21巻 少 女
畳語、繰り返し文字は文字に直してあります。
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年かはりて、宮の御果ても過ぎぬれば、世中いろ改まりて、更衣のほどなど
もいまめかしきを、まして祭のころは、大方の空のけしき心ちよげなるに、前
斎院はつれづれとながめ給を、前なる桂の下風なつかしきにつけても、若き人
ひとは思ひ出づることどもあるに、大殿より、「御禊の日はいかにのどやかに
おぼさるらむ」と、とぶらひきこえさせ給へり。
けふは、
かけきやは川瀬の波もたちかへり君がみそぎのふぢのやつれを
紫の紙、立文すくよかにて藤の花につけ給へり。おりのあはれなれば、御
返あり。
ふぢごろも着しはきのふと思ふまにけふはみそぎの瀬にかはる世を
はかなく。
とばかりあるを、例の、御目とめ給て見をはす。御服なをしのほどなどにも、
宣旨のもとに、所せきまでおぼしやれることどもあるを、院は見ぐるしきこと
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におぼしの給へど、をかしやかに、けしきばめる御文などのあらばこそ、とか
くも聞こえ返さめ、年ごろも、おほやけざまのおりおりの御とぶらひなどは聞
こえならはし給て、いとまめやかなれば、いかがは聞こえもまぎらはすべから
む、とてもわづらふべし。
女五の宮の御方にも、かやうにおり過ぐさず聞こえ給へば、いとあはれに、
「この君の、きのふけふの児と思ひしを、かくおとなびてとぶらひ給ふこと。
かたちのいともきよらなるに添へて、心さへこそ人にはことに生ひ出で給へ
れ」とほめきこえ給を、若き人ひとは笑ひきこゆ。
こなたにも対面し給おりは、「このおとどの、かくいとねんごろに聞こえ
給めるを、何か、いま始めたる御心ざしにもあらず。故宮も、すぢ異になり
給て、え見たてまつり給はぬ嘆きをし給ては、「思ひたちしことをあながちに
もて離れ給しこと」などの給ひ出でつつ、くやしげにこそおぼしたりしおり
おりありしか。されど、故大殿の姫君ものせられしかぎりは、三宮の思ひ給は
むことのいとをしさに、とかく事添へきこゆることもなかりしなり。いまは、
そのやむごとなくえさらぬ筋にてものせられし人さへ亡くなられにしかば、げ
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に、などてかは、さやうにておはせましもあしかるまじ、とうちおぼえ侍にも、
さらがへりてかくねんごろに聞こえ給も、さるべきにもあらんとなむ思ひ侍」
など、いと古体に聞こえ給を、心づきなしとおぼして、「故宮にも、しか心ご
はきものに思はれたてまつりて過ぎ侍にしを、いまさらにまた世になびきはべ
らんも、いとつきなきことになむ」と聞こえ給て、はづかしげなる御けしきな
れば、しゐてもえ聞こえおもむけ給はず
宮人も、上下みな心かけきこえたれば、世中いとうしろめたくのみおぼさる
れど、かの御身づからは、我心を尽くし、あはれを見えきこえて、人の御けし
きのうちもゆるばむほどをこそ待ちわたり給へ。さやうにあながちなるさまに、
御心やぶりきこえんなどは、おぼさざるべし。
大殿腹の若君の御元服のことおぼしいそぐを、二条の院にてとおぼせど、大
宮のいとゆかしげにおぼしたるもことはりに心ぐるしければ、なをやがてかの
殿にてせさせたてまつり給。右大将をはじめきこえて、御おぢの殿ばら、みな
上達部のやむごとなき御おぼえことにてのみものし給へば、あるじ方にも、我
もわれもとさるべきことどもはとりどりに仕うまつり給。大方世ゆすりて、所
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せき御いそぎのいきおひなり。
四位になしてんとおぼし、世人もさぞあらんと思へるを、まだいときびはな
るほどを、わが心にまかせたる世にて、しかゆくりなからんも中なか目馴れた
ることなり、とおぼしとどめつ。浅葱にて殿上に還り給を、大宮は、飽かずあ
さましきこととおぼしたるぞ、ことはりにいとをしかりける。
御対面ありて、この事聞こえ給に、「ただいま、かうあながちにしも、まだ
きにをいつかすまじう侍れど、思ふやう侍て、大学の道にしばし習はさむの本
意侍により、いま二三年をいたづらの年に思ひなして、をのづからおほやけ
にも仕うまつりぬべきほどにならば、いま人となり侍なむ。身づからは、九重
のうちに生いいで侍て、世中のありさまも知り侍らず、夜昼御前にさぶらひて、
わづかになむはかなき書なども習ひ侍し。ただ、かしこき御手より伝へ侍しだ
に、何ごとも広き心を知らぬほどは、文のざへをまねぶにも、琴ふゑの調べに
も、音たえずをよばぬ所の多くなむ侍ける。はかなき親にかしこき子のまさる
ためしは、いとかたきことになむ侍れば、ましてつぎつぎ伝はりつつ、隔たり
ゆかむほどの行先、いとうしろめたなきによりてなむ、思ひ給へをきて侍。高
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き家の子として、官爵心にかなひ、世の中盛りにをごりならひぬれば、学問
などに身を苦しめむことは、いととをくなむおぼゆべかめる。たはぶれ遊びを
好みて、心のままなる官爵にのぼりぬれば、時に従ふ世人の、下には鼻まじ
ろきをしつつ、追従し、けしきとりつつ従ふほどは、をのづから人とおぼえて
やむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人にたちをくれて、世衰ふる末に
は、人に軽め侮らるるに、とるところなきことになむ侍。なを、才をもととし
てこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強う侍らめ。さし当たりては心もとな
きやうに侍れども、つゐの世の重しとなるべき心をきてをならひなば、侍らず
なりなむのちもうしろやすかるべきによりなむ。ただいまははかばかしからず
ながらも、かくてはぐくみ侍らば、せまりたる大学の衆とて、笑ひ侮る人もよ
も侍らじと思ふ給ふる」など聞こえ知らせ給へば、うち嘆き給て、「げにかく
もおぼし寄るべかりけることを、この大将なども、あまりひき違へたる御こと
なり、とかたぶけはべるめるを、このおさな心ちにもいとくちおしく、大将、
左衛門督の子どもなどを、われよりは下らうと思ひおとしたりしだに、みなを
のをの加階しのぼりつつ、およすげあへるに、浅葱をいとからしと思はれたる
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に、心ぐるしく侍なり」と聞こえ給へば、うち笑ひ給て、「いとおよすげても
うらみ侍ななりな。いとはかなしや、この人のほどよ」とて、いとうつくしと
おぼしたり。「学問などして、すこしものの心得侍らば、そのうらみはをのづ
からとけ侍なん」と聞こえ給。
字つくることは、東の院にてしたまふ。東の対をしつらはれたり。上達部、
殿上人、めづらしくいぶかしきことにして、我も我もと集ひまいり給へり。博
士どもも、中なか臆しぬべし。「憚る所なく、例あらむにまかせて、なだむる
事なく、きびしうをこなへ」と仰せ給へば、しいてつれなく思ひなして、家よ
りほかにもとめたるそうぞくどもの、うちあはずかたくなしき姿などをもはぢ
なく、面もち、こはづかひ、むべむべしくもてなしつつ、座につき並びたるさ
ほうよりはじめ、見も知らぬさまどもなり。
若き君達は、え耐へずほう笑まれぬ。さるは、もの笑ひなどすまじく、過ぐ
しつつ、しづまれるかぎりをと選り出だして、瓶子なども取らせ給へるに、筋
ことなりけるまじらひにて、右大将、民部卿などの、おほなおほな土器取り給へ
るを、あさましく咎め出でつつをろす。
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「おほし垣下あるじ、はなはだ非常に侍りたうぶ。かくばかりのしるしとあ
