しくふとう
ちとけ渡りたまはんに、かしこに待ちとり
てよくしも思ふまじき人のものしたまふなるがいとほしさに
ことつけたまひて、(源氏)「なほ心のどかに、なだらかなるさ
まにて、音なく、いづ方にも人の譏り恨みなかるべくをもて
なしたまへ」とぞ聞こえたまふ。
 父大臣は、「なかなかめやすかめり。ことにこまかなる後
見なき人の、なまほのすいたる宮仕に出で立ちて、苦しげに
やあらむとぞうしろめたかりし。心ざしはありながら、女御

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かくてものしたまふを措きて、いかがもてなさまし」など、
忍びてのたまひけり。げに、帝と聞こゆとも、人に思しおと
し、はかなきほどに見えたてまつりたまひて、ものものしく
ももてなしたまはずは、あはつけきやうにもあべかりけり。
三日の夜の御消息ども、聞こえかはしたまひける気色を伝へ
聞きたまひてなむ、この大臣の君の御心を、あはれにかたじ
けなくありがたしとは思
ひきこえたまひける。
 かう忍びたまふ御仲ら
ひのことなれど、おのづ
から、人のをかしきこと
に語り伝へつつ、次々に
聞き漏らしつつ、ありが
たき世語にぞささめきけ
る。内裏にも聞こしめし

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てけり。(帝)「口惜しう、宿世異なりける人なれど、さ思しし
本意もあるを。宮仕など、かけかけしき筋ならばこそは、思
ひ絶えたまはめ」などのたまはせけり。
十一月になりぬ。神事など繁く、内侍所に
も事多かるころにて、女官ども、内侍ども
参りつつ、いまめかしう人騒がしきに、大
将殿、昼もいと隠ろへたるさまにもてなして籠りおはするを、
いと心づきなく、尚侍の君は思したり、宮などは、まいてい
みじう口惜しと思す。兵衛督は、いもうとの北の方の御事を
さへ人笑へに思ひ嘆きて、とり重ねもの思ほしけれど、をこ
がましう、恨み寄りても今はかひなしと思ひ返す。大将は、
名に立てるまめ人の、年ごろいささか乱れたるふるまひなく
て過ぐしたまへるなごりなく心ゆきて、あらざりしさまに好
ましう、宵暁のうち忍びたまへる出で入りも艶にしなした
まへるを、をかしと人々見たてまつる。

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 女は、わららかににぎははしくもてなしたまふ本性ももて
隠して、いといたう思ひ結ぼほれ、心もてあらぬさまはしる
きことなれど、大臣の思すらむこと、宮の御心ざまの心深う
情々しうおはせしなどを思ひ出でたまふに、恥づかしう口
惜しうのみ思ほすに、もの心づきなき御気色絶えず。
 殿も、いとほしう人々も思ひ疑ひける筋を、心清くあらは
したまひて、わが心ながら、うちつけにねぢけたることは好
まずかしと、昔よりのことも思し出でて、紫の上にも、(源氏)
「思し疑ひたりしよ」など聞こえたまふ。今さらに人の心癖
もこそと思しながら、ものの苦しう思されしとき、さてもや
と思しよりたまひしことなれば、なほ思しも絶えず。
大将のおはせぬ昼つ方渡りたまへり。女君、
あやしうなやましげにのみもてないたまひ
て、すくよかなるをりもなくしほれたまへ
るを、かく渡りたまへればすこし起き上がりたまひて、御几

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帳に、はた、隠れておはす。
殿も、用意ことに、すこしけ
けしきさまにもてないたまひ
て、おほかたのことどもなど
聞こえたまふ。すくよかなる
世の常の人にならひては、ま
して言ふ方なき御けはひありさまを見知りたまふにも、思ひ
のほかなる身の置き所なく恥づかしきにも、涙ぞこぼれける。
やうやう、こまやかなる御物語になりて、近き御脇息に寄り
かかりて、すこしのぞきつつ聞こえたまふ。いとをかしげに、
面痩せたまへるさまの、見まほしう、らうたいことの添ひた
まへるにつけても、よそに見放つもあまりなる心のすさびぞ
かしと口惜し。
(源氏)「おりたちて汲みはみねども渡り川人のせとはた契
  らざりしを

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思ひのほかなりや」とて、鼻うちかみたまふけはひ、なつか
しうあはれなり。女は顔を隠して、
(玉鬘)みつせ川わたらぬさきにいかでなほ涙のみをのあわ
  と消えなん
(源氏)「心幼の御消え所や。さても、かの瀬は避き道なかなる
を、御手の先ばかりは、引き助けきこえてんや」とほほ笑み
たまひて、(源氏)「まめやかには、思し知ることもあらむかし。
世になきしれじれしさも、またうしろやすさも、この世にた
ぐひなきほどを、さりともとなん頼もしき」と聞こえたまふ
を、いとわりなう聞き苦しと思いたれば、いとほしうて、の
たまひ紛らはしつつ、(源氏)「内裏にのたまはすることなむい
とほしきを、なほあからさまに参らせたてまつらん。おのが
ものと観じはてては、さやうの御まじらひも難げなめる世な
めり。思ひそめきこえし心は違ふさまなめれど、二条の大臣
は心ゆきたまふなれば、心やすくなむ」など、こまかに聞こ

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えたまふ。あはれにも恥づかしくも聞きたまふこと多かれど、
ただ涙にまつはれておはす。いとかう思したるさまの心苦し
ければ、思すさまにも乱れたまはず、ただあるべきやう、御
心づかひを教へきこえたまふ。かしこに渡りたまはんことを、
とみにも許しきこえたまふまじき御気色なり。
内裏へ参りたまはむことを、安からぬこと
に大将思せど、そのついでにやがてまかで
させたてまつらんの御心つきたまひて、た
だあからさまのほどを許しきこえたまふ。かく忍び隠ろへた
まふ御ふるまひも、ならひたまはぬ心地に苦しければ、わが
殿の内修理ししつらひて、年ごろは荒らし埋もれ、うち棄て
たまへりつる御しつらひ、よろづの儀式を改めいそぎたまふ。
 北の方の思し嘆くらむ御心も知りたまはず、かなしうした
まひし君たちをも目にもとめたまはず、なよびかに、情々し
き心うちまじりたる人こそ、とざまかうざまにつけても、人

