34巻 若 菜 上


畳語、繰り返し文字はゝ、ゞ、または文字になっています。




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 朱雀院の御門、ありし御幸の後、其比ほひより、例ならず悩みわたらせ給。
もとよりあづしくおはしますうちに、このたびは物心ぼそくおぼしめされて、
「年ごろをこなひの本意深きを、后の宮おはしましつる程は、よろづ憚りきこ
えさせ給て、いままでおぼしとゞこほりつるを、猶、その方にもよをすにやあ
らむ、世に久しかるまじき心ちなんする」などのたまはせて、さるべき御心ま
うけどもせさせ給ふ。
 御子たちは、春宮をおきたてまつりて、女宮たちなん四ところおはしましけ
る。その中に、藤壷と聞こえしは、先帝の源氏にぞおはしましける、まだ坊と
聞こえさせし時まいり給て、高き位にも定まり給べかりし人の、取り立てたる
御後見もおはせず、母方もその筋となく物はかなき更衣腹にてものし給ければ、
御まじらひの程も心ぼそげにて、大后の内侍督をまいらせたてまつり給て、か
たはらに並ぶ人なくもてなしきこえなどせし程に、けおされて、みかども御心
の中にいとおしき物には思きこえさせ給ながら、おりさせ給にしかば、かひな

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くくちおしくて、世の中をうらみたるやうにて亡せ給にし、その御腹の女三
宮を、あまたの御中にすぐれてかなしき物に思かしづききこえ給。
 その程、御年十三四ばかりおはす。いまはと背き捨て、山篭りしなん後の世
に立ちとまりて、たれを頼む陰にて物し給はんとすらむと、たゞこの御事をう
しろめたくおぼし嘆くに、西山なる御寺造りはてて、移ろはせ給はん程の御い
そぎをせさせ給に添へて、又この宮の御裳着の事をおぼしいそがせ給。院のう
ちにやんごとなくおぼす御宝物、御調度どもをばさらにも言はず、はかなき
御遊び物まで、すこしゆへあるかぎりをば、たゞこの御方にとり渡したてまつ
らせ給て、その次次をなむ異御子たちには御そふぶんどもありける。
 春宮は、かゝる御悩みに添へて、世を背かせ給べき御心づかひになど聞かせ
給て、渡らせ給へり。母女御も添ひきこえさせ給てまいり給へり。すぐれた
る御おぼえにしもあらざりしかど、宮のかくておはします御宿世の限りなくめ
でたければ、年比の御物語りこまやかに聞こえさせ給けり。宮にも、よろづ
の事、世を保ち給はん御心づかひなど聞こえ知らせ給。御後見どもも、こなた
かなたかろかろしからぬ仲らひにものし給へば、いとうしろやすく思きこえさ

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せ給。
 「この世にうらみ残る事も侍らず。女宮たちのあまた残りとゞまる行先を
思ひやるなん、さらぬ別にも絆なりぬべかりける。さきざき人の上に見聞きし
にも、女は心よりほかに、あはあはしく人におとしめらるゝ宿世あるなん、い
とくちおしくかなしき。いづれをも、思やうならん御世には、さまさまにつけ
て、御心とゞめておぼし尋ねよ。その中に、後見などあるはさる方にも思譲
り侍り、三宮なむ、いはけなき齢にて、たゞひとりを頼もしき物とならひて、
うち捨ててむ後の世にたゞよひさすらへむこと、いといとうしろめたくかなし
く侍」と、御目おしのごひつゝ聞こえ知らせさせ給。
 女御にも、心うつくしきさまに聞こえつけさせ給。されど、女御の人よりは
まさりてときめき給ひしに、みないどみかはし給しほど、御仲らひどもえうる
はしからざりしかば、そのなごりにて、げにいまはわざとにくしなどはなくと
も、まことに心とゞめて思後見むとまではおぼさずもや、とぞおしはから
るゝかし。
 朝夕にこの御ことをおぼし嘆く。年暮れ行まゝに、御悩みまことにをもくな

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りまさらせ給て、御簾の外にも出でさせ給はず。御もののけにて、時〃悩ませ
給こともありつれど、いとかくうちはへ、小止みなきさまにはおはしまさざ
りつるを、このたびは猶限りなりとおぼしめしたり。御くらいを去らせ給つ
れど、猶その世に頼みそめたてまつり給へる人人は、いまもなつかしくめでた
き御ありさまを、心やり所にまいり仕うまつり給かぎりは、心を尽くしておし
みきこえ給ふ。
 六条院よりも御とぶらひしばしばあり。身づからもまいり給べきよし聞こ
しめして、院はいといたくよろこびきこえさせ給。中納言の君まいり給へるを、
御簾のうちに召し入れて、御物語りこまやかなり。「故院の上の、いまはのき
ざみにあまたの御ゆひごんありし中に、この院の御こと、いまの内の御事なん、
とりわきての給をきしを、おほやけとなりて、事限りありければ、うちうち
の御心寄せは変はらずながら、はかなき事のあやまりに、心をかれたてまつる
事もありけんと思ふを、年ごろ事に触れて、そのうらみ残し給へるけしきをな
ん漏らし給はぬ。さかしき人といへど、身の上になりぬれば、事たがひて心動
き、かならずその報ひ見え、ゆがめる事なん、いにしへだに多かりける。いか

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ならんおりにかその御心ばへほころぶべからむと、世人もおもむけ疑ひけるを、
つゐに忍び過ぐし給て、春宮などにも心を寄せきこえ給。いまはた、又なく親
しかるべき中となり、むつびかはし給へるも、限りなく心には思ひながら、本
上のをろかなるに添へて、子の道の闇にたちまじり、かたくななるさまにや
とて、中中よその事に聞こえ放ちたるさまにてはべる。内の御事はかの御遺
言たがへず仕うまつりをきてしかば、かく末の世の明らけき君として、来し方
の御面おも起こし給ふ、本意のごと、いとうれしくなん。この秋の行楽の後、
いにしへの事とり添へて、ゆかしくおぼつかなくなんおぼえ給。対面に聞こゆ
べき事どもはべり。かならずみづからとぶらひものし給べきよし、もよをし
申給へ」などうちしほたれつゝのたまはす。
 中納言の君、「過ぎ侍にけん方はともかくも思ふたまへ分きがたくはべり。
年まかり入り侍て、おほやけにも仕うまつり侍あひだ、世中のことを見たまへ
まかりありく程には、大小のことにつけても、うちうちのさるべき物語りなど
のついでにも、いにしへのうれはしきことありてなんなど、うちかすめ申さ
るゝおりは侍らずなん。「かくおほやけの御後見を仕うまつりさして、静かな

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る思をかなへむと、ひとへに篭りゐし後は、何事をも知らぬやうにて、故院の
御遺言のごともえ仕うまつらず、御位におはしましし世には、齢の程も、身の
うつは物もをよばず、かしこき上の人〃多くて、その心ざしを遂げて御覧ぜら
るゝ事もなかりき。いまかくまつりごとを避りて、静かにおはしますころほひ、
心のうちをも隔てなく、まいりうけたまはらまほしきを、さすがに何となく所
せき身のよそほひにて、をのづから月日を過ぐす事」となん、おりおり嘆き
申給」など奏し給。
 二十にもまだわづかなる程なれど、いとよくとゝのひ過ぐして、かたちも盛
りににほひて、いみじくきよらなるを、御目にとゞめてうちまもらせ給つゝ、
このもてわづらはせ給姫宮の御後見にこれをやなど、人知れずおぼしよりけ
り。「おほきおとゞのわたりに、いまは住みつかれにたりとな。年比心得ぬさ
まに聞きしがいとおしかりしを、耳やすき物から、さすがにねたく思ことこそ
あれ」とのたまはする御けしきを、いかにのたまはするにと、あやしく思めぐ
らすに、この姫宮をかくおぼしあつかひて、さるべき人あらばあづけて、心や
すく世をも思離ればやとなんおぼしのたまはすると、をのづから漏り聞き

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給たよりありければ、さやうの筋にやとは思ぬれど、ふと心得顔にも何かは
いらへきこえさせん、たゞ、「はかはかしくも侍らぬ身には、よるべもさぶら
ひがたくのみなん」とばかり奏してやみぬ。
 女房などは、のぞきて見きこえて、「いとありがたくも見え給かたち、用意
かな。あなめでた」など、集まりて聞こゆるを、老いしらへるは、「いで、さ
りとも、かの院のかばかりにおはせし御ありさまには、えならずひきこえ給は
ざめり。いと目もあやにこそきらよにものし給しか」など、言ひしろふを聞こ
しめして、「まことに、かれはいとさまことなりし人ぞかし。いまは又、その
世にもねびまさりて、光るとはこれを言ふべきにやと見ゆるにほひなん、い
とゞ加はりにたる。うるはしだちて、はかはかしき方に見れば、いつくしくあ
ざやかに、目もをよばぬこゝちするを、又うちとけて、戯れ言をも言ひ乱れ遊
べば、その方につけては似る物なくあい行づき、なつかしくうつくしきことの
並びなきこそ、世にありがたけれ。何事にも先の世おしはかられて、めづらか
なる人のありさまなり。宮のうちに生ひ出でて、帝王の限りなくかなしき物に
したまひ、さばかり撫でかしづき、身にかへておぼしたりしかど、心のまゝに

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もおごらず、卑下して廿が内には納言にもならずなりにきかし。一つあまりて
や宰相にて大将かけ給へりけん。それに、これはいとこよなく進みにためるは。
次次の子の、世のおぼえのまさるなめりかし。まことにかしこき方の才、心
もちゐなどは、これもおさおさ劣るまじく、あやまりても、およすげまさりた
るおぼえいとことなめり」などめでさせ給。
 姫宮のいとうつくしげにて、若く何心なき御ありさまなるを見たてまつり
給にも、「見はやしたてまつり、かつは又、かたをひならむ事をば、見隠し教
へきこえつべからむ人のうしろやすからむに、あづけきこえばや」など聞こえ
給。おとなしき御乳母ども召し出でて、御裳着の程の事などのたまはするつ
いでに、「六条のおとゞの、式部卿の親王のむすめ生ほしたてけんやうに、こ
の宮をあづかりてはぐくまん人もがな。たゞ人の中にはありがたし。内には中
宮さぶらひ給。次次の女御たちとても、いとやんごとなきかぎり物せらるゝ
に、はかはかしき後見なくて、さやうのまじらひいと中中ならむ。この権
中納言の朝臣のひとりありつる程に、うちかすめてこそ心みるべかりけれ。若
けれど、いときやうさくに、生い先頼もしげなる人にこそあめるを」との給は

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す。
 「中納言は、もとよりいとまめ人にて、とし比もかのわたりに心をかけて、
ほかざまに思移ろふべくも侍らざりけるに、その思ひかなひては、いとゞゆ
るぐ方侍らじ。かの院こそ、中中、猶いかなるにつけても、人をゆかしく
おぼしたる心は絶えず物せさせ給ふなれ。その中にも、やむごとなき御願ひ深
くて、前斎院などをもいまに忘れがたくこそ聞こえ給なれ」と申す。「いで、
そのふりせぬあだけこそはいとうしろめたけれ」とはの給すれど、げにあまた
の中にかゝづらひて、めざましかるべき思ひはありとも、猶やがて親ざまに定
めたるにて、さもや譲りをききこえまし、などもおぼしめすべし。「まことに
すこしも世づきてあらせむと思はん女子持たらば、おなじくは、かの人のあた
りにこそは触ればはせまほしけれ。いくばくならぬこの世の間は、さばかり心
ゆくありさまにてこそ過ぐさまほしけれ。われ女ならば、おなじはらからなり
とも、かならずむつび寄りなまし。若かりし時など、さなんおぼえし。まして
女のあざむかれんは、いとことはりぞや」との給はせて、御心の中に、かむの
君の御事もおぼし出でらるべし。

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 この御後見どもの中に、をもをもしき御乳母のせうと、左中弁なる、かの院
の親しき人にて年ごろ仕うまつるありけり。この宮にも心よせことにてさぶら
へば、まいりたるにあひて、物語りするついでに、「上なむ、しかしか御けし
きありて聞こえ給しを、かの院におりあらば漏らしきこえさせ給へ。御子たち
は、ひとりおはしますこそは例の事なれど、さまさまにつけて心よせたてまつ
り、何事につけても御後見し給人あるは頼もしげなり。上をおきたてまつり
て、又、真心に思ひきこえ給べき人もなければ、おのらは仕うまつるとても、
何ばかりの宮仕へにかあらむ。我心ひとつにしもあらで、をのづから思ひのほ
かの事もおはしまし、かるかるしき聞こえもあらむ時には、いかさまにかはわ
づらはしからむ。御覧ずる世に、ともかくもこの御こと定まりたらば、仕うま
つりよくなんあるべき。かしこき筋と聞こゆれど、女はいと宿世定めがたくお
はします物なれば、よろづに嘆かしく、かくあまたの御中に、とりわききこえ
させ給につけても、人のそねみあべかめるを、いかで塵も据ゑたてまつらじ」
と語らふに、弁、「いかなるべき御事にかあらむ。院はあやしきまで御心ながく、
かりにても見そめ給へる人は、御心とまりたるをも、又さしも深からざりける

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をも、方方につけて尋ねとり給つゝ、あまたつどへきこえ給へれど、やんご
となくおぼしたるは、限りありて一方なめれば、それにことよりて、かひなげ
なる住まひし給ふ方方こそは多かめるを、御宿世ありて、もしさやうにおは
しますやうもあらば、いみじき人と聞こゆとも、立ち並びておし立ち給事は
えあらじとこそはおしはからるれど、猶いかゞと憚らるゝことありてなんおぼ
ゆる。さるは、「この世の栄え、末の世に過ぎて、身に心もとなきことはなき
を、女の筋にてなん、人のもどきをも負ひ、我心にも飽かぬ事もある」となん、
常にうちうちのすさび言にもおぼしの給はすなる。げにをのれらが見たてまつ
るにも、さなんおはします。方方につけて御影に隠し給へる人、みなその
人ならず立ち下れる際にはものし給はねど、限りあるたゞ人どもにて、院の御
ありさまに並ぶべきおぼえ具したるやはおはすめる。それにおなじくは、げに
さもおはしまさば、いかにたぐひたる御あはひならむ」と語らふを、乳母、又、
事のついでに、「しかしかなん、なにがしの朝臣にほのめかし侍しかば、「かの
院にはかならずうけひき申させ給てむ。年比の御本意かなひておぼしぬべき
ことなるを、こなたの御ゆるし、まことにありぬべくは、伝へきこえん」とな

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ん申侍しを、いかなるべきことにかは侍らむ。程程につけて、人の際際
おぼしわきまへつゝ、ありがたき御心ざまに物し給なれど、たゞ人だに、又
かゝづらひ思ふ人立ち並びたることは、人の飽かぬことにしはべめるを、めざ
ましき事もや侍らむ。御後見望み給人人は、あまたものし給めり。よくおぼ
し定めてこそよく侍らめ。限りなき人と聞こゆれど、いまの世のやうとては、
みなほがらかにあるべかしくて、世の中を御心と過ぐし給つべきもおはします
べかめるを、姫宮は、あさましくおぼつかなく心もとなくのみ見えさせ給に、
さぶらふ人人は、仕うまつるかぎりこそ侍らめ。大方の御心をきてに従ひきこ
えて、さかしき下人もなびきさぶらふこそ、たよりあることに侍らめ。とりた
てたる御後見ものし給はざらむは、猶心ぼそきわざになん侍べき」と聞こゆ。
 「しか思ひたどるによりなん。御子たちの世づきたるありさまは、うたてあ
はあはしきやうにもあり、又高き際と言へども、女はおとこに見ゆるにつけて
こそ、くやしげなる事も、めざましき思ひも、をのづからうちまじるわざなめ
れと、かつは心ぐるしく思ひ乱るゝを、又さるべき人にたちをくれて、頼む陰
どもに別れぬる後、心を立てて世中に過ぐさむ事も、むかしは人の心平らかに

