３５巻　若 菜　下

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畳語、繰り返し文字はゝ、ゞ、または文字になっています。





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　ことはりとは思へども、うれたくも言へるかな、いでや、なぞ、かくことな
る事なきあへしらひ許を慰めにては、いかゞ過ぐさむ、かかる人づてならで、
ひと事をものたまひきこゆる世ありなむや、と思ふにつけても、大方にてはお
しくめでたしと思ひきこゆる院の御ため、なまゆがむ心や添ひにたらん。
　つごもりの日は、人人あまたまいり給へり。なま物うくすゞろはしけれど、
そのあたりの花の色をも見てや慰む、と思ひてまいりたまふ。殿上の賭弓、き
さらぎとありしを過ぎて、三月はた御忌月なれば、くちおしくと、人人思ふに、
この院に、かかるまとゐあるべしと聞き伝へて、例のつどひたまふ。左右大
将、さる御仲らひにてまいりたまへば、すけたちなどいどみかはして、小弓
とのたまひしかど、歩弓のすぐれたる上手どもありければ、召し出でて射させ
たまふ。
　殿上人どもも、つきつきしきかぎりはみな、前後の心、こまどりに方分きて、
暮れゆくままに、けふにとぢむる霞のけしきもあはたたしく、乱るる夕風に、

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花の陰いとゞ立つことやすからで、人〃いたく酔ひ過ぎたまひて、「艶なる賭
物ども、こなたかなた人人の御心見えぬべきを、柳の葉を百度射あてつべき
舎人どもの、うけばりて射取る、無心なりや。すこしここしき手つきどもをこ
そいどませめ」とて、大将たちよりはじめて下りたまふに、衛門督、人よりけ
にながめをしつつものしたまへば、かの片はし心知れる御目には、見つけつつ、
なをいとけしき異なり、わづらはしき事出で来べき世にやあらむ、と我さへ思
ひつきぬる心ちす、この君たち御中いとよし。さる仲らひといふなかにも、心
かはしてねんごろなれば、はかなき事にても、物思はしくうち紛るることあら
むを、いとおしくおぼえたまふ。
　身づからも、おとゞを見たてまつるに、けおそろしくまばゆく、かかる心は
あるべきものか、なのめならむにてだに、けしからず、人に点つかるべきふる
まひはせじ、と思ものを、ましておほけなき事、と思ひわびては、かのありし
猫をだに得てしかな、思事語らふべくはあらねど、かたはらさびしき慰めに
もなつけむ、と思ふに、もの狂おしく、いかでかは盗み出でむと、それさへぞ
かたき事なりける。

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　女御御方にまいりて、もの語りなど聞こえまぎらはし心みる。いと奥深く、
心はづかしき御もてなしにて、まほに見えたまふ事もなし。かかる御中らひに
だにけどをくならひたるを、ゆくりかにあやしくはありしわざぞかし、とはさ
すがにうちおぼゆれど、おぼろけにしめたるわが心から、浅くも思ひなされず。
　春宮にまいり給て、論なう通ひ給へる所あらむかしと、目とゞめて見たてま
つるに、にほひやかになどはあらぬ御かたちなれど、さばかりの御ありさま、
はたいとことにて、あてになまめかしくおはします。
　内の御猫のあまた引きつれたりけるはらからどもの、所〃にあかれて、この
宮にもまいれるが、いとおかしげにてありくを見るに、まづ思ひ出でらるれば、
「六条の院の姫宮の御方に侍猫こそ、いと見えぬやうなる顔して、おかしう
侍しか。はつかになむ見給へし」と啓したまへば、わざとらうたくせさせた
まふ御心にて、くはしく問はせ給。「唐猫の、ここのにたがへるさましてなん
侍りし。おなじやうなる物なれど、心おかしく人馴れたるは、あやしくなつか
しき物になむ侍」など、ゆかしくおぼさる許聞こえなしたまふ。
　聞こしめしをきて、案のごとく、桐壷の御方より伝へて、聞こえさせ給けれ

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ば、まいらせたまへり。げにいとうつくしげなる猫なりけり、と人人けうずる
を、衛門督は、尋ねんとおぼしたりき、と御けしきを見をきて、日ごろ経てま
いりたまへり。童なりしより、朱雀院のとりわきておぼし使はせ給しかば、御
山住みにをくれきこえては、又この宮にも親しうまいり、心寄せきこえたり。
御琴まど教へきこえ給とて、「御猫どもあまたつどひ侍にけり。いづら、この
見し人は」と、尋ねて見つけ給へり。いとらうたくおぼえてかき撫でてゐたり。
宮も、「げにおかしきさましたりけり。心なんまだなつきがたきは、見馴れぬ
人を知るにやあらむ。ここなる猫どもことにをとらずかし」とのたまへば、
「これは、さるわきまへ心もおさおさ侍らぬものなれど、その中にも心かしこ
きは、をのづから魂侍らむかし」など聞こえて、「まさるどもさぶらふめるを、
これはしばしたまはり預からむ」と申給。心の中に、あながちにおこがまし
く、かつはおぼゆる。
　つゐにこれを尋ね取りて、夜もあたり近く臥せ給。明けたてば、猫のかしづ
きをして、撫で養ひたまふ。人げとをかりし心もいとよく馴れて、ともすれば
衣の裾にまつはれ、より臥しむつるるを、まめやかにうつくし、と思ふ。いと

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いたくながめて、端近く寄り臥し給へるに、来て「ねうねう」といとらうた
げに鳴けば、かき撫でて、うたてもすすむかな、とほほ笑まる。
　　「恋わぶる人のかたみと手ならせばなれよなにとてなく音なるらむ
これもむかしの契りにや」と、顔を見つつのたまへば、いよいよらうたげに鳴
くを、懐に入れてなげめゐ給へり。御達などは、「あやしくにはかなる猫の時
めくかな。かやうなる物見入れたまはぬ御心に」と、とがめけり。宮より召す
にもまいらせず、とり篭めて、これを語らひ給。
　左大将殿の北の方は、大殿の君たちよりも、右大将の君をば、なをむかしの
ままに疎からず思ひきこえ給へり。心ばへのかどかどしくけ近くおはする君に
て、対面し給時時も、こまやかに隔てたるけしきなくもてなし給つれば、
大将も、淑景舎などのうとうとしくをよびがたげなる御心ざまのあまりなるに、
さまことなる御むつびにて思ひかはし給へり。
　おとこ君、いまはまして、かのはじめの北の方をももて離れはてて、並びな
くもてかしづききこえ給。この御腹には、おとこ君達のかぎりなれば、さう
さうしとて、かの真木柱の姫君を得て、かしづかまほしくし給へど、祖父宮な

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ど、さらにゆるしたまはず、「この君をだに人笑へならぬさまにて見む」とお
ぼしの給。
　親王の御おぼえいとやむごとなく、内にも、この宮の御心寄せいとこよなく
て、この事と奏し給ことをば、え背き給はず、心ぐるしき物に思ひきこえ給へ
り。大方もいまめかしくおかしくおはする宮にて、この院、大殿にさしつぎた
てまつりては、人もまいり仕うまつり、世人もをもく思ひきこえけり。大将も、
さる世のをもしとなり給べき下形なれば、姫君の御おぼえ、などてかはかるく
はあらん、聞こえ出づる人人、事にふれて多かれど、おぼしも定めず、衛門
督を、さもけしきばまば、とおぼすべかめれど、猫には思ひおとしたてまつる
にや、かけても思ひ寄らぬぞくちおしかりける。母君の、あやしくなをひがめ
る人にて、世の常のありさまにもあらずもて消ちたまへるを、くちおしきもの
におぼして、まま母の御あたりをば、心つけてゆかしく思ひて、いまめきたる
御心ざまにぞものしたまひける。
　兵部卿宮、なを一所のみおはして、御心につきておぼしけることどもはみ
なたがひて、世中もすさまじく、人笑へにおぼさるるに、さてのみやはあまえ

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て過ぐすべきとおぼして、このわたりにけしきばみより給へれば、大宮、「何
かは。かしづらんと思はむ女子をば、宮仕へにつぎては、親王たちにこそは見
せたてまつらめ。たゞ人のすくよかになをなをしきをのみ、いまの世の人のか
しこくする、品なきわざなり」とのたまひて、いたくもなやましたてまつり給
はず、うけひき申給つ。親王、あまりうらみどころなきを、さうさうしとお
ぼせど、大方のあなづりにくきあたりなれば、えしも言ひすべし給はで、おは
しましそめぬ。いと二なくかしづききこえ給。
　大宮は、女子あまたものしたまひて、「さまさまもの嘆かしきおりおり多か
るに、もの懲りしぬべけれど、なをこの君の事の思ひ放ちがたくおぼえてなん。
母君は、あやしきひが物に、年ごろに添へてなりまさりたまふ。大将はた、わ
が事に従はずとて、おろかに見捨てられためれば、いとなむ心ぐるしき」とて、
御しつらひをも、立ち居御手づから御覧じ入れ、よろづにかたじけなく御心に
は入れたまへり。
　宮は、亡せ給にける北の方を、世とともに恋ひきこえたまひて、たゞむかし
の御ありさまに似たてまつりたらむ人を見む、とおぼしけるに、あしくはあら

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ねど、さま変はりてぞ物したまひける、とおぼすに、くちおしくやありけむ、
通ひたまふさまいと物うげなり。大宮、いと心月なきわざかな、とおぼし嘆き
たり。母君も、さこそひがみたまへれど、うつし心出で来る時は、くちおしく、
うき世、と思はて給。大将の君も、さればよ、いたく色めきたまへる親王をと、
はじめよりわが御心にゆるし給はざりし事なればにや、ものしと思ひ給へり。
　かむの君も、かく頼もしげなき御さまを近く聞き給には、さやうなる世中
を見ましかば、こなたかなたいかにおぼし見給はましなど、なまおかしくもあ
はれにもおぼし出でけり。そのかみも、け近く見聞こえむとは思寄らざりき
かし、たゞなさけなさけしう心ふかきさまにのたまひわたりしを、あえなくあは
つけきやうにや聞きおとし給けむと、いとはづかしく、年ごろもおぼしわたる
事なれば、かかるあたりにて聞き給はむことも、心づかひせらるべく、などお
ぼす。
　これよりも、さるべき事は扱ひきこえたまふ。せうとの君たちなどして、
かかる御けしきも知らず顔に、にくからず聞こえまつはしなどするに、心ぐる
しくて、もて離れたる御心はなきに、大北の方といふさがなものぞ、常にゆる

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しなく怨じきこえ給。「親王たちは、のどかに二心なくて見給はむをだにこそ、
はなやかならぬ慰めには思ふべけれ」とむつかり給を、宮も、漏り聞きたまひ
ては、いと聞きならはぬ事かな、むかしいとあはれと思ひし人ををきても、
猶はかなき心のすさびは絶えざりしかど、かうきびしきもの怨じはことにな
かりし物を、心月なく、いとゞむかしを恋ひきこえ給つつ、古里にうちながめ
がちにのみおはします。さ言ひつつも、二年許になりぬれば、かかる方に目
馴れて、たゞさる方の御中にて過ぐしたまふ。
　はかなくて、年月も重なりて、内のみかど、御位につかせたまひて、十八年
にならせ給ひぬ。「次の君とならせたまふべき御子おはしまさず、もののはへ
なきに、世中はかなくおぼゆるを、心やすく思ふ人人にも対面し、わたくしざ
まに心をやりて、のどかに過ぎまほしくなむ」と、年ごろおぼしのたまはせつ
るを、日ごろいとをもくなやませたまふ事ありて、にはかにおりゐさせたまひ
ぬ。世に人、飽かず盛りの御世を、かくのがれたまふこと、とおしみ嘆けど、
春宮もをとなびさせ給ひにたれば、うちつぎて、世中のまつりごとなど、こ
とに変はるけぢめもなかりけり。

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　おほきおとゞ、致仕の表たてまつりて、篭り居たまひぬ。「世の中の常なき
により、かくかしこきみかどの君も位を去りたまひぬるに、年ふかき身の冠を
掛けむ、何かおしからむ」とおぼしのたまひて、左大将、右大臣になり給てぞ、
世中のまつりごと仕うまつり給ける。
　女御の君は、かかる御世をも待ちつけ給はで、亡せ給にければ、限りある御
位を得たまへれど、ものの後ろの心ちしてかひなかりけり。六条の女御の御腹
の一の宮坊に居たまひぬ。さるべき事とかねて思ひしかど、さしあたりてはな
をめでたく、目おどろかるるわざなりけり。右大将の君、大納言になりたまひ
ぬ。いよいよあらまほしき御仲らひなり。
　六条院はおりゐたまひぬる冷泉院の御嗣おはしまさぬを、飽かず御心の内
におぼす。おなじ筋なれど、思ひなやましき御事なくて過ぐしたまへるばかり
に、罪は隠れて、末の世まではえ伝ふまじかりける御宿世、くちおしくさう
さうしくおぼせど、人にのたまひあはせぬ事なれば、いぶせくなむ。
　春宮の女御は、御子たちあまた数そひ給て、いとゞ御おぼえ並びなし。源氏
のうちつゞき后にゐたまふべきことを、世人飽かず思へるにつけても、冷泉院

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の后は、ゆへなくて、あながちにかくしをきたまへる御心をおぼすに、いよ
いよ六条院の御ことを、年月に添へて、限りなく思ひきこえたまへり。
　院の御かど、おぼし召ししやうに、御幸も所せからで、渡り給ひなどしつつ、
かくてしもげにめでたくあらまほしき御ありさまなり。
　姫宮の御事は、みかど、御心とゞめて思ひきこえ給ふ。大方の世にも、あま
ねくもてかしづかれたまふを、対の上の御いきをひにはえまさりたまはず。年
月経るままに、御中いとうるはしくむつびきこえかはし給ひて、いささか飽か
ぬことなく、隔ても見えたまはぬものから、「いまは、かうおほぞうの住まゐ
ならで、のどやかにをこなひをもとなむ思ふ。この世はかばかりと見はてつる
心ちする齢にもなりにけり。さりぬべきさまにおぼしゆるしてよ」と、まめ
やかに聞こえたまふおりおりあるを、「あるまじくつらき御事なり。みづから
深き本意あることなれど、とまりてさうさうしくおぼえ給ひ、ある世に変はら
む御ありさまの、うしろめたさによりこそながらふれ。つゐにそのこと遂げな
むのちに、ともかくもおぼしなれ」などのみ、さまたげきこえたまふ。
　女御の君、たゞこなたをまことの御親にもてなしきこえたまひて、御方は、

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隠れがの御後見にて、卑下しものしたまへるしもぞ、なかなか行く先頼もしげ
にめでたかりける。尼君も、ややもすれば、耐えぬよろこびの涙、ともすれば
落ちつつ、目をさへのごひたゞらして、命長き、うれしげなるためしになりて
ものし給。
　住吉の御願かつかつ果たし給はむとて、春宮の女御の御祈りに詣でたまはん
とて、かの箱あけて御覧ずれば、さまさまのいかめしきことども多かり。年ご
との春秋の神楽に、かならず長き世の祈りを加へたる願ども、げにかかる御い
きをひならでは、果たし給べきこととも思ひをきてざりけり。たゞ走り書きた
るおもむきの、才才しくはかはかしく、仏神も聞き入れ給べき言の葉明らか
なり。いかでさる山臥の聖心に、かかることどもを思ひ寄りけむと、あはれに
おほけなくも御覧ず。さるべきにて、しばしかりそめに身をやつしける、むか
しの世のをこなひ人にやありけむ、などおぼしめぐらすに、いとゞかるかるし
くもおぼされざりけり。
　このたびは、この心をばあらはしたまはず、たゞ院の御物語でにて出で立ち
給。浦伝ひのものさはがしかりし程、そこらの御ぐはんども、みな果たし尽

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くし給へれども、なを世中にかくおはしまして、かかる色色の栄えを見た
まふにつけても、神の御助けは忘れがたくて、対の上も具しきこえさせたまひ
て、詣でさせたまふ響き世の常ならず。いみじくことどもそぎ捨てて、世のわ
づらひあるまじくとはぶかせたまへど、限りありければ、めづらかによそほし
くなむ。
　上達部も、大臣二所をおきたてまつりては、みな仕うまつり給。舞人は、衛
府のすけどもの、かたちきよげに丈だちひとしきかぎりを選らせ給。この選ひ
に入らぬをば、はぢにうれへ嘆きたるすきものどもありけり。陪従も、石清水、
賀茂の臨時の祭などに召す人人の、道道のことにすぐれたるかぎりをととのへ
させ給へり。加はりたる二人なむ、近衛府の名高きかぎりを召したりける。御
神楽の方には、いと多く仕うまつれり。内、春宮、院の殿上人、方方に分か
れて、心寄せ仕うまつる。数も知れず、いろいろに尽くしたる上達部の御馬鞍、
馬副、随身、小舎人童、次次の舎人などまで、ととのへ飾りたる見物、また
なきさまなり。
　女御殿、対の上は、一つにたてまつりたり。次の御車には明石の御方、尼君