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のため恥ぢがましからんことをば、推しはかり思ふところも
ありけれ、ひたおもむきにすくみたまへる御心にて、人の御
心動きぬべきこと多かり。女君、人に劣りたまふべきことな
し、人の御本性も、さるやむごとなき父親王のいみじうかし
づきたてまつりたまへる、おぼえ世に軽からず、御容貌など
もいとようおはしけるを、あやしう執念き御物の怪にわづら
ひたまひて、この年ごろ人にも似たまはず、うつし心なきを
りをり多くものしたまひて、御仲もあくがれてほど経にけれ
ど、やむごとなきものとは、また並ぶ人なく思ひきこえたま
へるを、めづらしう御心移る方の、なのめにだにあらず、人
にすぐれたまへる御ありさまよりも、かの疑ひおきて皆人の
推しはかりしことさへ、心清くて過ぐいたまひけるなどを、
ありがたうあはれと思ひ増しきこえたまふもことわりになむ。

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式部卿宮聞こしめして、「今は、しかいま
めかしき人を渡してもてかしづかん片隅に、
人わろくて添ひものしたまはむも、人聞き
やさしかるべし。おのがあらむこなたは、いと人笑へなるさ
まに従ひなびかでも、ものしたまひなん」とのたまひて、宮
の東の対を払ひしつらひて、渡したてまつらんと思しのたま
ふを、親の御あたりといひながら、今は限りの身にて、たち
返り見えたてまつらむこと、と思ひ乱れたまふに、いとど御
心地もあやまりて、うちはへ臥しわづらひたまふ。本性はい
と静かに心よく、児めきたまへる人の、時々心あやまりして、
人に疎まれぬべきことなん、うちまじりたまひける。
住まひなどのあやしうしどけなく、ものの
きよらもなくやつして、いと埋れいたくも
てなしたまへるを、玉を磨ける目移しに心
もとまらねど、年ごろの心ざしひき変ふるものならねば、心

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にはいとあはれと思ひきこえたまふ。(鬚黒大将)「昨日今日のい
とあさはかなる人の御仲らひだに、よろしき際になれば、み
な思ひのどむる方ありてこそ見はつなれ。いと身も苦しげに
もてなしたまひつれば、聞こゆべきこともうち出できこえに
くくなむ。年ごろ契りきこゆることにはあらずや。世の人に
も似ぬ御ありさまを、見たてまつりはてんとこそは、ここら
思ひしづめつつ過ぐし来るに、えさしもあり果つまじき御心
おきてに、思し疎むな。幼き人々もはべれば、とざまかうざ
まにつけておろかにはあらじと聞こえわたるを、女の御心の
乱りがはしきままに、かく恨みわたりたまふ。一わたり見は
てたまはぬほど、さもありぬべきことなれど、任せてこそい
ましばし御覧じはてめ。宮の聞こしめし疎みて、さはやかに
ふと渡したてまつりてむと思しのたまふなん、かへりていと
軽々しき。まことに思しおきつることにやあらむ、しばし勘
事したまふべきにやあらむ」とうち笑ひてのたまへる、いと

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ねたげに心やまし。
 御召人だちて、仕うまつり馴れたる木工の君、中将のおも
となどいふ人々だに、ほどにつけつつ安からずつらしと思ひ
きこえたるを、北の方はうつし心ものしたまふほどにて、い
となつかしううち泣きてゐたまへり。(北の方)「みづからをほけ
たり、ひがひがしとのたまひ恥ぢしむるは、ことわりなるこ
とになむ。宮の御事をさへ取りまぜのたまふぞ、漏り聞きた
まはんはいとほしう、うき身のゆかり軽々しきやうなる。耳
馴れにてはべれば、今はじめていかにもものを思ひはべら
ず」とて、うち背きたまへるらうたげなり。いとささやかな
る人の、常の御なやみに痩せおとろへ、ひはづにて髪いとけ
うらにて長かりけるが、分けたるやうに落ち細りて、梳るこ
ともをさをさしたまはず、涙にまろがれたるは、いとあはれ
なり。こまかににほへるところはなくて、父宮に似たてまつ
りて、なまめいたる容貌したまへるを、もてやつしたまへれ

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ば、しづこの華やかなるけはひかはあらむ。(鬚黒大将)「宮の御
事を軽くはいかが聞こゆる。恐ろしう、人聞きかたはになの
たまひなしそ」とこしらへて、(鬚黒大将)「かの通ひはべる所の
いとまばゆき玉の台に、うひうひしうきすくなるさまにて出
で入るほども、方々に人目立つらんとかたはらいたければ、
心やすくうつろはしてんと思ひはべるなり。太政大臣の、さ
る世にたぐひなき御おぽえをばさらにも聞こえず、心恥づか
しういたり深うおはすめる御あたりに、憎げなること漏り聞
こえば、いとなんいとほしうかたじけなかるべき。なだらか
にて、御仲よくて語らひてものしたまへ。宮に渡りたまへり
とも、忘るることははべらじ。とてもかうても、今さらに心
ざしの隔たることはあるまじけれど、世の聞こえ人笑へに、
まろがためにも軽々しうなむはべるべきを、年ころの契り違
へず、かたみに後見むと思せ」と、こしらへきこえたまへば、
(北の方)「人の御つらさは、ともかくも知りきこえず。世の人に

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も似ぬ身のうきをなむ、宮にも思し嘆きて、今さらに人笑へ
なることと御心を乱りたまふなれば、いとほしう、いかでか
見えたてまつらんとなむ。大殿の北の方と聞こゆるも、他人
にやはものしたまふ。かれは、知らぬさまにて生ひ出でたま
へる人の、末の世にかく人の親だちもてないたまふつらさを
なん、思ほしのたまふなれど、ここにはともかくも思はずや。
もてないたまはんさまを見るばかり」とのたまへば、(鬚黒大将)
「いとようのたまふを、例の御心違ひにや、苦しきことも出
で来む。大殿の北の方の知りたまふことにもはべらず、いつ
きむすめのやうにてものしたまへば、かく思ひおとされたる
入の上までは知りたまひなんや。人の御親げなくこそものし
たまふべかめれ。かかることの聞こえあらば、いと苦しかべ
きこと」など、日一日入りゐて語らひ申したまふ。

