39巻 夕   霧


畳語、繰り返し文字はゝ、ゞ、または文字になっています。



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まめ人の名を取りてさかしがり給大将、この一条の宮の御ありさまをなを
あらまほしと心にとゞめて、大方の人目にはむかしを忘れぬ用意に見せつゝ、
いとねんごろにとぶらひきこえ給。下の心には、かくてはやむまじくなむ月日
に添へて思ひまさり給ける。宮す所も、あはれにありがたき御心ばへにもある
かなと、いまはいよいよ物さびしき御つれづれを、絶えずをとづれ給に、慰め
給事ども多かり。
はじめよりけさうびても聞こえ給はざりしに、ひき返しけさふばみなまめか
むもまばゆし、たゞ深き心ざしを見えたてまつりて、うちとけ給おりもあら
じやは、と思ひつゝ、さるべきことにつけても宮の御けはひありさまを見給。
みづからなど聞こえ給ことはさらになし。いかならむついでに、思ふ事をもま
ほに聞こえ知らせて、人の御けはひを見む、とおぼしわたるに、宮す所、もの
ゝけにいたうわづらひ給て、小野といふわたりに、山里持たまへるに渡りたま
へり。早うより御祈りの師に、ものゝけなど払ひ捨てける律師、山籠りして里

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に出でじと誓ひたるを、麓近くて請じ下ろし給ゆへなりけり。
御車よりはじめて、御前など、大将殿よりぞたてまつれ給へるを、中中む
かしの近きゆかりの君たちは、ことわざしげきをのがじしの世の営みにまぎれ
つゝ、えしも思ひ出できこえ給はず。弁の君はた、思ふ心なきにしもあらで、
けしきばみけるに、ことのほかなる御もてなしなりけるには、しゐてえまでと
ぶらひ給はずなりにたり。この君はいとかしこう、さりげなくて聞こえ馴れ
給にためり。
すほうなどせさせ給と聞きて、僧の布施、上衣などやうのこまかなる物を
さへたてまつれ給。なやみ給人はえ聞こえ給はず、「なべての宣旨書きはもの
しとおぼしぬべく、ことことしき御さまなり」と人々聞こゆれば、宮ぞ御返
聞こえ給、いとおかしげにて、たゞひとくだりなど、おほどかなる書きざま、
言葉もなつかしき所書き添へ給へるを、いよいよ見まほしう目とまりて、しげ
う聞こえ通ひ給。猶ついにあるやうあるべきやう御仲らひなめりと北方けしき
とり給へれば、わづらはしくて、まうでまほしうおぼせど、とみにえ出で立ち
たまはず。

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八月中の十日ばかりなれば、野辺のけしきもおかしきころなるに、山里のあ
りさまのいとゆかしければ「なにがし律師のめづらしう下りたなるに、切に
語らふべき事あり。宮す所のわづらひ給なるもとぶらひがてら、まうでん」と
大方にぞ聞こえて出で給。御前ことことしからで、親しきかぎり五六人ばかり、
狩衣にてさぶらふ。ことに深き道ならねど、松が崎の小山の色なども、さる巌
ならねど秋の気色つきて、宮こに二なくと尽くしたる家居には、なをあはれも
けうもまさりてぞ見ゆるや。
はかなき小柴垣もゆへあるさまにしなして、かりそめなれどあてはかに住ま
ひなし給へり。寝殿とおぼしき東の放出にすほうの壇塗りて、北の廂におはす
れば、西面に宮はおはします。御ものゝけむつかし、とてとゞめたてまつり
給けれど、いかでか離れたてまつらん、と慕ひ渡り給へるを、人に移り散る
をおぢて、すこしの隔てばかりに、あなたには渡したてまつり給はず。客人の
ゐたまふべき所のなければ、宮の御方の御簾の前に入れたてまつりて、上らう
だつ人々、御消息聞こえ伝ふ。
「いとかたじけなく、かうまでの給はせ渡らせ給へるをなむ、もしかひなく

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なりはてはべりなば、このかしこまりをだに聞こえさせでや、と思ひ給ふるを
なむ、いましばしかけとゞめまほしき心つきはべりぬる」と聞こえ出だし給へ
り。「渡らせ給し御をくりにも、と思ふ給しを、六条院にうけたまはりさし
たること侍しほどにてなん。日ごろもそこはかとなく紛るゝ事侍て、思ひ給
ふる心のほどよりは、こよなくをろかに御覧ぜらるゝ事の苦しう侍る」など聞
こえ給。
宮は奥の方にいと忍びておはしませど、ことことしからぬ旅の御しつらひ、
浅きやうなる御座のほどにて、人の御けはひをのづからしるし。いとやはらか
にうちみじろきなどし給御衣のをとなひ、さばかりななり、と聞きゐたまへ
り。心も空におぼえて、あなたの御消息通ふ程、すこしとをう隔たる隙に、例
の少将の君などさぶらふ人々にもの語りなどし給て、「かうまいり来馴れ、う
け給はる事のとし比といふばかりになりにけるを、こよなうものとをふもてな
させ給へるうらめしさなむ。かゝる御簾の前にて、人づての御消息などのほの
かに聞こえ伝ふる事よ。まだこそならはね。いかに古めかしきさまに人々ほゝ
笑み給らんと、はしたなくなん。齢積らず、かるらかなりしほどに、ほのすき

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たる方に面馴れなましかば、かうういういしうもおぼえざらまし。さらにかば
かりすくすくしうおれて年経る人はたぐひあらじかし」との給。
げにいとあなづりにくげなるさまし給つれば、さればよと、「中中なる御
いらへ聞こえ出でむははづかしう」などつきしろひて、「かゝる御愁へ聞こし
めし知らぬやうなり」と宮に聞こゆれば、「みづから聞こえ給はざめるかたは
らいたさに、代はりはべるべきを、いとおそろしきまでものし給ふめりしを、
見あつかひ侍しほどに、いとゞあるかなきかの心ちになりてなん、え聞こえ
ぬ」とあれば、「こば宮の御消息か」とゐなほりて、「心ぐるしき御なやみを、
身にかふばかり嘆ききこえさせ侍も、何のゆへにか。かたじけなけれど、もの
をおぼし知る御ありさまなど、晴ればれしき方にも見たてまつりなをし給まで
は、平らかに過ぐし給はむこそたが御ためにも頼もしきことにははべらめと、
おしはかりきこえさするによりなむ。たゞあなたざまにおぼし譲りて、積りは
べりぬる心ざしをも知ろしめされぬは、本意なき心ちなむ」と聞こえ給。「げ
に」と人々も聞こゆ。
日入り方になりゆくに、空のけしきもあはれに霧りわたりて、山の陰はを暗

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き心ちするに、ひぐらしの鳴きしきりて、垣ほに生ふる撫子のうちなびける色
もおかしう見ゆ。前の前栽の花どもは心にまかせて乱れあひたるに、水のをと
いとすゞしげにて、山おろし心すごく、松の響き木深く聞こえわたされなどし
て、不断の経読む時かはりて鉦打ち鳴らすに、立つ声も居かはるも一つにあひ
て、いとたうとく聞こゆ。所から、よろづの事、心ぼそう見なさるゝもあはれ
にもの思ひつゞけらる。出給はん心ちもなし。律師も加持するをとして陀羅尼
いとたうとく読むなり。
いと苦しげにし給なりとて、人ゞもそなたにつどひて、大方もかゝる旅所に
あまたまいらざりけるに、いとゞ人少なにて宮はながめ給へり。しめやかにて、
思ふこともうち出つべきおりかな、と思うひゐ給へるに、霧のたゞこの軒のもと
まで立ちわたれば、「まかでん方も見えずなり行は、いかゞすべき」とて、
山里のあはれをそふるタ霧に立ち出でん空もなき心ちして
と聞こえ給へば、
山がつのまがきをこめて立つ霧も心そらなる人はとじめず
ほのかに聞こゆる御けはひに慰めつゝ、まことに帰るさ忘れはてぬ。

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「中空なるわざかな。家路は見えず、霧のまがきは立ちとまるべうもあらず
やらはせ給、つきなき人はかゝる事こそ」などやすらひて、忍びあまりぬる筋
もほのめかし聞こえ給に、年ごろもむげに見知り給はぬにああらねど、知らぬ
顔にのみもてなし給へるを、かく言に出でてうらみきこえ給を、わづらはしう
て、いとゞ御いらへもなければ、いたう嘆きつゝ、心のうちに、又かゝるおり
ありなんやと思ひめぐらし給、なさけなうあはつけきものには思はれたてまつ
るとも、いかゞはせむ、思ひわたるさまをだに知らせたてまつらん、と思ひて、
人を召せば、御司の将監よりかうぶり得たる、むつましき人ぞまいれる、忍び
やかに召し寄せて、「この律師にかならず言ふべき事のあるを、護身などに暇
なげなめる、たゞいまはうち休むらむ。こよひこのわたりにとまりて、初夜の
時はてん程に、かのゐたる方にものせむ。これかれさぶらはせよ。随身などの
男どもは、栗栖野の荘近からむ、秣などとり飼はせて、こゝに人あまた声なせ
そ。かうやうの旅寝は、かるがるしきやうに人もとりなすべし」との給、ある
やうあるべしと心得て、うけたまはりて立ちぬ。
さて、「道いとたどくしければ、このわたりに宿借り侍る。おなじうは、

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この御簾のもとにゆるされあらなむ。阿闍梨の下るゝほどまで」などつれなく
の給。例は、かやうに長居して、あざればみたるけしきも見え給はぬを、うた
てもあるかな、と宮おぼせど、ことさらめきてかるらかにあなたにはひ渡り
給ば、人もさまあしき心地して、たゞをとせでおはしますに、とかく聞こえ
寄りて、御消息聞こえ伝へにゐざり入る人の陰につきて入り給ぬ。
まだ夕暮の、霧にとぢられてうちは暗くなりにたるほどなり。あさましう
て見返りたるに、宮はいとむくつけうなり給うて、北の御障子の外にゐざり出
でさせ給を、いとようたどりて、引きとゞめたてまつりつ。御身は入はて給へ
れど、御衣の裾の残りて、障子はあなたより鎖すべき方なかりければ、引きた
てさして、水のやうにわなゝきおはす。人々もあきれて、いかにすべきことと
もえ思ひ得ず、こなたよりこそ鎖すかねなどもあれ、いとわりなくて荒荒し
くはえ引きかなぐるべくはたものし給はねば、「いとあさましう、をもたまへ
寄らざりける御心のほどになむ」と泣きぬばかりに聞こゆれど、「かばかりに
てさぶらはむが、人よりけにうとましうめざましうおぼさるべきにやは。数な
らずとも、御耳馴れぬる年月も重なりぬらむ」とて、いとのどやかにさまよく

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もてしづめて、思事を聞こえ知らせ給。
聞き入れ給べくもあらず、くやしう、かくまでとおぼすことのみやる方なけ
れば、の給はむことはたましておぼえ給はず。「いと心うく若若しき御さま
かな。人知れぬ心にあまりぬるすきずきしき罪ばかりこそ侍らめ、これより馴
れ過ぎたる事は、さらに御心ゆるされでは御覧ぜられじ。いかばかり千ゝに砕
けはべる思ひにたえぬぞや。さりともをのづから御覧じ知るふしも侍らんもの
を、しひておぼめかしう、けうとうもてなさせ給めれば、きこえさせん方なさ
に、いかゞはせむ。心ちなくにくしとおぼさるとも、かうながら朽ちぬべき愁
へをさだかに聞こえ知らせ侍らん、とばかりなり。言ひ知らぬ御けしきのつら
きものから、いとかたじけなければ」とて、あながちになさけ深う用意し給へ
り。障子を押さへ給へるはいと物はかなきかためなれど、引きもあけず、「か
ばかりのけぢめをと、しひておぼさるらむこそあはれなれ」とうちはらひて、
うたて心のまゝなるさまにもあらず。人の御有さまのなつかしうあてになまめ
いたまへる事、さはいへど、ことに見ゆ。世とともにものを思ひ給けにや、痩
せ痩せにあえかなる心地して、うちとけ給へるまゝの御袖のあたりもなよびか

