53巻 て な ら ひ
畳語、繰り返し文字は文字になおしてあります。和歌部分は『 』で囲んであります。句点は「。」になおしてあります。
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そのころよかはに・なにかしそうつとかいひていとたうとき人すみけり・やそちあまりのはは・五十はかりのいもう
とありけり・ふるき願ありて・はつせにまうてたりけり・むつましくやむ事なくおもふ・てしの阿闍梨をそへて・ほ
とけ經くやうする事をこなひけり・事ともおほくしてかへるみちに・ならさかといふ山こえけるほとより・このはは
のあま君ここちあしくしけれは・かくてはいかてかのこりのみちをもおはしつかむともてさはきて・宇冶のわたりに
しりたりける人のいへありけるにととめて・けふはかりやすめたてまつるに・なをいたくわつらへは・よかはにせう
そこしたり・(1オ)」やまこもりのほいふかくことしはいてしとおもひけれと・かきりのさまなるおやのみちのそらに
てなくやな覽とおとろきて・いそきものしたまへり・おしむへくもあらぬ人のさまを・みつからも・てしのなかにも
けんあるして・かちしさはくを・いゑあるしききて・みたけさうししけるを・いたくおいたまへる人のおもくなやみ
たまふは・いかかとうしろめたけにおもひていひけれは・さもいふへきことといとをしくおもひて・いとせはくむつ
かしくもあれは・やうやうゐてたてまつるへきに・なかかみふたかりて・れいすみたまふかたはいむへかりけれは・
故朱雀院の御兩にて宇治の院といひしところ・このわたりならんと(1ウ)」おもひいてて・院もり・そうつしり給へり
けれは・一二日やとらんといひにや〈り〉たまへりけれは・はつせになん・きのふみなまうてにけるとて・いとあやし
きやともりのおきなをよひてゐてきたり・おはしまさは・はやいたつらなる院のしむてむにこそ侍めれ・物まうての
人はつね〈に〉そやとりたまふといへは・いとよかなり・おほ〈や〉けところなれと・人もなく心やすきをとてみせに
やりたまふ・このおきな・れいもかくやとる人をみならひたりけれは・おろそかなるしつらひなとしてきたり・まつ
僧都わたり給・いといたくあれておそろしけなるところかなとみたまひて・大とこたち經よめなとの給・このはつせ
にそひたりしあさりと・おなしやうなるいまひとり・なに(2オ)」ことのあるにか・つきつきしきほとのけらうほうし
にひともさせて・人もよらぬうしろのかたにいきたり・もりかとみゆるきのしたをうとましけのわたりやとみいれた
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るに・しろき物のひろこりたるそみゆる・かれはなにそとたちとまりて・火をあかくなしてみれは・もののゐたるす
かたなり・きつねのへんくゑ〈け〉したる・にくしみあらはさんとて・ひとりはいますこしあゆみよる・〈いま〉ひ
とりはあなようなよからぬ物ならんといひて・さやうの物しそくへきいんをつくりつつ・さすかになをまもる・か
しらのかみあらはふとりぬへき心ちするに・このひともしたる大とこはははかりもなくあふなきさまにてちかくより
て・そのさまをみれは・かみ〈は〉なかくつやつやとして・おほきなる木(2ウ)」の〈ねの〉いとあらあらしきにより
ゐていみしくなく・めつらしきことにも侍かな・僧都の御房にこ〈御〉らんせさせたてまつらはやといへは・けにあ
やしきことなりとて・一人はまうててかかることな〈ん〉と申す・きつねの人にへんくゑ〈け〉するには・むかしよ
りきけと・またみぬ物なりとて・わさとおりておはす・かのわたりたまはんとすることによりて・けすともはみなは
かはかかしきは・みつしところなとあるへかしきことともをかかるわたりにはいそく物なりけれは・ゐしつまりなとし
たるに・たた四五人してここなる物をみるに・かはる事もなし・あやしくて時のうつるまてみる・とく夜もあけはて
なん・人かなにそとみあらはさんと・心にさるへきしむこんをよみ・いんをつくりて・心みるに(3オ)」しるくや思ら
ん・これは人なり・さらにひさうのけしからぬものにあらす・よりてとへ・なくなりたる人にはあらぬにこそあめれ
・もししにたりける人をすてたりけるか・よみかへりたるかといふ・なにのさる人をか・この院のうちにすて侍らん