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暮れぬれば、心も空に浮きたちて、いかで
出でなんと思ほすに、雪かきたれて降る。
かかる空にふり出でむも、人目いとほしう
この御気色も、憎げにふすべ恨みなどしたまはば、なかなか
ことつけて、我もむかへ火つくりてあるべきを、しとおいら
かにつれなうもてなしたまへるさまの、いと心苦しければ、
いかにせむと思ひ乱れつつ、格子などもさながら、端近うう
ちながめてゐたまへり。北の方気色を見て、「あやにくなめ
る雪を、いかで分けたまはんとすらむ。夜も更けぬめりや」
とそそのかしたまふ。今は限り、とどむともと思ひめぐらし
たまへる気色いとあはれなり。(鬚黒大将)「かかるには、いかで
か」とのたまふものから、(鬚黒大将)「なほこのころばかり。心
のほどを知らで、とかく人の言ひなし、大臣たちも左右に聞
き思さんことを憚りてなん、とだえあらむはいとほしき。思
ひしづめてなほ見はてたまへ。ここになど渡してば心やすく

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はべりなむ。かく世の常なる御気色見えたまふ時は、外ざま
に分くる心も失せてなん、あはれに思ひきこゆる」など語ら
ひたまへば、(北の方)「立ちとまりたまひても、御心の外ならん
は、なかなか苦しうこそあるべけれ。よそにても、思ひだに
おこせたまはば、袖の氷もとけなんかし」など、なごやかに
言ひゐたまへり。
 御火取召して、いよいよたきしめさせたてまつりたまふ。
みづからは、萎えたる御衣どもに、うちとけたる御姿、いと
ど細うか弱げなり。しめりておはする、いと心苦し。御目の
いたう泣き腫れたるぞ、すこしものしけれど、いとあはれと
見るときは、罪なう思して、いかで過ぐしつる年月ぞと、な
ごりなう移ろふ心のいと軽きぞやとは思ふ思ふ、なほ心げさ
うは進みて、そら嘆きをうちしつつ、なほ装束したまひて、
小さき火取とり寄せて、袖に引き入れてしめゐたまへり。な
つかしきほどに萎えたる御装束に、容貌も、かの並びなき御

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光にこそ圧さるれど、いとあざやかに男々しきさまして、た
だ人と見えず、心恥づかしげなり。
 侍所に人々声して、「雪すこし隙ありつ夜は更けぬらんか、
し」など、さすがにまほにはあらで、そそのかしきこえて、
声つくりあへり。中将、木工など、「あはれの世や」などう
ち嘆きつつ、語らひて臥したるに、正身はいみじう思ひしづ
めてらうたげに寄り臥したまへり、と見るほどに、にはかに
起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取をとり寄せて、
殿の背後に寄りて、さと沃かけたまふほど、人のやや見あふ
るほどもなう、あさましきに、あきれてものしたまふ。さる
こまかなる灰の目鼻に
も入りて、おぼほれて
ものもおぼえず。払ひ
棄てたまへど、立ち満
ちたれば、御衣ども脱

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ぎたまひつ。うつし心にてかくしたまふぞと思はば、またか
へり見すべくもあらずあさましけれど、例の御物の怪の、人
に疎ませむとする事と、御前なる人々もいとほしう見たてま
つる。立ち騒ぎて、御衣ども奉り換へなどすれど、そこらの
灰の鬢のわたりにも立ちのぼり、よろづの所に満ちたる心地
すれば、きよらを尽くしたまふわたりに、さながら参でたま
ふべきにもあらず。心違ひとはいひながら、なほめづらしう
見知らぬ人の御ありさまなりやと爪はじきせられ、疎ましう
なりて、あはれと思ひつる心も残らねど、このころ荒だてて
ば、いみじきこと出で来なむと思ししづめて、夜半になりぬ
れど、僧など召して加持まゐり騒ぐ。呼ばひののしりたまふ
声など、思ひ疎みたまはんにことわりなり。
夜一夜、打たれ引かれ泣きまどひ明かした
まひて、すこしうち休みたまへるほどに、
かしこへ御文奉れたまふ、(鬚黒大将)「昨夜に

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はかに消え入る人のはべしにより、雪のけしきもふり出でが
たく、やすらひはべしに、身さへ冷えてなむ。御心をばさる
ものにて、人いかに取りなしはべりけん」ときすくに書きた
まへり。
(鬚黒大将)「心さへ空にみだれし雪もよにひとり冴えつるか
  たしきの袖
たへがたくこそ」と白き薄様に、つつやかに書いたまへれど、
ことにをかしきところもなし。手はいときよげなり。才賢く
などぞものしたまひける。尚侍の君、夜離れを何とも思され
ぬに、かく心ときめきしたまへるを見も入れたまはねば、御
返りなし。男胸つぶれて、思ひ暮らしたまふ。
 北の方はなほいと苦しげにしたまへば、御修法などはじめ
させたまふ。心の中にも、このころばかりだに、事なくうつ
し心にあらせたまへと念じたまふ。まことの心ばへのあはれ
なるを見ず知らずは、かうまで思ひ過ぐすべくもなきけ疎さ

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かなと思ひゐたまへり。
暮るれば例の急ぎ出でたまふ。御装束のこ
となども、めやすくもしなしたまはず、世
にあやしううちあはぬさまにのみむつかり
たまふを、あざやかなる御直衣などもえ取りあへたまはで、
いと見苦し。昨夜のは焼けとほりて、疎ましげに焦れたる臭
ひなども異様なり、御衣どもに移り香もしみたり。ふすべら
れけるほどあらはに、人も倦じたまひぬべければ、脱ぎ換へ
て、御湯殿など、いたうつくろひたまふ。木工の君、御薫物
しつつ、
(木工)「独りゐて、こがるる胸の苦しきに思ひあまれる炎ど
  ぞ見し
なごりなき御もてなしは、見たてまつる人だに、ただにや
は」と、口おほひてゐたる、まみいといたし。されど、いか
なる心にてかやうの人にものを言ひけん、などのみぞおぼえ