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に、け近うしみたる匂ひなど、取り集めてらうたげにやはらかなる心ちし給へ
り。
風いと心ぼそう、ふけゆく夜のけしき、虫の音も鹿の鳴く音も滝のをとも一
つに乱れて、艶あるほどなれど、たゞありのあはつけ人だに寝覚めしぬべき空
のけしきを、格子もさながら、入方の月の山の端近き程、とゞめがたふものあ
はれなり。「なをかうおぼし知らぬ御ありさまこそかへりては浅う御心のほど
知らるれ。かう世づかぬまで痴れ痴れしきうしろやすさなどもたぐひあらじと
おぼえはべるを、何事にもかやすきほどの人こそかゝるをば痴物などうちは
らひてつれなき心もつかふなれ。あまりこよなくおぼし落としたるに、えなむ
しづめはつまじき心ちしはべる。世中をむげにおぼし知らぬにしもあらじを」
と、よろづに聞こえ責められ給て、いかゞ言ふべき、とわびしうおぼしめぐら
す。
世を知りたる方の心やすきやうに、おりおりほのめかすもめざましう、げに
たぐひなき身のうさなりや、とおぼしつゞけ給に、死ぬべくおぼえ給うて、
「うきみづからの罪を思ひ知るとても、いとかうあさましきを、いかやうに思

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ひなすべきにかはあらむ」と、いとほのかに、あはれげに泣いたまふて、
われのみやうき世を知れるためしにて濡れそふ袖の名を朽たすべき
との給ともなきを、わが心につゞけて忍びやかにうち誦じ給へるもかたはらい
たく、いかに言ひつる事ぞとおぼさるゝに、「げにあしう聞こえつかし」など
ほゝ笑み給へるけしきにて、
「大方はわれ濡れ衣を着せずとも朽ちにし袖の名やは隠るゝ
ひたふるにおぼしなりねかし」とて、月明かき方にいざなひきこゆるもあさま
しとおぼす。心づようもてなし給へど、はかなう引寄せたてまっりて、「かば
かりたぐひなき心ざしを御覧じ知りて、心やすうもてなしたまへ。御ゆるしあ
らではさらにさらに」と、いとけざやかに聞こえ給ふほど、明け方近ふなりにけ
り。
月隈なふ澄みわたりて、霧にもまぎれずさし入りたり。浅はかなる廂の軒は、
ほどもなき心ちすれば、月の顔にむかひたるやうなる、あやしうはしたなくて、
まぎらはし給へるもてなしなど、言はむ方なくなまめきたまへり。故君の御こ
ともすこし聞こえ出でて、さまようのどやかなる物語りをぞ聞こえ給ふ。さす

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がになを、かの過ぎにし方におぼし落とすをば、うらめしげにうらみ聞こえ
給。御心の内にも、かれは位などもまだをよばざりけるほどながら、誰誰
も御ゆるしありけるに、をのづからもてなされて見馴れ給にしを、それだにい
とめざましき心のなりにしさま、ましてかうあるまじきことに、よそに聞くあ
たりにだにあらず、大殿などの聞き思ひ給はむ事よ、なべての世の譏りをばさ
らにもいはず、院にもいかに聞こしめし思ほされん、など、離れぬこゝかしこ
の御心をおぼしめぐらすに、いと口おしう、わが心ひとつにかう強う思ふとも、
人のもの言ひいかならん、宮す所の知り給はざらむも罪得がましう、かく聞き
たまひて、心をさなくとおぼしの給はむもわびしければ、「明かさでだに出で
給へ」とやらひきこえ給よりほかのことなし。
「あさましや、ことあり顔に分けはべらん朝露の思はむところよ。なをさら
ば、おぼし知れよ。おこがましきさまを見えたてまつりて、かしこうすかしや
りつとおぼし離れむこそ、その際は心もえおさめあふまじう、知らぬこととけ
しからぬ心づかひもならひはじむべう思給へらるれ」とて、いとうしろめた
く中中なれど、ゆくりかにあざれたることの、まことにならはぬ御心ちなれ

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ば、いとをしう、わが御みづからも心をとりやせむ、などおぼいて、たが御た
めにもあらはなるまじき程の霧に立ち隠れて、出で給心ちそらなり。
「おぎはらや軒端の露にそぼちつゝ八重立つ霧を分けぞゆくべき
濡れ衣はなをえ乾させ給はじ。かうわりなふやらはせ給御心づからこそは」
と聞こえ給、げにこの御名のたけからず漏りぬべきを、心の問はむにだに口き
よふ答へんとおぼせば、いみじうもてはなれ給。
「分けゆかむ草葉の露をかことにてなを濡れ衣をかけんとや思ふ
めづらかなることかな」とあはめ給へるさま、いとおかしうはづかしげなり。
年ごろ人にたがへる心ばせ人になりて、さまざまになさけを見え奉るなごりな
く、うちたゆめすきずきしきやうなるがいとほしう、心はづかしげなれば、を
ろかならず思ひ返しつゝ、かうあながちに従ひきこえても、のちをこがましく
やとさまぐに思ひ乱れつゝ、出で給道の露けさもいとところせし。
かやうのありき、ならひ給はぬ心ちに、おかしうも心づくしにもおぼえつゝ、
殿におはせば、女君の、かゝる濡れをあやしととがめ給ぬべければ、六条院
の東のおとゞにまうで給ひぬ。まだ朝霧も晴れず、ましてかしこにはいかにと

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おぼしやる。「例ならぬ御ありきありけり」と人々はさゝめく。しばしうち休
み給て、御衣脱ぎかへ給。常に夏、冬と、いときよらにしをき給へれば、香の
御唐櫃より取う出てたてまつり給。御粥などまいりて御前にまいりたまふ。
かしこに御文たてまつり給へれど、御覧じも入れず。にはかにあさましかり
しありさま、めざましうもばづかしうもおぼすに、心づきなくて、宮す所の漏
り聞き給はむこともいとはづかしう、又かゝることやとかけて知り給はざらむ
に、たゞならぬふしにても見つけ給ひ、人の物言ひ隠れなき世なれば、をのづ
から聞きあはせて、隔てけるとおぼさむがいと苦しければ、人々ありしまゝに
聞こえ漏らさなむ、うしとおぼすともいかゞはせむとおぼす。親子の御中と聞
こゆるなかにも、つゆ隔てずぞ思ひかはし給へる。よその人は漏り聞けども、
親に隠すたぐひこそは、むかしの物語にもあめれど、さはたおぼされず。人々
は、「何かはほのかに聞き給て、ことしもあり顔にとかくおぼし乱れむ、まだ
きに心ぐるし」など言ひあはせて、いかならむと思ふどち、この御消息のゆか
しきを、引きもあけさせ給はねば、心もとなくて、「なをむげに聞こえさせ給
はざらむもおぼつかなく若若しきやうにぞはべらむ」など聞こえて、広げた

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れば、「あやしう、何心もなきさまにて、人にかばかりにても見ゆるあはつけ
さの、みづからのあやまちに思ひなせど、思ひやりなかりしあさましさも慰め
がたくなむ。え見ずとを言へ」と、ことのほかにてより臥させ給ぬ。
さるは、にくげもなく、いと心ふかふ書いたまふて、
たましいをつれなき袖にとゞめをきてわが心からまどはるゝかな
ほかなるものは、とか、むかしもたぐひ有けりとをもたまへなすにも、さ
らに行く方知らずのみなむ。
などいと多かめれど、人はえまほにも見ず。例のけしきなるけさの御文にもあ
らざめれど、なをえ思ひ晴るけず。人々は御けしきもいとおしきを、嘆かし
見たてまつりつゝ、いかなる御ことにかはあらむ、何ごとにつけてもありがた
ふあはれなる御心ざまはほど経ぬれど、かゝる方に頼みきこえては見をとりや
し給はむと思ふもあやうく、などむつましうさぶらふかぎりはをのがどち思ひ
乱る。宮す所もかけて知り給はず。
ものゝけにわづらひ給ふ人は、をもしと見れど、さはやぎ給隙もありてな
むものおぼえ給、日中の御加持はてて、阿闍梨ひとりとゞまりて、なを陀羅

P104

尼読み給。よろしうおはします、よろこびて、「大日如来そらごとし給はずは、
などてかかくなにがしが心をいたして仕ふまつる御修法、験なきやうはあらむ。
悪霊は執念きやうなれど、業障にまとはれたるはかなものなり」と、声はかれ
ていかり給。いと聖だち、すくすくしき律師にて、ゆくりもなく、「そよや。
この大将はいつよりこゝにはまいり通ひ給ぞ」と問ひ申給。宮す所、「さる事
もはべらず。故大納言の、いとよき中にて、語らひつけたまへる心たがへじと、
この年ごろ、さるべき事にっけて、いとあやしくなむ語らひものし給ふも、か
くふりはへ、わづらふをとぶらひにとて立ち寄り給へりければ、かたじけなく
聞きはべりし」と聞こえ給。
「いで、あなかたは。なにがしに隠さるべきにもあらず。けさ、後夜にまう
のぼりつるに、かの西の妻戸より、いとうるはしきおとこの出で給へるを、霧
深くて、なにがしはえ見分いたてまつらざりつるを、この法師ばらなむ、「大
将殿の出で給なりけり」と。「よべも御車も帰してとまり給にける」と口口
申つる。げにいとかうばしき香の満ちて頭痛きまでありつれば、げにさなり
けりと思ひあはせはべりぬる。常にいとかうばしうものし給君なり。この事

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いと切にもあらぬ事なり。人はいと有識にものし給、なにがしらも、童にもの
し給うし時より、かの君の御ための事は、修法をなん、故大官のの給つけた
りしかば、一向にさるべきこと、いまにうけ給はる所なれど、いと益なし。本
妻強くものし給。さる時にあへる族類にて、いとやむごとなし。若君たちは七
八人になり給ぬ。え御子の君をしたまはじ。また、女人のあしき身を受け、
長夜の闇にまどふは、たゞかやうの罪によりなむさるいみじき報いをも受く
るものなる。人の御いかり出で来なば、長き絆となりなむ。もはらうけひか
ず」と、頭振りてたゞ言ひに言ひ放てば、「いとあやしきことなり。さらにさ
るけしきにも見え給はぬ人なり。よろづ心ちのまどひにしかば、うち休みて対
面せむとてなむしばし立ちとまり給へると、こゝなる御達言ひしを、さやうに
てとまり給へるにやあらむ。大方いとまめやかに、すくよかにものし給人を」
とおぼめいたまひながら、心の中に、さることもやありけむ、たゞならぬ御け
しきはおりおり見ゆれど、人の御さまのいとかどかどしう、あながちに人の譏
りあらむことははぶきすて、うるはしだち給へるに、たはやすく心ゆるされぬ
ことはあらじとうちとけたるぞかし、人少なにておはするけしきを見て、はひ

