９巻 葵
畳語、繰り返し文字は文字になおしてあります。
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世の中かはりて後、よろづものうくおぼされ、御身のやむごとなさも添ふに
や、軽軽しき御忍びありきもつつましうて、ここもかしこもおぼつかなさの
嘆きを重ね給ふむくひにや、なをわれにつれなき人の御心を尽きせずのみおぼ
し嘆く。
今はまして隙なう、ただ人のやうにて添ひおはしますを、今后は心やましう
おぼすにや、内にのみさぶらひ給へば、たち並ぶ人なう心やすげなり。おりふ
しにしたがひては、御遊びなどを好ましう世の響くばかりせさせ給つつ、今の
御ありさましもめでたし。ただ春宮をぞいと恋しう思ひきこえ給。御後見のな
きをうしろめたう思ひきこえて、大将の君によろづ聞こえつけ給ふも、かたは
らいたきものからうれしとおぼす。
まことや、かの六条の御息所の御腹の前坊の姫君、斎宮にゐ給にしかば、大
将の御心ばへもいと頼もしげなきを、幼き御有さまのうしろめたさにことつけ
て下りやしなまし、とかねてよりおぼしけり。
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院にも、かかることなむと聞こしめして、「故宮のいとやむごとなくおぼし、
時めかしたまひしものを、軽軽しうをしなべたるさまにもてなすなるがいと
おしきこと。斎宮をもこの御子たちのつらになむ思へば、いづ方につけてもお
ろかならざらむこそよからめ。心のすさびにまかせてかくすきわざするは、い
と世のもどき負ひぬべきこと也」など御けしきあしければ、わが御ここちにも
げにと思ひ知らるれば、かしこまりてさぶらひ給。「人のためはぢがましき事
なく、いづれをもなだらかにもてなして、女のうらみな負ひそ」との給はする
にも、けしからぬ心のおほけなさを聞こしめしつけたらむとき、とおそろしけ
れば、かしこまりてかで給ぬ。
又、かく院にも聞こしめしのたまはするに、人の御名も我ためも、すきがま
しういとおしきに、いとどやむごとなく心ぐるしき筋には思きこえ給へど、ま
だあらはれてはわざともてなしきこえ給はず。女も、似げなき御年のほどをは
づかしうおぼして、心とけ給はぬけしきなれば、それにつつみたるさまにもて
なして、院に聞こしめし入れ、世中の人も知らぬなくなりにたるを、深うしも
あらぬ御心の程を、いみじうおぼし嘆きけり。
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かかる事を聞き給にも、朝顔の姫君は、いかで人に似じと深うおぼせば、は
かなきさまなりし御返などもおさおさなし。さりとて、人にくくはしたなく
はもてなし給はぬ御けしきを、君も猶こと也とおぼしわたる。
大殿には、かくのみ定めなき御心を心づきなしとおぼせど、あまりつつまぬ
御けしきの言ふかひなければにやあらむ、深うもえじきこえ給はず。心ぐるし
きさまの御心ちになやみ給て、物心ぼそげにおぼいたり。めづらしくあはれと
思ひきこえ給。たれもたれもうれしきものからゆゆしうおぼして、さまざまの御
つつしみせさせたてまつり給。かやうなる程に、いとど御心の暇なくておぼし
おこたるとはなけれど、と絶え多かるべし。
そのころ、斎院もおりゐ給て、后腹の女三の宮ゐ給ぬ。みかど、后とことに
思ひきこえ給へる宮なれば、筋異になり給をいとくるしうおぼしたれど、他宮
たちのさるべきおはせず、儀式など、常の神わざなれど、いかめしうののしる。
祭のほど、限りある公事に添ふこと多く、見どころこよなし。人からと見えた
り。御禊の日、上達部など数定まりて仕うまつり給わざなれど、おぼえことに
かたちあるかぎり、下襲の色、表の袴の紋、馬、鞍までみなととのへたり、と
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りわきたる宣旨にて、大将の君も仕うまつり給。かねてより物見車心づかひし
けり。一条の大路、所なくむくつけきまでさはぎたり。所所の御桟敷、心
心にし尽くしたるしつらひ、人の袖口さへいみじき見ものなり。
大殿には、かやうの御ありきもおさおさし給はぬに、御心ちさへなやまし
ければ、おぼしかけざりけるを、若き人人、「いでや、をのがどち引き忍びて
見侍らむこそはへなかるべけれ。おほよそ人だに、けふの物見には、大将殿を
こそは、あやしき山がつさへ見たてまつらんとすなれ。とをき国ぐにより妻子
を引き具しつつも参うで来なるを、御覧ぜぬはいとあまりも侍かな」と言ふを、
大宮聞こしめして、「御ここちもよろしき隙也。さぶらふ人人もさうざうしげ
なめり」とて、にはかにめぐらし仰せ給て見給。
日たけ行て、儀式もわざとならぬさまにて出でたまへり。隙もなう立ちわた
りたるに、よそをしう引きつつきて立ちわづらふ。よき女房車多くて、雑雑
の人なき隙を思ひ定めてみなさし退けさする中に、網代のすこしなれたるが、
下簾のさまなどよしばめるに、いたう引き入りて、ほのかなる袖口、裳の裾、
汗衫など、ものの色いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆ
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る車二つあり。「これは、さらにさやうにさし退けなどすべき御車にもあらず」
と口強くて手触れさせず。いづ方にも、若き物ども酔ひすぎ、たちさはぎたる
ほどの事はえしたためあへず。おとなおとなしき御前の人人は、「かくな」など
言へど、えとどめあへず。
斎宮の御母御息所、ものおぼし乱るる慰めにもやと、忍びて出でたまへる
也けり。つれなしつくれど、をのづから見知りぬ。「さばかりにては、さな言
はせそ。大将殿をぞ豪家には思ひきこゆらむ」など言ふを、その御方の人もま
じれば、いとおしと見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔をつく
る。つゐに御車ども立てつづけつれば、人だまひの奥にをしやられて物も見え
ず。心やましきをばさる物にて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじ
うねたき事限りなし。榻などもみなをしおられて、すずろなる車の筒にうちか
けたれば、又なう人わろくくやしう、何に来つらんと思ふにかひなし。
ものも見で帰らんとしたまへど、とおり出でん隙もなきに、「事なりぬ」と
言へば、さすがに、つらき人の御前渡りの待たるるも心よはしや。笹の隈にだ
にあらねばにや、つれなく過ぎ給につけても、中中御心づくしなり。げに常
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よりも好みととのへたる車どもの、我も我もと乗りこぼれたる下簾の隙間ども
も、さらぬ顔なれど、ほを笑みつつしり目にととめ給もあり。大殿のはしるけ
れば、まめだちて渡り給。御供の人人うちかしこまり、心ばへありつつ渡るを、
おし消たれたるありさま、こよなうおぼさる。
影をのみみたらし河のつれなきに身のうきほどぞいとど知らるる
と、涙のこぼるるを、人の見るもはしたなけれど、目もあやなる御さまかたち