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たまひける、情なきことよ。
(鬚黒大将)「うきことを思ひさわげばさまざまにくゆる煙ぞ
  いとど立ちそふ
いと事のほかなることどもの、もし聞こえあらば、中間にな
りぬべき身なめり」と、うち嘆きて出でたまひぬ。
 一夜ばかりの隔てだに、まためづらしうをかしさまさりて
おぼえたまふありさまに、いとど心を分くべくもあらずおぼ
えて心憂ければ、久しう籠りゐたまへり。
 修法などし騒げど、御物の怪こちたく起こりてののしるを
聞きたまへば、あるまじき疵
もつき、恥ぢがましきことか
ならずありなんと恐ろしうて
寄りつきたまはず。殿に渡り
たまふ時も、他方に離れゐた
まひて、君たちばかりをぞ、

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呼び放ちて見たてまつりたまふ。女一ところ、十二三ばかり
にて、また次々男二人なんおはしける。近き年ごろとなりて
は、御仲も隔りがちにてならはしたまへれど、やむごとなう
立ち並ぶ方なくてならひたまへれば、今は限りと見たまふに、
さぶらふ人々もいみじう悲しと思ふ。
父宮聞きたまひて、「今は、しかかけ離れ
てもて出でたまふらむに、さて心強くもの
したまふ、いと面なう人笑へなることなり。
おのがあらむ世の限りは、ひたぶるにしも、などか従ひくづ
ほれたまはむ」と聞こえたまひて、にはかに御迎へあり。
 北の方、御心地すこし例になりて、世の中をあさましう思
ひ嘆きたまふに、かくと聞こえたまへれば、「強ひて立ちと
まりて、人の絶えはてんさまを見はてて思ひとぢめむも、い
ますこし人笑へにこそあらめ」など思し立つ。
 御兄弟の君たち、兵衛督は上達部におはすればことごとし

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とて、中将、侍従、民部大輔など、御車三つばかりしておは
したり。さこそはあべかめれとかねて思ひつることなれど、
さし当たりて今日を限りと思へば、さぶらふ人々もほろほろ
と泣きあへり。「年ごろならひたまはぬ旅住みに、狭くはし
たなくては、いかでかあまたはさぶらはん。かたへはおのお
の里にまかでて、静まらせたまひなむに」などさだめて、
人々おのがじし、はかなき物どもなど里に払ひやりつつ、乱
れ散るべし。
 御調度どもは、さるべきはみなしたためおきなどするまま
に、上下泣き騒ぎたるは、いとゆゆしく見ゆ。君たちは何心
もなくて歩きたまふを、母君みな呼びすゑたまひて、(北の方)
「みづからは、かく心憂き宿世、今は見はてつれば、この世
に跡とむべきにもあらず、ともかくもさすらへなん。生ひ先
遠うて、さすがに、散りぼひたまはんありさまどもの、悲し
うもあべいかな。姫君は、となるともかうなるとも、おのれ

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に添ひたまへ日なかなか、男君たちは、え避らず参で通ひ見
えたてまつらんに、人の心とどめたまふべくもあらず、はし
たなうてこそ漂はめ。宮のおはせんほど、型のやうにまじら
ひをすとも、かの大臣たちの御心にかかれる世にて、かく心
おくべきわたりぞとさすがに知られて、人にもなり立たむこ
と難し。さりとて山、林にひきつづきまじらむこと、後の世
までいみじきこと」と泣きたまふに、みな深き心は思ひわか
ねど、うち顰みて泣きおはさうず。「昔物語などを見るにも、
世の常の心ざし深き親だに、時に移ろひ人に従へば、おろか
にのみこそはなりけれ。まして、型のやうにて、見る前にだ
になごりなき心は、懸り所ありてももてないたまはじ」と御
乳母どもさし集ひてのたまひ嘆く。
日も暮れ、雪降りぬべき空のけしきも心細
う見ゆる夕なり。「いたう荒れはべりなん。
早う」と御迎への君達そそのかしきこえて、

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御目おし拭ひつつながめおはす。姫君は、殿いとかなしうし
たてまつりたまふならひに、「見たてまつらではいかでかあ
らむ、いまなども聞こえで、また逢ひ見ぬやうもこそあれ」
と思ほすに、うつぶし臥して、え渡るまじと思ほしたるを、
(北の方)「かく思したるなん、いと心憂き」などこしらへきこえ
たまふ。ただ今も渡りたまはなんと待ちきこえたまへど、か
く暮れなむに、まさに動きたまひなんや。常に寄りゐたまふ
東面の柱を人に譲る心地したまふもあはれにて、姫君、檜
皮色の紙の重ね、ただいささかに書きて、柱の乾割れたるは
さまに、笄の先して押し入れたまふ。
(真木柱)今はとて宿離れぬとも馴れきつる真木の柱はわれ
  を忘るな
えも書きやらで泣きたまふ。母君、「いでや」とて、
(北の方)馴れきとは思ひいづとも何により立ちとまるべき
  真木の柱ぞ

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御前なる人々もさまざまに悲しく、さしも思はぬ木草のもと
さへ、恋しからんことと目とどめて、鼻すすりあへり。
 木工の君は、殿の御方の人にてとどまるに、中将のおもと、
「浅けれど石間の水はすみはてて宿もる君やかけはなる
 べき
思ひかけざりしことなり。かくて別れたてまつらんことよ」
と言へば、木工、
「ともかくも岩間の水の結ぼほれかけとむべくも思ほえ
 ぬ世を
いでや」とてうち泣く。御車引き出でてかへり見るも、また
はいかでかは見むとはかなき心地す。梢をも目とどめて、隠
るるまでぞかへり見たまひける。君が住むゆゑにはあらで、
ここら年経たまへる御住み処の、いかでか偲びどころなくは
あらむ。