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て、世にゆるさるまじき程の事をば、思をよばぬものとならひたりけん、い
まの世には、すきすきしく乱りがはしきことも、類にふれて聞こゆめりかし。
昨日まで高き親の家にあがめられかしづかれし人のむすめの、けふはなをなを
しく下れる際のすき物どもに名を立ちあざむかれて、亡き親の面を伏せ、影を
はづかしむるたぐひ多く聞こゆる、言ひもてゆけば、みなおなじことなり。程
程につけて、宿世などいふなることは知りがたきわざなれば、よろづにうし
ろめたくなん。すべてあしくもよくも、さるべき人の心にゆるしをきたるまゝ
にて世中を過ぐすは、宿世宿世にて、後の世に衰へあるときも、身づからのあ
やまちにはならず、あり経てこよなき幸ひあり、めやすきことになるおりは、
かくてもあしからざりけりと見ゆれど、猶たちまちにふとうち聞きつけたる程
は、親に知られず、さるべき人もゆるさぬに、心づからのしのびわざし出でた
るなん、女の身にはますことなき疵とおぼゆるわざなる。なをなをしきたゞ人
の仲らひにてだに、あはつけく心づきなき事なり。身づからの心より離れてあ
るべきにもあらぬを、思ふ心よりほかに人にも見え、宿世のほど定められんな
む、いとかるかるしく、身のもてなしありさま、さまおしはからるゝ事なるを、

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あやしく物はかなき心ざまにや、と見ゆめる御さまなるを、これかれの心にま
かせてもてなしきこゆなる、さやうなることの世に漏り出でんこと、いとうき
事なり」など、見捨てたてまつり給はん後の世をうしろめたげに思きこえさせ
給へれば、いよいよわづらはしく思あへり。
 「いますこし物をも思ひ知り給ほどまで見過ぐさんとこそは、年ごろ念じつ
るを、深き本意も遂げずなりぬべき心ちのするに思もよをされてなん。かの六
条のおとゞは、げにさりともものの心得て、うしろやすき方はこよなかりなん
を、方方にあまたものせらるべき人人を知るべきにもあらずかし。とてもか
くても人の心から也。のどかに落ちゐて、大方の世のためしとも、うしろやす
き方は並びなく、ものせらるゝ人なり。さらで、よろしかるべき人、誰ばかり
かはあらむ。兵部卿宮、人がらはめやすしかし。おなじき筋にて、こと人と
わきまへおとしむべきにはあらねど、あまりいたくなよびよしめく程に、をも
き方をくれて、すこしかろびたるおぼえや進みにたらむ。猶さる人はいと頼も
しげなくなんある。又、大納言の朝臣の家司望むなる、さる方にものまめやか
なるべき事にはあなれど、さすがにいかにぞや。さやうにおしなべたる際は

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猶めざましくなんあるべき。むかしもかうやうなる選ひには、何事も人にこ
となるおぼえあるにことよりてこそありけれ。たゞひとへに又なく持ちゐん方
ばかりを、かしこきことに思定めんは、いと飽かずくちおしかるべきわざに
なん。右衛門督の下にわぶなるよし、内侍督の物せられし、その人ばかりなん、
位などいますこし物めかしき程になりなば、などかはとも思寄りぬべきを、
まだ年いと若くて、むげにかろびたるほど也。高き心ざし深くて、やもめにて
過ぐしつゝ、いたくしづまり思あがれるけしき、人には抜けて、才などもこと
もなく、つゐには世のかためとなるべき人なれば行末も頼もしけれど、猶又
このためにと思はてむには限りぞあるや」と、よろづにおぼしわづらひたり。
かうやうにもおぼし寄らぬ姉宮たちをば、かけても聞こえなやまし給人もな
し。あやしく、うちうちにのたまはする御さゝめき事どもの、をのづから広ご
りて、心を尽くす人人多かりけり。
 おほきおとゞも、この衛門督の、いままでひとりのみありて、御子たちなら
ずは得じと思へるを、かゝる御定めども出で来たなるをりに、さやうにもおも
むけたてまつりて、召し寄せられたらむ時、いかばかり我ためにも面目ありて

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うれしからむ、とおぼしの給て、内侍のかんの君には、かの姉、北方して、伝
へ申給なりけり。よろづ限りなき言の葉を尽くして奏せさせ、御けしきたま
はらせ給。
 兵部卿宮は、左大将の北の方を聞こえはづし給て、聞き給らん所もあり、
かたほならむことはと選り過ぐし給に、いかゞは御心動かざらむ、限りなくお
ぼし焦られたり。
 藤大納言は、年ごろ院の別当にて、親しく仕うまつりて、さぶらひ馴れにた
るを、御山篭りし給なんのち、寄り所なく心ぼそかるべきに、この宮の御後見
に事寄せて、かへりみさせ給べく、御けしき切に給はりたまふなるべし。
 権中納言も、かゝる事どもを聞き給ふに、人づてにもあらず、さばかりおも
むけさせたまへりし御けしきを見たてまつりてしかば、をのづからたよりにつ
けて、漏らし聞こしめさるゝ事もあらば、よももて離れてはあらじかし、と心
ときめきもしつべけれど、女君の、いまはとうちとけて頼み給へるを、年ごろ
つらきにもことつけつべかりし程だに、ほかざまの心もなくて過ぐしてしを、
あやにくに、いまさらにたち返り、にわかに物をや思はせきこえん、なのめな

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らずやむごとなき方にかゝづらひなば、何事も思まゝならで、左右にやすから
ずは、我身も苦しくこそはあらめ、など、もとよりすきすきしからぬ心なれば、
思しづめつゝうち出でねど、さすがにほかざまに定まりはて給はんも、いか
にぞやおぼえて、耳はとまりけり。
 春宮にも、かゝる事ども聞こし召して、「さしあたりたるたゞいまのことよ
りも、後の世のためしともなるべき事なり。人がらよろしとても、たゞ人は限
りあるを、猶しかおぼし立つことならば、かの六条院にこそ親ざまに譲りきこ
えさせ給はめ」となん、わざとの御消息とはあらねど、御けしきありけるを待
ち聞かせ給ても、げにさること也、いとよくおぼしのたまはせたりと、いよ
いよ御心立たせ給て、まづかの弁してぞ、かつかつ案内伝へきこえさせ給ける。
 この宮の御事、かくおぼしわづらふさまは、さきさきもみな聞きをき給へれ
ば、「心ぐるしきことにもあなるかな。さはありとも、院の御世の残り少なし
とて、こゝには又いくばく立ちをくれたてまつるべしとてか、その御後見の事
をば受け取りきこえん。げに次第をあやまたぬにて、いましばしの程も残りと
まる限りあらば、大方につけては、いづれの御子たちをも、よそに聞き放ちた

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てまつるべきにもあらねど、又かくとりわきて聞きをきたてまつりてんをば、
ことにこそは後見きこえめと思ふを、それだにいと不定なる世の定めなさなり
や」との給て、「ましてひと[つ]に頼まれたてまつるべき筋にむつび馴れきこ
えんことは、いと中中に、うちつゞき世を去らむきざみ心ぐるしく、みづか
らのためにも浅からぬ絆になんあるべき。中納言などは、年若くかろかろしき
やうなれど、行先とをくて、人がらもつゐにおほやけの御後見ともなりぬべ
き生い先なんめれば、さもおぼし寄らむに、などかこよなからむ。されど、い
といたくまめだちて、思ふ人定まりにてぞあめれば、それに憚らせたまふにや
あらむ」などの給て、身づからはおぼし離れたるさまなるを、弁は、おぼろけ
の御定めにもあらぬを、かくの給へば、いとおしくくちおしくも思て、うち
うちにおぼし立ちにたるさまなど、くはしく聞こゆれば、さすがにうちえみ
つゝ、「いとかなしくしたてまつり給御子なめれば、あながちにかく来し方
行先のたどりも深きなめりかしな。たゞ内にこそたてまつり給はめ。やんご
となきまづの人人おはすと言ふことは、よしなき事なり。それに障るべき事に
もあらず。かならず、さりとて、末の人をろかなるやうもなし。故院の御時に、

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大后の、坊のはじめの女御にて、いきまき給しかど、むげの末にまいり給へり
し入道の宮に、しばしはおされ給にきかし。この御子の御母女御こそは、かの
宮の御はらからにものしたまひけめ。かたちも、さしつぎにはいとよしと言は
れ給し人なりしかば、いづ方につけても、この姫宮、をしなべての際にはよも
おはせじを」などいぶかしくは思きこえ給べし。
 年も暮れぬ。朱雀院には、御こゝち猶をこたるさまにもおはしまさねば、
よろづあはたゝしくおぼし立ちて、御裳着の事おぼしいそぐさま、来し方行
先ありがたげなるまでいつくしくのゝしる。御しつらひは、柏殿の西面に、御
几帳よりはじめて、こゝの綾錦をまぜさせ給はず、唐土の后の飾りをおぼしや
りて、うるはしくことことしく、かゝやくばかり調へさせ給へり。御腰結ひに
は、おほきおとゞをかねてより聞こえさせ給へりければ、ことことしくおはす
る人にて、まいりにくゝおぼしけれど、院の御事をむかしより背き申給はね
ば、まいり給。いま二所の大臣たち、その残り、上達部などは、わりなき障り
あるも、あながちにためらひたすけつゝまいり給。親王たち八人、殿上人はた
さらにも言はず、内、春宮の残らずまいりつどひて、いかめしき御いそぎの響

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き也。
 院の御こと、ことたびこそとぢめなれと、みかど、春宮をはじめたてまつり
て、心ぐるしく聞こしめしつゝ、蔵人所、おさめ殿の唐物ども多くたてまつら
せ給へり。六条院よりも、[御とぶらひいとこちたし。送り物ども]、人ゝの禄、
尊者の大臣の御引き出で物など、かの院よりぞたてまつらせ給ける。
 中宮よりも、御装束、櫛の箱、心ことに調ぜさせ給て、かのむかしの御髪上
げの具、ゆへあるさまにあらため加へて、さすがにもとの心ばえも失はず、そ
れと見せて、その日の夕つ方たてまつれさせ給。宮の権の佐、院の殿上にもさ
ぶらふを御使にて、姫宮の御方にまいらすべくのたまはせつれど、かゝること
ぞ中にありける。
  さしながらむかしをいまにつたふれば玉の小櫛ぞ神さびにける
院御覧じつけて、あはれにおぼし出でらるゝ事もありけり。あえ物けしうもあ
らじと譲りきこえ給へるほど、げに面立たしきかむざしなれば、御返も、む
かしのあはれをばさしをきて、
  さしつぎに見る物にもがよろづ世をつげの小櫛の神さぶるまで

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とぞ祝ひきこえ給へる。
 御心ちいと苦しきを念じつゝ、おぼし起こして、この御いそぎ果てぬれば、
三日過ぐして、つゐに御髪おろし給。よろしき程の人の上にてだに、いまはと
てさま変はるはかなしげなるわざなれば、ましていとあはれげに御方方もお
ぼしまどふ。内侍のかんの君は、つとさぶらひ給て、いみじくおぼし入りたる
を、こしらへかね給て、「子を思ふ道は限りありけり。かく思沈み給へる別
の耐へがたくもあるかな」とて、御心乱れぬべけれど、あながちに御けうそく
にかゝり給て、山の座主よりはじめて、御忌むことの阿闍梨三人さぶらひて、
ほうぶくなどたてまつる程、この世を別れ給御さほう、いみじくかなし。け
ふは、世を思すましたる僧たちなどだに、涙もえとゞめねば、まして女宮たち、
女御、更衣、こゝらの男女、上下ゆすり満ちて泣きとよむに、いと心あは
たゝしう、かゝらで、しづやかなる所にやがてこもるべく、おぼしまうけける
本意たがひておぼしめさるゝも、たゞこの幼き宮にひかされてと、おぼしのた
まはす。内よりはじめたてまつりて、御とぶらひのしげさ、いとさらなり。
 六条院も、すこし御心ちよろしくと聞きたてまつらせ給て、まいり給。御

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たうばりの御封などこそ、みなおなじごと、おりゐのみかどとひとしく定まり
給へれど、まことの太上天皇の儀式にはうけばり給はず、世のもてなし思きこ
えたるさまなどは心ことなれど、ことさらにそぎ給て、例のことことしからぬ
御車にたてまつりて、上達部などさるべきかぎり、車にてぞ仕うまつり給へる。
 院にはいみじく待ちよろこびきこえさせ給て、くるしき御心ちをおぼし強り
て御対面あり。うるはしきさまならず、たゞおなします方に御座よそひ加へて
入れたてまつり給へる、御ありさま見たてまつり給ふに、来し方行先くれて、
かなしくとめがたくおぼさるれば、とみにもえためらひ給はず、「故院にをく
れたてまつりしころほひより、世の常なく思ふ給へられしかば、この方の本意
深くすゝみ侍にしを、心よはく思ふたまへたゆたふことのみ侍つゝ、つゐにか
く見たてまつりなし侍まで、をくれたてまつり侍ぬる心のぬるさを、はづかし
く思たまへらるゝかな。身にとりては、事にもあるまじく思ふ給へ立ち侍お
りおりあるを、さらにいと忍びがたきこと多かりぬべきわざにこそ侍けれ」と、
慰めがたくおぼしたり。
 院も物心ぼそくおぼさるゝに、え心づよからず、うちしほたれ給ひつゝ、い

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にしへいまの御物語り、いとよはげに聞こえさせ給て、「けふかあすかとおぼ
え侍つゝ、さすがに程経ぬるを、うちたゆみて深き本意の端にても遂げずなり
なん事、と思起こしてなん。かくても残りの齢なくはをこなひの心ざしもか
なふまじけれど、まづかりにてものどめをきて、念仏をだにと思ひ侍る。はか
はかしからぬ身にても、世にながらふること、たゞこの心ざしにひきとゞめら
れたると思ふ給へ知られぬにしもあらぬを、いままで勤めなきをこたりをだに
やすからずなん」とて、おぼしをきてたるさまなどくはしくの給はするつゐで
に、「女御子たちを、あまたうち捨て侍なん心ぐるしき。中にも、又思譲る
人なきをば、とりわきうしろめたく見わづらひ侍」とて、まほにはあらぬ御け
しき、心ぐるしく見たてまつり給。
 御心のうちにも、さすがにゆかしき御ありさまなれば、おぼし過ぐしがたく
て、「げにたゞ人よりも、かゝる筋には、わたくしざまの御後見なきは、くち
おしげなるわざになん侍ける。春宮かくておはしませば、いとかしこき末の世
の儲の君と天の下の頼み所に仰ぎきこえさするを、ましてこの事と聞こえをか
せ給はんことは、一事としておろそかにかろめ申給べきに侍らねば、さらに

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行先のことおぼしなやむべきにも侍らねど、げに事限りあれば、おほやけと
なり給、世のまつりごと御心にかなふべしとはいひながら、女の御ために、何
ばかりのけざやかなる御心寄せあるべきにも侍らざりけり。すべて女の御ため
には、さまさままことの御後見とすべき物は、猶さるべき筋に契をかはし、え
避らぬことにはぐくみきこゆる御守り目侍なん、うしろやすかるべき事には
べるを、猶しひて後の世の御疑ひ残るべくは、よろしきにおぼし選ひて、忍び
てさるべき御預りを定めをかせ給べきになむはべなる」と奏し給。
 「さやうに思寄る事侍れど、それもかたき事になんありける。いにしへの
ためしを聞き侍にも、世をたもつ盛りの御子にだに、人を選ひて、さるさま
の事をそ給へるたぐひ多かりけり。ましてかく、いまはとこの世を離るゝ際に
て、ことことしく思べきにもあらねど、又しか捨つる中にも、捨てがたき事あ
りて、さまさまに思わづらひ侍ほどに、病はをもりゆく、又とり返すべきにも
あらぬ月日の過ぎゆけば、心あはたゝしくなむ。かたはらいたき譲りなれど、
このいはけなき内親王ひとり、とりわきてはぐくみおぼして、さるべきよすが
をも御心におぼし定めて預け給へと聞こえまほしきを、権中納言などのひとり

