4巻 夕 顔


畳語、繰り返し文字は文字になおしてあります。


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 六条わたりの御忍びありきのころ、内よりまかで給中宿りに、大弐の乳母
のいたくわづらひて尼になりにけるとぶらはむとて、五条なるいゑ尋ねておは
したり。
 御車入るべき門は鎖したりければ、人して惟光召させて待たせ給ける程、
むつかしげなる大路のさまを見はたし給へるに、このいゑのかたはらに、桧垣
といふもの新しうして、上は半蔀四五間ばかり上げわたして、簾などもいと白
う涼しげなるに、おかしきひたいつきの透影あまた見えてのぞく。立ちさまよ
ふらむ下つ方思ひやるに、あながちに丈高き心地ぞする。いかなる者の集へる
ならむと様変はりておぼさる。
 御車もいたくやつしたまへり、前駆も追はせ給はず、たれとか知らむとうち
とけ給て、すこしさしのぞきたまへれば、門は蔀のやうなるをし上げたる、見
入れのほどなくものはかなき住まひを、あはれにいづこかさしてと思ほしなせ
ば、玉の台も同じこと也。

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 切懸だつものに、いと青やかなる葛の心ちよげに這ひかかれるに、白き花ぞ
おのれひとり笑みの眉ひらけたる、「をちかた人に物申」とひとりごち給を、
御随身ついゐて、「かの白く咲けるをなむ夕顔と申侍。花の名は人めきて、か
うあやしき垣根になん咲き侍ける」と申す。
 げにいと小いゑがちにむつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくう
ちよろぼいてむねむねしからぬ軒のつまなどに這ひまつはれたるを、「くちを
しの花の契や。一房おりてまいれ」とのたまへば、このをし上げたる門に入り
ておる。
 さすがにされたる遣戸口に、黄なる生絹の単袴長く着なしたる童のおかし
げなる出で来て、うち招く。白き扇のいたうこがしたるを、「これにをきてま
いらせよ。枝もなさけなげなめる花を」とて取らせたれば、門あけて惟光の
朝臣出で来たるしてたてまつらす。
 「鍵ををきまどはし侍て。いと不便なるわざなりや。もののあやめ見給へ分
くべき人も侍らぬわたりなれど、らうがはしき大路に立ちおはしまして」とか
しこまり申す。

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 引き入れて下り給ふ。惟光が兄の阿闍梨、婿の三河の守、むすめなど渡り集
ひたるほどに、かくおはしましたるよろこびをまたなきことにかしこまる。
 尼君も起き上がりて、「おしげなき身なれど、捨てがたく思ふたまへつる事
は、ただかく御前にさぶらひ御覧ぜらるることの、変はり侍なん事をくちおし
く思ひたまへたゆたいしかど、忌むことのしるしによみがへりてなん。かく渡
りおはしますを見たまへ侍ぬれば、いまなむ阿弥陀仏の御光も心きよく待た
れ侍べき」など聞こえて、よはげに泣く。
 「日ごろおこたりがたくものせらるるを、安からず嘆きわたりつるに、かく
世を離るるさまにものしたまへば、いとあはれにくちをしうなん。命長くてな
を位高くなど見なし給へ。さてこそ九品の上にも障りなく生まれ給はめ。こ
の世にすこしうらみ残るはわろきわざとなむ聞く」など涙ぐみての給。
 かたほなるをだに乳母やうの思ふべき人はあさましうまをに見なすものを、
ましていと面立たしう、なづさひ仕うまつりけん身もいたはしう、かたじけな
く思ほゆべかめれば、すすろに涙がちなり。子どもはいと見苦しと思ひて、背
きぬる世の去りがたきやうに身づからひそみ御覧ぜられ給、とつきしろひ目く

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はす。
 君はいとあはれと思ほして、「いはけなかりけるほどに、思べき人人のう
ち捨ててものし給にけるなごり、はぐくむ人あまたあるやうなりしかど、親し
く思ひむつぶる筋は又なくなん思ほえし。人となりてのちは限りあれば、朝夕
にしもえ見たて参つらず、心のままにとぶらひ参うづる事はなけれど、猶久
しう対面せぬ時は心ぼそくおぼゆるを、さらぬ別れはなくもがな」となんこま
やかに語らひ給て、をしのごひ給へる袖のにほひも、いと所せきまでかほり満
ちたるに、げによに思へばをしなべたらぬ人の御宿世ぞかしと、尼君をもどか
しと見つる子どもみなうちしほたれけり。
 すほうなど又また始むべき事などをきてのたまはせて、出で給とて、惟光に
紙燭召して、ありつる扇御覧ずれば、もて馴らしたる移り香いと染み深うなつ
かしくて、おかしうすさみ書きたり。
  心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花
そこはかとなく書きまぎらはしたるもあてはかにゆへづきたれば、いと思ひの
ほかにおかしうおぼえ給。