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入もやし給へりけむ、とおぼす。
律師立ちぬるのちに、小少将の君を召して、「かゝることなむ聞きつる。い
かなりしことぞ。などかをのれには、さなん、かくなむとは聞かせ給はざりけ
る。さしもあらじと思ひながら」との給へば、いとおしけれど、初よりありし
やうをくはしう聞こゆ。けさの御文のけしき、宮もほのかにの給はせつるやう
など聞こえ、「年ごろ忍びわたり給ける心の中を聞こえ知らせむとばかりにや
侍けむ。ありがたう用意ありてなむ明かしもはてで出で給ぬるを、人はいか
に聞こえ侍にか」、律師とは思ひも寄らで、忍びて人の聞こえける、と思ふ。
ものもの給はで、いとうくくちおしとおぼすに、涙ほろほろとこぼれ給ぬ。見
たてまつるもいといとおしう、何にありのまゝに聞こえつらむ、苦しき御心ち
を、いとゞおぼし乱るらむ、とくやしう思ひゐたり。「障子は鎖してなむ」と・
よろづによろしきやうに聞こえなせど、「とてもかくても、さばかりに、何の
用意もなく、かるらかに人に見え給けむこそいといみじけれ。内内の御心き
ようおはすとも、かくまで言ひつるほうしばら、よからぬ童べなどはまさに言
ひ残してむや。人はいかに言ひあらがい、さもあらぬことと言ふべきにかあら

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む。すべて心をさなきかぎりしもこゝにさぶらひて」ともえの給ひやらず。い
と苦しげなる御心ちに、ものをおぼしおどろきたれば、いといとおしげなる。
け高うもてなしきこえむとおぼいたるに、世づかはしう、かるがるしき名の立
ちたまふべきを、をろかならずおぼし嘆かる。「かうすこしものおぼゆる隙に、
渡らせ給べう聞こえよ。そなたへまいり来べけれど、動きすべうもあらでなむ。
見たてまつらで久しうなりぬる心ちすや」と、涙を浮けての給ふ。まいりて、
「しかなん聞こえさせ給」とばかり聞こゆ。
渡り給はむとて、御額髪の濡れまろがれたる引きつくろひ、単衣の御衣ほこ
ろびたる着かへなどしたまても、とみにもえ動い給はず。この人々もいかに思
ふらん、まだえ知り給はで、のちにいさゝかも聞き給ことあらんに、つれな
くてありしよとおぼし合はせむもいみじうはづかしければ、又臥し給ぬ。「心
ちのいみじうなやましきかな。やがてなをらぬさまにもありなむ、いとめやす
かりぬべくこそ。脚のけの上りたる心ちす」と、おしくださせ給ふ。ものをい
と苦しうさまざまにおぼすには、けぞあがりける。
少将、「上に、この御事ほのめかし聞こえける人こそはべけれ。いかなりし

P108

ことぞと問はせ給つれば、ありのまゝに聞こえさせて、御障子のかためばかり
をなむすこしこと添へてけざやかに聞こえさせつる。もしさやうにかすめ聞こ
えさせ給はば、おなじさまに聞こえさせ給へ」と申す。嘆い給へるけしきは聞
こえ出ず。さればよと、いとわびしくて、物もの給はぬ御枕より雫ぞ落つる。
このことにのみもあらず、身の思はずになりそめしより、いみじうものをのみ
思はせたてまつること、と、生けるかひなく思ひつゞけ給て、この人はかうて
もやまで、とかく言ひかゝづらひ出でむも、わづらはしう聞きぐるしかるべう
よろづにおぼす。まいて言ふかひなく、人の言によりていかなる名をくたさま
し、などすこしおぼし慰むる方はあれど、かばかりになりぬる高き人の、かく
までもすゞろに人に見ゆるやうはあらじかし、と宿世うくおぼし屈して、夕つ
方ぞ、「なほ渡らせ給へ」とあれば、中の塗籠の戸あけあはせて渡り給へる。
苦しき御心ちにも、なのめならずかしこまりかしづききこえ給、常の御作法
あやまたず、起き上がりたまうて、「いと乱りがはしげにはべれば、渡らせ給
ふも心ぐるしうてなん。この二日三日許見たてまつらざりけるほどの、年月
の心ちするも、かつはいとはかなくなむ、のちかならずしも対面のはべるべき

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にも侍らざめり。又、めぐりまいるとも、かひやははべるべき。思へば、たゞ
時の間に隔たりぬべき世中を、あながちにならひはべりにけるもくやしきまで
なん」など泣き給ふ。宮も、物のみかなしう取り集めおぼさるれば、聞こえ
給こともなくて見たてまつり給。ものづつみをいたうし給本上に、際際
しうの給ひさはやぐべきにもあらねば、はづかしとのみおぼすに、いといとお
しうて、いかなりしなども問ひきこえ給はず。大殿油など急ぎまいらせて、御
台などこなたにてまいらせ給、物聞こしめさずと聞き給て、とかう手づから
まかなひなをしなどし給へど、触れ給べくもあらず、たゞ御心ちのよろしう
見え給ぞ胸すこしあけ給ふ。
かしこより又御文あり。心知らぬ人しも取り入れて、「大将殿より、少将の
君にとて御使あり」と言ふぞ又わびしきや。少将、御文は取りつ。官す所、
「いかなる御文にか」とさすがに問ひ給ふ。人知れずおぼしよはる心も添ひて、
下に待ち聞こえ給けるに、さもあらぬなめりと思ほすも、心さはぎして、「い
で、その御文、なを聞こえ給へ。あいなし。人の御名をよさまに言ひなをす人
はかたきものなり。そこに心きようおぼすとも、しか用ゐる人は少なくこそあ

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らめ。心うつくしきやうに聞こえ通ひ給て、なをありしまゝならむこそよから
め。あいなきあまえたるさまなるべし」とて召し寄す。苦しけれど、たてまつ
りつ。
あさましき御心のほどを見たてまつりあらはいてこそ中中心やすくひた
ふる心もつき侍ぬべけれ。
せくからに浅さぞ見えん山河の流れての名をつゝみはてずは
と、言葉も多かれど、見もはて給はず。この御文も、けざやかなるけしきにも
あらで、めざましげに心ちよ顔に、こよひつれなきを、いといみじ、とおぼす。
故督の君の御心ざまの思はずなりし時、いとうしと思ひしかど、大方のもてな
しは又並ぶ人なかりしかば、こなたに力ある心ちして慰めしだに、世には心も
ゆかざりしを、あないみじや、大殿のわたりに思ひのたまはむこと、と思ひし
み給。
なをいかゞの給とけしきをだに見むと、心ちのかき乱りくるゝやうにし給ふ
目をししぼりて、あやしき鳥の跡のやうに書き給ふ。
たのもしげなくなりにてはべる、とぶらひに渡り給へるおりにて、そゝの

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かしきこゆれど、いと晴れ晴れしからぬさまにものし給めれば、見たまへ
わづらひてなむ。
女郎花しほるゝ野辺をいづことて一夜ばかりの宿を借りけむ
と、たゝ書きさして、おしひねりて出だし給て、臥し給ぬるまゝに、いといた
く苦しがり給ふ。御ものゝけのたゆめけるにやと人々言ひさはぐ。例の験ある
かぎりいとさはがしうのゝしる。宮をば、「なを渡らせ給ひね」と、人々聞こ
ゆれど、御身のうきまゝにをくれきこえじとおぼせば、つと添ひ給へり。
大将殿は、この昼つ方、三条殿におはしにける、こよひ立ち返りまで給はむ
に、ことしもあり顔に、まだきに聞きぐるしかるべしなど念じ給て、いと中
中年ごろの心もとなさよりも千重にもの思ひ重ねて嘆き始。北の方は、かゝ
る御ありきのけしきほの聞きて、心やましと聞きゐ給へるに、知らぬやうにて
君達もて遊びまぎらはしつゝ、わが昼の御座に臥し給へり。
よひ過ぐるほどにぞこの御返もてまいれるを、かく例にもあらぬ鳥の跡の
やうなれば、とみにも見解き給はで、御殿油近う取り寄せて見給。女君、も
の隔てたるやうなれど、いととく見つけ給うて、はひ寄りて、御うしろより取

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りたまうつ。「あさましう、こはいかにし給うぞ。あなけしからず。六条の束
の上の御文なり。けさ風おこりてなやましげにし給へるを、院の御前にはべり
て出でつるほど、又もまうでずなりぬれば、いとおしさに、いまの間いかにと
聞こえたりつるなり。見給へよ、けさうびたる文のさまか。さてもなをなをし
の御さまや。年月に添へていたうあなづり給こそうれたけれ。思はむ所をむげ
にはぢ給はぬよ」とうちうめきて、おしみ顔にもひこしろひ給はねば、さすが
にふとも見でもたまへり。「年月に添ふるあなづらはしさは御心ならひなべか
めり」とばかり、かくうるはしだちたまへるに憚りて、若やかにおかしきさま
しての給へば、うち笑ひて、「そはともかくもあらむ。世の常の事なり。また
あらじかし、よろしうなりぬる男の、かくまがふ方なく一つ所を守らへて、も
のおぢしたる鳥のせうやうのもののやうなるは。いかに人笑ふらん。さるかた
くなしきものに守られ給は、御ためにもたけからずや。あまたが中に、猶際
まさりことなるけぢめ見えたるこそ、よそのおぼえも心にくゝ、わが心ちもな
を古りがたく、おかしきこともあはれなる筋も絶えざらめ。かく翁のなにがし
守りけんやうにおれまどひたれば、いとぞくちおしき。いづこのはえかあら

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む」と、さすがにこの文の、けしきなくをこつりとゞむの心にて、あざむき
申給へば、いとにほひやかにうち笑ひて、「もののはえばえしさつくり出で
給ふほど、古りぬる人苦しや。いといまめかしさも見ならはずなりにける事な
れば、いとなむ苦しき。かねてよりならはし給はで」とかこち給も、にくゝも
あらず。
「にはかにとおぼすばかりには何事か見ゆらむ。いとうたてある御心の隈か
な。よからず物聞こえ知らする人ぞあるべき。あやしう、もとよりまろをばゆ
るさぬぞかし。猶かの緑の袖のなごり、あなづらはしきにことつけて、もてな
したてまつらむと思ふやうあるにや、いろいろ聞きにくき事どもほのめくめり。
あいなき人の御ためにもいとほしう」などの給へど、ついにあるべき事とおぼ
せば、ことにあらがはず。大夫の乳母いと苦しと聞きて、ものも聞こえず。
とかく言ひしろひて、この御文はひき隠し給つれば、せめてもあさり取らで、
つれなく大殿籠りぬれば、胸はしりて、いかで取りてしかなと、宮す所の御文
なめり、何ごとありつらむ、と目も合はず思ひ臥したまへり。女君の寝たまへ
るに、よべの御座の下などに、さりげなくてさぐり給へど、なし。隠したまへ