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ものしつる程、進み寄るべくこそありけれ、おほいまうち君に先ぜられて、ね
たくおぼえ侍」と聞こえ給。「中納言の朝臣のまめやかなる方はいとよく仕う
まつりぬべく侍を、何事もまだ浅くて、たより少なくこそ侍らめ。かたじけな
くとも深き心にて後見きこえさせ侍らむに、おはします御陰にかはりてはおぼ
されじを、たゞ行先短くて、仕うまつりさすことや侍らむと、疑はしき方の
みなん心ぐるしくはべるべき」とうけひき申給つ。
 夜に入りぬれば、あるじの院方も、客人の上達部たちも、みな御前にて、あ
るじのこと、精進物にて、うるはしからずなまめかしくせさせ給へり。院の御
前に、浅香の懸盤に御鉢など、むかしに変はりてまいるを、人〃涙おしのごひ
給。あはれなる筋の事どもあれど、うるさければ書かず。夜ふけて帰り給ふ。
禄どもつぎつぎにたまふ。別当大納言も御をくりにまいり給。あるじの院は、
けふの雪にいとゞ御風加はりて、かき乱りなやましくおぼさるれど、この宮
の御こと聞こえ定めつるを、心やすくおぼしけり。
 六条院は、なま心ぐるしうさまさまおぼし乱る。紫の上も、かゝる御定め
など、かねてもほの聞き給けれど、さしもあらじ、前斎院をも、ねんごろに

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聞こえ給やうなりしかど、わざとしもおぼし遂げずなりにしを、などおぼして、
さることやあるとも問ひきこえ給はず、何心もなくておはするに、いとおしく、
この事をいかにおぼさん、我心は露も変はるまじく、さることあらむにつけて
は、中中いとゞ深さこそまさらめ、見定め給はざらむほど、いかに思疑ひ
給はんなど、やすからずおぼさる。いまの年ごろとなりては、ましてかたみに
隔てきこえ給ことなく、あはれなる御仲なれば、しばし心に隔て残したる事あ
らむもいぶせきを、その夜はうちやすみて明かし給つ。
 又の日、雪うち降り、空のけしきも物あはれに、過ぎにし方行先の御物語
り聞こえかはし給。「院の頼もしげなくなり給にたる、御とぶらひにまいりて、
あはれなる事どものありつるかな。女三宮の御事を、いと捨てがたげにおぼ
して、しかしかなむのたまはせつけしかば、心ぐるしくて、え聞こえいなびず
なりにしを、ことことしくぞ人は言ひなさんかし。いまはさやうのこともうゐ
うゐしく、すさまじく思ひなりにたれば、人づてにけしきばませ給しには、と
かくのがれきこえしを、対面のついでに、心ふかきさまなる事どもをの給つゞ
けしには、えすくすくしくもかへさひ申さでなん。深き御山住みに移ろひ給は

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ん程にこそは、渡したてまつらめ。あぢきなくやおぼさるべき。いみじきこと
ありとも、御ため、あるより変はる事はさらにあるまじきを、心なをき給そよ。
かの御ためこそ心ぐるしからめ。それもかたはならずもてなしてむ。たれも
たれものどかにて過ぐし給はば」など聞こえ給。はかなき御すさびごとをだに、
めざましき物におぼして、心やすからぬ御心ざまなれば、いかゞおぼさんとお
ぼすに、いとつれなくて、「あはれなる御譲りにこそはあなれ。こゝにはいか
なる心ををきたてまつるべきにか。めざましく、かくてなど、とがめらるまじ
くは、心やすくてもはべなんを、かの母女御の御方ざまにても、うとからずお
ぼし数まへてむや」と卑下し給を、「あまりかううちとけ給御ゆるしも、いか
なればと、うしろめたくこそあれ。まことは、さだにおぼしゆるいて、われも
人も心得て、なだらかにもてなし過ぐし給はば、いよいよあはれになむ。ひが
言聞こえなどせん人の事、聞き入れ給な。すべて世の人の口といふ物なん、た
が言ひ出づる事ともなく、をのづから人の仲らひなど、うちほをゆがみ、思は
ずなる事出で来る物なるを、心ひとつにしづめて、ありさまに従ふなんよき。
まだきにさはぎて、あいなきものうらみし給な」と、いとよく教へきこえ給。

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 心のうちにも、かくそらより出で来にたるやうなる事にて、のがれ給がたき
を、にくげにも聞こえなさじ、我心に憚り給ひ、諫むることに従ひ給べき、を
のがどちの心より起これるけさうにもあらず、せかるべき方なきものから、お
こがましく思むすぼほるゝさま、世人に漏りきこえじ、式部卿宮の大北の方、
常にうけはしげなる事どもをの給出でつゝ、あぢきなき大将の御ことにてさ
へ、あやしくうらみそねみ給ふなるを、かやうに聞きて、いかにいちじるく
思あはせ給はん、など、おひらかなる人の御心といへど、いかでかはかばか
りの隈はなからむ、いまはさりともとのみ、我身を思ひ上がり、うらなくて、
過ぐしける世の、人笑へならん事を、下には思つゞけ給へど、いとおひらかに
のみもてなし給へり。
 年もかへりぬ。朱雀院には、姫宮、六条院に移ろひ給はん御いそぎをし給。
聞こえ給へる人人、いとくちおしくおぼし嘆く。内にも御心ばえありて聞こえ
給ける程に、かゝる御定めを聞こしめして、おぼしとまりにけり。さるは、
ことしぞ四十になり給ければ、御賀の事、おほやけにも聞こしめし過ぐさず、
世中の営みにて、かねてより響くを、事のわづらひ多くいかめしき事はむか

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しより好み給はぬ御心にて、みなかへさひ申給。
 正月廿三日、子の日なるに、左大将殿の北方、若菜まいり給。かねてけしき
も漏らし給はで、いといたく忍びておぼしまうけたりければ、にはかにて、え
諫めかへしきこえ給はず。忍びたれど、さばかりの御いきをひなれば、渡り
給御儀式など、いと響きことなり。
 南のおとゞの西の放出に御座よそふ。屏風、壁代よりはじめ、新しく払ひし
つらはれたり。うるはしく倚子などは立てず、御地敷四十枚、御しとね、けう
そくなど、すべてその御具ども、いときよらにせさせ給へり。螺鈿の御厨子二
よろひに、御衣箱四つ据へて、夏冬の御装束、香壷、薬の箱、御硯、ユスル坏、
掻上の箱などやうの物、うちうちきよらを尽くし給へり。御かざしの台には沈、
紫壇をつくり、めづらしき文目を尽くし、おなじき金をも色つかひなしたる、
心ばえありいまめかしく、かんの君、もののみやび深くかどめき給へる人にて、
見慣れぬさまにしなし給へる、大方の事をば、ことさらにことことしからぬ程
なり。
 人人まいりなどし給て、御座に出で給とて、かんの君に御対面あり。御心の

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うちには、いにしへおぼし出づる事どもさまさまなりけんかし。いと若くきよ
らにて、かく御賀などいふことは、ひが数へにやとおぼゆるさまの、なまめか
しく人の親げなくおはしますを、めづらしくて、年月隔てて見たてまつり給は、
いとはづかしけれど、猶けざやかなる隔てもなくて、御物語り聞こえかはし
給。幼き君もいとうつくしくてものし給。かむの君は「うちつゞきても御覧
ぜられし事」との給けるを、大将のかゝるついでにだに御覧ぜさせんとて、
二人おなじやうに、振り分け髪の何心なきなをし姿どもにておはす。「過ぐる
齢も身づからの心にはことに思とがめられず、たゞむかしながらの若若しき
ありさまにて、改むることもなきを、かゝる末末のもよをしになん、なまは
したなきまで思知らるゝおりも侍ける。中納言のいつしかとまうけたなるを、
ことことしく思ひ隔てて、まだ見せずかし。人よりことに数へとり給けるけふ
の子の日こそ、猶うれたけれ。しばしは老を忘れても侍べきを」と聞こえ給。
かんの君も、いとよくねびまさり、ものものしきけさへ添ひて、見るかひある
さまし給り。
  若葉さす野辺の小松を引きつれてもとの岩根をいのるけふかな

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とせめてをとなび聞こえ給。沈のおしき四つして、御若菜、さまばかりまいれ
り。御かはらけ取り給て、
  小松原末のよはひに引かれてや野辺の若菜も年をつむべき
など聞こえかはし給て、上達部あまた南の廂に着き給。
 式部卿宮はまいりにくゝおぼしけれど、御消息ありけるに、かく親しき御
仲らひにて、心あるやうならむも便なくて、日たけてぞ渡り給へる。大将の、
したり顔にて、かゝる御仲らひにうけばりてものし給も、げに心やましげなる
わざなめれど、御孫の君たちは、いづ方につけても、おり立ちてざうやくし
給。篭物四十枝、おり櫃物四十、中納言をはじめたてまつりて、さるべきか
ぎり、とりつゞき給へり。御かはらけ下り、若菜の御あつい物まいる。御前に
は、沈の懸盤四、御坏どもなつかしくいまめきたる程にせられたり。
 朱雀院の御薬の事猶平らぎはて給はぬにより、楽人などは召さず、御笛な
ど、おほきおとゞの、その方はとゝのへ給て、「世中に、この御賀より又めづ
らしくきよら尽くすべき事あらじ」との給て、すぐれたる音のかぎりを、かね
てよりおぼしまうけたりければ、忍びやかに御遊びあり。とりとりにたてまつ

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る中に、和琴は、かのおとゞの第一に秘し給ける御琴也。さる物の上手の、
心をとゞめて弾き馴らし給へる音、いと並びなきを、異人は掻きたてにくゝし
たまへば、衛門督のかたくいなぶるを責め給へば、げにいとおもしろく、おさ
おさをとるまじく弾く。何事も、上手の嗣といひながら、かくしもえ継がぬわ
ざぞかし、と心にくゝあはれに人人おぼす。調べに従ひて、跡ある手ども、定
まれる唐土の伝へどもは、中中尋ね知るべき方あらはなるを、心にまかせて、
たゞ掻き合はせたるすが掻きに、よろづの物の音とゝのへられたるは、妙にお
もしろく、あやしきまで響く。父おとゞは、琴の緒もいとゆるに張りて、いた
う下して調べ、響き多く合はせてぞ掻き鳴らし給。これは、いとわらゝかに上
る音の、なつかしくあい行づきたるを、いとかうしもは聞こえざりしを、と親
王たちもおどろき給。琴は兵部卿宮弾き給ふ。この御琴は、宜陽殿の御物
にて、代代に第一の名ありし御琴を、故院の末つ方、一品宮の好み給ことに
て、たまはり給へりけるを、このおりのきよらを尽くし給はんとするため、お
とゞの申給はり給へる御伝へ伝へをおぼすに、いとあはれに、むかしの事も
恋しくおぼし出でらる。親王もえい泣きえとゞめ給はず、御けしきとり給て、

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琴は御前に譲りきこえさせ給ふ。物のあはれにえ過ぐし給はで、めづらしき
物一つばかり弾き給に、ことことしからねど、限りなくおもしろき夜の御遊び
なり。唱歌の人〃御階に召して、すぐれたる声のかぎり出だして、返り声にな
る、夜のふけ行まゝに、物の調べどもなつかしく変はりて、青柳遊び給ほど、
げにねぐらの鴬おどろきぬべく、いみじくおもしろし。わたくしごとのさまに
しなし給て、禄などいときやうさくにまうけられたりけり。
 あか月に、かんの君帰り給。御をくり物などありけり。「かう世を捨つるや
うにて明かし暮らす程に、年月の行くゑも知らず顔なるを、かう数へ知らせ給
へるにつけては、心ぼそくなん。時時は、老ひやまさると見たまひくらべよ
かし。かく古めかしき身の所せさに、思ふに従ひて対面なきもいとくちおしく
なん」など聞こえ給て、あはれにもおかしくも、思出できこえ給ことなきに
しもあらねば、中中ほのかにて、かくいそぎ渡り給を、いと飽かずくちおし
くぞおぼされける。かむの君も、まことの親をばさるべき契ばかりに思きこえ
給て、ありがたくこまかなりし御心ばえを、年月に添へて、かく世に住みは
て給につけても、をろかならず思ひきこえ給けり。

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 かくてきさらぎの十余日に、朱雀院の姫宮、六条院へ渡り給。この院にも、
御心まうけ世の常ならず。若菜まいりし西の放出に、御丁立てて、そなたの
一二の対、渡殿かけて、女房の局局まで、こまかにしつらひ磨かせ給へり。
内にまいり給人のさほうをまねびて、かの院よりも御調度など運ばる。渡り
給儀式言へばさらなり。御をくりに、上達部などあまたまいり給。かの家司
望み給し大納言も、やすからず思ながらさぶらひ給。御車寄せたる所に、院渡
り給て、おろしたてまつり給なども、例にはたがひたる事ども也。たゞ人にお
はすれば、よろづの事限りありて、内まいりにも似ず、婿の大君と言はんにも
事たがひて、めづらしき御仲のあはひどもになん。
 三日がほど、かの院よりも、あるじの院方よりも、いかめしくめづらしきみ
やびを尽くし給。対の上も事にふれて、たゞにもおぼされぬ世のありさまなり。
げにかゝるにつけて、こよなく人にをとり消たるゝ事もあるまじけれど、又並
ぶ人なくならひ給て、はなやかに生ひ先とをく、あなづりにくきけはひにて移
ろひ給へるに、なまはしたなくおぼさるれど、つれなくのみもてなして御渡り
の程も、もろ心にはかなきこともし出で給て、いとらうたげなる御ありさまを、

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いとゞありがたしと思きこえ給。姫宮は、げにまだいとちいさくかたなりにお
はするうちにも、いといはけなきけしきして、ひたみちに若び給へり。かの
紫のゆかり尋ねとり給へりしおりおぼし出づるに、かれはされて言ふかひあ
りしを、これはいといはけなくのみ見え給へば、よかめり、にくげにをし立ち
たることなどはあるまじかめり、とおぼす物から、いとあまり物のはへなき御
さまかなと見たてまつり給。
 三日が程は夜離れなく渡り給を、年ごろさもならひ給はぬ心ちに、忍ぶれど
猶ものあはれなり。御衣どもなど、いよいよたきしめさせ給ものから、うち
ながめてものし給けしき、いみじくらうたげにおかし。などてよろづの事あり
とも、又人をば並べて見るべきぞ、あだあだしく心よはくなりをきにける我
をこたりに、かゝる事も出で来るぞかし、若けれど、中納言をばえおぼしかけ
ずなりぬめりしをと、われながらつらくおぼしつゞくるに、涙ぐまれて、「こ
よひばかりはことはりとゆるし給てんな。これよりのちのとだえあらむこそ、
身ながらも心づきなかるべけれ。またさりとて、かの院に聞こしめさんこと
よ」と、思ひ乱れ給へる御心のうちくるしげなり。すこしほゝえみて、「身づ

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からの御心ながらだにえ定め給まじかなるを、ましてことはりも何も。いづこ
にとまるべきにか」と、言ふかひなげにとりなし給へば、はづかしうさへおぼ
え給て、頬つえをつき給て、より臥し給へれば、女君、硯をひき寄せて、
  目に近く移ればかはる世の中を行すゑとをくたのみけるかな
古言など書きまぜ給を、取りて見給て、はかなき言なれど、げにとことはり
にて、
  命こそ絶ゆとも絶えめさだめなき世の常ならぬ中の契を
とみにもえ渡り給はぬを、「いとかたはらいたきわざかな」と、そゝのかしき
こえたまへば、なよゝかにおかしきほどに、えならず匂ひて渡り給を見出だし
給も、いとたゞにはあらずかし。
 年ごろ、さもやあらむと思しことどもも、いまはとのみもて離れ給つゝ、さ
らばかくこそはと、うちとけ行末に、ありありて、かく世の聞き耳もなのめ
ならぬ事の出で来ぬるよ、思定むべき世のありさまにもあらざりければ、い
まよりのちもうしろめたくぞおぼしなりぬる。さこそつれなくまぎらはし給へ
ど、さぶらふ人〃も、「思はずなる世なりや。あまたものし給やうなれど、い

