24巻 胡 蝶
畳語、繰り返し文字は文字になおしてあります。和歌部分は『 』で囲んであります。句点は「。」になおしてあります。
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やよひのはつかあまりのころほひ・森の御まへのありさま・つねよりことにつくして・にほふはなのいろとりのこゑ
・ほかのさとにはまたふりぬにやとめつらしうみえきこゆ。山のこたち・なかしまのわたり・色まさるこけのけしき
なと・わかき人人はつかに心もとなくおもへるため・からめいたるふねつくらせたまひける。いそきさうそかせ給
て・おろしはしめさせたまふ日は・うたつかさの人めして・舟のかくせらる。みこたち・かんたちめなとあまたまい
りたまへり。中宮このころさとにおはし(1オ)」ます。かの春まつそのはとはけましきこえ給へり〈し〉御かへりも・
このころやとおほし。おととのきみもいかて・このはなさかりを御らんせさせんとおほしのたまへと・ついてなくて
かるらかにはひわたり・はなをももてあそひ給へきならねは・女房とものわかやかにものめてしぬへきを・ふねにの
せ給て・みなみのいけは・こなたにとほし・かよはしなさせ給へるを・ちひさき山をへたてのせき〈に〉みせたれと
・そのやまのさきよりこきまひて・ひんかしのつりとのに・こなたのわかき人ともあつめさ(1ウ)」せ給。ここのふね
をからのよそひにことことしうしつらひて・かちとり・さをさすわらはへ・みなみつらゆひもろこしたたせて・さる
おほきなるいけのなかにさしいてたれは・まことにしらぬくににきたらんここちして・あはれにおもしろく・みなら
はぬ女房なとはおもふ。なかしまのいりえにしたるいはかけにさしよせてみれは・はかなきいしのたたすまひも・た
たゑにかいたらんやうなり。こなたかなた・かす見あひたるこすゑとも・にしきをひきわたせるに・おまへのかたは
るはるるとみや(2オ)」られて・いろをましたるやなきえたをたれはなもえもいはぬにほひをちらせり。ほかにはさかり
すきたるさくらもいまさかりににほひ・らう〈を〉めくれるふちのいろもこまやかにひらけゆきて・いけのみつにか
けをうつしたるやまふききしよりこほれていみしきさかりなり。みつとりとものつかひはなれすあそひつつ・ほそき
えたをくひつつ〈て〉とひちかふおしのおしの・なみのあやにもんをましへたるなと・もののゑやうにもかきとらま
ほしきに・まことにおののえ(2ウ)」くたしつへくおほえてひをくらす
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『かせふけはなみのはなさへいろみゆるこやなにたてる山ふきのさき』
『はるのいけやゐてのかはせにかよふらんきしのやまふきそこもにほへり』
『かめのうへのやまもたつねしふねのうちにおひせぬ名をはここにのこさん』
『はるのひのうららにさしてゆくふねはさほのしつくもはなそちりける』・なとやうのはかなき事ともを・こころ
こ¥ろにいひかはしつつ・ゆくかたもかへらんさともわす(3オ)」られぬへく・わかき人人のこころをうつすに・こと
はりなるみつのおもになん。くれかかるほとにわう上といふかくいとおもしろくきこゆるに・こころにもあらす・つ
りとのにさしよせられておりぬ。ここのしつらひいと事そきたるさまになまめかしきに・御かたのわかき人とも・
〈われ〉もおとらしとつくしたるさうそくかたち・花をこきませたるにしきにおとらすみえわたる・よになへてなら
すめつらかなるかくともつかうまつる・まひなと心ことにえらはせたまひて・人の御心(3ウ)」ゆくへきてのかきりを
つくさせたまふ。よにいりぬれはいとあかぬここちして・御廊のにはにかかりひともして・みはしのもとのこけのう
へにかく人めして・かんたちめみこたち・みなおのおのひきものふきものとりとりにしたまふ。もののしとも・こと