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らむ程もなければ、いと心やましくて明けぬれど、とみにも起き給はず。女君
は、君達におどろかされて、ゐざり出て給にぞ、われもいま起き給ふやうにて、
よろづにうかゞひ給へど、え見つけ給はず。女なは、かく求めむとも思給へ
らぬをぞ、げにけさうなき御文なりけり、と心にも入れねば、君達のあはて遊
びあひて、雛つくり拾ひ据ゑて遊び給ふ、文読み手習など、さまざまにいとあ
はたゝし、ちいさき児はひかゝり引きしろへば、取りし文のことも思ひ出で給
はず。おとこは異事もおぼえ給はず、かしこにとく聞こえんとおぼすに、よべ
の御文のさまもえたしかに見ずなりにしかば、見ぬさまならむも、散らしてけ
るとおしはかり給べし、など思ひ乱れ給ふ。
たれもたれも御台まいりなどして、のどかになりぬる昼つ方、思ひわづらひて、
「よべの御文は何ごとかありし。あやしう、見せ給はで。けふもとぶらひ聞こ
ゆべし。なやましうて、六条にもえまいるまじければ、文をこそはたてまつら
め。何ごとかありけむ」との給がいとさりげなければ、文はおこがましう取り
てけり、とすさまじうて、そのことをばかけ給はず、「一夜の御山風にあやま
り給へるなやましさななりと、おかしきやうにかこちきこえ給へかし」と聞こ

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え給ふ。「いで、このひが事な常にの給そ。何のおかしきやうかある。世人に
なずらへ給うこそ中中はづかしけれ。この女房たちも、かつはあやしきまめ
ざまをかくの給とほゝ笑むらむものを」と、たはぶれ言に言ひなして、「その
文よ。いづら」との給へど、とみにも引き出で給はぬほどに、なをもの語りな
ど聞こえて、しばし臥し給へるほどに暮れにけり。
ひぐらしの声におどろきて、山の陰いかに霧りふたがりぬらむ、あさましや、
けふこの御返事をだに、といとをしうて、たゞ知らず顔に硯おしすりて、い
かになしてしにかとりなさむとながめおはする。
御座の奥のすこし上がりたる所を、心みに引き上げ給へれば、これにさしは
さみ給へるなりけりと、うれしうもおこがましうもおぼゆるに、うち笑みて見
給ふに、かう心ぐるしき事なむありける。胸つぶれて、一夜のことを心ありて
聞き給ふけるとおぼすに、いとおしう心ぐるし。よべだにいかに思ひ明かした
まうけむ、けふもいままで文をだに、と言はむ方なくおぼゆ。いと苦しげに言
ふかひなく書きまぎらはし給へるさまにて、おぼろけに思ひあまりてやはかく
書き給ふつらむ、つれなくてこよひの明けつらむ、と言ふべき方のなければ、

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女君ぞいとつらう心うき。すゞろにかくあだえ隠して、いでやわがならはしぞ
やと、さまざまに身もつらく、すべて泣きぬべき心ちし給。
やがて出で立ち給はむとするを、心やすく対面もあらざらむものから、人も
かくの給、いかならむ、坎日にもありけるを、もしたまさかに思ひゆるしたま
はば、あしからむ、なをよからむ事をこそ、とうるはしき心におぼして、まづ
この御返を聞こえ給ふ。
いとめづらしき御文を、かたがたうれしう見たまふるに、この御とがめを
なん。いかに聞こしめしたることにか。
秋の野の草のしげみは分けしかどかり寝の枕むすびやはせし
明らめきこえさするもあやなけれど、よべの罪はひたやごもりにや。
とあり。宮にはいと多く聞こえたまて、御厩に足疾き御馬に移しをきて、一夜
の大夫をぞたてまつれ給。「よべより六条の院にさぶらひて、たゞいまなむま
かでつると言へ」とて、言ふべきやうさゝめき教へ給ふ。
かしこには、よべもつれなく見え給し御けしきを忍びあへで、のちの聞こえ
をもつゝみあへずうらみきこえたまうしを、その御返だに見えず、けふの暮

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れはてぬるを、いかばかりの御心にかはと、もてはなれてあさましう心もくだ
けて、よろしかりつる御心ち、又いといたうなやみ給。中中正身の御心の内
は、このふしをことにうしともおぼしおどろくべきことしなければ、たゞおぼ
えぬ人にうちとけたりしありさまを見えしことばかりこそくちおしけれ、いと
しもおぼし染まぬを、かくいみじうおぼいたるを、あさましうはづかしう、明
らめきこえ給方なくて、例よりもものはぢし給へるけしき見え給を、いと心
ぐるしう、物をのみ思ほし添ふべかりける、と見たてまつるも、胸つとふたが
りてかなしければ、「いまさらにむっかしきことをば聞こえじと思へど、なを
御宿世とは言ひながら、思はずに幼くて、人のもどきを負ひ給ふべき事を、取
り返すべき事にはあらねど、いまよりはなをさる心したまへ。数ならぬ身なが
らも、よろづにはぐくみきこえつるを、いまは何事をもおぼし知り、世中のと
さまかうざまのありさまをもおぼしたどりぬべき程に見たてまつりをきつるこ
とと、そなたざまはうしろやすくこそ見たてまつりつれ、なをいといはけて強
き御心をきてのなかりける事、と思ひ乱れ侍に、いましばしの命もとどめま ほ
しうなむ。たゞ人だに、すこしよろしくなりぬる女の、人二人と見るためしは

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心うくあわつけきわざなるを、ましてかゝる御身には、さばかりおぼろけにて
人の近づききこゆべきにもあらぬを、思ひのほかに心にもつかぬ御ありさまと、
年ごろも見たてまつりなやみしかど、さるべき御宿世にこそは。院よりはじめ
たてまつりておぼしなびき、この父おとゞにもゆるい給ふべき御けしきありし
に、をのれ一人しも心を立ててもいかゞはと思ひ寄り侍しことなれば、末の世
までものしき御ありさまを、わが御あやまちならぬに、大空をかこちて見たて
まつり過ぐすを、いとかう人のため、わがための、よろづに聞きにくかりぬべ
きことの出で来添ひぬべきが、さてもよその御名をば知らぬ顔にて、世の常の
御ありさまにだにあらば、をのづからあり経んにっけても慰むこともやと思ひ
なし侍るを、こよなうなさけなき人の御心にもはべりけるかな」と、つぶつぶ
と泣き給ふ。
いとわりなくおしこめての給ふを、あらがひ晴るけむ事の葉もなくて、たゞ
うち泣き給へるさま、おほどかにらうたげなり。うちまもりつゝ、「あはれ、
何事かは人にをとり給へる。いかなる御宿世にて、やすからずものを深くおぼ
すべき契り深かりけむ」などの給まゝに、いみじう苦しうし給ふ。ものゝけな

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ども、かゝるよは目に所得るものなりければ、にばかに消え入て、たゞ冷えに
冷え入り給ふ。律師もさはぎ立ち給うて、願など立てのゝしり給。深き誓ひに
て、いまは命を限りける山籠りを、かくまでおぼろけならず出で立ちて、壇こ
ほちて帰り入らむことの面目なく、仏もつらくおぼえ給べき事を、心を起こし
て祈り申給ふ。宮の泣きまどひ給こと、いとことはりなりかし。
かくさはぐ程に、大将殿より御文取り入れたる、ほのかに聞き給て、こよ
ひもおはすまじきなめり、とうち聞き給ふ。心うく、世のためしにも引かれ
給べきなめり、何にわれさへさる事の葉を残しけむ、とさまざまおぼし出づ
るに、やがて絶え入りたまひぬ。あえなくいみじと言へばをろかなり。むかし
より、ものゝけには時時わづらひ給ふ。限りと見ゆるおりおりもあれば、例
のごと取り入れたるなめりとて、加持まいりさはげど、いまはのさましるかり
けり。
宮はをくれじとおぼし入りて、つと添ひ臥し給へり、人々まいりて、「いま
は言ふかひなし。いとかうおぼすとも限りある道は帰りおはすべき事にもあら
ず。慕ひきこえたまふともいかでか御心にはかなふべき」と、さらなることは

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りを聞こえて、「いとゆゝしう、亡き御ためにも罪深きわざなり。いまは去ら
せ給へ」と引き動かいたてまっれど、すくみたるやうにて、ものもおぼえ給は
ず。修法の壇こほちてほろほろと出づるに、さるべきかぎり、かたへこそ立ち
とまれ、いまは限りのさまいとかなしう心ぼそし。
所所の御とぶらひ、いつの間にかと見ゆ。大将殿も限りなく聞きおどろき
給うて、まづ聞こえ給へり。六条の院よりも、致仕の大殿よりも、すべていと
しげう聞こえ給ふ。山のみかども聞こしめして、いとあはれに御文書い給へり。
宮はこの御消息にぞ御ぐしもたげ給。
日ごろをもくなやみ給と聞きわたりつれど、例もあづしうのみ聞きはべり
つるならひに、うちたゆみてなむ。かひなきことをばさる物にて、思ひ嘆
い給ふ覧ありさまをしはかるなむあはれに心ぐるしき。なべての世のこと
はりにおぼし慰め給へ。
とあり。目も見えたまはねど、御返聞こえたまふ。
常にさこそあらめとの給けることとて、けふやがておさめたてまつるとて、
御甥の山との守にてありけるぞよろづに扱ひきこえける。骸をだにしばし見た

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てまつらむとて、宮はおしみきこえ給けれど、さてもかひあるべきならねば、
みないそぎたちて、ゆゝしげなる程にぞ大将おはしたる。「けふよりのち、日
次いであしかりけり」など、人聞きにはの給いて、いともかなしうあはれに、
宮のおぼし嘆く覧ことをおしはかりきこえ給うて、「かくしも急ぎわたり給べ
きことならず」と人々諫めきこゆれど、しゐておはしましぬ。
ほどさへとをくて、入り給ふほどいと心すごし。ゆゝしげに引き隔てめぐら
したる儀式の方は隠して、この西面に入れたてまつる。山との守出で来て、泣
く泣くかしこまりきこゆ。妻戸の簀子におしかゝり給うて、女房呼び出でさせ
給ふに、あるかぎり心もおさまらず、ものおぼえぬ程なり。かく渡り給へるに
ぞいさゝか慰めて少将の君はまいる。物もえの給ひやらず。涙もろにおはせぬ
心づよさなれど、所のさま、人のけはひなどをおぼしやるもいみじうて、常な
き世の有さまの、人の上ならぬもいとかなしきなりけり。
やゝためらひて、「よろしうをこたり給さまにうけたまはりしかば、思たま
へたゆみたりし程に、夢も覚むるほどはべなるを、いとあさましうなむ」と聞
こえ給へり。おぼしたりしさま、これに多くは御心も乱れにしぞかし、とおぼ

P122

すに、さるべきとは言ひながらも、いとつらき人の御契りなれば、いらへをだ
にしたまはず。「いかに聞こえさせ給とか聞こえはべるべき。いとかるらかな
らぬ御さまにて、かくふりはへ急ぎ渡らせ給へる御心ばへを、おぼし分かぬや
うならむもあまりに侍ぬべし」と口口聞こゆれば、「たゞおしはかりて。わ
れは言ふべきこともおぼえず」とて、臥し給へるもことはりにて、「たゞいま
は亡き人と異ならぬ御ありさまにてなむ。渡らせ給へるよしは聞こえさせ侍り
ぬ」と聞こゆ。この人々もむせかへるさまなれば、「聞こえやるべき方もなき
を、いますこしみづからも思ひのどめ、又しづまり給なむにまいり来む。いか
にしてかくにはかにと、その御ありさまなむゆかしき」との給へば、まほには
あらねど、かの思ほし嘆きしありさまを片はしづつ聞こえて、「かこちきこえ
さするさまになむなり侍ぬべき。けふはいとゞ乱りがはしき心ちどものまどひ
に、聞こえさせたがふることどももはべりなむ。さらば、かくおぼしまどへる
御心ちも限りあることにて、すこししづまらせ給ひなむほどに、聞こえさせう
け給らん」とて、われにもあらぬさまなれば、のたまひ出づることも口ふたが
りて、「げにこそ闇にまどへる心ちすれ。なを聞こえ慰め給て、いさゝかの御