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忍びて乗りたまへり。女御の御乳母、心知りにて乗りたり。方方のひとだま
ゐ、上の御方の五、女御殿の五つ、明石の御あかれの三、目もあやに飾りたる
装束ありさま、言へばさらなり。さる[は]、「尼君をば、おなじくは、老の波
のしは延ぶばかりに、人めかしくて詣でさせむ」と、院はのたまひけれど、
「このたびは、かく大方の響きにたちまじらむもかたはらいたし。もし思ふや
うならむ世中を待ち出でたらば」と、御方はしづめ給けるを、残りの命うしろ
めたくて、かつかつ物ゆかしがりて、慕ひまいり給なりけり。さるべきにて、
もとよりかくにほひたまふ御身どもよりも、いみじかりける契、あらはに思ひ
知らるる人の御ありさまなり。
　十月中の十日なれば、神の斎垣に這ふ葛も色変はりて、松の下紅葉などをと
にのみも秋を聞かぬ顔なり。ことことしき高麗唐士の楽よりも、東遊の耳馴れ
たるは、なつかしくおもしろく、波風の声に響きあひて、さる木高き松風に吹
き立てたるは、笛の音も、ほかにて聞く調べには変はりて身にしみ、琴に打ち
合はせたる拍子も、鼓を離れてととのへ取りたる方、おどろおどろしからぬも、
なまめかしくすごうおもしろく、所からはまして聞こえけり。山藍に摺れる

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竹の節は、松の緑に見えまがひ、かざしの色色は、秋の草に異なるけぢめ分か
れで、何ごとにも目のみまがひいろふ。求子はつる末に、若やかなる上達部は
肩ぬぎて下りたまふ。にほひもなく黒き袍に、すわう襲の、葡萄染の袖を、
にはかに引きほころぼしたるに、紅深き衵の袂の、うちしぐれたるにけしき
ばかり濡れたる、松原をば忘れて、紅葉の散るに思ひわたさる。見るかひ多か
る姿どもに、いと白く枯れたるおぎを高やかにかざして、たゞ一返り舞ひて入
りぬるは、いとおもしろく飽かずぞありける。
　おとゞ、むかしのことおぼし出でられ、中比沈み給し世のありさまも、目
の前のやうにおぼさるるに、その世のこと、うち乱れ語り給べき人もなければ、
致仕のおとゞをぞ恋しく思ひきこえ給ける。入りたまひて、二の車に忍びて、
　　たれか又心を知りて住吉の神世をへたる松にこととふ
御畳紙に書きたまへり。尼君うちしほたる。かかる世を見るにつけても、かの
浦にて、いまはと別れ給しほど、女御の君のおはせしありさまなど思ひ出づる
も、いとかたじけなかりける身の宿世の程を思ふ。世を背き給し人も恋しく、
さまさまに物がなしきを、かつはゆゆしと言忌して、

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　　住の江をいけるかひあるなぎさとは年ふるあまもけふや知るらん
をそくは便なからむと、たゞうち思ひけるままなりけり。
　　むかしこそまづ忘られね住吉の神のしるしを見るにつけても
とひとりごちけり。
　夜一夜遊び明かしたまふ。二十日の月遥かに澄みて、海の面おもしろく見え
わたるに、霜のいとこちたくをきて、松原も色まがひて、よろづの事そゞろ寒
く、おもしろさもあはれさも立ち添ひたり。対の上、常の垣根の内ながら、時
時につけてこそ、けふある朝夕の遊びに耳古り目馴れ給けれ、御門より外の
物見おさおさし給はず、ましてかく宮このほかのありきは、まだならひ給はね
ば、めづらしくおかしくおぼさる。
　　住の江の松に夜深くをく霜は神のかけたる木綿鬘かも
篁の朝臣の、「比良の山さへ」と言ひける雪の朝をおぼしやれば、祭の心うけ
たまふしるしにやと、いよいよ頼もしくなむ。女御ほ君、
　　神人の手にとりもたる榊葉に木綿かけそふるふかき夜の霜
中務の君、

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　　祝り子が木綿うちまがひをく霜はげにいちしるき神のしるしか
次次数知らず多かりけるを、何せむにかは聞きをかむ。かかるおりふしの歌
は、例の上手めき給おとこたちも、中中出で消えして、松の千歳より離れ
て、いまめかしきことなければ、うるさくてなむ。
　ほのほのと明けゆくに、霜はいよいよ深くて、本末もたどたどしきまで酔ひ
過ぎにたる神楽おもてども、をのが顔をば知らで、おもしろきことに心はしみ
て、庭火も影しめりたるに、なを「万歳万歳」と、榊葉を取り返しつつ祝ひ
きこゆる御世の末、思ひやるぞいとゞしきや。よろづのこと飽かずおもしろき
ままに、千夜を一夜になさまほしき夜の、何にもあらで明けぬれば、返る波に
きほふもくちおしく、若き人人思ふ。
　松原にはるはると立てつゞけたる御車どもの、風にうちなびく下簾の隙隙
も、常磐の陰に花の錦を引きくわへたると見ゆるに、袍の色色けぢめをき
て、おかしき懸盤取りつゞきて、ものまいりわたすをぞ、下人などは目につき
て、めでたしとは思へる。尼君の御前にも線香のおしきに、青鈍の表をりて、
精進物をまいるとて、「めざましき女の宿世かな」とをのがじしはしりうごち

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けり。
　詣で給し道は、ことことしくて、わづらはしき神宝、さまさまに所せげな
りしを、かへさはよろづのせうようを尽くし給。言ひつゞくるもうるさくむつ
かしきことどもなれば。
　かかる御ありさまをも、かの入道の、聞かず見ぬ世にかけ離れたうべるのみ
なん、飽かざりける。かたきことなりかし、まじらはましも見ぐるしくや。世
中の人、これをためしにて、心たかくなりぬべきころなめり。よろづのことに
つけて、めであさみ、世の言種にて、「明石の尼君」とぞ、幸い人に言ひける。
かの致仕の大殿の近江の君は双六打つ時の言葉にも、「明石の尼君、尼君、」
とぞ、賽はこひける。
　入道のみかどは、御をこなひをいみじくし給て、内の御事をも聞き入れ給は
ず、春秋の行楽になむ、むかし思ひ出でられ給事もまじりける。姫宮の御こ
とをのみぞ、猶えおぼし放たで、この院をば猶大方の御後見に思ひきこえ給
て、内内の御心寄せあるべく奏せさせ給。二品になりたまひて、御封などま
さる。いよいよはなやかに御いきをひ添ふ。

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　対の上、かく年月に添へて方方にまさり給御おぼえに、わが身はたゞ一
所の御もてなしに、人にはをとらねど、あまり年積りなば、その御心ばへもつ
ゐにをとろへなむ、さらぬ世を見はてぬさきに、心と背きにしかな、とたゆみ
なくおぼしわたれど、さかしきやうにやおぼさむ、とつつまれて、はかはかし
くもえ聞こえ給はず。内のみかどさへ御心寄せことに聞こえ給へば、をろかに
聞かれたてまつらむもいとおしくて、渡り給こと、やうやうひとしきやうにな
りゆく。さるべきこと、ことはりとは思ひながら、さればよ、とのみやすから
ずおぼされけれど、猶つれなくおなじさまにて過ぐし給。春宮の御さしつぎの
女一の宮を、こなたにとり分きて、かしづきたてまつりたまふ。その御あつか
ひになむ、つれつれなる御夜離れのほども慰め給ひける。いづれも分かず、う
つくしくかなしと思ひきこえ給へり。
　夏の御方は、かくとりとりなる御孫あつかひをうらやみて、大将の君の
典侍腹の君を、切に迎へてぞかしづき給。いとおかしげにて、心ばへも、ほ
どよりはされおよすげたれば、おとゞの君もらうたがりたまふ。少なき御嗣と
おぼししかど、末末に広ごりて、こなたかなたいと多くなり添ひたまふを、

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いまはたゞこれをうつくしみあつかひたまひてぞ、つれつれも慰め給ける。
　右の大殿のまいり仕うまつり給こと、いにしへよりもまさりて親しく、いま
は北の方もをとなびはてて、かのむかしのかけかけしき筋思ひ離れ給にや、さ
るべきおりも渡りまうでたまふ。対の上にも御対面ありて、あらまほしく聞こ
えかはし給けり。姫宮のみぞ、おなじさまに、若くおほどきておはします。女
御の君は、いまはおほやけざまに思ひ放ちきこえ給ひて、この宮をばいと心ぐ
るしく幼からむ御むすめのやうに、思ひはぐくみたてまつり給。
　朱雀院の、いまはむげに世近くなりぬる心ちして物心ぼそきを、さらにこの
世のことかへりみじ、と思ひ捨つれど、対面なんいま一たびあらまほしきを、
もしうらみ残りもこそすれ、ことことしきさまならで渡り給べく聞こえ給けれ
ば、おとゞも、「げにさるべき事也。かかる御けしきなからむにてだに、すす
みまいり給べきを、ましてかう待ちきこえ給ひけるが心ぐるしきこと」と、ま
いり給べきことおぼしまうく。
　ついでなくすさまじきさまにてやは、はひ渡り給べき、何わざをしてか御覧
ぜさせ給べき、とおぼしめぐらす。このたび足り給はむ年、若菜など調じてや、

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などおぼして、さまさまの御ほうぶくのこと、いもゐの御まうけのしつらい、
何くれと、さまことに変はれることどもなれば、人の御心しらひども入りつつ
おぼしめぐらす。
　いにしへも遊びの方に御心とゞめさせ給へりしかば、舞人、楽人などを心こ
とに定め、すぐれたるかぎりをととのへさせ給。右の大殿の御子ども二人、大
将の御子、内侍のすけ腹の加へて三人、まだちいさき、七つより上のは、みな
殿上せさせたまふ。兵部卿の宮の童孫王、すべてさるべき宮たちの御子ども、
家の子の君たち、みな選ひ出でたまふ。殿上の君たちも、かたちよく、おなじ
き舞の姿も心ことなるべきを定めて、あまたの舞のまうけをせさせ給。いみじ
かるべきたびのこととて、みな人心を尽くし給てなむ。道道の物の師、上手、
暇なきころ也。
　宮は、もとより琴の御琴をなむ習ひ給ひけるを、いと若くて、院にもひき別
れたてまつりたまひしかば、おぼつかなくおぼして、「まいりたまはむつゐで
に、かの御琴の音なむ聞かまほしき。さりとも琴ばかりは弾き取り給へらむ」
としりう言に聞こえ給けるを、内にも聞こしめして、「げにさりともけはひこ

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とならむかし。院の御前にて、手尽くし給はむついでに、まいり来て聞かば
や」などのたまはせけるを、おとゞの君は伝へ聞き給て、年比、さりぬべき
ついでごとには教へきこゆることもあるを、そのけはひはげにまさりたまひに
たれど、まだ聞こしめし所ある、物深き手にはをよばぬを、何心もなくてまい
りたまへらむついでに、聞こしめさむと、ゆるしなくゆかしがらせ給はむは、
いとはしたなかるべき事にも、といとおしくおぼして、このごろぞ、御心とゞ
めて教へきこえたまふ。
　調べことなる手二つ三つ、おもしろき大曲どもの、四季につけて変はるべき
響き、空の寒さぬるさをととのへ出でて、やむごとなかるべき手のかぎりを、
とりたてて教へきこえたまふに、心もとなくおはするやうなれど、やうやう心
得たまふままに、いとよくなり給。「昼はいと人しげく、なを一たびもゆし按
ずる暇も心あはたたしければ、夜夜なむ静かにことの心もしめたてまつるべ
き」とて、対にも、そのころは御暇聞こえ給て、明け暮れ教へきこえ給。
　女御の君にも、対の上にも、琴は習はしたてまつり給はざりければ、このお
り、おさおさ耳馴れぬ手ども弾き給らんを、ゆかしとおぼして、女御も、わざ

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とありがたき御暇を、たゞしばし、と聞こえ給てまかでたまへり。御子二所を
はするを、又もけしきばみ給て、五月許にぞなり給へれば、神わざなどに事
づけておはしますなりけり。十一月過ぐしては、まいり給べき御消息うちしき
りあれど、かかるついでにかくおもしろき夜夜の御遊びをうらやましく、な
どてわれに伝へ給はざりけむ、とつらく思ひきこえ給。
　冬の夜の月は、人にたがひてめでたまふ御心なれば、おもしろき夜の雪の光
に、おりにあひたる手ども弾きたまひつつ、さぶらふ人人も、すこしこの方に
ほのめきたるに、御琴どもとりとりに弾かせて、遊びなどし給。年の暮れつ方
は、対などにはいそがしく、こなたかなたの御営みに、をのづから御覧じ入
るる事どもあれば、「春のうららかならむ夕べなどに、いかでこの御琴の音聞
かむ」とのたまひわたるに、年かへりぬ。
　院の御賀、まづおほやけよりせさせ給ことどもこちたきに、さしあひては便
なくおぼされて、すこしほど過ごしたまふ。二月十余日と定めたまひて、楽人、
舞人などまいりつつ、御遊び絶えず。「この対の常にゆかしくする御琴の音、
いかでかの人人の箏、琵琶の音も合はせて、女楽心みさせむ。たゞいまの物

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の上手どもこそ、さらにこのわたりの人〃の御心しらひどもにまさらね。はか
はかしく伝へ取りたる事はおさおさなけれど、何事もいかで心に知らぬことあ
らじとなむ、幼きほどに思ひしかば、世にある物の師といふかぎり、又高き家
家のさるべき人の伝へどもも残さず心みし中に、いと深くはづかしきかなと、
おぼゆる際の人なむなかりし。そのかみよりも、又このごろの若き人〃の、さ
れよしめき過ぐすに、はた浅くなりにたるべし。琴はた、ましてさらにまねぶ
人なくなりにたりとか。この御琴の音ばかりだに伝へたる人おさおさあらじ」
とのたまへば、何心なくうち笑みて、うれしく、かくゆるしたまふほどになり
にける、とおぼす。廿一二ばかりになりたまへど、なをいといみじくかたなり
にきびはなる心ちして、細くあえかにうつくしくのみ見えたまふ。「院にも見
えたてまつり給はで年経ぬるを、ねびまさり給にけり、と御覧ずばかり、用意
くわへて見えたてまつりたまへ」と、事にふれて教へきこえたまふ。げにかか
る御後見なくては、ましていはけなくおはします御ありさま、隠れなからまし
と、人人も見たてまつる。
　正月廿日許になれば、空もおかしきほどに、風ぬるく吹きて、御前の梅も

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盛りになりゆき、大方の花の木どももみなけしきばみ、霞みわたりにけり。
「月立たば、御いそぎ近く物さはがしからむに、掻き合はせ給はむ御琴の音も、
試楽めきて人言ひなさむを、このごろ静かなるほどに心み給へ」とて、寝殿に
渡したてまつり給ふ。御供に、われもわれもと物ゆかしがりて、まう上らまほし
がれど、こなたにとをきをば選りとゞめさせ給て、すこしねびたれど、よしあ
るかぎり選りてさぶらはせ給ふ。
　童べは、かたちすぐれたる四人、赤色に桜の汗衫、薄色のをりものの衵、浮
紋の表の袴、紅の擣ちたる、さまもてなしすぐれたるかぎりを召したり。女御
の御方にも、御しつらひなどいとゞ改まれるころの曇りなきに、をのをのいど
ましく尽くしたるよそおひどもあざやかに二なし。童は、青色にすわうの汗衫、
唐綾の表の袴、衵は山吹なる唐の綺を、おなじさまにととのへたり。明石の御
方のは、ことことしからで、紅梅二人、桜二人、青磁のかぎりにて、衵濃く薄
く、擣目などえならで、着せたまへり。宮の御方にも、かくつどひたまふべく
聞き給て、童べの姿ばかりは、ことにつくろはせたまへり。青丹に柳の汗衫、
葡萄染の衵など、ことに好ましくめづらしきさまにはあらねど、大方のけはひ

