18巻 松 風
畳語、繰り返し文字は文字になおしてあります。和歌部分は『 』で囲んであります。句点は「。」になおしてあります。
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東の院つくりたてて・花ちるさとときこえしうつろはし給・西のたいわた殿なとかけて・まところけいしなとあるへ
きさまにしをかせ給ふ・ひんかしのたいはあかしの御方とおほしおきてたり・きたのたいはことにひろくつくらせ給
て・かりにてもあはれとおほして行すゑかけてちきりたのめ給し人人・つとひすむへきさまに・へたてへたてしつら
はせ給へるしも・なつかしう見所ありてこまやかなり・しんてんはふたけたまはす・ときときわたり給御すみ所にし
てさるかたなる御しつらひともしをかせたまへり。あかしには御せうそこたえす・いまはなをのほりぬへきことをは
(1オ)」のたまへと・女はなをわか身のほとをおもひしるに・こよなくやむことなききはの人人たに・なかなかさ
てかけはなれぬ御ありさまのつれなきを見つつ物おもひまさりぬへくきくを・ましてなにはかりのおほえなりとてか
さしいてましらはむ・このわかきみの御おもてふせにかすならぬ身のほとこそあらはれめ・たまさかにはひわたりた
まふついてをまつことにて・人わらはれにはしたなき事いかにあらんと思みたれても・又さりとてかかる所におひい
てかすまへられたまはさらんもいとあはれなれは・ひたすらもえうらみそむかす・おやたちもけにことはりとおもひ
なけくになかなか(1ウ)」心もつきはてぬ・むかしはは君の御おほち中務の宮ときこえけるからうし給ける所・大井河
のわたりにありけるを・その御のちはかはかしうあひつく人もなくてとしころあれまとふを思いてて・かの時よりつ
たはりてやともりのやうにてある人をよひとりてかたらふ・世中をいまはとおもひはててかかるすまゐにしつみそめ
しかとも・すゑの世に思かけぬ事いてきてなむさらに宮このすみかもとむるを・にはかにまはゆき人中にいとはした
なくゐ中ひにけるここちもしつかなるましきを・ふるき所たつねてとなん思よる・さるへきものはあけわたさん修理
なとして(2オ)」かたのこと人すみぬへくはつくろひなされなんやといふ・あつかりこのとしころらうする人もものし
給はす・あやしきやふになりて侍れはしもやにそつくろひてやとり侍るを・この春のころより内の大とののつくらせ
給みたうちかくて・かのわたりなんいとけさはかしうなりにて侍・いかめしきみたうともたてておほくの人なんつく
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りいとなみ侍める・しつかなる御ほいならはそれやたかひ侍らん・なにかそれもかのとのの御かけにかたかけてとお
もふことありておのつからをひをひにうちの事はともはしてん・まついそきて大かたの事ともをものせよといふ・身つ
かららうする所に侍らねと・(2ウ)」またしりつたへ給人もなけれは・かこなるならひにてとしころかくろ侍つるな
り・御さうの田畠なといふ事のいたつらにあれ侍しかは・こ民部大輔の君に申給はりてさるへき物なとたてまつりて
なむらうしつくりはへるなと・そのあたりのたくはへの事ともをあやふけにおもひて・ひけかちにつなしにくきかほ
をはななとうちあかめつつはちふきいへは・さらにその田なとやうの事はここにしるまし・たたとしころのやうに思
てものせよ・券なとはここになんあれとすへて世中をすてたる身にてとしころともかくもたつねしらぬを・その事も
いまくはしくしたためんなといふにも・おほいとののけはひを(3オ)」かくれはわつらはしくて・そののち物なとおほ
くうけとりてなんいそきつくりける・かやうに思よるらんともしり給はて・のほらん事を物うかるも心えすおほし・
わかきみのさてつくつくとものし給を・のちの世に人のいひつたへんいまひときは人わろききすにやとおもほすに・
つくりいててそしかしかのところをなん思いてたるときこえさせける・人にましらはん事をくるしけにのみものする
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のふるみちはいつとなくいろひつかうまつる人なれは・つかはしてさるへきさまにここかしこの(3ウ)」よういなとせ
させ給けり・あたりおかしうてうみつらにかよひたるところのさまになむ侍けるときこゆれは・さやうのすまゐによ
しなからすはありぬへしとおほす。つくらせ給御たうは大かくしのみなみにあたりて・たきとのの心はへなとおとら