るなにがしを知らずしてや、おほやけには仕うまつりたうぶ。はなはだおこな
り」など言ふに、人人みなほころびて笑ひぬれば、また、「鳴り高し。鳴りや
まむ。はなはだ非常也。座を退きて立ちたうびなん」など、をどし言ふもい
とおかし。
見ならひ給はぬ人人は、めづらしくけうありと思ひ、この道より出で立ち給
へる上達部などは、したり顔にうちほほ笑みなどしつつ、かかる方ざまをおぼ
し好みて、心ざし給がめでたきことと、いとど限りなく思ひきこえ給へり。い
ささかもの言ふをも制す、なめげなりのても咎む、かしかましうののしりをる
顔どもも、夜に入りては、中なかいますこし掲焉なる火陰に、猿楽がましくわ
びしげに人わるげなるなど、さまざまに。げにいとなべてならず、さま異なる
わざなりけり。
おとどは、「いとあざれ、かたくななる身にて、けうさうしまどはかされな
ん」との給て、御簾のうちに隠れてぞ御覧じける。数定まれる座に着きあまり
て、帰りまかづる大学の衆どもあるを聞こしめして、釣殿の方に召しとどめて、
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ことに物などたまはせけり。
こと果ててまかづる博士、才人ども召して、またまた文作らせ給。上達部、
殿上人も、さるべきかぎりをば、みなとどめさぶらはせ給。博士の人ひとは四
韻、ただの人は、おとどをはじめたてまつりて、絶句作り給。興ある題の文字
選りて、文章博士たてまつる。短きころの夜なれば、明けはててぞ講ずる。左
中弁、講師仕うまつる。かたちいときよげなる人の、こはづかひものものしく、
神さびて読みあげたるほど、おもしろし。おぼえ心ことなる博士なりけり。
かかる高きいゑに生まれ給て、世界のゑい花にのみたはぶれ給べき御身をもち
て、窓の蛍を睦び、枝の雪を馴らし給心ざしのすぐれたるよしを、よろづの
ことによそへなずらへて心こころに作りあつめたる、句ごとにおもしろく、唐土
にも持て渡り伝へまほしげなる夜の文どもなりとなむ、そのころ世にめでゆす
りける。おとどの御はさらなり、親めきあはれなることさへすぐれたるを、涙
落として誦じ騒ぎしかど、女のえ知らぬことまねぶはにくきことをと、うたて
あれば漏らしつ。
うちつづき、にうがくといふことせさせ給て、やがてこの院の内に御曹司つ
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くりて、まめやかに才深き師に預けきこえ給てぞ、学問せさせたてまつり給け
る。大宮の御もとにも、おさおさまうで給はず。夜昼うつくしみて、なを児の
やうにのみもてなしきこえ給へれば、かしこにてはえもの習ひ給はじとて、静
かなる所にこめたてまつり給へるなりけり。一月に三たびばかりを、まいり給
へとぞ、ゆるしきこえ給ける。
つとこもりゐ給て、いぶせきままに、殿を、つらくもおはしますかな、かく
苦しからでも、高き位にのぼり、世に用ゐらるる人はなくやはある、と思きこ
え給へど、大方の人がらまめやかに、あだめきたる所なくおはすれば、いとよ
く念じて、いかでさるべき書どもとく読みはてて、まじらひもし、世にも出で
たらんと思て、ただ四五月のうちに、史記などいふ書、読みはて給てけり。
いまは寮試受けさせむとて、まづ我御前にて心みさせ給。例の大将、左大弁、
式部大輔、左中弁などばかりして、御師の大内記を召して、史記の難き巻まき、
寮試受けんに、博士のかへさふべきふしぶしを引き出でて、ひとわたり読ませ
たてまつり給に、いたらぬ句もなく、かたがたに通はし読み給へるさま、爪じ
るし残らず、あさましきまでありがたければ、さるべきにこそおはしけれど、
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たれもたれも涙落とし給。大将は、まして、「故おとどおはせましかば」と聞こ
え出でて泣き給。殿も、え心づようもてなし給はず、「人の上にて、かたくな
なりと見聞き侍しを、子のおとなぶるに、親の立ちかはり痴れゆくことは、
いくばくならぬ齢ながら、かかる世にこそ侍けれ」などの給ひて、をしのごひ
給を見る御師の心ち、うれしく面目ありと思へり。
大将盃さし給へば、いたう酔い痴れておる顔つき、いと痩せやせなり。世
のひがものにて、才のほどよりは用ゐられず、すげなくて身貧しくなむありけ
るを、御覧じ得る所ありて、かくとりわき召し寄せたるなりけり。身にあまる
まで御かへりみを給りて、この君の御徳にたちまちに身をかへたると思へば、
まして行く先は並ぶ人なきおぼえにぞあらんかし。
大学にまいり給日は、寮門に上達部の御車ども数知らず集ひたり。大方世
に残りたるあらじと見えたるに、又なくもてかしづかれて、つくろはれ入り給
へる冠者の君の御さま、げにかかるまじらひにはたへず、あてにうつくしげな
り。
例の、あやしき者どもの立ちまじりつつ、来いたる座の末をからしとおぼす
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ぞ、いとことはりなるや。ここにても、またおろしののしる者どもありて、め
ざましけれど、すこしも臆せず読みはて給つ。
むかしおぼえて大学の栄ゆるころなれば、上中下の人、我も我もとこの道に
心ざし集まれば、いよいよ世の中に、才ありはかばかしき人多くなんありける。
文人擬生などいふなる事どもよりうちはじめ、すがすがしうはて給へれば、ひ
とへに心に入れて、師も弟子もいとどはげみまし給。殿にも文作りしげく、博
士、才人ども所得たり。すべて何事につけても、道みちの人の才のほど現る
る世になむありける。
かくて、后ゐ給べきを、「斎宮女御をこそは、母宮も後見と譲りきこえ給し
かば」と、おとどもことづけ給。源氏のうちしきり后にゐ給はんこと、世の人
ゆるしきこえず、弘毅殿の、まづ人より先にまいり給にしもいかがなど、うち
うちに、こなたかなたに心寄せきこゆる人ひと、おぼつかながりきこゆ。兵部
卿宮と聞こえしは、いまは式部卿にて、この御時にはましてやんごとなき御
おぼえにておはする、御むすめ本意ありてまいり給へり。おなじごと王女御に
てさぶらひ給を、おなじくは、御母方にて親しくおはすべきにこそは、母后の
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をはしまさぬ御かはりの後見にとことよせて、似つかはしかるべくとりどりに
おぼし争ひたれど、なを梅壷ゐ給ぬ。御幸いの、かくひきかへすぐれ給へりけ
るを、世の人おどろききこゆ。
おとど、太政大臣にあがり給て、大将、内大臣になり給ぬ。世の中のことど
もまつりごち給べく、譲りきこえ給。人がらいとすくよかに、きらぎらしくて、
心用ゐなどもかしこくものしたまふ。学問をたててし給ければ、韻塞には負け
給しかど、公事にかしこくなむ。腹ばらに御子ども十余人、おとなびつつも
のし給ふも、次つぎになり出でつつ、劣らず栄へたる御いゑのうちなり。
女は女御といま一所なむおはしける。わかんどをり腹にて、あてなる筋は劣
るまじけれど、その母君、按察使の大納言の北方になりて、さしむかへる子ど
もの数多くなりて、それにまぜて後の親に譲らむいとあいなしとて、とり放ち
きこえ給ひて、大宮にぞ預けきこえ給へりける。女御には、こよなく思おとし
きこえ給つれど、人がらのかたちなどいとうつくしくぞおはしける。
冠者の君、ひとつにて生ひ出で給しかど、をのをのとおにあまり給てのちは、
御方異にて、「むつましき人なれど、おのこ子にはうちとくまじき者なり」と、
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父おとど聞こえ給て、けどをくなりにたるを、おさな心ちに思ふことなきにし
もあらねば、はかなき花紅葉につけても、雛遊びの追従をも、ねんごろにまつ
はれありきて、心ざしを見えきこえ給へば、いみじう思ひかはして、けざやか