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 惟光に、「この西なるいゑは何人の住むぞ。問ひ聞きたりや」とのたまへば、
れゐのうるさき御心とは思へども、えさは申さで、「この五六日ここに侍れど、
病者の事を思ふ給へあつかひはべるほどに、隣の事はえ聞き侍らず」などはし
たなやかに聞こゆれば、「にくしとこそ思たれな。されど、この扇の尋ぬべき
ゆへありて見ゆるを、なをこのはたりの心知れらん者を召して問へ」とのたま
へば、入りてこの宿守なるおのこを呼びて問ひ聞く。
 「揚名の介なる人のいゑになんはべりける。「おとこはゐ中にまかりて、妻
なん若く事好みて、はらからなど宮仕へ人にて来通ふ」と申。くはしき事は下
人のえ知り侍らぬにやあらむ」と聞こゆ。
 さらばその宮仕へ人ななり、したり顔にもの慣れて言へるかなと、めざまし
かるべき際にやあらんとおぼせど、指して聞こゑかかれる心のにくからず過ぐ
しがたきぞれゐのこの方にはをもからぬ御心なめるかし。御畳紙にいたうあら
ぬさまに書き変へ給て、
  寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔
ありつる御随身して通はす。

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 まだ見ぬ御さま也けれど、いとしるく思ひあてられ給へる御側目を、見過ぐ
さでさしおどろかしけるを、いらへたまはでほど経ければ、なまはしたなきに、
かくわざとめかしければ、あまへて、「いかに聞こえむ」など言ひしろふべか
めれど、めざましと思ひて随身はまいりぬ。御前駆の松明ほのかにて、いと忍
びて出で給ふ。半蔀は下ろしてけり。隙隙より見ゆる灯の光、蛍よりけにほ
のかにあはれなり。
 御心ざしの所には、木立、前栽などなべての所に似ず、いとのどかに心に
くく住みなし給へり。うちとけぬ御ありさまなどのけしきことなるに、ありつ
る垣根思ほし出でらるべくもあらずかし。つとめて、すこし寝過ぐし給て、日
さし出づるほどに出でたまふ。朝けの姿はげに人のめできこえんもことはりな
る御さまなりけり。
 けふもこの蔀の前渡りし給ふ。来し方も過ぎ給けんわたりなれど、ただはか
なきひとふしに御心とまりて、いかなる人の住みかならんとは往き来に御目と
まり給けり。
 惟光、日ごろありてまいれり。「わづらひ侍人、猶よはげに侍れば、とかく

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見たまひあつかひてなむ」など聞こえて、近くまいり寄りて聞こゆ。「仰せら
れしのちなん隣の事知りて侍者呼びて問はせ侍しかど、はかばかしくも
申侍らず。「いと忍びて五月のころほひよりものし給人なんあるべけれど、
その人とはさらに家のうちの人にだに知らせず」となん申す。ときどき中垣の
かひま見し侍に、げに若き女どもの透影見え侍。褶だつものかことばかり引き
かけて、かしづく人侍なめり。昨日、夕日のなごりなくさし入りて侍しに、
文書くとてゐて侍し人の顔こそいとよく侍しか。もの思へるけはひして、ある
人びとも忍びてうち泣くさまなどなむしるく見え侍」と聞こゆ。君うち笑み
給て、知らばやと思ほしたり。
 おぼえこそ重かるべき御身のほどなれど、御齢のほど、人のなびきめできこ
えたるさまなど思には、すき給はざらんもなさけなくさうざうしかるべしかし、
人のうけひかぬほどにてだに猶さりぬべきあたりの事はこのましうおぼゆるも
のを、と思ひをり。
 「もし見たまへ得る事もや侍と、はかなきつゐでつくり出でて消息など遣は
したりき。書き慣れたる手して、口とく返り事などし侍き。いとくちをしうは

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あらぬ若人どもなん侍める」と聞こゆれば、「なを言ひ寄れ。尋ね寄らではさ
うざうしかりなん」との給ふ。かの下が下と人の思捨てし住まひなれど、そ
のなかにも思のほかにくちおしからぬを見つけたらば、とめづらしく思ほすな
りけり。
 さて、かの空蝉のあさましくつれなきを、この世の人にはたがひておぼすに、
おいらかならましかば心ぐるしきあやまちにてもやみぬべきを、いとねたく負
けてやみなんを、心にかからぬおりなし。かやうのなみなみまでは思ほしかか
らざりつるを、ありし雨夜の品定めののちいぶかしく思ほしなる品品あるに、
いとど隈なくなりぬる御心なめりかし。
 うらもなく待ちきこえ顔なる片つ方人を、あはれとおぼさぬにしもあらねど、
つれなくて聞きゐたらむ事のはづかしければ、まづこなたの心見はててとおぼ
すほどに、伊予の介のぼりぬ。まづ急ぎまいれり。船路のしわざとて、すこし
黒みやつれたる旅姿、いとふつつかに心づきなし。されど、人もいやしからぬ
筋に、かたちなどねびたれどきよげにて、ただならずけしきよしづきてなどぞ
ありける。