すおもしろき寺なり・これはかはつらにえもいはぬ松かせになにのいたはりもなくたてたる・しん殿のことそきたる
さまもをのつから山さとのあはれを見せたり・うちのしつらひなとまておほしよる・したしき人人いみしうしのひ
てくたしつかはす・のかれかたくていまはとおもふもとしへつる浦をはなれんことあはれに・入道の(4オ)」こころほ
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そくてひとりとまらむ事を思みたれてよろつにかなし・すへてなとか心つくしになりはしめけん身にかと・露のかか
らぬたくひうらやましくおほゆ・おやたちもかかる御むかへにてのほるさいはひは・としころねてもさめてもねかひ
わたりし心さしのかなふといとうれしけれと・あひ見てすくさむいふせさのたへかたうかなしけれは・よるひる思ほ
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れなり・としころたにおなしいほりにもすますかけはなれつれは・ましてたれによりてかはかけととまらん・たたあ
たに(4ウ)」うち見る人のあさはかなるかたらひたに・みなれそなれてわかるるほとはたたならさめるを・ましてもて
ひかめたるかしらつき心をきてこそたのもしけなけれと・又さるかたにこれこそはよをかきるへきすみかなめれと・
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ふせうおもひしつみつるはうれしき物から・見すてかたきはまのさまをまたはえしもかへらしと・よするなみにそへ
て袖ぬれかちなる秋のころおひなれは・物のあはれとりかさねたる心ちしてその日とあるあかつきに・あき風すすし
くむしのねもとりあへぬ(5オ)」に・海のかたを見いたしてゐたるに・入道れいの後夜よりふかうおきてはなすすりう
ちしてをこなひいましたり・いみしうこといみすれとたれもたれもいとしのひかたし・わかきみはいともいともうつくし
けによるひかりけんたまの心ちして・袖よりほかにはなちきこえさりつるを・見なれてまつはし給へる心さまなと・
ゆゆしきまてかく人にたかへる身をいまいましくおもひなから・かた時見たてまつらてはいかてかすくさんとすらん
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『ゆくさきをはるかにいのるわかれちにたへぬはおいのなみたなりけり』。いともゆゆしやとて(5ウ)」をしのこひか
くす・あまきみ
『もろともにみやこはいてきこのたひやひとり野中のみちにまとはん』とて・なき給さまいとことはりなり・ここら
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かたにつけてえさるましきよしをいひつつさすかにみちのほともいとうしろめたなきけしきなり・世中をすてはしめ
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へきよすかたになくてとけしきはむを・やへたつ山はさらにしまかくれにもおとらさりけるを・まつもむかしのとた
とられつるにわすれぬ人(15オ)」も物し給けるにたのもしくなんとこたふ・こよなしやわれも思こころなきにしもあら
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わけてまいり侍つる・やまのにしきはまたしう侍けり野邊のいろこそさかりに侍けれ・なにかしの朝臣こたかにかか
つらひてた(15ウ)」ちをくれ侍ぬるいかかなりぬらんなといふ。けふはなをかつらとのにとてそなたさまにおはしまし
ぬ・にはかなる御あるししさはきて・うかひともめしたるにあまのさへつりおほしいてらる・野にとまりぬるきむた
ちことりしるしはかりひきつけさせたる。おきのえたなとつとにしてまいれり・おほみきあまたたひすむなかれてか
はのわたりあやうけなれはゑひにまきれておはしましくらしつ・おのおのせくなとつくりわたして・月はなやかにさ
しいつるほとにおほみあそひはしまりていといまめかし・ひき物はひわわこんはかりふえとも上手のかきりしており
にあひた(16オ)」るてうしふきたつるほと・川風にふきあはせておもしろきに・月たかくさしあかりよろつの事すめる
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よのややふくるほとに・殿上人四五人はかりつれてまいれり・うへにさふらひけるを御あそひありけるついてにけふ
は六日の御物いみあく日にてかならすまいり給へきを・いかなれはとおほせられけれはここにかくとまらせ給ひにけ