のいとどしう出でばへを見ざらましかば、とおぼさる。
ほどほどにつけて、装束、人のありさま、いみじくととのへたりと見ゆるな
かにも、上達部はいとことなるを、一所の御光にはをし消たれためり。大将の
御仮の随身に殿上の将監などのすることは常のことにもあらず、めづらしき
行幸などのおりのわざなるを、けふは右近の蔵人の将監仕うまつれり。さら
ぬ御随身どもも、かたち姿まばゆくととのへて、世にもてかしづかれ給へるさ
ま、木草もなびかぬはあるまじげなり。
壺装束などいふ姿にて、女房のいやしからぬや、又尼などの世を背きけるな
ども、たうれまどひつつ物見に出でたるも、例は、あながちなりや、あなにく
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と見ゆるに、けふはことはりに、口うちすげみて髪着こめたるあやしの者ども
の、手をつくりてひたいに当てつつ見たてまつりあげたるも、おこがましげな
るしづのおまで、をのが顔のならむさまをば知らで、笑みさかへたり。何とも
見入れ給まじきゑせず両のむすめなどさへ、心の限り尽くしたる車どもに乗り、
さまことさらび、心化粧したるなむ、おかしきやうやうの見ものなりける。ま
して、ここかしこにうち忍びて通ひ給所所は、人知れずのみ数ならぬ嘆き
まさるも多かり。
式部卿の宮、桟敷にてぞ見たまひける。いとまばゆきまでねびゆく人のかた
ちかな、神などは目もこそとめ給へ、とゆゆしくおぼしたり。姫君は、年ごろ
聞こえわたり給御心ばへの世の人に似ぬを、なのめならむにてだにあり、ま
してかうしもいかで、と御心とまりけり。いとど近くて見えむまではおぼしよ
らず。若き人人は聞きにくきまでめできこえあへり。
祭の日は、大殿にはもの見給はず。大将の君、かの御車の所争ひをまねびき
こゆる人ありければ、いといとおしううしとおぼして、なを、あたら、をもり
かにおはする人の、ものになさけをくれ、すくすくしき所つき給へるあまりに、
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身づからはさしもおぼさざりけめども、かかる仲らひはなさけかはすべき物と
もおぼいたらぬ御をきてにしたがひて、つぎつぎよからぬ人のせさせたるなら
むかし、御息所は、心ばせのいとはづかしく、よしありておはする物を、いか
におぼしうむじにけん、といとおしくて参うで給へりけれど、斎宮のまだ本の
宮におはしませば、榊の憚りにことつけて、心やすくも対面したまはず。こと
はりとはおぼしながら、「なぞや、かくかたみにそばそばしからでおはせかし」
とうちつぶやかれ給。
けふは、二条院に離れおはして、祭見に出で給。西の対に渡り給て、惟光に
車の事仰せたり。「女房、出で立つや」との給て、姫君のいとうつくしげにつ
くろいたてておはするを、うち笑みて見たてまつり給。「君は、いざたまへ。
もろともに見むよ」とて、御髪の常よりもきよらに見ゆるをかき撫で給て、
「久しう削ぎ給はざめるを、けふはよき日ならむかし」とて、暦の博士召して
時問はせなどし給ほどに、「まづ、女房出でね」とて、童の姿どものおかしげ
なるを御覧ず。いとらうたげなる髪どもの裾はなやかに削ぎわたして、浮紋の
表の袴にかかれるほど、けざやかに見ゆ。「君の御髪は、われ削がむ」とて、
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「うたて、所せうもあるかな。いかに生ひやらむとすらむ」と削ぎわづらひ
給。「いと長き人も、ひたい髪はすこし短かうぞあめるを。むげにをくれたる
筋のなきや、あまりなさけなからむ」とて、削ぎはてて、「千尋」と祝ひきこ
え給を、少納言、あはれにかたじけなしと見たてまつる。
はかりなき千尋の底の海松ぶさの生ひゆくすゑはわれのみぞ見む
と聞こえたまへば、
千尋ともいかでか知らむさだめなく満ち干る潮ののどけからぬに
と物に書きつけておはするさま、らうらうじき物から若うおかしきを、めでた
しとおぼす。
けふも所もなく立ちにけり。馬場のおとどのほどに立てわづらひて、「上達
部の車ども多くて、ものさはがしげなるわたりかな」とやすらひ給に、よろし
き女車のいたう乗りこぼれたるより、扇をさし出でて人を招きよせて、「ここ
にやは立たせ給はぬ。所避りきこえむ」と聞こえたり。
いかなるすき物ならむとおぼされて、所もげによきわたりなれば、引き寄せ
させ給て、「いかで得給へる所ぞ、とねたさになん」とのたまへば、よしある
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扇のつまをおりて、
はかなしや人のかざせるあふひゆへ神のゆるしのけふを待ちける
しめのうちには。
とある手をおぼし出づれば、かの内侍のすけなりけり。あさましう古りがたく
もいまめくかな、とにくさに、はしたなう、
かざしける心ぞあだに思ほゆる八十氏人になべてあふひを
女はつらしと思きこえけり。
くやしくもかざしけるかな名のみして人だのめなる草葉ばかりを
と聞こゆ。人とあひ乗りて簾をだに上げ給はぬを、心やましう思ふ人多かり。
一日の御ありさまのうるはしかりしに、けふうち乱れてありき給かし、たれな
らむ、乗り並ぶ人けしうはあらじはや、とをしはかりきこゆ。いどましからぬ
かざし争ひかな、とさうざうしくおぼせど、かやうにいと面なからぬ人はた、
人あひ乗り給へるにつつまれて、はかなき御いらへも心やすく聞こえんもまば
ゆしかし。
御息所は、物をおぼし乱るる事、年ごろよりも多く添ひにけり。つらき方に
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思ひ果て給へど、いまはとてふり離れ下りたまひなむは、いと心ぼそかりぬべ
く、世の人聞きも人笑へにならんこととおぼす。さりとて立ちとまるべくおぼ
しなるには、かくこよなきさまにみな思ひくたすべかめるもやすからず、釣す
る海人のうけなれや、と起き臥しおぼしわづらふけにや、御心ちも浮きたるや
うにおぼされて、なやましうし給。大将殿には、下り給はむ事を、もて離れて、
あるまじきことなどもさまたげきこえ給はず。「数ならぬ身を見まうくおぼし
捨てむもことはりなれど、いまは猶言ふかひなきにても、御覧じはてむや浅
からぬにはあらん」と聞こえかかづらひ給へば、さだめかねたまへる御心もや
慰むと、立ち出で給へりし御禊河の荒かりし瀬に、いとどよろづいとうくおぼ
し入れたり。
大殿には、御もののけめきていたうわづらひ給へば、たれもたれもおぼし嘆く
に、御ありきなど便なき比なれば、二条院にも時時ぞ渡り給。さはいへど、
やむごとなき方はことに思きこえたまへる人の、めづらしき事さへ添ひ給へる
御悩みなれば、心ぐるしうおぼし嘆きて、御修ほうや何やなど、わが御方にて
多く行わせ給ふ。もののけ、いきずたまなどいふもの多く出で来て、さまざま
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の名のりする中に、人にさらに移らず、ただ身づからの御身につと添ひたるさ
まにて、ことにおどろおどろしう、わづらはしきこゆることもなけれど、又、片
時離るるおりもなき物ひとつあり。いみじき験者どもにも従はず、しうねきけ
しきおぼろけのものにあらず、と見えたり。
