「行幸」 欠落部分の本文  語分割済みテキスト
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 御小袿の袂に、例のおなじ筋の歌ありけり。
  我身こそ恨られけれ唐衣君がたもとになれずと思へば
御手は、むかしだにありしを、いとわりなうしゞかみ、彫り深う強う固う書き
たまへり。おとゞ、にくき物の、おかしさをばえ念じ給はで、「この歌よみつ
らむほどこそ。ましていまは力なくて、ところせかりけむ」といとおしがりた
まふ。「いで、この返こと、さはがしうともわれせん」との給て、
  あやしう、人の思ひ寄るまじき御心ばへこそ、あらでもありぬべけれ。
と、にくさに書きたまうて、
  唐衣又から衣からころもかへすかへすもから衣なる
とて、「いとまめやかに、かの人のたてて好む筋なれば、ものしてはべるなり」
とて、見せたてまつりたまへば、君いとにほひやかに笑ひたまひて、「あない
とおし。弄じたるやうにもはべるかな」と苦しがり給。ようなしごといと多か
りや。
 内のおとゞは、さしもいそがれたまふまじき御心なれど、めづらかに聞きた
まふしのちは、いつしかと御心にかゝりたれば、とくまいり給へり。儀式など、

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あべいかぎりに又過ぎて、めづらしきさまにしなさせたまへり。げにわざと御
心とゞめたまふけること、と見たまふも、かたじけなき物から、様変はりてお
ぼさる。
 亥の時にて、入れたてまつりたまふ。例の御まうけをばさる物にて、うちの
御座いと二なくしつらはせたまうて、御肴まいらせたまふ。御殿油、例のかゝ
る所よりは、すこし光見せて、おかしきほどにもてなしきこえたまへり。いみ
じうゆかしう思きこえ給へど、こよひはいとゆくりかなべければ、引き結びた
まふほど、え忍びたまはぬけしきなり。あるじのおとゞ、「こよひはいにしへ
ざまのことはかけはべらねば、何のあやめも分かせたまふまじくなむ。心知ら
ぬ人目を飾りて、猶世の常のさほうに」と聞こえ給。「げにさらに聞こえさせ
やるべき方はべらずなむ」。御土器まいるほどに、「限りなきかしこまりをば、
世にためしなきことと聞こえさせながら、いままでかく忍びこめさせ給けるう
らみも、いかゞ添へはべらざらむ」と聞こえたまふ。
  うらめしや興津玉もをかづくまで磯がくれける海人の心よ
とて、猶つゝみもあへずしほたれたまふ。姫君は、いとはづかしき御さまども

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のさし集ひ、つゝましさに、え聞こえたまはねば、殿、
  「よるべなみかゝるなぎさにうち寄せて海人もたづねめもくづとぞ見し
いとわりなき御うちつけごとになん」と聞こえたまへば、「いとことはりにな
ん」と、聞こえやる方なくて出でたまひぬ。
 親王たち、次次、人人残るなく集ひたまへり。御懸相人もあまたまじり
たまへれば、このおとゞ、かく入りおはしてほど経るを、いかなることにかと
疑ひたまへり。かの殿の君達、中将、弁の君ばかりぞほの知り給へりける。人
知れず思ひしことを、からうも、うれしうも思ひなりたまふ。弁は、「よくぞ
うち出でざりける」とさゝめきて、「さま異なるおとゞの御好みどもなめり。
中宮の御たぐひにしたてたまはむとやおぼすらむ」など、をのをの言ふよしを
聞きたまへど、「猶しばしは御心づかひしたまうて、世に譏りなきさまにもて
なさせたまへ。何ごとも心やすきほどの人こそ、乱りがはしう、ともかくもは
べべかめれ、こなたをもそなたをも、さまざま、人の聞こえなやまさむ、たゞ
ならむよりはあぢきなきを、なだらかに、やうやう人目をも馴らすなむ、よき
ことにははべるべき」と申たまへば、「たゞ御もてなしになん従ひ侍べき。か

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うまで御覧ぜられ、ありがたき御はぐくみに隠ろへ侍けるも、先に世の契りを
ろかならじ」と申たまふ。
 御をくり物などさらにも言はず、すべて引き出で物、禄ども、品品につけ
て例あること限りあれど、又こと加へ二なくせさせたまへり。大宮の御なやみ
にことつけたまうしなごりもあれば、ことことしき御遊びなどはなし。
 兵部卿の宮、「いまはことつけやり給べきとゞこほりもなきを」と、をり立
ち聞こえ給へど、「内より御けしきあることかへさひ奏し、又また仰せ言に従
ひてなむ、異ざまのことはともかくも思さだむべき」とぞ聞こえさせ給ける。
 父おとゞは、ほのかなりしさまを、いかでさやかに又見む、なまかたほなる
こと見えたまはば、かうまでことことしうもてなしおぼさじなど、中中心も
となう恋しう思きこえたまふ。いまぞ、かの御夢も、まことにおぼし合はせけ
る。女御ばかりには、さだかなることのさまを聞こえ給ふけり。
 世の人聞きに、しばしこのこと出ださじ、と切に篭めたまへど、口さがなき
ものは世の人なりけり。自然に言ひ漏らしつゝ、やうやう聞こえ出で来るを、
かのさがな物の君聞きて、女御の御前に、中将、少将さぶらひたまふに出で来