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のいかめしくけ高きことさへいと並びなし。
　廂の中の御障子を放ちて、こなたかなた御木ちやうばかりをけぢめにて、中
の間は、院のおはしますべき御座よそひたり。けふの拍子合はせには童べを召
さむとて、右の大殿の三郎、かむの君の御腹の兄君、笙の笛、左大将の御太郎、
横笛と吹かせて、簀子にさぶらはせたまふ。内には、御褥ども並べて、御琴ど
もまいりわたす。秘したまふ御琴ども、うるはしき紺地の袋どもに入れたる、
取り出でて、明石の御方には琵琶、紫の上には和琴、女御の君に箏の御琴、宮
には、かくことことしき琴は、まだえ弾きたまはずやと、あやうくて、例の手
馴らし給へるをぞ、調べてたてまつり給。
　「箏の御琴は、ゆるふとなけれど、なをかく物に合はするおりの調べにつけ
て、琴柱の立ちど乱るる物也。よくその心しらひととのふべきを、女はえ張り
しづめじ。なを大将をこそ召し寄せつべかめれ。この笛吹きども、まだいと幼
げにて、拍子ととのへむ頼み強からず」と笑ひ給て、「大将こなたに」と召せ
ば、御方方はづかしく、心づかひしておはす。
　明石の君を放ちては、いづれもみな捨てがたき御弟子どもなれば、御心加へ

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て、大将の聞きたまはむに、難なかるべく、とおぼす。女御は、常に上の聞こ
しめすにも、物に合はせつつ、弾き馴らし給つればうしろやすきを、和琴こそ、
いくばくならぬ調べなれど、あと定まりたる事なくて、中中女のたどりぬべ
けれ、春の琴の音は、みな掻き合はするものなるを、乱るる所もや、となまい
とおしくおぼす。
　大将、いといたく心げさうして、御前のことことしくうるはしき御試みあら
むよりも、けふの心づかひはことにまさりておぼえ給へば、あざやかなる御な
おし、香にしみたる御衣ども、袖いたくたきしめて、ひきつくろひてまいり
給ほど、暮れはてにけり。
　ゆへあるたそかれ時の空に、花はこぞの古雪思出でられて、枝もたわむば
かり咲き乱れたり。ゆるらかにうち吹く風に、えならず匂ひたる御簾の内のか
ほりも吹き合はせて、鴬誘ふつまにしつべく、いみじきおとゞのあたりの匂
ひ也。御簾の下より、箏の御琴の裾すこしさせ出でて、「かるかるしきやうな
れど、これが緒ととのへて調べ心み給へ。ここに又うとき人の入るべきやう
もなきを」とのたまへば、うちかしこまりてたまはり給ほど、用意多くめやす

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くて、壱越調の声に発の緒を立てて、ふとも調べやらでさぶらひ給へば、「な
を掻き合はせ許は、手一つ、すさまじからでこそ」とのたまへば、「さらにけ
ふの御遊びのさしいらへにまじらふ許の手づかひなん、おぼえず侍ける」とけ
しきばみたまふ。「さもあることなれど、女楽にえことまぜでなむ逃げにける
と、伝はらむ名こそおしけれ」とて笑ひ給。調べはてて、おかしきほどに掻き
合はせばかり弾きて、まいらせたまひつ。この御孫の君たちの、いとうつくし
き宿直姿どもにて、吹き合はせたる物の手ども、また若けれど、生い先ありて、
いみじくおかしげなり。
　御琴どもの調べどもととのひはてて、掻き合はせ給へるほど、いづれとなき
なかに、琵琶はすぐれて上手めき、神さびたる手づかひ、澄みはてておもしろ
く聞こゆ。和琴に、大将も耳とゞめ給へるに、なつかしく愛敬づきたる御爪を
とに、掻き返したる音のめづらしくいまめきて、さらにこのわざとある上手ど
もの、おどろおどろしく掻き立てたる調べ調子にをとらず、にぎははしく、やま
と琴にもかかる手ありけりと、聞きおどろかる。深き御労のほどあらはに聞こ
えておもしろきに、おとゞ御心落ちゐて、いとありがたく思ひきこえ給。

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　箏の御琴は、物のひまひまに、心もとなく漏り出づる物の音がらにて、うつ
くしげになまめかしくのみ聞こゆ。琴は、なを若き方なれど、習ひ給盛りな
れば、たどたどしからず、いとよく物に響き合ひて、優になりにける御琴の音
かな、と大将聞き給。
　拍子とりて唱歌し給。院も時時扇打ち鳴らして、加へ給御声、むかしよ
りもいみじくおもしろく、すこしふつつかに物物しきけ添ひて聞こゆ。大将
も、声いとすぐれたまへる人にて、夜の静かになりゆくままに、言ふ限りなく
なつかしき夜の御遊びなり。
　月、心もとなきころなれば、灯篭こなたかなたに掛けて、火よきほどにとも
させ給へり。宮の御方をのぞき給へれば、人よりけにちいさくうつくしげにて、
たゞ御衣のみある心ちす。にほひやかなる方はをくれて、たゞいとあてやかに
おかしく、二月の中十日許の青柳の、わづかにしだりはじめたらむ心ちして、
鴬の羽風にも乱れぬべく、あえかに見え給。桜の細長に、御髪は左右よりこ
ぼれかかりて、柳の糸のさましたり。
　これこそは、限りなき人の御ありさまなめれ、と見ゆるに、女御の君はおな

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じやうなる御なまめき姿の、いますこしにほひ加はりて、もてなしけはひ心に
くく、よしあるさまし給て、よく咲きこぼれたる藤の花の、夏にかかりて、か
たはらに並ぶ花なき朝ぼらけの心ちぞし給へる。さるは、いとふくらかなるほ
どになり給て、なやましくおぼえ給ければ、御琴も押しやりて、けうそくにお
しかかり給へり。ささやかになよびかかり給へるに、御けうそくは例のほどな
れば、をよびたる心ちして、ことさらにちいさくつくらばや、と見ゆるぞ、い
とあはれげにおはしける。
　紅梅の御衣に、御髪のかかりはらはらときよらにて、火影の御姿、世になく
うつくしげなるに、紫の上は、葡萄染にやあらむ、色濃き小袿、薄すわうの細
長に御髪のたまれるほど、こちたくゆるらかに、大きさなどよきほどに様体あ
らまほしく、あたりににほひみちたる心ちして、花と言はば桜にたとへても、
なをものよりすぐれたるけはひことに物し給。
　かかる御あたりに、明石は、けをさるべきを、いとさしもあらず、もてなし
などけしきばみはづかしく、心の底ゆかしきさまして、そこはかとなくあてに
なまめかしく見ゆ。柳のをりものの細長に、萌黄にやあらむ、小袿着て、羅

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の裳のはかなげなる引きかけて、ことさら卑下したれど、けはひ思ひなしも心
にくく、あなづらはしからず。高麗の青地の錦の端さしたる褥に、まほにもゐ
で、琵琶をうちをきて、たゞけしき許弾きかけて、たをやかに使ひなしたる
撥のもてなし、音を聞くよりも、又ありがたくなつかしくて、五月まつ花橘
の、花も実も具してをしおれるかほりおぼゆ。
　これもかれも、うちとけぬ御けはひどもを聞き見給に、大将も、いと内ゆ
かしくおぼえ給。対の上の、見しおりよりもねびまさりたまへらむありさまゆ
かしきに、静心もなし。宮をば、いますこしの宿世をよばましかば、わがもの
にても見たてまつりてまし、心のいとぬるきぞくやしきや、院はたびたびさや
うにおもむけて、しりう事にものたまはせけるを、とねたく思へど、すこし心
やすき方に見えたまふ御けはひに、あなづりきこゆとはなけれど、いとしも心
は動かざりけり。この御方をば、何ごとも思ひをよぶべき方なく、けどをくて、
年ごろ過ぎぬれば、いかでかたゞ大方に、心寄せあるさまをも見えたてまつら
むと許の、くちおしく嘆かしきなりけり。あながちに、あるまじくおほけなき
心ちなどは、さらにものし給はず、いとよくもておさめ給へり。

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　夜ふけゆくけはひ冷やかなり。臥待の月はつかにさし出でたる。「心もとな
しや、春の朧月夜よ。秋のあはれはた、かうやうなる物の音に、虫の声よりあ
はせたる、たゞならず、こよなく響き添ふ心ちすかし」とのたまへば、大将の
君、「秋の夜の隈なき月には、よろづのもののとゞこほりなきに、琴笛の音も、
明らかに澄める心ちはし侍れど、なをことさらにつくりあはせたるやうなる空
のけしき、花の露にも、色色目移ひろ心散りて、限りこそ侍れ。春の空のた
どたどどしき霞の間より、おぼろなる月影に、静かに吹き合はせたるやうには、
いかでか。笛の音なども艶に澄み上りはてずなむ。女は春をあはれぶと、古き
人の言ひをき侍ける、げになさむ侍ける。なつかしくもののととのほる事は、
春の夕暮れこそことに侍けれ」と申給へば、「いな、この定めよ。いにしへよ
り人の分きかねたることを、末の世に下れる人の、え明らめははつまじくこそ。
物の調べ、曲のものどもはしも、げに律をば次のものにしたるは、さもありか
し」などのたまひて、「いかに。たゞいま、有識、おぼえ高きその人かの人、
御前などにてたびたび心みさせ給に、すぐれたるは数少なくなりためるを、そ
のこのかみと思へる上手ども、いくばくえまねび取らぬにやあらむ、このほの

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かなる女たちの御中にひきまぜたらむに、際離るべくこそおぼえね。年ごろ、
かく埋れて過ぐすに、耳などもすこしひがひがしくなるにたるにやあらむ、く
ちおしうなむ。あやしく、人の才、はかなくとりすることどもも、もののはえ
ありてまさるところなる。その御前の御遊びなどに、一きざみに選はるる人
人、それかれといかにぞ」との給へば、大将、「それをなむとり申さむと思
ひ侍りつれど、明らかならぬ心のままに、およすげてやはと思給ふる。上り
ての世を聞き合はせ侍らねばにや、衛門督の和琴、兵部卿宮の御びわなどを
こそ、このごろめづらかなるためしに引き出で侍めれ。げにかたはらなきを、
こよひうけたまはる物の音どもの、みなひとしく耳おどろき侍は、なをかくわ
ざともあらぬ御遊びと、かねて思給へたゆみける心のさはぐにや侍らむ、唱
歌などいと仕うまつりにくくなむ。和琴は、かのおとゞ許こそ、かく折につけ
てこしらへなびかしたる音など、心にまかせて掻き立て給へるは、いとことに
ものし給へ、おさおさ際離れぬ物に侍べめるを、いとかしこくととのひてこそ
侍りつれ」とめできこえたまふ。
　「いと、さ、ことことしき際にはあらぬを、わざとうるはしくもとりなさ

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るるかな」とて、したり顔にほほ笑みたまふ。「げにけしうはあらぬ弟子ども
なりかし。琵琶はしも、ここに口入るべきことまじらぬを、さ言へど、物のけ
はひことなるべし。おぼえぬ所にて聞きはじめたりしに、めづらしき物の声か
なとなむおぼえしかど、そのおりよりは、又こよなくまさりにたるをや」とせ
めてわれかしこにかこちなし給へば、女房などはすこしつきしろふ。
　「よろづのこと、道道につけて習ひまねばば、才といふ物、いづれも際な
くおぼえつつ、わが心ちに飽くべき限りなく、習ひ取らむ事はいとかたけれど、
何かは、そのたどり深き人の、いまの世におさおさなければ、片はしをなだら
かにまねび得たらむ人、さる片かどに心をやりてもあるぬべきを、琴なむ猶わ
づらはしく手触れにくき物はありける。この琴は、まことに跡のままに尋ね取
りたるむかしの人は、天地をなびかし、鬼神の心をやわらげ、よろづの物の音
のうちに従ひて、かなしび深きものもよろこびに変はり、いやしく貧しき物も、
高き世に改まり、宝にあづかり、世にゆるさるるたぐひ多かりけり。この国に
弾き伝ふるはじめつ方まで、深くこの事を心得たる人は、多くの年を知らぬ国
に過ごし、身をなきになして、この琴をまねび取らむとまどひてだに、し得る

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はかたくなむありける。げにはた、明らかに空の月星を動かし、時ならぬ霜雪
を降らせ、雲雷をさはがしたるためし、上がりたる世にはありけり。かく限
りなき物にて、そのままに習ひ取る人のありがたく、世の末なればにや、いづ
このそのかみの片はしにかはあらむ。されど、なをかの鬼神の耳とゞめ、かた
ぶきそめにける物なればにや、なまなまにまねびて、思かなはぬたぐひありけ
るのち、これを弾く人よからずとかいふ難をつけて、うるさきままに、いまは
おさおさ伝ふる人なしとか。いとくちおしき事にこそあれ。琴の音を離れては、
何ごとをか物をととのへ知るしるべとはせむ。げによろづのこと衰ふるさまは
やすくなりゆく世の中に、ひとり出で離れて、心を立てて、唐土高麗とこの世
にまどひありき、親子を離れむことは、世中にひがめる物になりぬべし。など
か、なのめにて、なをこの道を通はし知るばかりの端をば知りをかざらむ。調
べひとつに手を弾き尽くさんことだに、はかりもなき物ななり。いはむや、多
くの調べ、わづらはしき曲多かるを、心に入りし盛りには、世にありとあり、
ここに伝はりたる譜といふもののかぎりを、あまねく見合はせて、のちのちは
師とすべき人もなくてなむ、好み習ひしかど、猶上がりての人には当たるべ

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くもあらじをや。ましてこののちと言ひては、伝はるべき末もなき、いとあは
れになむ」などのたまへば、大将、げにいとくちおしくはづかし、とおぼす。
　「この御子たちの御中に、思ふやうに生い出で給ものしたまはば、その世に
なむ、そもさまでながらへとまるやうあらば、いくばくならぬ手のかぎりも、
とゞめたてまつるべき。二宮、いまよりけしきありて見えたまふを」などのた
まへば、明石の君は、いと面立たしく、涙ぐみて聞きゐたまへり。
　女御の君は、箏の御琴をば、上に譲りきこえて、寄り臥し給ひぬれば、あづ
まをおとゞの御前にまいりて、け近き御遊びになりぬ。葛城遊び給。はなやか
におもしろし。おとゞおり返しうたひ給御声、たとへん方なく愛敬づきめで
たし。月やうやうさし上がるままに、花の色香ももてはやされて、げにいと心
にくきほど也。
　箏の琴は、女御の御爪をとは、いとらうたげになつかしく、母君の御けはひ
加はりて、ゆの音深くいみじく澄みて聞こえつるを、この御手づかひは、又さ
ま変はりて、ゆるるかにおもしろく、聞く人たゞならず、すゞろはしきまで愛
敬づきて、輪の手など、すべてさらにいとかどある御琴の音なり。返り声にみ

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な調べ変はりて、律の掻き合はせども、なつかしくいまめきたるに、琴は胡茄
の調べ、あまたの手のなかに、心とゞめてかならず弾き給べき五六のはちを、
いとおもしろく澄まして弾き給。さらにかたほならず、いとよく澄みて聞こゆ。
春秋よろづの物に通へる調べにて、通はしわたしつつ弾き給心しらひ、教へ
きこえ給さまたがへず、いとよくわきまへたまへるを、いとうつくしく面立た
しく思ひきこえ給。
　この君たちのいとうつくしく吹き立てて、切に心入れたるをらうたがり給て、
「ねぶたくなりにたらむに、こよひの遊びは長くはあらで、はつかなるほどに
と思ひつるを、とゞめがたき物の音どもの、いづれともなきを、聞き分くほど
の耳とからぬたどたどしさに、いたくふけにけり。心なきわざなりや」とて、
笙の笛吹く君に、かはらけさし給て、御衣ぬぎてかづけ給。横笛の君には、こ
なたより、をりものの細長に袴など、ことことしからぬさまに、けしきばかり
にて、大将の君には、宮の御方よりさか月さし出でて、宮の御装束一くだりか
づけたてまつり給を、おとゞ、「あやしや。物の師をこそまづはものめかし給
はめ。うれはしき事也」とのたまふに、宮のおはします御木ちやうのそばより