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づ方もみな、こなたの御けはひには、かたさり憚るさまにて過ぐし給へばこそ、
事なくなだらかにもあれ、おし立ちてかばかりなるありさまに、消たれてもえ
過ぐし給まじ。又さりとて、はかなきことにつけてもやすからぬ事のあらむお
りお
り、かならずわづらはしきことども出で来なむかし」など、をのがじしう
ち語らひ嘆かしげなるを、つゆも見知らぬやうに、いとけはひおかしく物語り
などし給つゝ、夜ふくるまでおはす。
 かう人のたゞならず言ひ思たるも、聞きにくしとおぼして、「かくこれかれ
あまたものし給めれど、御心にかなひて、いまめかしくすぐれたる際にもあら
ずと、目馴れてさうさうしくおぼしたりつるに、この宮のかく渡り給へるこそ
めやすけれ。猶童心の失せぬにやあらむ、我もむつびて、きこえてあらまほ
しきを、あいなく隔てあるさまに人人やとりなさむとすらん。ひとしき程をと
りざまなど思ふ人にこそ、たゞならず耳たつこともをのづから出で来るわざな
れ、かたじけなく心ぐるしき御ことなめれば、いかで心をかれたてまつらじと
なむ思」などの給へば、中務、中将の君などやうの人人、目をくはせつゝ、
「あまりなる御思やりかな」など言ふべし。むかしはたゞならぬさまに使ひ

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馴らし給し人どもなれど、年ごろはこの御方にさぶらひて、みな心寄せきこえ
たるなめり。異御方方よりも、「いかにおぼすらむ。もとより思離れたる
人人は、中中心やすきを」など、おもむけつゝとぶらひきこえ給もあるを、
かくおしはかる人こそなかなか苦しけれ、世中もいと常なきものを、などてか
さのみは思なやまむ、などおぼす。
 あまり久しきよひ居も例ならず、人やとがめんと心の鬼におぼして、入給ぬ
れば、御衾まいりぬれど、げにかたはらさびしき夜な夜な経にけるも、猶たゞ
ならぬ心地すれど、かの須磨の御別れのおりなどをおぼし出づれば、いまはと
かけ離れ給ても、たゞおなじ世のうちに聞きたてまつらましかばと、我身まで
のことはうちをき、あたらしくかなしかりしありさまぞかし、さてそのまぎれ
に我も人も命たえずなりなましかば、言ふかひあらまし世かな、とおぼしなを
す。風うち吹たる夜のけはひ冷やかにて、ふとも寝入られ給はぬを、近くさぶ
らふ人人あやしとや聞かむと、うちもみじろき給はぬも、猶いと苦しげなり。
夜深き鳥の声の聞こえたるも、ものあはれなり。
 わざとつらしとにはあらねど、かやうに思乱れ給ふけにや、かの御夢に見

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え給ければ、うちおどろき給て、いかにと心さはがし給に、鳥の音待ち出で給
へれば、夜深きも知らず顔にいそぎ出で給。いといはけなき御ありさまなれば、
乳母たち近くさぶらひけり。妻戸押しあけて出で給を、見たてまつりをくる。
明けぐれの空に、雪の光見えておぼつかなし。なごりまでとまれる御匂ひ、
「闇はあやなし」とひとりごたる。
 雪は、所所消え残りたるが、いと白き庭の、ふとけぢめ見えわかれぬほど
なるに、「なを残れる雪」としのびやかに口ずさみ給つゝ、御格子うち叩き給
も、久しくかゝることなかりつるならひに、人人も空寝をしつゝ、やゝ待たせ
たてまつりてひき上げたり。「こよなく久しかりつるに、身も冷えにけるは。
をぢきこゆる心のをろかならぬにこそあめれ。さるは、罪もなしや」とて、御
衣ひきやりなどし給に、すこし濡れたる御単衣の袖をひき隠して、うらもなく
なつかしき物から、うちとけてはたあらぬ御用意など、いとはづかしげにおか
し。限りなき人と聞こゆれど、かたかめる世を、とおぼしくらべらる。
 よろづいにしへのことをおぼし出でつゝ、とけがたき御けしきをうらみきこ
え給て、その日は暮らし給へれば、え渡りたまはで、寝殿には御消息を聞こ

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え給。
  けさの雪に心ちあやまりて、いとなやましく侍れば、心やすき方にためら
  ひ侍。
とあり。御乳母、「さ聞こえさせ侍ぬ」とばかり、言葉に聞こえたり。ことな
る事なの御返や、とおぼす。院に聞こしめさんこともいとをし、このころば
かりつくろはん、とおぼせど、えさもあらぬを、さは思し事ぞかし、あな苦し、
と身づから思ひつゞけ給。女君も、思やりなき御心かな、と苦しがり給。
 けさは、例のやうに大殿篭り起きさせ給て、宮の御方に御文たてまつれ給。
ことにはづかしげもなき御さまなれど、御筆などひきつくろひて、白き紙に、
  中道をへだつるほどはなけれども心みだるゝけさのあわ雪
梅につけ給へり。人召して、「西の渡殿よりたてまつらせよ」との給。やがて
見出だして、端近くおはします。白き御衣どもを着給て、花をまさぐり給
つゝ、友待つ雪のほのかに残れる上に、うち散りそふ空をながめ給へり。鴬の
若やかに、近き紅梅の末にうち鳴きたるを、「袖こそ匂へ」と花をひき隠して、
御簾おし上げてながめ給へるさま、夢にもかゝる人の親にてをもき位と見え給

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はず。若うなまめかしき御さまなり。
 御返り、すこし程経る心ちすれば、入り給て、女君に花見せたてまつり給。
「花と言はば、かくこそ匂はまほしけれな。桜に移しては、又塵ばかりも心分
くる方なくやあらまし」などの給。「これも、あまた移ろはぬほど、目とまる
にやあらむ。花の盛りに並べて見ばや」などの給に、御返あり。紅の薄様に
あざやかにをし包まれたるを、胸つぶれて、御手のいと若きを、しばし見せた
てまつらであらばや、隔つとはなけれど、あはあはしきやうならんは、人のほ
どかたじけなし、とおぼすに、ひき隠し給はんも、心をき給べければ、片そば
広げ給へるを、しり目に見をこせて添ひ臥し給へり。
  はかなくてうはの空にぞ消えぬべき風にたゞよふ春のあわ雪
御手、げにいと若く幼げなり。さばかりの程になりぬる人は、いとかくはをは
せぬ物をと、目とまれど、見ぬやうにまぎらはしてやみ給ぬ。異人の上ならば、
さこそあれなどは忍びて聞こえ給べけれど、いとおしくて、たゞ、「心やすく
を思なし給へ」とのみ聞こえ給。
 けふは、宮の御方に昼渡り給。心ことにうちけさうじ給へる御ありさま、今

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見たてまつる女房などは、まして見るかひありと思きこゆらむかし。御乳母な
どやうの老いしらへる人人ぞ、いでや、この御ありさま一所こそめでたけれ、
めざましきことはありなむかし、とうちまぜて思ふもありける。
 女宮は、いとらうたげにおさなきさまにて、御しつらひなどのことことしく
よだけくうるはしきに、身づからは何心もなくものはかなき御程にて、いと御
衣がちに、身もなくあえかなり。ことにはぢなどもし給はず、たゞ児の面ぎら
ひせぬ心ちして、心やすくうつくしきさまし給へり。院のみかどは、をゝしく
すくよかなる方の御才などこそ、心もとなくおはします、と世人思ためれ、
をかしき筋に、なまめきゆへゆへしき方は、人にまさり給へるを、などてかく
おひらかに生ほし立て給ひけん、さるは、いと御心とゞめ給へる御子と聞きし
を、と思もなまくちおしけれど、にくからず見たてまつり給。たゞ聞こえ給ふ
まゝに、なよなよとなびき給て、御いらへなどをも、おぼえ給けることは、い
はけなくうちの給出でて、え見放たず見え給。
 むかしの心ならましかば、うたて心をとりせましを、いまは世中をみなさま
さまに思なだらめて、とあるもかゝるも、際離るゝことはかたき物なりけり、

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とりとりにこそ多うはありけれ、よその思ひはいとあらまほしき程なりかし、
とおぼすに、さし並び目離れず見たてまつり給へる年ごろよりも、対の上の御
ありさまぞなをありがたく、われながらも生ほし立てけり、とおぼす。一夜の
ほど、あしたの間も恋しくおぼつかなく、いとゞしき御心ざしのまさるを、な
どかくおぼゆらんとゆゝしきまでなむ。
 院のみかどは、月のうちに御寺に移ろひ給ぬ。この院に、あはれなる御消息
ども聞こえ給。姫宮の御ことはさらなり、わづらはしく、いかに聞く所やなど、
憚り給ことなくて、ともかくも、たゞ御心にかけてもてなし給べくぞ、たび
たび聞こえ給ける。されど、あはれにうしろめたく、幼くおはするを思きこえ
給けり。
 紫の上にも、御消息ことにあり。
  幼き人の、心ちなきさまにて移ろひものすらむを、罪なくおぼしゆるして、
  後見たまへ。尋ね給べきゆへもあらむとぞ。
   背きにしこの世にのこる心こそ入る山道のほだしなりけれ
  闇をえ晴るけで聞こゆるも、おこがましくや。

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とあり。おとゞも見給て、「あはれなる御消息を。かしこまりきこえ給へ」と
て、御使にも、女房して、かはらけさし出でさせ給て、しゐさせ給。御返りは
いかゞなど、聞こえにくゝおぼしたれど、ことことしくおもしろかるべきおり
のことならねば、たゞ心をのべて、
  背く世のうしろめたくはさりがたきほだしをしゐてかけなはなれそ
などやうにぞあめりし。女は装束に、細長添へてかづけ給。御手などのいとめ
でたきを、院御覧じて、何事もいとはづかしげなめるあたりに、いはけなくて
見え給らむ事、いと心ぐるしうおぼしたり。
 いまはとて、女御、更衣たちなど、をのがじし別れ給ふも、あはれなること
なむ多かりける。内侍のかむの君は、故后の宮のおはしましし二条の宮にぞ住
み給。姫宮の御ことををきては、この御ことをなむかへりみがちにみかどもお
ぼしたりける。尼になりなんとおぼしたれど、かゝるきほひには、慕ふやうに
心あはたたし、と諫め給て、やうやう仏の御ことなどいそがせ給。
 六条のおとゞは、あはれに飽かずのみおぼしてやみにし御あたりなれば、年
ごろも忘れがたく、いかならむおりに対面あらむ、いま一たびあひ見て、その

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世のことも聞こえまほしくのみおぼしわたるを、かたみに世の聞き耳も憚り
給べき身のほどに、いとおしげなりし世のさはぎなどもおぼし出でらるれば、
よろづにつゝみ過ぐし給けるを、かうのどやかになり給て、世中を思ひしづま
り給らむころほいの御ありさま、いよいよゆかしく心もとなければ、あるまじ
き事とはおぼしながら、大方の御とぶらひにことつけて、あはれなるさまに常
に聞こえ給。若若しかるべき御あはひならねば、御返りも時時につけて聞
こえかはし給ふ。むかしよりもこよなくうち具し、とゝのひはてにたる御けは
ひを見給にも、猶忍びがたくて、むかしの中納言の君のもとにも、心ふかき
事どもを常にの給ふ。
 かの人のせうとなる和泉の前の守を召し寄せて、若若しくいにしへに返り
て語らひ給。「人づてならで、物越しに聞こえ知らすべきことなんある。さり
ぬべく聞こえなびかして、いみじく忍びてまいらむ。いまはさやうのありきも
ところせき身の程に、おぼろけならず忍ぶれば、そこにも又人には漏らし給は
じと思ふに、かたみに心やすくなん」などの給。
 かむの君、いでや、世の中を思知るにつけても、むかしよりつらき御心を、

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こゝら思つめつる年ごろのはてに、あはれにかなしき御ことをさしをきて、い
かなるむかし語りをか聞こえむ、げに人は漏り聞かぬやうありとも、心の問は
んこそいとはづかしかるべけれ、とうち嘆き給つゝ、なをさらにあるまじきよ
しをのみ聞こゆ。
 いにしへ、わりなかりし世にだに、心かはし給はぬ事にもあらざりしを、げ
に背き給ぬる御ため、うしろめたきやうにはあれど、あらざりし事にもあらね
ば、いましもけざやかにきよまはりて、立ちにし我名、いまさらにとりかへし
給べきにや、とおぼしをこして、この信太の森を道のしるべにてまうで給。
 女君には、「東の院にものする常陸の君の、日ごろわづらひて久しくなりに
けるを、物さはがしきまぎれにとぶらはねば、いとおしくてなん。昼などけざ
やかに渡らむも便なきを、夜の間に忍びてとなん思侍る。人にもかくとも知
らせじ」と聞こえ給て、いといたく心げさうし給を、例はさしも見え給はぬあ
たりを、あやしと見給て、思合はせ給事もあれど、姫宮の御ことののちは、
何ごともいと過ぎぬる方のやうにはあらず、すこし隔つる心添ひて、見知らぬ
やうにておはす。

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 その日は、寝殿へも渡り給はで、御文書きかはし給。たき物などに心を入れ
て暮らし給ふ。宵過ぐして、むつましき人のかぎり四五人ばかり、網代車のむ
かしおぼえてやつれたるにて出で給。和泉の守して、御消息聞こえ給。かく渡
りおはしましたるよし、さゝめききこゆれば、おどろき給て、「あやしく、い
かやうに聞こえたるにか」とむつかり給へど、「おかしやかにて、帰したてま
つらむに、いと便なう侍らむ」とて、あながちに思めぐらして、入れたてまつ
る。御とぶらひなど聞こえ給て、「たゞこゝもとに。物越しにても。さらにむ
かしのあるまじき心などは、残らずなりにけるを」と、わりなく聞こえたまへ
ば、いたく嘆く嘆くゐざり出で給へり。さればよ、猶け近さは、とかつおぼさ
る。かたみにおぼろけならぬ御みじろきなれば、あはれも少なからず。東の対
なりけり。辰巳の方の廂に据ゑたてまつりて、御障子のしりは固めたれば、
「いと若やかなる心ちもするかな。年月の積りをも、まぎれなく数へらるゝ
心ならひに、かくおぼめかしきはいみじうつらくこそ」と、うらみきこえ給。
 夜いたくふけ行。玉藻に遊ぶ鴛鴦の声声など、あはれに聞こえて、しめ
しめと人目すくなき宮のうちのありさまも、さも移り行世哉、とおぼしつゞく

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るに、平中がまねならねど、まことに涙もろになん。むかしに変はりておとな
おとなしくは聞こえ給ものから、これをかくてやとひき動かしたまふ。
  年月を中にへだてて逢坂のさもせきがたく落つる涙か
女、
  涙のみせきとめがたき清水にて行あふ道ははやく絶えにき
などかけ離れきこえ給へど、いにしへをおぼし出づるも、たれにより多うはさ
るいみじきこともありし世のさはぎぞは、と思出で給に、げにいま一たびの
対面はありもすべかりけり、とおぼしよはるも、もとよりづしやかなる所はお
はせざりし人の、年ごろは、さまさまに世中を思知り、来し方をくやしく、
公私の事に触れつゝ、数もなくおぼし集めて、いといたく過ぐし給にたれ
ど、むかしおぼえたる御対面に、その世の事もとをからぬ心地して、え心づよ
くももてなし給はず。なをらうらうじく若うなつかしくて、一方ならぬ世のつ
ゝましさをもあはれをも思乱れて、嘆きがちにてものし給けしきなど、いま
はじめたらむよりもめづらしくあはれにて、あけ行もいとくちおしくて、出で
たまはん空もなし。

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 朝ぼらけのたゞならぬ空に、百千鳥の声もいとうらゝかなり。花はみな散り
すきて、なごりかすめる梢の浅緑なる木立、むかし藤の宴し給し、このころの
事なりけんかしとおぼし出づる、年月の積りにけるほども、そのおりの事かき
つゞけあはれにおぼさる。中納言の君、見たてまつりをくるとて、妻戸押しあ
けたるに、たち返り給て、「この藤よ、いかに染めけむ色にか。なをえならぬ
心添ふにほひにこそ。いかでかこの陰をばたち離るべき」と、わりなく出でが
てにおぼしやすらひたり。山際よりさし出づる日のはなやかなるにさしあひ、
目もかゝやく心ちする御さまの、こよなくねび加はり給へる御けはひなどを、
めづらしくほど経ても見たてまつるは、まして世の常ならずおぼゆれば、さる
方にてもなどか見たてまつり過ぐし給はざらむ、御宮仕へにも限りありて、際
ことに離れ給事もなかりしを、故宮のよろづに心を尽くしたまひ、よからぬ
世のさはぎに、かるかるしき御名さへ響きてやみにしよ、など思出でらる。
なごり多く残りぬらん御物語りのとぢめは、げに残りあらせまほしきわざなめ
るを、御身を心にえまかせ給まじく、こゝらの人目もいとおそろしくつゝまし
ければ、やうやうさし上がり行に心あはたゝしくて、廊の戸に御車さし寄せた

