40巻 御 法
畳語、繰り返し文字はゝ、ゞ、または文字になっています。
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紫の上、いたうわづらひ給し御心ちの後、いとあづしくなり給て、そこは
かとなくなやみわたり給こと久しくなりぬ。いとおどろおどろしうはあらねど、
年月重なれば、たのもしげなく、いとじあえかになりまさり給へるを、院の思
ほし嘆く事限りなし。しばしにても、をくれきこえ給はむことをばいみじかる
べくおぼし、身づからの御ここちにはこの世に飽かぬことなく、うしろめたき
ほだしだにまじらぬ御身なれば、あながちにかけとぐめまほしき御命ともおぼ
されぬを、年ごろの御契かけ離れ、思嘆かせたてまつらむ事のみぞ、人知れ
ぬ御心の中にも、物あはれにおぼされける。後の世のためにと、たうとき事ど
もを多くせさせ給つつ、いかでなを本意あるさまになりて、しばしもかかづら
はむ命のほどはをこなひを紛れなく、とたゆみなくおぼしの給へど、さらにゆ
るしきこえ給はず。
さるは、わが御心にも、しかおぼしそめたる筋なれば、かくねんごろに思
給へるついでにもよをされて、おなじ道にも入りなんとおぼせど、一たび家を
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出で給なば、仮にもこの世をかへりみんとはおぼしをきてず、後の世にはおな
じ蓮の座をも分けん、と契かはしきこえ給て、頼みをかけ給御中なれど、
ここながら勤め給はんほどは、おなじ山なりとも峰を隔てて、あひ見たてまつ
らぬ住みかにかけ離れなん事をのみおぼしまうけたるに、かくいと頼もしげな
きさまになやみあつい給へば、いと心ぐるしき御ありさまを、いまはと行き離
れんきざみには捨てがたく、中中山水の住みか濁りぬべくおぼしとどこほる
ほどに、ただうち浅えたる思ひのままの道心起こす人人にはこよなうをくれ
給ぬべかめり。御ゆるしなくて、心ひとつにおぼし立たむもさまあしく本意
なきやうなれば、このことによりてぞ女君はうらめしく思きこえ給ける。我御
身をも罪かろかるまじきにやとうしろめたくおぼされけり。
年ごろ、わたくしの御ぐはんにて書かせたてまつり給ける法花経千部、いそ
ぎて供養じ給。わが御殿とおぼす二条院にてぞし給ける。七僧のほうふくなど、
品じなたまはす。物の色、ぬい目よりはじめて、きよらなること限りなし。大
方、何事も、いといかめしきわざどもをせられたり、ことことしきさまにも聞
こえ給はざりければ、くはしき事どもも知らせ給ばざりけるに、女の御をきて
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にてはいたり深く、仏の道にさへ通ひ給ける御心の程などを、院はいと限りな
しと見たてまつり給て、ただ大方の御しつらひなにかのことばかりをなん営ま
せ給ける。楽人、舞人などのことは、大将の君、取り分きて仕うまつり給。内、
春宮、后の宮たちをはじめたてまつりて、御方がた、ここかしこに御誦経、
捧物などばかりのことをうちし給だに所せきに、ましてそのころこの御いそぎ
を仕うまつらぬ所なければ、いとこちたきことどもあり。いつのほどにいとか
く色々おぼしまうけけん、げに石の上の世々経たる御願にやとぞ貝えたる。
花散里と聞こえし御方、明石なども渡り給へり。南、東の戸をあけておはし
ます。寝殿の西の塗籠也けり。北の廂、方々の御局どもは、障子ばかり
を隔てつつしたり。
三月の十日なれば、花盛りにて、空のけしきなどもうららかに毛のおもしろ
く、仏のおはすなる所のありさま、とをからず思ひやられてことなり。深き心
もなき人さへ罪を失ひつべし。薪こる讃嘆の声も、そこらつどひたる響き、お
どろおどろしきを、うち休みて静まりたるほどだにあはれにおぼさるるを、まし
てこのころとなりては、何事につけても心ぼそくのみおぼし知る。明石の御方