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御笛をたてまつる。うち笑ひ給て取り給。いみじき高麗笛なり。すこし吹き鳴
らし給へば、みな立ち出で給ほどに、大将立ちとまり給て、御子のもちたまへ
る笛を取りて、いみじくおもしろく吹き立て給へるが、いとめでたく聞こゆれ
ば、いづれもいづれも、みな御手を離れぬものの伝へ伝へ、いと二なくのみあるに
てぞ、わが御才の程、ありがたくおぼし知られける。
　大将殿は、君たちを御車に乗せて、月の澄めるにまかで給。道すがら、箏の
琴のかはりていみじかりつる音も耳につきて、恋しくおぼえたまふ。わが北の
方は、故大宮の教へきこえ給しかど、心にもしめ給はざりしほどに、別れたて
まつりたまひにしかば、ゆるるかにも弾き取りたまはで、おとこ君の御前にて
は、はぢてさらに弾きたまはず、何ごともたゞおひらかに、うちをほどきたる
さまして、子どもの扱ひを、暇なくつぎつぎし給へば、おかしき所もなくおぼ
ゆ。さすがに腹あしくてものねたみうちしたる、愛敬づきてうつくしき人ざま
にぞものし給める。
　院は、対へ渡り給ひぬ。上は、とまり給て、宮にも御もの語りなど聞こえた
まひて、あか月にぞ渡り給へる。日高うなるまで大殿篭れり。「宮の御琴の音

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はいとうるさくなりにけりな。いかゞ聞き給し」と聞こえ給へば、「はじめつ
方、あなたにてほの聞きしはいかにぞやありしを、いとこよなくなりにけり。
いかでかは、かく異事なく教へきこえたまはむには」といらへきこえたまふ。
「さかし。手を取る取る、おぼつかなからぬ物の師なりかし。これかれにも、
うるさくわづらはしくて、暇いるわざなれば、おしへたてまつらぬを、院にも
内には、「琴はさりとも習はしきこゆらむ」とのたまふと聞くがいとおしく、
さりともさばかりのことをだに、かくとりわきて御後見にと預けたまへるしる
しには、と思ひ起こしてなむ」など、聞こえ給ついでにも、「むかし、世づか
ぬほどをあつかひ思ひしさま、その世には暇もありがたくて、心のどかにとり
わき教へきこゆる事などもなく、近き世にも、何となくつぎつぎ紛れつつ過ぐ
して、聞きあつかはぬ御琴の音の出でばへしたりしも、面目ありて、大将のい
たくかたぶきおどろきたりしけしきも、思ふやうにうれしくこそありしか」な
ど聞こえ給。
　かやうの筋も、いまは又、おとなおとなしく宮たちの御あつかひなど取りもち
てし給さまも、いたらぬ事なく、すべて何ごとにつけても、もどかしくたど

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たどしきことまじらず、ありがたき人の御ありさまなれば、いとかく具しぬる
人は、世に久しからぬためしもあなるを、とゆゆしきまで思ひきこえ給。さま
さまなる人のありさまを見集めたまふままに、とり集め足らひたることは、ま
ことにたぐひあらじ、とのみ思ひきこえ給へり。ことしは三十七にぞなり給。
　見たてまつり給し年月のことなども、あはれにおぼし出でたるついでに、
「さるべき御祈りなど、常よりもとりわきて、ことしは慎みたまへ。ものさは
がしくのみありて、思ひいたらぬ事もあらむを、猶おぼしめぐらして、大きな
ることどもし給はば、をのづからせさせてむ。故僧都のものし給はずなりにた
るこそ、いとくちおしけれ。大方にてうち頼まむにもいとかしこかりし人を」
などのたまひ出づ。
　「みづからは、幼くより、人に異なるさまにて、ことことしく生い出でて、
いまの世のおぼえありさま、来し方にたぐひ少なくなむありける。されど又、
世にすぐれてかなしき目を見る方も、人にはまさりけりかし。まづは、思ふ人
にさまさまをくれ、残りとまれる齢の末にも、飽かずかなしと思ふこと多く、
あぢきなくさるまじきことにつけても、あやしくもの思はしく、心に飽かずお

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ぼゆること添ひたる身にて過ぎぬれば、それにかへてや、思ひしほどよりは、
いままでもながらふるならむとなん、思ひ知らるる。君の御身には、かの一ふ
しの別れより、あなたこなた、物思ひとて、心乱り給許のことあらじとな
ん思ふ。后といひ、ましてそれより次次は、やむごとなき人といへど、みな
かならずやすからぬ物思ひ添ふわざ也。高きまじらひにつけても、心乱れ、人
に争ふ思ひの絶えぬもやすげなきを、親の窓の内ながら過ぐしたまへるやうな
る、心やすきことはなし。その方、人にすぐれたりける宿世とはおぼし知るや。
思ひのほかに、この宮のかく渡りものし給へるこそは、なま苦しかるべけれど、
それにつけては、いとゞ加ふる心ざしのほどを、御身づからの上なれば、おぼ
し知らずやあらむ。ものの心も深く知り給めれば、さりともとなむ思ふ」と聞
こえたまへば、「のたまふやうに、物はかなき身には過ぎにたるよそのおぼえ
はあらめど、心に耐えぬものなげかしさのみうち添ふや、さはみづからの祈り
なりける」とて、残り多げなるけはひはづかしげなり。
　「まめやかには、いと行く先少なき心ちするを、ことしもかく知らず顔にて
過ぐすは、いとうしろめたくこそ。さきさきも聞こゆる事、いかで御ゆるしあ

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らば」と聞こえ給。「それはしも、あるまじき事になん。さてかけ離れ給ひな
む世に残りては、何のかひかあらむ。たゞかく何となくて過ぐる年月なれど、
明け暮れの隔てなきうれしさのみこそ、ますことなくおぼゆれ。猶思ふさまこ
となる心のほどを見はて給へ」とのみ聞こえ給を、例のことと心やましくて、
涙ぐみたまへるけしきを、いとあはれに見たてまつり給て、よろづに聞こえま
ぎらはし給。
　「多くはあらねど、人のありさまの、とりとりにくちおしくはあらぬを見知
りゆくままに、まことの心ばせおひらかに落ちゐたるこそ、いとかたきわざな
りけれとなむ、思ひはてにたる。大将の母君を、おさなかりしほどに見そめて、
やむごとなくえ避らぬ筋には思ひしを、常に仲よからず、隔てある心ちしてや
みにしこそ、いま思へば、いとおしくくやしくもあれ、又わがあやまちにのみ
もあらざりけり、など心ひとつになむ思ひ出づる。うるはしくをもりかにて、
そのことの飽かぬかな、とおぼゆる事もなかりき。たゞいとあまり乱れたる所
なく、すくすくして、すこしさかしとや言ふべかりけむ、と思ふには頼もしく、
見るにはわづらはしかりし人ざまになん。中宮の御母御息所なん、さまことに

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心ふかくなまめかしきためしには、まづ思ひ出でらるれど、人見えにくく苦し
かりしさまになんありし。うらむべきふしぞ、げにことはりとおぼゆるふしを、
やがて長く思ひつめて深く怨ぜられしこそ、いと苦しかりしか。心ゆるひなく
はづかしくて、我も人もうちたゆみ、朝夕のむつびをかはさむには、いとつつ
ましき所のありしかば、うちとけては見落とさるる事やなど、あまりつくろひ
しほどに、やがて隔たりし中ぞかし。いとあるまじき名を立ちて、身のあは
あはしくなりぬる嘆きを、いみじく思ひしめ給へりしがいとおしく、げに人が
らを思ひしも、我罪ある心ちしてやみにし慰めに、中宮を、かくさるべき御
契とは言ひながら、とりたてて、世の譏り人のうらみをも知らず、心寄せた
てまつるを、かの世ながらも見なおされぬらむ。今もむかしも、なをざりなる
心のすさびに、いとおしくくやしき事も多くなん」と、来し方の人の御上、す
こしづつのたまひ出でて、「内の御方の御後見は、何許のほどならずとあな
づりそめて、心やすきものに思ひしを、猶心の底見えず、際なく深き所ある人
になむ。うはべは人になびき、おひらかに見えながら、うちとけぬけしき下に
篭りて、そこはかとなくはづかしき所こそあれ」とのたまへば、「こと人は見

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ねば知らぬを、これは、まほならねど、をのづからけしき見るおりおりもある
に、いとうちとけにくく、心はづかしきありさましるきを、いとたとしへなき
うらなさを、いかに見給らん、とつつましけれど、女御はをのづからおぼし
ゆるすらん、とのみ思ひてなむ」とのたまふ。
　さばかりめざましと心をき給へりし人を、いまはかくゆるして見えかはしな
どし給も、女御の御ための真心なるあまりぞかし、とおぼすに、いとありがた
ければ、「君こそは、さすがに隈なきにはあらぬものから、人により事に従ひ、
いとよく二筋に心づかひはし給けれ。さらに、ここら見れど、御ありさまに似
たる人はなかりけり。いとけしきこそものし給へ」とほほ笑みて聞こえ給。
　「宮に、いとよく弾き取り給へりしことのよろこび聞こえむ」とて、夕つ方
渡り給ぬ。われに心をく人やあらむともおぼしたらずいといたく若びて、ひと
へに御琴に心入れておはす。「いまは、暇ゆるしてうち休ませ給へかし。物の
師は心ゆかせてこそ。いと苦しかりつる日ごろのしるしありて、うしろやすく
なり給にけり」とて、御琴どもおしやりて大殿篭りぬ。
　対には、例のおはしまさぬ夜は、よゐ居したまひて、人人に物語など読ま

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せて聞き給。かく、世のたとひに言ひ集めたる昔語どもにも、あだなる男、
色好み、二心ある人にかかづらひたる女、かやうなる事を言ひ集めたるにも、
つゐに寄る方ありてこそあめれ、あやしく浮きても過ぐしつるありさまかな、
げにのたまひつるやうに、人よりことなる宿世もありける身ながら、人の忍び
がたく飽かぬ事にするもの思ひ離れぬ身にてややみなむとすらん、あぢきなく
もあるかな、など思ひつゞけて、夜ふけて大殿篭りぬるあか月方より、御胸
をなやみ給。人〃見たてまつりあつかひて、「御消息聞こえさせむ」と聞こゆ
るを、「いと便ないこと」と制し給て、耐へがたきをおさへて明かしたまふつ。
御身もぬるみて、御心ちもいとあしけれど、院もとみに渡りたまはぬ程、かく
なむとも聞こえず。
　女御の御方より御消息あるに、「かくなやましくてなむ」と聞こえ給えるに、
おどろきてそなたより聞こえたまへるに、胸つぶれて、いそぎ渡り給へるに、
いと苦しげにておはす。「いかなる御心ちぞ」とて、さぐりたてまつり給へば、
いとあつくおはすれば、きのふ聞こえ給し御慎みの筋などおぼし合はせ給て、
いとおそろしくおぼさる。御粥などこなたにまいらせたれど、御覧じも入れず、

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日一日添ひおはして、よろづに見たてまつり嘆き給。はかなき御くだ物をだに
いと物うくし給て、起き上がり給事絶えて、日ごろ経ぬ。いかならむとおぼ
しさはぎて、御祈りども数知らずはじめさせ給。僧召して、御加持などせさせ
給。そこ所ともなく、いみじく苦しくし給て、胸は時〃おこりつつわづらひ
給さま、耐へがたく苦しげなり。さまさまの御慎み限りなけれど、しるしも
見えず。をもしと見れど、をのづからをこたるけぢめあらば頼もしきを、いみ
じく心ぼそくかなしと見たてまつり給に、こと事おぼされねば、御賀の響きも
しづまりぬ。かの院よりも、かくわづらひ給よし聞こしめして、御とぶらひい
とねんごろに、たびたび聞こえ給。
　おなじさまにて、二月も過ぎぬ。言ふ限りなくおぼし嘆きて、心みに所を変
へ給はむとて、二条院に渡したてまつり給ひつ。院のうちゆすり満ちて、思ひ
嘆く人多かり。冷泉院も聞こしめし嘆く。この人亡せたまはば、院もかならず
世を背く御本意遂げたまひてむと、大将の君なども、心を尽くして見たてまつ
りあつかひ給て、御すほうなどは、大方のをばさる物にて、とりわきて仕うま
つらせ給。

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　いささか物おぼし分くひまには、「聞こゆる事を、さも心うく」とのみ、う
らみきこえ給へど、限りありて別れはて給はむよりも、目の前にわが心とやつ
し捨て給はむ御ありさまを見ては、さらにかた時耐ふまじくのみ、おしくかな
しかるべければ、「むかしより、みづからぞかかる本意深きを、とまりてさう
さうしくおぼされん心ぐるしさにひかれつつ、過ぐすを、さかさまにうち捨て
たまはむとやおぼす」とのみ、おしみきこえ給に、げにいと頼みがたげによは
りつつ、限りのさまに見え給おりおり多かるを、いかさまにせむとおぼしま
どひつつ、宮の御方にも、あからさまに渡りたまはず。御琴どもすさまじくて、
みな引き篭められ、院のうちの人〃は、みなあるかぎり二条院につどひまいり
て、この院には、火を消ちたるやうにて、たゞ女どちおはして、人ひとりの御
けはひなりけりと見ゆ。
　女御の君も渡り給て、もろともに見たてまつりあつかひたまふ。「たゞにも
おはしまさで、物のけなどいとおそろしきを、はやくまいりたまひね」と、苦
しき御心地にも聞こえ給。若宮のいとうつくしうておはしますを見たてまつり
給ても、いみじく泣き給て、「をとなびたまはむを、え見たてまつらずなりな

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むこと。忘れ給なんかし」との給へば、女御、せきあへずかなしとおぼしたり。
「ゆゆしく。かくなおぼしそ。さりとも、けしうはものし給はじ。心によりな
ん、人はともかくもある。をきて広きうつは物には、幸ひもそれに従ひ、せば
き心ある人は、さるべきにて、高き身となりても、ゆたかにゆるへる方はをく
れ、きうなる人は、久しく常ならず、心ぬるくなだらかなる人は、長きためし
なむ多かりける」など、仏神にも、この御心ばせのありがたく、罪かろきさま
を申あきらめさせたまふ。御修法の阿闍梨たち、夜居などにても、近くさぶら
ふかぎりのやむごとなき僧なども、いとかくおぼしまどへる御けはひを聞くに、
いといみじく心ぐるしければ、心を起こして祈りきこゆ。
　すこしよろしきさまに見え給時、五六日うちまぜつつ、又をもりわづらひ
給こと、いつとなくて月日を経給は、猶いかにおはすべきにか、よかるまじ
き御心ちにや、とおぼし嘆く。御物のけなど言ひて出で来るもなし。なやみた
まふさま、そこはかと見えず、たゞ日に添へてよはり給さまにのみ見ゆれば、
いともいともかなしくいみじくおぼすに、御心の暇もなげなり。
　まことや、衛門督は中納言になりにきかし。いまの御世にはいと親しくおぼ

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されて、いと時の人也。身のおぼえまさるにつけても、思ふことのかなはぬう
れはしさを思ひわびて、この宮の御姉の二宮をなむ得たてまつりてける。下ら
うの更衣腹におはしましければ、心やすき方まじりて思ひきこえ給へり。人が
らもなべての人に思ひなずらふれば、けはひこよなくおはすれど、もとよりし
みにし方こそなを深かりけれ、慰めがたき姨捨にて、人目にとがめらるまじき
ばかりに、もてなしきこえ給へり。
　なをかの下の心忘られず、小侍従といふ語らひ人は、宮の御侍従の乳母のむ
すめなりけり、その乳母の姉ぞかの督の君の御乳母なりければ、早くよりけ近
く聞きたてまつりて、まだ宮幼くおはしましし時より、いときよらになむおは
します、みかどのかしづきたてまつりたまふさまなど、聞きをきたてまつりて、
かかる思ひもつきそめたるなりけり。
　かくて、院も離れおはしますほど、人目少なくしめやかならむをおしはかり
て、小侍従を迎へとりつつ、いみじう語らふ。「むかしよりかく命も耐ふまじ
く思ふことを、かかる親しきよすがありて、御ありさまを聞き伝へ、耐えぬ心
のほどをも聞こしめさせて頼もしきに、さらにそのしるしのなければ、いみじ