にはいまもはぢきこえたまはず。御後見どもも、何かは、若き御心どちなれば、
年ごろ見ならひ給へる御あはひを、にわかにもいかがはもて離れ、はしたなめ
はきこえんと見るに、女君こそ何心なくおはすれど、おとこはさこそものげな
きほどと見きこゆれ、おほけなくいかなる御仲らひにかありけん、よそよそに
なりては、これをぞ静心なく思ふべき。まだかたおいなる手の、生い先うつく
しきにて、書きかはしたまへる文どもの、心おさなくて、をのづから落ち散る
おりあるを、御方の人ひとは、ほのぼの知れるもありけれど、何かは、かくこ
そとたれにも聞こえん、見隠しつつあるなるべし。
所どころの大饗どもも果てて、世中の御いそぎもなく、のどやかになりぬる
ころ、しぐれうちしておぎの上風もただならぬ夕暮れに、大宮の御方に内のお
とどまいり給て、姫君渡しきこえ給て、御琴など弾かせたてまつり給。宮はよ
ろづのものの上手におはすれば、いづれも伝へたてまつり給。
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「琵琶こそ、女のしたるににくきやうなれど、らうらうじきものに侍れ。い
まの世にまことしう伝へたる人おさおさ侍らずなりにたり。なにの親王、くれ
の源氏」など数へ給て、「女のなかには、おほきおとどの山里にこめをき給へ
る人こそ、いと上手に聞き侍れ。ものの上手ののちに侍れど、末になりて、山
がつにて年経たる人のいかでさしも弾きすぐれけん。かのおとど、いと心こと
にこそ思ひてのたまふおりおり侍れ。他事よりは、遊びの方の才はなを広う合
はせ、かれこれに通はし侍こそかしこけれ、ひとりごとにて上手となりけんこ
そ、めづらしきことなれ」などのたまひて、宮にそそのかしきこえ給へば、
「柱さすことうゐうゐしくなりにけりや」との給へど、おもしろう弾きたまふ。
「幸いにうち添へて、猶あやしうめでたかりける人なりや。老いの世に、持た
まへらぬ女子をまうけさせたてまつりて、身に添へてもやつしゐたらず、やむ
ごとなきに譲れる心おきて、こともなかるべき人なりとぞ聞き侍」など、か
つ御もの語り聞こえ給。
「女はただ心ばせよりこそ、世に用ゐらるる物に侍けれ」など、人の上のた
まひゐでて、「女御を、けしうはあらず、何事も人に劣りては生ひ出でずかし
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と思給しかど、思はぬ人にをされぬる宿世になん、世は思ひのほかなるもの
と思ひ侍ぬる。この君をだに、いかで思ふさまに見なし侍らん。東宮の御元服
ただいまのことになりぬるをと、人知れず思ふ給へ心ざしたるを、かういふさ
いわい人の腹の后がねこそ、又をひ次ぎぬれ。立ち出で給へらんに、ましてき
しろふ人ありがたくや」とうち嘆き給へば、「などかさしもあらむ。このいゑ
にさる筋の人出でものし給はでやむやうあらじと、故おとどの思ひ給て、女御
の御ことをもゐたちいそぎ給しものを、おはせましかば、かくもてひがむるこ
ともなからまし」など、この御ことにてぞ、おほきおとどもうらめしげに思ひ
きこえたまへる。
姫君の御さまのいときびはにうつくしうて、筝の御琴弾き給を、御髪のさが
り、髪ざしなどのあてになまめかしきをうちまもり給へば、はぢらひてすこし
側み給へるかたはら目、つらつきうつくしげにて、とりゆの手つき、いみじう
つくりたるものの心ちするを、宮も限りなくかなしとおぼしたり。掻き合は
せなど弾きすさび給て、押しやり給つ。
おとど和琴ひき寄せ給て、律の調べのなかなかいまめきたるを、さる上手の
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乱れて掻い弾き給へる、いとおもしろし。御前の木ずゑほろほろと残らぬに、
老い御達など、ここかしこの御木丁の後ろに頭を集へたり。「風の力蓋し寡し」
とうち誦じ給て、「琴の感ならねど、あやしくものあはれなる夕かな。猶遊ば
さんや」とて、秋風楽に掻き合はせて、唱歌し給へる声いとおもしろければ
みなさまざま、おとどをもいとうつくしと思ひきこえ給に、いとど添へむとに
やあらむ、冠者の君まいり給へり。
「こなたに」とて、御木丁隔てて入れたてまつり給へり。「おさおさ対面も
えたまはらぬかな。などかくこの御学問のあながちならん。才のほどよりあま
り過ぎぬるもあぢきなきわざと、おとどもおぼし知れることなるを、かくをき
てきこえ給、やうあらんとは思たまへながら、かうこもりおはすることなむ心
ぐるしう侍」と聞こえ給て、「時どきは異わざし給へ。笛の音にも古ことは伝
はるものなり」とて、御笛たてまつり給。
いと若うおかしげなる音に吹きたてて、いみじうおもしろければ、御琴ども
をばしばしとどめて、おとど、拍子おどろおどろしからず打ち鳴らし給て、「萩
が花ずり」などうたひ給。「大殿も、かやうの御遊びに心とどめ給て、いそが
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しき御まつりごとどもをばのがれ給なりけり。げにあぢきなき世に、心のゆく
わざをしてこそ、過ぐし侍なまほしけれ」などの給て、御土器まいり給に、暗
うなれば、御殿油まいり、御湯漬くだものなど、たれもたれも聞こしめす。姫君
はあなたに渡したてまつり給つ。しいてけどをくもてなし給ひ、御琴の音ばか
りをも聞かせたてまつらじと、いまはこよなく隔てきこえ給を、「いとをしき
ことありぬべき世なるこそ」と、近う仕うまつる大宮の御方のねび人どもささ
めきけり。
おとど出で給ぬるやうにて、忍びて人にもののたまふとて立ち給へりけるを、
やおらかい細りて出で給道に、かかるささめき言をするに、あやしうなり給
て御耳とどめ給へば、わが御上をぞ言ふ。「かしこがり給へど、人の親よ。を
のづからおれたることこそ出で来べかめれ。子を知るといふは、そら事なめ
り」などぞつきしろふ。あさましくもあるかな、さればよ、思ひ寄らぬことに
はあらねど、いはけなきほどにうちたゆみて、世はうき物にもありけるかな、
とけしきをつぶつぶと心得給へど、をともせで出で給ぬ。
御前駆をふ声のいかめしきにぞ、「殿はいまこそ出でさせ給けれ。いづれの
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隈におはしましつらん。いまさへかかるあだけこそ」と言ひあへり。ささめき
言の人ひとは、「いとかうばしき香のうちそよめき出でつるは、火ざの君のお
はしつるとこそ思ひつれ。あなむくつけや。しりう言やほの聞こしめしつらん。
わづらはしき御心を」とわびあへり。
殿は道すがらおぼすに、いとくちおしくあしきことにはあらねど、めづらし
げなきあはひに、世人も思言ふべきこと、おとどの、しゐて女御をおししづ
め賜もつらきに、わくらばに、人にまさる事もやとこそ思ひつれ、ねたくもあ
るかな、とおぼす。殿の御仲の、大方には、むかしもいまもいとよくおはしな
がら、かやうの方にては、いどみきこえ給ひしなごりもおぼし出でて、心うけ
れば、寝覚めがちにて明かし給。大宮をも、さやうのけしきには御覧ずらんも
のを、世になくかなしくし賜御孫にて、まかせて見たまふならんと、人ひと
の言ひしけしきを、ねたしとおぼすに、御心動きて、すこし男男しくあざやぎ
たる御心には、しづめがたし。
二日ばかりありてまいり給へり。しきりにまいり給ときは、大宮もいと御心
ゆき、うれしきものにおぼゐたり。御尼びたいひきつくろひ、うるはしき御小
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袿などたてまつり添へて、子ながらはづかしげにおはする御人ざまなれば、ま
おならずぞ見えたてまつり給。
おとど御けしきあしくて、「ここにさぶらふもはしたなく、人人いかに見侍
らんと心をかれにたり。はかばかしき身にはべらねど、世に侍らんかぎり、御