・たとひま事に人なりとも・きつねこたまやうのもののあさむきてとりもてきたるにこそ侍らめ・い〈と〉ふひ〈ん〉
にも侍けるかな・けからひあるへきところにこそはへめれといひて・ありつるやともりのおのこをよふ・山ひこのこ
たふるもいとおそろし・あやしのさまにひたひをしあけていてきたり・ここにはわかき女なとやすみ給・かかる事な
んあるとてみすれは・きつねのつかまつるなり・〈この〉木のもとに時時あやしきわさし侍る・おととし(3ウ)」の
秋も・ここに侍る人のこのふたつはかりに侍しをとりてまうてきたりしかとも・みおとろかす侍り〈き〉・きつねは
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さこそは人はをひやかせと・ことにもあらぬやつといふさまいとなれたり・かのよふかきまいり物のところに心をよ
せたるなるへし・僧都さらはさやうの物のしたるわさか・なをよくみよとて・このものをちせぬほうしをよせたれは
・おにか神かきつねかこたまか・かはかりのあめのしたのけんさのおはしますにはえかくれたてまつらし・なのり給
ヘ給ヘヘときぬをとりてひけは・かほをひきいれていよいよなく・いてあなさかなのこたまのおにや・まさにかくれな
んやといひつつ・かほをみんとするに・むかしありけんめもはなもなかりけんめをににやあらんとむくつけきを・た
のもしく(4オ)」いかきさまを人にみせんと思て・きぬをひきぬかせんとすれは・うつふしてこゑをたつはかりなく・
なににまれ〈かく〉あやしきことなへてよにあらしとてみはてんとおもふに・あめいたくふりぬへし・かくてをいた
らはしにはて侍りぬへし・かきのもとにこそいたさめといふ・そうつまことの人〈の〉かた〈ち〉なり・そのいの
ちたえぬをみるみるすてんこといみしきことなり・いけにおよくいを・山になくしかをたに・人にとらへられてしな
んとするをみつつ・たすけさらんはいとかなしかるへし・人のいのちひさしかるましき物なれと・のこりのいのち一
二日をもおしますはあるへからす・おににも神にも兩せられ・人におはれ人にはかりこたれても・これよこさまのし
にをすへき物にこそはあめれ・ほと(4ウ)」けのかならすすくひ給へききはなり・なを心みにしはしゆをのませなとし
て・たすけ心みん・つゐにしなはいふかきりにあらすとの給て・この大とこしていたきいれさせ給を・てしともたい
たいしきわさかな・いたくわつらひたまふ人の御あたりに・よからぬ物をとりいれてけからひかならすいてきなんと
すともとくもあり・又もののへんくゑ〈け〉にもあれ・めにみすみすいける人をかかるあめにうちうしなはせんはい
みしきことなれはなと・心心にいふ・けすなとはいとさはかしくものをうたていひなす物なれは・人さはかしから
ぬかくれのかたに〈なん〉ふせ〈た〉りける・御くるまよせており給ほと・いたくくるしかり給とて・ののしる・す
こししつまりて・僧都ありつる人はいかかなりぬるととひ給・なよなよとして物もいはす・いきも(5オ)」し侍らす・
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なにかものにけとられにける・人にこそといふを・いもうとのあま君きき給て・なに事そととふ・しかしかの事をな
ん・六十にあまるとしめつらかなる物をみたまつるとのたまふ・うちきくままに・をのかてらにてみしゆめありき・
いかやうなる人そ・まつそのさまみんとなきてのたまふ・たたこのひんかしのやりとになん侍る・はや御覽せよとい
へは・いそきいきてみるに・人もよりつかてそすてをきたりける・いとわかくうつくしけなる女のしろきあやのきぬ
ひとかさねくれなゐのはかまそきたる・かはいみしくかうはしくて・あてなるけはひかきりなし・たたわかこひかな
しふむすめのかへりおはしたるなめりとて・なくなくこたちをいたしていたきいれさす・いかなりつらんとも有さま
みぬ(5ウ)」人はおそろしからていたきいれつ・いけるやうにもあらて・さすかにめをほのかにみあけたるに・ものの
たまへやいかなる人かかくては物したまへるといへと・ものおほえぬさまなり・ゆとりててつからすくひいれなとす
るに・たたよはりにたえいるやうなりけれは・なかなかいみしきわさかなとて・この人なくなりぬへし・かちし給へ