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くなんつらき。院の上だに、「かくあまたにかけかけしくて、人におされ給や
うにて、ひとり大殿篭る夜な夜な多く、つれつれにて過ぐし給なり」など、人
の奏しけるついでにも、すこし悔いおぼしたる御けしきにて、「おなじくは
たゞ人の心やすき御見を定めむには、まめやかに仕うまつるべき人をこそ定む
べかりけれ」とのたまはせて、「女二の宮の中中うしろやすく、行く末長き
さまにてものし給なる事」とのたまはせけるを、伝へ聞きしに、いとおしくも
くちおしくも、いかゞ思乱るる。げにおなじ御筋とは尋ねきこえしかど、そ
れはそれとこそおぼゆるわざなりけれ」とうちうめき給へば、小侍従、「いで、
あなおほけな。それをそれとさしをきたてまつり給て、又いかやうに限りなき
御心ならむ」と言へば、うちほほ笑みて、「さこそはありけれ、宮にかたじけ
なく聞こえさせをよびけるさまは、院にも内にも聞こしめしけり。「などてか
は、さてもさぶらはざらまし」となむ、ことのついでにはのたまはせける。い
でや、たゞいますこしの御いたはりあらましかば」など言へば、「いとかたき
御事也や。御宿世とかいふこと侍なるを本にて、かの院の事に出でてねんごろ
に聞こえ給ふに、立ち並びさまたげきこえさせ給べき御身のおぼえとやおぼさ

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れし。このごろこそ、すこし物物しく、御衣の色も深くなり給へれ」と言へ
ば、言ふかひなく、はやりかなる口強さに、え言ひはて給はで、「いまはよし。
過ぎにし方をば聞こえじや。たゞかくありがたきものの隙に、け近きほどにて、
この心のうちに思ふことの端、すこし聞こえさせつべくたばかり給へ。おほけ
なき心は、すべて、よし見給へ、いとおそろしければ、思ひ離れて侍り」との
たまへば、「これよりおほけなき心は、いかゞはあらむ。いとむくつけき事を
もおぼし寄りけるかな。何しにまいりつらむ」と、はちぶく。
　「いで、あな聞きにく。あまりこちたくものをこそ言ひなし侍べけれ。世は
いと定めなきものを、女御、后もあるやうありてものしたまふたぐひなくやは。
ましてその御ありさまよ、思へばいとたぐひなくめでたけれど、うちうちは心
やましきことも多かるらむ。院の、あまたの御中に、又並びなきやうにならは
しきこえ給ひしに、さしもひとしからぬ際の御方方にたちまじり、めざまし
げなることもありぬべくこそ。いとよく聞き侍りや。世中はいと常なき物を、
一際に思ひ定めて、はしたなく突き切りなる事なのたまひそよ」とのたまへば、
「人におとされ給へる御ありさまとて、めでたき方に改め給べきにやは侍らむ。

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これは世の常の御ありさまにも侍らざめり。たゞ御後見なくてたゞよはしくお
はしまさむよりは、親ざまにと譲りきこえ給しかば、かたみにさこそ思ひかは
しきこえさせ給ためれ。あいなき御おとしめ言になむ」と、はてはては腹立つ
を、よろづに言ひこしらへて、「まことは、さばかり世になき御ありさまを、
見たてまつり馴れ給へる御心に、数にもあらずあやしき馴れ姿を、うちとけて
御覧ぜられんとは、さらに思ひかけぬ事なり。たゞ一言物越しにて聞こえ知ら
す許は、何ばかりの御身のやつれにかはあらむ。仏神にも思ふ事申すは、罪あ
るわざかは」と、いみじき誓言をしつつのたまへば、しばしこそいとあるまじ
きことに言ひ返しけれ、物深からぬ若人は、人のかく身にかへていみじく思ひ
のたまふを、えいなびはてで、「もしさりぬべきひまあらばたばかり侍らむ。
院のおはしまさぬ夜は、御帳のめぐりに人多くさぶらふて、御座のほとりに、
さるべき人かならずさぶらひ給へば、いかなるおりをかは、ひまを見つけ侍べ
るべからむ」とわびつつまいりぬ。
　いかにいかにと、日日にせめられ極じて、さるべきおりうかゞひつけて、消息
しおこせたり。よろこびながらいみじくやつれ忍びておはしぬ。まことに、わ

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が心にもいとけしからぬことなれば、け近く、なかなか思ひ乱るることもまさ
るべきことまでは、思ひも寄らず、たゞいとほのかに、御衣のつまばかりを見
たてまつりし春の夕べの、飽かず世とともに思ひ出でられ給御ありさまを、
すこしけ近くて見たてまつり、思ふことをも聞こえ知らせては、一くだりの御
返りなどもや見せたまふ、あはれとやおぼし知る、とぞ思ひける。　
　四月十余日ばかりの事也。御禊、あすとて、斎院にたてまつり給女房十二
人、ことに上らうにはあらぬ若き人、童など、をのがじし物縫ひ、けさうなど
しつつ、物見むと思ひまうくるも、とりとりに暇なげにて、御前の方しめやか
にて、人しげからぬおりなりけり。近くさぶらふ按察使の君も、時時通ふ源中
将、せめて呼び出ださせければ、下りたる間に、たゞこの侍従ばかり、近くは
さぶらふなりけり。よきおりと思ひて、やをら御帳の東面の御座の端に据ゑ
つ。さまでもあるべきことなりやは。
　宮は、何心もなく大殿篭りにけるを、近くおとこのけはひのすれば、院のお
はする、とおぼしたるに、うちかしこまりたるけしき見せて、床の下に抱きお
ろしたてまつるに、ものにをそはるるかと、せめて見上げ給へれば、あらぬ人

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なりけり。あやしく聞きも知らぬことどもをぞ聞こゆるや。あさましくむくつ
けくなりて、人召せど、近くもさぶらはねば、聞きつけてまいるもなし。わ
ななき給さま、水のやうに汗も流れて、ものもおぼえ給はぬけしき、いとあは
れにらうたげ也。「数ならねど、いとかうしもおぼしめさるべき身とは思給へ
られずなむ。むかしよりおほけなき心の侍しを、ひたふるに篭めてやみ侍なま
しかば、心のうちに朽たして過ぎぬべかりけるを、中中漏らしきこえさせて、
院にも聞こしめされにしを、こよなくもて離れてものたまはせざりけるに、頼
みをかけそめ侍て、身の数ならぬ一際に、人より深き心ざしをむなしくなし
侍ぬることと、動かし侍にし心なむ、よろづいまはかひなきこと、と思給へ
返せど、いかばかりしみ侍にけるにか、年月に添へて、くちおしくも、つらく
も、むくつけくも、あはれにも、色色に深く思給へまさるにせきかねて、
かくおほけなきさまを御覧ぜられぬるも、かつはいと思ひやりなくはづかしけ
れば、罪をもき心もさらに侍るまじ」と言ひもてゆくに、この人なりけり、と
おぼすに、いとめざましくおそろしくて、つゆいらへもし給はず。「いとこと
はりなれど、世にためしなきことにも侍らぬを、めづらかになさけなき御心ば

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へならば、いと心うくて、中中ひたふる心もこそつき侍れ。あはれとだにの
たまはせば、それをうけたまはりてまかでなむ」とよろづに聞こえ給。
　よその思ひやりはいつくしく、物馴れて見えたてまつらむ事もはづかしくお
しはかられ給に、たゞか許思ひつめたる片はし聞こえ知らせて、なかなかか
けかけけしき事はなくてやみなん、と思ひしかど、いとさばかりけ高うはづかし
げにはあらで、なつかしくらうたげに、やはやはとのみ見えたまふ御けはひの、
あてにいみじくおぼゆることぞ、人に似させ給はざりける。さかしく思ひしづ
むる心も失せて、いづちもいづちも率て隠したてまつりて、わが身も世に経るさま
ならず、あと絶えてやみなばや、とまで思乱れぬ。たゞいささかまどろむと
みなき夢に、この手馴らしし猫の、いとらうたげにうち鳴きて来たるを、この
宮にたてまつらむとて、わが率て来たるとおぼしきを、何しにたてまつりつら
む、と思ふほどに、あどろきて、いかに見えつるならむ、と思ふ。
。宮は、いとあさましく、うつゝともおぼえ給はぬに、胸ふたがりておぼしを
ぼほるるを、「猶かくのがれぬ御宿世の浅からざりけると思ほしなせ。みづか
らの心ながらも、うつし心にはあらずなむおぼえ侍」、かのおぼえなかりし御

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簾のつまを猫の綱引きたりし夕べのことも、聞こえ出でたり。げにさはたあり
けむよ、とくちおしく、契心うき御身なりけり。院にも、いまはいかでかは
見えたてまつらむ、とかなしく心ぼそくて、いと幼げに泣きたまふを、いとか
たじけなくあはれと見たてまつりて、人の御涙をさへのごふ袖は、いとゞ露け
さのみまさる。
　明けゆくけしきなるに、出でむ方なく中中也。「いかゞはし侍べき。いみ
じくにくませ給へば、又きこえさせむ事もありがたきを、たゞ一言御声を聞か
せ給へ」と、よろづに聞こえなやますもうるさくわびしくて、物のさらに言は
れたまはねば、「はてはてはむくつけくこそなり侍ぬれ。またかかるやうはあ
らじ」と、いとうしと思ひきこえて、「さらば不用なめり。身をいたづらにや
はなしはてぬ。いと捨てがたきによりてこそかくまでも侍れ、こよひに限り
侍なむもいみじくなむ。つゆにても御心ゆるしたまふさまならば、それにか
へつるにても捨て侍なまし」とて、かき抱きて出づるに、はてはいかにしつる
ぞと、あきれておぼさる。
　隅の間の屏風を引きひろげて、戸をおしあけたれば、渡殿の南の戸の、夜べ

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入りしがまだあきながらあるに、まだ明けぐれのほどなるべし、ほのかにも見
たてまつらむの心あれば、格子をやをら引き上げて、「かういとつらき御心に、
うつし心も失せ侍ぬ。すこし思ひのどめよとおぼされば、あはれとだにのたま
はせよ」と、をどしきこゆるを、いとめづらか也、とおぼして、ものも言はむ
とおぼせど、わななかれて、いと若若しき御さま也。
　たゞ明けに明けゆくに、いと心あはたたしくて、「あはれなる夢語りも聞こ
えさすべきを、かくにくませ給へばこそ。さりともいまおぼし合はする事も侍
りなむ」とて、のどかならず立ち出づる明けぐれ、秋の空よりも心尽くし也。
　　おきてゆく空も知られぬあけぐれにいづくの露のかかる袖なり
と、引き出でて、愁へきこゆれば、出でなむとするにすこし慰め給て、
　　あけぐれの空にうき身は消えななん夢なりけりと見てもやむべく
と、はかなげにのたまふ声の、若くおかしげなるを、聞きさすやうにて出でぬ
る魂は、まことに身を離れてとまりぬる心ちす。
　女宮の御もとにもまうでたまはで、大殿へぞ忍びておはしぬる。うち臥した
れど目も合はず、見つる夢のさだかに合はむこともかたきをさへ思ふに、かの

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猫のありしさま、いと恋しく思ひ出でらる。さてもいみじきあやまちしつる身
かな、世にあらむことこそまばゆくなりぬれと、おそろしくそらはづかしき
心ちして、ありきなどもし給はず。女の御ためはさらにもいはず、わが心ち
にもいとあるまじきことといふ中にも、むくつけくおぼゆれば、思ひのままに
もえ紛れありかず。みかどの御妻をもとりあやまちて、ことの聞こえあらむに、
かばかりおぼえむことゆへは、身のいたづらにならむ、苦しくもおぼゆまじ。
しかいちしるき罪には当たらずとも、この院に目をそばめられたてまつらむ事
は、いとおそろしくはづかしくおぼゆ。
　限りなき女と聞こゆれど、すこし世づきたる心ばえまじり、上べはゆへあり
子めかしきにも、従はぬ下の心添ひたるこそ、とあることかかることにうちな
びき、心かはし給たぐひもありけれ、これは深き心もおはせねど、ひたおもむ
きにものおぢし給へる御心に、たゞいましも人の見聞きつけたらむやうに、ま
ばゆくはづかしくおぼさるれば、明かき所にだにえゐざり出でたまはず、いと
くちおしき身なりけりと、みづからおぼし知るべし。
　なやましげになむとありければ、おとゞ聞き給て、いみじく御心を尽くし

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給御事にうち添へて、又いかにとおどろかせ給て、渡り給へり。そこはかと
苦しげなることも見え給はず、いといたくはぢらひしめりて、さやかにも見あ
はせたてまつり給はぬを、いと久しくなりぬる絶え間をうらめしくおぼすにや、
といとおしくて、かの御心ちのさまなど聞こえ給て、「いまはのとぢめにもこ
そあれ。いまさらにをろかなるさまを見えをかれじとてなん。いはけなかりし
ほどよりあつかひそめて、見放ちがたければ、かう月ごろよろづを知らぬさま
に過ぐし侍にこそ。をのづから、このほど過ぎば、見なをし給てむ」など聞こ
え給。かくけしきも知り給はぬも、いとおしく心ぐるしくおぼされて、宮は、
人知れず涙ぐましくおぼさる。
　督の君は、まして中中なる心ちのみまさりて、起き臥し明かし暮らしわび
たまふ。祭の日などは、物見にあらそひゆく君達かき連れ来て、言ひそそのか
せど、なやましげにもてなして、ながめ臥したまへり。女宮をば、かしこまり
をきたるさまにもてなしきこえて、おさおさうちとけても見えたてまつり給は
ず、わが方に離れゐて、いとつれつれに心ぼそくながめゐたまへるに、童べの
持たる葵を見たまひて、

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　　くやしくぞつみをかしけるあふひ草神のゆるせるかざしならぬに
と思ふも、いと中中なり。世中しづかならぬ車のをとなどを、よその事に聞
きて、人やりならぬつれつれに、暮らしがたくおぼゆ。
　女宮も、かかるけしきのすさまじげさも見知られ給へば、何ごととは知り給
はねど、はづかしくめざましきに、もの思はしくぞおぼされける。女房なども
物見にみな出でて、人少なにのどやかなれば、うちながめて、箏の琴なつかし
く弾きまさぐりておはするけはひも、さすがにあてになまめかしけれど、おな
じくは、いま一際をよばざりける宿世よ、と猶おぼゆ。
　　もろかづら落葉をなににひろひけむ名はむつましきかざしなれども
と書きすさびゐたる、いとなめげなるしりう事なりかし。
　おとゞの君は、まれまれ渡り給て、えふともたち帰り給はず、静心なくおぼ
さるるに、「絶え入り給ひぬ」とて、人まいりたれば、さらに何ごともおぼし
分かれず、御心もくれて渡り給ふ道の程の心もとなきに、げにかの院は、ほと
りの大路まで人たちさはぎたり。殿のうち、泣きののしるけはひいとまがまが
し。われにもあらで入り給へれば、「日ごろはいささかひま見えたまへるを、

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にはかになんかくおはします」とて、さぶらふかぎり、我もをくれたてまつら
じ、とまどふさまども限りなし。御修法どもの壇毀ち、僧なども、さるべきか
ぎりこそまかでね、ほろほろとさはぐを見たまふに、さらば限りにこそはと、
おぼしはつるあさましさに、何ごとかはたぐひあらむ。
　「さりとも、物のけのするにこそあらめ。いとかくひたふるになさはぎそ」
としづめたまひて、いよいよいみじき願どもを立て添へさせ給。すぐれたる験
者どものかぎり召し集めて、「限りある御命にて、この世尽きたまひぬとも、
たゞ、いましばしのどめたまへ。不動尊の御本の誓ひあり。その日数をだにか
けとゞめたてまつりたまへ」と、頭より、まことに黒煙をたてて、いみじき心
をおこして加持したてまつる。院も、たゞ、いま一たび目を見あはせ給へ、い
とあへなく限りなりつらむほどをだに、え見ずなりにけることのくやしくかな
しきを、とおぼしまどへるさま、とまり給べきにもあらぬを、見たてまつる心
地ども、たゞおしはかるべし。いみじき御心の内を、仏も見たてまつり給にや、
月ごろ、さらに現れ出で来ぬもののけ、ちいさき童に移りて、呼ばひののしる
ほどに、やうやう生き出で給に、うれしくもゆゆしくもおぼしさはがる。