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て、「殿は御むすめまうけたまふべかなり。あなめでたや。いかなる人、二方
にもてなさるらむ。聞けばかれもをとり腹なり」とあふなげにのたまへば、女
御、かたはらいたしとおぼして、ものものたまはず。
 中将、「しかかしづかるべきゆへこそ物したまふらめ。さてもたが言ひしこ
とを、かくゆくりなくうち出で給ふぞ。物言ひたゞならぬ女房などこそ耳とゞ
むれ」とのたまへば、「あなかま。みな聞きてはべり。尚侍になるべかなり。
宮仕へにと急ぎ出で立ち侍しことは、さやうの御返みもやとてこそ、なべて
の女房たちだに仕ふまつらぬことまで、下り立ち仕うまつれ。御前のつらくお
はします也」と恨みかくれば、みなほほ笑みて、「尚侍あかば、なにがしこそ
望まんと思ふを、非道にもおぼしかけけるかな」などのたまふに、腹立ちて、
「めでたき御中に、数ならぬ人はまじるまじかりけり。中将の君ぞつらくおは
する。さかしらに迎へたまひて、軽め嘲けり給ふ。少少の人は、え立てるまじ
き殿のうちかな。あなかしこあなかしこ」と、しりゑざまにゐざり退きて見おこせた
まふ。にくげもなけれど、いと腹あしげにまじり引き上げたり。
 中将は、かく言ふにつけても、げにしあやまちたること、と思へば、まめや

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かにてものしたまふ。少将は、「かゝる方にても、たぐひなき御ありさまを、
をろかにはよもおぼさじ。御心しづめたまふてこそ。堅き巌もあは雪になした
まふつべき御けしきなれば、いとよう思ひかなひたまふ時もありなむ」と、ほ
ほ笑みて言ひゐ給へり。中将も、「天の磐戸さし篭りたまひなんや。めやすく」
とて立ちぬれば、ほろほろと泣きて、「この君たちさへみなすげなくしたまふ
に、たゞ御前の御心のあはれにおはしませばさぶらふなり」とて、いとかやす
く、いそしく、下らう、童べなどの仕うまつりたらぬざうやくをも、立ち走り
やすくまどひありきつゝ、心ざしを尽くして宮仕へしありきて、「尚侍にをれ
を申なしたまへ」と責めきこゆれば、あさましう、いかに思ひて言ふことなら
む、とおぼすに、物も言はれ給はず。
 おとゞ、この望みを聞きたまひて、いとはなやかにうち笑ひたまひて、女御
の御方にまいりたまへるつゐでに、「いづら、この近江の君、こなたに」と召
せば、「を」と、いとけざやかに聞こえて出で来たり。「いと、仕へたる御けわ
ひ、おほやけ人にて、げにいかに合ひたらむ。尚侍のことは、などかをのれに
とくはものせざりし」と、いとまめやかにてのたまへば、いとうれし、と思ひ

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て、「さも御けしきたまはらまほしう侍しかど、この女御殿など、をのづから
伝へきこえさせ給てむと、頼みふくれてなむさぶらひつるを、なるべき人もの
したまふやうに聞きたまふれば、夢に富みしたる心ちしはべりてなむ、胸に手
をおきたるやうに侍」と申たまふ舌ぶりいと物さはやかなり。
 えみ給ぬべきを念じて、「いとあやしう、おぼつかなき御癖なりや。さもお
ぼしのたまはましかば、まづ人のさきに奏してまし。おほきおとゞの御むすめ
やむごとなくとも、こゝに切に申さむことは、聞こしめさぬやうあらざらまし。
いまにても、申文を取り作りて、びゝしう書き出だされよ。長歌などの心ば
へあらむを、御覧ぜむには捨てさせ給はじ、上は、そのうちになさけ捨てずお
はしませば」など、いとようすかしたまふ。人の親げなく、かたはなりや。
「山とうたは、あしあしもつゞけ侍なむ。むねむねしき方のことはた、殿より
申させたまはば、つまごえのやうにて、御徳をも蒙りはべらむ」とて、手をお
しすりて聞こえゐたり。御き丁のうしろなどにて聞く女房、死ぬべくおぼゆ。
物笑ひに耐へぬは、すべり出でてなむなぐさめける。女御も御面赤みて、わ
りなう見ぐるしとおぼしたり。殿も、「ものむつかしきおりは、近江の君見る

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こそ、よろづ紛るれ」とて、たゞ笑ひぐさにつくり給へど、世人は、「はぢが
てら、はしたなめたまふ」など、さまざま言ひけり。


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