25巻 蛍
畳語、繰り返し文字はゝ、ゞ、または文字になっています。
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いまはかく重重しきほどに、よろづのどやかにおぼししづめたる御ありさ
まなれば、頼みきこえさせ給へる人人、さまざまにつけて、みな思ふさまに
定まり、たゞよはしからで、あらまほしくて過ぐし給ふ。
対の姫君こそ、いとおしく、思ひのほかなる思ひ添ひて、いかにせむとおぼ
し乱るめれ。かの監がうかりしさまにはなずらふべきけはひならねど、かゝる
筋に、かけても人の思ひ寄りきこゆべき事ならねば、心ひとつにおぼしつゝ、
さま異にうとましと思ひきこえ給ふ。何事をもおぼし知りにたる御齢なれば、
とさまかうざまにおぼし集めつゝ、母君のおはせずなりにけるくちをしさも、
またとり返しおしくかなしくおぼゆ。
おとゞも、うち出でそめ給ひては、なかなか苦しくおぼせど、人目を憚り給
ひつゝ、はかなき事をもえ聞こえ給はず、苦しくもおぼさるゝまゝに、しげく
渡り給ひつゝ、御前の人とをくのどやかなるおりは、たゞならずけしきばみき
こえ給ふごとに、胸つぶれつゝ、けざやかにはしたなく聞こゆべきにはあらね
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ば、たゞ見知らぬさまにもてなしきこえ給ふ。人ざまのわららかにけ近くもの
したまへば、いたくまめだち、心し給へど、猶をかしく愛敬づきたるけはひの
み見え給へり。
兵部卿宮などは、まめやかに責めきこえ給ふ。御労の程はいくばくならぬ
に、さみだれになりぬる愁へをし給ひて、「すこしけ近きほどをだにゆるし給
はば、思ふ事をも片はし晴るけてしかな」と聞こえ給へるを、殿御覧じて、
「何かは、この君たちのすき給はむは、見どころありなむかし。もて離れてな
聞こえ給ひそ。御返りときどき聞こえ給へ」とて、教へて書かせたてまつりた
まへど、いとゝうたておぼえ給へば、乱り心ちあしとて聞こえ給はず。
人人も、ことにやむごとなくよせ重きなどもおさ<おさなし。たゞ母君の御
をぢなりけるさい将ばかりの人のむすめにて、心ばせなどくちおしからぬが、
世に衰へ残りたるを尋ねとり給へる、さい将の君とて、手などもよろしく書き、
おほかたもおとなびたる人なれば、さるべきおりおりの御返りなど書かせたま
へば、召し出でて、言葉などの給ひて書かせ給ふ。ものなどの給さまをゆか
しとおぼすなるべし。
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正身は、かくうたてあるものなげかしさの後は、この宮などはあはれげに聞
こえ給ふときは、すこし見入れ給ふ時もありけり。何かと思ふにはあらず、か
く心うき御けしき見ぬわざもがなと、さすがにされたるところつきておぼしけ
り。
殿は、あいなく、をのれ心げさうして、宮を待ちきこえ給ふも、知り給はで、
よろしき御返りのあるをめづらしがりて、いと忍びやかにおはしましたり。妻
戸の間に御褥まいらせて、御き丁ばかりを隔てにて、近きほどなり。いといた
う心して、そらだきもの心にくきほどに匂はして、つくろひおはするさま、親
にはあらで、むつかしきさかしら人の、さすがにあはれに見えたまふ。さい
将の君なども、人の御いらへ聞こえむ事もおぼえずはづかしくてゐたるを、
埋れたりと引きつみ給へば、いとわりなし。
夕闇過ぎて、おぼつかなき空のけしきの曇らはしきに、うちしめりたる宮の
御けはひも、いと艶なり。うちよりほのめく追風も、いとゞしき御匂ひのたち
添ひたれば、いと深くかほり満ちて、かねておぼししよりもおかしき御けはひ
を、心とゞめたまひけり。うち出でて、思ふ心のほどをの給ひつゞけたる言の
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葉おとなおとなしく、ひたふるにすきずきしくはあらで、いとけはひことなり。
おとゞ、いとおかしとほの聞きおはす。
姫君は、東面にひき入りて大殿籠りにけるを、さい将の君の御消息つたへ