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　いみじく調ぜられて、「人はみな去りね。院一ところの御耳に聞こえむ。を
のれを、月ごろ、調じわびさせ給がなさけなくつらければ、おなじくは、おぼ
し知らせむと思ひつれど、さすがに命も耐ふまじく、身をくだきておぼしまど
ふを見たてまつれば、いまこそかくいみじき身を受けたれ、いにしへの心の残
りてこそかくまでもまいり来たるなれば、物の心ぐるしさをえ見過ぐさで、つ
ゐに現れぬること。さらに知られじと思つる物を」とて、髪を振りかけて泣く
けはひ、たゞかのむかし見給しもののけのさまと見えたり。
　あさましくむくつけし、とおぼししみにしことの変はらぬもゆゆしければ、
この童の手をとらへて引き据へて、さまあしくもせさせ給はず。「まことにそ
の人か。よからぬ狐などいふなる物のたぶれたるが、亡き人の面伏せなること
言ひ出づるもあなるを、たしかなる名のりせよ。又人の知らざらむことの、心
にしるく思ひ出でられぬべからむを言へ。さてなむいささかにても信ずべき」
とのたまへば、ほろほろといたく泣きて、
　　「わが身こそあらぬさまなれそれながら空おぼれするきみは君也。
いとつらし、いとつらし、」と、泣き叫ぶものから、さすがにものはぢしたるけはひ変

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はらず、中中いとうとましく心うければ、物言はせじ、とおぼす。
　「中宮の御事にても、いとうれしくかたじけなしとなん、天翔りても見たて
まつれど、道異になりぬれば、子の上までも深くおぼえぬにやあらむ、なをみ
づからつらしと思ひきこえし心の執なむ、とまるものなりける。そのなかにも、
生きての世に、人よりおとしておぼし捨てしよりも、思ふどちの御物語りのつ
いでに、心よからずにくかりしありさまをのたまひ出でたりしなむ、いとうら
めしく、いまはたゞ亡きにおぼしゆるして、こと人の言ひおとしめむをだに、
はぶき隠し給へとこそ思へ、とうち思しばかりに、かくいみじき身のけはひな
れば、かくところせきなり。この人を深くにくし、と思きこゆることはなけれ
ど、守り強く、いと御あたりとをき心ちして、え近づきまいらず、御声をだに
ほのかになむ聞き侍る。よし、いまはこの罪のかろむばかりのわざをせさせ給
へ。修法、読経とののしる事も、身には苦しく、わびしき炎とのみまつはれて、
さらにたうときことも聞こえねば、いとかなしくなむ。中宮にも、このよしを
伝へ聞こえ給へ。ゆめ宮仕へのほどに、人ときしろひそねむ心つかひたまふな。
斎宮におはしまししころほひの、御罪かろむべからむ功徳の事をかならずせさ

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せ給へ。いとくやしきことになむありける」など、言ひつゞくれど、もののけ
にむかひて、もの語りし給はむもかたはらいたければ、封じこめて、上をば、
又異方に忍びて渡したてまつり給。
　かく亡せ給にけり、といふこと、世の中に満ちて、御とぶらひに聞こえ給
人人あるを、いとゆゆしくおぼす。けふのかへさ、見に出で給ひける上達部な
ど、帰り給道に、かく人の申せば、「いといみじきことにもあるかな。生け
るかひありつる幸ひ人の、光失ふ日にて、雨はそほ降るなりけり」と、うちつ
け事し給人もあり。又、「かく足らひぬる人は、かならずえ長からぬ事なり。
「何を桜に」といふ古事もあるは。かかる人のいとゞ世にながらへて、世の
楽しびを尽くさば、かたはらの人苦しからむ。いまこそ、二品宮は、もとの御
おぼえあらはれ給はめ。いとおしげにおされたりつる御おぼえを」など、うち
ささめきけり。
　衛門督、きのふ暮らしがたかりしを思ひて、けふは、御おとうとども、左大
弁、藤宰相など、奥の方に乗せて見給けり。かく言ひあへるを聞くにも胸う
ちつぶれて、「何かうき世に久しかるべき」と、うち誦じひとりごちて、かの

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院へみなまいり給。たしかならぬことなれば、ゆゆしくやとて、たゞ大方の御
とぶらひにまいり給へるに、かく人の泣きさはげば、まことなりけり、とたち
さはぎ給へり。
　式部卿宮も渡り給て、いといたくおぼしほれたるさまにてぞ入り給。人の
御消息もえ申伝へたまはず。大将の君、涙をのごひて立ち出で給へるに、
「いかにいかに。ゆゆしきさまに人の申つれば、信じがたき事にてなむ。たゞ久
しき御なやみをうけたまはり嘆きてまいりつる」などのたまふ。「いとをもく
なりて、月日経たまへるを、この暁より絶え入り給へりつるを。物のけのした
るになむありける。やうやう生き出で給やうに聞きなし侍て、いまなむみな人
心しづむめれど、まだいと頼もしげなしや。心ぐるしき事にこそ」とて、まこ
とにいたく泣き給へるけしき也。目もすこしはれたり。衛門督、わがあやしき
心ならひにや、この君の、いとさしも親しからぬまま母の御ことを、いたく心
しめたまへるかな、と目をとゞむ。
　かくこれかれまいり給へるよし聞こしめして、「をもき病者の、にはかにと
ぢめつるさまなりつるを、女房などは心もえおさめず、乱りがはしくさはぎ

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侍けるに、身づからもえのどめず、心あはたたしき程にてなむ。ことさらに
なむ、かくものし給へるよろこびは聞こゆべき」とのたまへり。督の君は胸つ
ぶれて、かかるおりのらうろうならずはえまいるまじく、けはひはづかしく思
ふも、心の内ぞ腹ぎたなかりける。
　かく生き出で給てののちしも、おそろしくおぼして、又〃いみじき法どもを
尽くして加へをこなはせ給。うつし人にてだにむくつけかりし人の御けはひの、
まして世かはり、あやしきもののさまになりたまへらむをおぼしやるに、いと
心うければ、中宮をあつかひきこえ給さへぞ、このおりはものうく、言ひもて
ゆけば、女の身はみなおなじ罪深きもとゐぞかしと、なべての世中いとはしく、
かの、又、人も聞かざりし御中のむつ物語りに、すこし語り出で給へりしこと
を、言ひ出でたりしに、まこととおぼし出づるに、いとわづらはしくおぼさる。
　御髪おろしてむと切におぼしたれば、忌む事の力もやとて、御頂しるし許
はさみて、五戒許受けさせたてまつり給。御戒の師、忌むことのすぐれたる
よし、仏に申すにも、あはれにたうとき言まじりて、人わるく御かたはらに添
ひゐて、涙おしのごひ給ひつつ、仏をもろ心に念じきこえ給さま、世にかしこ

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くおはする人も、いとかく御心まどふことに当たりては、えしづめたまはぬわ
ざなりけり。いかなるわざをして、これを救ひかけとゞめたてまつらむとのみ、
夜昼おぼし嘆くに、ほれほれしきまで、御顔もすこし面やせ給にたり。
　五月などは、まして晴れ晴れしからぬ空のけしきに、えさはやぎたまはねど、
ありしよりはすこしよろしきさまなり。されど、なを絶えずなやみわたり給。
もののけの罪救ふべきわざ、日ごとに法花経一部づつ供養ぜさせ給。日ごとに、
何くれとたうときわざせさせ給。御枕上近くても、不断の御読経、声たうと
きかぎりして読ませ給。現れそめては、おりおりかなしげなることどもを言へ
ど、さらにこのもののけ去りはてず。いとゞ暑き程は、息も絶えつつ、いよ
いよのみよはり給へば、言はむ方なくおぼし嘆きたり。亡きやうなる御心ちに
も、かかる御けしきを心ぐるしく見たてまつり給て、世中に亡くなりなんも、
わが身にはさらにくちおしきこと残るまじけれど、かくおぼしまどふめるに、
むなしく見なされたてまつらむが、いと思ひ隈なかるべければ、思ひ起こして、
御湯などいささかまいるけにや、六月になりてぞ、時時御頭持たげ給ける。
めづらしく見たてまつり給にも、猶いとゆゆしくて、六条院にはあからさまに

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もえ渡り給はず。
　姫宮は、あやしかりしことをおぼし嘆きしより、やがて例のさまにもおはせ
ず、なやましくし給へど、おどろおどろしくはあらず、立ちぬる月より物聞こし
めさで、いたく青みそこなはれ給。かの人は、わりなく思ひあまる時時は、
夢のやうに見たてまつりけれど、宮、尽きせずわりなき事におぼしたり。院を
いみじくをぢきこえ給へる御心に、ありさまも人の程も、ひとしくだにやはあ
る、いたくよしめきなまめきたれば、大方の人目にこそ、なべての人にはまさ
りてめでらるれ、おさなくよりさるたぐひなき御ありさまにならびたまへる御
心には、めざましくのみ見給ほどに、かくなやみわたり給は、あはれなる御
宿世にぞありける。御乳母たち見たてまつりとがめて、院の渡らせ給こともい
とたまさかなるを、つぶやきうらみたてまつる。
　かくなやみ給と聞こしめしてぞ渡り給。女君は、暑くむつかしとて、御髪す
まして、すこしさはやかにもてなし給へり。臥しながらうちやり給へりしかば、
とみにもかはかねど、つゆばかりうちふくみまよふ筋もなくて、いときよらに
ゆらゆらとして、青み衰へたまへるしも、色はさ青に白くうつくしげに、透き

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たるやうに見ゆる御肌つきなど、よになくらうたげ也。もぬけたる虫の殻など
のやうに、まだいとたゞよはしげにおはす。年ごろ住み給はで、すこしあれた
りつる院の内、たとしへなくせばげにさへ見ゆ。きのふけふかくものおぼえた
まふひまにて、心ことにつくろはれたる遣水、前栽の、うちつけに心ちよげな
るを見出だし給ても、あはれにいままで経にけるを思ほす。
　池はいと涼しげにて、蓮の花の咲きわたれるに、葉はいと青やかにて、露き
らきららと玉のやうに見えわたるを、「かれ見たまへ。をのれひとりも涼しげな
るかな」とのたまふに、起き上がりて見出だし給へるもいとめづらしければ、
「かくて見たてまつるこそ夢の心ちすれ。いみじく、わが身さへ限りとおぼゆ
るおりおりのありしはや」と、涙をうけてのたまへば、身づからもあはれにお
ぼして、
　　消えとまるほどやは経べきたまさかにはちすの露のかかる許を
との給。
　　契をかむこの世ならでもはちす葉に玉ゐる露の心へだつな
出でたまふ方ざまはものうけれど、内にも院にも聞こしめさむ所あり、なやみ

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給と聞きてもほど経ぬるを、目に近きに心をまどはしつる程、見たてまつる
事もおさおさなかりつるに、かかる雲間にさへやは絶え篭らむと、おぼし立ち
て渡り給ひぬ。
。宮は、御心の鬼に、見えたてまつらむもはづかしうつゝましくおぼすに、物
など聞こえたまふ御いらへも聞こえ給はねば、日ごろの積りを、さすがにさり
げなくてつらしとおぼしけると、心ぐるしければ、とかくこしらへきこえ給。
をとなびたる人召して、御心ちのさまなど問ひ給。「例のさまならぬ御心ちに
なむ」と、わづらひ給御ありさまを聞こゆ。「あやしく、ほど経てめづらしき
御ことにも」と許のたまひて、御心の内には、年ごろ経ぬる人人だにもさるこ
となきを、不定なる御ことにもやとおぼせば、ことにともかくものたまひあへ
しらひ給はで、たゞうちなやみ給へるさまのいとらうたげなるを、あはれと見
たてまつり給。
　からうしておぼし立ちて渡りたまひしかば、ふともえ帰り給はで、二三日お
はするほど、いかにいかにと、うしろめたくおぼさるれば、御文をのみ書き尽く
し給。「いつのまに積る御言の葉にかあらむ。いでや、やすからぬ世をも見る

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かな」と、若君の御あやまちを知らぬ人は言ふ。侍従ぞ、かかるにつけても胸
うちさはぎける。
　かの人も、かく渡りたまへりと聞くに、おほけなく心あやまりして、いみじ
きことどもを書きつゞけてをこせたまへり。対に、あからさまに渡り給へる程
に、人間なりければ、忍びて見せたてまつる。
　「むつかしき物見するこそいと心うけれ。心ちのいとゞあしきに」とて、臥
したまへれば、「なをだゞこの端書のいとおしげに侍ぞや」とてひろげたれば、
人のまいるにいと苦しくて、御木ちやう引き寄せて去りぬ。いとゞ胸つぶるる
に、院入り給へば、えよくも隠し給はで、御褥の下にさしはさみ給つ。
　夕さりつ方、二条院へ渡り給はむとて、御暇聞こえたまふ。「ここには、け
しうはあらず見え給を、まだいとたゞよはしげなりしを、見捨てたるやうに思
はるるも、いまさらにいとおしくてなむ。ひがひがしく聞こえなす人ありとも、
ゆめ心をき給な。いま見なおしたまひてむ」と語らひ給。例はなまいはけなき
戯れ言などもうちとけ聞こえたまふを、いたくしめりてさやかにも見合はせた
てまつり給はぬを、たゞ世のうらめしき御けしきと心得たまふ。昼の御座にう

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ち臥し給て、御物語りなど聞こえ給ほどに暮れにけり。
　すこし大殿篭り入りにけるに、ひぐらしのはなやかに鳴くにおどろき給て、
「さらば道たどたどしからぬ程に」とて、御衣などたてまつりなをす。「月侍
ちてとも言ふなる物を」と、いと若やかなるさましてのたまふはにくからずか
し。その間にもとやおぼすと、心ぐるしげにおぼして、立ちとまり給。
　　夕露に袖ぬらせとやひぐらしの鳴くを聞く聞くおきて行らむ
かたなりなる御心にまかせて、言ひ出で給へるもらうたければ、つゐゐて、
「あは苦しや」とうち嘆きたまふ。
　待つ里もいかゞ聞くらんかたかたに心さはがすひぐらしの声
などおぼしやすらひて、なをなさけなからむも心ぐるしければ、とまり給ひぬ。
静心なくさすがにながめられ給いて、御くだ物ばかりまいりなどして、大殿篭
りぬ。
　まだ朝涼みのほどに渡り給はむとて、とく起き給ふ。「よべのかはぼりを落
として、これは風ぬるくこそありけれ」とて、御扇をき給て、きのふうたた
寝し給へりし御座のあたりを、立ちとまりて見給に、御褥のすこしまよひた

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るつまより、浅緑の薄様なる文の押し巻きたる端見ゆるを、何心もなく引き出
でて御覧ずるに、おとこの手なり。紙の香などいと艶に、ことさらめきたる書
きざまなり。二かさねにこまこまと書きたるを見給に、まぎるべき方なく、
その人の手なりけりと見給つ。御鏡などあけてまいらする人は、見給文に
こそはと心も知らぬに、小侍従見つけて、きのふの文の色と見るに、いといみ
じく胸つぶつぶとなる心ちす。御粥などまいる方に目も見やらず、いで、さり
とも、それにはあらじ、いといみじく、さることはありなんや、隠いたまひて
けむ、と思ひなす。宮は、何心もなく、まだ大殿篭れり。あないはけな、かか
る物を散らし給ひて、われならぬ人も見つけたらましかば、とおぼすも、心お
とりして、さればよ、いとむげに心にくき所なき御ありさまを、うしろめたし
とは見るかし、とおぼす。
　出でたまひぬれば、人〃すこしあかれぬるに、侍従寄りて、「昨日のものは
いかゞせさせ給てし。けさ、院の御覧じつる文の色こそ似て侍つれ」と聞こゆ
れば、あさましとおぼして、涙のたゞ出で来に出で来れば、いとおしき物から、
言ふかひなの御さまや、と見たてまつる。「いづくにかはをかせ給てし。人〃

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のまいりしに、事あり顔に近くさぶらはじと、さばかりの忌をだに心の鬼に避
り侍しを、入らせ給しほどは、すこしほど経侍にしを、隠させ給つらむとな
む思給へし」と聞こゆれば、「いさとよ。見しほどに入り給しかば、ふともえ
起き上がらでさしはさみしを、忘れにけり」とのたまふに、いと聞こえむ方な
し。寄りて見れば、いづくのかはあらむ。「あないみじ。かの君もいといたく
おぢ憚りて、けしきにても漏り聞かせ給事あらばと、かしこまりきこえ給し
ものを、ほどだに経ず、かかることの出でまうで来るよ。すべていはけなき御
ありさまにて、人にも見えさせ給ければ、年ごろさばかり忘れがたく、うらみ
言ひわたり給しかど、かくまで思ひ給へし御ことかは。たが御ためにもいとお
しく侍べきこと」と、憚りもなく聞こゆ。心やすく若くおはすれば、馴れきこ
えたるなめり。いらへもし給はで、たゞ泣きにのみぞ泣き給。いとなやましげ
にて、つゆばかりの物も聞こしめさねば、「かくなやましくせさせ給を、見を
きたてまつり給て、いまはをこたりはて給にたる御あつかひに、心を入れ給へ
ること」と、つらく思ひ言ふ。
　おとゞは、この文のなをあやしくおぼさるれば、人見ぬ方にて、うち返し