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 国の物語など申すに、湯桁はいくつ、と問はまほしくおぼせど、あひなくま
ばゆくて、御心のうちにおぼし出づる事もさまざまなり。ものまめやかなる
大人をかく思ふもげにおこがましくうしろめたきわざなりや。げにこれぞなの
めならぬかたわなべかりける、と馬の頭の諫めおぼし出でていとおしきに、つ
れなき心はねたけれど、人のためはあはれとおぼしなさる。
 むすめをばさるべき人に預けて、北の方をば率て下りぬべし、と聞き給に、
ひとかたならず心あはたたしくて、いまひとたびはえあるまじきことにや、と
小君を語らひ給へど、人の心を合わせたらんことにてだにかろらかにえしもま
ぎれ給まじきを、まして似げなきことに思ひて、いまさらに見苦しかるべしと
思離れたり。
 さすがに絶えて思ほし忘れなん事もいと言ふかひなくうかるべきことに思て、
さるべきおりおりの御いらへなどなつかしく聞こえつつ、なげの筆づかひにつ
けたる事の葉、あやしくらうたげに目とまるべきふし加へなどして、あはれと
おぼしぬべき人のけはひなれば、つれなくねたきものの、忘れがたきにおぼす。
いま一方は、主つよくなるとも、変はらずうちとけぬべく見えしさまなるを頼

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みて、とかく聞き給へど、御心も動かずぞありける。
 秋にもなりぬ。人やりならず心づくしにおぼし乱るる事どもありて、大殿に
は絶え間をきつつ、うらめしくのみ思ひきこえ給へり。
 六条わたりにも、とけがたかりし御けしきをおもむけきこえ給てのち、引き
返しなのめならんはいとをしかし。されど、よそなりし御心まどひのやうにあ
ながちなる事はなきも、いかなる事にか、と見えたり。女は、いとものをあま
りなるまでおぼししめたる御心ざまにて、齢のほども似げなく、人の漏り聞か
みに、いとどかくつらき御夜離れの寝覚め寝覚め、おぼししほるることいとさま
ざまなり。
 霧のいと深きあした、いたくそそのかされ給て、ねぶたげなるけしきにうち
嘆きつつ出で給ふを、中将のおもと、御格子一間上げて、見たてまつりをくり
給へとおぼしく御き丁引きやりたれば、御頭もたげて見出だし給へり。前栽
の色色乱れたるを、過ぎがてにやすらひ給へるさま、げにたぐひなし。
 廊の方へおわするに、中将の君、御供にまいる。紫苑色のおりにあひたる、
薄物の裳あざやかに引き結ひたる腰つき、たおやかになまめきたり。見返り

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給て、隅の間の高欄にしばし引き据へたまへり。うちとけたらぬもてなし、
髪の下がり端、めざましくもと見たまふ。
  「咲花にうつるてふ名はつつめどもおらで過ぎうきけさの朝顔
いかがすべき」とて、手をとらへたまへれば、いと馴れて、とく、
  朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて花に心をとめぬとぞ見る
とおほやけごとにぞ聞こえなす。
 おかしげなる侍童の、姿このましうことさらめきたる、指貫の裾露けげに
花のなかにまじりて朝顔おりてまいるほどなど、絵にかかまほしげなり。
 おほかたにうち見たてまつる人だに心とめたてまつらぬはなし。もののなさ
け知らぬ山がつも、花の陰にはなをやすらはまほしきにや、この御光を見たて
まつるあたりは、ほどほどにつけて、わがかなしと思ふむすめを仕うまつらせ
ばやと願ひ、もしはくちおしからずと思いもうとなど持たる人は、いやしきに
ても猶この御あたりにさぶらはせんと思寄らぬはなかりけり。まして、さり
ぬべきついでの御言の葉もなつかしき御けしきを見たてまつる人の、すこしも
のの心思ひ知るは、いかがはおろかに思きこえん。明け暮れうちとけてしも