にすくれたるかきり・そうてうふきたてて・うへにまちとる御こととものしらへ・いとはなやかにかきあはせて・
あなたうとあそひ給ほと・いけるかひありと・なにのあやめもしらぬしつのをも・御かとのわた(4オ)」りひまなきむ
まくるまのたちとにましりて・ゑみさかへききけり。けにそらのいろ・物のねも・はるのしらへはいとことにまさり
けるけちめを・人人おほしわくらんかし。よもすからあそひあかしたまふ。かへりこゑに喜春樂たちそひて・兵部
卿のみやあをやきをりかへしいとおもしろくうたひたまふ。あるしのおとともことくはへ給て・よにみみなれぬあさ
ほらけのとりのさゑつりを・中宮はものへたててねたうきこしめしけり。いつもはるのひかりをこめ(4ウ)たま〈へ〉
るおほとのなれと・こころをつくるよすかのみたなきを・あかぬことにおほす人人ありけるに・にしのたいのひめ
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きみ事もなき御ありさまを・おととのきみわさとおほしあかめきこえ給御けしきなと・みなよにきこえいてて・おほ
ししもしるく・こころなひかし給人おほかるへし。わかみはさはかりとおもひあかり給きはの人こそ・たよりにつけ
つつけしきはみこといてきこえ給もありけれ・えしもうちいてぬなかのおもひにもえめへきわかきんたちなとも
(5オ)」あるへし。そのうちに・ことのこころをしらて・うちのおほいとのの中將なとは・すきぬへかんめり。兵部卿
の宮・はた・としころおはしけるきたのかたもうせ給て・このみとせはかりひとりすみにわひ給へは・うけはりてい
まはけしきはみ給・けさもいといたくそらみたれして・ふちのはなをかさしてなよひさうとき給へる御さま・いとを
かし。おとともおほししさまかなふとしたにはおほせと・せめてしらすかほをつくり給。御かはらけのついてに・い
みしうもてなやみ給て・おもふこころはへらすはまか(5ウ)」りにけはへりなまし・いとたへかたきしやとすまひ給
『むらさきのゆへをこころにしめたれはふちに身なけん名やはをしけき』・とておととのきみにおなしかさしをとて
・たてまつれ給。いといたうほをゑみたまひて
『ふちに身をなけつへしやとこの春は花はなのあたりをたちさらてみよ』・せちにととめたまへは・えたちあかれた
まはて・けさの御あそひましていとおもしろし。けふは中宮のきの御讀經のはしめなりけり。(6オ)」やかてまかて給
はて・やすみところとりつつ・ひの御よそひにかへ給人人もおほかり・さはりあるはまかてなとし給。らんむま
〈の〉ときはかりに・みなあなたにまいり給・おととの君をはしめたてまつりてみなつきわたり給。殿上人なとのこ
るなくまいる・おほくはおととの御いきほひにもてなされたまひて・やむことなくいつくしき御ありさまなり。はる
のうへの御こころさしにて・ほとけにはなたてまつりたまふ・鳥蝶にさうそきわけたるわらはへ八人・かたちなと
(6ウ)」ことにととのへさせ給て・とりにはしろかねの花かめにさくらをさし・てうにはこかねのかめにやまふき・を
なしきはなのさまふさいかめしうよになきにほひ〈を〉つくせり。南のおまへのやまきはよりこきいてて・おまへに
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いつるほと・かけけしきはかりふきて・かめのさくらすこしうちちりてまかふ・いとうららかにはれて・かすみのま
よりたちいてたるはいとあはれになまめきてみゆ。わさとのひらはりなともうつされす・おまへにあたれる廊をかく
やのさまにして・(7オ)」かりにあくらともをめしたり。わらはへとも・みはしのもとによりて・はなともたてまつり
る・行香の人人とりつきて・あかにくはへ給・御せうそことのの中將のきみしてきこえ給〈へ〉り