大将の君の御通ひ所、ここかしことおぼしあつるに、「この御息所、二条の
君などばかりこそは、をしなべてのさまにはおぼしたらざめれば、うらみの心
も深からめ」とささめきて、ものなど問はせ給へど、さして聞こえあつること
もなし。もののけとても、わざと深き御敵と聞こゆるもなし。過ぎにける御
乳母だつ人、もしは親の御方につけつつ伝はりたるものの、弱目に出で来たる
など、むねむねしからずぞ乱れ現るる。ただつくづくと音をのみ泣き給て、お
りおりは胸をせき上げつつ、いみじう耐へがたげにまどふわざをし給へば、い
かにおはすべきにか、とゆゆしうかなしくおぼしあはてたり。
院よりも御とぶらひ隙なく、御祈りのことまでおぼし寄らせ給さまのかたじ
けなきにつけても、いとどおしげなる人の御身也。世の中あまねくおしみきこ
ゆるを聞き給にも、御息所はただならずおぼさる。年ごろはいとかくしもあ
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らざりし御いどみ心を、はかなかりし所の車あらそひに、人の御心の動きにけ
るを、かの殿には、さまでもおぼし寄らざりけり。
かかる御物思ひの乱れに、御心ち猶例ならずのみおぼさるれば、ほかに渡
り給て、御修ほうなどせさせ給。大将殿聞き給て、いかなる御心ちにかと、
いとおしうおぼしをこして渡り給へり。例ならぬ旅所なれば、いたう忍び給。
心よりほかなる怠りなど罪ゆるされぬべく聞こえつつけ給て、なやみ給人の
御ありさまもうれへきこえ給。「身づからはさしも思入れ侍らねど、親たち
のいとことことしう思ひまどはるるが心ぐるしさに、かかるほどを見過ぐさむ
とてなむ。よろづをおぼしのどめたる御心ならば、いとうれしうなむ」など語
らひきこえ給。常よりも心ぐるしげなる御けしきを、ことはりにあはれに見た
てまつり給。
うちとけぬあさぼらけに出で給御さまのおかしきにも、猶ふり離れなむ事
はおぼし返さる。やむごとなき方に、いとど心ざし添ひ給べきことも出で来に
たれば、ひとつ方におぼししづまり給なむを、かやうに待きこえつつあらむも
心のみ尽きぬべき事、中中もの思のおどろかさるる心ちし給に、御文ばかり
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ぞ暮れつ方ある。
日ごろすこしおこたるさまなりつる心ちの、にはかにいといたう苦しげに
侍るを、えひき避かでなむ。
とあるを、例のことつけと見たまふ物から、
袖ぬるる恋ぢとかつは知りながら下り立つ田子の身づからぞうき
山の井の水もことはりに。
とぞある。御手はなをここらの人の中にすぐれたりかしと見給ひつつ、いかに
ぞやもある世かな、心もかたちもとりどりに、捨つべくもなく、又思ひ定むべ
きもなきを苦しうおぼさる。御返り、いと暗うなりにたれど、
袖のみ濡るるやいかに。深からぬ御事になむ。
浅みにや人は下り立つわが方は身もそぼつまで深き恋ぢを
おぼろけにてや、この御返りをみづから聞こえさせぬ。
などあり。
大殿には、御もののけいたう起こりて、いみじうわづらひ給。この御いきず
たま、故父おとどの御霊など言ふものありと聞き給につけて、おぼしつづく
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れば、身ひとつのうき嘆きよりほかに、人をあしかれなど思ふ心もなけれど、
物思ひにあくがるなるたましゐは、さもやあらむ、とおぼし知らるることもあ
り。
年ごろよろづに思ひ残すことなく過ぐしつれど、かうしも砕けぬを、はかな
き事のおりに、人の思ひ消ち、なきものにもてなすさまなりし御禊の後、一ふ
しにおぼし浮かれにし心静まりがたうおぼさるるけにや、すこしうちまどろみ
給夢には、かの姫君とおぼしき人のいときよらにてある所に行きて、とかく
ひきまさぐり、うつつにも似ず、猛くいかきひたふる心出で来て、うちかなぐ
るなど見え給事たび重なりにけり。
あな心うや、げに身を捨ててや往にけむ、とうつし心ならずおぼえ給おり
おりもあれば、さならぬ事だに、人の御ためには、よさまのことをしも言ひ出
でぬ世なれば、ましてこれはいとよう言ひなしつべきたよりなりとおぼすに、
いと名立たしう、ひたすら世に亡くなりて後にうらみ残すは世の常のこと也、
それだに人の上にては、罪深うゆゆしきを、うつつの我身ながら、さるうとま
しきことを言ひつけらるる、宿世のうきこと、すべてつれなき人にいかで心も
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かけきこえじ、とおぼし返せど、思ふも物をなり。
斎宮は、こぞ、内に入り給べかりしを、さまざま障る事ありて、この秋、入
給。九月には、やがて野の宮に移ろひ給べければ、ふたたびの御祓へのいそ
ぎとり重ねてあるべきに、ただあやしうほけほけしうて、つくづくと臥しなや
み給を、宮人いみじき大事にて、御祈りなどさまざま仕うまつる。
おどろおどろしきさまにはあらず、そこはかとなくて月日を過ぐし給。大将殿
も常にとぶらひきこえ給へど、まさる方のいたうわづらひ給へば、御心の暇な
げなり。
まださるべきほどにもあらずと皆人もたゆみ給へるに、にはかに御けしきあ
りてなやみ給へば、いとどしき御祈り数を尽くしてせさせ給へれど、例のしう
ねき御もののけひとつ、さらに動かず。やむごとなき験者ども、めづらか也と
もてなやむ。さすがにいみじう調ぜられて、心ぐるしげに泣きわびて、「すこ
しゆるへ給へや。大将に聞こゆべき事あり」とのたまふ。「さればよ。あるや
うあらん」とて、近き御き丁のもとに入れたてまつりたり。むげに限りのさま
にものし給を、聞こえをかまほしきこともおはするにやとて、おとども宮もす
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こし退き給へり。加持の僧どもこゑ静めて法華経をよみたる、いみじうたうと
し。
みき丁の帷子引き上げて見たてまつり給へば、いとおかしげにて、御腹はい
みじう高うて臥し給へるさま、よそ人だに見たてまつらむに心乱れぬべし。ま
しておしうかなしうおぼす、ことはり也。白き御衣に色あひいとはなやかにて、
御髪のいと長うこちたきを引き結ひてうち添へたるも、かうてこそらうたげに
なまめきたる方添ひておかしかりけれと見ゆ。御手をとらへて、「あないみじ。
心うきめを見せ給かな」とて、物も聞こえ給はず泣き給へば、例はいとわづら
はしうはづかしげなる御まみを、いとたゆげに見上げてうちまもりきこえ給に、
涙のこぼるるさまを見給は、いかがあはれの浅からむ。
あまりいたう泣きたまへば、心ぐるしき親たちの御事をおぼし、又かく見
給につけてくちおしうおぼえ給にや、とおぼして、「何事もいとかうなおぼ
し入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりともかならず逢ふ瀬あなれば、
対面はありなむ。おとど、宮なども、深き契ある中は、めぐりても絶えざなれ
ば、あひ見るほどありなむとおぼせ」と慰め給に、「いで、あらずや。身の上
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のいと苦しきを、しばしやすめ給へと聞こえむとてなむ。かくまいり来むとも