目かれず御覧ぜられ、おぼつかなき隔てなくとこそ思ひ給ふれ。よからぬもの
の上にて、うらめしと思ひきこえさせつべきことの出でまうで来たるを、かう
も思ふ給へじと、かつは思ひ給れど、なをしづめがたくおぼえ侍てなん」と涙
をしのごひ給に、宮、けさうじ給える御顔の色たがひて、御目も大きになりぬ。
「いかやうなることにてか、いまさらの齢の末に、心をきてはおぼさるら
ん」と聞こえ給も、さすがにいとおしけれど、「頼もしき御陰に、おさなき者
をたてまつりをきて、身づからをば中なかおさなくより見たまへもつかず、ま
づ目に近きがまじらひなどはかばかしからぬを見たまえ嘆きいとなみつつ、さ
りとも人となさせ給てんと頼みわたり侍つるに、思はずなることの侍ければ、
いとくちをしうなん。まことに天の下並ぶ人なき有識にはものせらるめれど、
親しきほどにかかるは、人の聞き思ふところもあはつけきやうになむ、何ばか
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りのほどにもあらぬ仲らひにだにし侍るを、かの人の御ためにもいとかたはな
ることなり。さし離れ、きらぎらしうめづらしげあるあたりに、いまめかしう
もてなさるるこそおかしけれ。ゆかりむつび、ねぢけがましきさまにて、お
とども聞きおぼすところ侍なん。さるにても、かかることなんと知らせ給て、
ことさらにもてなし、すこしゆかしげあることをまぜてこそ侍らめ。おさなき
人人の心にまかせて御覧じ放ちけるを、心うく思ふ給ふ〔る〕」など聞こえ給に、
夢にも知り給はぬことなれば、あさましうおぼして、「げにかうの給もことは
りなれど、かけてもこの人ひとの下の心なん知り侍らざりける。げにいとくち
をしきことは、ここにこそまして嘆くべく侍れ。もろともに罪を負せ給は、う
らめしきことになん。見たてまつりしより、心ことに思ひ侍て、そこにおぼし
いたらぬことをも、すぐれたるさまにもてなさむとこそ、人知れず思ひ侍れ。
ものげなき程を、心の闇にまどひて、急ぎものせんとは思ひよらぬことになん。
さてもたれかはかかることは聞こえけん。よからぬ世の人の言につきて、きは
だけくおぼしの給もあぢきなく、むなしきことにて人の御名やけがれん」との
たまへば、「何の浮きたる事にか侍らん。さぶらふめる人ひとも、かつはみな
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もどき笑ふべかめるものを、いとくちをしく、やすからず思ふたまへらるる
や」とて、立ち給ぬ。
心知れるどちは、いみじういとおしく思ふ。一夜のしりう言の人ひとは、ま
して心ちもたがひて、何にかかるむつもの語りをしけんと思なげきあへり。
姫君は、何心もなくておはするに、さしのぞき給へれば、いとらうたげなる
御さまをあはれに見たてまつり給。「若き人といひながら、心おさなくものし
給けるを知らで、いとかく人なみなみに思ける我こそ、まさりてはかなかり
けれ」とて、御乳母どもをさいなみたまふに、聞こえん方なし。「かやうの事
は、限りなきみかどの御いつきむすめも、をのづからあやまつためし、昔物
語にもあめれど、けしきを知り伝ふる人、さるべき隙にてこそあらめ、これは
明け暮れ立ちまじり給て、年ごろをはしましつるを、何かは、いはけなき御ほ
どを、宮の御もてなしよりさし過ぐしても隔てきこえさせん、とうちとけて過
ぐしきこえつるを、おととしばかりよりは、けざやかなる御もてなしになりに
て侍めるに、若き人とてもうち紛ればみ、いかにぞや、世づきたる人もおはす
べかめるを、夢に乱れたる所おはしまさざめれば、さらに思よらざりけるこ
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と」をのがどち嘆く。
「よし、しばしかかること漏らさじ。隠れあるまじきことなれど、心をやり
て、あらぬこととだに言ひなされよ。いまかしこに渡したてまつりてん。宮の
御心のいとつらきなり。そこたちは、さりとも、いとかかれとしも思はれざり
けん」との給へば、いとおしきなかにも、うれしくの給と思ひて、「あないみ
じや。大納言殿に聞き給はんことをさへ思ひ侍れば、めでたきにても、ただ人
の筋は何のめづらしさにか思ひたまへかけん」と聞こゆ。姫君は、いとおさな
げなる御さまにて、よろづに申給へども、かひあるべきにもあらねば、うち
泣き給て、いかにしてかいたづらになり給まじきわざはすべからんと、忍びて
さるべきどちの給て、大宮をのみぞうらみきこえ給。
宮はいといとおしとおぼすなかにも、おとこ君の御かなしさはすぐれ給にや
あらん、かかる心のありけるもうつくしうおぼさるるに、なさけなくこよなき
ことのやうにおぼしのたまへるを、などかさしもあるべき、もとよりいたう
思つき給ことなくて、かくまでかしづかんともおぼし立たざりしを、わがか
くもてなしそめたればこそ、春宮の御ことをもおぼしかけためれ、とりはづし
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て、ただ人の宿世あらば、この君よりほかにまさるべき人やはある、かたちあ
りさまよりはじめて、ひとしき人のあるべきかは、これより及びなからん際に
もとこそ思へ、と我心ざしのまさればにや、おとどをうらめしう思きこえ給。
御心のうちを見せたてまつりたらば、ましていかにうらみきこえ給はん。
かくさはがるらんとも知らで、冠者の君まいり給へり。一夜も人目しげうて、
思ふことをもえ聞こえずなりにしかば、常よりもあはれにおぼえ給ければ、夕
つ方おはしたるなるべし。
宮、例は是非知らずうち笑みて待ちよろこびきこえ給を、まめだちて物語り
など聞こえ給ついでに、「御ことにより、内のおとどのえんじてものし給にし
かば、いとなんいとおしき。ゆかしげなきことをしも思そめ給て、人にもの思
はせ給つべきが心ぐるしきこと。かうも聞こえじと思へど、さる心も知り給は
でやと思へばなん」と聞こえ給へば、心にかかれることの筋なれば、ふと思ひ
寄りぬ。面赤みて、「何事にか侍らん。静かなる所にこもり侍にしのち、とも
かくも人にまじるおりはければ、うらみ給べきこと侍らじとなん思たまふる」
とて、いとはづかしと思へるけしきを、あはれに心ぐるしうて、「よし。いま
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よりだに用意し給へ」とばかりにて、他事に言ひなし給ふつ。
いとど文なども通はんことのかたきなめりと思ふに、いと嘆かしう、ものま
いりなどし給へど、さらにまいらで寝たまひぬるやうなれど、心も空にて、人
静まる程に、中障子を引けど、例はことに鎖し固めなどもせぬを、つと鎖して
人のをともせず。
いと心ぼそくおぼえて、障子に寄りかかりてゐ給へるに、女君も目を覚まし
て、風のをとの竹に待ちとられてうちそよめくに、雁の鳴きわたる声のほのか
に聞こゆるに、おさなき心ちにも、とかくおぼし乱るるにや、「雲居の雁も我
ごとや」とひとりごち給ふけはひ、若うらうたげなり。いみじう心もとなけ
れば、「これあけさせ給へ。小侍従やさぶらふ」との給へど、をともせず。御
乳母子なりけり。ひとり言を聞き給けるもはづかしうて、あいなく御顔も引
き入れ給へど、あはれは知らぬにしもあらぬぞにくきや。乳母たちなど近く臥
して、うちみじろぐも苦しければ、かたみにをともせず。
さ夜中に友呼びわたる雁にうたて吹きそふ荻のうは風
身にしみけるかなと思ひつづけて、宮の御前にかへりて嘆きがちなるも、御
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目覚めてや聞かせ給らんとつつましく、みじろぎ臥し給へり。
あいなく物はづかしうて、わが御方にとく出でて御文書き給へれど、小侍従
もえあい給はず、かの御方ざまにもえ行かず、胸つぶれておぼえ給。女はた、
さはがれ給しことのみはづかしうて、我身やいかがあらむ、人やいかが思はん