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おはせぬを心もとなきことに思ふべかめり。
 まことや、かの惟光が預りのかいま見は、いとよく案内見取りて申す。「そ
の人とはさらにえ思ひえ侍らず。人にいみじく隠れ忍ぶるけしきになむ見え
侍を、つれづれなるままに、南の半蔀ある長屋に渡り来つつ、車のをとすれ
ば、若き者どもののぞきなどすべかめるに、この主とおぼしきもはひ渡る時は
べかめる。かたちなむほのかなれどいとらうたげに侍べる。一日、前駆をひて
渡る車の侍しをのぞきて、童べの急ぎて、「右近の君こそ、まづもの見給へ。
中将殿こそこれより渡り給ぬれ」と言へば、またよろしき大人出で来て、「あ
なかま」と手かくものから、「いかでさは知るぞ。いで見む」とてはひ渡る。
打橋だつ物を道にてなむ通ひ侍。急ぎ来るものは、衣の裾をものに引きかけて、
よろぼひ倒れて、橋よりも落ちぬべければ、「いで、この葛城の神こそさがし
うしをきたれ」とむつかりて、もののぞきの心もさめぬめりき。「君は御なを
し姿にて、御随身どももありしなにがし、くれがし」とかずえしは、頭中将
の随身、その小舎人童をなんしるしに言ひはべりし」など聞こゆれば、「たし
かにその車をぞ見まし」とのたまひて、もしかのあはれに忘れざりし人にや、

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と思ほし寄るも、いと知らまほしげなる御けしきを見て、わたくしのけさうも
いとよくしをきて、「案内も残る所なく身給へをきながら、ただわれどちと知
らせてものなど言ふ若きおもとの侍を、そらおぼれしてなむ隠れまかりありく。
いとよく隠したりと思ひて、ちいさき子どもなどの侍が言あやまりしつべきも
言ひまぎらはして、また人なきさまをしゐてつくり侍」など語りて笑ふ。「尼
君のとぶらひにものせんつゐでに、かいま見せさせよ」とのたまひけり。  
 かりにても、宿れる住まひのほどを思に、これこそかの人の定めあなづりし
下の品ならめ、そのなかに思ひのほかにおかしき事もあらば、などおぼすなり
けり。
 惟光いささかの事も御心にたがはじと思に、をのれも隈なきすき心にて、い
みじくたばかりまどひありきつつ、しひておはしまさせそめてけり。このほど
の事くだくだしければ、例の漏らしつ。
 女、指してその人と尋ね出で給はねば、われも名のりをし給はで、いとわり
なくやつれ給つつ、例ならず下り立ちありき給は、をろかにおぼされぬなるべ
しと見れば、わが馬をばたてまつりて、御供に走りありく。「けさう人のいと

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ものげなき足もとを見つけられて侍らんとき、からくもあるべ[き]かな」とわ
ぶれど、人に知らせ給はぬままに、かの夕顔のしるべせし随身ばかり、さては
顔むげに知るまじき童一人ばかりぞ率ておはしける。もし思寄るけしきもや
とて、隣に中宿りをだにし給はず。女も、いとあやしく心得ぬ心ちのみして、
御使に人を添へ、あか月の道をうかがはせ、御ありか見せむと尋ぬれど、そこ
はかとなくまどはしつつ、さすがにあはれに見ではえあるまじくこの人の御心
にかかりたれば、便なくかろがろしき事と思ほし返しわびつつ、いとしばしば
おはします。
 かかる筋はまめ人の乱るるおりもあるを、いとめやすく静め給て、人の咎め
きこゆべきふるまひはし給はざりつるを、あやしきまで、けさのほど昼間の隔
てもおぼつかなくなど思ひわづらはれ給へば、かつは、いともの狂おしくさま
で心とどむべき事のさまにもあらず、といみじく思さまし給に、人のけはひ、
いとあさましくやはらかにおほどきて、もの深くをもき方はをくれて、ひたふ
るに若びたるものから世をまだ知らぬにもあらず、いとやむごとなきにはある
まじ、いづくにいとかうしもとまる心ぞ、と返す返すおぼす。

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 いとことさらめきて、御装束をもやつれたる狩の御衣をたてまつる。さまを
変へ、顔をもほの見せたまはず、夜深きほどに、人を静めて出で入りなどし給
へば、むかしありけんものの変化めきて、うたて思ひ嘆かるれど、人の御けは
ひはた手さぐりも知るべきわざなりければ、たればかりにかはあらむ、猶この
すき者のし出でつるわざなめり、と大夫を疑ひながら、せめてつれなく知らず
顔にて、かけて思ひ寄らぬさまにたゆまずあざれありけば、いかなることにか
と心得がたく、女方もあやしう様たがひたる物思ひをなむしける。
 君も、かくうらなくたゆめてはひ隠れなば、いづこをはかりとか我も尋ねん、
かりそめの隠れがとはた見ゆめれば、いづ方にもいづ方にも移ろひゆかむ日をいつと
も知らじ、とおぼすに、をひまどはしてなのめに思ひなしつべくは、ただかば
かりのすさびにても過ぎぬべきことを、さらにさて過ぐしてんとおぼされず。
人目をおぼして隔てをき給夜な夜ななどは、いと忍びがたく苦しきまでおぼ
え給へば、なをたれとなくて二条院に迎へてん、もし聞こえありて便なかるべ
き事なりともさるべきにこそは、我心ながらいとかく人に染む事はなきを、い
かなる契にかはありけん、など思ほし寄る。