さらに思はぬを、物思ふ人のたましひはげにあくがるる物になむありける」と
なつかしげに言ひて、
なげきわび空に乱るるわが魂をむすびとどめよしたがへのつま
との給声、けはひ、その人にもあらず変はりたまへり。いとあやしとおぼし
めぐらすに、ただかの御息所也けり。あさましう、人のとかくゆふを、よから
ぬ者どもの言ひ出づることも聞きにくくおぼしての給消つを、目に見す見す、
世にはかかる事こそはありけれ、とうとましうなりぬ。あな心うとおぼされて、
「かくの給へど、たれとこそ知らね。たしかにの給へ」との給へば、ただそれ
なる御ありさまに、あさましとは世の常也。人人近うまいるもかたはらいた
うおぼさる。
すこし御声も静まり給へれば、隙おはするにやとて、宮の御湯もて寄せ給へ
るに、かき起こされ給て、ほどなく生まれ給ぬ。うれしとおぼす事かぎりなき
に、人にかり移し給へる御もののけども、ねたがりまどふけはひいと物さはが
しうて、後のこと又いと心もとなし。言ふかぎりなき願ども立てさせ給けにや、
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たいらかに事なりはてぬれば、山の座主、何くれやむごとなき僧ども、したり
顔に汗をしのごひつつ、急ぎまかでぬ。
多くの人の心を尽くしつる日ごろのなごりすこしうちやすみて、今はさりと
もとおぼす。御修ほうなどは、又又始め添へさせ給へど、まづはけうあり、
めづらしき御かしづきに、皆人ゆるへり。院をはじめたてまつりて、親王たち、
上達部残るなき産養どものめづらかにいかめしきを、夜ごとに見ののしる。お
とこにてさへおはすれば、そのほどのさほうにぎははしくめでたし。
かの宮す所は、かかる御ありさまを聞き給ても、ただならず。かねてはい
とあやうく聞こえしを、たいらかにもはた、とうちおぼしけり。あやしう、わ
れにもあらぬ御心ちをおぼしつづくるに、御衣などもただ芥子の香にしみかへ
りたるあやしさに、御ゆするまいり、御衣着かへなどし給て、心みたまへど、猶お
なじやうにのみあれば、わが身ながらだにうとましうおぼさるるに、まして人
の言ひ思はむことなど、人にの給べき事ならねば、心ひとつにおぼし嘆くに、
いとど御心変はりもまさりゆく。
大将殿は、心ちすこしのどめ給て、あさましかりしほどの問はず語りも心う
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くおぼし出られつつ、いとほど経にけるも心ぐるしう、又け近う見たてまつら
むには、いかにぞや、うたておぼゆべきを、人の御ためいとおしうよろづにお
ぼして、御文ばかりぞありける。
いたうわづらひ給し人の、御なごりゆゆしう、心ゆるびなげにたれもおぼし
たれば、ことはりにて御ありきもなし。猶いとなやましげにのみしたまへば、
例のさまにてもまだ対面し給はず。若君のいとゆゆしきまで見え給御ありさ
まを、今からいとさまことにもてかしづききこえ給さまおろかならず、事あひ
たる心ちして、おとともうれしういみじと思ひきこえ給へるに、ただこの御
心ちおこたりはて給はぬを、心もとなくおぼせど、さばかりいみじかりしな
ごりにこそはとおぼして、いかでかはさのみは心をもまどはし給はん。
若君の御まみのうつくしさなどの、春宮にいみじう似たてまつり給へるを見
たてまつり給ても、まづ恋しう思ひ出られさせ給に忍びがたくて、まいり給は
むとて、「内などにもあまり久しうまいり侍らねば、いぶせさに、けふなむ初
立ちし侍を、すこしけ近きほどにて聞こえさせばや。あまりおぼつかなき御心
の隔てかな」とうらみきこえ給へれば、「げにただひとへに艶にのみあるべき
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御中にもあらぬを、いたう衰へ給へりといひながら、物越しにてなどあべきか
は」とて、臥し給へる所に御座近うまいりたれば、入りて物など聞こえ給。
御いらへ時時聞こえ給も、猶いとよはげ也。されど、むげに亡き人と思ひき
こえし御ありさまをおぼし出づれば、夢の心ちして、ゆゆしかりしほどの事ど
もなど聞こえ給ついでにも、かのむげに息も絶えたるやうにおはせしが、ひき
返しつぶつぶとのたまひし事どもおぼし出づるに、心うければ、「いさや、聞
こえまほしきこといと多かれど、まだいとたゆげにおぼしためればこそ」とて、
「御湯まいれ」などさへあつかひきこえ給を、いつならひ給けんと、人人あは
れがりきこゆ。
いとおかしげなる人の、いたうよはり損はれて、あるかなきかのけしきにて
臥し給へるさま、いとらうたげに心ぐるしげなり。御髪の乱れたる筋もなく、
はらはらとかかれる枕のほど、ありがたきまで見ゆれば、年ごろ何ごとを飽か
ぬことありて思ひつらむ、とあやしきまでうちまもられ給。「院などにまいり
て、いととうまかでなむ。かやうにておぼつかなからず見たてまつらばうれし
かるべきを、宮のつとおはするに、心ちなくやとつつみて過ぐしつるも苦しき
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を、猶やうやう心づよくおぼしなして、例の御座所にこそ。あまり若くもてな
し給へば、かたへはかくもものし給ぞ」など聞こえをき給て、いときよげにう
ち装束きて出で給を、常よりは目とどめて見出だして臥し給へり。
秋の司召あるべき定めにて、大殿もまいり給へば、君たちもいたはり望み
給事どもありて、殿の御あたり離れ給はねば、みなひきつづき出で給ぬ。
殿のうち人少なにしめやかなるほどに、にはかに例の御胸をせきあげていと
いたうまどひ給。内に御消息聞こえ給ほどもなく絶え入り給ぬ。足をそらにて、
たれもたれもまかで給ぬれば、除目の夜なりけれど、かくわりなき御さはりなれ
ば、みな事破れたるやう也。
ののしりさはくほど、夜中ばかりなれば、山の座主、何くれの僧都たちもえ
請じあへ給はず。今はさりともと思ひたゆみたりつるに、あさましければ、殿
のうちの人、物にぞ当る。所所の御とぶらひの使など立ちこみたれど、え聞
こえつがずゆすり満ちて、いみじき御心まどひども、いとおそろしきまで見え
給。御もののけのたびたび取入れたてまつりしをおぼして、御枕などもさな
がら二三日見たてまつり給へど、やうやう変はり給ことどものあれば、限りと
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おぼしはつるほど、たれもたれもいといみじ。
大将殿は、かなしきことに事を添へて、世の中をいとうき物におぼししみぬ
れば、ただならぬ御あたりのとぶらひどもも、心うしとのみぞなべておぼさ
るる。
院におぼし嘆きとぶらひきこえさせ給さま、かへりて面だたしげなるを、う
れしき瀬もまじりて、おとどは御涙の暇なし。人の申すに従ひて、いかめしき
ことどもを、生きや返り給とさまざまに残る事なく、かつ損はれ給事どもの
あるを見る見るも、尽きせずおぼしまどへど、かひなくて日ごろになれば、い
かがはせむとて、鳥辺野に率てたてまつるほど、いみじげなる事多かり。
こなたかなたの御をくりの人ども、寺寺の念仏僧など、そこら広き野に所
もなし。院をばさらにも申さず、后の宮、春宮などの御使、さらぬ所所のも