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返もあらばむ」などの給ひをきて、立ちわづらひ給もかるがるしう、さす
がに人さはがしければ、帰り給ぬ。
こよひしもあらじと思ひつる事どものしたゝめ、いとほどなく際際しきを、
いとあえなしとおぼいて、近き御荘の人々召し仰せて、さるべき事ども仕ふま
つるべくをきて走めて出で給ぬ。ことのにはかなれば、そぐやうなりつる事ど
も、いかめしう人数なども添てなむ。山との守も、「ありがたき殿の御心を
きて」など、よろこびかしこまり聞こゆ。なごりだになくあさましき事、と宮
は臥しまろび給へどかひなし。親と聞こゆとも、いとかくはならはすまじきも
のなりけり。見たてまつる人々も、この御事を、又ゆゝしう嘆ききこゆ。山と
の守、残りのことどもしたゝめて、「かく心ぼそくてはえおはしまさじ。いと
御心の隙あらじ」など聞こゆれど、なを峰の煙をだにけ近くて思ひ出できこえ
むと、この山里に住みはてなむとおぼいたり。御忌に籠れる僧は、東面、そ
なたの渡殿、下屋などに、はかなき隔てしつゝ、かすかにゐたり。西の廂をや
つして、宮はおはします。明け暮るゝもおぼし分かねど、月ごろ経ければ、九
月になりぬ。

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山おろしいとはげしう、木の葉の隠ろへなくなりて、よろづの事いといみじ
き程なれば、大方の空にもよほされて、干る問もなくおぼし嘆き、命さへ心に
かなはずといとはしういみじうおぼす。さぶらふ人々も、よろづにものがなし
う思ひまどへり。大将殿は日々にとぶらひきこえたまふ。さびしげなる念仏の
僧など慰むばかり、よろづのものを遣はしとぶらはせ給ひ、宮の御前にはあ
はれに心ふかき事の葉を尽くしてうらみきこえ、かつは尽きもせぬ御とぶらひ
を聞こえ給へど、取りてだに御覧ぜず。すゞろにあさましきことを、弱れる御
心ちに疑ひなくおぼししみて、消え失せ給にしことをおぼし出づるに、後の
世の御罪にさえやなるらむと、胸に満つ心ちして、この人の御ことをだにかけ
て聞き給ふはいとゞつらく心うき涙のもよほしにおぼさる。人々も聞こえわづ
らひぬ。
一くだりの御返をだにもなきを、しばしは心まどひし給へる、などおぼし
けるに、あまりにほど経ぬれば、かなしきことも限りあるを、などかかくあま
り見知り給はずはあるべき、言ふかひなく若若しきやうに、とうらめしう、
事ごとの筋に花やてうやとかけばこそあらめ、わが心にあはれと思ひ、もの

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嘆かしき方ざまの事を、いかにと問ふ人はむつましうあはれにこそおぼゆれ、
大宮の亡せ給へりしをいとかなしと思しに、致仕のおとぐのさしも思ひ給へら
ず、ことはりの世の別れに、おほやけおほやけしきさほうばかりのことを孝じ給し
に、つらく心づきなかりしに、六条院の中中ねんごろに後の御事をもいと
なみ給うしが、わが方ざまといふ中にも、うれしう見たてまつりし、そのおり
に、故衛門の督をば取り分きて思ひっきにしぞかし、人がらのいたうしづまり
て、ものをいたう思ひとぐめたりし心に、あはれもまさりて人より深かりしが、
なつかしうおぼえし、などつれづれとものをのみおぼしつゞけて、明かし暮ら
し給ふ。
女君、なをこの御中のけしきを、いかなるにかありけむ、宮す所とこそ文通
はしもこまやかにし給めりしか、など思ひ得がたくて、夕暮の空をながめ入
りて臥し給へる所に、若君してたてまつれ給へる、はかなき紙の端に、
あはれをもいかに知りてかなぐさめむあるや恋しき亡きやかなしき
おぼつかなきこそ心うけれ。
とあれば、ほゝ笑みて、先先もかく思ひ寄りての給ふ、似げなの亡きがよそ

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へや、とおぼす。いとゞしく、ことなしびに、
いづれとか分きてながめん消えかへる露も草葉の上と見ぬ世を
大方にこそかなしけれ。
と書いたまへり。なをかく隔て給へることと、露のあはれをばさしをきて、
たゞならず嘆きつゝおはす。
なをかくおぼつかなくおぼしわびて、又渡り給へり。御忌など過ぐして、の
どやかに、とおぼししづめけれど、さまでもえ忍び給はず、いまはこの御なき
名の何かはあながちにもつゝまむ、たゞ世づきてつゐの思ひかなふべきにこそ
は、とおぼしたばかりにければ、北の方の御思ひやりをあながちにもあらがひ
きこえ給はず。正身は強うおぼし離るとも、かの一夜ばかりの御うらみ文をと
らへどころにかこちて、えしもすゝぎはて給はじ、と頼もしかりけり。
九月十余日、野山のけしきは、深く見知らぬ人だにたゞにやはおぼゆる。山
風にたへぬ木ゝの梢も峰の葛葉も、心あはたゝしうあらそひ散るまぎれに、た
うとき読経の声かすかに、念仏などの声ばかりして、人のけはひいと少なう、
木枯らしの吹き払ひたるに、鹿はたゞまがきのもとにたゝずみつゝ、山田の引

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板にもおどろかず、色濃き稲どもの中にまじりてうち鳴くも、愁へ顔なり。滝
の声は、いとゞ物思ふ人をおどろかし顔に、耳かしかましうとゞろき響く。草
むらの虫のみぞより所なげに鳴きよはりて、枯れたる草の下より竜胆のわれひ
とりのみ心ながう這ひ出でて露けく見ゆるなど、みな例のころのことなれど、
おりから所からにや、いとたへがたきほどのものがなしさなり。
例の妻戸のもとに立ち寄りたまて、やがてながめ出だして立ち給へり。なつ
かしき程のなをしに、色こまやかなる御衣の擣目いとけうらに透きて、影よは
りたるタ日の、さすがに何心もなうさし来たるに、まばゆげに、わざとなく扇
をさし隠し給へる手つき、女こそかうはあらまほしけれ、それだにえあらぬを、
と見たてまつる。もの思ひの慰めにしつべく笑ましき顔のにほひにて、少将の
君を取り分きて召し寄す。
簀子のほどもなけれど、奥に人や添ひゐたらんとうしろめたくて、えこまや
かにも語らひ給はず。「なを近くて。な放ち給そ。かく山深く分け入心ざしは
隔て残るべくやは。霧もいと深しや」とて、わざとも見入れぬさまに山の方を
ながめて、「なをなを」と切にの給へば、鈍色のき丁を簾のつまよりすこし

P128

押し出でて、裾を引きそばめつゝゐたり。山との守のいもうとなれば、放れた
てまつらぬうちに、幼くより生ほし立てたまうければ、衣の色いと濃くて、
橡の衣一襲、小桂着たり。「かく尽きせぬ御事はさるものにて、聞こえなむ方
なき御心のつらさを思ひ添ふるに、心たましゐもあくがれはてて、見る人ごと
にとがめられはべれば、いまはさらに忍ぶべき方なし」といと多くうらみつゞ
け給。かのいまはの御文のさまもの給ひ出でて、いみじう泣き給ふ。
 この人もましていみじう泣き入つゝ、「その夜の御返りさへ見えはべらずな
りにしを、いまは限りの御心にやがておぼし入て、暗うなりにしほどの空のけ
しきに御心ちまどひにけるを、さるよは目に例の御もののけの引き入れたてま
つるとなむ見給へし。過ぎにし御事にも、ほとほと御心まどひぬべかりしおり
おり多くはべりしを、宮のおなじさまにしづみたまうしをこしらへきこえんの
御心づよさになむやうやう物おぼえたまうし。この御嘆きをば、御前にはたゞ
われかの御けしきにて、あきれて暮らさせ給うし」など、とめがたげにうち嘆
きつゝ、はかばかしうもあらず聞こゆ。
「そよや。そもあまりにおぼめかしう、言ふかひなき御心なり。いまはかた

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じけなくとも、たれをかはよるべに思ひきこえ給はん。御山住みもいと深き峰
に、世中をおぼし絶えたる雲の中なめれば、聞こえ通ひ給はむことかたし。い
とかく心うき御けしき聞こえ知らせたまへ。よろづのことさるべきにこそ。世
にあり経じとおぼすとも、従はぬ世なり。まづはかゝる御別れの御心にかなは
ばあるべき事かは」など、よろづに多くの給へど、聞こゆべき事もなくて、う
ち嘆きつゝゐたり。
鹿のいといたく鳴くを、「われをとらめや」とて、
里とをみ小野の篠原わけて来てわれもしかこそ声もおしまね
との給へば、
藤衣露けき秋の山人は鹿の鳴く音に音をぞそへつる
よからねど、おりからに、しのびやかなる声づかひなどを、よろしう聞きなし
給へり。
御消息とかう聞こえ給へど、「いまはかくあさましき夢の世を、すこしも思
ひさますおりあらばなん、絶えぬ御とぶらひも聞こえやるべき」とのみすくよ
かに言はせ給。いみじう言ふかひなき御心なりけりと嘆きつゝ返給。

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道すがらも、あはれなる空をながめて、十三日の月のいとはなやかにさし出
でぬれば、小倉の山もたどるまじうおはするに、一条の宮は道なりけり。い
とゞうちあばれて、未申の方の崩れたるを見入るれば、はるばるとおろしこめ
て、人影も見えず、月のみ遣水の面をあらはにすみましたるに、大納言こゝに
て遊びなどしたまうしおりおりを思ひ出で給。
見し人の影すみはてぬ池水にひとり宿もる秋の夜の月
とひとりごちつゝ、殿におはしても、月を見つゝ、心はそらにあくがれ給へり。
「さも見ぐるしう、あらざりし御癖かな」と御達もにくみあへり。
上はまめやかに心うく、あくがれたちぬる御心なめり、もとよりさる方にな
らひ給へる六条院の人々を、ともすればめでたきためしに引き出でつゝ、心
よからずあいだちなき物に思ひ給へる、わりなしや、われも、むかしよりしか
ならひなましかば、人目もなれて中中過ごしてまし、世のためしにしつべき
御心ばへと、親はらからよりはじめたてまつり、めやすきあへ物にし給へるを、
ありありては末にはぢがましきことやあらむ、などいといたう嘆いたまへり。
夜明け方近く、かたみにうち出で給ふことなくて、背き背き嘆き明かして、