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に、三の宮して聞こえたまへる、
おしからぬこの身ながらも限りとて薪尽きなんことのかなしさ
御返り、心ぼそき筋は後の聞こえも心をくれたるわざにや、そこはかとなくぞ
あめる。
薪こる思ひはけふをはじめにてこの世に願ふ法ぞはるけき
夜もすがら、たうときことにうち合はせたる鼓の声絶えずおもしろし。ほの
と明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色々、なを春に心とまり
ぬべくにほひわたりて、百千鳥のさへづりも笛の音にをとらぬ心地して、もの
のあはれもおもしろさも残らぬほどに、れうわうの舞いてきうになるほどの末
つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに、みな人の脱ぎかけたる物の色
いろなども、物のおりからにおかしうのみ見ゆ、親王たち、上達部の中にも、
物の上手ども、手残さず遊び給。上下心ちよげに、けうあるけしきどもなる
を身給にも、残り少なしと身をおぼしたる御心の中にはよろづの事あはれに
おぼえ給。
きのふ、例ならず起きゐ給へりしなごりにや、いと苦しうして臥し給へり。
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年ごろ、かかる物のおりごとに、まいりつどひ遊び給人々の御かたち、あ
りさまのをのがじし、ざへども、琴、笛の音をも、けふや見聞き給べきとぢ
めなるらむとのみおぼさるれば、さしも目とまるまじき人の顔どももあはれに
見えわたされ給。まして、夏冬の時につけたる遊びたはぶれにも、なまいどま
しき下の心はをのづからたちまじりもすらめど、さすがになさけをかはし給
方々は、たれも久しくとまるべき世にはあらざなれど、まづわれひとりゆく
ゑ知らずなりなむをおぼしつづくる、いみじうあはれなり。
事はてて、をのがじじ帰り給なんとするも、とをき別れめきておしまる。花
散里の御方に、
絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契を
御返り、
結びをく契りは絶えじ大方の残りすくなき御法なりとも
やがてこのついでに、不断の読経、せんぼうなど、たゆみなくたうとき事ども
せさせ給。御すほうは、ことなるしるしも見えで、ほども経ぬれば、例のこと
になりて、うちは一さるべき所々、寺々にてぞせさせ給ける。
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夏になりては、例の暑さにさへ、いとど消え入給ぬべおりおり多かり。
そのこととおどろおどろしからぬ御心ちなれど、ただいとよはきさまになり給
へば、むつかしげに所せくなやみ給こともなし。さぶらふ人々も、いかにお
はしまさむとするにかと思ひ寄るにも、まづかきくらし、あたらしうかなしき
御ありさまと見たてまつる。
かくのみおはすれば、中宮、この院にまかでさせ給。東の対におはします
べければ、こなたにはた待ちきこえ給、儀式など、例に変はらねど、この世の
ありさまを見はてずなりぬるなどのみおぼせば、よろづにつけてものあはれな
り。名対面を聞き給にも、その人かの人など、耳とどめて聞かれ給ふ。上達
部などいと多く仕うまつり給へり。
久しき御対面のとだえをめづらしくおぼして、御物語りこまやかに聞こえ
給。院入りたまひて、「こよひは巣離れたる心ちして、無徳なりや。まかりて
休みはべらん」とて渡り給ぬ。起きゐたまへるをいとうれしとおぼしたるも、 いとはかなきほどの御慰めなり。「方々におはしましては、あなたに渡らせ
給はんもかたじけなし。まいらむことはたわりなくなりにてはべれば」とて、
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しばらくはこなたにおはすれば、明石の御方も渡り給て、心ふかげにしづまり