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宮には待ちとり、いみじう思したり。母北
の方泣き騒ぎたまひて、「太政大臣をめで
たきよすがと思ひきこえたまへれど、いか
ばかりの昔の仇敵にかおはしけむとこそ思ほゆれ。女御をも、
事にふれはしたなくもてなしたまひしかど、それは、御仲の
恨みとけざりしほど、思ひ知れとにこそはありけめと思しの
たまひ、世の人も言ひなししだに、なほさやはあるべき、人
ひとりを思ひかしづきたまはんゆゑは、ほとりまでもにほふ
例こそあれと心得ざりしを、ましてかく末に、すずろなる継
子かしづきをして、おのれ古したまへるいとほしみに、実法
なる人のゆるぎ所あるまじきをとて取り寄せもてかしづきた
まふは、いかがつらからぬ」と言ひつづけののしりたまへば、
宮は、「あな聞きにくや。世に難つけられたまはぬ大臣を、
口にまかせてなおとしめたまひそ。賢き人は、思ひおき、か
かる報いもがなと思ふことこそはものせられけめ。さ思はる

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るわが身の不幸なるにこそはあらめ。つれなうて、みなかの
沈みたまひし世の報いは、浮かべ沈め、いと賢くこそは思ひ
わたいたまふめれ。おのれ一人をば、さるべきゆかりと思ひ
てこそは、一年も、さる世の響きに、家よりあまることども
もありしか。それをこの生の面目にてやみぬべきなめり」と
のたまふに、いよいよ腹立ちて、まがまがしきことなどを言
ひ散らしたまふ。この大北の方ぞさがな者なりける。
大将の君、かく渡りたまひにけるを聞きて、
いとあやしう、若々しき仲らひのやうに、
ふすべ顔にてものしたまひけるかな、正身
は、しか引ききりに際々しき心もなきものを、宮のかく軽々
しうおはする、と思ひて、君達もあり、人目もいとほしきに
思ひ乱れて、尚侍の君に、(鬚黒大将)「かくあやしきことなんは
べなる。なかなか心やすくは思ひたまへなせど、さて片隅に
隠ろへてもありぬべき人の心やすさを、おだしう思ひたまへ

P380
つるに、にはかにかの宮のしたまふならむ。人の聞き見るこ
とも情なきを、うちほのめきて参り来なむ」とて出でたまふ。
よき表の御衣、柳の下襲、青鈍の綺の指貫着たまひてひぎつ
くろひたまへる、いとものものし。などかは似げなからむと
人々は見たてまつるを、尚侍の君は、かかることどもを聞き
たまふにつけても、身の心づきなう思し知らるれば、見もや
りたまはず。
 宮に恨みきこえむとて、参でたまふままに、まづ殿におは
したれば、木工の君など出で来て、ありしさま語りきこゆ。
姫君の御ありさま聞きたまひて、男々しく念じたまへど、ほ
ろほろとこぼるる御
気色、いとあはれな
り。 (鬚黒大将)「さても、
世の人にも似ず、あ
やしきことどもを見

P381
過ぐすここらの年ごろの心ざしを、見知りたまはずありける
かな。いと思ひのままならむ人は、今までも立ちとまるべく
やはある。よし、かの正身は、とてもかくても、いたづら人
と見えたまへば、同じことなり。幼き人々も、いかやうにも
てなしたまはむとすらむ。」とうち嘆きつつ、かの真木柱を見
たまふに、手も幼けれど、心ばへのあはれに恋しきままに、
道すがら涙おし拭ひつつ参でたまへれば、対面したまふべく
もあらず。
(式部卿宮)「何か。ただ時に移る心の、今はじめて変りたまふ
にもあらず。年ごろ思ひうかれたまふさま聞きわたりても久
しくなりぬるを、いづくをまた思ひ直るべきをりとか待たむ。
いとどひがひがしきさまのみこそ見えはてたまはめ」と諫め
申したまふ、ことわりなり。(鬚黒大将)「いと若々しき心地もし
はべるかな。思ほし棄つまじき人々もはべればと、のどかに
思ひはべりける心のおこたりを、かへすがへす聞こえてもや

P390
る方なし。今は、ただなだらかに御覧じゆるして、罪避りど
ころなう、世人にもことわらせてこそ、かやうにももてない
たまはめ」など、聞こえわづらひておはす。「姫君をだに見
たてまつらむ」と聞こえたまへれど、出だしたてまつるべく
もあらず。男君たち、十なるは殿上したまふ、いとうつくし。
人にほめられて、容貌などようはあらねど、いとらうらうじ
う、ものの心やうやう知りたまへり。次の君は、八つばかり
にて、いとらうたげに、姫君にもおぼえたれば、かき撫でつ
つ、(鬚黒大将)「吾子をこそは、恋しき御形見にも見るべかめ
れ」など、うち泣きて語らひたまふ。宮にも御気色賜らせた
まへど、(式部卿宮)「風邪おこりて、ためらひはべるほどにて」
とあれば、はしたなくて出でたまひぬ。
小君違をば車に乗せて、語らひおはす。六
条殿にはえ率ておはせねば、殿にとどめて、
(鬚黒大将)「なほここにあれ。来て見んにも心

P391
やすかるべく」とのたまふ。うちながめていと心細げに見送
りたるさまどもいとあはれなるに、もの思ひ加はりぬる心地
すれど、女君の御さまの見るかひありてめでたきに、ひがひ
がしき御さまを思ひくらぶるにもこよなくて、よろづを慰め
たまふ。
 うち絶えて訪れもせず。はしたなかりしにことつけ顔なる
を、宮にはいみじうめざましがり嘆きたまふ。
春の上も聞きたまひて、(紫の上)「ここにさへ恨みらるるゆゑ
になるが苦しきこと」と嘆きたまふを、大臣の君、いとほし
と思して、(源氏)「難きことなり。おのが心ひとつにもあらぬ
人のゆかりに、内裏にも心おきたるさまに思したなり。兵部
卿宮なども、怨じたまふと聞きしを、さいへど、思ひやり深
うおはする人にて、聞きあきらめ、恨みとけたまひにたなり。
おのづから、人の仲らひは忍ぶることと思へど、隠れなきも
のなれば、しか思ふべき罪もなしとなん思ひはべる」とのた