とけんさのあさりにいふ・されはこそあやしき御ものあつかひなりとはいへと・かみなとの御ために經よみつついの
る・そうつもさしの〈そ〉きていかにそなにのしわさそとよくてうしてとへとの給へと・いとよはけにきえもてゆく
やうなれは・えいき侍らし・すすろなるけからひにこもりてわつらふへきこと・さすかにいとやむことなき人にこそ
侍めれ・しにはつともたたにてやはすてさせ給はん・みくるしき(6オ)」わさかなといひあへり・あなかま人にきかす
な・わつらはしき事もそあるなとくちかためつつ・あまきみはおやのわつらひたまふよりも・この人をいけはててみ
まほしくおしみてうちつけにそひゐたり・しらぬ人なれと・みめのこよなくをかしけなれは・いたつらになさしとみ
るかきりあつかひさはきけり・さすかに時時めみあけなとしつつ〈は〉なみたのつきせすなかるるを・あな心うや
いみしうかなしとおもひし人のかはりに・ほとけのみちひき給へるとおもひきこゆるを・かひなくなり給はは・中
中なる事をや思はん・さるへきちきりにてこそ・かくみたてまつるらめ・なをいささかものの給へといひつつくれ
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と・からうしていきいてたりとも・あやしきふようの人なり・人にみせてよるこのかはにおとしいれ給て(6ウ)」よと
・いきのしたにいふ・まれまれ物の給をうれしと思ふに・あないみしや・いかなれはかくはの給そ・いかにしてさる
ところにはおはしつるそととへとも・物もいはすなりぬ・身にもしきすなとやあらんとてみれと・ここはとみゆると
ころなくうつくしけれは・あさましくかなしく・ま事に人の心まとはさんとて・いてきたるかりの物にやとうたかふ
・二日はかりこもりゐてふたりの人をいのりかちするこゑたえす・あやしきことをおもひさはく・そのわたりのけす
なとの僧都につかうまつりける・かくておはしますなりとてとふらひいてくる〈も〉物かたりなとしていふをきけは
・故八の宮の御むすめ・右大將殿のかよひたまひし・ことになやみ給こともなくて・にはかにかくれ給へりとてさは
き侍り・その御さうそうの(7オ)」さうしともつかうまつり侍りとて・きのふはえまいり侍らさりしといふ・さやうの
人のたましひをおにのとりもてきたるにやとおもふにも・かつみゆるゆるあるものともおほえす・あやうくおそろし
とおほす・人人よへみやられしひは・しかことことしきけしきもみえさりしをといふ・ことさらことそきていかめ
しくも侍らさりしといふ・けからひたる人とてたちなからをひかへしつ・大將殿は宮の御むすめもち給へりしはうせ
給て・としころになりぬる物を・たれをいふにかあらん・ひめ宮ををきたてまつり給て・よに〈こと〉心おは〈せ〉
しなといふ・あまきみよろしくなり給ぬ・かたもあきぬれは・かくうたてあるところにひさしくおはせんもひんなし
とてかへる・この人はなをいとよはけなり・みち(7ウ)」のほともいかかものしたまはん・いと心くるしき事といひあ
へり・くるまふたつして・おい人のり給へるにはつかうまつるあまふたり・つきのにはこの人をふせてかたわらに
いま人ひとりのり〈そ〉ひて・みちすからゆきもやらす・くるまととめてゆまいり〈なと〉し給・ひえさかもとにを
のといふところにそすみ給ける・そこにおはしつくほと・いととほし・なかやとりをまうくへき〈かり〉けるなとい
ひて・よふけておはしつきぬ。僧都はおやをあつかひ・むすめのあまきみはこのしらぬ人をはくくみて・みないたき
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おろしつつやすむ・おいのやまひのいつともなきかくるしとおもふ給へし・とをみちのなこりこそ・しはしわつらひ
たまひけれ・やうやうよろしくなり給にけれは・僧都はのほり給ぬ・かかる人なんゐてきたるなとほうしのあたりに
はよか(8オ)」らぬことなれは・みさりし人にはまねはす・あま君もみなくちかためさせつつ・もしたつねくる人もや
あるとおもふもしつ心なし・いかてさるゐ中人のすむあたりに・かかる人おちあふれけん・物まうてなとしたりけん
人の心地なとわつらひけんを・ままははなとやうの人のたはかりてをかせたる〈に〉やとそおもひよりける・かはにな
かしてよといひしひとことよりほかにものもさらにの給はねは・いとおほつかなくおもひて・いつしか人にもなして