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 「いざ、いと心やすき所にて、のどかに聞こえん」など語らひ給へば、「な
をあやしう、かくのたまへど、世づかぬ御もてなしなれば、ものおそろしくこ
そあれ」といと若びて言へば、げに、とほを笑まれ給て、「げにいづれか狐な
るらんな。ただはかられ給へかし」となつかしげにのたまへば、女もいみじく
なびきて、さもありぬべく思たり。世になくかたはなる事也とも、ひたふるに
したがふ心はいとあはれげなる人と見たまふに、なをかの頭中将の常夏疑は
しく、語りし心ざままづ思ひ出でられ給へど、忍ぶるやうこそは、とあながち
にも問ひ出でたまはず、けしきばみて、ふと背き隠るべき心ざまなどはなけれ
ば、かれがれにと絶えをかむおりこそはさやうに思ひ変はることもあらめ、心
ながらもすこし移ろふ事あらむこそあはれなるべけれ、とさへおぼしけり。
 八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋残りなく漏り来て、見ならひたまは
ぬ住まゐのさまもめづらしきに、あか月近くなりにけるなるべし、隣のいゑ
いゑ、あやしきしづのおの声声、目覚まして、「あはれ、いと寒しや」「こと
しこそなりはひにも頼むところ少なく、ゐ中の通ひも思かけねば、いと心ぼ
そけれ。北殿こそ、聞き給ふや」など言ひかはすも聞こゆ。いとあはれなるを

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のがじしのいとなみに起き出でてそそめきさはぐもほどなきを、女いとはづか
しく思ひたり。艶だちけしきばまむ人は消えも入りぬべき住まひのさまなめり
かし。されど、のどかに、つらきもうきもかたはらいたきことも思入れたる
さまならで、わがもてなしありさまはいとあてはかに子めかしくて、またなく
らうがはしき隣の用意なさをいかなる事とも聞き知りたるさまならねば、なか
なか恥ぢかかやかんよりは罪ゆるされてぞ見えける。
 こほこほと鳴る神よりもおどろおどろしく踏みとどろかすから臼のをとも枕上
とおぼゆる、あな耳かしかましとこれにぞおぼさるる。何の響きとも聞き入れ
給はず、いとあやしうめざましき音なひとのみ聞きたまふ。くだくだしきこと
のみ多かり。白妙の衣打つ砧のをともかすかにこなたかなた聞きわたされ、空
飛ぶ雁の声、取り集めて忍びがたきこと多かり。
 端近き御座所なりければ、遣戸を引きあけてもろともに見出だしたまふ。ほ
どなき庭に、されたる呉竹、前栽の露はなをかかる所も同じごときらめきたり。
虫の声声乱りがはしく、壁のなかの蟋蟀だに、まどをに聞きならひたまへる
御耳にさしあてたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさま変へておぼさるるも、

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御心ざしひとつの浅からぬによろづの罪ゆるさるるなめりかし。
 白き袷、薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ、姿いとらうたげに
あえかなる心ちして、そこと取り立ててすぐれたる事もなけれど、細やかにた
をたをとして、物うち言ひたるけはひ、あな心ぐるし、とただいとらうたく見
ゆ。心ばみたる方をすこし添へたらば、と見たまひながら、猶うちとけて見ま
ほしくおぼさるれば、「いざ、ただこのわたり近き所に心やすくて明かさむ。
かくてのみはいと苦しかりけり」とのたまへば、「かいでか。にわかならん」
といとおいらかに言ひてゐたり。この世のみならぬ契などまで頼めたまふに、
うちとくる心ばへなどあやしく様変はりて、世馴れたる人ともおぼえねば、人
の思はむ所もえ憚り給はで、右近を召し出でて、随身を召させたまひて、御
車引き入れさせ給。このある人人もかかる御心ざしのおろかならぬを見知
れば、おぼめかしながら頼みかけきこえたり。
 明け方も近うなりにけり。鳥の声などは聞こえで、御嶽精進にやあらん、
ただ翁びたる声に額づくぞ聞こゆる。立ち居のけはひ耐へがたげに行ふ、いと
あはれに、あしたの露にことならぬ世を、何をむさぼる身の祈りにか、と聞き