P392
まふ。
かかることどもの騒ぎに、尚侍の君の御気
色いよいよ晴れ間なきを、大将はいとほし
と思ひあつかひきこえて、この参りたまは
むとありしことも絶えきれて、妨げきこえつるを、内裏にも
なめく心あるさまに聞こしめし、人々も思すところあらむ、
公人を頼みたる人はなくやはある、と思ひ返して、年返り
て参らせたてまつりたまふ。男踏歌ありければ、やがてその
ほどに、儀式いといかめしう二なくて参りたまふ。方々の大
臣たち、この大将の御勢ひさへさしあひ、宰相中将ねむごろ
に心しらひきこえたまふ。せうとの君たちも、かかるをりに
と集ひ、追従し寄りて、かしづきたまふさまいとめでたし。
 承香殿の東面に御局したり。西に宮の女御はおはしけ
れば、馬道ばかりの隔てなるに、御心の中ははるかに隔たり
けんかし。街カ々いづれともなくいどみかはしたまひて、内

P393
裏わたり心にくくをかしきころほひなり。ことに乱りがはし
き更衣たち、あまたもさぶらひたまはず。中宮、弘徽殿女御、
この宮の女御、左の大殿の女御などさぶらひたまふ。さては
中納言、宰相の御むすめ二人はかりぞさぶらひたまひける。
踏歌は方々に里人参り、さまことにけにに
ぎははしき見物なれば、誰も誰もきよらを
尽くし、袖口の重なりこちたくめでたくと
とのへたまふ。春宮の女御も、いとはなやかにもてなしたま
ひて、宮はまだ若くおはしませど、すべていといまめかし。
 御前、中宮の御方、朱雀院とに参りて、夜いたう更けにけ
れば、六条院には、このたびはところせしと省きたまふ。朱
雀院より帰り参りて、春宮の御方々めぐるほどに夜明けぬ。
 ほのぼのとをかしき朝ぼらけに、いたく酔ひ乱れたるさま
して、竹河うたひけるほどを見れば、内の大殿の君達は四五
人ばかり、殿上人の中に声すぐれ、容貌きよげにてうちつづ

P394
きたまへる、いとめでたし。童なる八郎君はむかひ腹にて、
いみじうかしづきたまふが、いとうつくしうて、大将殿の太
郎君と立ち並びたるを、尚侍の君も他人と見たまはねば、御
目とまりけり。やむごとなくまじらひ馴れたまへる御方々よ
りも、この御局の袖口、おほかたのけはひいまめかしう、同
じものの色あひ重なりなれど、ものよりことにはなやかなり。
正身も女房たちも、かやうに御心やりてしばしは過ぐいたま
はましと思ひあへり。みな同じごとかづけわたす綿のさまも、
にほひことにらうらうじうしないたまひて、こなたは水駅な
りけれど、けはひにぎははしく、人々心げさうしそして、限
りある御饗応などのことどももしたるさま、ことに用意あり
てなむ大将殿せさせたまへりける。
宿直所にゐたまひて、日一日聞こえ暮らし
たまふことは、(鬚黒大将)「夜さりまかでさせ
たてまつりてん。つかかるついでにと思し移

P395
るらん御宮仕なむやすからぬ」とのみ、同じことを責めきこ
えたまへど、御返りなし。さぶらふ人々ぞ、「大臣の、心あ
わたたしきほどならで、まれまれの御参りなれば、御心ゆか
せたまふばかり、聴許ありてをまかでさせたまへと聞こえさ
せたまひしかば、今宵はあまりすがすがしうや」と聞こえた
るを、いとつらしと思ひて、(鬚黒大将)「さばかり聞こえしもの
を、さも心にかなはぬ世かな」とうち嘆きてゐたまへり。
兵部卿宮、御前の御遊びにさぶらひたまひ
て、静心なく、この御局のあたり思ひやら
れたまへば、念じあまりて聞こえたまへり。
大将は衛府の御曹司にぞおはしける、それよりとて取り入れ
たれば、しぶしぶに見たまふ。
(蛍宮)「深山木に羽翼うちかはしゐる鳥のまたなくねたき
  春にもあるかな
囀る声も耳とどめられてなん」あり。ついとほしう面赤みて、

P396
聞こえん方なく思ひゐたまへるに、上渡らせたまふ。
 月の明きに、御容貌はいふよしなくきよらにて、ただかの
大臣の御けはひに違ふところなくおはします。かかる人はま
たもおはしけりと見たてまつりたまふ。かの御心ばへは浅か
らぬも、うたてもの思ひ加はりしを、これはなどかはさしも
おぼえさせたまはん、いとなつかしげに、思ひしことの違ひ
にたる恨みをのたまはするに、面おかん方なくぞおぼえたま
ふや。顔をもて隠して、御答へも聞こえたまはねば、(帝)「あ
やしうおぼつかなきわざかな。よろこびなども、思ひ知りた
まはんと思ふことあるを、聞き入れたまはぬさまにのみある
は、かかる御癖なりけり」とのたまはせて、
(帝)「などてかくはひあひがたき紫を心に深く思ひそめけ
  む
濃くなりはつまじきにや」と仰せらるるさま、いと若くきよ
らに恥づかしきを、違ひたまへるところやあると思ひ慰めて

P370
聞こえたまふ。宮仕の臈もなくて、今年加階したまへる心に
や。
(玉鬘)「いかならん色とも知らぬ紫を心してこそ人はそめ
  けれ
今よりなむ思ひたまへ知るべき」と聞こえたまへば、うち笑
みて、(帝)「その今よりそめたまはんこそ、かひなかべいこと
なれ。愁ふべき人あらば、ことわり聞かまほしくなむ」と、
いたう恨みさせたまふ御気色のまめやかにわづらはしければ、
いとうたてもあるかなとおぼえて、をかしきさまをも見えた
てまつらじ、むつかしき世の癖なりけりと思ふに、まめだち
てさぶらひたまへば、え思すさまなる乱れ言もうち出でさせ
たまはで、やうやうこそは目馴れめと思しけり。
大将は、かく渡らせたまへるを聞きたまひ
て、いとど静心なければ、急ぎまどはした
まふ。みづからも、似げなきことも出で来