P131

朝霧の晴れ間も待たず、例の文をぞ急ぎ書きたまふ。いと心づきなしとおぼせ
ど、ありしやうにも奪ひ給はず。いとこまやかに書きて、うちをきてうそぶき
給ふ。忍びたまへど、漏りて聞きつけらる。
いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の夢さめてとか言ひしひとこと
上より落つる。
とや書い給っらむ、おし包みて、なごりも、「いかでよからむ」など口ずさび
給へり。人召して給ひつ。御返事をだに見つけてしかな、なをいかなること
ぞ、とけしき見まほしうおぼす。
日たけてぞ持てまいれる。紫のこまやかなる紙すくよかにて、小少将ぞ例の
聞こえたる。たゞおなじさまにかひなきよしを書きて、
いとおしさに、かのありつる御文に、手習すさびたまへるを盗みたる。
とて、中に引きやりて入たる、目には見給うてけり、とおぼすばかりのうれし
さぞいと人わろかりける。そこはかとなく書き給へるを、見つゞけ給へれば、
   朝タになく音をたつる小野山はたえぬ涙やをとなしの滝
とやとりなすべからむ。古言など、物思はしげに書き乱り給へる、御手なども

P132

見所あり。人の上などにてかやうのすき心思ひ焦らるゝはもどかしう、うつし
心ならぬことに見聞きしかど、身の事にては、げにいとたえがたかるべきわざ
なりけり、あやしや、などかうしも思ふべき心焦られぞ、と思ひ返し給へど、
えしもかなはず。
六条院にも聞こしめして、いとおとなしうよろづを思ひしづめ、人の譏り
所なく、めやすくて過ぐし給を、面立たしう、わがいにしへすこしあざればみ、
あだなる名を取りたまうし面起こしに、うれしうおぼしわたるを、いとおしう、
いづ方にも心ぐるしきことのあるべき事、さし離れたる仲らひにてだにあらで、
おとゞなどもいかに思ひ給はむ、さばかりの事たどらぬにはあらじ、宿世とい
ふ物のがれわびぬる事なり、ともかくも口入るべきことならず、とおぼす。女
のためのみにこそいづ方にもいとおしけれ、とあいなく聞こしめし嘆く。
紫の上にも、来し方行く先のことおぼし出でつゝ、かうやうのためしを聞
くにつけても、亡からむのちうしろめたう思ひきこゆるさまをの給へば、御顔
うち赤めて、心うくさまでをくらかし給ふべきにや、とおぼしたり。女ばかり、
身をもてなすさまもところせう、あはれなるべきものはなし、物のあはれ、お

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りおかしき事をも見知らぬさまに引き入りしづみなどすれば、何につけてか世
に経るはえばえしさも常なき世のつれづれをも慰むべきぞは、大方、物の心を
知らず、言ふかひなきものにならひたらむも、生ほし立てけむ親もいとくちお
しかるべきものにはあらずや、心にのみ籠めて、無言大子とか、小ほうしばら
のかなしきことにするむかしのたとひのやうに、あしきことよきことを思ひ知
りながら埋もれなむも言ふかひなし、わが心ながらも、よき程にはいかで保つ
べきぞ、とおぼしめぐらすも、いまはたゞ女一宮の御ためなり。
大将の君まいり給へるついでありて、思たまへらむけしきもゆかしければ、
「宮す所の忌はてぬらんな。きのふけふと思ふ程に、三年よりあなたのことに
なる世にこそあれ。あはれにあぢきなしや。タベの露かゝるほどのむさぼりよ。
いかでかこの髪剃りて、よろづ背き捨てんと思ふを、さものどやかなるやうに
ても過ぐすかな。いとわろきわざなりや」とのたまふ。「まことに、おしげな
き人だにこそはべめれ」など聞こえて、「宮す所の四十九日のわざなど、大和
の守なにがしの朝臣ひとり扱ひはべる、いとあはれなるわざなりや。はかばか
しきよすがなき人は、生ける世の限りにて、かゝる世のはてこそかなしう侍け

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れ」と聞こえ給ふ。「院よりもとぶらはせ給ふらん、かの御子いかに思ひ嘆き
給ふらん。はやう聞きしよりは、この近き年ごろ、事に触れて聞き見るに、こ
の更衣こそくちおしからずめやすき人のうちなりけれ。大方の世につけておし
きわざなりや。さてもありぬべき人の、かう亡せ行くよ。院もいみじうおどろ
きおぼしたりけり。かの御子こそは、こゝに物し給入道の宮より、さしつぎ
にはらうたうしたまひけれ。人ざまもよくおはすべし」との給。「御心はい
かゞものし給らん。宮す所は事もなかりし人のけはひ、心ばせになむ。親しう
うちとけ給はざりしかど、はかなき事のっいでに、をのづから人の用意はあら
はなるものになむはべる」と聞こえ給て、宮の御こともかけず、いとつれなし。
かばかりのすくよけ心に思ひそめてんこと、諫めむにかなはじ、用ゐざらむも
のから、われさかしに言出でむもあいなし、とおぼしてやみぬ。
かくて御法事に、よろづ取り持ちてせさせ給ふ。事の聞こえをのづから隠れ
なければ、大殿などにも聞き給て、さやはあるべきなど、女方の心あさきや
うにおぼしなすぞわりなきや。かのむかしの御心あれば、君達までとぶらひ
給、誦行など、殿よりもいかめしうせさせ給ふ。これかれもさまざま劣らず

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し給へれば、時の人のかやうのわざにをとらずなむありける。
宮は、かくて住みはてなんとおぼし立つことありけれど、院に人の漏らし奏
しければ、「いとあるまじきことなり。げに、あまたとさまかうざまに身をも
てなし給べきことにもあらねど、後見なき人なむ、中中さるさまにてあるま
じき名を立ち、罪得がましき時、この世、後の世、中空にもどかしき咎負ふわ
ざなる。こゝにかく世を捨てたるに、三宮のおなじごと身をやつし給へる、す
べなきやうに人の思ひ言ふも、捨てたる身には思ひなやむべきにはあらねど、
かならずさしも、やうのこととあらそひ給はむもうたてあるべし。世のうきに
つけて厭ふは中中人わろきわざなり。心と思ひしづめ心すましてこそともか
うも」とたびたび聞こえ給ふけり。この浮きたる御名をぞ聞こしめしたるべき。
さやうのことの思はずなるにつけて鬱し給へると言はれ給はんことをおぼすな
りけり。さりとて、又あらはれてものし給はむもあはあはしう、心づきなき事、
とおぼしながら、はづかしとおぼさむもいとおしきを、何かはわれさへ聞きあ
つかはむとおぼしてなむ、この筋はかけても聞こえ給はざりける。
大将も、とかく言ひなしつるもいまはあひなし、かの御心にゆるし給はむこ

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とはかたげなめり、宮す所の心知りなりけり、と人には知らせん、いかゞはせ
む、亡き人にすこし浅き咎は思はせて、いつありそめしことぞともなくまぎら
はしてん、さらがへりてけさうだち涙を尽くしかゝづらはむもいとうゐうゐし
かるべし、と思ひえたまうて、一条に渡りたまふべき日、その日ばかりと定め
て、大和の守召して、あるべきさほうのたまひ、宮のうち払ひしつらひ、さこ
そいへども女どちは草しげう住みなし給へりしを、磨きたるやうにしつらひな
して、御心づかひなど、あるべきさほうめでたう、壁代、御屏風、御木丁、
御座などまでおぼし寄りつゝ、山との守にの給て、かの家にぞいそぎ仕うまつ
らせたまふ。
その日、我おはしゐて、御車、御前などたてまつれ給、官ば、「さらに渡ら
じ」とおぼしの給ふを、人々いみじう聞こえ、山との守も、「さらにうけ給は
らじ。心ぼそくかなしき御ありさまを見たてまつり嘆き、このほどの宮仕へは
耐ふるに従ひて仕うまつりぬ。いまは国のこともはべり、まかり下りぬべし。
宮の内のことも見給へ譲るべき人もはべらず、いとたいだいしう、いかにと見
給ふるを、かくよろづにおぼし営むを、げにこの方にとりて思給ふるには、か

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ならずしもおはしますまじき御ありさまなれど、さこそはいにしへも御心にか
なはぬためし多くはべれ。一所やは世のもどきをも負はせ給べき。いと幼くお
はしますことなり。たけうおぼすとも、女の御心ひとつに、わが御身をとりし
たゝめかへりみ給べきやうかあらむ。なを人のあがめかしづき給へらんに助け
られてこそ。深き御心のかしこき御をきても、それにかゝるべきものなり。君
たちの聞こえ知らせたてまつり給はぬなり。かつはさるまじきことをも御心ど
もに仕うまつりそめ給うて」と言ひつゞけて、左近、少将を責む。
集まりて聞こえこしらふるに、いとわりなく、あざやかなる御衣ども、人々
のたてまつりかへさするも、われにもあらず、なをいとひたふるにそぎ捨てま
ほしうおぼさるゝ御髪を、掻き出でて見給へば、六尺ばかりにて、すこし細り
たれど、人はかたはにも見たてまつらず、みづからの御心には、いみじのおと
ろへや、人に見ゆべきありさまにもあらず、さまざまに心うき身を、とおぼし
つゞけて、又臥し給ぬ。「時たがひぬ。夜もふけぬべし」とみなさはぐ。しぐ
れいと心あはたゝしう吹きまがひ、よろづにものがなしければ、
のぼりにし峰の煙にたちまじり思はぬ方になびかずもがな

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心ひとつには強くおぼせど、そのころは、御鋏などやうのものはみなとり隠し
て、人々の守りきこえければ、かくもてさはがざらむにてだに、何のおしげあ
る身にてか、おこがましう若若しきやうには引き忍ばむ、人聞きもうたてお
ぼすまじかべきわざをとおぼせば、その本意のごともしたまはず。
人々はみないそぎ立ちて、をのをの櫛、手箱、唐櫃、よろづの物を、はか
ばかしからぬ袋やうの物なれど、みな先立てて運びたれば、ひとりとまり給べ
うもあらで、泣く泣く御車に乗り給も、かたはらのみまもられたまて、こち渡
りたまうし時、御心地の苦しきにも御髪かき撫でつくろひ、おろしたてまつり
給しをおぼし出づるに、目も霧りていみじ。御佩刀に添へて経箱を添へたる
が、御かたはらも離れねば、
恋しさのなぐさめがたきかたみにて涙にくもる玉の箱かな
黒きもまだしあへさせ給はず、かの手馴らし給へりし螺鈿の箱なりけり。誦経
にせさせ給しを、形見にとゞめたまへるなりけり。浦島の子が心ちなん。
おはしまし着きたれば、殿のうちかなしげもなく、人げ多くてあらぬさまな
り。御車寄せて下り給ふを、さらに古里とおぼえず、うとましううたておぼ

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さるれば、とみにも下り給はず。いとあやしう若若しき御さまかな、と人々
も見たてまつりわづらふ。殿は東の対の南をもてを、わが御方を仮にしつらひ
て、住みつき顔におはす。三条殿には、人々、「にはかにあさましうもなり給
ひぬるかな。いつのほどにありし事ぞ」とおどろきけり。なよらかにをかしば
めることをこのましからずおぼす人は、かくゆくりかなる事ぞうちまじりたま
うける。されど、年経にけることを、をとなくけしきも漏らさで過ぐし給うけ
るなり、とのみ思ひなして、かく女の御心ゆるいたまはぬと思よる人もなし。
とてもかうても宮の御ためにぞいとおしげなる。
御まうけなどさま変はりて、物のはじめゆゝしげなれど、ものまいらせなど
みなしづまりぬるに、渡りたまて、少将の君をいみじうせめ給ふ。「御心ざし
まことにながうおぼされば、けふあすを過ぐして聞こえさせ給へ。中中たち
返りて、物おぼししづみて、亡き人のやうにてなむ臥させ給ひぬる。こしらへ
きこゆるをもつらしとのみおぼされたれば、何ごとも身のためこそはべれ。い
とわづらはしう聞こえさせにくゝなむ」と言ふ。「いとあやしう、をしはかり
きこえさせしにはたがひて、いはけなく心得がたき街心にこそありけれ」とて、