まいりちがひて、飽かずいみじき御とぶらひを聞こえ給。おとどはえ立ち上が
り給はず。「かかる齢の末に、若く盛りの子にをくれたてまつりてもごよふこ
と」とはぢ泣き給を、ここらの人かなしう見たてまつる。夜もすがらいみじう
ののしりつる儀式なれど、いともはかなき御かばねばかりを御なごりにて、あ
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か月深く帰り給。
常の事なれど、人ひとりか、あまたしも見給はぬことなればにや、たぐひな
くおぼしこがれたり。八月廿よ日の在明なれば、空もけしきもあはれ少なから
ぬに、おとどの闇にくれまどひ給へるさまを見たまふもことはりにいみじけれ
ば、空のみながめられ給て、
のぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲ゐのあはれなる哉
殿におはし着きて、露まどろまれ給はず、年ごろの御ありさまをおぼし出で
つつ、などて、つゐにはをのづから見なをし給てむと、のどかに思ひて、なを
ざりのすさびにつけても、つらしとおぼえられたてまつりけむ、世を経て疎く
はづかしき物に思ひて過ぎはて給ぬる、など悔しき事多くおぼし続けらるれど、
かひなし。
鈍める御衣たてまつれるも夢の心ちして、われ先立たましかば、深くぞ染め
給はまし、とおぼすさへ、
限りあれば薄墨衣あさけれど涙ぞ袖をふちとなしける
とて、念誦し給へるさま、いとどなまめかしさまさりて、経しのびやかに読み
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給つつ、「法界三昧普賢大士」とうちの給へる、行ひ馴れたるほうしよりは
けなり。
若君を見たてまつり給にも、何に忍ぶのと、いとど露けけれど、かかる形見
さへなからましかば、とおぼし慰む。宮は沈み入りて、そのままに起き上り給
はず、あやうげに見え給を、又おぼしさはぎて、御祈りなどせさせ給。
はかなう過ぎ行けば、御わざのいそぎなどせさせ給も、おぼしかけざりしこ
となれば、尽きせずいみじうなむ。なのめにかたほなるをだに、人の親はい
かが思ふめる。ましてことはり也。又たぐひおはせぬをだにさうざうしくおぼ
しつるに、袖の上の玉の砕けたりけむよりもあさましげなり。
大将の君は、二条院にだにあからさまにも渡り給はず、あはれに心深う思ひ
嘆きて、行ひをまめにし給ひつつ、明かし暮らし給。所所には御文ばかりぞた
てまつり給。
かの宮す所は、斎宮は左衛門のつかさに入り給にければ、いとといつくしき
御清まはりにことつけて聞こえも通ひ給はず。うしと思ひしみにし世もなべて
いとはしうなり給て、かかる絆だに添はざらましかば、願はしきさまにもなり
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なましとおぼすには、まづ対の姫君のさうざうしくてものし給らむありさまぞ、
ふとおぼしやらるる。
夜はみ丁のうちにひとり臥し給に、宿直の人人は近うめぐりてさぶらへど、
かたはらさびしくて、時しもあれと、寝覚めがちなるに、声すぐれたるかぎり
選りさぶらはせ給念仏の、暁方など忍びがたし。
深き秋のあはれまさり行風のをと、身にしみけるかなと、ならはぬ御ひとり
寝に、明かしかね給へる朝ぼらけの霧りわたれるに、菊のけしきばめる枝に、
濃き青鈍の紙なる文つけて、さしをきて往にけり。いまめかしうも、とて見給
へば、宮す所の御手なり。
聞こえぬほどはおぼし知るらむや。
人の世をあはれときくも露けきにをくるる袖を思ひこそやれ
ただ今の空に思ひ給へあまりてなむ。
とあり。常よりも優にも書い給へるかな、とさすがにをきがたう見給物から、
つれなの御とぶらひや、と心うし。さりとて、かき絶えをとなう聞こえざらむ
もいとおしく、人の御名の朽ちぬべき事をおぼし乱る。過ぎにし人は、とても
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かくてもさるべきにこそは物し給けめ、何にさることをさださだとけざやかに
見聞きけむ、とくやしきは、我御心ながら猶えおぼしなをすまじきなめりかし。
斎宮の御清まはりもわづらはしくや、など久しう思ひわづらひ給へど、わざ
とある御返なくはなさけなくや、とて紫のにばめる紙に、
こよなうほど経侍にけるを、思給へ怠らずながら、つつましきほどは、
さらばおぼし知るらむや、とてなむ。
とまる身も消えしもおなじ露の世に心をくらむほどぞはかなき
かつはおぼし消ちてよかし。御覧ぜずもやとて、たれにも。
と聞こえ給へり。
里におはするほどなりければ、忍びて見給て、ほのめかし給へるけしきを
心の鬼にしるく見給て、さればよとおぼすもいといみじ。猶いと限りなき身
のうさ也けり、かやうなる聞こえありて、院にもいかにおぼさむ、故前坊のお
なじき御はらからといふ中にも、いみじう思ひかはしきこえさせ給て、この斎
宮の御事をもねんごろに聞こえつけさせ給しかば、「その御代はりにも、やが
て見たてまつりあつかはむ」など常にの給せて、「やがて内住みし給へ」とた
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びたび聞こえさせ給しをだに、いとあるまじきことと思ひ離れにしを、かく心
よりほかに、若若しき物思ひをして、つゐにうき名をさへ流しはてつべきこ
と、とおぼし乱るるに、なを例のさまにもおはせず。
さるは、大かたの世につけて、心にくくよしある聞こえありて、昔より名高
く物し給へば、野の宮の御移ろひのほどにも、おかしういまめきたる事多くし
なして、殿上人どもの好ましきなどは、朝夕の露分けありくをその比の役にな
むするなど聞き給ても、大将の君は、ことはりぞかし、ゆへは飽くまでつき
給へる物を、もし世中に飽きはててくだり給なば、さうざうしくもあるべきか
な、とさすがにおぼされけり。
御法事など過ぎぬれど、正日までは猶篭もりおはす。ならはぬ御つれづれ
を心ぐるしがり給て、三位中将はつねにまいり給つつ、世中の御物語りなど、
まめやかなるも又例の乱りがはしき事をも聞こえ出でつつ、慰めきこえ給に、
かの内侍ぞうち笑ひ給くさはひにはなるめる。大将の君は、「あないとおしや。
をばおととの上ないたう軽め給ひそ」と諫め給物から、常におかしとおぼし
たり。かのいさよひのさやかならざりし秋の事など、さらぬも、さまざまのす
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きごとどもをかたみに隈なく言ひあらはし給、はてはてはあはれなる世を言ひ
言ひて、うち泣きなどもし給けり。
時雨うちして、物あはれなる暮つかた、中将の君、鈍色のなをし、指貫うす
らかに衣がへして、いとおおしうあざやかに心はづかしきさましてまいり給へ
り。君は、西のつまの高欄にをしかかりて、霜枯れの前栽見給ほど也けり。
風荒らかに吹き、しぐれさとしたるほど、涙もあらそふ心ちして、「雨となり
雲とや成にけん、いまは知らず」とうちひとりごちて、頬杖つき給へる御さま、
女にては見捨てて亡くならむ玉しひかならずとまりなむかし、と色めかしき
心ちにうちまもられつつ、近うついゐ給へれば、しどけなくうち乱れ給へる