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給ふ。「南無当来導師」とぞおがむなる。「かれ聞きたまへ。この世とのみは思
はざりけり」とあはれがりたまひて、
  優婆塞が行ふ道をしるべにて来む世も深き契たがふな
長生殿の古きためしはゆゆしくて、翼をかはさむとは引きかへて、弥勒の世
をかねたまふ。行くさきの御頼めいとこちたし。
  先の世の契知らるる身のうさに行く末かねて頼みがたさよ
かやうの筋なども、さるは心もとなかめり。
 いさよふ月に、ゆくりなくあくがれんことを女は思やすらひ、とかくの給ふ
ほど、にはかに雲隠れて、明けゆく空いとおかし。はしたなきほどにならぬさ
きにと、れゐの急ぎ出で給て、かろらかにうち乗せたまへれば、右近ぞ乗りぬ
る。そのわたり近きなにがしの院におはしましつきて、預り召し出づる程、荒
れたる門の忍草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。霧も深く露けき
に、簾をさへ上げ給へれば、御袖もいたく濡れにけり。「まだかやうなること
をならはざりつるを、心づくしなることにもありけるかな。
  いにしへもかくやは人のまどひけん我まだ知らぬ篠の目の道

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ならひたまへりや」とのたまふ。女はぢらひて、
  「山の端の心も知らでゆく月はうはの空にて影や絶えなむ
心ぼそく」とて、ものおそろしうすごげに思ひたれば、かのさし集ひたる住ま
ひのならひならん、とおかしくおぼす。
 御車入れさせて、西の対に御座などよそふほど、高欄に御車引きかけて立
ちたまへり。右近ゑんある心ちして、来し方の事なども人知れず思ひ出でけり。
預りいみじく経営しありくけしきに、この御ありさま知りはてぬ。
 ほのぼのともの見ゆるほどに下りたまひぬめり。かりそめなれどきよげにし
つらひたり。「御供に人もさぶらはざりけり。不便なるわざかな」とて、むつ
ましき下家司にて、殿にも仕うまつる者なりければ、まいり寄りて、「さるべ
き人召すべきにや」など申さすれど、「ことさらに人来まじき隠れが求めたる
なり。さらに心よりほかに漏らすな」と口固めさせ給。御粥など急ぎまいらせ
たれど、取りつぐ御まかなひうちあはず。まだ知らぬことなる御旅寝に息長川
と契り給ことよりほかのことなし。
 日たくるほどに起き給て、格子手づから上げたまふ。いといたく荒れて人目

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もなく、はるばると見渡されて、木立いとうとましくもの古りたり。け近き草
木などはことに見どころなく、みな秋の野らにて、池も水草に埋もれたれば、
いとけ疎げになりにける所かな。べちなうの方にぞ曹司などして人住むべかめ
れど、こなたは離れたり。「け疎くもなりにける所かな。さりとも鬼などもわ
れをば見ゆるしてん」との給ふ。
 顔はなを隠し給へれど、女のいとつらしと思へれば、げにかばかりにて隔て
あらむもことのさまにたがひたりとおぼして、
  「夕露に紐とく花は玉鉾のたよりに見えしえにこそありけれ
露の光やいかに」との給へば、しり目に見おこせて、
  光ありと見し夕顔のうは露はたそかれ時のそら目なりけり
とほのかに言ふ。おかしとおぼしなす。げにうちとけたまへるさま世になく、
所からまいてゆゆしきまで見え給。
 「つきせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。いまだに
名のりし給へ。いとむくつけし」との給へど、「海人の子なれば」とてさすが
にうちとけぬさま、いとあひだれたり。「よし、これも我からなめり」とうら

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み、かつは語らひ暮らし給。
 惟光尋ねきこえて、御くだ物などまいらす。右近が言はむこと、さすがにい
とをしければ、近くもえさぶらひ寄らず。かくまでたどりありき給ふおかしう、
さもありぬべきありさまにこそは、とをしはかるにも、我いとよく思ひ寄りぬ
べかりしことを譲りきこえて、心ひろさよ、などめざましう思ひをる。
 たとしへなく静かなる夕べの空をながめ給て、奥の方は暗う物むつかし、と
女は思ひたれば、端の簾を上げて添ひ臥し給り。夕映へを見かはして、女も
かかるありさまを思ひのほかにあやしき心地はしながら、よろづの嘆き忘れて
すこしうちとけ行けしき、いとらうたし。つと御かたはらに添ひ暮らして、も
のをいとおそろしと思ひたるさま、若う心ぐるし。格子とく下ろし給て、大殿
油まいらせて、「なごりなくなりにたる御ありさまにて、なを心のうちの隔て
残したまへるなむつらき」とうらみ給。
 内にいかに求めさせ給らんを、いづこに尋ぬらんとおぼしやりて、かつは、
あやしの心や、六条はたりにもいかに思乱れたまふらん、うらみられんに苦
しうことはりなり、といとをしき筋はまづ思ひきこえ給。何心もなきさし向か