P140

思ひ寄れるさま、人の御ためもわがためにも世のもどきあるまじうの給つゞく
れば、「いでや、たゞいまは又いたづら人に見なしたてまつるべきにやと、あ
はたゝしき乱り心ちによろづ思たまへ分かれず。あが君、とかくをし立ちて、
ひたふるなる御心なつかはせ給そ」と手を擦る。「いとまだ知らぬ世かな。に
くゝめざましと人よりけにおぼし落とすらん身こそいみじけれ。いかで人にも
ことはらせむ」と、言はむ方もなしとおぼしての給へば、さすがにいとおしう
もあり。「まだ知らぬは、げに世づかぬ御心がまへのけにこそはと、ことはり
はげに、いづ方にかは寄る人はべらんとすらむ」とすこしうち笑ひぬ。
かく心ごはけれど、いまばせかれ給べきならねば、やがてこの人をひき立て
て、おしはかりに入り給ふ。宮はいと心うく、なさけなくあはつけき人の心な
りけり、とねたくつらければ、若わかしきやうには言ひさはぐとも、とおぼし
て、塗籠に御座一つ敷かせたまて、うちより鎖して、大殿籠りにけり。これも
いつまでにかは、かばかりに乱れたちにたる人の心どもはいとかなしう、くち
おしうおぼす。おとこ君は、めざましうつらしと思ひきこえ給へど、かばかり
にては何のもて離るゝことかはと、のどかにおぼして、よろづに思ひ明かし給

P141

ふ。山鳥の心ちぞし給うける。からうして肝け方になりぬ。かくてのみ、こと
といへば直面なべければ、出で給ふとて、「たゞいさゝかの隙をだに」と、い
みじう聞こえ給へど、いとつれなし。
「うらみわび胸あきがたき冬の夜にまた鎖しまさる関の岩門
聞こえん方なき御心なりけり」と泣く泣く出で給ふ。
六条院にぞおはしてやすらひ給ふ。東の上、「一条の宮渡したてまつり給へ
ることと、かの大殿わたりなどに聞こゆる、いかなる御ことにかは」と、いと
おほどかにの給ふ。御き丁添へたれど、そばよりほのかにはなを見えたてま
つり給ふ。「さやうにもなを人の言ひなしつべきことに侍り。故宮す所は、い
と心づようあるまじきさまに言ひ放ちたまふしかど、限りのさまに御心ちのよ
はりけるに、又譲るべき人のなきやかなしかりけむ、亡からむのちの後見にと
やうなることのはべりしかば、もとよりの心ざしも侍りしことにて、かく思た
まへなりぬるを、さまざまにいかに人あつかひはべらむかし。さしもあるまじ
きをも、あやしう人こそ物言ひさがなき物にあれ」と、うちはらひつゝ、「か
の正身なむ、なを世に経じと深う思ひ立ちて、尼になりなむと思ひむすぼほれ

P142

給ふめれば、何かは。こなたかなたに聞きにくゝもはべべきを、さやうに嫌疑
離れても、またかの遺言はたがへじと思給へて、たゞかく言ひあつかひはべ
るなり。院の渡らせ給へらんにも、ことのついではべば、かうやうにまねび
きこえさせ給へ。ありありて心づきなき心つかうとおぼしの給はむを憚りはべ
りつれど、げにかやうの筋にてこそ人の諌めをもみづからの心にも従はぬやう
に侍りけれ」と、忍びやかに聞こえ給ふ。
「人のいつはりにやと思ひはべりつるを、まことにさるやうある御けしきに
こそは。みな世の常のことなれど、三条の姫君のおぼさむことこそいとおしけ
れ。のどやかにならひたまうて」と聞こえ給へば、「らうたげにものたまはせ
なす姫君かな。いと鬼しうはべるさがなものを」とて、「などてかそれをもを
ろかにはもてなしはべらん。かしこけれど、御ありさまどもにてもおしはから
せ給へ。なだらかならむのみこそ人はついのことにははべめれ。さがなくこと
がましきも、しばしはなまむつかしうわづらはしきやうに憚らるゝことあれど、
それにしも従ひはつまじきわざなれば、ことの乱れ出で来ぬるのち、われも人
もにくげにあきたしや。なを南のおとゞの御心用ゐこそさまざまにありがた

P143

う、さてはこの御方の御心などこそはめでたきものには見たてまっりはてはべ
りぬれしなどほめきこえ給へ、ば、笑ひ給て、「もののためしに引き出で給ほど
に、身の人わろきおぼえこそあらはれぬべう。さておかしき事は、院の、みづ
からの御癖をば人知らぬやうに、いさゝかあだあだしき御心づかひをば、大事
とおぼいていましめ申たまう、しりう事にも聞こえ給めるこそ、さかしだつ人
のをのが上知らぬやうにおぼえはべれ」との給へば、「さなむ。常にこの道を
しもいましめ仰せらるゝ。さるは、かしこき御教へならでも、いとよくおさめ
てばべる心を」とて、げにおかしと思ひ給へり。
御前にまいり給へれば、かの事は聞こしめしたれど、何かは聞き顔にも、と
おぼいて、たゞうちまもり給へるに、いとめでたくきよらに、このごろこそね
びまさり給へる御盛りなめれ、さるさまのすきごとをし給ふとも、人のもどく
べきさまもしたまはず、鬼神も罪ゆるしつべく、あざやかに物きよげに、若う
盛りににほひを散らし給へり、もの思ひ知らぬ若人の程にはたおはせず、かた
ほなる所なうねびとゝのほり給へる、ことはりぞかし、女にてなどかめでざら
む、鏡を見ても、などかをごらざらむ、とわが御子ながらもおぼす。

P144

日たけて、殿には渡り給へり。入り給より、若君たち、すぎずきうつくしげ
にて、まつはれ遊び給ふ。女君は丁のうちに臥し給へり。入り給へれど、目も
見合はせたまはず。つらきにこそはあめれと見給もことはりなれど、憚り顔
にももてなし給はず。御衣を引きやり給へれば、「いづことておはしつるぞ。
まろは早う死にき。常に鬼との給へば、おなじくはなりはてなむとて」との給
ふ。「御心こそ鬼よりけにもおはすれ、さまばにくげもなければ、えうとみは
つまじ」と何心もなう言ひなし給も、心やましうて、「めでたきさまになまめ
いたまへ覧あたりにあり経べき身にもあらねば、いづちもいづちも失せなむとする
を、かくだになおぼし出でそ。あいなく年ごろを経けるだにくやしきものを」
とて、起き上がり給へるさまは、いみじうあひ行づきて、にほひやかにうち
赤み給へる顔、いとおかしげなり。「かく心をさなげに腹立ちなし給へればに
や、目馴れて、この鬼こそいまはおそろしくもあらずなりにたれ。神神しき
けを添へばや」と、たはぶれに言ひなし給へど、「何ごと言ふぞ。おひらかに
死にたまひね。丸も死なむ。見ればにくし、聞けばあい行なし。見捨てて死な
むはうしろめたし」との給ふに、いとおかしきさまのみまされば、こまやかに

P145

笑ひて、「近くてこそ見たまはざらめ、よそには何か聞き給はざらむ。さても
契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。にはかにうちつゞくべかなるよみぢ
の急ぎは、さこそは契りきこえしか」といとつれなく言ひて、何くれと慰めこ
しらへ、聞こえなぐさめ給へば、いと若やかに心うつくしうらうたき心はたお
はする人なれば、なをざりごととは見給ながら、をのづからなごみつゝもの
し給を、いとあはれとおぼすものから、心は空にて、かれもいとわが心を立て
て強うものくしき人のけはひには見え給はねど、もしなを本意奮ぬことに
て尼になども思ひなり給ひなば、おこがましうもあべいかな、と思ふに、しば
しはとだえをくまじう、あはたゞしき心ちして、暮行まゝに、けふも御返りだ
になきよ、とおぼして、心にかゝりつゝ、いみじうながめをし給。
きのふけふつゆもまいらざりけるもの、いさゝかまいりなどしておはす。
「むかしより、御ために心ざしのをろかならざりしさま、おとゞのつらくもて
なしたまうしに、世中のしれがましき名を取りしかど、たへがたきを念じて、
こゝかしこすゝみけしきばみしあたりを、あまた聞き過ぐししありさまは、女
だにさしもあらじとなむ人ももどきし。いま思ふにも、いかでかはさありけむ

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と、わが心ながらいにしへだにをもかりけりと思ひ知らるdを、いまはかくに
くみ給とも、おぼし捨つまじき人同じ、いとところせきまで数添ふめれば、御心
ひとつにもて離れ給べくもあらず。又よし見たまへや、命こそ定めなき世な
れ」とて、うち泣きたまふこともあり。女も、むかしのことを思ひ出で給ふに、
あはれにもありがたかりし御中の、さすがに契り深かりけるかな、と思ひ出で
給ふ。なよびたる御衣ども脱い給うて、心ことなるをとり重ねてたきしめ給ひ、
めでたうつくろひけさうじて出で給ふを、火影に見出だして、しのびがたく涙
の出で来れば、脱ぎとめ給へる単衣の袖を引き寄せ給て、
「なるゝ身をうらむるよりは松島のあまの衣にたちやかへまし
なをうつし人にてはえ過ぐすまじかりけり」とひとり言にの給を、立ちとまり
て、「さも心うき御心かな。
松島のあまの濡衣なれぬとて脱ぎかへつてふ名を立ためやは」
うち急ぎて、いとなをなをしや。
かしこには、なをさしこもり給へるを、人同じ、「かくてのみやは。若若し
うけしからぬ聞こえもはべりぬべきを、例の御ありさまにて、あるべきことを

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こそ聞こえ給はめ」などよろづに聞こえければ、さもあることとはおぼしなが
ら、いまより後のよその聞こえをも、わが御心の過ぎにし方をも、心づきなく
うらめしかりける人のゆかり、とおぼし知りて、その夜も対面したまはず。
「たはぶれにくゝめづらかなり」と聞こえ尽くし給ふ。人もいとおしと見たて
まつる。「いさゝかも人心ちするおりあらむに、忘れ給はずはともかうも聞こ
えん、この御服のほどは一筋に思ひ乱るゝことなくてだに過ぐさむ」となん深
くおぼしの給はするを、かくいとあやにくに知らぬ人なくなりぬめるを、なを
いみじうつらき物に聞こえ給ふ」と聞こゆ。「思ふ心は又異ざまにうしろやす
きものを。思はずなりける世かな」とうち嘆きて、「例のやうにておはしまさ
ば、物越しなどにても、思ふこと、ばかり聞こえて、御心破るべきにもあちず。
あまたの年月をも過ぐしっべくなむ」など、尽きもせず聞こえ給へど、「なを
かゝる乱れに添へて、わりなき御心なむいみじうつらき。人の聞き思はむこと
も、よろづになのめならざりける身のうさをばさるものにて、ことさらに心う
き御心がまへなれ」と又言ひ返しうらみ給つゝ、はるかにのみもてなし給へり。
さりとてかくのみやは、人の聞き漏らさむこともことはり、とはしたなう、