たる御物語りども聞こえかはし給。
上は御心の中におぼしめぐらす事多かれど、さかしげに亡からむ後などのた
まひ出づることもなし。ただなべての世の常なきありさまを、おほどかに、言
少ななる物から、あさはかにはあらずのたまひなしたるけはひなどぞ、言に出
でたらんよりもあはれに、物心ぼそき御けしきはしるう見えける。宮たちを見
たてまつりたまうても、「をのをのの御行く末をゆかしく思きこえけるこそ、
かくはかなかりける身をおしむ心のまじりけるにや」とて、涙ぐみ給へる御顔
のにほひ、いみじうおかしげなり。などかうのみおぼしたらんとおぼすに、中
宮うち泣き給ひぬ。ゆゆしげになどは聞こえなし給はず、もののついでなどに
ぞ、年ごろ仕うまつり馴れたる人々の、ことなるよるべなういとおしげなる、
「この人かの人、はべらずなりなんのちに御心とどめて尋ねおもほせ」などば
かり聞こえ給ける。御読経などによりてぞ例のわが御方に渡り給。
三宮はあまたの御中に、いとおかしげにてありき給を、御心ちの隙には、
前に据ゑたてまつり給て、人の聞かぬ間に、「まろがはべらざらむに、おぼし
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出でなんや」と聞こえ給へば、「いと恋しかりなむ。まろは、内の上よりも、
宮よりも、ばばをこそまさりて思きこゆれば、おはせずは心ちむつかしかりな
む」とて、目おしすりてまぎらはし給へるさま、おかしければ、ほほ笑みなが
ら涙は落ちぬ。
「大人になり給ひなば、ここに住み給て、この対の前なる紅梅と桜とは花の
おりおりに心とどめてもて遊び給へ。さるべからむおりは仏にもたてまつり給
へ」と聞こえ給へば、うちうなづきて、御顔をまもりて、涙の落つべかめれば、
立ちておはしぬ。取り分きて生ほしたてまつり給へれば、この宮と姫宮とをぞ、
見さしきこえ給はんこと、くちおしくあはれにおぼされける。
秋待ちつけて、世中すこし涼しくなりては、御心ちもいささかさはやぐやど
なれど、猶ともすればかことがまし。さるは、身にしむ許おぼさるべき秋風な
らねど、露けきおりがちにて過ぐし給、
中宮はまいり給なんとするを、ゐましばしは御覧ぜよとも聞こえまほしうお
ぼせども、さかしきやうにもあり、内の御使の隙なきもわづらはしければ、さ
も聞こえ給はぬに、あなたにもえ渡り給はねば、宮ぞ渡り給ける。かたはらい
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たけれど、げに見たてまつらぬもかひなしとて、こなたに御しつらひをことに
せさせ給。こよなう痩せ細り給へれど、かくてこそあてになまめかしきことの
限りなさもまさりてめでたかりけれと、来し方あまりにほひ多く、あざあざと
おはせし盛りは、中々この世の花のかほりにもよそへられ給しを、限りもな
くらうたげにおかしげなる御さまにて、いとかりそめに思給へるけしき、似
る物なく心ぐるしく、すずろにものがなし。
風すごく吹出でたるタ暮に、前裁見給とて、けうそくによりゐ給へるを、
院渡りて、見たてまつり給ひて、「けふはいとよく起きゐ給めるは。この御前
にては、こよなく御心もはればれしげなめりかし」と聞こえ給。かばかりの隙
あるをもいとうれしと思ひきこえ給へる御けしきを見給も、心ぐるしく、つ
ゐにいかにおぼしさはがんと思に、あはれなれば、
をくと見る程ぞはかなきともすれば風に乱るる萩の上露
げにぞおれかへりとまるべうもあらぬ、よそへられたるおりさへ忍びがたきを、
見出だし給ても、
ややもせば消えをあらそふ露の世にをくれさきだつ程経ずもがな
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とて、御涙を払ひあへ給はず。宮、
秋風にしばしとまらぬ露の世をたれか草葉の上とのみ見ん