みんとおもふに・つくつくとしておきあ〈か〉るよもなく・いとあやしくのみものし給へは・つゐにいくましき人に
やとおもひなから・うちすてんもいとをしくいみし・ゆめかたりもしいてて・はしめよりいのらせしあさりにもしの
ひやかにけしやくことせさせ給・うちはへかくあつかふほとに・四五(8ウ)」月もすきぬ・いとわひしくかひなきこと
をおもひわひて・僧都の御もとになをおり給へ・この人たすけ給へ・さすかにけふまてもあるはしぬましかりける人
を・つきしみ兩したる物のさらぬにこそあめれ・あかほとけ京にいて給ははこそあらめ・ここまてはあへなんなとい
みしきことをかきつつけてたてまつれ給へれは・いとあやしき事かな・かくまてもありける人のいのちを・やかてと
りすててましかは・さるへきちきりありてこそは・われしもみつけけめ・心みにたすけはてんかし・それにとまらす
は・こうつきにけりとおもはんとており給へり・よろこひをかみて・月ころのありさまをかたる・かくひさしくわつ
らふ人はむつかしき事おのつからあるへきを・いささかおとろへす・いときよけにねちけたるところなく(9オ)」のみ
ものしたまうて・かきりとみえなからも・かくていきたるわさなりけりなと・おほなおほななくなくの給へは・みつけ
しよりめつらかなる人のみ有さまかな・いてとてさしのそきてみ給て・けにいときやうさくなりける人の御よそめい
かな・くとくのむくひにこそ・かかるかたちにもおひいて給けめ・いかなるたかひめにて・そこなはれたまひけん・
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もしさにやとききあはせらるることもなしやととひ給・さらにきこゆ〈えく〉る事もなし・なにかはつせの觀音のた
まへる人なりとのたまへは・なにかそれえんにしたかひてこそみちひき給らめ・たねなきことはいかてかなとの給ひ
あやしかり給て・すほうはしめたり・おほやけのめしにたにしたかはすふかくこもりたる山をいて給て・すすろにか
かる人のためになん・をこ(9ウ)」なひさはき給ともののきこえあらんいとききにくかるへしとおほし・弟子とももい
ひて・人にきかせしとかくす・僧都いてあなかま大とこたち・われむさんのほうしにて・いむことの中にやふるか
いはおほからめと・女のすちにつけてまたそしりとらす・あやまつことなし・よはひ六十にあまりて・いまさらに人
のもときをはんはさるへきにこそあらめとの給へは・よからぬ人のものをひなくいひなし侍る時には・佛法のきすと
なり侍ることなりと心よからすおもひつついふ・このすほうのほとに・しるしみえすはといみしき事ともをちかひた
まひて・夜ひとよかちし給へるあか月に・人にかりうつして・なにやうのもののかく人をまとはしたる〈そ〉と有さ
まはかりいはせまほしくて・弟子のあさりとりとりにかちし(10オ)」給・月ころいささかもあらはれさりつるもののけ
てうせられて・をのれはここまてまうてきて・かくてうせられたてまつるへき身にもあらす・むかしはをこなひせし
法師のいささかなるよにうらみをととめて・たたよひありきし程に・よき女のあまたすみ〈給〉しところにすみつき
て・かたへはうしなひてしに・この人はこころとよをうらみ給て・われいかてしなんといふ〈事〉をよるひるの給し
にたよりをえて・いとくらきよひとり物したまひしをとりてしなり・されと觀音とさまかうさまにはくくみ給けれは
・この僧都にまけたてまつりぬ・いまはまかりなんとののしる・かくいふはなにそととへは・つきたる人物はかりな
きけにや・はかはかしく〈物〉もいはす・さうしみの心ちはさはやかにいささか物をおほえてみまはしたれは・ひと
りみし人のかほ(10ウ)」はなくて・みなおい法師ゆかみおとろへたる物とものみおほかれは・しらぬくににきにける
心ちしていとかなし・ありしよのこと〈わつかに〉思いつれと・すみけんところたれといひし人とたに・たしかには
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かはかかしくもおほえす・たたわれはかきりとて身をなけし人そかし・いつこにきにたるにかと・せめておもひいつれ
は・いといみしと物を思なけきて・みな人のねたりしに・つまとをはなちていてたりしに・風はけしくかはなみも