にゐざり入りたるにっけて、「いとあまり暑かはしき御もてなしなり。よろづ
のこと、さまに従ひてこそめやすけれ。ひたふるに若び給ふべきさまにもあら
ず。この宮たちをさへさし放ちたる人づてに、聞こえ給まじきことなりかし。
御声こそおしみ給ふとも、すこしけ近くだにこそ」など、諫めきこえ給へど、
ゐとわりなくて、ことつけてもはいいり給ぬべき御心ばへなれば、とさまかう
ざまにわびしけれぱ、すべり出でて、母屋の際なる御き丁のもとに、かたはら
臥し給へる。
何くれと言長き御いらへ聞こえ給ふこともなくおぼしやすらふに、寄りたま
ひて、御き丁の帷子を一重うちかけ給ふにあはせて、さと光るもの、紙燭をさ
し出でたるかとあきれたり。蛍を薄きかたに、この夕つ方いと多くつゝみをき
て、光をつゝみ隠し給へりけるを、さりげなく、とかくひきつくろふやうにて、
にわかにかく掲焉に光れるに、あさましくて、扇をさし隠し給へるかたはら目
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いとおかしげなり。
おどろかしき光見えば、宮ものぞき給なむ、わがむすめとおぼすばかりの お
ぼえに、かくまでのたまふなめり、人ざまかたちなど、いとかくしも具したら
むとは、えをしはかり給はじ、いとよくすき給ひぬべき心まどはさむ、と構へ
ありき給ふなりけり。まことのわが姫君をば、かくしももてさはぎ給はじ、う
たてある御心なりけり。
異方より、やをらすべり出でて渡り給ひぬ。
宮は、人のおはするほど、さばかりとをしはかり給ふが、すこしけ近きけは
ひするに、御心ときめきせられ給ひて、えならぬ羅のかたびらの隙より見入
れ給へるに、一間ばかり隔てたる見わたしに、かくおぼえなき光のうちほのめ
くを、おかしと見たまふ。程もなくまぎらはして隠しつ。されど、ほのかなる
光、艶なることのつまにもしつべく見ゆ。
ほのかなれど、そびやかに臥し給へりつる様体のおかしかりつるを、飽かず
おぼして、げにこのこと御心にしみにけり。
「なく声もきこえぬ虫の思ひだに人の消つにはきゆるものかは
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思ひ知り給ひぬや」と聞こえ給ふ。かやうの御返しを、思まはさむもねぢけた
れば、ときばかりをぞ、
声はせで身をのみこがす蛍こそいふよりまさるおもひなるらめ
など、はかなく聞こえなして、御みづからはひき入り給ひにければ、いとはる
かにもてなし給ふうれはしさを、いみじくうらみきこえ給ふ。すきずきしきや
うなれば、ゐたまひも明かさで、軒の雫も苦しさに、濡れ濡れ夜深く出で給ひ
ぬ。
ほとゝぎすなど必ずうち鳴きけむかし、うるさければこそ聞きもとめね。御
けはひなどのなまめかしさは、いとよくおとゞの君に似たてまつり給へり、と
人人もめできこえけり。よべいと女親だちてつくろひ給ひし御けはひを、う
ちうちは知らで、「あはれにかたじけなし」とみな言ふ。
姫君は、かくさすがなる御けしきを、わが身づからのうさぞかし、親などに
知られたてまつり、世の人めきたるさまにて、かやうなる御心ばへならましか
ば、などかはいと似げなくもあらまし、人に似ぬありさまこそ、つゐに世語り
にやならむ、と起き臥しおぼし悩む。さるは、まことにゆかしげなきさまには
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もてなしはてじ、とおとどはおぼしけり。
なをさる御心癖なれば、中宮なども、いとうるはしくや思ひきこえ給へる、
事にふれつゝ、たゞならず聞こえ動かしなどし給へど、やむごとなき方のをよ
びなくわづらはしさに、おり立ちあらはしきこえ寄り給はぬを、この君は、人
の御さまもけ近くいまめきたるに、をのづから思ひ忍びがたきに、おりおり人
見たてまつりつけば、疑ひ負ひぬべき御もてなしなどばうちまじるわざなれど、
ありがたくおぼし返しつゝ、さすがなる御伸なりけり。
五日には、馬場のおとゞに出で給けるついでに、渡り給へり。「いかにぞや。
宮は夜やふかし給ひし。いたくも馴らしきこえじ。わづらはしきけ添ひ給へる