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る人人も、忍びてこはづくりきこゆ。
 人召して、かの咲きかゝりたる花、一枝おらせ給へり。
  沈みしも忘れぬものをこりずまに身もなげつべきやどの藤なみ
いといたくおぼしわづらひてより居給へるを、心ぐるしう見たてまつる。女君
も、いまさらにいとつゝましく、さまさまに思乱れ給へるに、花の陰は猶な
つかしくて、
 身を投げんふちもまことのふちならでかけじやさらにこりずまの浪
いと若やかなる御ふるまひを、心ながらもゆるさぬことにおぼしながら、関守
の固からぬたゆみにや、いとよく語らひをきて出で給。そのかみも、人よりこ
よなく心とゞめて思ふ給へりし御心ざしながら、はつかにてやみにし御仲らひ
には、いかでかはあはれも少なからむ。
 いみじく忍び入り給へる御寝くたれのさまを待ちうけて、女君、さばかりな
らむと心得給へれど、おぼめかしくもてなしておはす。中中うちふすべなど
し給へらむよりも心ぐるしく、などかくしも見放ち給つらむとおぼさるれば、
ありしよりけに深き契をのみ、長き世をかけて聞こえ給。かんの君の御事、又

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漏らすべきならねど、いにしへのことも知り給へれば、まほにはあらねど、
「物越しに、はつかなりつる対面なん、残りある心ちする。いかで人目とがめ
あるまじくもて隠して、いま一たびも」と語らひきこえ給。うち笑ひて、「い
まめかしくもなりかへる御ありさまかな。むかしをいまに改め加へ給ほど、中
空なる身のため苦しく」とて、さすがに涙ぐみ給へるまみの、いとらうたげに
見ゆるに、「かう心やすからぬ御けしきこそ苦しけれ。たゞおひらかにひきつ
みなどして教へ給へ。隔てあるべくもならはしきこえぬを、思はずにこそなり
にける御心なれ」とて、よろづに御心とり給程に、何事もえ残し給はずなり
ぬめり。宮の御方にも、とみにえ渡りたまはず、こしらへきこえつゝおはしま
す。
 姫宮は何ともおぼしたらぬを、御後見どもぞやすからず聞こえける。わづら

しうなど見え給けしきならば、そなたもまして心ぐるしかるべきを、おいら
かにうつくしきもてあそびぐさに思きこえ給へり。
 桐壷の御方は、うちはええまかでたまはず。御暇のありがたければ、心やす
くならひ給へる若き御心に、いとくるしくのみおぼしたり。夏ごろなやましく

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し給を、とみにもゆるしきこえたまはねば、いとわりなしとおぼす。めづらし
きさまの御こゝちにぞありける。まだいとあえかなる御ほどに、いとゆゝしく
ぞたれもたれもおぼすらむかし。からうしてまかで給へり。姫宮のおはしますお
とゞの東面に、御方はしつらひたり。明石に御方、いまは御身に添ひて出で
入り給も、あらまほしき御宿世なりかし。
 対の上、こなたに渡りて、対面し給ついでに、「姫宮にも、中の戸あけて聞
こえん。かねてよりもさやうに思しかど、ついでなきにはつゝましきを、かゝ
るおりに聞こえ馴れなば、心やすくなんあるべき」と、おとどに聞こえ給へば、
うち笑みて、「思やうなるべき御語らひにこそはあなれ。いと幼げにものし
給めるを、うしろやすく教へなし給へかし」とゆるしきこえ給。宮よりも、
明石の君のはづかしげにてまじらむをおぼせば、御髪すまし、ひきつくろひて
おはする、たぐひあらじと見え給へり。
 おとゞは、宮の御方に渡り給て、「夕方、かの対に侍人の、淑景舎に対面せ
んとて出で立つ、そのついでに、近づききこえさせまほしげに物すめるを、ゆ
るして語らひ給へ。心などはいとよき人なり。まだ若若しくて、御遊びがた

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きにもつきなからずなん」など聞こえ給。「はづかしうこそはあらめ。何ごと
をか聞こえん」とおひらかにの給。「人のいらへは、事にしたがひてこそはお
ぼし出でめ。隔てをきてもてなし給そ」と、こまかに教へきこえ給。御仲うる
はしくて過ぐし給へとおぼす。あまりに何心もなき御ありさまを見あらはされ
んも、はづかしくおぢきなけれど、さのたまはんを、心隔てんもあいなしとお
ぼすなりけり。
 対には、かく出で立ちなどし給ものから、われより上の人やはあるべき、身
のほどなるものはかなきさまを、見えをきたてまつりたるばかりこそあらめ、
など思つゞけられて、うちながめ給。手習などするにも、をのづから古ことも、
もの思はしき筋にのみ書かるゝを、さらば我身には思ふことありけり、と身な
がらぞおぼし知らるゝ。
 院、渡り給て、宮、女御の君などの御さまどもを、うつくしうもおはするか
なと、さまさま見たてまつり給へる御目移しには、年ごろ目馴れ給へる人のお
ぼろけならむが、いとかくおどろかるべきにもあらぬを、猶たぐひなくこそは
と見給、ありがたき事なりかし。あるべきかぎりけ高うはづかしげにとゝの

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ひたるに添ひて、はなやかにいまめかしく、にほひなまめきたるさまさまのか
ほりもとりあつめ、めでたき盛りに見え給ふ。こぞよりことしはまさり、きの
ふよりけふはめづらしく、常に目馴れぬさまのし給へるを、いかでかくしもあ
りけんとおぼす。
 うちとけたりつる御手習を硯の下にさし入れ給へれど、見つけ給ひて、ひき
返し見給。手などのいとわざとも上手と見えで、らうらうじくうつくしげに
書き給へり。
  身に近く秋やきぬらん見るまゝに青葉の山もうつろひにけり
とある所に目とゞめ給て、
  水鳥の青葉は色もかはらぬを萩の下こそけしきことなれ
など書き添へつゝすさび給。事にふれて、心ぐるしき御けしきの、下にはをの
づから漏りつゝ見ゆるを、事なく消ち給へるもありがたく、あはれにおぼさる。
 こよひはいづ方にも御暇ありぬべければ、かの忍び所に、いとわりなくて出
で給にけり。いとあるまじきことと、いみじくおぼし返すにもかなはざりけり。
 東宮の御方は、実の母君よりも、この御方をばむつましき物に頼みきこえ給

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へり。いとうつくしげにをとなびまさり給へるを、思隔てずかなしと見たて
まつり給。御もの語りなどいとなつかしく聞こえかはし給て、中の戸あけて、
宮にも対面し給へり。
 いと幼げにのみ見え給へば、心やすくて、おとなおとなしく親めきたるさまに、
むかしの御筋をも尋ねきこえ給ふ。中納言の乳母といふ召し出でて、「おなじ
かざしを尋ねきこゆれば、かたじけなけれど、分かぬさまに聞こえさすれど、
ついでなくて侍つるを、いまよりはうとからず、あなたなどにもものし給て、
をこたらむことはおどろかしなどもものし給はんなん、うれしかるべき」など
のたまへば、「頼もしき御陰どもに、さまさまにをくれきこえ給て、心ぼそげ
におはしますめるを、かゝる御ゆるしのはべめれば、ますことなくなん思ふ給
へられける。背き給にし上の御心むけも、たゞかくなん御心隔てきこえ給はず、
まだいはけなき御ありさまをもはぐくみたてまつらせ給べくぞはべめりし。う
ちうちにもさなん頼みきこえさせ給し」など聞こゆ。「いとかたじけなかりし
御消息ののちは、いかでとのみ思侍れど、何事につけても、数ならぬ身なむ
くちおしかりける」と、やすらかにをとなびたるけはひにて、宮にも御心につ

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き給べく、絵などの事、ひいなの捨てがたきさま、若やかに聞こえ給へば、げ
にいと若く心よげなる人かなと、幼き御心ちにはうちとけ給へり。
 さてのちは、常に御文通ひなどして、おかしき遊びわざなどにつけても、う
とからず聞こえかはし給。世の中の人も、あいなう、かばかりになりぬるあた
りの事は、言ひあつかふものなれば、はじめつ方は、「対の上いかにおぼすら
む。御おぼえ、いとこの年ごろのやうにはおはせじ。すこしはをとりなん」な
ど言ひけるを、いますこし深き御心ざし、かくてしもまさるさまなるを、それ
につけても、又やすからず言ふ人人あるに、かくにくげなくさへ聞こえかはし
給へば、事なをりてめやすくなむありける。
 神無月に、対の上、院の御賀に、嵯峨野の御堂にて、薬師仏供養じたてま
つり給。いかめしきことは、切に諫め申給へば、忍びやかにとおぼしをきて
たり。仏、経箱、帙簀のとゝのへ、まことの極楽思やらる。最勝王経、金剛
般若、寿命経など、いとゆたけき御祈りなり。上達部いと多くまいり給へり。
御堂のさまおもしろく言はむ方なく、紅葉の陰分け行野辺のほどよりはじめて
見物なるに、かたへはきほひ集まり給なるべし。霜枯れわたれる野原のまゝに、
 
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馬車の行ちがふをとしげく響きたり。御誦経、われもわれもと御方方いかめし
くせさせ給ふ。
 廿三日を御としみの日にて、この院は、かく隙間なくつどひ給へるうちに、
我御私の殿とおぼす二条院にて、その御まうけせさせ給。御装束をはじめ、
大方の御事どもも、みなこなたにのみし給。御方方も、さるべき事ども分け
つゝのぞみ仕うまつり給。対どもは、人の局局にしたるを払ひて、殿上人、
諸大夫、院司、下人までのまうけ、いかめしくせさせ給へり。寝殿の放出を例
のしつらひにて、螺鈿の倚子立てたり。おとゞの西の間に、御衣のつくゑ十二
立てて、夏冬の御装ひ、御衾など例のごとく、紫の綾のおほいども、うるはし
く見えわたりて、うちの心はあらはならず。御前にをきものの机二つ、唐の
地の裾濃のおほゐしたり。かざしの台は沈の花足、黄金の鳥、銀の枝にゐたる
心ばえなど、淑景舎の御預りにて、明石の御方のせさせ給へる、ゆへ深く心こ
となり。うしろの御屏風四帖は、式部卿宮なむせさせ給ける、いみじく尽くし
て、例の四季の絵なれど、めづらしき山水、潭など、目馴れずおもしろし。北
の壁に添へてをき物の御厨子二よろひ立てて、御調度ども例のことなり。南の

P263
廂に上達部、左右の大臣、式部卿宮をはじめたてまつりて、次次は、まして
まいり給はぬ人なし。舞台の左右に、楽人の平張打ちて、西東に屯食八十具、
禄の唐櫃四十つらつゞけて立てたり。
 未の時ばかりに楽人まいる。万歳楽、皇ジヤウなど舞いて、日暮れかゝるほどに、
高麗の乱声して、落蹲舞い出でたるほど、猶常の目馴れぬ舞のさまなれば、
舞ひはつる程に、権中納言、衛門督下りて、入綾をほのかに舞ひて、紅葉の
陰に入ぬるなごり、飽かずけうありと人人おぼしたり。いにしへの朱雀院の行
幸に、青海波のいみじかりし夕べ、思出で給人人は、権中納言、衛門督、又
おとらず立ちつゞき給にける、世ゝのおぼえ、有さま、かたち、用意などもお
さおさをとらず、官位はやゝ進みてさへこそなど、齢の程をもかぞへて、なを
さるべきにて、むかしよりかく立ちつゞきたる御仲らひなりけり、とめでたく
思ふ。あるじの院も、あはれに涙ぐましく、おぼし出でらるゝ事ども多かり。
 夜に入りて、楽人どもまかり出づ。北の政所の別当ども、人人ひきいて、禄
の唐櫃に寄りて、一づつ取りて、次次たまふ。白き物どもを、品品かづきて、
山際より池の堤過ぐるほどのよそ目は、千歳をかねてあそぶ鶴の毛衣に思まが

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へらる。御遊びはじまりて、又いとおもしろし。御琴どもは、春宮よりぞとゝ
のへさせ給ける。朱雀院より渡りまいれる琵琶、琴、内よりたまはり給へる箏
の御琴など、みなむかしおぼえたる物の音どもにて、めづらしく掻き合はせ給
へるに、何のおりにも過ぎにし方の御ありさま、内わたりなどおぼし出でらる。
故入道の宮おはせましかば、かゝる御賀など、われこそ進み仕うまつらましか、
何事につけてかは心ざしも見えたてまつりけん、と飽かずくちおしくのみ思
出できこえ給ふ。
 内にも、故宮のおはしまさぬことを、何ごとにもはえなくさうさうしくおぼ
さるゝに、この院の御ことをだに、例のあとあるさまのかしこまりを尽くして
も、え見せたてまつらぬを、世とともに飽かぬ心地し給も、ことしは此御賀に
ことつけて、行楽などもあるべくおぼしをきてけれど、「世中のわづらひなら
むこと、さらにせさせ給まじくなん」と、いなび申給ことたびたびになりぬ
れば、くちおしくおぼしとまりぬ。
 しはすの廿日あまりの程に、中宮まかでさせ給て、ことしの残りの御祈りに、
奈良の京の七大寺に、御ず行の布四千反、この近き都の四十寺に、絹四百疋を

P265
分かちてせさせ給。ありがたき御はぐくみをおぼし知りながら、何事につけて
かは深き御心ざしをもあらはし御覧ぜさせ給はんとて、父宮、母御息所のおは
せまし御ための心ざしをもとり添へおぼすに、かくあながちにおほやけにも聞
こえ返させ給へば、事ども多くとゞめさせ給つ。「四十の賀といふことは、さ
きさきを聞き侍にも、残りの齢久しきためしなん少なかりけるを、このたび
は猶世の響きとゞめさせ給て、まことに後に足らん事を数へさせ給へ」とあり
けれど、おほやけざまにて、猶いといかめしくなんありける。
 宮のおはします町の寝殿に御しつらひなどして、さきさきに事変はらず、
上達部の禄など、大饗になずらへて、御子たちにはことに女の装束、非参議の
四位、まうちきんだちなどたゞの殿上人には白き細長一かさね、腰差などまで、
次次に給ふ。装束限りなくきよらを尽くして、名高き帯、御佩刀など、故前
坊の御方ざまにて、伝はりまいりたるも、又あはれになん。古き世の一の物と
名あるかぎりは、みなつどひまいる御賀になんあめる。昔物語にも、物得させ
たるをかしこきことには数へつゞけためれど、いとうるさくて、こちたき御仲
らひのことどもは、えぞ数へあえはべらぬや。

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 内には、おぼしそめてしことどもを、むげにやはとて、中納言にぞつけさせ
給てける。そのころの右大将、やまゐして辞し給けるを、この中納言に、御
賀の程、よろこび加へんとおぼしめして、にはかになさせ給つ。院もよろこび
聞こえさせ給ふものから、「いとかくにはかに、あまるよろこびをなむ、いち
はやき心ちし侍」と卑下し申給。丑寅の町に御しつらひまうけ給て、隠ろへ
たるやうにしなし給へれど、けふは、なをはた、ことに儀式まさりて、所〃の
饗なども、内蔵寮、穀倉院より仕うまつらせ給へり。屯食など、おほやけざま
にて、頭中将宣旨うけ給て、親王たち五人、左右おとゞ、大納言二人、
中納言三人、宰相五人、殿上人は、例の内、東宮、院、残る少なし。御座、御
調度どもなどは、おほきおとゞくはしくうけ給はりて、仕うまつらせ給へり。
けふは、仰せ事ありて、渡りまいり給へり。院も、いとかしこくおどろき申
給て、御座につき給ぬ。母屋の御座に向かへて、おとゞの御座あり。いとき
よらにものものしくふとりて、このおとゞぞいま盛りの宿徳とは見え給へる。
あるじの院は、猶いと若き源氏の君に見え給。御屏風四帖に、内の御手書か
せ給へる、唐の綾の薄?に、下絵のさまなどをろかならむやは。おもしろき春