あらうきこえしを・ひとり物おそろしかりしかは・きし〈かた〉ゆくすゑもおほえて・すのこ〈の〉はしにあしをさ
しおろしなから・いくへきかたもまとはれてかへりいらんも中そ1らにて・心つよくこのよにうせなんとおもひたちし
を・おこかましくて人にみつけられんよりは・おにもなにもくひうしなひてよといひつつ・つくつくとゐたりしを・
(11オ)」いときよけなるおとこのよりきて・いさ給へおのかもとへといひて・いたく心地せしを・宮ときこへ〈え〉し
人のし給とおほえしほとより・心ちまとひにけるなめり・しらぬところにすゑをきて・このをとこきえうせぬとみし
を・つい〈ゐ〉にかくほいのこともせすなりぬると思ひつついみしうなくと思ひし程に・そののちのことはたえてい
かにもいかにもかにもおほえす・人のいふをきけは・おほくのひころもへにけり・いかにうきさまをしらぬ人にあつかはれみえ
つらんとはつかしく・つゐにかくていきかへりぬるかとおもふもいみしく〈う〉くちをしけれは・いみしくおほえて
・なかなかしつみ給へりつるひころはうつし心もなきさまにて・物いささかまいるをりもありつるを・つゆはかりの
ゆをたにまいらす・いかなれはかくたのもしけなくのみはおもはするそ・うち(11ウ)」はへぬるみなとし給へることは
さめ給て・さはやかにみえ給へれはうれしく思ひきこゆるをとなくなくたゆむをりなくそひゐてあつかひきこえ給・
ある人人もあたらしき御さまかたちをみれは・心をつくしてそおしみまもりける・心にはなをいかてしなんとそ思
ひわたり給へと・さはか〈り〉にていきとまりたる人のいのちなれは・いとしうねくて・やうやうかしらもたけ給へ
は・物まいりなとし給にそ・中中おもやせもていく・いつしかとうれしく思ひきこゆるに・あまになし給てよ・さ
てのみなんいくやうもあるへきとの給へは・いとをしけなる御さまを・いかてかさはなしたてまつらんとて・たたい
たたきはかりを〈そき・五かいはかりを〉うけさせたてまつる心もとなけれと・もとよりおれおれしき人の心にて・
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えさかしくしひてもの給はす・僧都はいまはかはかりにていたはりやめたて(12オ)」まつり給へといひをきてのほり給
ひぬ・ゆめのやうなる人をみたてまつるかなと・あま君はよろこひて・せめておこし〈すゑ〉つつ・御くしてつから
けつり給・さはかりあさましくひきゆひてうちやりたりつれと・いたくもみたれす・ときはてたれはつやつやとけふ
らなり・ひととせたらぬつくもかみおほかるところに・めもあやにいみしき天人のあまくたれるをみた覽やうに思ふ
もあやうき心地すれと・なとかいと心うくかはかりいみしくおもひきこゆる〈に〉・御心をたててはみえ給・いつこに
たれときこえし人のさるところにはいかておはせしそとせめてとふを・いとはつかしとおもひて・あやしかりしほと
に・みなわすれたるにやあらん・ありけんさまなともさらにおほえ侍らす・たたほのかにおもひいつることとては・
たたいかてこの世にあらしとおもひつつ・ゆふくれこ(12ウ)」とにはしちかくてなかめしほとに・まへちかくおほきな
るきのありししたより人のいてきてゐていく心地なんせし・それよりほかのことはわれなからたれともえおもひいて
られ侍らすといとらうたけにいひなして・よの中になほありけりといかて人にしられし・ききつくる人もあらはいと
いみしくこそとてない給・あまりとふをはくるしとおほしたれは・えとはす・かくやひめをみつけたりけんたけとり
のおきなよりもめつらしき心地するに・いかなる物のひまにきえうせんとすらんとしつ心なくそおほしける・このあ
るしもあてなる人なりけり・むすめのあま君はかんたちめのきたのかたにてありけるか・その人なくなり給てのち・
むすめたたひとりをいみしくかしつきて・よききんたちをむこにして・おもひあつかひけるを・そのむすめの君
(13オ)」のなくなりにけれは・心うしいみしとおもひいりて・かたちをもかへ・かかる山さとにはすみはしめたるなり
けり・よとともにこひわたる人のかたみにもおもひよそへつへからん人をたにみいててしかな・つれつれも心ほそき
ままにおもひなけきけるを・かくおほえぬ人のかたちけはひもまさりさまなるをえたれは・うつつのことともおほえ
す・あやしき心地しなからうれしとおもふ・ねひにたれと・いときよけによしありてありさまもあては〈や〉かなり・