とも深くおぼし入れず、おかしうらうたげにて、うち語らふさまなどを、うと
ましとも思はなれ給はざりけり。又かうさはがるべきことともおぼさざりける
を、御後見どももいみじうあはめきこゆれば、え言も通はし給はず。おとなび
たる人やさるべき隙をもつくり出づらむ、おとこ君もいますこし物はかなき年
のほどにて、ただいとくしおしとのみ思ふ。
おとどはそのままにまいり給はず、宮をいとつらしと思ひきこえ給。北の方
には、かかる事なんとけしきも見せたてまつり給はず。ただ大方いとむつかし
き御けしきにて、「中宮のよそおひことにてまいり給へるに、女御の世中思ひ
しめりてものし給を、心ぐるしう胸いたきに、まかでさせたてまつりて、心や
すくうち休ませたてまつらん。さすがに、上につとさぶらはせ給て、夜昼おは
しますめれば、ある人人も心ゆるゐせず、苦しうのみわぶめるに」との給て、
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にはかにまかでさせたてまつり給。御暇もゆるされがたきを、うちむつかりた
まて、上はしぶしぶにおぼしめしたるを、しゐて御迎へし給。
「つれづれにおぼされんを、姫君渡して、もろともに遊びなどし給へ。宮に
預けたてまつりたるうしろやすけれど、いとさくじりおよすげたる人立ちまじ
りてをのづからけ近きも、あいなきほどになりにたればなん」と聞こえ給て、
にわかに渡しきこえ給。
宮いとあへなしとおぼして、「一人ものせられし女亡くなり給てのち、いと
さうざうしく心ぼそかりしに、うれしうこの君を得て、生けるかぎりのかしづ
きものと思ひて、明け暮れにつけて、老いのむつかしさも慰めんとこそ思ひつ
れ。思ひのほかに隔てありておぼしなすもつらく」など聞こえたまへば、うち
かしこまりて、「心に飽かず思ふたまへらるる事は、しかなん思ふたまへらる
るとばかり聞こえさせしになむ。深く隔て思たまふることはいかでか侍らむ。
内にさぶらふが、世の中うらめしげにて、この比まかでて侍るに、いとつれ
づれに思ひて屈し侍れば、心ぐるしう見給ふるを、もろともに遊びわざをもし
て慰めよと思ふたまへてなむ、あからさまにものし侍」とて、「はぐくみ、人
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となさせ給へるを、をろかにはよも思ひきこえさせじ」と申給へば、かうお
ぼし立ちにたれば、とどめきこえさせ給ふともおぼし返すべき御心ならぬに、
いと飽かずくちおしうおぼされて、「人の心こそうきものはあれ。とかく幼き
心どもにも我に隔ててうとましかりけることよ。又さもこそあらめ、おとど
の、ものの心を深く知り給ながら、われをえんじて、かく率て渡し給ふこと。
かしこにて、これよりうしろやすきこともあらじ」とうち泣きつつの給。
おりしも冠者の君まいり給へり。もしいささかの隙もやと、このごろはしげ
うほのめき給なりけり。内のおとどの御車のあれば、心の鬼にはしたなくて、
やをら隠れて、我御方に入りゐ給へり。内の大殿の君だち、左少将、小納言、
兵衛佐、侍従、大夫などいふも、みなここのにはまいり集ひたれど、御簾のう
ちはゆるしたまはず。左兵衛督、権中納言なども、異御腹なれど、故殿の御も
てなしのままに、いまもまいり仕うまつり給ことねんごろなれば、その御子ど
ももさまざままいり給へど、この君に似るにほひなく見ゆ。大宮の御心ざしも、
なずらひなくおぼしたるを、ただこの姫君をぞ、け近うらうたきものとおぼし
かしづきて、御かたはら避けず、うつくしきものにおぼしたりつるを、かくて
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渡り給なんが、いとさうざうしきことをおぼす。
殿は、「いまのほどに内にまいり侍りて、夕つ方迎へにまいり侍らん」とて
出で給ぬ。言ふかひなきことを、なだらかに言ひなして、さてもやあらましと
おぼせど、猶いと心やましければ、人の御程のすこしものものしくなりなんに、
かたはならず見なして、その程心ざしの深さ浅さのおもむきをも見定めて、ゆ
るすとも、ことさらなるやうにもてなしてこそあらめ、制し諫むとも、一所に
ては、おさなき心のままに、見ぐるしうこそあらめ、宮もよもあながちに制し
給ことあらじ、とおぼせば、女御の御つれづれにことつけて、ここにもかし
こにもおいらかに言ひなして、渡し給なりけり。
宮の御文にて、
おとどこそうらみもしたまはめ、君はさりとも心ざしのほども知り給らん。
渡りて見え給へ。
と聞こえたまへれば、いとをかしげにひきつくろひて渡り給へり。十四になん
おはしける。かたなりに見え給へど、いと子めかしう、しめやかにうつくしき
さまし給へり。「かたはら避けてたてまつらず、明け暮れのもてあそびものに思
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ひきこえつるを、いとさうざうしくもあるべきかな。残り少なき齢のほどにて、
御ありさまを見はつまじきことと、命をこそ思ひつれ。いま更に見捨ててうつ
ろひ給や、いづちならむと思へば、いとこそあはれなれ」とて泣きたまふ。
姫君ははづかしきことをおぼせば、顔ももたげ給はで、ただ泣きにのみ泣き
給。おとこ君の御乳母、さい将の君出で来て、「おなじ君とこそ頼みきこえさ
せつれ、くちおしくかく渡らせ給こと。殿はことざまにおぼしなることおはし
ますとも、さやうにおぼしなびかせ給な」など、ささめききこゆれば、いよ
いよはづかしとおぼして、ものもの給はず。「いで、むつかしきことな聞こえ
られそ。人の御宿世宿世いと定めがたく」との給ふ。「いでや、ものげなしと
侮りきこえさせ給に侍めりかし。さりとも、げにわが君、人に劣りきこえさせ
給と聞こしめしあはせよ」と、なま心やましきままに言ふ。
冠者の君、ものの後ろに入りゐて見給に、人の咎めむもよろしき時こそ苦
しかりけれ、いと心ぼそくて、涙おしのごひつつおはするけしきを、御乳母い
と心ぐるしう見て、宮にとかく聞こえたばかりで、夕まぐれの人のまよひに対
面せさせ給へり。
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かたみにものはづかしく胸つぶれて、ものも言はで泣き給。「おとどの御心
のいとつらければ、さばれ、思ひやみなんと思へど、恋しうおはせむこそわり
なかるべけれ。などて、すこし隙ありぬべかりつる日ごろ、よそに隔てつら
む」との給さまも、いと若うあはれげなれば、「まろも、さこさはあらめ」と
の給。「恋しとはおぼしなんや」との給へば、すこしうなづき給さまもおさな
げなり。
御殿油まいり、殿まかで給けはひ、こちたくおひののしる御前駒の声に、人
人「そそや」などをぢさはげば、いとおそろしとおぼしてわななき給。さも
さはがればと、ひたふる心に、ゆるしきこえ給はず。御乳母まいりてもとめた
てまつるに、けしきを見て、あな心づきなや、げに宮知らせ給はぬ事にはあら
ざりけり、と、思ふに、いとつらく、「いでや、うかりける世かな。殿のおぼ
しの給事はさらにも聞こえず、大納言殿にもいかに聞かせ給はん。めでたく
とも、もののはじめの六位宿世よ」とつぶやくもほの聞こゆ。ただこの屏風の
後ろに尋ね来て、嘆くなりけり。おとこ君、我をば位なしとてはしたなむるな
りけりとおぼすに、世の中うらめしければ、あはれもすこしさむる心地して、
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めざまし。「かれ聞きたまへ。
くれなゐの涙にふかき袖の色をあさみどりにや言ひしほるべき
はづかし」とのたまへば、
いろいろに身のうきほどの知らるるはいかに染めける中のころもぞ
とものの給はてぬに、殿入り給へば、わりなくて渡り給ぬ。
おとこ君は、立ちとまりたる心ちも、いと人わるく胸ふたがりて、我御方に