人ぞや。人の心やぶり、もののあやまちすまじき人は、難くこそありけれ」な
ど、活けみ殺しみいましめおはする御さま、尽きせず若くきよげに見え給。つ
やも色もこぼるばかりなる御衣に、なをしはかなく重なれるあはひも、いづこ
に加はれるきよらにかあらむ、この世の人の染め出だしたると見えず、常の色
も変へぬあやめも、けふはめづらかにおかしくおぼゆるかほりなども、思ふ事
なくはおかしかりぬべき御ありさまかな、と姫君おぼす。
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宮より御文あり。白き薄様にて、御手はいとよしありて書きなし給へり。見
るほどこそおかしけれ、まねび出づれば、ことなることなしや。
けふさへやひく人もなき水隠れに生ふるあやめのねのみなかれん
ためしにも引き出でつべき根に結びつけ給へれば、「けふの御返り」などそゝ
のかしをきて出で給ひぬ。これかれも、なをと聞こゆれば、御心にもいかゞお
ぼしけむ、
あらはれていとゞ浅くも見ゆるかなあやめもわかずなかれけるねの
若若しく。
と、ばかりほのかにぞあめる。手をいますこしゆへづけたらばと、宮は好ましき
御心に、いさゝか飽かぬことと見たまひけむかし。
薬玉など、えならぬさまにて、所所より多かり。おぼし沈みつる年ごろの
なごりりなき御ありさまにて、心ゆるび給ふ事も多かるに、おなじくは人のきず
つくばかりのことなくてもやみにしかな、といかゞおぼさざらむ。
殿は、東の御方にもさしのぞき給ひて、「中将のけふの司の手結ひのついで
に、男ども引き連れてものすべきさまに言ひしを、さる心し給へ。まだ明かき
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ほどに来なむものぞ。あやしくこゝにはわざとならず忍ぶることをも、この親
王たちの聞きつけて、とぶらひものし給へば、をのづからことことしくなむあ
るを、ようゐしたまへ」など聞こえ給ふ。
馬場のおとじは、こなたの廊より見とおす、ほどとをからず。「若き人々、
渡殿の戸あけてもの見よや。左の司にいとよしある官入多かるころなり。少
少の殿上人におとるまじ」とのたまへば、もの見むことをいと牡かしと思へ
りo
対の御方よりも、童べなどもの見に渡り来て、廊の戸口に御簾青やかにかけ
わたして、いまめきたる裾濃の御き丁ども立てわたし、童、下仕へなどさまよ
ふ。菖蒲襲の衵、二藍の羅の汗衫着たる童べぞ、西の対のなめる、好ましく
馴れたるかぎり四人、下仕へぱ棟の裾濃の裳、撫子の若葉の色したる唐衣、け
ふの装ひどもなり。
こなたのは濃き一かさねに、撫子襲の汗衫などおほどかにて、をのをのいど
み顔なるもてなし、見どころあり。若やかなる殿上人などは、目をたててけし
きばむ。
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未の時に、馬場のおとぐに出で給ひて、げに親王たちおはし集ひたり。手結
ひのおほやけごとにはさま変はりて、すけたちかき連れまいりて、さまことに
いまめかしく遊び暮らし給ふ。女は、何のあやめも知らぬことなれど、舎人ど
もさへ艶なる装束を尽くして、身を投げたる手まどはしなどを見るぞおかしか
りける。
南の町もとをしてはるばるとあれば、あなたにもかやうの若き人どもは見け
り。打毬楽、落蹲など遊びて、勝ち負けの乱声どもののゝしるも、夜に入りはて
て、何事も見えずなりはてぬ。舎人どもの禄品品給はる。いたくふけて、人
びとみなあかれ給ひぬ。
おとゞは、こなたに大殿籠りぬ。物語りなど聞こえ給て、「兵部卿宮の、
人よりはこよなくものし給かな。かたちなどはすぐれねど、ようゐけしきなど
よしあり、愛敬づきたる君なり。忍びて見たまひつや、よしと言へど、なをこ
そあれ」とのたまふ。「御おとうとにこそものし給へど、ねびまさりてぞ見え
給ひける。年ごろかくおり過ぐさず渡りむつびきこえ給ふと聞き侍れど、むか
しの内わたりにてほの見たてまつりし後、おぼつかなしかし。いとよくこそか