『はなそののこてふをさへやしたくさにあきまつむしはうとくみるらん』・宮かのもみちの御かへりなりけりとほを
ゑみてこ覽す・昨日の女房たちも・けにはるのいろをは・えをとさせ給ましかりけりと・花にをれつつきこえあへり。
うくひすのうららかなるねに・鳥のかくはなやかにききわたされ(7ウ)」て・いけのみつとりともなとのそこはかとな
くさえつりわたるに・きふにまひい〈は)つるほと・あかすおもしろし。てふはましてはかなきさまにとひちかひて
・やまふきのませのもとまてさきこほれたるはなのかけにまひいるに・みやのすけをはしめ・さるへきうへ人とも・
ろくとりつつきて・わらはへにたまふ・とりにはさくらのほそなか・てふには山ふきかさねたまふ・かねてしもとり
あへたるやうなり。もののしともにはしろきひとか〈さ〉ねこしさしなとつきつきにたまふ。(8オ)」中將のきみには
ふちのほそなかそへておんなのさうそくかつけ給。御かへりきのふはねになきぬへくこそは
『こてふにもさそはれなまし心ありてやへ山ふきをへたてさりせは』・とそありける。すくれたまへる御らうともに
も・かやうのことはたらぬにやありけん・思やうにこそみえぬ御くちつきともなめりれ・まことやかのみものの女房
・みやのにはみなけしきあるおくりものをさせ給けり・さやうの事くはしけれはむつ(8ウ)」かし・かくあけくれにつ
けても・かやうのおかしき御あそひともしけく・こころをやりてすくし給へは・さふらふ人も・おのつからものおも
ひなきここちしてなん・こなたかなたにもきこえかはし給。にしのたいの御かたは・かのたうかのをりの御たいめの
のち・こなたにもきこえかはし給。ふかき御心もちゐやあさくもいかにもあらん・けしきいとらうあり。なつかしき
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こころはえとみえて・人にこころへたてらるへくも物し給はぬ人(9オ)」さまなれはいつかたにもみなこころをよせ
きこえ給へり・きこえ給人いとあまた物し給・されとおととおほろけにおほしさたむへきにもあらす・わか御こころ
にもすくよかにおやかりはつましき御心やたちそふらん・ちちおととにもしらせやしてましなとおほしよるおりおり
もあり・とのの中將はすこしけちかくみすのもとなとにもよりて・御いらへみつからきこえ給なとするおりも・をん
なきみは猶つつましうおほせと・さへきほとと人しりきこえ(9ウ)」たれは・中將もすくよかにて思もよらす・うちの
おほいとののきみたちは・このきみにひかれて・よろつにけしきはみわひありくを・そのかたのあはれにはあらて・
したにこころくるしうなん・おんなきみはおほしける・おなしくは・かのとのにしられたてまつりにしかなと・人し
れすぬ心にはかけ給へれと・さやうにももらしきこえ給はて・ひとへにうちとけたのみきこえ給へるこころむけなと
・らうたけにわかやかなり・にるとはなけれと・(10オ)」猶ははきみのけはひにいとよくおほえて・これはかとめき給
へるかたさまそそひ給へる・ころもかへのいまめかしうあらたまれるころをひ・そらのけしきさへ・そこはかとなく
おかしきを・のとやかにおはしませは・よろつの御あそひにてすくし給。たいの御かたに人人の御ふみのいとしけ
くなりゆくを・さおもひしこととおかしうおほして・ともすれはわたり給つつ・さるへきには御かへりそそのかしき
こえ給なとするを・うちとけす・くるし(10ウ)」きことにおほしたり。兵部卿宮のほとなくいられかましきことともを
かきあつめたまひたる御ふみを御らんしつけて・こまやかにわらひ給。はやうよりへたつることなく・あまたのみこ
たちのなかに・このみやをなんかたみにとりわきておもひしを・たたかやうのすちのことをなん・いみしうへたてお
もひ給てすきにしを・よのすゑにかくすき給へる心はへをみるか・をかしくもあはれにもおほゆるかな。猶御かへり