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秋のつくり絵などよりも、この御屏風の墨つきのかゝやくさまは目もをよばず、
思なしさへめでたくなむありける。をきものの御厨子、弾き物、吹き物など、
蔵人所よりたまはり給へり。大将の御いきをひもいといかめしくなりたまひに
たれば、うち添へて、けふのさほういとことなり。御馬四十疋、左右の馬寮、
六衛府の官人、上より次次に牽きとゝのふるほど、日暮れはてぬ。
 例の万歳楽、賀王恩などいふ舞、けしきばかり舞ひて、おとゞの渡り給へ
るに、めづらしくもてはやし給へる御遊びに、みな人心を入れ給へり。琵琶は、
例の兵部卿宮、何ごとにも世にかたき物の上手におはして、いと二なし。御
前に琴の御琴、おとゞ和琴弾き給。年ごろ添ひ給にける御耳の聞きなしにや、
いと優にあはれにおぼさるれば、琴も御手おさおさ隠したまはず、いみじき音
ども出づ。むかしの御もの語りどもなど出で来て、いまはた、かゝる御仲らひ
に、いづ方につけても聞こえ通ひ給べき御むつびなど、心よく聞こえ給て、御
酒あまたたびまいりて、物のおもしろさもとゞこほりなく、御酔い泣きどもえ
とゞめ給はず。
 御をくり物に、すぐれたる和琴一つ、好み給高麗笛添へて、紫檀の箱一よ

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ろひに、唐の本どもこゝの草の本など入れて、御車にをひてたてまつれ給。御
馬ども迎へとりて、右つかさども、高麗の楽してのゝしる。六衛府の官人の禄
ども、大将給ふ。御心とそぎ給て、いかめしきことどもは、このたびとどめ給
へれど、内、東宮、一院、后の宮、次次の御ゆかりいつくしきほど、言ひ知ら
ず見えにたることなれば、猶かゝるおりにはめでたくなんおぼえける。
 大将のたゞ一ところおはするをさうさうしくはえなき心ちせしかど、あまた
の人にすぐれ、おぼえことに、人がらもかたはらなきやうにものし給にも、か
の母北の方の、伊勢の宮す所とのうらみ深く、いどみかはし給けんほどの御宿
世どもの行末見えたるなむ、さまさまなりける。
 その日の御装束どもなど、こなたの上なむし給ける。禄ども、大方の事をぞ、
三条の北の方はいそぎ給めりし。おりふしにつけたる御いとなみ、うちうちの
物のきよらをも、こなたにはたゞよその事にのみ聞きわたり給を、何事につけ
てかは、かゝるものものしき数にもまじらひ給はましとおぼえたるを、大将の
君の御ゆかりに、いとよく数まへられ給へり。
 年かへりぬ。桐壷の御方、近づきたまいぬるにより、正月朔日より御すほう

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不断にせさせ給。寺寺社社の御祈り、はた数も知らず。おとゞの君、ゆゝ
しきことを見給へてしかば、かゝるほどの事はいとおそろしき物におぼししみ
たるを、対の上などの、さることし給はぬは、くちおしくさうさうしき物から、
うれしくおぼさるゝに、まだいとあえかなる御ほどに、いかにおはせん、とか
ねておぼしさはぐに、二月ばかりより、あやしく御けしき変はりてなやみ給に、
御心どもさはぐべし。陰陽師どもも、所をかへてつゝしみ給ふべく申ければ、
ほかのさし離れたらむはおぼつかなしとて、かの明石の御町の中の対に渡した
てまつり給ふ。こなたはたゞ大きなる対二つ、廊どもなむめぐりてありけるに、
御すほうの壇ひまなく塗りて、いみじき験者どもつどひてのゝしる。母君、
此時に、我御宿世も見ゆべきわざなめれば、いみじき心を尽くし給。
 かの大尼君も、いまはこよなきほけ人にてぞありけむかし、この御ありさま
を見たてまつるは夢の心ちして、いつしかとまいり近づき馴れたてまつる。年
ごろ、母君は、かう添ひさぶらひ給へど、むかしのことなどまほにしも聞こえ
知らせ給はざりけるを、この尼君、よろこびにえ耐へでまいりては、いと涙が
ちに、古めかしき事どもを、わなゝき出でつゝ語りきこゆ。はじめつ方は、あ

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やしくむつかしき人かなと、うちまぼり給しかど、かゝる人ありとばかりはほ
の聞きをき給へれば、なつかしくもてなし給へり。生まれ給し程の事、おとゞ
の君のかの浦におはしましたりしありさま、「いまはとて京へ上り給しに、た
れも心をまどはして、いまは限り、かばかりの契にこそはありけれ、と嘆きし
を、若君のかくひき助け給へる御宿世の、いみじくかなしきこと」と、ほろ
ほろと泣けば、げにあはれなりけるむかしの事を、かく聞かせざらましかば、
おぼつかなくても過ぎぬべかりけり、とおぼして、うち泣き給。心のうちには、
我身は、げにうけばりて、いみじかるべき際にはあらざりけるを、対の上の御
もてなしに磨かれて、人の思へるさまなどもかたほにはあらぬなりけり、人を
ばまたなき物に思消ち、こよなき心おごりをばしつれ、世の人は下に言ひ出
づるやうもありつらむかし、などおぼし知りはてぬ。母君をば、もとよりかく
すこしおぼえ下れる筋と知りながら、生まれ給けん程などをば、さる世離れた
る境にてなども知り給はざりけり。いとあまりおほどき給へるけにこそは。あ
やしくおぼおぼしかりけることなりや。かの入道の、いまは仙人の、世にも住
まぬやうにてゐたなるを聞き給も心ぐるしくなど、かたかたに思乱れ給ぬ。

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 いとものあはれにながめておはするに、御方まいり給て、日中の御加持に、
こなたかなたよりまいりつどひ、物さはがしくのゝしるに、御前にこと人もさ
ぶらはず、尼君、所得て、いと近くさぶらひ給、「あな見ぐるしや。みじかき
御木丁ひき寄せてこそさぶらひ給はめ。風などさはがしくて、をのづからほこ
ろびの隙もあらむに。薬師などやうのさまして。いと盛り過ぎ給へりや」など、
なまかたはらいたく思給へり。よしめきそしてふるまふはおぼゆめれども、
朦朦に耳もおぼおぼしかりければ、「あゝ」と傾きてゐたり。さまはいとさ
いふばかりにもあらずかし。六十五六の程なり。尼姿いとかはらかに、あてな
るさまして、目つやゝかに泣きはれたるけしきの、あやしくむかし思出でた
るさまなれば、胸うちつぶれて、「古体のひが事どもや侍つらむ。よくこの世
のほかなるやうなる、ひがおぼえどもにとりまぜつゝ、あやしきむかしの事ど
もも出でまうで来つらんはや。夢のこゝちこそし侍れ」と、うちほゝえみて見
たてまつり給へば、いとなまめかしくきよらにて、例よりもいたくしづまり、
物おぼしたるさまに見え給。我子ともおぼえたまはずかたじけなきに、いと
おしき事どもを聞こえ給て、おぼし乱るゝにや、いまはかばかりと御位を極め

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給はん世に、聞こえも知らせんとこそ思へ、くちおしくおぼし捨つべきにはあ
らねど、いといとおしく心をとりし給らん、とおぼゆ。
 御加持はてて、まかでぬるに、御くだ物など近くまかなひなし、「こればか
りをだに」と、いと心ぐるしげに思て聞こえ給。尼君は、いとめでたううつく
しう見たてまつるまゝにも、涙はえとゞめず、顔はえみて、口つきなどは見ぐ
るしくひろごりたれど、まみのわたりうちしぐれてひそみゐたり。あなかたは
らいた、と目くはすれど、聞きも入れず。
  「老の波かひある浦にたち出でてしほたるゝあまをたれかとがめむ
むかしの世にも、かやうなる古人は罪ゆるされてなん侍ける」と聞こゆ。御
硯なる紙に、
  しほたるゝあまを浪路のしるべにてたづねも見ばや浜の苫屋を
御方もえ忍び給はで、うち泣き給ぬ。
  世を捨てて明石の浦にすむ人も心の闇ははるけしもせじ
など聞こえまぎらはし給。別れけんあか月のことも、夢の中におぼし出でられ
ぬを、くちおしくもありけるかな、とおぼす。

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 やよひの十余日の程に、たいらかに生まれ給ぬ。かねてはおどろおどろしくお
ぼしさはぎしかど、いたくなやみ給事なくて、おとこ御子[に]さへおはすれ
ば、限りなくおぼすさまにて、おとゞも御心落ちゐ給ぬ。
 こなたは隠れの方にて、たゞけ近き程なるに、いかめしき御産養などのう
ちしきり、響きよそをしき有さま、げにかひある浦と尼君のためには見えたれ
ど、儀式なきやうなれば、渡り給なむとす。対の上も渡り給へり。白き御装束
し給て、人の親めきて、若宮をつと抱きてゐ給へるさま、いとおかし。身づか
らかゝること知り給はず、人の上にても見ならひ給はねば、いとめづらかにう
つくし、と思きこえ給へり。むつかしげにおはする程を、絶えず抱きとり給へ
ば、まことのをば君は、たゞまかせたてまつりて、御湯殿の扱ひなどを仕うま
つり給。春宮の宣旨なる内侍のすけぞ仕うまつる御迎へ湯に、下り立ち給へる
もいとあはれに、うちうちの事もほの知りたるに、すこしかたほならばいとお
しからましを、あさましくけ高く、げにかゝる契ことにものし給ける人かな、
と見きこゆ。この程の儀式などもまねびたてんに、いとさらなりや。
 六日といふに、例のおとゞに渡り給ぬ。七日の夜、内よりも御産養の事あ

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り。朱雀院の、かく世を捨ておはします御かはりにや、蔵人所より、頭弁、宣
旨うけ給はりて、めづらかなるさまに仕うまつれり。禄の絹など、又中宮の御
方よりも、公事にはたちまさり、いかめしくせさせ給。次次の御子たち、
大臣のいゑいゑ、そのころの営みにて、われもわれもときよらをつくして仕うま
つり給。
 おとゞの君も、このほどの事どもは、例のやうにもことそがせ給はで、世に
なく響きこちたき程に、うちうちのなまめかしくこまかなる宮びの、まねび伝
ふべきふしは目もとまらずなりにけり。おとゞの君も、若宮をほどなく抱きた
てまつり給ひて、「大将のあまたまうけたなるを、いままで見せぬがうらめし
きに、かくらうたき人をぞ得たてまつりたる」と、うつくしみきこえ給ふはこ
とはりなりや。日ゝに、物をひき延ぶるやうにおよすげ給。御乳母など、心知
らぬはとみに召さで、さぶらふ中に、品、心すぐれたるかぎりを選りて、仕う
まつらせ給。
 御方の御心をきての、らうらうじくけ高くおほどかなる物の、さるべき方に
は卑下して、にくらかにもうけばらぬなどをほめぬ人なし。対の上は、まほな

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らねど、見えかはし給て、さばかりゆるしなくおぼしたりしかど、いまは宮の
御徳に、いとむつましくやむごとなくおぼしなりにたり。児うつくしみし給
御心にて、天児など御手づからつくり、そゝくりおはすもいと若若し。明け
暮れ、この御かしづきにて過ぐし給。かの古体の尼君は、若宮をえ心のどかに
見たてまつらぬなん、飽かずおぼえける。中中見たてまつりそめて恋ひきこ
ゆるにぞ、命もえ耐ふまじかめる。
 かの明石にも、かゝる御こと伝へ聞きて、さる聖心ちにもいとうれしくお
ぼえければ、「いまなんこの世のさかいを心やすく行き離るべき」と、弟子ど
もに言ひて、この家をば寺になし、あたりの田などのやうの物は、みなその寺
の事にしをきて、この国の奥の郡に、人も通ひがたく、深き山あるを、年ごろ
も占めをきながら、あしこに篭りなむのち、又人には見え知らるべきにもあら
ずと思て、たゞすこしのおぼつかなき事残りければ、いままでながらへけるを、
いまはさりともと、仏神を頼み申てなむ移ろひける。
 この近き年ごろとなりては、京に、ことなる事ならで、人も通はしたてまつ
らざりつ。これより下し給人ばかりにつけてなむ、一くだりにても、尼君、

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さるべきおりふしの事も通ひける。思ひ離るゝ世のとぢめに、文かきて御方に
たてまつれ給へり。
  この年ごろは、おなじ世中のうちにめぐらひ侍りつれど、何かは、かくな
  がら身をかへたるやうに思給へなしつゝ、させることなきかぎりは聞こ
  えうけ給はらず。仮名文見たまふるは、目の暇いりて、念仏も懈怠するや
  うに益なうてなん、御消息もたてまつらぬを、つてにうけたまはれば、若
  君は春宮にまいり給て、おとこ宮生まれ給へるよしをなむ、深くよろこび
  申侍る。そのゆへは、身づからかくつたなき山臥の身に、いまさらにこ
  の世の栄えを思にも侍らず、過ぎにし方の年ごろ、心ぎたなく、六時の勤
  めにも、たゞ御ことを心にかけて、蓮の上の露の願ひをばさしをきてなむ、
  念じたてまつりし。わがおもと生まれ給はんとせし、その年の二月のその
  夜の夢に見しやう、身づから須弥の山を右の手に捧げたり、山の左右より、     月日の光さやかにさし出でて世を照らす、身づからは、山の下の陰に隠れ
  て、その光にあたらず、山をば広き海に浮かべをきて、ちいさき舟に乗り
  て、西の方をさして漕ぎ行となん見侍し。夢覚めて、あしたより、数なら

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  ぬ身に頼むところ出で来ながら、何事につけてか、さるいかめしきことを
  ば待ち出でむと、心のうちに思ひはべしを、そのころよりはらまれ給にし
  こなた、俗の方の書を見侍しにも、又内教の心を尋ぬる中にも、夢を信ず
  べきこと多く侍しかば、いやしき懐のうちにも、かたじけなく思ひいたつ
  きたてまつりしかど、力をよばぬ身に、思ふ給へかねてなむ、かゝる道に
  おもむき侍にし。またこの国のことに沈み侍て、老の波にさらにたち返ら
  じと思ひとぢめて、この浦に年ごろ侍しほども、わが君を頼むことに思き
  こえ侍しかばなむ、心ひとつに多くの願を立てはべりし。その返り申たい
  らかに、思のごと時にあひ給。若君国の母となり給て、願ひ満ち給はん世
  に、住吉の御社をはじめ、果たし申給へ。さらに何ごとをかは疑ひ侍ら
  む。このひとつの思ひ、近き世にかなひ侍りぬれば、遥かに西の方、十万
  億の国隔てたる九品の上ののぞみ疑ひなくなり侍りぬれば、いまはたゞ迎
  ふる蓮を待ちはべるほど、その夕べまで、水草清き山の末にて勤め侍らむ
  とてなむ、まかり入りぬる。
   光出でんあか月ちかくなりにけりいまぞ見し世の夢がたりする

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とて、月日書きたり。
  命をはらむ月日もさらにな知ろしめしそ。いにしへより人の染めをきけ
  る藤衣にも何かやつれ給はん。たゞ我身は変化の物とおぼしなして、老法
  師のためには功徳をつくり給へ。この世の楽しみに添へても、後の世を忘
  れ給ふな。願ひ侍る所にだに至り侍なば、かならず又対面は侍りなむ。娑
  婆のほかの岸に至りて、とくあひ見んとをおぼせ。
さて、かの社に立て集めたる願文どもを、大きなる沈の文箱に封じこめてた
てまつりたまへり。
 尼君には、ことことにも書かず、たゞ、
  この月の十四日になむ、草の庵まかり離れて、深き山に入り侍りぬる。か
  ひなき身をば、熊、狼にも施し侍なん。そこには、猶思しやうなる御世
 を待ち出で給へ。明らかなる所にて、又対面はありなむ。
とのみあり。
 尼君、この文を見て、かの使の大徳に問へば、「この御文書き給て、三日と
いふになむ、かの絶えたる峰に移ろひ給にし。なにがしらも、かの御をくりに