P371
ぬべき身なりけりと心憂きに、えのどめたまはず、まかでさ
せたまふべきさま、つきづきしきことつけども作り出でて、
父大臣など、賢くたばかりたまひてなん、御暇ゆるされたま
ひける。(帝)「さらば。もの懲りしてまた出だし立てぬ人もぞ
ある。いとこそからけれ。人より先に進みにし心ざしの、人
に後れて、気色とり従ふよ。昔のなにがしが例もひき出でつ
べき心地なむする」とて、まことにいと口惜しと思しめした
り。
 聞こしめししにもこよなき近
まさりを、はじめよりさる御心
なからんにてだにも、御覧じ過
ぐすまじきを、まいていとねた
う、飽かず思さる。されど、ひ
たぶるに浅き方に思ひ疎まれじ
とて、いみじう心深きさまにの

P372
たまひ契りてなつけたまふも、かたじけなう、我は我と思ふ
ものをと思す。
 御輦車寄せて、こなたかなたの御かしづき人ども心もとな
がり、大将もいとものむつかしうたち添ひ騒ぎたまふまで、
えおはしまし離れず。(帝)「かういときびしき近き衛りこそむ
つかしけれ」と憎ませたまふ。
(帝)九重にかすみへだてば梅の花ただかばかりも匂ひこ
  じとや
ことなることなき言なれども、御ありさまけはひを見たてま
つるほどは、をかしくもやありけん。(帝)「野をなつかしみ明
かいつべき夜を、惜しむべかめる人も、身をつみて心苦しう
なむ。いかでか聞こゆべき」と思し悩むも、いとかたじけな
しと見たてまつる。
(玉鬘)かばかりは風にもつてよ花の枝に立ちならぶべきに
  ほひなくとも

P373
さすがにかけ離れぬけはひを、あはれと思しつつ、かへり見
がちにて渡らせたまひぬ。
やがて、今宵、かの殿にと思しまうけたる
を、かねてはゆるされあるまじきにより、
漏らしきこえたまはで、(鬚黒大将)「にはかに
いと乱り風邪のなやましきを、心やすき所にうち休みはべら
むほど、よそよそにてはいとおぼつかなくはべらむを」とお
いらかに申しないたまひて、やがて渡したてまつりたまふ。
父大臣、にはかなるを、儀式なきやうにやと思せど、あなが
ちにさばかりのことを言ひさまたげんも人の心おくべしと思
せば、(内大臣)「ともかくも。もとより進退ならぬ人の御事なれ
ば」とぞ聞こえたまひける。
 六条殿ぞ、いとゆくりなく本意なしと思せど、などかはあ
らむ。女も、塩やく煙のなびきける方をあさましと思せど、
盗みもて行きたらましと思しなずらへて、いとうれしく心地

P374
落ちゐぬ。かの入りゐさせたまへりしことを、いみじう怨じ
きこえさせたまふも、、心づきなく。なほなほしき心地して、
世には心とけぬ御もてなし、いよいよ気色あし。
 かの宮にも、さこそ猛うのたまひしか、いみじう思しわぶ
れど絶えて訪れず。ただ思ふことかなひぬる御かしづきに、
明け暮れいとなみて過ぐしたまふ。
二月にもなりぬ。大殿は、さてもつれなき
わざなりや、いとかう際々しうとしも思は
でたゆめられたる妬さを、人わろく、すべ
て御心にかからぬをりなく、恋しう思ひ出でられたまふ。宿
世などいふものおろかならぬことなれど、わがあまりなる心
にて、かく人やりならぬものは思ふぞかしと起き臥し面影に
ぞ見えたまふ。大将の、をかしやかにわららかなる気もなき
人に添ひゐたらむに、はかなき戯れ言もつつましうあいなく
思されて、念じたまふを、雨いたう降りていとのどやかなる

P375
ころ、かやうのつれづれも紛らはし所に渡りたまひて、語ら
ひたまひしさまなどの、いみじう恋しければ、御文奉りた
まふ。右近がもとに忍びて遣はすも、かつは思はむことを思
すに、何ごともえつづけたまはで、ただ思はせたることども
ぞありける。
(源氏)「かきたれてのどけきころの春雨にふるさと人をい
  かにしのぶや
つれづれに添へても、恨めしう思ひ出でらるること多うはべ
るを、いかでかは聞こゆべからむ」などあり。
 隙に忍びて見せたてまつれば、うち泣きて、わが心にもほ
ど経るままに思ひ出でられたまふ御さまを、まほに、「恋し
や、いかで見たてまつらん」などはえのたまはぬ親にて、げ
に、いかでかは対面もあらむとあはれなり。時々むつかしか
りし御気色を、心づきなう思ひきこえしなどは、この人にも
知らせたまはぬことなれば、心ひとつに思しつづくれど、右

P376
近はほの気色見けり。いかなりけることならむとは、今に心
得がたく思ひける。御返り、(玉鬘)「聞こゆるも恥づかしけれ
ど、おぼつかなくやは」とて書きたまふ。
(玉鬘)「ながめする軒のしづくに袖ぬれてうたかた人をし
  のばざらめや
ほどふるころは、げにことなるつれづれもまさりはべりけり。
あなかしこ」とゐやゐやしく書きなしたまへり。
 ひきひろげて、玉水のこぼるるやうに思さるるを、人も見
ばうたてあるべしとつれなくもてなしたまへど、胸に満つ心
地して、かの昔の、尚侍の君を未雀院の后の切にとり籠めた
まひしをりなど思し出づれど、さし当たりたることなればに
や、これは世づかずぞあはれなりける。すいたる人は、心か
らやすかるまじきわざなりけり、今は何につけてか心をも乱
らまし、似げなき恋のつまなりや、とさましわびたまひて、
御琴掻き鳴らして、なつかしう弾きなしたまひし爪音思ひ出

P377
でられたまふ。あづまの調べをすが掻きて、(源氏)「玉藻はな
刈りそ」とうたひすさびたまふも、恋しき人に見せたらば、
あはれ過ぐすまじき御さまなり。
内裏にも、ほのかに御覧ぜし御容貌ありさ
まを心にかけたまひて、(帝)「赤裳垂れ引き
いにし姿を」と、憎げなる古言なれど、御
言ぐさになりてなむながめさせたまひける。御文は忍び忍び
にありけり。身をうきものに思ひしみたまひて、かやうのす
さびごとをもあいなく思しければ、心とけたる御答へも聞こ
えたまはず。なほ、かのありがたかりし御心おきてを、方々
につけて思ひしみたまへる御事ぞ、忘られざりける。
三月になりて、六条殿の御前の藤、山吹の
おもしろき夕映えを見たまふにつけても、
まづ見るかひありてゐたまへりし御さまの
み思し出でらるれば、春の御前をうち棄てて、こなたに渡り