なときこえ給へ・(11オ)」すこしもゆへあらんをんなの・このみこよりほかにことのはをもかはすへき人こそ又よにお
ほからね・いとけしきある人の御さまそやと・わかき人めて給ぬへくきこえしらせたまへと・つつましうのみおほし
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たり。みきの大將のいとまめやかにことことしきさましたる人の・こひのやまには孔子〈の〉たうれまねひつへきけ
しきにうれへたるも・さるかたにをかしとみなみくらへ給なかに・からのはなたのかみのいとしみふかくなつかし
(11ウ)」うにほへるを・ほそくちひさくむすひたるあり。これはいかなれはかくむすほほれたるにかとて・ひきあけ給
へり。ていとをかしくて
『おもふともきみはしらしなわきかへかへりいはもるみつにいろしみえねは』・かきさまいといまめかしうそほれた
り。これはたかそととひ〈きこえ〉給へと・ともかくもきこえ給はねは・右近をめし〈い〉てて・かやうにおとつれき
こえん人をは・人えりしていらへなとはせられよ・すきすきしくあされか(12オ)」ましきいまやうの人のひない事しい
てなとする・をのこのとかにしもあらぬものなり・わか身〈れ〉にておもひしにも・あななさけな・うらめしくもと
・そのをりにこそむしんなりやとも・もしはめさましかるへききはは・けやけうなともおほえけれ・わさとふかから
て・をりふしの花てふにつけたる・たよりことには・こころねたうもて〈ない〉たるに・なかなか心たつやうもあり
・又さてわすれぬるも・なににのとかかはあらん・もののついてなをさりことに・くち(12ウ)」とくこころみたるも・
さらてありぬへかりけるわさなり。すへておんなのものつつみせす・こころのままにもののあはれをもしりかほつく
り・をかしきことをもみすくささらん・そのつもりあちきなかるへきを・宮・大將なとは・おほなおほな猶さり事をう
ちいて給へきにもあらす・又あまり物のほとしらぬやうならんも・御さまにたかへり・そのきはよりしもは・心さし
のおもむきにしたかひて・あはれをもわき・らう〈を〉もかそへ給へなときこえ給へは・(13オ)」きみはうちそむきて
おはするそはめいとをかしけなり。なてしこのほそなかに・このころのはなの色なる御こうちき・あてにけたかくな
まめきてもてなしなとも・さはいへともゐなかひ給へりしなこりこそ・たたありにおほとかなるかたにのみはみえ給
けれ・人のありさまをもやうやうみしり給ままに・いとさ〈ま〉ようなよひかにけさうなともこころみてもてつけ給
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へるは・いととあかぬところなくはなやかにうつくしけなり。こと人とみなさん(13ウ)」はいとくちおしかんへうおほ
さる。右近もうちゑみつつみたてまつりて・おやときこえんにはにけなくわかうおはしますめり。さしならひ給へら
んはしも・あはひめてたしかしとおもひゐたり。さらに人の御せうそくなとはきこえつたふることなとはへらす・さ
きさききもしろしめし御覽したるは・ひきかへしはしたなめきこえんもいかかとて・御ふみはかりはとりいれなとしは
へれと・御かへりはさらにき〈こ〉えさせ給おりはかりなん・それをたにくるしきことにこそ(14オ)」おほされたんめ
れときこゆ。さてこのいとわかやかにむすほほれたるはたかそ・いといたうかきかきたるけしきかなとほほゑみて御
覽す。これはしうねくもとらてまかりにけるかな・うちのおほいとのの中將のきみの御とか・このさふらふみるこを
もとよりしり給へりけるにつたへてはへめるを・みいるる人もはへらてなんときゆれは・いとらうたい事かな・けら
うなりとてかのぬしたちをはいかかさははしたなめん・公卿といへとも・かの人のおほえにかならすしも(14ウ)」えな