と聞こえかはし給御かたちども、あらまほしく、見るかひあるにつけても、
かくて千年を過ぐすわざもがなとおぼさるれど、心にかなはぬ事なれば、かけ
とめん方なきぞかなしかりける。
「いまは渡らせ給ひね。乱り心ちいと苦しくなりはべりぬ。言ふかひなくな
りにける程といひながら、いとなめげにはべりや」とて、御木丁引き寄せて
臥し給へるさまの、常よりもいと頼もしげなく貝え給へば、いかにおぼさるる
にかとて、宮は御手をとらへたてまつりて、泣く泣く見たてまつり給に、まこ
とに消えゆく露のここちして限りに見え給へば、御誦行の使ども、数も知ら
ず立ちさはぎたり。さきざきもかくて生き出で給おりにならひ給て、御物の
けと疑ひ給ひて、夜一夜さまざまの事をしつくさせ給へど、かひもなく明けは
つるほどに消えはて給ひぬ。
宮も、帰り給はで、かくて見たてまつり給へるを、限りなくおぼす。たれも
たれも、ことはりの別れにてたぐひあることともおぼされず、めづらかにいみじ
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く、明けぐれの夢にまどひ給ほど、さらなりや。
さかしき人おはせざりけり。さぶらふ女ぼうなども、あるかぎり、さらにも
のおぼえたるなし。院はまして、おぼししづめん方なければ、大将の君近くま
いり給へるを、御木丁の本に呼び寄せたてまつり給て、「かくいまは限りのさ
まなめるを、年ごろの本意ありて思ひつること、かかるきざみに、その思ひた
がへてやみなんがいといとおしき。御加持にさぶらふ大徳たち、読経の僧など
も、みな声やめて出でぬなるを、さりとも立ちとまりて物すべきもあらむ。こ
の世にはむなしき心ちするを、仏の御しるし、いまはかの冥き途のとぶらひに
だに頼み申べきを、頭おろすべきよしものし給へ。さるべき僧、たれかとまり
たる」などの給御けしき、心づよくおぼしなすべかめれど、御顔の色もあら
ぬさまにいみじく耐へかね、御涙のとまらぬを、ことはりにかなしく見たてま
つり給。
「御もののけなどの、これも、人の御心乱らんとて、かくのみ物ははべめる
を、さもやおはしますらん。さらば、とてもかくても御本意のことはよろしき
ことにはべなり。一日一夜、忌むことのしるしこそはむなしからずは侍なれ。
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まことに言ふかひなくなりはてさせ給て、後の御髪ばかりをやつさせ給ても、
ことなるかの世の御光ともならせ給はざらん物から、目の前のかなしびのみま
さるやうにて、いかがはべるべからむ」と申給て、御忌に籠り候べき心ざし
ありてまかでぬ僧、その人かの人など召して、さるべきことども、この君ぞを
こなひ給。
年ごろ、何やかやとおほけなき心はなかりしかど、いかならん世に、ありし
ばかりも見たてまつらん、ほのかにも御声をだに聞かぬこと、など心にも離れ
ず思わたりつるものを、声はつゐに聞かせ給はずなりぬるにこそはあめれ、む
なしき御骸にても、いま一たび見たてまつらんの心ざしかなふべきおりは、
ただいまよりほかにいかでかあらむ、と思ふに、つつみもあへず泣かれて、女
房のあるかぎりさはぎまどふを、「あなかま、しばし」としづめ顔にて、御木
丁の帷子を、ものの給紛れに引き上げて見給へば、ほのぼのと明けゆく光
もおぼつかなければ、大殿油を近くかかげて見たてまっり給に、飽かずうつく
しげに、めでたうきよらに見ゆる御顔のあたらしさに、この君のかくのぞき
給を見る見るも、あながちに隠さんの御心もおぼされぬなめり。
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「かく何事も、まだ変はらぬけしきながら、限りのさまはしるかりけるこ
そ」とて、御袖を顔におし当て給へるほど、大将の君も涙にくれて、目も見え
給はぬを、しゐてしぼりあけで見たてまつるに、中々飽かずかなしきことた