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つつ見給。さぶらふ人人の中に、かの中納言の手に似たる手して書きたる
か、とまでおぼし寄れど、言葉づかひきらきらと紛うべくもあらぬことどもあ
り。年を経て思ひわたりけることの、たまさかに本意かなひて、心やすからぬ
筋を書き尽くしたる言葉いと見所ありてあはれなれど、いとかくさやかには書
くべしや、あたら人の文をこそ思ひやりなく書きけれ、落ち散ることもこそ、
と思ひしかば、むかしかやうにこまかなるべきおりふしにも、言そぎつつこそ
書き紛はししか、人の深きようゐはかたきわざなりけり、とかの人の心をさへ
見落とし給つ。
　さても、この人をばいかゞもてなしきこゆべき、めづらしきさまの御心ちも、
かかることの紛れにてなりけり、いで、あな心うや、かく人づてならずうきこ
とを知る知る、ありしながら見たてまつらむよ、とわが御心ながらもえ思ひな
をすまじくおぼゆるを、猶ざりのすさびと、はじめより心をとゞめぬ人だに、
又異ざまの心分くらむと思ふは、心月なく思ひ隔てらるるを、ましてこれは、
さま異におほけなき人の心にもありけるかな、みかどの御妻をもあやまつたぐ
ひ、むかしもありけれど、それは、又言ふ方異也、宮仕へといひて、われも

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人もおなじ君に馴れ仕うまつるほどに、をのづからさるべき方につけても心を
かはしそめ、ものの紛れ多かりぬべきわざ也、女御、更衣といへど、とある筋
かかる方につけて、かたほなる人もあり、心ばせ、かならずをもからぬうちま
じりて、思はずなる事もあれど、おぼろけの定かなるあやまち見えぬ程は、さ
てもまじらふやうもあらむに、ふとしもあらはならぬ紛れありぬべし、かくば
かり又なきさまにもてなしきこえて、内内の心ざし引く方よりも、いつくし
くかたじけなき物に思ひはぐくまむ人ををきて、かかることはさらにたぐひあ
らじ、と爪はじきせられ給。
　みかどと聞こゆれど、たゞすなほに、公ざまの心ばへばかりにて、宮仕への
程もものすさまじきに、心ざし深き私のねぎ言になびき、をのがじしあはれを
尽くし、見過ぐしがたきおりのいらへをも言ひそめ、自然に心通ひそむ覧仲
らひは、おなじけしからぬ筋なれど、寄る方ありや、わが身ながらも、さばか
りの人に心分け給べくはおぼえぬものをと、いと心月なけれど、又けしきに出
だすべきことにもあらず、などおぼし乱るるにつけて、故院の上も、かく御心
にはしろしめしてや、知らず顔をつくらせ給ひけむ、思へば、その世のことこ

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そは、いとおろそしくあるまじきあやまちなりけれ、と近きためしをおぼすに
ぞ、恋の山路は、えもどくまじき御心まじりける。
　つれなしづくり給へど、ものおぼし乱るるさまのしるければ、女君、消え残
りたるいとおしみに渡りたまひて、人やりならず、心ぐるしう思やりきこえ
給にや、とおぼして、「心ちはよろしくなりにて侍を、かの宮のなやましげに
おはすらむに、とく渡り給にしこそいとおしけれ」と聞こえ給へば、「さかし。
例ならず見え給しかど、異なる心ちにもおはせねば、をのづから心のどかに思
ひてなむ。内よりはたびたび御使ありけり。けふも御文ありつとか。院のいと
やむごとなく聞こえつけたまへれば、上もかくおぼしたるなるべし。すこしを
ろかになどもあらむは、こなたかなたおぼさむことのいとおしきぞや」とて、
うめき給へば、「内の聞こしめさむよりも、みづからうらめしと思ひきこえ給
はむこそ、心ぐるしからめ。われはおぼしとがめずとも、よからぬさまに聞こ
えなす人〃、かならずあらむと思へば、いと苦しくなむ」などのたまへば、
「げに、あながちに思ふ人のためには、わづらはしきよすがなけれど、よろづ
にたどり深きこと、とやかくやと、おほよそ人の思はむ心さへ思ひめぐらさ

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るるを、これはたゞ、国王の御心やをき給はむとばかりを憚らむは、浅き心ち
ぞしける」とほほ笑みて、のたまひ紛はす。渡り給はむことは、「もろともに
帰りてを、心のどかにあらむ」とのみ聞こえ給を、「ここには、しばし心やす
くて侍らん。まづ渡り給て、人の御心もなぐさみなむ程にを」と聞こえかはし
給ほどに、日ごろ経ぬ。
　姫宮は、かく渡りたまはぬ日ごろの経るも、人の御つらさにのみおぼすを、
いまはわが御をこたりうちまぜてかくなりぬるとおぼすに、院も聞こしめしつ
けて、いかにおぼしめさむと、世中つつましくなむ。
　かの人も、いみじげにのみ言ひわたれども、小侍従もわづらはしく思ひ嘆き
て、「かかることなむありし」と告げてければ、いとあさましく、いつのほど
にさる事出で来けむ、かかることは、あり経れば、をのづからけしきにても、
漏り出づるやうもやと思ひしだに、いとつつましく、空に目つきたるやうにお
ぼえしを、まして、さばかりたがふべくもあらざりしことどもを見給てけむ、
はづかしくかたじけなくかたはらいたきに、朝夕涼みもなきころなれど、身も
凍むる心ちして、言はむ方なくおぼゆ。

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　年ごろまめごとにもあだことにも、召しまつはしまいり馴れつる物を、人よ
りはこまかにおぼしとゞめたる御けしきの、あはれになつかしきを、あさまし
くおほけなき物に心をかれたてまつりては、いかでかは目をも見合はせたてま
つらむ、さりとて、かき絶え、ほのめきまいらざらむも人目あやしく、かの御
心にもおぼし合はせむことのいみじさ、などやすからず思ふに、心ちもいとな
やましくて、内へもまいらず、さしてをもき罪には当たるべきならねど、身の
いたづらになりぬる心ちすれば、さればよと、かつはわが心もいとつらくおぼ
ゆ。
　いでや、静やかに心にくきけはひ見え給はぬわたりぞや、まづはかの御簾の
はさまも、さるべきことかは、かるかるしと、大将の思ひ給へるけしき見えき
かしなど、いまぞ思ひ合はする。しゐて、かのことを思ひさまさむと思ふ方に
て、あながちに難つけたてまつらまほしきにやあらむ。
　よきやうとても、あまりひたおもむきにおほどかにあてなる人は、世のあり
さまも知らず、かつさぶらふ人に心をき給こともなくて、かくいとおしき御身
のためも人のためも、いみじきことにもあるかな、とかの御ことの心ぐるしさ

P389
もえ思ひ放たれ給はず。宮は、いとらうたげにて、なやみわたり給さまのなを
いと心ぐるしく、かく思ひ放ちたまふにつけては、あやにくに、うきに紛れぬ
恋しさの苦しくおぼさるれば、渡り給て見たてまつり給につけても、胸いたく
いとおしくおぼさる。御祈りなどさまさまにせさせ給。大方のことはありしに
変はらず、なかなかいたはしくやむごとなくもてなしきこゆるさまを増し給。
け近くうち語らひきこえ給さまは、いとこよなく御心隔たりてかたはらいたけ
れば、人目ばかりをめやすくもてなして、おぼしのみ乱るるに、この御心の
内しもぞ苦しかりける。さること見きともあらはしきこえ給はぬに、みづか
らいとわりなくおぼしたるさまも心をさなし。いとかくおはするけぞかし、よ
きやうと言ひながら、あまり心もとなくをくれたる、頼もしげなきわざなり、
とおぼすに、世中なべてうしろめたく、女御のあまりやはらかにをびれたまへ
るこそ、かやうに心かけきこえむ人は、まして心乱れなむかし、女は、かう晴
るけ所なくなよびたるを、人もあなづらはしきにや、さるまじきにふと目とま
り、心づよからぬあやまちはし出づるなりけり、とおぼす。
　右のおとゞの北の方の、とりたてたる後見もなく、おさなくより、ものはか

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なき世にさすらふるやうにて生い出で給けれど、かどかどしく労ありて、我も
大方には親めきしかど、にくき心の添はぬにしもあらざりしを、なだらかにつ
れなくもてなして過ぐし、このおとゞのさる無心の女房に心合はせて入り来た
りけんにも、けざやかにもて離れたるさまを、人にも見え知られ、ことさらに
ゆるされたるありさまにしなして、わが心と罪あるにはなさずなりにしなど、
いま思へば、いかにかどあることなりけり、契深き中なりければ、ながくか
くてたもたむことは、とてもかくてもおなじごとあらまし物から、心もてあり
しこととも、世人も思ひ出でば、すこしかるかるしき思ひ加はりなまし、いと
いたくもてなしてしわざなり、とおぼし出づ。
　二条の内侍のかむの君をば、猶絶えず思ひ出できこえ給へど、かくうしろ
めたき筋のこと、うき物におぼし知りて、かの御心よはさもすこしかるく思ひ
なされ給けり。つゐに御本意の事し給てけり、と聞き給ては、いとあはれに
くちおしく御心動きて、まづとぶらひきこえ給。いまなむとだに、にほはし給
はざりけるつらさを、浅からず聞こえたまふ。
　　　あまの世をよそに聞かめや須磨の浦に藻塩たれしもたれならなくに

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　　さまさまなる世の定めなさを心に思ひつめて、いままでをくれきこえぬる
　　くちおしさを。おぼし捨てつとも、避りがたき御回向のうちには、まづこ
　　そはと、おはれになむ。
など多く聞こえ給へり。とくおぼし立ちにしことなれど、この御さまたげに
かかづらひて、人にはしかあらはし給はぬことなれど、心の内あはれに、むか
しよりつらき御契をさすがに浅くしもおぼし知られぬ、など方方におぼし
出でらる。御返、いまはかくしも通ふまじき御文のとぢめとおぼせば、あは
れにて、心とゞめて書き給。墨つきなどいとおかし。
　　常なき世とは、身ひとつのみ知り侍にしを、おくれぬとのたまはせたるに
　　なむ、げに、
　　　あま舟にいかゞは思ひをくれけん明石の浦にいさりせし君
　　回向には、普き門にても、いかゞは。
とあり。濃き青鈍の紙にて、樒にさしたまへば、例の事なれど、いたく過ぐし
たる筆づかひ、なを古りがたくおかしげなり。
　二条院におはします程にて、女君にも、いまはむげに絶えぬる事にて、見せ

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たてまつり給。「いといたくこそはづかしめられたれ。げに心月なしや。さま
さま心ぼそき世中のありさまを、よく見過ぐしつるやうなるよ。なべての世の
こてにても、はかなく物を言ひかはし、時時によせて、あはれをも知り、ゆ
へをも過ぐさず、よそながらのむつびかはしつべき人は、斎院とこの君とこそ
は残りありつるを、かくみな背きはてて、斎院、はたいみじう勤めて、紛れな
くをこなひにしみ給にたなり。なをここらの人のありさまを聞き見る中に、深
く思ふさまに、さすがになつかしきことの、かの人の御なずらひにだにもあら
ざりけるかな。女子を生ほし立てむことよ、いとかたかるべきわざ也けり。宿
世などいふらむものは、目に見えぬわざにて、親の心にまかせがたし。生い立
たむ程の心づかひは、なを力入るべかめり。よくこそ、あまた方方に心を
乱るまじき契なりけれ。年深く入らざりしほどは、さうさうしのわざや、さま
さまに見ましかばとなむ、嘆かしきおりおりありし。若宮を心して生ほし立て
たてまつり給へ。女御は、物の心を深く知りたまふほどならで、かく暇なきま
じらひをし給へば、何事も心もとなき方にぞものし給覧。御子たちなむ、なを
飽くかぎり、人に点つかるまじくて、世をのどかに過ぐし給はむに、うしろめ

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たかるまじき心ばせ、つけまほしきわざなりける。限りありて、とさまかうざ
まの後見まうくるたゞ人は、をのづからそれにも助けられぬるを」など聞こえ
給へば、「はかはかしきさまの御後見ならずとも、世にながらへんかぎりは、
見たてまつらぬやうあらじと思ふを、いかならむ」とて、猶物を心ぼそげにて、
かく心にまかせて、をこなひをもとゞこほりなくしたまふ人〃を、うらやまし
く思ひきこえたまへり。
　「かむの君に、さま変はりたまへらむ装束など、まだ栽ちなれぬほどはとぶ
らふべきを、袈裟などはいかに縫ふ物ぞ。それせさせ給へ。一くだりは、六条
の東の君にものしつけむ。うるはしき法服だちては、うたて見目もけうとかる
べし。さすがに、その心ばへ見せてを」など聞こえ給。青鈍の一くだりをここ
にはせさせ給。作物所の人召して、忍びて尼の御具どものさるべきはじめのた
まはす。御褥、うわ席、屏風、木長などの事も、いと忍びて、わざとがましく
いそがせ給けり。
　かくて、山のみかどの御賀も延びて、秋とありしを、八月は大将の御忌月に
て、楽所のことをこなひ給はむに便なかるべし、九月は、院の大后のかくれ

P394
給にし月なれば、十月にとおぼしまうくるを、姫宮いたくなやみ給へば、又
延びぬ。衛門督の御預りの宮なむ、その月にはまいり給ける。おほきおとゞ、
居立ちて、いかめしくこまかに、もののきよら、儀式を尽くし給へりけり。督
の君もそのついでにぞ思ひ起こして出でたまひける。なをなやましく、例なら
ず病づきてのみ過ぐし給。
　宮も、うちはへてものをつゝましく、いとおしとのみおぼし嘆くけにやあら
む、月多く重なり給ままに、いと苦しげにおはしませば、院は、心うしと思ひ
きこえ給方こそあれ、いとらうたげにあえかなるさまして、かくなやみわた
り給を、いかにおはせむと嘆かしくて、さまさまにおぼし嘆く。御祈りなど、
ことしは紛れ多くて過ぐし給。
　御山にも聞こしめして、らうたく恋しと思ひきこえ給。月ごろかくほかほか
にて、渡り給事もおさおさなきやうに人の奏しければ、いかなるにかと御胸
つぶれて、世中もいまさらにうらめしくおぼして、対の方のわづらひけるころ
は、なをそのあつかひに、と聞こしめしてだになまやすからざりしを、そのの
ち、なをりがたくものし給らむは、そのころほひ便なき事や出で来たりけむ、

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みづから知りたまふことならねど、よからぬ御後見どもの心にて、いかなる事
かありけむ、内わたりなどのみやびをかはすべき仲らひなどにも、けしからず
うきこと言ひ出づるたぐひも聞こゆかし、とさへおぼし寄るも、こまやかなる
事おぼし捨ててし世なれど、なをこの道は離れがたくて、宮に御文こまやかに
てありけるを、おとゞおはしますほどにて見給。
　　そのこととなくて、しばしばも聞こえぬほどに、おぼつかなくてのみ年月
　　の過ぐるなむあはれなりける。なやみ給なるさまは、くはしく聞きしのち、
　　念誦のついでにも思ひやらるるは、いかゞ。世中さびしく思はずなること
　　ありとも、忍び過ぐし給へ。うらめしげなるけしきなど、おぼろけにて、
　　見知り顔にほのめかす、いと品をくれたるわざになむ。
など、教へきこえ給へり。
　いといとおしく、心ぐるしく、かかる内内のあさましきをば聞こしめすべ
きにはあらで、わがをこたりに本意なくのみ聞きおぼすらんことを、とばかり
おぼしつゞけて、「この御返をば、いかゞ聞こえ給。心ぐるしき御消息に、ま
ろこそいと苦しけれ。思はずに思ひきこゆることありとも、おろかに人の見と