らふましきこそおほかれ・さるかなかにいとしつまりたる人なり。おのつからおもひあはする時もこそあれ・けちえ
んならてこそいひまはさめ・みところあるふみかきかなとて・とみにもうちをき給はす。かうなにやかやとふたかり
きこゆるをも・おほす事やあらんとつつましきを・かのおととにもしられたてまつり給はんことも・又かうわかわか
しく・なにとなきほとにここらとしへたる御中にさしいて給はん事はいかかとおもひめくらしはへる・猶よの人のあ
めるかたにさたまりてこそ(15オ)」は・人人してさるへきついてもものし給はめと思を・宮はひとりものし給やう
なれと・人さまいといたくあためきて・かよひ給ところあまたきこえ・めしうととか・にくけなるなのりする人なん
かすおほくきこゆる・さやうならん事は・にくけならてみなをし給はん人はいとよくなたらかにもてけちてん・すこ
しこころにくせありては人にあかれぬへき事なん・おのつからいてきぬへきを・そのこころつかひなんあへき・大將
はとしへにたる人のいたうねひすきたるをいとひかてらと・もとむなれと・(15ウ)」それも人人わつらはしかなり・
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さもあへい事なれは・さきさきになん・人しれすおもひさためかねはへる・かうさまの事は・おやなとにもさわやか
にわかおもふさまとてかたりいてかたき事なれと・さはかりの御よはひにもあらす・いまはなとかなに事をも御ここ
ろにわきたまはさらん・まろをはむかしさまになすらへて・ははきみとおもひなし給へ・御心にあかさらん事はここ
ろくるしうなんといとまめやかにきこえ給へは・くるしうて御いらへきこえんともおほえ給はす。いとわかわかしき
もうたておほえて・なに(16オ)」事も思しりはへらさりけるほとより・おやなとはみぬものにならひ侍て・ともかくも
おもひ給へら〈れ〉すすなんとき〈こ〉え給さまのいとおいらかなれは・けにとおほして・さらはよのたとひののち
のをやをそれとおほいて・おろかならぬ心さしのほともみあらはしはて給てんやなとうちかたらひ給。おほすさまの
ことはまはゆけれはえうちいて給はす・けしきある事はときときませ給へと・見しらぬさまなれは・すすろにうちな
けかれてわたり給。おまへちかきくれたけのいとわかやかにおひたちて・(16ウ)」うちなひくさまのなつかしきを・た
ちとまり給て
『ませのうちにねふかくうへしたけのこのをのかよよにやおひわかるへき』・おもへはうらめしかへいことそかしと
・すをひきあけてき〈こ〉え給。すこしゐさりいてて
『いまさらにいかならんよかわかたけのおひはしめけんねをはたつねん』・なかなかにこそはへらめときこえ給を・
いとあはれにおほしけり。さるはこころのうちはさしもおほさすかし。いかならんをりしてき〈こ〉えいてんとすら
ん(17オ)」と・こころもとなくあはれなれと・このをととの御心はえのいみしうありかたけれは・おやときこゆとも・
もとよりみなれ給はぬは・えかくこまやかならすやと・むかしものかたりをみ給にも・やうやう人のありさまよの中
のあるやうをみし〈り〉たまへは・いとつつましく心としられたてまつらんことはかたかるへくおほさる。とのはい
とらうたくおもひきこえ給て・うへにもかたりき〈こ〉え給・あやしくなつかしき人のありさまにこそあれ・かのい
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にしへのはあまりはるけところなうそありし・(17ウ)」このきみは物のありさまもみしりぬへく・けちかきところそひ
て・うしろめたからすこそみゆれなとほめ給。たたにしもおほすましき御こころさまをみしり給へれは・おほししり
てもののこころえつへくはものし給めるを・うらなくしもうちとけたのみきこえ給らんこそ心くるしけれとのたまへ
