「浮船」 欠落部分の本文 語分割済みテキスト
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とて、その料の物、文など書き添へて持て来たり。限りと思ふ命のほどを知ら
で、かく言ひつゞけたまへるも、いとかなしと思ふ。
寺へ人やりたるほど、返り事書く。言はまほしきこと多かれど、つゝましく

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て、たゞ、
のちに又あひ見むことを思はなむこの世の夢に心まどはで
ず行の鐘の風につけて聞こえ来るを、つくづくと聞き臥し給。
鐘の音の絶ゆるひゞきに音をそへてわが世つきぬと君に伝へよ
巻数持て来たるに書きつけて、「こよひはえ帰るまじ」と言へば、物の枝に結
ひつけてをきつ。乳母、「あやしく心ばしりのするかな。夢もさはがしとの給
はせたりつ。宿直人よくさぶらへ」と、言はするを、苦しと聞き臥し給へり。
「物きこしめさぬ、いとあやし。御湯漬」などよろづに言ふを、さかしがるめ
れど、いとみにくゝ老いなりて、われなくはいづくにかあらむ、と思ひやりた
まふもいとあはれなり。世の中にえありはつまじきさまを、ほのめかして言は
むなどおぼすに、まづおどろかされて先立つ涙をつゝみ給て、物も言はれず。
右近、ほど近く臥すとて、「かくのみ物を思ほせば、物思ふ人のたましゐはあ
くがるなるものなれば、夢もさはがしきならむかし。いづ方とおぼし定まりて、
いかにもいかにもおはしまさなむ」とうち嘆く。なへたる衣をかをにをしあてて臥
したまへりとなむ。


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