ぐひなきに、まことに心まどひもしぬべし。御髪のただうちやられ給へるほど、
こちたくけうらにて、露ばかり乱れたるけしきもなう、つやつやうつくしげ
なるさまぞ限りなき。火のいと明かきに、御色はいと白く光るやうにて、とか
くうちまぎらはすことありしうつつの御もてなしよりも、言ふかひなきさまに
て、何心なくて臥したまへる御ありさまの、飽かぬ所なしと言はんもさらなり
や。なのめにだにあらず、たぐひなきを見たてまつるに、死に入るたましゐの、
やがてこの御骸にとまらなむと思ほゆるも、わりなきことなりや。
仕うまつり馴れたる女房などの、ものおぼゆるもなければ、院ぞ、何ごとも
おぼしわかれずおぼさるる御心ちをあながちにしづめ給て、限りの御事どもし
給。いにしへも、かなしとおぼすこともあまた見給し御身なれど、いとかう
おり立ちてはまだ知り給はざりけることを、すべて来し方行く先たぐひなき
心ちし給。
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やがてその日、とかくおさめたてまつる。限りありけることなれば、骸を見
つつもえ過ぐし給まじかりけるぞ心うき世中なりける。はるばると広き野の、
所もなく立ち込みて、限りなくいかめしきさほうなれど、いとはかなき煙にて、
はかなくのぼり給ぬるも、例のことなれど、あえなくいみじ。空を歩む心ちし
て、人にかかりてぞおはしましけるを、見たてまつる人も、さばかりいつかし
き御身をと、ものの心知らぬ下種さへ泣かぬなかりけり。御をくりの女房はま
して、夢路にまどふ心ちして、車よりもまろび落ちぬべきをぞ、もてあつかひ
ける。むかし、大将の君の御母君亡せ給へりし時の暁を。思出づるにも、かれ
は猶もののおぼえけるにや、月の顔の明らかにおぼえしを、こよひはただくれ
まどひたまへり。
十四日に亡せ給て、これは十五日のあか月なりけり。日はいとはなやかにさ
し上がりて、野辺の露も隠れたる隈なくて、世中おぼしつづくるに、いとど厭
はしくいみじければ、をくるとてもいく世かは経べき、かかるかなしさの紛れ
に、むかしよりの御本意も遂げてまほしく思ほせど、心よはき後のそしりをお
ぼせば、このほどを過ぐさんとし給に、胸のせきあぐるぞ耐へがたかりける。
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大将の君も、御忌に籠り給ひて、あからさまにもまかで給はず。明け暮れ近
くさぶらひて、心ぐるしくいみじき御けしきを、ことはりにかなしく見たてま
つり給て、よろづに慰めきこえ給。風、野分だちて吹く夕暮に、むかしのこと
おぼし出でて、ほのかに見たてまつりしものを、と恋しくおぼえ給に、又、限
りのほどの夢の心ちせしなど人知れず思つづけ給に、耐へがたくかなしければ、
人目にはさしも見えじとつつみて、「阿弥陀仏阿弥陀仏」と引き給数珠の数にま
ぎらはしてぞ、涙の玉をばもち消ち給ひける。
いにしへの秋の夕の恋しきにいまはと見えし明けぐれの夢
ぞ、なごりさへうかりける。やむごとなき僧どもさぶらはせ給て、さだまりた
る念仏をばさるものにて、法花経など誦ぜさせ給、かたがたいとあはれなり。
臥しても起きても、涙の干る世なく、霧りふたがりて明かし暮らし給。いに
しへより御身のありさまおぼしつづくるに、鏡に見ゆる影をはじめて、人には
異也ける身ながら、いはけなきほどより、かなしく常なき世を思知るべく
仏などの勧め給ける身を、心、つよく過ぐして、つゐに来し方行先もためしあ
らじとおぼゆるかなしさを見つるかな、いまはこの世にうしろめたきこと残ら
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ずなりぬ、ひたみちにをこなひにおもむきなんに障り所あるまじきを、いとか
くおさめん方なき心まどひにては、願はん道にも入りがたくや、とややましき
を、この思すこしなのめに忘れさせ給へ、と阿弥陀仏を念じたてまつり給。