は・なとたのもしけな〈く〉やはあるへきときこえ給へは・いてやわれにも又しのひかたくものおもはしきおりおり
ありし御心さまのおもひいてらるるふしふしなくやはと(18オ)」ほほゑみ〈て〉きこえ給へは・あなこころとと・おほ
して・うたてもおほしよるかな・いととみしらす〈し〉もあらしとてわつらはしけれは・のたまひさしつ。こころの
うちには・かく人のおしはかり給につけても・いかかはあんへからんとおほしみたれて・かつはわかわかしくけしか
らぬわか御こころのほとおもひしられ給けり。御こころにかかれるままにしはしはわたり給つつみたてまつり給。あ
めうちふりたるなこりのいとものしめやかなるゆふつかた・御まへのわかかえてかしはきなとのあをやかにしけりあ
ひたる(18ウ)」なかより・なにとなくここちよけなるそらをみいたしたまうて・わして又きよしとうち誦し給て・まつ
たいのきみの御にほひやかさをおほしいてられ給て・れいのしのひやかにわたり給へり。てならひなとしてうちとけ
給へりける・をきあかり給て・はちらひ給へるかほのにほひいとをかし。なこやかなるけはひのふとむかしおもひい
てらるるにも・しのひかたくてみそめたてまつりしは・いとかくしもおほえ給はすと思しを・あやしくたたそれかと
おもひまかへらるるをりをりこそ(19オ)」あれ・あはれなるわさなり〈けり。〉中將のさらにむかしさまのにほひにみ
えぬならひに・さしもにぬものとおもふを・かかる人もものし給けるよとて・なみたくみ給へり。はこのふたなる御
くたもののなかに・花たちはなのあるをまさくり給て
『たちはなのかほりしそてによそふれはかはれる身ともおもほえぬかな』・よとともの心にかけてわすれかたきにな
くさむことなくてすきつるとし月を・かくてみたてまつるはゆめにやとのみおもひなすを・猶(19ウ)」えこそしのふま
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しけれ・おほしうとむなよとて・御手をとらへ給へれは・かくまてはならひ給はさりけるに・いとうた〈て〉おほゆ
れと・おほとかなるさまにてものし給
『そてのかを〈よ〉そふるからにたちはなの身さへはかなくなりもこそすれ』・むつかしとおほしてうつふし給へる
さまいみしうなつかし・てつきのつふつふとこえ給へるみなり・はたつきのこまかにうつくしけなるにも・中中な
るものおもひそふここちし給。けふそおほすことすこしきこえ給しらせ給ける・をんな(20オ)」こころうくいかにせん
とおほえてわななかるるけしきもしるけれは・いとをしけれとなにかはうとましくはおほしたる・いとよくもてかく
して・人にとかめらるへくもあらぬこころのほとよそよ・さりけなくてをあひ思給へ・あさくはおもひきこえさせぬ
こころさしに・又あまたそふへけれは・よにたくひあるましき心ちなんすへきを・このおとつれきこゆる人人には
おほしをとすへくやはある・いとかうふかきこころある人はよにありかたかるへきわさなれはうしろめたくのみこそ
との給も・(20ウ)」いとさかしらなる御をや心なめり。あめはやみて・かせのたけになるほとゆるくて・いとけちえん
ならぬほとにさしいてたる月かけ・をかしきよのさまもしめやかなるに・人人はたこまやかなる御ものかたりに・
かしこまりおきてけちかくもさふらはす・つねにみたてまつり給御なかかれと・かくよきおりしもありかたかめれは
・こといてたまへるついての御ひたふるこころにや・なつかしきほとなる御そとものけはひはいとよくまきらはしす
へしたまうて・ちかやかにふし給へは・いとと心うくて・人の(21オ)」おもはんも事もめつらかにいみしうおほゆ。ま
ことのをやの御あたりならましかは・おろかにみはなち給とも・かうさまのうき事はあらましやとかなしきに・つつ
むとすれとこほれいてつついとこころくるしき御けはひなりれは・しらぬ人にたによのことはりにて・みなゆるすわ