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たちなどねびまさり給ひにけれ。帥の親王よくものしたまふめれど、けはひ劣
りて、大君けしきにぞものし給ひける」とのたまへば、ふと見知りたまひにけ
りとおぼせど、ほゝ笑みて、なをあるを、よしともあしともかけ給はず。
人の上を難つけ、おとしめざまの事言ふ人をば、いとおしきものにしたまへ
ば、右大将などをだに、心にくき人にすめるを。何ばかりかはある、近きよす
がにて見むは、飽かぬ事にやあらむ、と見たまへど、言にあらはしてものたま
はず。
いまはただおほかたの御むつびにて、御座などもことことにて大殿籠る。な
どてかく離れそめしぞと殿は苦しがり給ふ。おほかた何やかやともそばみきこ
え給はで、年ごろかくおりふしにつけたる御遊びどもを、人づてに見聞き給ひ
けるに、けふめづらしかるつることばかりをぞ、この町のおぼえきらぎらしと
おぼしたる。
その駒もすさめぬ草と名にたてるみぎはのあやめけふやひきつる
とおほどかに聞こえ給。何ばかりの事にもあらねど、あはれとおぼしたり。
にほどりに影をならぶる若駒はいつかあやめにひきわかるべき
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あいだちなき御事どもなりや。「朝夕の隔てあるやうなれど、かくて見たてま
つるは心やすくこそあれ」。たはぶれ事なれど、のどやかにおはする人ざまな
れば、しづまりて聞こえなし給ふ。床をば譲りきこえ給ひて、御き丁ひき隔て
て大殿籠る。け近くなどあらむ筋をば、いと似げなかるべき筋に思ひ離れはて
聞こえ給へれば、あながちにも聞こえ給はず。
長雨例の年よりもいたくして、晴るゝ方なくつれづれなれば、御方方、絵
物語などのすさびにて明かし暮らし給ふ。明石の御方は、さやうのことをもよ
しありてしなし給て、姫君の御方にたてまつり給ふ。
西の対にはましてめづらしくおぼえ給ことの筋なれば、明け暮れ書き読みい
となみおはす。つきなからぬ若人あまたあり。さまざまにめづらかなる人の上
などを、まことにやいつはりにや、言ひ集めたる中にも、わがありさまのやう
なるはなかりけりと見たまふ。
住吉の姫君のさしあたりけむおりはさるものにて、いまの世のおぼえもなを
心ことなめるに、主計の頭がほとほとしかりけむなどぞ、かの監がゆゝしさを
おぼしなずらへ給ふ。
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殿も、こなたかなたにかゝるものどもの散りつゝ、御目に離れねば、「あな
むつかし。女こそものうるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ。こ
ゝらのなかに、まことはいと少なからむを、かつ知る知る、かゝるすゞろ事に
心を移し、はかられ給ひて、暑かはしきさみだれの、髪の乱るゝも知らで書き
給ふよ」とて、笑ひ給ものから、また、「かゝる世の古事ならでは、げに何を
か紛るゝことなきつれづれを慰めまし。さてもこのいつはりどもの中に、げに
さもあらむとあはれを見せ、つきづきしくつゞけたる、はた、はかなしことと
知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君のもの思へる見るに、かた
心つくかし。またいとあるまじき事かなと見る見る、おどろおどろしくとりなし
けるが目おどろきて、静かにまた聞くたびぞ、にくけれどふとおかしきふしあ
らはなるなどもあるべし。このごろおさなき人の、女房などに時時読まする
を立ち聞けば、ものよく言ふ者の世にあるべきかな。そらごとをよくし馴れた
る口つきよりぞ言ひ出だすらむとおぼゆれど、さしもあらじや」とのたまへば、
「げにいつはり馴れたる人や、さまざまにさも酌み侍らむ。たゞいとまことの
こととこそ思ふ給へられけれ」とて、硯をおしやり給へば、「骨なくも聞こえ
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おとしてけるかな。神代より世にあることを記しをきけるななり。日本記など