臥し給ぬ。御車三ばかりにて、忍びやかに急ぎ出でたまふけはひを聞くも、静
心なければ、宮の御前より、「まいり給へ」とあれど、寝たるやうにて動きも
し給はず。涙のみとまらねば、嘆き明かして、霜のいと白きに急ぎ出で給ふ。
うちはれたるまみも、人に見えんがはづかしきに、宮はた召しまつはすべかめ
れば、心やすき所にとて、急ぎ出で給なりけり。道のほど、人やりならず心ぼ
そく思ひつづくるに、空のけしきもいたうくもりて、まだ暗かりけり。
霜氷うたてむすべる明け暮れの空かきくらしふる涙かな
大殿には、ことし五節たてまつり給。何ばかりの御いそぎならねど、童べの
装束など、近うなりぬとて急ぎせさせ給ふ。東の院には、まいりの夜の人人の
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装束せさせ給うふ。殿には、大方のことども、中宮よりも、童、下仕へ料など、
えならでたてまつり給へり。過ぎにし年、五節などとまれりしが、さうざうし
かりし積り取り添へ、上人の心ちも常よりもはなやかに思ふべかめる年なれば、
所どころといどみて、いといみじくよろづを尽くし給聞こえあり。
按察大納言、佐衛門督、上の五節には、良清、いまは近江の守にて左中弁な
るなんたてまつりける。みなとどめさせ給て、宮仕へすべく、仰せ言ことなる
年なれば、むすめををのをのたてまつり給。
殿の舞姫は、惟光の朝臣の、津の守にて、左京大夫かけたるが女、かたちな
どいとをかしげなる聞こえあるを召す。からい事に思ひたれど、「大納言の、
外腹のむすめをたてまつらるなるに、朝臣のいつきむすめ出だしたてたらむ、
何のはぢかあるべき」とさいなめば、わびて、あなじくは宮仕へやがてせさす
べく思をきてたり。舞習はしなどは、里にていとようしたてて、かしづきな
ど、親しふ身に添ふべきは、いみじう選りととのへて、その日の夕つけてまい
らせたり。殿にも、御方がたの童、下仕へのすぐれたるをと御覧じくらべ、選
り出でらるる心ちどもは、ほどほどにつけて、いと面立たしげなり。御前に召
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して御覧ぜむうちならしに、御前を渡らせてと定め給。捨つべうもあらず、と
りどりなる童べの様体、かたちをおぼしわづらひて、「いま一ところの料を、
これよりたてまつらばや」など笑ひ給。ただもてなし用意によりてぞ選びに入
りける。
大学の君、胸のみふたがりて、ものなども見入れられず、屈じいたくて、書
も読までながめ臥し給へるを、心もや慰むと立ち出でて、紛れありき給。さま
かたちはめでたくをかしげにて、静やかになまめい給へれば、若い女房などは、
いとをかしと見たてまつる。上の御方には、御簾の前にだに、もの近うももて
なし給はず、わが御心ならひ、いかにおぼすにかありけむ、うとうとしければ、
御達などもけどをきを、けふはものの紛れに入り立ち給へるなめり。まい姫か
しづきおろして、妻戸の間に屏風など立てて、かりそめのしつらひなるに、や
をら寄りてのぞき給へば、なやましげにて添い臥したり。ただかの人の御ほど
と見えて、いますこしそびやかに、様体などのことさらびをかしき所はまさり
てさへ見ゆ。暗ければこまかには見えねど、ほどのいとよく思ひ出でらるるさ
まに、心移るとはなけれど、ただにもあらで、衣の裾を引きならい給に、何心
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もなく、あやしと思ふに、
「あめにますとよをかひめの宮人もわが心ざすしめを忘るな
おとめ子が袖ふる山の瑞垣の」とのたまふぞうちつけなりける。若うをかしき
声なれど、たれともえ思ひたどられず、なまむつかしきに、けさうじ添ふとて
さはぎつる後見ども、近う寄りて人さはがしうなれば、いとくちをしうて立ち
去り給ぬ。
浅葱の心やましければ、内へまいる事もせずものうがり給を、五節にことつ
けて、なをしなどさま変われる色ゆるされてまいり給。きびにはきよらなるも
のから、まだきにおよずけて、されありき給。みかどよりはじめたてまつりて、
おぼしたるさまなべてならず、世にめづらしき御おぼえなり。
五節のまいる儀式は、いづれともなく心心に二なくし給へるを、舞姫のかた
ち、大殿と大納言殿とはすぐれたちとめでののしる。げにいとをかしげなれど、
ここしううつくしげなることは、なを大殿のにはえ及ぶまじかりけり。ものき
よげにいまめきて、そのものとも見ゆまじうしたてたる様体などのありがたう
をかしげなるを、かうほめらるるなめり。例のまゐ姫どもよりはみなすこしお
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となびつつ、げに心ことなる年なり。
殿まいり給て、御覧ずるに、むかし御目とまり給しおとめの姿おぼし出づ。
辰の日の暮れつ方つかはす。御文のうち思ひやるべし。
おとめ子も神さびぬらしあまつ袖ふるき世の友よはひ経ぬれば
年月の積りを数へて、うちおぼしけるままのあはれをえ忍びたまはぬばかり
の、をかしうおぼゆるも、はかなしや。
かけていえばけふのこととぞ思ふゆる日影の霜の袖にとけしも
青摺りの紙よくとりあへて、まぎらはし書いたる濃墨、薄墨、草がちにうち
まぜ乱れたるも、人のほどにつけてはをかしと御覧ずる。
冠者の君も、人の目とまるにつけても、人知れず思ひありき給へど、あたり
近くだに寄せず、いとけけしうもてなしたれば、ものつつましきほどの心には
嘆かしうてやみぬ。かたちはしもいと心につきて、つらき人の慰めにも、見る
わざしてんやと思ふ。
やがてみなとめさせ給て、宮仕へすべき御けしきありけれど、このたびはま
かでさせて、近江のは辛崎の祓へ、津の守は難波といどみてまかでぬ。大納言
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もことさらにまいらすべきよし奏せさせ給。佐衛門督その人ならぬをたてまつ
りて咎めありけれど、それもとどめさせ給。津の守は、「内侍のすけあきたる
に」と申させたれば、さもやいたはらまし、と大殿もおぼいたるを、かの人は
聞き給て、いとくちをしと思ふ。わが年のほど、位などかくものげなからず
は、請ひみてまし物を、思ふ心ありとだに知られでやみなん事と、わざとのこ
とにはあらねど、うち添へて涙ぐまるるおりおりあり。
せうとの童殿上する、常にこの君にまいり仕うまつるを、例よりもなつかし
う語らひ給て、「五節はいつか内へまいる」と問ひ給。「ことしとこそは聞き侍
れ」と聞こゆ。「顔のいとよかりしかば、すずろににこそ悲しけれ。ましが常に
見るらむもうらやましきを、また見せてんや」との給へば、「いかでかさは侍
らん。心にまかせてもえ見侍らず。男はらからとて近くも寄せ侍らねば、まし
て、いかでか君だちには御覧ぜさせん」と聞こゆ。「さらば、文をだに」とて
たまへり。さきざきかやうの事は言ふものをと苦しけれど、せめてたまへば、
いとおしうて持ていぬ。年のほどよりはされてやありけん、をかしと見けり。
緑の薄様の好ましき重ねなるに、手はまたいと若けれど、生い先見えていとを
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かしげに、
日影にもしるかりけめや小女子が天の羽袖にかけし心は
二人見る程に、父主ふと寄り来たり。おそろしうあきれて、え引き隠さず。
「なぞの文ぞ」とて取るに、面赤みてゐたり。「よからぬわざしけり」とにく
めば、せうと逃げていくを、呼び寄せて、「誰がぞ」と問へば、「殿の冠者の君
のしかしかのたまうて給へる」と言へば、なごりなくうち笑みて、「いかにう
つくしき君の御され心なり。きんちらは、おなじ年なれど、言ふかひなくはか
なかめりかし」などほめて、母君にも見す。「この君だちの、すこし人数にお
ぼしぬべからましかば、宮仕へよりは、たてまつりてまし。殿の御心をきて見