さなめるを・かくとし月へぬるむつましさに・かはかりみたてまつりるやなにのうとましかるへきにか・これよりあ
なかちなるこころは・よにみせたてまつらし・おほろけにしのふるかあまなるほと(21ウ)」をなくさむるそやとて・あ
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はれになつかしくき〈こ〉え給ことともおほかり・ましてかやうなるけはひは・たたむかしの心ちしていみしうあは
れなり。わか御心なからも・ゆくりかにあはつけきこととおほししらるれは・いとよくおほしかへしつつ・人もあや
しと思へけれは・いたくよもふかさていて給ぬ。おもひうとみ給はは・いとこころうくこそあるへけれ・よその人は
かくをれをれしくはあらぬものそよ・かきりなくそこひしらぬ心さしなれは・人のとかむへきさまにはよもあらし・
(22オ)」たたいとむかしのこひしきなくさめにはかなきことをもきこえん・おなしこころにいらへをもし給へなといと
こまやかにき〈こ〉え給へと。われにもあらぬけしきにて・いとうしとおほしたれは・いとさはかりにはみたてまつ
らぬ御こころを・こよなくもにくみ給めるかなと・うちなけきたまひて・ゆめけしきなくをとていて給ぬ。をんなき
み御としこそすくし給にたるほとなれ・世中をしり給〈は〉ぬはなかにも・すこしうちよなれたる人のありさまをた
にみしり給は(22ウ)」ねは・これよりまさるけちかきこともおほしよらす。おもひのほかにありける身かなとなけかし
きに・いとなやましけにおほしたれは・れいならぬす御ここちあしけなにいかなるにかなともてさはききこゆ。との
の御けしきのこまやかにかたしけなくもみえさせ給かな・まことの御をやときこゆとも・さらにかはかりおほしよら
ぬことなくはもてなしきこえ給はしなと・兵部なともしのひてきこゆるにつけても・いとおもはすなる御こころのあ
りけるを・うとましう思はて(23オ)」給にも・身そうくおほされける。あしたに御ふみいととくあり。なやましとてふ
し給へるに・人人御すすりなとまいりて・御かへりなときこゆれは・しふしふにみ給。しろきかみのうはへはすく
すくしきに・いとめてたくかき給へり。たくひなかりし御けしきこそつらきしもわすれかたく・人いかにみたてまつ
りけん
『うちとけてねもみぬものをわかくさのことありかほにむすほほるらん』・おさなくこそものし給けれとさすかにお
や(23ウ)」めける御ことはもいとにくしとみたまふ。御かへりこときこえさらんも人めあやしかへけれは・ふくよかな
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るみちのくにかみに・たたうけ給はりぬみたりここちのあしう侍れはみきこえさせぬとのみあるを・かやうのけしき
はさすかにすくよかなりとほほゑみてうら〈み〉ところあるここちし給。うたてある御こころかな・いろにいて給て
のちは・おほかたのまつのおもはせたる事なく・むつかしうきこえ給へは・いとと〈と〉ころせきここちして・おき
ところなき物思つきて・なや(24オ)」ましくさへし給。かかる事のこころしれる人はすくなくて・うとまきもしたしき
もにけなくおやさまにおもひきこえたるを・かやうのけしきのもりいては・いみしう人わらへにうき身にもあるへき
かなちちおとと〈なと〉たつねしりたまふにても・まめまめしき御こころさまにもあらさらんものから・まいていと
あはつけうまちききおほさんことなと・よろつにやすけなくおほしみたる。みや・大將なとは・殿の御けしきもては
なれぬさまにつたへ(24ウ)」きき給て・いとねんころにきこえ給。かのいはもる中將もおととの御ゆるしをほのききて
・まことのすちをはしらす・たたひとへにうれしくて・おりたちてうらみきこえまとひありくめり(25オ)」
尾州家 河内本 (武蔵野書院版) 目次へ戻る