P148

こゝの人目もおぼえ給へば、「内々の御心づかひは此のたまふさまにかなひて
もしばしはなさけばまむ、世づかぬありさまのいとうたてあり、又かゝりとて、
ひき絶えまいらずは、人の御名いかぐはいとおしかるべき。ひとへに物をおぼ
して、幼げなるこそいとおしけれ」など、この人を責め給へば、げにと思ひ、
見たてまつるもいまは心ぐるしう、かたじけなうおぼゆるさまなれば、人通は
し給ふ塗籠の北の口より入れたてまつりてけり。いみじうあさましうつらしと、
さぶらふ人をも、げにかゝる世の人の心なれば、これよりまさる目をも見せつ
べかりけりと、頼もしき人もなくなりはて給ぬる御身を、返くかなしうおぼ
す。
おとこは、よろづにおぼし知るべきことはりを聞こえ知らせ、言の葉多う、
あはれにもおかしうも聞こえつくし給へど、つらく心づきなしとのみおぼいた
り。「いとかう、言はむ方なきものに思ほされける身のほどは、たぐひなうは
づかしければ、あるまじき心のつきそめけむも、心ちなくくやしうおぼえはべ
れど、とり返すものならぬ中に、何のたけき御名にかはあらむ。言ふかひなく
おぼしよはれ。思ふにかなはぬとき、身を投ぐるためしもはべなるを、たゞ

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かゝる心ざしを深き淵になずらへたまて、捨てつる身とおぼしなせ」と聞こえ
給ふ。単衣の御衣を御髪ごめひきくゝみて、たけき事とは音を泣き給ふさまの、
心ふかくいとおしければ、いとうたて、いかなればいとかうおぼす覧、いみじ
う思ふ人も、かばかりになりぬれば、をのづからゆるふけしきもあるを、岩木
よりけになびきがたきは、契りとをうて、にくしなど思ふやうあなるを、さや
おぼす覧、と思ひ寄るに、あまりなれば、心うく、三条の君の思ひたまふらん
こと、いにしへも何心もなうあひ思ひかはしたりし世のこと、年ごろ、いまは
とうらなきさまにうち頼み、とけ給へるさまを思ひ出づるも、わが心もて、い
とあぢきなう思ひつゞけらるれば、あながちにもこしらへきこえ給はず、嘆き
明かし給うつ。
かうのみしれがましうて出で入らむもあやしければ、けふはとまりて、心の
どかにおはす。かくさへひたふるなるを、あさましと宮はおぼいて、いよいよ
うとき御けしきのまさるを、おこがましき御心かなと、かつはつらきもののあ
はれなり。塗籠も、ことにこまかなるもの多うもあらで、香の御唐櫃、御厨子
などばかりあるは、こなたかなたにかき寄せて、け近うしつらひてぞおはしけ

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る。うちは暗き心ちすれど、朝日さし出でたるけはひ漏り来たるに、埋もれた
る御衣ひきやり、いとうたて乱れたる御髪かきやりなどして、ほの見たてまつ
り給ふ。いとあてに女しう、なまめいたるけはひしたまへり。おとこの御さま
は、うるはしだち給へるときよりも、うちとけてものし給ふは、限りもなうき
よげなり。故君のことなることなかりしだに、心の限り思ひ上がり、御かたち
まほにおはせずと、ことのおりに思へりしけしきをおぼし出づれば、ましてか
う、いみじうをとろへにたるありさまを、しばしにても見忍びなんやと思ふも
いみじう、はづかしう、とさまかうざまに思ひめぐらしつゝ、わが御心をこし
らへ給ふ。たゞかたはらいたう、こゝもかしこも、人の聞きおぼさむ事の罪避
らむ方なきに、おりさへいと心うければ、慰めがたきなりけり。
御手水、御粥など、例の御座の方にまいれり。色異なる御しつらひもいま
いましきやうなれば、東面は屏風を立てて、母屋の際に香染めの御き丁など、
ことことしきやうに見えぬ物、沈の二階なんどやうのを立てて、心ばへありて
しつらひたり。山との守のしわざなりけり。人々も、あざやかならぬ色の山吹、
掻練、濃き衣、青鈍などを着かへさせ、薄色の裳、青朽葉などをとかくまぎら

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はして、御台はまいる。女所にて、しどけなくよろづのことならひたる宮のう
ちに、ありさま心とゞめて、わづかなる下人をも言ひとゝのへ、この人ひとり
のみ扱ひをこなふ。かくおぼえぬやむごとなき客入のおはすると聞きて、もと
勤めざりける家司など、うちつけにまいりて、政所などいふ方にさぶらひて営
みけり。
かくせめても見劇れ顔につくり給ふほど、三条殿、限りなめりと、さしもや
はとこそかつは頼みつれ、まめ人の心変はるはなごりなくなむと聞きしはまこ
となりけりと、世をこゝろみつる心ちして、いかさまにしてこのなめげさを見
じ、とおぼしければ、大殿へ方違へむとて渡り給にけるを、女御の里におはす
る程などに対面したまうて、すこしもの思ひ晴るけどころにおぼされて、例の
やうにも急ぎ渡りたまはず。大将殿も聞き給て、さればよ、いと急にものし
給ふ本上なり、このおとゞもはたとなおとなしうのどめたる所さすがになく、
いと引き切りには‡いたま一る人ぐにて、めざまし、見じ、聞かじなど、
ひがひがしきことどもし出で給うつべき、とおどろかれたまうて、三条殿に渡
り給へれば、君たちもかたへはとまり給へれば、姫君たち、さてはいと幼きと

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をぞ率ておはしにける、見っけてよろこびむつれ、あるは上を恋ひたてまつり
て愁へ泣き給ふを、心ぐるしとおぼす。
消息たびたび聞こえて、迎へにたてまつれ給へど、御返だになし。かくか
たくなしうかるがるしの世や、とものしうおぼえ給へど、おとゞの見聞き給は
むところもあれば、暮らしてみづからまいり給へり。
寝殿になむおはするとて、例の渡り給方は、御達のみさぶらふ。若君たち
ぞ乳母に添ひておはしける。「いまさらに若若しの御まじらひや。かゝる人
をこゝかしこに落としをき給て、など寝殿の御まじらひは。ふさはしからぬ御
心の筋とは年ごろ見知りたれど、さるべきにや、むかしより心に離れがたう思
ひきこえて、いまはかくくだくだしき人の数数あにれなるを、かたみに見捨
つべきにやはと頼みきこえける。はかなき一ふしに、かうはもてなし給べく
や」といみじうあはめうらみ申し給へば、「何ごとも、いまはと見飽きたまひ
にける身なれば、いまはた直るべきにもあらぬを、何かはとて。あやしき人ゝ
は、おぼし捨てずはうれしうこそはあらめ」と聞こえたまへり。「なだらかの
御いらへや。言ひもていけば、たが名かおしき」とて、しゐて渡り給へともな

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くて、その夜はひとり臥し給へり。あやしう中空なるころかなと思ひつゝ、君
たちを前に臥せ給て、かしこに又いかにおぼし乱るらんさま思ひやりきこえ、
やすからぬ心づくしなれば、いかなる人、かうやうなることをかしうおぼゆら
ん、などもの懲りしぬべうおぼえ給。
d明けぬれば、「人の見聞かむも若若しきを、限りとのたまひはてば、さて
心みむ。かしこなる人々も、らうたげに恋ひきこゆめりしを、選り残し給へ
る、やうあらむとは見ながら、思ひ捨てがたきを、ともかくももてなしはべり
なむ」とおどしきこえ給へば、すがすがしき御心にて、この君たちをさへや知
らぬ所に率て渡し給はん、とあやふし、姫君を、「いざたまへかし。見たてま
つりにかくまいり来ることもはしたなければ、常にもまいりこじ。かしこにも
人人のらうたきを、おなじ所にてだに見たてまっらん」と聞こえ給ふ。まだ
いといはけなくおかしげにておはす、いとあはれと見たてまつり給て、「母君
の御教へになかなひたまうそ。いと心うく思ひ取る方なき心あるは、いとあし
きわざなり」と、言ひ知らせたてまつり給ふ。
おとゞ、かゝることを聞き給て、人笑はれなるやうにおぼし嘆く。「しばし

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はさても見給はで。をのづから思所ものせらるらんものを。女のかく引き切
りなるも、かへりては軽くおぼゆるわざなり。よし、かく言ひそめつとならば、
何かはおれてふとしも帰り給ふ。をのづから人のけしき心ばへは見えなん」と
のたまはせて、この宮に、蔵人の少将の君を御使にてたてまつり給ふ。
ちぎりあれや君を心にとゞめをきてあはれと思ふうらめしと聞く
なをえおぼし放たじ。
とある御文を、少将持ておはして、たゞ入りに入給ふ。南面の簀子にわらうだ
さし出でて、人々もの聞こえにくし。宮はましてわびしとおぼす。この君は、
中にいとかたちよくめやすきさまにて、のどやかに見まはして、いにしへを思
ひ出でたるけしきなり。「まいり馴れにたる心ちして、うゐうゐしからぬに、
さも御覧じゆるさずやあらむ」などばかりぞかすめ給ふ。御返いと聞こえに
くゝて、「われはさらにえ書くまじ」とのたまへ、ば、「御心ざしも隔て若若し
きやうに。宣旨書きはた聞こえさすべきにやは」と、集まりて聞こえさすれば、
まづうち泣きて、故上おはせましかば、いかに心づきなしとおぼしながらも、
罪を隠いたまはましと思ひ出で給ふに、涙のみつらきに先立つ心ちして、書き

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やり給はず。
なにゆへか世に数ならぬ身ひとつをうしとも思ひかなしとも聞く
とのみ、おぼしけるまゝに、書きもとぢめ給はぬやうにて、をし包みて出たし
たまうつ。少将は、人人物語りして、「時ゝさぶらふに、かゝる御簾の前は
たづきなき心ちし侍るを、いまよりはよすがある心ちして、常にまいるべし。
内外などもゆるされぬべき年ごろのしるしあらはれ侍る心ちなむしはべる」な
ど、けしきばみをきて出で給ひぬ。
いとゞしく心よからぬ御けしき、あくがれまどひたまふほど、大殿の君は日
ごろ経るまゝにおぼし嘆く事しげし。内侍のすけ、かゝることを聞くに、われ
を世とともにゆるさぬものにのたまふなるに、かくあなづりにくきことも出で
来にけるを、と思ひて、文などは時ゝたてまつれば、聞こえたり。
数ならば身に知られまし世のうさを人のためにも濡らす袖かな
なまけやけしとは見たまへど、もののあはれなるほどのつれづれに、かれもい
とたゞにはおぼえじとおぼす片心ぞつきにける。
  人の世のうきをあはれと見しかども身にかへんとは思はざりしを

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とのみあるを、おぼしけるまゝとあはれに見る。
この、むかし御中絶えのほどには、この内侍のみこそ人知れぬものに思ひと
め給へりしか、ことあらためてのちは、いとたまさかに、つれなくなりまさり
給うつゝ、さすがに君達はあまたになりにけり。この御腹には、太郎君、三郎
君、五郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君とおはす。内侍は、大君、三の
君、六の君、二郎君、四郎君とぞおはしける。すべて十二人が中にかたほなる
なく、いとおかしげに、とりどりに生ひ出でたまける。内侍腹の君達しもなん、
かたちおかしう、心ばせかどありて、みなすぐれたりける。三の君、二郎君は、
東のおとゞにぞ取り分きてかしづきたてまつり給ふ。院も見馴れたまうて、
いとらうたくし給ふ。この御中らひのこと言ひやる方なく、とぞ。


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