さまながら、紐ばかりをさしなをし給。これは、いますこしこまやかなる夏の
御なをしに、紅のつややかなるひき重ねて、やつれ給へるしも、見ても飽か
ぬ心ちぞする。
中将も、いとあはれなるまみにながめたまへり。
「雨となりしぐるる空のうき雲をいづれの方とわきてながめむ
ゆくゑなしや」とひとりごとのやうなるを、
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見し人の雨となりにし雲井さへいとど時雨にかきくらす比
との給御けしきも、浅からぬほどしるく見ゆれば、あやしう、年比はいとし
もあらぬ御心ざしを、院などゐたちての給はせ、おととの御もてなしも心ぐる
しう、大宮の御方ざまにもて離るまじきなど、かたがたにさしあひたれば、え
しもふり捨て給はで、ものうげなる御けしきながらあり経給なめりかしと、
いとおしう見ゆるおりおりありつるを、まことにやむごとなくをもき方はこと
に思きこえ給けるなめり、と見知るに、いよいよくちおしうおぼゆ。よろづに
つけて光失せぬる心ちして、屈じゐたかりけり。
枯れたる下草の中に、竜胆、撫子などの咲き出でたるをおらせ給て、中将の
立ち給ぬる後に、若君の御乳母の宰相の君して、
「草枯れのまがきに残るなでしこを別れし秋のかたみとぞ見る。
匂ひ劣りてや御覧ぜらるらむ」と聞こえ給へり。げに何心なき御笑み顔ぞいみ
じううつくしき。宮は、吹風につけてだに、木の葉よりけにもろき御涙は、ま
してとりあへ給はず。
いまも見てなかなか袖をくたすかな垣ほ荒れにし大和なでしこ
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猶いみじうつれづれなれば、朝顔の宮に、けふのあはれはさりとも見知り
給らむとおしはからるる御心ばへなれば、暗きほどなれど聞こえ給。絶え間
とをけれど、さのものとなりにたる御文なれば、咎なくて御覧ぜさす。空の色
したる唐の紙に、
わきてこの暮れこそ袖は露けけれ物おもふ秋はあまたへぬれど
いつも時雨は。
とあり。御手などの心ととめて書き給へる、常よりも見所ありて、「過ぐしが
たきほどなり」と人も聞こえ、みづからもおぼされければ、
大内山を思ひやりきこえながら、えやは。
とて、
秋霧にたちをくれぬと聞きしより時雨る空もいかがとぞ思ふ
とのみ、ほのかなる墨つきにて思ひなし心にくし。何事につけても、見まさり
は難き世なめるを、つらき人しもこそと、あはれにおぼえ給人の御心ざまな
る。つれなながら、さるべきおりおりのあはれを過ぐし給はぬ、これこそかた
みになさけも見はつべきわざなれ、猶ゆへづきよしづきて、人目に見ゆばかり
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なるは、あまりの難も出で来けり、対の姫君をさはおほし立てじ、とおぼす。
つれづれにて恋しと思らむかし、と忘るるおりなけれど、ただ女親なき子をお
きたらむ心ちして、見ぬほどうしろめたく、いかが思ふらむとおぼえぬぞ心や
すきわざなりける。
暮れはてぬれば、御殿油近くまいらせ給て、さるべきかぎりの人人、御前
にて物語などせさせ給。中納言の君といふは、年ごろ忍びおぼししかど、この
御思ひのほどは、中中さやうなる筋にもかけ給はず。あはれなる御心かなと
見たてまつる。大かたには、なつかしううち語らひ給て、「かうこの日ごろ、
ありしよりけにたれもたれも紛るるかたなく見馴れ馴れて、えしも常にかからず
は恋しからじや。いみじき事をばさる物にて、ただうち思ひめぐらすこそたへ
がたきこと多かりけれ」との給へば、いとどみな泣きて、「言ふかひなき御事
は、ただかきくらす心ちし侍はさる物にて、なごりなきさまにあくがれはてさ
せ給はむほど、思給ふるこそ」と聞こえもやらず。あはれと見わたし給て、
「なごりなくはいかがは。心浅くも取りなし給哉。心長き人だにあらば見はて
給ひなむ物を。命こそはかなけれ」とて、火をうちながめたまへるまみのうち
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濡れ給へるほどぞめでたき。
とりわきてらうたくし給し小さき童の、親どももなくいと心ぼそげに思へる、
ことはりに見給て、「あてきは、いまはわれをこそは思ふべき人なめれ」と
のたまへば、いみじう泣く。ほどなき衵、人よりは黒う染めて、黒き汗衫、萱
草の袴など着たるもおかしきすがた也。「むかしを忘れざらむ人は、つれづれ
を忍びても、幼なき人を見捨てずものし給へ。見し世のなごりなく、人人さ
へ離れなば、たづきなさもまさりぬべくなむ」など、みな心長かるべきことど
もをの給へど、いでや、いとど待ちどをにぞなり給はむと思ふに、いとど心ぼ
そし。大殿は、人人に、際際ほどをきつつ、はかなきもて遊び物ども、又ま
ことにかの御形見なるべき物など、わざとならぬさまに取りなしつつ、みな配
らせ給けり。
君は、かくてのみもいかでかはつくづくと過ぐし給はむとて、院へまいり
給。御車さし出でて、御前などまいり集まるほど、おり知り顔なる時雨うち
そそきて、木の葉さそふ風あはたたしう吹はらひたるに、御前にさぶらふ人人、
ものいと心ぼそくて、すこし隙ありつる袖ども潤ひわたりぬ。夜さりは、やが
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て二条院にとまり給べしとて、さぶらひの人人もかしこにて待ちきこえん
となるべし、をのをの立ち出づるに、けふにしも閉ぢむまじき事なれど、又な
くものがなし。おとども宮も、けふのけしきにまたかなしさあらためておぼさ
る。
宮の御前に御消息聞こえ給へり。
院におぼつかながりの給するにより、けふなむまいり侍。あからさまに
立ち出で侍につけても、けふまでながらへ侍にけるよと乱り心ちのみ動き
てなむ、聞こえさせむも中中に侍べければ、そなたにもまいり侍らぬ。
とあれば、いとどしく宮は目も見え給はず沈み入りて、御返も聞こえ給はず。
おとどぞやがて渡り給へる。いと耐へがたげにおぼして、御袖もひき放ち給は
ず。見たてまつる人人もいとかなし。
大将の君は、世をおぼしつづくることいとさまざまにて、泣き給さまあはれ
に心深き物から、いとさまよくなまめき給へり。おとど久しうためらひ給て、
「齢のつもるには、さしもあるまじきことにつけてだに、涙もろなるわざに
侍を、まして干る世なう思ひ給へまどはれ侍心を、えのどめ侍らねば、人
P324
目もいと乱りがはしう心よはきさまに侍べければ、院などにもまいり侍らぬ也。
ことのついでには、さやうにおもむけ奏せさせ給へ。いくばくも侍るまじき老
いの末に、うち捨てられたるがつらうも侍かな」と、せめて思ひしづめての
給けしき、いとわりなし。君もたびたび鼻うちかみて、「をくれ先き立つほ
どの定めなさは、世のさがと見給へ知りながら、さしあたりておぼえ侍心ま
どひは、たぐひあるまじきわざとなむ。院にも、ありさま奏し侍らむに、推し
はからせ給てむ」と聞こえ給。「さらば、時雨も隙なく侍めるを、暮ぬほどに」
とそそのかしきこえ給。
うち見まはし給に、御き丁のうしろ、障子のあなたなどの開きとおりたるな
どに、女房卅人ばかりおしこりて、濃き薄き鈍色どもを着つつ、みないみじう
心ぼそげにて、うちしほたれつつゐ集まりたるを、いとあはれと見給。「おぼ