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ひをあはれとおぼすままに、あまり心ふかく、見る人も苦しき御ありさまをす
こし取り捨てばや、と思比べられ給ける。
 よひ過ぐるほど、すこし寝入り給へるに、御枕上にいとおかしげなる女いて、
「をのがいとめでたしと見たてまつるをば尋ね思ほさで、かくことなることな
き人をいておはしてときめかし給こそいとめざましくつらけれ」とて、この御
かたはらの人をかきをこさむとす、と見給。物におそはるる心ちしておどろ
き給へれば、火も消えにけり。うたておぼさるれば、太刀を引き抜きて、うち
をき給て、右近を起こし給。これもおそろしと思たるさまにてまいり寄れり。
「渡殿なる宿直人起こして、『紙燭さしてまいれ』と言へ」とのたまへば、「い
かでかまからん、暗うて」と言へば、「あな若な若し」とうち笑ひ給ひて、手
をたたき給へば、山彦の答ふる声いとうとまし。人え聞きつけでまいらぬに、
この女君いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとどに
なりて、われかのけしきなり。「物をぢをなんわりなくせさせたまふ本上にて、
いかにおぼさるるにか」と右近も聞こゆ。いとかよはくて、昼もそらをのみ見
つるものを、いとおし、とおぼして、「われ人を起こさむ。手たたけば山彦の

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答ふる、いとうるさし。ここに、しばし、近く」とて、右近を引き寄せ給て、
西の妻戸に出でて、戸ををしあけ給へれば、渡殿の火も消えにけり。
 風すこしうち吹たるに、人は少なくて、さぶらひ限りみな寝たり。この院の
預りの子、むつましく使ひたまふ若きおのこ、又うへはらは一人、れゐの随身
ばかりぞありける。召せば御答へして起きたれば、「紙燭さしてまいれ。『随身
も弦打ちして絶えず声づくれ』と仰せよ。人離れたる所に心とけて寝ぬるもの
か。惟光の朝臣の来たりつらんは」と問はせ給へば、「さぶらひつれど仰せ言
もなし、あか月に御迎へにまいるべきよし申てなんまかで侍りぬる」と聞こゆ。
このかう申す物は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしく打ち鳴らして、
「火あやうし」と言ふ言ふ預りが曹司の方に往ぬなり。内をおぼしやりて、名
対面は過ぎぬらん、滝口の宿直申いまこそ、とをしはかり給は、まだいたう
更けぬにこそは。
 仮入りて探り給へば、女君はさながら臥して、右近はかたはらにうつぶし
ふしたり。「こはなぞ、あなもの狂おしのものをぢや。荒れたる所は狐などや
うのものの人をおびやかさんとてけおそろしう思はするならん。まろあればさ

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やうの物にはおどされじ」とて引き起こし給。「いとうたて乱り心ちのあしう
侍れば、うつぶしふして侍や。御前にこそわりなくおぼさるらめ」と言えば、
「そよ、などかうは」とてかひ探り給ふに、息もせず。引き動かしたまへど、
なよなよとしてわれにもあらぬさまなれば、いといたく若びたる人にて、物に
けどられぬるなめり、とせむ方なき心ちし給。
 紙燭持てまいれり。右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳を引き寄
せて、「なを持てまいれ」との給。例ならぬ事にて、御前近くもえまいらぬ
つつましさに、長押にもえのぼらず。「なを持て来や。所にしたがひてこそ」
とて召し寄せて見給へば、ただこの枕上に、夢に見えつるかたちしたる女、面
影に見えてふと消えうせぬ。むかしの物語などにこそかかる事は聞け、といと
めづらかにむくつけけれど、まづこの人いかになりぬるぞと思ほす心さはぎに、
身の上も知られ給はず添ひ臥して、「やや」とおどろかし給へど、ただ冷えに
冷え入て、息はとく絶えはてにけり。
 言はむ方なし。頼もしくいかにと言ひふれ給べき人もなし。ほうしなどをこ
そはかかる方の頼もしきものにはおぼすべけれど、さこそ強がり給へど、若き