はたゞかたそばぞかし、これらにこそ道道しくくはしき事はあらめ」とて笑
ひ給ふ。
「その人の上とて、ありのまゝに言ひ出づる事こそなけれ、よきもあしきも
世に経る人のありさまの、見るにも飽かず聞くにもあまることを、後の世にも
言ひ伝へさせまほしきふしぶしを、心にこめがたくて言ひをきはじめたるなり。
よきさまに言ふとては、よき事のかぎり選り出でて、人に従ばむとては、又あ
しきさまのめづらしき事をとり集めたる、みなかたがたにつけたるこの世の外
のことならずかし、人のみかどの才、つくりやう変はる。おなじ大和の国のこ
となれば、むかしいまのに変はるべし、深きこと浅き事のけぢめこそあらめ、
ひたふるにそら事ど言ひはてむも、ことの心たがひてなむありける。仏のいと
うるはしき心にて説きをき給へる御法も、方便といふ事ありて、悟りなき者は、
こゝかしこ違ふ疑ひをおきつべくなん、方等経の中に多かれど、言ひもてゆけ
ば、一つ旨にありて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この人のよきあしきばかり
の事は変はりける。よく言へば、すべて何事もむなしからずなりぬや」と、物
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語をいとわざとのことにのたまひなしつ。
「さてかゝる古事の中に、まろがやうにじほうなる痴者の物語はありや。い
みじくけどをき、ものの姫君も、御心のやうにつれなく、そらおぼめきしたる
は世にあらじな。いざ、たぐひなき物語にして、世に伝へさせんLと、さし寄
りて聞こえ給へば、顔をひき入れて、「さらずとも、かくめづらかなる事は、
世語りにこそはなり侍ぬべかめれ」とのたまへば、「めづらかにやおぼえ給。
げにこそまたなき心ちすれ」とて寄りゐたまへるさま、いとあざれたり。
「思ひあまりむかしのあとをたづぬれど親にそむける子ぞたぐひなき
不孝なるは、仏の道にもいみじくこそ言ひたれ」とのたまへど、顔ももたげ給
はねば、御髪をかきやりゝ、いみじくうらみ給へば、からうして、
ふるきあとをたづぬれどげになかりけりこの世にかゝる親の心は
と聞こえ給も、心はづかしければ、いといたくも乱れ給はず。
かくしていかなるべき御ありさまならむ。
紫の上も、姫君の御あつらへにことっけて、物語は捨てがたくおぼしたり。
くまのの物語の絵にてあるを、「いとよくかきたる絵かなしとて御覧ず。ちゐ
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さき女君の何心もなくて昼寝したまへる所を、むかしのありさまおぼ出でて、
女君は見たまふ。
「かゝる童どちだに、いかにされたりけり。まろこそなをためしにしつべく、
心のどけさは人に似ざりけれ」と聞こえ出で給へり。げにたぐひ多からぬ事ど
もは、好み集め給へりけりかし。
「姫君の御前にて、この世馴れたる物語などな読み聞かせ給ひそ。みそか心
つきたるもののむすめなどは、おかしとにはあらねど、かゝる事、世にはあり
けりと見馴れ給はむぞゆゝしきや」とのたまふもこよなしと、対の御 方聞き給
はば、心をき給ひつべくなむ。
上、「心あさげなる人まねどもは、見るにもかたはらいたくこそ。うつほの
藤原君のむすめこそ、いと重りかにはかばかしき人にて、あやまちなかめれど、
すくよかに一言ひ出でたる事もしわざも、女しき所なかめるぞひとやうなめる」
とのたまへば、「うつゝの人もさぞあるべかめる。人人しく立てたるおもむ
き異にて、よきほどに溝へぬや。よしなからぬ親の心とゞめて生ほしたてたる
人の、子めかしきを生けるしるしにて、をくれたる事多かるは、何わざしてか
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しづきしぞと、親のしわざさへ思ひやらるゝこそいとをしけれ。げにさ言へど、
その人のけはひよと見えたるは、かひあり、面立たしかし。言葉のかぎりまば