るよしきこしめして御せうそこあるなりけり・御つかひは藏人の辨なりけり
『月のすむ川のをちなるさとなれはかつらのかけはのとけかるらん』。うらやましうと(16ウ)」あり・かしこまりきこ
えさせ給ふ・うへの御あそひよりもなを所からのすこさそへたるもののねをめてて又ゑひくははりぬ・ここにはまう
けの物もさふらはさりけれはおほゐにわさとならぬまうけの物やといひつかはしたりとりあへたるにしたかひてまい
らせたり・きぬひつ二かけにてあるを御つかひの辨はとくかへりまいれは・女のさうそくかつけ給ふ
『ひさかたのひかりにちかきなのみしてあさゆふきりもはれぬ山さと』。行幸まちきこえたまふ心はへなるへしなか
におひたるとうちすし給ふついてにかのあはちしまをおほしいてふみつねか(17オ)」ところからかとおほめきけん事な
とのたまひいてたるに・物あはれなるゑひなきともあるへし
『めくりきて手にとるはかりさやけきやあはちのしまのあはと見し月』。頭中將
『うきくもにしはしまよひし月かけのすみはつるよそのとけかるへき』。右大辨すこしをとなひて・こ院の御時にも
むつましうつかうまつりなれし人なりけり
『雲のうへのすみかをすてて夜半の月いつれのたににかけかくしけむ。こころこ¥ろにあまたあんめれとうるさくて
なん・けちかううちしつまり(17ウ)」たる御物かたりすこしうちみたれて・ちとせも見きかまほしきおほんありさまな
れはおののえもくちぬへけれと・けふさへはとていそきかへり給ふ・ものともしなしなにかつけて・きりのたえまに
たちましりたるも前さいの花に見えまかひたるいろあひなとことにめてたし・近衛つかさの名たかきとねりもののふ
しともなとさふらふにさうさうしけれは・そのこまなとみたれあそひてぬきかけ給ふ・いろいろ秋のにしきをかせの
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ふきおほふかと見ゆ・ののしりてかへらせ給ふひひき大井には物へたててききてなこりさひしうなかめ給ふ・御せう
そこをたにせてと(18オ)」おととも御心にかかれり。とのにおはしてとはかりうちやすみ給て・山さとの御物かたりな
ときこえたまふ・いとまきこえしほとにすきつれはいとくるしうこそ・このすきものとものたつねきていといたうし
ひととめしにひかされてけさはいとなやましとておほとのこもれり・れいの心とけす見え給へと見しらぬやうにてな
すらひならぬほとをおほしくらふるもわろきわさなり・われはわれと思なし給へとをしへきこえ給。くれかかる程に
うちへまいり給に・ひきそはめていそきかき給ふはかしこへなめり・そはめこまやかに見ゆ・うちささめきてつかは
すをこたちなとにく(18ウ)」みきこゆ・その夜は内にもさふらひ給へけれと・とけさりつる御けしきともに夜ふけぬれ
とまかてたまひぬ・ありつる御かへりもてまいれり・えひきかくしたまはて御らんすことににくかるへきふしも見え
ねは・これやりかくしたまへむつかしやかかるもののちらんもいまはつきなきほとになりにけりとて・御けうそくに
よりゐ給て御心のうちにはいとあはれにこひしうおほしやらるれは・火をうちなかめてことに物ものたまはす・ふみ
はひろこりなからあれと女君見たまはぬやうなるを・せめて見かくし給御ましりこそわつらはしけれとて・うちゑみ
給へる御(19オ)」あいきやうところせきまてこほれぬへし・さしより給てまことはらうたけなるものを見しかはちきり
あさくも見えぬを・さりとてものめかさん程もははかりおほかるに思なんわつらひぬる・おなし心におもひめくらし
て御心におもひさためたまへいかかすへき・ここにてはくくみ給てんや・ひるのこのよはひにもなりにけるをつみな
きさまなるもおもひすてかたうこそ・いはけなけなるしもつかたもまきらはさんなとおもふを・めさましとおほさす
はひきゆひたまへかしときこえたまふ・おもはすにのみとりなし給ふ御心のへたてをせめ(19ウ)」て見しらすうらなく
やはとてこそ・いはけなからん御心にはいとようかなひぬへくなん・いかにうつくしきほとにとてうちゑみ給ぬ・ち
こをわりなうらうたきものにし給ふ御心なれは・えていたきかしつかはやとおほす・いかにせましむかへやしてまし
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とおほしみたる・わたり給事いとかたし。さかのの御たうの念佛なとまちいてて・月にふたたひはかりの御ちきりな
めり・としのわたりにはたちまさりぬへかめるを・をよひなきこととおもへともなをいかか物おもはしからぬ(20オ)」