し捨つまじき人もとまりたまへれば、さりとももののついでにはたち寄らせ給
はじや、など慰め侍を、ひとへに思ひやりなき女房などは、けふを限りにおぼ
し捨てつる古郷と思屈じて、永く別れぬるかなしびよりも、ただ時時馴れ
仕うまつる年月のなごりなかるべきを嘆き侍めるなむ、ことはりなむ。うちと
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けおはします事は侍ざりつれど、さりともつゐにはとあいな頼めし侍つるを、
げにこそ心ぼそきゆふべに侍れ」とても泣き給ぬ。「いとあさはかなる人人の
嘆きにも侍なるかな。まことに、いかなりともとのどかに思給へつるほどは、
をのづから御目離るるおりも侍つらむを、中中いまは何を頼みにてかは怠り
侍らん。いま御覧じてむ」とて出で給を、おとど見をくりきこえ給て入り給へ
るに、御しつらひよりはじめ、ありしに変はる事もなけれど、うつせみのむな
しき心ちぞし給。
御丁の前に御硯などうち散らして、手習捨て給へるを取りて、目をお
ししぼりつつ見給を、若き人人は、かなしき中にもほをゑむあるべし。あは
れなるふる事ども、唐のも大和のも書きけがしつつ、草にも真名にも、さま
さまめづらしきさまに書きまぜ給へり。「かしこの御手や」と空を仰ぎてなが
め給。よそ人に見たてまつりなさむがおしきなるべし。「旧き枕故き衾、たれ
とともにか」とある所に、
なき玉ぞいとどかなしき寝し床のあくがれがたき心ならひに
又、「霜の花白し」とある所に、
P326
君なくて塵積もりぬるとこなつの露うち払ひいく夜寝ぬらむ
一日の花なるべし、枯てまじれり。
宮に御覧ぜさせ給て、「言ふかひなき事をばさる物にて、かかるかなしきた
ぐひ世になくやはと思なしつつ、契長からでかく心をまどはすべくてこそは
ありけめ、とかへりてはつらく前の世を思やりつつなむ覚まし侍を、たた日ご
ろに添へて恋しさの耐へがたきと、この大将の君の、いまはとよそになり給は
むなん、飽かずいみじく思たまへらるる。一日ふつかも見え給はず、離れ離れ
におはせしをだに、飽かず胸いたく思侍しを、朝夕の光失ひては、いかでか
ながらふべからん」と御声もえ忍びあへ給はず泣い給に、御前なるおとなおとな
しき人など、いとかなしくて、さとうち泣きたる、そぞろ寒き夕べのけしき
也。
若き人人は、所所に群れゐつつ、をのがどちあはれなる事どもうち語らひ
て、「殿のおぼしのたまはするやうに、若君を見たてまつりてこそは慰むべか
めれと思ふも、いとはかなきほどの御形見にこそ」とて、をのをの、「あから
さまにまかでて、まいらむ」と言ふもあれば、かたみに別れおしむほど、をの
P327
がじしあはれなる事ども多かり。
院へまいり給へれば、いといたう面痩せにけり、精進にて日を経るけにや、
と心ぐるしげにおぼしめして、御前にて物などまいらせ給て、とやかくやとお
ぼしあつかひきこえさせ給へるさま、あはれにかたじけなし。
中宮の御方にまいり給へれば、人人めづらしがり見たてまつる。命婦の君
して、「思尽きせぬ事どもを、ほど経るにつけてもいかに」と御消息聞こえ
給へり。「常なき世は大かたにもおもふ給へ知りにしを、目に近く見侍つる
に、いとはしきこと多く思給へ乱れしも、たびたびの御消息に慰め侍てなむ
けふまでも」とて、さらぬおりだにある御けしきとり添へて、いと心ぐるしげ
なり。無紋の上の御衣に鈍色の御下襲、纓巻き給へるやつれ姿、華やかなる御
装ひよりもなまめかしさまさり給へり。春宮にも久しうまいらぬおぼつかなさ
など聞こえ給て、夜ふけてぞまかで給。
二条院には、かたがた払ひ磨きて、おとこ、女待ちきこえたり。上臈どもみ
な参う上りて、われもわれもと装束き化粧じたるを見るにつけても、かのゐ並み
屈じたりつるけしきどもぞ、あはれに思ひ出でられ給。御装束たてまつり替へ
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て、西の対に渡りたまへり。衣がへの御しつらひ、くもりなくあざやかに見え
て、よき若人、童べのなり、姿めやすくととのへて、少納言がもてなし心もと
なき所なう心にくしと見給。
姫君、いとうつくしうひきつくろひておはす。「久しかりつるほどに、いと
こよなうこそおとなび給にけれ」とて、小さき御き丁ひき上げて見たてまつり
給へば、うちそばみて笑ひ給へる御さま、飽かぬ所なし。火影の御かたはら目、
頭つきなど、ただかの心尽くしきこゆる人に違ふ所なくなり行かな、と見給
に、いとうれし。近く寄り給て、おぼつかなかりつるほどの事どもなど聞こえ
給て、「日ごろの物語りのどかに聞こえまほしけれど、いまいましうおぼえ
侍れば、しばし異方にやすらひてまいり来む。今はと絶えなく見たてまつるべ
ければ、いとはしうさへやおぼされむ」と語らひきこえ給を、少納言はうれし
と聞く物から、猶あやうく思きこゆ。やむごとなき忍び所多うかかづらひ給へ
れば、又わづらはしきやたちかはり給はむと思ふぞ、にくき心なるや。
御方に渡り給て、中将の君といふ[に]御足などまいりすさびて、大殿籠りぬ。
あしたには、若君の御もとに御文たてまつり給。あはれなる御返を見給に
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も、尽きせぬ事どものみなむ。
いとつれづれにながめがちなれど、何となき御ありきもものうくおぼしなら
れて、おぼしも立たれず。姫君の何事もあらまほしうととのひはてて、いとめ
でたうのみ見え給を、似げなからぬほどにはた見なし給へれば、けしきばみた
る事など、おりおり聞こえ試み給へど、見も知り給はぬけしき也。
つれづれなるままに、たたこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ日を暮らし
給に、心ばへのらうらうじく愛敬づき、はかなき戯れごとのなかにも、うつ
くしき筋をし出で給へば、おぼし放ちたる年月こそ、たださる方のらうたさの
みはありつれ、忍びがたくなりて、心ぐるしけれど、いかが有けむ、人のけぢ
め見たてまつり分くべき御中にもあらぬに、おとこ君はとく起き給て、女君は
さらに起き給はぬあしたあり。人人、「いかなればかくおはしますならむ。御
心ちの例ならずおぼさるるにや」と見たてまつり嘆くに、君は渡り給とて、
御硯の箱を御帳のうちにさし入れておはしにけり。人まに、からうして頭もた
げ給へるに、ひき結びたる文、御枕のもとにあり。何心もなくひき開けて見給
へば、
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あやなくもへだてけるかな夜を重ねさすがになれし夜の衣を
と書きすさび給へるやう也。かかる御心おはすらむとは、かけてもおぼし寄ら
ざりしかば、などてかう心うかりける御心をうらなく頼もしき物に思ひきこえ
けむ、とあさましうおぼさる。
昼つ方渡り給て、「なやましげにし給らむはいかなる御心ちぞ。けふは碁も
打たでさうざうしや」とてのぞき給へば、いよいよ御衣ひき被きて臥し給へり。
人人は退きつつさぶらへば、寄り給て、「などかくいぶせき御もてなしぞ。思
ひのほかに心うくこそおはしけれな。人もいかにあやしと思ふらむ」とて、御