P279
麓まではさぶらひしか[ど]、みな帰し給て、僧一人、童二人なん御供にさぶら
はせ給。いまはと、世を背き給しおりを、かなしきとぢめと思給へしかど、
残り侍けり。年ごろをこなひの隙隙に、より臥しながら掻き鳴らし給し琴の
御琴、琵琶とり寄せ給て、掻い調べ給つゝ、仏にまかり申し給てなん、御堂に
施入し給し、さらぬ物どもも、多くはたてまつり給て、その残りをなん、御弟
子ども六十余人なん、親しきかぎりさぶらひける、ほどにつけてみな処分し
給て、猶し残りをなん、京の御料とて、をくりたてまつり給へる。いまはと
てかき篭もり、さる遥けき山の雲霞にまじり給にし、むなしき御跡にとまりて、
かなしび思ふ人〃なん多く侍る」など、この大徳も、童にて京より下りける古
人の、老法師になりてとまれる、いとあはれに心ぼそしと思へり。仏の御弟子
のさかしき聖だに、鷲の峰をばたどたどしからず頼みきこえながら、猶たき木
尽きける夜のまどひは深かりけるを、まして尼君のかなしと思給へること限
りなし。
 御方は南のおとゞにおはするを、「かゝる御消息なんある」とありければ、
忍びて渡り給へり。をもをもしく身をもてなして、おぼろけならでは、通ひ、

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あひ見給こともかたきを、あはれなる事なんと聞きて、おぼつかなければ、
うち忍びてものし給へるに、いといみじくかなしげなるけしきにてゐ給へり。
火近くとり寄せて、此文を見給に、げにせきとめん方ぞなかりける。世の人
は何とも目とゞむまじきことの、まづむかし、来し方の事思出で、恋しと思
わたり給心には、あひ見で過ぎはてぬるにこそはと見給に、いみじく言ふか
ひなし。涙をえせきとめず。この御夢語りを、かつは行先頼もしく、さは、
ひが心にて我身をさしもあるまじきさまにあくがらし給と、中ごろ思たゞよは
れしことは、かくはかなき夢に頼みをかけて、心たかくものし給なりけり、と
かつかつ思あはせ給。
 尼君、久しくためらひて、「君の御徳には、うれしくをもだたしきことをも、
身にあまりて並びなく思侍り。あはれにいぶせき思ひもすぐれてこそ侍けれ。
数ならぬ方にても、ながらへし都を捨てて、かしこに沈みゐしをだに、世人に
たがひたる宿世にもあるかな、と思ひはべしかど、生ける世に行き離れ、隔て
るべき中の契とは思かけず、おなじ蓮に住むべき後の世の頼みをさへかけて、
年月を過ぐし来て、にはかにかくおぼえぬ御こと出で来て、背きにし世にたち

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返りてはべる、かひある御事を見たてまつりよろこぶものから、片つ方にはお
ぼつかなく、かなしきことのうち添ひて絶えぬを、つゐにかくあひ見ず、隔て
ながらこの世を別れぬるなん、くちおしくおぼえはべる。世に経し時だに、人
に似ぬ心ばえにより、世をもてひがむるやうなりしを、若きどち頼みならひて、
をのをのは又なく契をきてければ、かたみにいと深くこそ頼み侍しか。いか
なれば、かく耳に近き程ながら、かくて別れぬらん」と言ひつゞけて、いとあ
はれにうちひそみ給。御方もいみじく泣きて、「人にすぐれん行先のこともお
ぼえずや。数ならぬ身には、何事もけざやかに、かひあるべきにもあらぬもの
から、あはれなるありさまに、おぼつかなくてやみなむのみこそくちおしけれ。
よろづの事、さるべき人の御ためとこそおぼえはべれ、さて絶え篭り給なば、
世中も定めなきに、やがて消え給なば、かひなくなん」とて、よもすがらあ
はれなる事どもを言ひつゝ明かし給。
 「きのふも、おとゞの君の、あなたにありと見をき給てしを、にはかにはひ
隠れたらむもかろかろしきやうなるべし。身ひとつは、何ばかりも思憚り侍
らず、かく添ひ給御ためなどのいとおしきになむ、心にまかせて身をももて

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なしにくかるべき」とて、あか月に帰り渡り給ぬ。「若宮はいかゞおはします。
いかでか見たてまつるべき」とても泣きぬ。「いま見たてまつり給てん。女御
の君も、いとあはれになむおぼし出でつゝ、もし世中思ふやうならば、ゆゝし
きかねことなれど、尼君その程までながらへ給はなん、との給ふめりき。いか
におぼすことにかあらむ」との給へば、又うち笑みて、「いでや、さればこそ、
さまさまためしなき宿世にこそ侍れ」とてよろこぶ。この文箱は持たせてまう
上り給ぬ。
 宮より、とくまいり給べきよしのみあれば、「かくおぼしたる、ことはりな
り。めづらしきことさへ添ひて、いかに心もとなくおぼさるらむ」と、紫の上
もの給て、若宮忍びてまいらせたてまつらむ御心づかひし賜。御息所は、御
暇の心やすからぬに懲り給て、かゝるついでにしばしあらまほしくおぼしたり。
程なき御身に、さるおそろしきことをし給へれば、すこし面やせ細りて、いみ
じくなまめかしき御さまし給へり。「かくためらひがたくおはするほど、つく
ろひ給てこそは」など、御方などは心ぐるしがりきこえ給を、おとゞは、「か
やうに面やせて見えたてまつり給はむも、中中あはれなるべきわざなり」な

P283
どの給。
 対の上などの渡り給ぬる夕つ方、しめやかなるに、御方、御前にまいり給て、
この文箱、聞こえ知らせ給。「思ふさまにかなひはてさせ給までは、とり隠し
てをきて侍べけれど、世中定めがたければ、うしろめたさになん。何事をも
御心とおぼし数まへざらむこなた、ともかくもはかなくなり侍なば、かならず
しも、いまはのとぢめを御覧ぜらるべき身にも侍らねば、猶うつし心失せずは
べる世になむ、はかなき事をも聞こえさせをくべく侍ける、と思ひ侍て、むつ
かしくあやしき跡なれど、これも御覧ぜよ。この願文は、近き御厨子などに
をかせ給て、かならずさるべからむおりに御覧じて、このうちのことどもはせ
させ給へ。うとき人には、な漏らさせ給そ。かばかりと見たてまつりをきつれ
ば、身づからも世を背き侍なんと、思ふ給へなりゆけば、よろづ心のどかにも
おぼえはべらず。対の上の御心、をろかに思きこえさせ給な。いとありがたく
ものし給深き御けしきを見はべれば、身にはこよなくまさりて、長き御世に
もあらなん、とぞ思はべる。もとより御身に添ひきこえさせんにつけても、
つゝましき身の程に侍れば、譲りきこえそめ侍にしを、いとかうしも物し給は

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じとなん、年ごろは、猶世の常に思ふ給へわたり侍つる。いまは来し方行先、
うしろやすく思なりにて侍り」など、いと多く聞こえ給。涙ぐみて聞きおはす。
かくむつましかるべき御前にも、常にうちとけぬさまし給て、わりなくものづ
つみしたるさまなり。この文の言葉、いとうたてこはく、にくげなるさまを、
陸奥国紙にて年経にければ、黄ばみ厚肥えたる五六枚、さすがに香にいと深く
しみたるに書き給へり。いとあはれとおぼして、御ひたい髪のやうやう濡れゆ
く御そば目、あてになまめかし。
 院は、姫宮の御方におはしけるを、中の御障子よりふと渡り給へれば、えし
もひき隠さで、御几帳をすこしひき寄せて、身づからは、はた隠れ給へり。
「若宮はおどろき給へりや。時の間も恋しきわざなりけり」と聞こえ給へば、
御息所はいらへも聞こえ給はねば、御方、「対に渡しきこえ給つ」ときこえ給。
「いとあやしや。あなたにこの宮を領じ奉りて、懐をさらに放たずもてあつか
ひつゝ、人やりならず衣もみな濡らして、脱ぎかへがちなめる。かろかろしく、
などかく渡したてまつり給。こなたに渡りてこそ見たてまつり給はめ」との給
へば、「いとうたて。思ぐまなき御言かな。女におはしまさむにだに、あなた

P285
にて見たてまつり給はんこそよく侍らめ。ましておとこは限りなしと聞こえさ
すれど、心やすくおぼえ給を、たはぶれにてもかやうに隔てがましき事なさか
しがり聞こえさせ給ひそ」と聞こえ給。うち笑ひて、「御仲どもにまかせて、
見放ちきこゆべきななりな。隔てて、いまはたれもたれもさし放ち、さかしらな
どの給こそ幼けれ。まづはかやうにはひ隠れて、つれなく言ひ落とし給めりか
し」とて、御木丁を引きやり給へれば、母屋の柱によりかゝりて、いときよげ
に、心はづかしげなるさまして物し給。
 ありつる箱も、まどひ隠さんもさまあしければ、さておはするを、「なぞの
箱。深き心あらむ。懸想人の長歌詠みて、封じこめたる心ちこそすれ」との給
へば、「あなうたてや。いまめかしくなり返らせ給める御心ならひに、聞き知
らぬやうなる御すさび事どもこそ、時ゝ出で来れ」とてほゝ笑み給へれど、物
あはれなりける御けしきどもしるければ、あやしとうち傾き給へるさまなれば、
わづらはしくて、「かの明石の岩屋より、忍びてはべし御祈りの巻数、又まだ
しき願などのはべりけるを、御心にも知らせたてまつるべきおりあらば、御覧
じをくべくやとて侍を、たゞいまは、ついでなくて何かはあけさせ給はん」と

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聞こえ給に、げにあはれなるべきありさまぞかしと、「いかにをこなひまして
住み給にたらむ。命長くて、こゝらの年ごろの勤むる罪もこよなからむかし。
世の中によしあり、さかしき方方の人とて、見るにも、この世にそみたる程
の濁り深きにやあらむ、かしこき方こそあれ、いと限りありつゝをよばざりけ
りや。さも至り深く、さすがにけしきありし人のありさまかな。聖だち、この
世離れ顔にもあらぬものから、下の心は、みなあらぬ世に通ひ住みにたるとこ
え見えしか。ましていまは、心ぐるしきほだしもなく思ひ離れにたらむをや。
かやすき身ならば、忍びていと会はまほしくこそ」との給ふ。「いまはかの侍
し所をも捨てて、鳥の音聞こえぬ山にとなん聞き侍」と聞こゆれば、「さらば
その遺言ななりな。消息は通はし給や。尼君いかに思給らむ。親子の中より
も、またさるさまの契は、ことにこそ添ふべけれ」とてうち涙ぐみ給へり。
 「年の積りに、世中のありさまをとかく思知り行まゝに、あやしく恋しく
思出でらるゝ人の御ありさまなれば、深き契の仲らひはいかにあはれなら
む」などの給ついでに、この夢語りも、おぼし合はする事もやと思て、「いと
あやしき梵字とかいふやうなる跡にはべめれど、御覧じとゞむべきふしもやま

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じり侍とてなん。いまはとて別れ侍にしかど、猶こそあはれは残り侍るものな
りけれ」とて、さまよくうち泣き給。「手いとかしこく、猶ほれほれしからず
こそあるべけれ。手などもすべて何ごとも、わざと有識にしつべかりける人の、
たゞこの世経る方の心をきてこそ少なかりけれ。かの先祖のおとゞは、いとか
しこくありがたき心ざしを尽くして、おほやけに仕うまつり給ける程に、もの
のたがひ目ありて、その報ひにかく末はなきなりなど人言ふめりしを、女子の
方につけたれど、かくていと嗣なしと言ふべきにはあらぬも、そこらのをこな
ひのしるしにこそはあらめ」など、涙おしのごひ給つゝ、この夢のわたりに目
とゞめ給ふ。あやしく、ひがひがしく、すゞろに高き心ざしありと、人もとが
め、又われながらも、さるまじきふるまひを、仮にてもするかなと思しことは、
この君の生まれ給し時に、契深く思知りにしかど、目の前に見えぬあなた
の事は、おぼつかなくこそ思わたりつれ、さらば、かゝる頼みありて、あなが
ちには望みしなりけり、横さまにいみじき目を見、たゞよひしも、この人ひと
りのためにこそありけれ、いかなる願をか心に起こしけむ、とゆかしければ、
心のうちにおがみて取り給つ。

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 「これは、又具してたてまつるべき物侍り。いま又聞こえ知らせ侍らん」と、
女御には聞こえ給。そのついでに、「いまはかくいにしへのことをもたどり知
り給ぬれど、あなたの御心ばへをおろかにおぼしなすな。もとよりさるべき仲、
え避らぬむつびよりも、横さまの人のなげのあはれをもかけ、一事の心よせ
あるは、おぼろけのことにもあらず。まして、こゝになどさぶらひ馴れ給を見
る見るも、はじめの心ざし変はらず、深くねんごろに思きこえたるを。いにし
への世のたとへにも、さこそはうはべにははぐくみけれと、らうらうじきたど
りあらんも、かしこきやうなれど、猶あやまりても、我ため下の心ゆがみたら
む人を、さも思寄らず、うらなからむためは、ひき返しあはれに、いかで
かゝるにはと、罪得がましきにも、思なをる事もあるべし。おぼろけのむかし
の世のあたならぬ人は、たがふふしふしあれど、ひとりひとり罪なき時には、を
のづからもてなすためしどもあるべかめり。さしもあるまじきことに、かど
かどしく癖をつけ、あい行なく、人をもて離るゝ心あるは、いとうちとけがた
く、思ぐまなきわざになむあるべき。多くはあらねど、人の心の、とあるさま
かゝるおもむきを見るに、ゆへよしといひ、さまさまに口惜からぬ際の心ばせ

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あるべかめり。みなをのをの得たる方ありて、とる所なくもあらねど、又とり
たてて、我後見に思ひ、まめまめしく選ひ思はんには、ありがたきわざにな
む。たゞまことに心の癖なくよきことは、この対をのみなむ、これをぞおひら
かなる人といふべかりける、となむ思はべる。よしとて、又あまりひたゝけて
頼もしげなきも、いとくちおしや」とばかりの給ふに、かたへの人は思ひやら
れぬかし。
 「そこにこそ、すこしものの心得てものし給めるを、いとよし、むつびかは
して、この御後見をもおなじ心にてものし給へ」など忍びやかにの給。「のた
まはせねど、いとありがたき御けしきを見たてまつるまゝに、明け暮れの言ぐ
さに聞こえはべる。めざましきものになど、おぼしゆるさざらんに、かうまで
御覧じ知るべきにもあらぬを、かたはらいたきまで数まへの給はすれば、かへ
りてはまばゆくさへなむ。数ならぬ身のさすがに消えぬは、世の聞き耳もいと
苦しく、つゝましく思たまへらるゝを、罪なきさまにもて隠されたてまつり
つゝのみこそ」と聞こえ給へば、「その御ためには何の心ざしかはあらむ。
たゞこの御ありさまを、うち添ひてもえ見たてまつらぬおぼつかなさに、譲り

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きこえらるゝなめり。それも又、とりもちて掲焉になどあらぬ御もてなしども
に、よろづの事なのめにめやすくなれば、いとなむ思ひなくうれしき。はかな
きことにて、もの心得ずひがひがしき人は、たちまじらふにつけて、人のため
さへからきことありかし。さなをし所なく、たれもものし給めれば、心やすく
なむ」との給につけても、さりや、よくこそ卑下しにけれ、など思つゞけ給。
対へ渡り給ぬ。
 「さもいとやむごとなき御心ざしのみまさるめるかな。げにはた、人よりこ
とにかくしも具し給へるありさまの、ことはりと見え給へるこそめでたけれ。
宮の御方、うはべの御かしづきのみめでたくて、渡り給ことも、えなのめなら
ざめるは、かたじけなきわざなめりかし。おなじ筋にはおはすれど、いま一際
は心ぐるしく」としりふごちきこえ給につけても、我宿世はいとたけくぞお
ぼえ給ひける。やむごとなきだに、おぼすさまにもあらざめる世に、ましてた
ちまじるべきおぼえにしあらねば、すべていまはうらめしきふしもなし。たゞ
かの絶え篭りにたる山住みを、思やるのみぞあはれにおぼつかなき。尼君も
たゞ福地の園に種まきて、とやうなりし一言をうち頼みて、後の世を思やり