所々の御とぶらひ、内をはじめたてまつりて、例のさほう許にはあらず、
いとしげく聞こえ給。おぼしめしたる心のほどには、さらに何事も目にも耳に
もとまらず、心にかかり給ことあるまじけれど、人にほけほけしきさまに貝え
じ、いまさらに我世の末に、かたくなしく心よはきまどひにて、世中をなん
そむきにける、と流れとどまらん名をおぼしつつむになん、身を心にまかせぬ
嘆きをさへうち添へ給ひける。
致仕のおとど、あはれをもおり過ぐし給ぬ御心にて、かく世にたぐひなくも
のし給人のはかなく亡せ給ぬることを、くちおしくあはれにおぼして、いと
しばしば問ひきこえ給。むかし大将の御母亡せ給へりしもこの比のことぞかし、
とおぼし出づるに、いと物がなしく、そのおり、かの御身をおしみきこえ給し
人の多くも亡せ給にけるかな、をくれ先だつほどなき世なりけりや、などしめ
やかなる夕暮れにながめ給ふ。空のけしきもたどならねば、御子の蔵人の少将
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してたてまつり給。あはれなることなどこまやかに聞こえ給て、端に、
いにしへの秋さへいまの心ちして濡れにし袖に露ぞをきそふ
御返し、
露けさはむかしいまとも思ほえず大方秋の夜こそつらけれ
もののみかなしき御心のままならば、待ち取り給ては、心よはくも、と目とじ
め給つべきおとどの御心ざまなれば、めやすきほどにと、「たびたびのなをざ
りならぬ御とぶらひの重なりぬること」とよろこび聞こえ給。
「薄墨」とのたまひしよりは、いますこしこまやかにてたてまつれり。世
中にさいはいあり、めでたき人も、あひなう大方の世にそねまれ、よきにつけ
ても、心のかぎりをごりて、人のため苦しき人もあるを、あやしきまですずろ
なる人にも受けられ、はかなくし出で給ことも、何事につけても世にほめられ、
心にくく、おりふしにつけつつらうらうじく、ありがたかりし人の御心ばへな
りかし。さしもあるまじきおほよその人さへ、そのころは、風のをと、虫の声
につけつつ涙落とさぬはなし。まして、ほのかにも見たてまつりし人の、思な
ぐさむべき世なし。年ごろむつましく仕まつり馴れつる人々、しばしも残れ
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る命うらめしきことを嘆きつつ、尼に也、この世のほかの山住みなどに思立
つもありけり。
冷泉院の后の宮よりも、あはれなる御消息絶えず、尽きせぬことども聞こえ
給ひて、
枯れはつる野辺をうしとや亡き人の秋に心をとどめざりけん
いまなんことはり知られ侍ぬる。
とありけるを、ものおぼえぬ御心にも、うちかへし、をきがたく見給ふ。言ふ
かひあり、おかしからむ方の慰めには、この宮ばかりこそおはしけれと、い
ささかの物紛るるやうにおぼしつぐくるにも、涙のこぼるるを、袖のいとまな
く、え書きやりたまはず。
上りにし雲居ながらもかへりみよ我秋はてぬ常ならぬ世に
おし包み給ひても、とばかりうちながめておはす。
すくよかにもおぼされず、われながら、ことのほかほれほれしくおぼし知
らるること多かるまぎらはしに、女方にぞおはします。仏の御前に人しげから
ずもてなして、のどやかにをこなひ給。千年をももろともにとおぼししかど、
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限りある別れぞいとくちおしきわざなりける。いまは蓮の露も異事に紛るまじ
く、後の世をとひたみちにおぼし立つことたゆみなし。されど、人聞きを憚り
給なんあぢきなかりける。
御わざの事ども、はかばかしくの給をきつることどもなかりければ、大将
の君なむとりもちて仕うまつり給ける。けふやとのみわが身も心づかひせられ
給おり多かるを、はかなくて積りにけるも夢の心ちのみす。中宮などもおぼ
し忘るる時の間なく恋ひきこえたまふ。