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むかしの山さとよりは・みつのをともなこやかなり・つくりさまゆへあるところのこたちおもしろく・せんさいなと
もおかしくゆへをつくしたり・秋になりゆけは・そらのけはひあはれなるを・かとたのいねかるとて・ところにつけ
たる物まねひしつつ・わかき女ともはうたうたひけうしあへり・ひたひきならすをともをかし・みしあつまちのこと
なとおもひ(13ウ)」いてられて・かのゆふきりの御息所のおはせし山さとよりはいますこしいりて・山にかたかけた
るいゑなれは・まつかけしけく風のおともいと心ほそきに・つれつれにをこなひのみしつつ・いつともなくしめやか
なり・あま君そ月なとあかきよは・きんなとひき給・少將のあま君なといふ人はひはひきなとしつつあそふ・かかる
わさはし給や・つれつれなるになといふ・むかしもあやしかりける身にて・こころのとかにさやうのことすへきほと
もなかりしかは・いささかおかしきさまならすもおひいてにけるかな・とかくさたすきにける人の心をやるめるおり
をりにつけては・おもひいつ・猶あさましく物はかなかりけると・われなからくちをしけれは・てならひに
『身をなけしなみたの川のはやきせをしからみかけ(14オ)」てたれかととめし』・おもひのほかに心うけれは・ゆくす
ゑもうしろめたくうとましきまておもひやらる・月のあかきよなよな・おい人ともはえむにうたよみ・いにしへおも
ひいてつつ・さまさまの物かたりなとするに・いらふへきかたもなけれは・つくつくとうちなかめて
『われかくてうきよのなかにめくるともたれかはしらん月のみやこに』・いまはかきりとおもひはてしほとは・こひ
しき人おほかりしかとも・こと人人はさしもおもひいてられす・たたおやいかにまとひ給けん・めのとよろつにい
かて人なみなみになさんとおもひいられしを・いかにあえなき心ちしけん・いつこにあらん・われよにある物とはい
かてかしらん・おなし心なる人もなかりしままに・よろつへたつることなく・かたらひみなれたりし右近なともおり
おり(14ウ)」はおもひいてらる・わかき人のかかるやまさとにいまはとおもひたえこもるはかたきわさなりけれは・た
たいたくとしへにけるあま七八人そつねの人にてはありける・それらかむすめむまこやうの物とも・京にみやつかへ
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するもことさまにてあるも・時時そきかよひける・かやうの人につけて・みしわたりにいきかよひ・おのつからよ
にありけるとたれにもたれにもきかれたてまつらんこと・いみしくはつかしかるへし・いかなるさまにて・さすらへけん
なとおもひやりよつかすあやしかるへきをおもへは・かかる人人にかけてもみえす・たた侍從・こもきとて・あま
君のわか人にしたりけるふたりをのみそ・この御かたにいひわきたる・みめも心さまもむかしみし宮ことりににたる
ことなし・なにことにつけても・世中に(15オ)」あらぬところはこれにやあらんとそかつはおもひなされける・かくの
み人にしられしとしのひ給へは・まことにわつらはしかるへきゆへある人にもものしたまふらんとて・くはしきこと
ある人人にもしらせす・あま君のむかしのむこの君いまは中將にてものしたまひけるか・おとうとのせんしのきみ
・僧都の御もとにものし給ける山こもりしたるをとふらひにはらからの君たちつねにのほりけり・よ河にかよふみち
のたよりによせて・中將ここにおはしたり・さきうちおひてあてやかなるをとこのいりくるをみいたして・しのひや
かにておはせし人の御さまけはひそ・さやかにおもひいてらるる・これも〈いと〉心ほそきすまひのつれつれなれと
・すみつきたる人人は・物きよけにをかしくしなして・かきほにうへたるなてしこもおもしろく・をみなへしきき
や(15ウ)」うなとさきはしめたるに・いろいろのかりきぬすかたのおとことものわかきあまたして・君もおなしさうそ
くにてみなみおもてによひすゑたれは・うちなかめてゐたり・とし廿七八のほとにてねひととの〈ひ〉・ここちなか
らぬさまもてつけたり・あま君さうしくちにき丁たててたいめんし給・まつうちなきてとしろころのつもりには・す