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つゝながめゐ給へり。
 大将に君は、この姫宮の御ことを、思をよばぬにしもあらざりしかば、目
に近くおはしますを、いとたゞにもおぼえず、大方の御かしづきにつけて、こ
なたにはさりぬべきおりおりにまいり馴れ、をのづから御けはひありさまも見
聞き給に、いと若くおほどき給へる一筋にて、上の儀式はいかめしく、世の
ためしにしつばかり、もてかしづきたてまつり給へれど、おさおさけざやかに
もの深くは見えず、女房などもおとなおとなしきは少なく、若やかなるかたち人
の、ひたふるにうちはなやぎ、さればめるはいと多く、数知らぬまでつどひさ
ぶらひつゝ、もの思ひなげなる御あたりとは言ひながら、何事ものどやかに心
しづめたるは、心のうちのあらはにしも見えぬわざなれば、身に人知れぬ思ひ
添ひたらんも、又まことに心ちゆきげに、とゞこほりなかるべきにしうちまじ
れば、かたへの人にひかれつゝ、おなじけはひもてなしになだらかなるを、
たゞ明け暮れは、いはけたる遊びたはぶれに心入れたる童べのありさまなど、
院は、いと目につかず、見給事どもあれど、ひとつさまに世の中をおぼしの
給はぬ御本上なれば、かゝる方をもまかせて、さこそはあらまほしからめと

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御覧じゆるしつゝ、いましめとゝのへさせ給はず、正身の御ありさまばかりを
ば、いとよく教へきこえ給に、すこしもてつけ給へり。
 かやうの事を、大将の君も、げにこそありがたき世なりけれ、紫の御用意け
しきの、こゝらの年経ぬれど、ともかくももり出で見え聞こえたるところなく、
しづやかなるを本として、さすがに心うつくしう、人をも消たず、身をもやむ
ごとなく心にくくもてなし添へ給へる事、と見し面影も忘れがたくのみなむ
思出でられける。我御北の方も、あはれとおぼす方こそ深けれ、言ふかひあ
り、すぐれたるらうらうじさなどものし給はぬ人なり。おだしきものに、いま
はと目馴るゝに心ゆるひて、猶かくさまさまにつどひ給へるありさまどもの、
とりとりにおかしきを、心ひとつに思離れがたきを、ましてこの宮は、人の
御ほどを思にも、限りなく心ことなる御ほどに、とりわきたる御けしきにしも
あらず、人目の飾りばかりにこそ、と見たてまつり知る。わざとおほけなき心
にしもあらねど、見たてまつるおりありなむや、とゆかしく思きこえ給けり。
 衛門の督の君も、院に常にまいり、親しくさぶらひ馴れ給し人なれば、この
宮を父みかどの、かしづきあがめたてまつり給し御心をきてなど、くはしく見

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たてまつりをきて、さまさまの御定めありしころをひより、聞こえ寄り、院に
もめざましとはおぼしの給はせずと聞きしを、かく異ざまになり給へるは、い
とくちおしく、胸いたき心ちすれば、なをえ思ひ離れず、そのおりより語らひ
つきにける女房のたよりに、御ありさまなども聞き伝ふるを、なぐさめに思ふ
ぞはかなかりける。「対の上の御けはひには、猶おされ給てなん」と世人もま
ねび伝ふるを聞きては、「かたじけなくとも、さる物は思はせたてまつらざら
まし。げにたぐひなき御身にこそ当たらざらめ」と、常にこの小侍従といふ御
乳主をも言ひはげまして、世中定めなきを、おとゞの君、もとより本意あり
ておぼしをきてたる方におもむき給はば、とたゆみなく思ありきけり。
 やよひばかりの空うらゝかなる日、六条院に、兵部卿宮、衛門督などまい
り給へり。おとゞ出で給て、御物語りなどし給。「しづかなる住まゐは、この
ごろこそいとつれづれに、まぎるゝことなかりけれ。公私に事なしや。何わ
ざしてかは暮らすべき」などの給て、「けさ、大将のものしつるは、いづ方に
ぞ。いとさうさうしきを、例の小弓射させて見るべかりけり。好むめる若人ど
もも見えつるを、ねたう、出でやしぬる」と問はせ給。大将の君は、丑寅の町

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に、人人あまたして、鞠もて遊ばして見給と聞こしめして、「乱れがはしきこ
との、さすがに見覚めて、かどかどしきぞかし。いづら、こなたに」とて、御
消息あればまいり給へり。若君達めく人人多かりけり。
 「鞠持たせ給へりや。たれたれかものしつる」との給ふ。「これかれはべり
つ」、「こなたへまかでんや」との給て、寝殿の東面、桐壷は若宮具したてま
つりてまいり給いにしころなれば、こなた隠ろへたりけり。遣水などの行きあ
ひはれて、よしある懸りの程を尋ねて、立ち出づ。太政大臣の君たち、頭弁、
兵衛佐、大夫の君など、過ぐしたるも又かたなりなるも、さまさまに人より
まさりてのみものし給。やうやう暮れかゝるに、風吹かずかしこき日なりと
けうじて、弁の君もえしづめずたちまじれば、おとゞ、「弁官もえおさめあへ
ざめるを、上達部なりとも、若き衛府司たちはなどか乱れ給はざらむ。かばか
りの齢にては、あやしく見過ぐす、口惜くおぼえしわざなり。さるは、いと軽
軽なりや、このことのさまよ」などの給に、大将も督の君もみな下り給て、
えならぬ花の陰にさまよひ給ふ、夕映へいときよげなり。おさおささまよく静
かならぬ乱れごとなめれど、所から人からなりけり。ゆへある庭の木立のいた

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く霞みこめたるに、色色紐ときわたる花の木ども、わづかなる萌黄の陰に、か
くはかなき事なれど、よきあしきけぢめあるをいどみつゝ、われもをとらじと
思ひ顔なる中に、衛門督のかりそめにたちまじり給へる足もとに、並ぶ人なか
りけり。かたちいときよげに、なまめきたるさましたる人の、用意いたくして、
さすがに乱りがはしき、おかしく見ゆ。御階の間に当たれる桜の陰によりて、
人人、花の上も忘れて心に入れたるを、おとゞも、宮も、隅の高欄に出でて御
覧ず。
 いと労ある心ばへども見えて、数多くなり行に、上らうも乱れて、冠のひた
いすこしくつろぎたり。大将の君も、御位の程思こそ例ならぬ乱りがはしさ
かなとおぼゆれ、見る目は人よりけに若くおかしげにて、桜のなをしのやゝ萎
えたるに、指貫の裾つ方、すこし含みて、けしきばかり引き上げ給へり。かろ
かろしうも見えず、物きよげなるうちとけ姿に、花の雪のやうに降りかゝれば、
うち見上げて、しほれたる枝すこしをしおりて、御階の中のしなの程にゐ給ぬ。
督の君つゞきて、「花乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそ」などの給
つゝ、宮の御前の方をしり目に見れば、例の、ことにおさまらぬけはひどもし

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て、色色こぼれ出でたる御簾のつま、透影など、春の手向けの幣袋にやとお
ぼゆ。
 御木丁どもしどけなく引きやりつゝ、人げ近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫の
いとちいさくおかしげなるを、すこし大きなる猫をひつゞきて、にはかに御簾
のつまより走り出づるに、人人おびえさはぎて、そよそよとみじろきさまよふ
けはひども、衣のをとなひ、耳かしかましき心ちす。猫は、まだよく人にもな
つかぬにや、綱いと長くつきたりけるを、ものに引きかけまつはれにけるを、
逃げんとひこしろふほどに、御簾のそばいとあらはに引きあけられたるを、と
みに引きなをす人もなし。この柱のもとにありつる人人も心あはたゝしげに
て、物おぢしたるけはひどもなり。
 木丁の際すこし入りたる程に、袿姿にて立ち給へる人あり。階より西の二の
間の東のそばなれば、まぎれ所もなくあらはに見入れらる。紅梅にやあらむ、
濃き薄きすぎすぎにあまた重なりたる、けぢめはなやかに、草子のつまのやう
に見えて、桜のをりものの細長なるべし。御髪の裾までけざやかに見ゆるは、
糸をよりかけたるやうになびきて、裾のふさやかにそがれたる、いとうつくし

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げにて、七八寸ばかりぞあまり給へる。御衣の裾がちに、いと細くさゝやかに
て、姿つき、髪のかゝり給へるそば目、言ひ知らずあてにらうたげなり。夕影
なれば、さやかならず奥暗き心ちするも、いと飽かずくちおし。鞠に身を投ぐ
る若君達の、花の散るをおしみもあえぬけしきどもを見るとて、人〃、あらは
をふともえ見つけぬなるべし。猫のいたく鳴けば、見返り給へるをももち、も
てなしなど、いと老らかにて、若くうつくしの人や、とふと見えたり。
 大将、いとかたはらいたけれど、はひ寄らむも中中いとかるかるしければ、
たゞ心を得させて、うちしはぶき給へるにぞ、やをらひき入り給。さるは、
我心ちにもいと飽かぬ心ちし給へど、猫の綱ゆるしつれば、心にもあらずう
ち嘆かる。ましてさばかり心をしめたる衛門の督は、胸ふとふたがりて、たれ
ばかりにかはあらん、こゝらの中にしるき袿姿よりも、人にまぎるべくもあら
ざりつる御けはひなど、心にかゝりておぼゆ。さらぬ顔にもてなしたれど、ま
さに目とどめじやと、大将はいとおしくおぼさる。わりなき心ちのなぐさめに、
猫を招き寄せてかき抱きたれば、いとかうばしくて、らうたげにうち鳴くも、
なつかしく思ひよそへらるゝぞ、すきすきしきや。

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 おとゞ御覧じおこせて、「上達部の座、いとかろかろしや。こなたにこそ」
とて、対の南面に入り給へれば、みなそなたにまいり給ぬ。宮も居なをり給て、
御物語りし給。次次の殿上人は、簀子にわらうだ召して、わざとなく、椿も
ちゐ、梨、柑子やうの物ども、さまさまに、箱の蓋どもにとりまぜつゝあるを、
若き人人そぼれ取り食ふ。さるべき干物ばかりして、御かはらけまいる。
 衛門督は、いといたく思しめりて、やゝもすれば、花の木に目をつけてなが
めやる。大将は心知りに、あやしかりつる御簾の透影、思出づることやあら
む、と思給。いと端近なりつるありさまを、かつはかろかろしと思ふらんか
し、いでや、こなたの御ありさまの、さはあるまじかめる物を、と思ふに、
かゝればこそ、世のおぼえの程よりは、うちうちの御心ざし、ぬるきやうには
ありけれ、と思あはせて、猶内外の用意多からずいはけなきは、らうたきや
うなれど、うしろめたきやうなりや、と思落とさる。
 宰相の君は、よろづの罪をもおさおさたどられず、おぼえぬ物の隙より、ほ
のかにもそれと見たてまつりつるにも、我むかしよりの心ざしのしるしあるべ
きにやと、契うれしき心ちして、飽かずのみおぼゆ。

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 院は、むかしもの語りし出で給て、「おほきおとゞの、よろづの事にたち並
びて勝ち負けの定めし給し中に、鞠なんえをよばずなりにし。はかなきことは
伝へあるまじけれど、物の筋は猶こよなかりけり。いと目もをよばずかしこう
こそ見えつれ」との給へば、うちほゝえみて、「はかはかしき方にはぬるく侍
る家の風の、さしも吹伝へ侍らんに、後の世のため、ことなることなくこそ
はべりぬべけれ」と申給へば、「いかでか。何事も人にことなるけぢめをばし
るし伝ふべきなり。家の伝へなどに書きとゞめ入れたらんこそ、けうはあら
め」などたはぶれ給御さまの、にほひやかにきよらなるを見たてまつるにも、
かゝる人にならひて、いかばかりの事にか、心を移す人はものし給はん、何ご
とにつけてか、あはれと見ゆるしたまふばかりはなびかしきこゆべき、と思め
ぐらすに、いとゞこよなく、御あたり遥かなるべき身の程も思知らるれば、
胸のみふたがりてまかりで給ぬ。
 大将の君、一つ車にて、道のほど物語りし給。「猶このごろのつれつれには、
この院にまいりてまぎらはすべきなりけり」、「けふのやうならん暇の隙待ち
つけて、花のおり過ぐさずまいれ」との給つるを、春おしみがてら、月の中に

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小弓持たせてまいり給へ」と語らひ契る。をのをの別るゝ道のほどもの語りし
たまふて、宮の御事の猶言はまほしければ、「院には、猶この対にのみものせ
させ給なめりな。かの御おぼえのことなるなめりかし。この宮いかにおぼすら
ん。みかどの並びなくならはしたてまつり給へるに、さしもあらで、屈し給に
たらんこそ心ぐるしけれ」と、あいなく言へば、「たいたいしきこと。いかで
かさはあらむ。こなたは、さま変はりて生ほし立て給へるむつびの、けぢめば
かりにこそあべかめれ。宮をば、かたかたにつけて、いとやむごとなく思きこ
え給へるものを」と語り給へば、「いで、あなかま、給へ。みな聞きてもはべ
り。いといとおしげなるおりおりあなるをや。さるは、世におしなべたらぬ人
の御おぼえを、ありがたきわざなりや」といとほしがる。
  「いかなれば花に木伝ふ鴬の桜をわきてねぐらとはせぬ
春の鳥の、桜ひとつにとまらぬ心よ。あやしとおぼゆる事ぞかし」と、口ずさ
びに言へば、いで、あなあぢきなの物あつかひや、さればよ、と思ふ。
  「深山木にねぐらさだむるはこ鳥もいかでか花の色にあくべき
わりなきこと。ひたおもむきにのみやは」といらへて、わづらはしければ、こ

P301
とに言はせずなりぬ。異事に言ひまぎらはして、をのをの別れぬ。
 督の君は、猶大殿の東の対に、ひとり住みにてぞものし給ける。思ふ心
ありて、年ごろかゝる住まゐをするに、人やりならずさうさうしく心ぼそきお
りおりあれど、我身かばかりにて、などか思ふことかなはざらむ、とのみ心お
ごりをするに、この夕べより屈しいたく物思はしくて、いかならむおりに、又
さばかりにても、ほのかなる御ありさまをだに見む、ともかくもかきまぎれた
る際の人こそ、かりそめにも、たはやすき物忌、方違への移ろひもかろかろし
きに、をのづからともかくも、もののひまをうかゞひつくるやうもあれ、など
思やる方なく、深き窓のうちに、何ばかりの事につけてか、かく深き心あり
けりとだに知らせたてまつるべき、と胸いたくいぶせければ、小侍従がり例の
文やり給ふ。
  一日、風に誘はれて、御垣の原を分け入れて侍しに、いとゞいかに見おと
  し給けん。その夕べより乱り心ちかきくらし、あやなくけふをながめ暮ら
  し侍。
など書きて、

P302
   よそに見ておらぬなげきはしげれどもなごり恋しき花の夕かげ
とあれど、一日の心も知らぬは、たゞ世の常のながめにこそはと思ふ。
 御前に人しげからぬ程なれば、かの文を持てまいりて、「この人のかくのみ
忘れぬ物に言問ひものし給こそわづらはしく侍れ。心ぐるしげなるありさまも、
見給へあまる心もや添ひはべらんと、身づからの心ながら知りがたくなむ」と、
うち笑ひて聞こゆれば、「いとうたてあることをも言ふ哉」と、何心もなげに
の給て、文ひろげたるを御覧ず。「見もせぬ」と言ひたるところを、あさまし
かりし御簾のつまをおぼしあはせらるゝに、御面赤みて、おとゞのさばかり
ことのついでごとに、「大将に見え給な。いはけなき御ありさまなめれば、を
のづからとりはづして、見たてまつるやうもありなむ」と、いましめきこえ
給をおぼし出づるに、大将の、さる事のありしと語りきこえたらん時、いか
にあはめ給はんと、人の見たてまつりけん事をばおぼさで、まづ憚りきこえ
給心のうちぞ幼かりける。
 常よりも御さしらへなければ、すさまじく、しゐて聞こゆべきことにもあら
ねば、ひき忍びて例の書く。

P303
  一日は、つれなし顔をなむ。めざましうとゆるしきこえざりしを、見ずも
  あらぬやいかに。あなかけかけし。
と、はやりかに走り書きて、
   いまさらに色にな出でそ山桜をよばぬ枝に心かけきと
  かひなきことを。
とあり。


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