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がむばかりはあらじとこそおもひ侍れ。たが聞こえたるにかあらむ」とのたま
ふに、はぢらひて背きたまへる御姿も、いとらうたげ也。いたく面やせて、も
の思ひ屈したまへる、いとゞあてにおかし。
　「いと幼き御心ばへを見をき給て、いたくはうしろめたがりきこえたまふな
りけり、と思ひ合はせたてまつれば、いまよりのちもよろづになむ。かうまで
もいかで聞こえじと思へど、上の、御心に背くと聞こしめす覧ことの、やすか
らずいぶせきを、ここにだに聞こえ知らせでやはとてなむ。いたり少なく、
たゞ、人の聞こえなす方にのみ寄るべかめる御心には、たゞをろかに浅きとの
みおぼし、又いまはこよなくさだ過ぎにたるありさまも、あなづらはしく目馴
れてのみ見なし給らむも、方方にくちおしくもうれたくもおぼゆるを、院の
おはしまさむほどは、なを心をさめて、かのおぼしをきてたるやうありけむ、
さだ過ぎ人をも、おなじくなずらへきこえて、いたくな軽めたまひそ。いにし
へより本意深き道にも、たどり薄かるべき女方にだに、みな思ひをくれつつ、
いとぬるき事多かるを、身づからの心には、何ばかりおぼしまよふべきにはあ
らねど、いまはと捨て給けむ世の、後見にをき給へる御心ばえの、あはれにう

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れしかりしを、ひきつづき争ひきこゆるやうにて、おなじさまに見捨てたてま
つらむことの、あえなくおぼされんにつつみてなむ。心ぐるしと思ひし人〃も、
いまはかけとゞめらるるほだし許なるも侍らず。女御も、かくて、行く末は知
りがたけれど、御子たち数添ひ給めれば、身づからの世だにのどけくは、と見
をきつべし。そのほかは、誰も誰も、あらむに従ひて、もろともに身を捨てむ
もおしかるまじき齢どもになりにたるを、やうやう涼しく思ひ侍。院の御世の
残り久しくもおはせじ。いとあづしくいとゞなりまさり給て、もの心ぼそげに
のみおぼしたるに、いまさらに思はずなる御名漏り聞こえて、御心乱り給な。
この世はいと安し。事にもあらず。後の世の御道のさまたげならむも、罪いと
おそろしからむ」など、まほにそのこととは明かし給はねど、つくつくと聞こ
えつゞけ給に、涙のみ落ちつつ、我にもあらず思ひしみておはすれば、我もう
ち泣きたまひて、「人の上にても、もどかしく聞き思し古人のさかしらよ、身
にかはることにこそ。いかに、うたての翁やと、むつかしくうるさき御心添ふ
らん」とはぢたまひつつ、御硯引き寄せ給て、手づから押しすり、紙取りま
かなひ、書かせたてまつり給へど、御手もわななきて、え書き給はず。かのこ

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まかなりし返事は、いとかくしもつつまず、通はし給らむかしとおぼしやるに、
いとにくければ、よろづのあはれもさめぬべけれど、言葉など教へて書かせた
てまつり給。
　まいり給はむ事は、この月かくて過ぎぬ。二の宮の、御いきをひことにてま
いり給ひけるを、古めかしき御身ざまにて、立ち並び顔ならむも憚りある心ち
しけり。「霜月は身づからの忌月也。年の終り、はたいとものさはがし。また、
いとゞこの御姿も見ぐるしく、待ち見給はんをと思ひ侍れど、さりとてさのみ
延ぶべきことにやは。むつかしく物おぼし乱れず、あきらかにもてなし給て、
このいたく面やせ給へる、つくろひ給へ」など、いとらうたしとさすがに見た
てまつりたまふ。
　衛門督をば、何ざまの事にも、ゆへあるべきおりふしには、かならずことさ
らにまつはし給つつ、のたまはせ合はせしを、絶えてさる御消息もなし。人あ
やしと思ふらんとおぼせど、見むにつけても、いとゞほれほれしき方はづかし
く、見むには又わが心もたゞならずや、とおぼし返されつつ、やがて月ごろま
いり給はぬをもとがめなし。大方の人は、なを例ならずなやみわたりて、院に

P399
はた御遊びなどなき年なれば、とのみ思ひわたるを、大将の君ぞ、あるやうあ
ることなるべし、すきものは、定めて、わがけしき取りしことには忍ばぬにや
ありけむ、と思ひ寄れど、いとかく定かに残りなきさまならむとは、思ひ寄り
給はざりけり。
　十二月になりにけり。十余日と定めて、舞ども馴らし、殿のうちゆすりて
ののしる。二条の院の上は、まだ渡りたまはざりけるを、この試楽によりぞ、
えしづめはてで渡り給へる。女御の君も里におはします。このたびの御子は、
又おとこにてなむおはしましける。すぎすぎいとおかしげにておはするを、明
け暮れもてあそびたてまつり給になむ、過ぐる齢のしるし、うれしくおぼされ
ける。試楽に右大臣殿の北の方も渡り給へり。大将の君、丑寅の町にて、まづ
うちうちに、調楽のやうに、明け暮れ遊び馴らし給ければ、かの御方は、御前
の物は見たまはず。
　衛門督を、かかる事のおりもまじらはせざらむは、いとはえなくさうさうし
かるべきうちに、人あやしとかたぶきぬべきことなれば、まいり給べきよしあ
りけるを、をもくわづらふよし申てまいらず。さるは、そこはかと苦しげなる

P400
病にもあらざなるを、思ふ心のあるにや、と心ぐるしくおぼして、とりわきて
御消息遣はす。父おとゞも、「などかかへさひ申されける。ひがひがしきやう
に、院にも聞こしめさむを、おどろおどろしき病にもあらず、助けてまいり給
へ」とそそのかし給に、かく重ねてのたまへれば、苦しと思ふ思ふまいりぬ。
　まだ上達部などもつどひ給はぬほどなりけり。例のけ近き御簾の内に入れ
給て、母屋の御簾おろしておはします。げにいといたくやせやせに青みて、
例も誇りかにはなやぎたる方は、おとうとの君たちにはもて消たれて、いと用
意あり顔にしづめたるさまぞことなるを、いとゞしづめてさぶらひたまふさま、
などかは御子たちの御かたはらにさし並べたらむに、さらにとがあるまじきを、
たゞ事のさまの、たれもたれもいと思ひやりなきこそ、いと罪ゆるしがたけれ、
など御目とまれど、さりげなく、いとなつかしく、「そのこととなくて、対面
もいと久しくなりにけり。月ごろは色色の病者を見あつかひ、心の暇なきほ
どに、院の御賀のため、ここにものし給御子のほうじ仕うまつり給べくあり
しを、つぎつぎとゞこほることしげくて、かく年もせめつれば、え思ひのごと
くしあへで、かたのごとくなんいもゐの御鉢まいるべきを、御賀などいへば、

P401
ことことしきやうなれど、家に生い出づる童べの数多くなりにけるを、御覧ぜ
させむとて、まいなど習はしはじめし、その事をだに果たさんとて、拍子とと
のへむこと、又たれにかは、と思ひめぐらしかねてなむ、月ごろとぶらひもの
し給はぬうらみも捨ててける」とのたまふ御けしきの、うらなきやうなるもの
から、いといとはづかしきに、顔の色たがふらむとおぼえて、御いらへもとみ
にえ聞こえず。
　「月ごろ、方方におぼしなやむ御ことうけたまはり嘆き侍ながら、春の
比をひより、例もわづらひ侍る乱り脚病といふ物、ところせく起こりわづら
ひ侍りて、はかはかしく踏み立つる事も侍らず、月ごろに添へて沈み侍てなむ、
内などにもまいらず、世中あと絶えたるやうにて篭り侍。院の御齢足りたま
ふ年なり、人より定かに数へたてまつり仕うまつるべきよし、致仕のおとゞ思
ひをよび申されしを、「冠を掛け、車をおしまず捨ててし身にて、進み仕うま
つらむにつく所なし。げに下らうなりとも、おなじごと深きところ侍らむ、そ
の心御覧ぜられよ」ともよをし申さるることの侍しかば、をもき病をあひ助け
てなん、まいりて侍し。いまはいよいよいとかすかなるさまにおぼし澄まして、

P402
いかめしき御よそひを待ちうけたてまつり給はむこと、願はしくもおぼすまじ
く見たてまつり侍しを、ことどもをばそがせ給て、しづかなる御物語りの深き
御願ひかなはせ給はむなん、まさりて侍べき」と申給へば、いかめしく聞き
し御賀のことを、女二の宮の御方ざまには言ひなさぬも、労ありとおぼす。
　「たゞかくなん。事そぎたるさまに世人は浅く見るべきを、さはいへど心得
てものせらるるに、さればよとなむ、いとゞ思ひなられ侍。大将は、公方は
やうやうをとなぶめれど、かうやうになさけびたる方は、もとよりしまぬにや
あらむ。かの院、何ごとも心をよび給はぬことは、おさおさなきうちにも、楽
の方のことは御心とゞめて、いとかしこく知りととのへ給へるを、さこそおぼ
し捨てたるやうなれ、静かに聞こしめし澄まさむ事、いましもなむ心づかひせ
らるべき。かの大将ともろともに見入れて、舞の童べの用意心ばへよく加へ給
へ。物の師などいふ物は、たゞわが立てたることこそあれ、いとくちおしき物
なり」など、いとなつかしくのたまひつくるを、うれしきものから苦しくつつ
ましくて、言少なにて、この御前をとく立ちなむ、と思へば、例のやうにこま
やかにもあらで、やうやうすべり出でぬ。

P403
　東のおとゞにて、大将のつくろひ出だし給楽人、舞人の装束のことなど、
またまたをこなひ加へ給。あるべきかぎりいみじく尽くし給へるに、いとゞく
はしき心しらひ添ふも、げにこの道はいと深き人にぞものし給める。
　けふはかかる試みの日なれど、御方方物見たまはむに、見所なくはあらせ
じとて、かの御賀の日は、赤き白橡に、葡萄染の下襲を着るべし、けふは青
色にすわう襲、楽人三十人、けふは白襲を着たる、辰巳の方の釣殿につゞきた
る廊を楽所にて、山の南のそばより御前に出づるほど、仙遊霞といふもの遊び
て、雪のたゞいささか散るに、春の隣近く、梅のけしき見るかひありてほほ笑
みたり。廂の御簾のうちにおはしませば、式部卿の宮、右のおとゞばかりさぶ
らひたまひて、それより下の上達部は、簀子に、わざとならぬ日の事にて、御
あるじなどけ近きほどに仕うまつりなしたり。右の大殿の四郎君、大将殿の三
郎君、兵部卿の宮の孫王の君たち二人は、万歳楽、まだいと小さきほどにて、
いとらうたげ也。四人ながら、いづれとなく高き家の子にて、かたちおかしげ
にかしづき出でたる、思ひなしもやむごとなし。又、大将の御子の典侍腹の
二郎君、式部卿の宮の兵衛督といひし、いまは源中納言の御子、わう上、右の

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おほゐ殿の三郎君、れうわう、大将殿の太郎、落蹲、さては太平楽、喜春楽な
どいふ舞どもをなん、おなじ御仲らひの君たち、大人たちなど舞ひける。
　暮れゆけば、御簾上げさせ給て、もののけうまさるに、いとうつくしき御
孫の君たちのかたち、姿にて、舞のさまも世に見えぬ手を尽くして、御師ども
もをのをの手のかぎりを教へきこえけるに、深きかどかどしさを加へて、めづ
らかに舞ひ給を、いづれをもいとらうたしとおぼす。老い給へる上達部たちは、
みな涙落とし給。式部卿の宮も御孫をおぼして、御鼻の色づくまでしほたれ
給。
　あるじの院、「過ぐる齢に添へては、酔ひ泣きこそとゞめがたきわざなりけ
れ。衛門督心とゞめてほほ笑まるる、いと心はづかしや。さりとも、いましば
しならん。さかさまに行かぬ年月よ。老いはえのがれぬわざ也」とて、うち見
やり給に、人よりけにまめだち屈じて、まことに心ちもいとなやましければ、
いみじきことも目もとまらぬ心ちする人をしも、さしわきてそら酔ひをしつつ
かくのたまふ、戯れのやうなれど、いとゞ胸つぶれて、盃のめぐり来るも頭い
たくおぼゆれば、けしき許にて紛はすを御覧じとがめて、持たせながらたび

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たびしゐ給へば、はしたなくてもてわづらふさま、なべての人に似ずおかし。
　心地かき乱りて耐へがたければ、まだ事も果てぬにまかで給ぬるままに、い
といたくまどひて、例のいとおどろおどろしき酔ひにもあらぬを、いかなればか
かるならむ、つつましと物を思ひつるに、気ののぼりぬるにや、いとさ言ふば
かり臆すべき心よはさとはおぼえぬを、言ふかひなくもありけるかな、と身づ
から思ひ知らる。しばしの酔ひのまどひにもあらざりけり。やがていといたく
わづらひ給。おとゞ、母北の方おぼしさはぎて、よそよそにていとおぼつかな
しとて、殿に渡したてまつり給を、女宮のおぼしたるさま、またいと心ぐるし。
　事なくて過ぐすべき日比は、心のどかにあいな頼みして、いとしもあらぬ御
心ざしなれど、いまはと別れたてまつるべき門出にやと思ふは、あはれにかな
しく、をくれておぼし嘆かんことのかたじけなきを、いみじと思ふ。母御息所
も、いといみじく嘆き給て、「世のこととして、親をば猶さる物にをきたてま
つりて、かかる御仲らひは、とあるおりもかかるおりも、離れたまはぬこそ例
のことなれ、かくひき別れて、平らかにものしたまふまでも過ぐし給はむが、
心尽くしなるべきことを。しばしここにて、かくてこころみたまへ」と、御か

P406
たはらに御几帳ばかりを隔てて見たてまつり給。
　「ことはりや。数ならぬ身にて、をよびがたき御仲らひに、なまじひにゆる
されたてまつりてさぶらふしるしには、長く世に侍りて、かひなき身のほども、
すこし人とひとしくなるけぢめをもや御覧ぜらるる、とこそ思ふ給つれ、い
といみじく、かくさへなり侍べれば、深き心ざしをだに御覧じはてられずやな
り侍りなむ、と思ふたまふるになん、とまりがたき心地にも、え行きやるまじ
く思給へらるる」など、かたみに泣き給ひて、とみにもえ渡り給はねば、又
母北の方うしろめたくおぼして、「などか、まづ見えむとは思ひたまふまじき。
われは、心ちもすこし例ならず心ぼそき時は、あまたの中にまづとりわきて、
ゆかしくも頼もしくもこそおぼえ給へ。かくいとおぼつかなきこと」とうらみ
きこえ給も、又いとことはりなり。
　「人より先なりけるけぢめにや、とりわきて思ひならひたるを、いまになを
かなしくし給ひて、しばしも見えぬをば苦しき物にし給へば、心ちのかく限り
におぼゆるおりしも、見えたてまつらざらむ、罪深くいぶせかるべし。いまは
と頼みなく聞かせ給はば、いと忍びて渡り給ひて御覧ぜよ。かならず又対面た

P407
まはらむ。あやしくたゆくをろかなる本上にて、事に触れてをろかにおぼさ
るることもありつらむこそ、くやしく侍れ。かかる命のほどを知らで、行く末
長くのみ思ひ侍けること」と、泣く泣く渡りたまひぬ。宮はとまり給て、言ふ
方なくおぼしこがれたり。
　大殿に待ちうけきこえ給て、よろづにさはぎ給。さるは、たちまちにおどろ
おどろしき御心ちのさまにもあらず、月ごろ物などをさらにまいらざりけるに、
いとゞはかなき柑子などをだに触れたまはず、たゞやうやうものに引き入るる
やうに見え給。さる時の有識のかく物したまへば、世中おしみあたらしがり
て、御とぶらひにまいり給はぬ人なし。内よりも、院よりも、御とぶらひしば
しば聞こえつつ、いみじくおしみおぼしめしたるにも、いとゞしき親たちの御
心のみまどふ。六条院にも、いとくちおしきわざなりとおぼしおどろきて、御
とぶらひにたびたび、ねんごろに父おとゞにも聞こえ給。大将は、ましていと
よき御中なれば、け近くものし給つつ、いみじく嘆きありき給。
　御賀は、廿五日になりにけり。かかる時のやむごとなき上達部の重くわづら
ひたまふに、親はらから、あまたの人人、さる高き御仲らひの嘆きしほれ給へ

P408
るころをひにて、ものすさまじきやうなれど、つぎつぎにとゞこほりつる事だ
にあるを、さてやむまじき事なれば、いかでかはおぼしとゞまらむ。女宮の御
心の内をぞ、いとおしく思ひきこえさせ給。例の五十寺の御誦経、又かのおは
します御寺にも、摩詞毘廬遮那の。

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