P378
て御覧ず。呉竹の籬
に、わざとなう咲き
かかりたるにほひ、
いとおもしろし。
(源氏)「色に衣を」な
どのたまひて、
(源氏)「思はずに井手のなか道へだつともいはでぞ恋ふる
  山吹の花
顔に見えつつ」などのたまふも、聞く人なし。かくさすがに
もて離れたることは、このたびぞ思しける。げにあやしき御
心のすさびなりや。鴨の卵のいと多かるを御覧じて、柑子、
橘などやうに紛らはして、わざとならず奉れたまふ。御文
は、あまり人もぞ目立つるなど思して、すくよかに、
(源氏)おぼつかなき月日も重なりぬるを、思はずなる御もて
 なしなりと恨み聞こゆるも、御心ひとつにのみはあるまじ

P379
 う聞きはべれば、ことなるついでならでは、対面の難から
 んを、口惜しう思ひたまふる。
など、親めき書きたまひて、
  「おなじ巣にかへりしかひの見えぬかないかなる人か手
  ににぎるらん
などかさしもなど、心やましうなん」などあるを、大将も見
たまひて、うち笑ひて、(鬚黒大将)「女は、実の親の御あたりに
も、たはやすくうち渡り見えたてまつりたまはむこと、つい
でなくてあるべきことにあらず。まして、なぞこの大臣の、
をりをり思ひ放たず恨み言はしたまふ」とつぶやくも、憎し
と聞きたまふ。(玉鬘)「御返り、ここにはえ聞こえじ」と、書
きにくく思いたれば、(鬚黒大将)「まろ聞こえん」とかはるもか
たはらいたしや。
(鬚黒大将)「巣がくれて数にもあらぬかりのこをいづ方にか
  はとりかへすべき

P380
よろしからぬ御気色におどろきて。すきずきしや」と聞こえ
たまへり。(源氏)「この大将の、かかるはかなしごと言ひたる
も、まだこそ聞かざりつれ。めづらしう」とて笑ひたまふ。
心の中には、かく領じたるを、いとからしと思す。
かのもとの北の方は、月日隔たるままに、
あさましとものを思ひ沈み、いよいよほけ
痴れてものしたまふ。大将殿の、おほかた
のとぶらひ何ごとをもくはしう思しおきて、君達をば変らず
思ひかしづきたまへば、えしもかけ離れたまはず、まめやか
なる方の頼みは同じことにてなむものしたまひける。姫君を
ぞたへがたく恋ひきこえたまへど、絶えて見せたてまつりた
まはず。若き御心の中に、この父君を、誰も誰もゆるしなう
恨みきこえて、いよいよ隔てたまふことのみまされば、心細
く悲しきに、男君たちは常に参り馴れつつ、尚侍の君の御あ
りさまなどをも、おのづから事にふれてうち語りて、「まろ

P381
らをも、らうたくなつかしうなんしたまふ、明け暮れをかし
きことを好みてものしたまふ」など言ふに、うらやましう、
かやうにてもやすらかにふるまふ身ならざりけんを嘆きたま
ふ。
 あやしう、男女につけつつ、人にものを思はする尚侍の君
にぞおはしける。
その年の十一月に、いとをかしき児をさへ
抱き出でたまへれば、大将も、思ふやうに
めでたしともてかしづきたまふこと限りな
し。ぞのほどのありさま、言はずとも思ひやりつべきことぞ
かし。父大臣も、おのづから思ふやうなる御宿世と思したり。
わざとかしづきたまふ君達にも、御容貌などは劣りたまは
ず。頭中将も、この尚侍の君をいとなつかしきはらからにて、
睦びきこえたまふものから、さすがなる気色うちまぜつつ、
宮仕にかひありてものしたまはましものをと、この若君のう

P382
つくしきにつけても、(柏木)「今まで皇子たちのおはせぬ嘆き
を見たてまつるに、いかに面目あらまし」とあまり事をぞ思
ひてのたまふ。公事はあるべきさまに知りなどしつつ、参り
たまふことぞ、やがてかくてやみぬべかめる。さてもありぬ
べきことなりかし。
まことや、かの内の大殿の御むすめの、
尚侍のぞみし君も、さるものの癖なれば、
色めかしうさまよふ心さへ添ひて、もてわ
づらひたまふ。女御も、つひにあはあはしきことこの君ぞひ
き出でんと、ともすれば御胸つぶしたまへど、大臣の、「今
はなまじらひそ」と制しのたまふをだに聞き入れず、まじら
ひ出でてものしたまふ。いかなるをりにかありけむ、殿上人
あまた、おぼえことなるかぎり、この女御の御方に参りて、
物の音など調べ、なつかしきほどの拍子うち加へて遊ぶ、秋
の夕のただならぬに、宰棺中将も寄りおはして、例ならず

P383
乱れてものなどのたまふを、人々めづらしがりて、(女房)「な
ほ人よりことにも」とめづるに、この近江の君、人々の中を
押し分けて出でゐたまふ。「あなうたてや。こはなぞ」と引
き入るれど、いとさがなげに睨みて張りゐたれば、わづらは
しくて、「奥なきことやのたまひ出でん」とつきかはすに、
この世に目馴れぬまめ人をしも、(近江の君)「これぞなこれぞ
な」とめでて、ささめき騒ぐ声いとしるし。人々いと苦しと
思ふに、声いとさはやかにて、
(近江の君)「おきつ舟よるべなみ路にただよはば棹さしよら
  むとまり教へよ
棚無し小舟漕ぎかへり、同じ人をや。あなわるや」と言ふを
いとあやしう、この御方には、かう用意なきこと聞こえぬも
のをと思ひまはすに、この聞く人なりけりとをかしうて、
(タ霧)よるべなみ風のさわがす舟人も思はぬかたに磯づた
  ひせず

P384
とて、はしたなかめりとや。


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