きにし〈かた〉いととけとをくのみなん侍るを・やまさとのひかりになをまちきこえさすることのうちわすれすや
〈の〉み侍らぬ〈る〉を・かつ〈は〉あやしくおもふ給ふるとの給へは・心のうちあはれにすきにしかたのこととも
おもふ給へられぬおりなきを・あなかちにすみはなれかほなる御ありさまにおこたりつつなん・山こもりもうらやま
しく・つねにいてたち侍るを・おなしくはなとしたひまとはさるる人人にさまたけらるるやうに侍りてなん・けふ
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(16オ)」はみなはふきすててものし侍りつるとの給・やまこもりの御うらやみは中中いまやうたちたる御物まねひに
なん・むかしをおほしわすれぬ御心はへもよになひかせ給はさりけるとおろかならすおもふ給へ〈し〉らるるおりお
ほくなといふ・人人にすいはんなとやうの物くはせ・君にもはすのみなとやうの物いたしたれは・なれにしあたり
にて・さやうのこともつつみなき心地して・むらさめのふりいつるにととめられて・ものかたりしめやかにし給・い
ふかひなくなりにし人よりもこの君の御心はへなとのいとおもふやうなりしを・よその物におもひなしたるなんいと
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りて・(30オ)」うれし・たのもしとおもひきこえしはらからの御あたりもおもはすにてたえにしを・さるかたに思さた
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るそとおもへは・こしまのいろをためしにちきり給しを・なとておかしとおもひきこえけんと・こよなくあきにたる
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心つきなくうたてみしらぬ心地して・なやましくなんとことなしひたまふを・しゐていふもいとこちなし・けすけす
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と侍りけれは・おりさせ給なり〈と〉いとはなやかにいひなす・はつかしくともたいめしてあまになし給てよといはん
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いのかたにおはしてかみはあま君のみけつり給を・こと人に・てふれさせんもうたておほつるに・てつからはたえせ
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かうなからのさまをみえすなりなんこそ・ひとやりならすかなしけれ・いたくわつらひしけにや・かみ(31ウ)」もすこ
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もはるけき心地し侍りて・ひさしくものし侍らぬを・さいつころ物のたよりにまかりて・はかなきよのありさまとり
かさねておもふたまへしに・ことさらたうしむをおこすへくつくりをきたりけるひしりのすみかとなんおほえ侍りし
とけいしたまふに・かのことおほしいてて・いといとおしけれは・そこにはおそろしき物やすむらん・いかやうにて
かかの人はなくなりにしととはせたまふを・猶うちつつきたるをおほしよるかたとおもひて・さも侍らん・さやうの人
はなれたるところはよからぬものなんかならすすみつき侍るを・うせ侍にしさまもいとあやしくなん侍るとて・くは
しくはきこえたまはす・なをかくしのふるすちをききあらはし(46ウ)」けりと思給はんか・いとをしくおほされ・みや
の物をのみおほしてそのころはやまひにもなり給しをおほしあはするにも・さすかにこころくるしくて・かたかた
にくちいれにくき人のうへとおほしととめつ・こ宰相にしのひて・大將かの人のことをいとあはれと思ひての給しに
・いとをしくてうちいてつへかりしかと・それに〈し〉もあらさらんものゆへとつつましくてなん・きみそことこと
ききあはせける・かたはならんことはとりかくして・さることなんありけるとおほかたの物かたりのついてに・僧都
のいひしことかたれとのたまはす・おまへにたにつつませ給はんことを・ましてこと人はいかてかときこえさすれと
さまさまなることにこそ・又まろはいとをしきことそあるやとの給はするも・(47オ)」心えておかしとみたてまつる・