るに、見そめ給てん人を、御心とは忘れ給ふまじきとこそ、いと頼もしけれ。
明石の入道のためしにやならまし」など言へど、みないそぎたちにたり。
かの人は、文をだにえやり給はず、たちまさる方のことし心にかかりて、ほ
ど経るままに、わりなく恋しき面影に、またあひ見てやと思ふよりほかのこと
なし。宮の御もとへ、あいなく心うくてまいり給はず。おはせし方、年ごろ遊
び馴れし所のみ思ひ出でらるる事まされば、里さへうくおぼえ給つつ、またこ
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もりゐ給へり。殿はこの西の対にぞ聞こえ預けたてまつり給ける。「大宮の御
世の残り少なげなるを、おはせずなりなんのちも、かくおさなきほどより見馴
らして後見おぼせ」と聞こえ給へば、ただの給ままの御心にて、なつかしうあ
はれに思ひあつかひたてまつり給。
ほのかになど見たてまつるにも、かたちのまほならずもおはしけるかな、
かかる人をも人は思ひ捨て給はざりけり、など、我あながちにつらき人の御か
たちを心にかけて恋しと思ふもあぢきなしや、心ばへのかやうにやはらかなら
む人をこそあひ思はめ、と思ふ。また、向かひて見るかひなからんもいとをし
げなり、かくて年経給にけれど、殿の、さやうなる御かたち、御心と見給う
て、浜木綿ばかりの隔てさし隠しつつ、何くれともてなしまぎらはし給めるも
むべなりけり、と思心のうちぞはづかしかりける。大宮のかたちことにおは
しませど、まどいときよらにおはし、ここにもかしこにも、人はかたちよきも
のとのみ目馴れ給へるを、もとよりすぐれざりける御かたちの、ややさだ過ぎ
たる心地して、痩せ痩せに御髪少ななるなどが、かくそしらはしきなりけり。
年の暮れには、む月の御装束など、宮はただこの君一所の御ことを、まじる
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ことなういそいたまふ。あまたくだりいときよらにしたてたまへるを、見るも
ものうくのみおぼゆれば、「ついたちなどには、かならずしも内へまいるまじ
う思ひ給ふるに、何にかくいそがせ給らん」と聞こえ給へば、「などてかさも
あらん。老ひくづをれたらむ人のやうにもの給かな」との給へば、「老いねど、
くづをれたる心ちぞするや」とひとりごちて、うち涙ぐみてゐ給へり。かのこ
とを思ならんといと心ぐるしうて、宮もうちひそみ給ぬ。
「おとこは、くちおしき際の人だに心を高うこそつかうなれ。あまりしめや
かに、かくなものし給そ。何とか、かうながめがちに思ひ入れ給べき。ゆゆし
う」との給も、「何かわ。六位など人の侮り侍めれば、しばしのこととは思ふ
たまふれど、内へまいるも物うくてなん。故おとどおはしまさましかば、戯れ
にても人には侮られ侍らざらまし。もの隔てぬ親におはすれど、いとけけしう
さし放ちておぼいたれば、おはしますあたりに、たやすくもまいりなれ侍らず。
東の院にてのみなん、御前近く侍る。対の御方こそあはれにものし給へ、親
いま一所おはしまさましかば、何事を思ひ侍らまし」とて、涙の落つるをまぎ
らはい給へるけしき、いみじうあはれなるに、宮はいとどほろほろと泣き給て、
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「母にもをくるる人は、ほどほどにつけてさのみこそあはれなれど、をのづか
ら宿世宿世に人となりたちぬれば、をろかに思ふもなきわざなるを、思ひ入れ
ぬさまにてものし給へ。故おとどのいましばしだにものし給へかし。限りなき
陰には、おなじことと頼みきこゆれど、思ふにかなはぬことの多かるかな。内
のおとどの心ばへも、なべての人にはあらずと、世人もめで言ふなれど、むか
しに変はることのみまさりゆくに、命長さもうらめしきに、生い先とをき人さ
へ、かくいささかにても世を思ひしめり給へれば、いとなむよろづうらめしき
世なる」とて泣きをはします。
ついたちにも、大殿は御ありきしなければ、のどやかにておはします。良房
のおとどと聞こえける、いにしへの例になずらへて、白馬ひき、節会の日、内
の儀式をうつして、むかしのためしよりもこと添へて、いつかしき御ありさま
なり。
きさらぎの廿日あまり、朱雀院に行幸あり。花盛りはまだしき程なれど、や
よひは故宮の御忌月なり、とくひらけたる桜の色もいとおもしろければ、院に
も御用意ことにつくろひみがかせ給ひ、行幸に仕うまつり給上達部、親王た
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ちよりはじめ、心づかひし給へり。人人みな青色に桜襲を着給。みかどは赤色
の御衣たてまつれり。召しありて、おほきおとどまいり給。おなじ赤色を着給
へれば、いよいよひとつものとかかやきて見えまがはせ給。人人の装束、用意
常にことなり。
院もいときよらにねびまさらせ給て、御さまの用意、なまめきたる方にすす
ませ給へり。けふはわざとの文人も召さず、ただその才かしこしと聞こえたる
学生十人を召す。式部の省の心みの題をなずらへて、御題給ふ。大殿の太郎君
の心み給べきなめり。臆だかき者どもは、ものもおぼえず、繋がぬ舟に乗りて
池に離れ出でて、いとすべなげなり。日やうやうくだりて、楽の船ども漕ぎま
ひて、調子ども奏する程の、山風の響きおもしろく吹きあはせたるに、火ざの
君は、かう苦しき道ならでもまじらひ遊びぬべきものを、と世中うらめしうお
ぼえ給けり。
春鶯囀舞ふほどに、むかしの花宴のほどおぼし出でて、院のみかども、
「又さばかりの事見てんや」との給はするにつけて、その世の事あはれにおぼ
しつづけらる。舞ひはつるほどに、院に御土器まいり給。
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うぐひすのさえづる声はむかしにてむつれし花のかげぞかはれる
院のうえ、
九重をかすみ隔てつるすみかにも春とつげくる鶯の声
帥の宮と聞こえし、いまは兵部卿にて、今の上に御土器まいり給。
いにしへを吹き伝へたる笛竹にさえづる鳥の音さへ変わらぬ
あざやかに奏しなし給へる、用意ことにめでたし。取らせ給て、
鶯のむかしを恋ひてさえづるは木伝ふ花の色やあせたる
との給はする御ありさま、こよなくゆへゆへしくおはします。これは御わたく
しざまに、うちうちのことなれば、あまたにも流れずやなりにけん、また書き
落としてけるにやあらん。
楽所とをくておぼつかなければ、御前に御琴ども召す。兵部卿の宮琵琶、内
のおとど和琴、筝の御琴院の御前にまいりて、琴は例のおほきおとどに給はり
たまふ。せめきこえ給。さるいみじき上手のすぐれたる御手づかひどもの尽く
し給へる音は、たとへん方なし。唱歌の殿上人あまたさぶらふ。あなたうと遊
べて、次に桜人、月朧にさし出でてをかしきほどに、中島のはたりに、ここか
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しこ篝火どもともして、大御遊びはやみぬ。
夜ふけぬれど、かかるつゐでに、大后の宮おはします方を避きてとぶらひき
こえさせ給はざらんもなさけなければ、かへきに渡らせ給。おとどもろともに
さぶらひ給。后待ちよろこび給て、御対面あり。いといたうさだ過ぎ給にけ
る御けはひにも、故宮を思ひ出できこえ給て、かく長くおはしますたぐひもお
はしけるものを、とくちおしう思ほす。
「いまはかくふりぬる齢に、よろづの事忘られ侍にけるを、いとかたじけな
く渡りおはしまいたるになん、さらにむかしの御代のこと思ひ出でられ侍」
とうち泣き給。「さるべき御陰どもにをくれ侍てのち、春のけぢめも思ひたま
へ分かれぬを、けふなむ慰め侍ぬる。又またも」と聞こえ給。おとどもさる
べきさまに聞こえて、「ことさらにさぶらひてなん」と聞こえ給。のどやかな
らで帰らせ給ひびきにも、后は、猶胸うちさはぎて、いかにおぼし出づらむ、