衾を引きやり給へれば、汗にをし浸して、ひたい髪もいたう濡れ給へり。「あ
な、うたて。これはいとゆゆしきわざぞよ」とて、よろづにこしらへきこえ給
へど、まことにいとつらしと思給て、露の御いらへもし給はず。「よしよし。
さらに見えたてまつらじ。いとはづかし」などえじ給て、御硯開けて見給へ
ど、物もなければ、「若の御ありさまや」とらうたく見たてまつり給て、日ひ
と日、入りゐて慰めきこえ給へど、解けがたき御けしき、いとどらうたげなり。
その夜さり、亥の子もちゐまいらせたり。かかる御思のほどなれば、こと
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ことしきさまにはあらで、こなたばかりに、おかしげなる檜破子などばかりを、
色色にてまいれるを見給て、君、南の方に出で給て、惟光を召して、「こ
のもちゐ、かう数数に所せきさまにはあらで、あすの暮れにまいらせよ。け
ふはいまいましき日也けり」とうちほほ笑みての給御けしきを、心とき物に
て、ふと思よりぬ。惟光、たしかにもうけたまはらで、「げに、愛敬のはじめ
は日選りして聞こしめすべき事にこそ。さても子の子はいくつか仕うまつらす
べう侍らむ」とまめだちて申せば、「三が一つかにてもあらむかし」との給に、
心得はてて立ちぬ。物馴れのさまや、と君はおぼす。人にも言はで、手づから
といふばかり、里にてぞ作りゐたりける。
君はこしらへわび給て、いまはじめ盗みもて来たらむ人の心ちするも、いと
おかしくて、年比あはれと思ひきこえつるは片端にもあらざりけり、人の心
こそうたてある物はあれ、いまは一夜もへだてむ事のわりなかるべき事、とお
ぼさる。
の給しもちゐ、忍びていたう夜ふかして、もてまいれり。少納言はおとなし
くて、はづかしくやおぼさむ、と思やり深く心しらひて、むすめの弁といふを
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呼び出でて、「これ忍びてまいらせ給へ」とて、香壺の箱を一つさし入れたり。
「たしかに御枕上にまいらすべき祝の物に侍。あなかしこ、あだにな」と言へ
ば、あやしと思へど、「あだなる事はまだならはぬ物を」とて取れば、「まこと
に、いまはさる文字忌ませ給へよ。よもまじり侍らじ」と言ふ。若き人にて、
けしきもえ深く思よらねば、もてまいりて、御枕上の御き丁よりさし入れたる
を、君ぞ、例の聞こえ知らせ給らむかし。
人はえ知らぬに、つとめて、この箱をまかでさせ給へるにぞ、親しきかぎり
の人人、思ひあはする事どもありける。御皿どもなど、いつの間にかし出で
けむ、華足いときよらにして、もちゐのさまもことさらび、いとおかしうとと
のへたり。少納言は、いとかうしもや、とこそ思きこえさせつれ、あはれにか
たじけなく、おぼしいたらぬ事なき御心ばへを、まづうち泣かれぬ。「さても、
うちうちにのたまはせよな。かの人もいかに思ひつらむ」とささめきあへり。
かくて後は、内にも院にも、あからさまにまいり給へる程だに、しづ心なく
おもかげに恋しければ、あやしの心や、とわれながらおぼさる。通ひ給し所
所よりは、うらめしげにおどろかしきこえ給などすれば、いとおしとおぼす
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もあれど、新手枕の心ぐるしくて夜をや隔てむとおぼしわづらはるれば、いと
物うくて、なやましげにのみもてなし給て、「世中のいとうくおぼゆるほど過
ぐしてなむ、人にも見えたてまつるべき」とのみいらへ給つつ過ぐし給。
今后は、御匣殿猶この大将にのみ心つけたまへるを、「げに、はた、かくや
むごとなかりつる方も亡せ給ぬめるを、さてもあらむに、などかくちおしから
む」などおとどの給に、いとにくしと思ひきこえ給て、宮仕へもおさおさしく
だにしなし給へらば、などかあしからむ、とまいらせたてまつらむことをおぼ
しはげむ。君も、をしなべてのさまにはおぼえざりしを、くちをしとはおぼせ
ど、ただいまは異ざまに分くる御心もなくて、何かは、かばかり短かめ[る]世
に、かくて思ひ定まりなむ、人のうらみも負ふまじかりけり、といとどあやう
くおぼし懲りにたり。
かの御息所はいといとおしけれど、まことによるべと頼みきこえむには、必
ず心をかれぬべし、年ごろのやうにて見過ぐし給はば、さるべきおりふしに、
もの聞こえあはする人にてはあらむ、など、さすがにことのほかにはおぼし放
たず。
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この姫君を、いままで世人もその人とも知りきこえぬも、物げなきやう也、
父宮に知らせきこえてむ、と思ほしなりて、御裳着の事、人にあまねくはの給
はねど、なべてならぬさまにおぼしまうくる御用意など、いとありがたけれど、
女君はこよなう疎みきこえ給て、年ごろよろづに頼みきこえて、まつはしきこ
えけるこそあさましき心なりけれ、とくやしうのみおぼして、さやかにも見あ
はせたてまつり給はず、聞こえ戯れ給も、苦しうわりなき物におぼし結ぼほれ
て、ありしにもあらずなり給へる御ありさまを、おかしうもいとおしうもおぼ
されて、「年ごろ思ひきこえし本意なく、馴れはまさらぬ御けしきの心うきこ
と」とうらみきこえ給ほどに、年もかへりぬ。
ついたちの日は、例の、院にまいり給てぞ、内、春宮などにもまいり給。そ
れより大殿にまかで給へり。おとど、新しき年とも言はず、むかしの御事ども
聞こえ出で給て、さうざうしくかなしとおぼすに、いとど、かくさへ渡り給へ
るにつけて、念じ返し給へど耐へがたうおぼしたり。御年の加はるけにや、も
のものしきけさへ添ひ給て、ありしよりけにきよらに見え給。立ち出でて御方
に入り給へれば、人人もめづらしう見たてまつりて忍びあへず。若君見たてま
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つり給へば、こよなうおよすげて、笑ひがちにおはするもあはれ也。まみ、口
つき、ただ春宮の御おなじさまなれば、人もこそ見たてまつりとがむれ、と見
給。御しつらひなども変はらず、御衣掛の御装束など、例のやうにし懸けら
れたるに、女のが並ばぬこそ、はへなくさうざうしくはへなけれ。
宮の御消息にて、「けふはいみじく思給へ忍ぶるを、かく渡らせ給へるにな
む、中中」など聞こえ給て、「むかしにならひ侍にける御装ひも、月ごろは
いとど涙に霧りふたがりて、色あひなく御覧ぜられ侍らむと思給れど、けふ
ばかりは猶やつれさせたまへ」とて、いみじくし尽くし給へる物ども、又重ね
てたてまつれ給へり。かならずけふたてまつるべきとおぼしける御下襲は、色
もをりざまも世の常ならず心ことなるを、かひなくやはとて着かへ給。来ざら
ましかばくちをしうおぼさまし、と心ぐるし。御返に、
春や来ぬるともまづ御覧ぜられになんまいり侍つれど、御給へ出でら
るる事多くて、え聞こえさせ侍らず。
あまた年けふあらためし色ごろもきては涙ぞふるここちする
えこそ思ひたまへしづめね。
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と聞こえ給へり。御返、
あたらしき年ともいはずふる物はふりぬる人の涙なりけり。
をろかなるべきことにぞあらぬや。