たちよりて物かたりなとしたまふついてに・いひいてたり・めつらかにあやしといかてかはおとろかれたまはさらん
・宮のとはせ給しも・かかる事をほのおほしよりてなりけり・なとかのたまはせはつましきとつらけれと・われもま
たはしめよりありしさまのこときこえそめさりしかは・きき〈て〉のちもなほおこかましき心地して・人にすへても
らさぬを・中中ほかにはきこゆることもあらんかし・うつつの人人の中に・しのふることたにかくれある世のな
かかはなとおもひいりて・この人にもさなんありしなともあかしたまはんことは・なほくちをもき心地して・猶あや
しと思ひし人の事ににてもありける人のありさまかな・さてその人はなをあらんやとの給へは・かの僧都の山より
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いてし日なんあまにな(47ウ)」しつる・いみしくわつらひしほとにも見る人おしみて・せさせさりしを・しや〈さ〉う
しみのほいふかきことをいひて・なりぬるとこそはへなりしかといふ・ところもかはらす・そのころのありさ〈ま〉
とおもひあはするにたかふふしなけれは・まことにそれとたつねいてたらん・いとあさましき心地もすへきかな・い
かてかはたしかにきくへき・おりたちてたつねありかんもかたくなしなとや人いひなさん・又かの宮もききつけたま
へらんには・かならすおほしいてておもひいりにけんみちもさまたけ給てんかし・さてさなのたまはせそなときこ
えをきたまへれは・さるめつらしきことをきこしめしなから・我にはさなんききしなともの給はせぬにやありけん・
宮もかかつらひたまふにては・いみしくあはれとおもひ(48オ)」なからも・さらにやかてうせにし物とおもひなしてを
やみなん・うつしひとになりて・すゑのよには・きなるいつみのほとりはかりをおのつからかたらひよるかせのまき
れもありなん・わか物にとりかへしみんの心は又つかはしなとおもひみたれて・なをの給はすやあらんとおもへと・
御けしきのゆかしけれは・大宮にさるへきついてつくりいててそけいしたまふ・あさましくてうしなひ侍りぬと思給
へし人・よにおちあふれてあるやうに・人のまねひ侍りしかな・いかてかさることは侍らんとおもふ給れと・〈心と〉
おとろおとろしくもてはなるることは侍らすや〈と〉おもひわたり侍る人のありさまに侍れは・人のかたり侍しやうに
てはさるやうもや侍らんと・につかはしくおもふ給へらるるとて・いますこしきこえいて給・宮の御ことをいとはつ
かしけにさすかにうちみたるさまにはいひなし給はて・かのこと(48ウ)」又さなんとききつけ給へく〈ら〉は・かたく
なにすきすきしうもおほされぬへし・さらにさてありけりともしらすかほにてすくし侍なんと・けいしたまへは・僧
都のかたりしにいと物おそろしかりしよのことにて・みみもととめさりしことにこそ・宮はいかてかきき給はん・き
こえんかたなかりける御心のほとかなときけは・ましてききつけ給はんこそいとくるしかるへけれ・かかるすちにつ
けて・いとかろくうき物にのみよにしられたまひぬめれは・心うくなとの給はす・いとおもき御心なれは・かならす
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しもうちとけ〈ぬ〉よかたりにても・人のしのひてけいしけんことをもらさせ給はしなとおほす・すむらんやまさと
はいつこにかあらん・いかにしてさまあしからすたつねよらん・僧都にあひてこそはたしかなるありさまもきき(49
オ)」あはせなとして・ともかくもとふへかめれなと・たたこのことをおきふしおほす・月ことの八日はかならすたう
ときわさせさせ給へは・やくしほとけによせたてまつるにもてなし給つるたよりに・中たうには時時まいり給けり
・それよりやかてよかはにおはせんとおほして・かのせうとのわらはなるゐておはす・その人人にはとみにしらせ
し・ありさまにそしたかはんとおほせと・うちみんゆめのの心地にもあはれをもくはへんとにやありけん・さすかに
その人とはみつけなから・あやしきさまにかたちことなる人の中にて・うきことをききつけたらんこそ・いみしかる
へけれと・よろつにみちすからおほしみたれけるにや(49ウ)」
尾州家河内本 (武蔵野書院版)目次へ戻る