世をたもち給べき御宿世は消たれぬものにこそ、といにしへを悔ひおぼす。
内侍のかんの君も、のどやかにおぼし出づるに、あはれなる事多かり。いま
もさるべきおり、風のつてにもほのめききこえ給こと絶えざるべし。后はおほ
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やけに奏せさせ給ことある時時ぞ、御たうばりのつかさ、かうぶり、何くれの
事にふれつつ、御心にかなはぬ時ぞ命長くてかかる世の末を見ること、と取り
返さまほしう、よろづおぼしむつかりける。老ひもておはするままに、さがな
さもまさりて、院も比べぐるしうたとへがたくぞ思ひきこえ給ける。
かくて大学の君、その日の文うつくしう作り給て、進士になり給ぬ。年積れ
るかしこき者どもを選はせ給しかど、きうだいの人わづかに三人なんありける。
秋の司召に、かうぶり得て、侍従になり給ぬ。かの人の御こと、忘るる世なけ
れど、おとどの切に守りきこえ給もつらければ、わりなくてなども対面し給は
ず。御消息ばかり、さりぬべきたよりに聞こえ給て、かたみに心ぐるしき御仲
なり。
大殿、静かなる御住まひを、同じくは広く見所ありて、ここかしこにておぼ
つかなき山里人などをも集へ住ません御心にて、六条京極のわたりに、中宮の
御古き宮のほとりを、四町をこめて造らせ給。式部卿宮、明けん年ぞ五十に
なり給ける。御賀の事、対の上おぼしまうくるに、おとどもげに過ぐしがたき
ことどもなりとおぼして、さやうの御いそぎも、おなじくめづらしからん御家
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居にてと急がせ給。
年かへりて、ましてこの御いそぎのこと、御としみのこと、楽人、舞人の定
めなどを、御心に入れていとなみ給。経、仏、法事の日の装束、禄などをなん、
上はいそがせ給ける。東の院に、分けてし給ことどもあり。御仲らひ、まして
いとみやびかに聞こえかはしてなん過ぐし給ける。
世中響きゆすれる御いそぎなるを、式部卿宮にも聞こしめして、年ごろ世
中にはあまねき御心なれど、このわたりをはあやにくになさけなく、事にふれ
てはしたなめ、宮人をも御用意なく、うれはしきことのみ多かるに、つらしと
思をき給事こそはありけめ、といとをしくもからくもおぼしけるを、かく
あまたかかづらひ給へる人人多かるなかに、とり分きたる御思ひすぐれて、世
に心にくくめでたきことに思ひかしづかれ給へる御宿世をぞ、我家まではに
ほひ来ねど、面目におぼすに、又かくこの世のあまるまで響かしいとなみ給は、
おぼえぬ齢の末の栄へにもあるべきかなとよろこび給を、北の方は心ゆかずも
のしとのみおぼしたり。女御、御まじらひのほどなどにも、おとどの御用意な
きやうなるを、いよいようらめしと思ひみ給へるなるべし。
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八月にぞ、六条院造りはてて渡り給。未申の町は、中宮の御古宮なれば、
やがておはしますべし。辰巳は、殿のおはすべき町なり。丑寅は、東の院に住
み給対の御方、戌亥の町は、明石の御方とおぼしおきてさせ給へり。もとあ
りける池山をも、便なき所なるをば崩しかへて、水のおもむき、山のをきてを、
改めて、さまざまに御方がたの御ねがいの心ばへを造らせ給へり。
南の東は、山高く、春の花の木、数を尽くして植へ、池のさまおもしろくす
ぐれて、御前近き前栽、五えう、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅などやうの春の
もてあそびをわざとは植へで、秋の前栽をばむらむらほのかにまぜたり。
中宮の御町をば、もとの山に、紅葉の色濃かるべき植へ木どもをそへて、泉
の水とをくすまし、遣水のをとまさるべき巌たて加へ、滝落として、秋の野を
はるかに造りたる、そのころにあひて、盛りに咲き乱れたり。嵯峨の大堰のわ
たりの野山むとくにけおされたる秋なり。
北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の陰によれり。前近い前栽、呉竹、下風
涼しかるべく、木高き森のやうなる木ども木深くおもしろく、山里めきて、卯
の花の垣根ことさらにしわたして、むかしおぼゆる花橘、撫子、薔薇、くた
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になどやうの花くさぐさを植へて、春秋の木草、その中にうちまぜたり。東
表は、分けて馬場のおとど造り、埒ゆいて、さ月の御遊びどころにて、水のほ
とりに菖蒲植へしげらせて、むかひに御厩して、世になき上馬どもをととのへ
立てさせ給へり。
西の町は、北面築きわけて、御倉町なり。隔ての垣に松の木しげく、雪を
もてあそばんたよりに寄せたり。冬のはじめの朝霜むすぶべき菊のまがき、我
は顔なる柞原、おさおさ名も知らぬ深山木どもの木深きなどを移し植へたり。
彼岸のころほひ渡り給。一たびにと定めさせ給しかど、さはがしきやうなり
とて、中宮はすこし延べさせ給。例のおいらかにけしきばまぬ花散里ぞ、その
夜添ひて移ろひ給。春の御しつらひは、このころにあはねどいと心ことなり。
御車十五、御前四位五位がちにて、六位殿上人などは、さるべきかぎりを選
らせ給へり。こちたきほどにはあらず、世の譏りもやと省き給へれば、何ごと
もおどろおどろしういかめしきことはなし。いま一方の御けしきも、おさおさ落
とし給はで、侍従の君添ひて、そなたはもてかしづき給へば、げにかうもある
べきことなりけりと見えたり。女房の曹司町ども、あてあてのこまけぞ、大方
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のことよりもめでたかりける。
五六日過ぎて、中宮まかでさせ給。この御けしきはたさは言へど、いととこ
ろせし。御幸いのすぐれたまへりけるをばさるものにて、御ありさまの心に
くく重りかにおはしませば、世に重く思はれ給へることすぐれてなんおはしま
しける。この町まちの中の隔てには、塀ども廊などを、とかく行き通はして、
け近くをかしきあはひにしなし給へり。
なが月になれば、紅葉むらむら色づきて、宮の御前えも言はずおもしろし。
風うち吹たる夕暮れに、御箱の蓋に、いろいろの花紅葉をこきまぜて、こなた
にたてまつらせ給へり。大きやかなるはらはの、濃き衵、しおんの織物重ねて、
赤朽葉の羅の汗衫いといたう馴れて、廊、渡殿の反橋を渡りてまいる。うる
はしき儀式なれど、童のをかしきをなん、えおぼし捨てざりける。さる所にさ
ぶらひ馴れたれば、もてなしありさま外のには似ず、好ましうをかし。御消息
には、
心から春まつそのはわがやどの紅葉を風のつてにだに見よ
若き人人、御使いもてはやすさまどもをかし。御返は、この御箱の蓋に苔敷
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き、巌などの心ばへして、五えうの枝に、
風に散る紅葉はかろし春の色を岩根の松にかけてこそ見め
この岩根の松も、こまかに見れば、えならぬつくりごとどもなりけり。とり
あへず思ひ寄り給つるゆへゆへしさなどを、おかしく御覧ず。御前なる人ひと
もめであへり。おとど、「この紅葉の御消息、いとねだげなめり。春の花盛り
に、この御いらへは聞こえ給へ。このころ紅葉を言ひくたさむは、竜田姫の思
はんこともあるを、さし退きて、花の陰に立ち隠れてこそ強き言は出で来め」
と聞こえ給も、いと若やかに尽きせむ御ありさまの見どころ多かるに、いとど
思やうなる御住まひにて、聞こえ通はし給。
大堰の御方は、かう方がたの御移ろひ定まりて、数ならぬ人のいつとなくま
ぎらはさむとおぼして、神無月になん渡り給ける。御しつらひ、ことのありさ
まをとらずして、渡したてまつり給。姫君の御ためをおぼせば、大方のさほう
も、けぢめこよなからず、いとものものしくもてなさせ給へり。