ゆくほめをきたるに、し出でたるわざ、言ひ出でたることの中に、げにと見え
聞こゆる事なき、いと見をとりするわざなり。すべて、よからぬ人に、いかで
人ほめさせじ」など、たゞこの姫君の点つかれ給ふまじくとよろづにおぼしの
たまふ。
まゝ母の腹きたなき昔物語も多かるを、此比、心見えに心づきなしとおぼせ
ば、いみじく選りつゝなむ、書きとゝのへさせ、絵などにもかゝせ給ひける。
申将の君を、こなたにはけどをくもてなしきこえ給へれど、姫君の御方には、
さしもさし放ちきこえ給はず、ならはし給ふ。わが世の程は、とてもかくても
おなじことなれど、なからむ世を思ひやるに、なを見つき思ひしみぬる事ども
こそ、とりわきてはおぼゆべけれとて、南面の御簾のうちはゆるし給へり。台
盤所、女房のなかはゆるし給はず。あまたおはせぬ御仲らひにて、いとやむご
となくかしづききこえ給へり。
おほかたの心もちゐなども、いとものものしくまめやかにものし給ふ君なれ
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ば、うしろやすくおぼし譲れり。まだいはけたる御雛遊びなどのけはひの見
ゆれば、かの人のもろともに遊びて、過ぐしし年月の、まづ思ひ出でらるれば、
ひゐなの殿の宮仕へいとよくし給ひて、おりおりにうちしほれ給けり。
さもありぬべきあたりには、はかなし言ものたまひ触るゝはあまたあれど、
頼みかくべくもしなさず。さる方になどかは見ざらむと心とまりぬべきをも、
しゐてなをざり事にしなして、なをかの緑の袖を見えなをしてしかなと思ふ心
のみぞ、やむごとなきふしにはとまりける。
あながちになどかゝづらひまどはば、たふるゝ方にゆるし給ひしもつべかめ
れど、つらしと思ひしおりおり、いかで人にもことはらせたてまつらむと思ひ
をきし忘れがたくて、正身ばかりには、をろかならぬあはれを尽くし見せて、
おほかたには焦られ思へらず。
せうとの君たちなども、なまねたしなどのみ思ふこと多かり。対の姫君の御
ありさまを、右大将はいと深く思ひしみて、言ひ寄るたよりもいとはかなけれ
ば、この君をぞかこち寄りけれど、「人の上にては、もどかしきわざなりけり」
とつれなくいらへてぞものし給ひける。むかしの父おとゞたちの御仲らひに似
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たり。
内のおとゞは、御子ども腹腹いと多かるに、その生ひ出でたるおぼえ、人
がらに従ひつゝ、心にまかせたるやうなるおぼえ御勢ひにて、みななし立て給
ふ。
女はあまたもおはせぬを、女御もかくおぼししことのとゞこほり給ひ、姫君
もかくこと違ふさまにてものしたまへば、いとくちおしとおぼす。かの撫子を
忘れ給はず、もののおりにも語り出で給ひしことなれば、いかになりにけむ、
ものはかなかりける親の心にひかれて、らうたげなりし人を、行ゑ知らずな
りにたること、すべて女子といはむものなん、いかにもいかにも目放つまじか
りける、さかしらにわが子と言ひて、あやしきさまにてはふれやすらむ、とて
もかくても聞こえ出で来ば、とあはれにおぼしわたる。
君たちにも、「もしさやうなる名のりする人あらば、耳とゞめよ、心のすさ
びにまかせて、さるまじき事も多かりし中に、これは、いとしかをしなべての
際にも思はざりし人の、はかなきものうむじをして、かく少なかりけるものの
くさはひ一つを失ひたることのくちおしき事」と常にのたまひ出づ。中ごろな
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どはさしもあらず、うち忘れ給ひけるを、人のさまざまにつけて、おんな子か
しづきたまへるたぐひどもに、わが思ほすにしもかなはぬが、いと心うく本意
なくおぼすなりけり。
夢見たまひて、いとよく合はする者召して合はせ給ひけるに、「もし年ごろ
御心に知られ給はぬ御子を、人のものになして、聞こしめし出づることや」と
聞こえたりければ、、女子の人の子になる事はおさおさなしかし。いかなる事
にかあらむ」など、このごろぞおぼしのたまふべかめる。