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御心にて、言ふかひなくなりぬるを見たまふに、やる方なくて、つと抱きて、
「あが君、生き出で給へ。いといみじき目な見せ給そ」とのたまへど、冷え入
にたれば、けはひもの疎くなりゆく。右近は、ただあなむつかしと思ける心ち
みなさめて、泣きまどふさまいといみじ。南殿の鬼のなにがしのおとどおびや
かしけるたとひをおぼし出でて、心づよく、「さりともいたづらになりはて給
はじ。夜の声はおどろおどろし。あなかま」と諌め給て、いとあはたたしきにあ
きれたる心ちし給。
 このおとこを召して、「ここに、いとあやしう、物におそはれたる人のなや
ましげなるを、「ただいま惟光の朝臣の宿る所にまかりて、急ぎまいるべきよ
し言へ」と仰せよ。なにがし阿闍梨そこにものするほどならば、ここに来べき
よし忍びて言へ。かの尼君などの聞かむに、おどろどろしく言ふな。かかるあ
りきゆるさぬ人なり」などもののたまふやうなれど、胸ふたがりて、この人を
むなしくしなしてんことのいみじくおぼさるるに添へて、大かたのむくむくし
きたとへん方なし。夜中も過ぎにけんかし、風のやや荒荒しう吹たるは。ま
して松の響き木深く聞こえて、けしきある鳥のから声に鳴きたるも、ふくろう

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はこれにや、とおぼゆ。うち思めぐらすに、こなたかなたけどおくうとましき
に、人声はせず、などてかくはかなき宿りは取りつるぞ、とくやしさもやらん
方なし。
 右近は物もおぼえず、君につと添ひたてまつりて、わななき死ぬべし。また
これもいかならんと心そらにてとらへ給へり。われひとりさかしき人にて、お
ぼしやる方ぞなきや。火はほのかに瞬きて、母屋の際に立てたる屏風の上、
ここかしこのくまぐましくおぼえ給に、ものの足音ひしひしと踏みならしつつ
うしろより寄り来る心ちす。惟光とくまいらなんとおぼす。ありか定めぬ者に
て、ここかしこ尋けるほどに、夜の明くるほどの久しさは千世を過ぐさむ心ち
し給。からうして鳥の声はるかに聞こゆるに、命をかけて何の契りにかかる目
を見るらむ、我心ながらかかる筋におほけなくあるまじき心の報ひに、かく来
し方行く先のためしとなりぬべきことはあるなめり、忍ぶとも世にあること隠
れなくて、内に聞こしめさむをはじめて、人の思言はん事、よからぬ童べの
口ずさびなるべきなめり、ありありておこがましき名を取るべきかな、とお
ぼしめぐらす。

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 からうして惟光の朝臣まいれり。夜中、あか月といはず御心にしたがへるも
のの、こよひしもさぶらはで召しにさへおこたりつるを、にくしとおぼすもの
から、召し入れてのたまひ出でんことのあえなきに、ふとももの言はれ給はず。
右近、大夫のけはひ聞くに、はじめよりの事うち思出でられて泣くを、君も
え耐へ給はで、我ひとりさかしがり抱き持給へりけるに、この人に息をのべた
まひてぞかなしきこともおぼされける。とばかり、いといたくえもととめず泣
きたまふ。
 ややためらひて、「ここに、いとあやしきことのあるを、あさましと言ふに
もあまりてなんある。かかるとみの事には誦経などをこそはすなれとて、その
ことどももせさせん、願なども立てさせむとて、阿闍梨ものせよと言ひつる
は」との給に、「昨日、山へまかりのぼりにけり。まづいとめづらかなること
にも侍かな。かねて例ならず御心地ものせさせ給ことや侍つらん」「さること
もなかりつ」とて泣きたまふさま、いとおかしげにらうたく、見たてまつる人
もいとかなしくて、をのれもよよと泣きぬ。さ言へど、年うちねび、世中のと
ある事としほじみぬる人こそもののおりふしは頼もしかりけれ、いづれもいづれも

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若きどちにて、言はむ方もなけれど、「この院守などに聞かせむことはいと便
なかるべし。この人ひとりこそむつましくもあらめ、をのづからもの言ひ漏ら
しつべきくゑぞくもたちまじりたらむ。まづこの院を出でおはしましね」と言
ふ。
 「さてこれより人少ななる所はいかでかあらん」とのたまふ。「げにさぞ侍
らん。かの古里は女房などのかなしびに耐へず泣きまどひ侍らんに、隣しげく、
咎むる里人多く侍らんに、をのづから聞こえ侍らんを、山寺こそなをかやうの
事をのづから行きまじり物まぎるること侍らめ」と思まはして、「むかし見た
まへし女房の尼にて侍、東山の辺に移したてまつらん。惟光が父の朝臣の
乳母に侍し者のみづわぐみて住み侍なり。あたりは人しげきやうに侍れど、い
とかこかに侍り」と聞こえて、明けはなるるほどのまぎれに御車寄す。
 この人をえ抱き給ふまじければ、上筵にをしくくみて、惟光乗せたてまつる。
いとささやかにて、うとましげもなくらうたげなり。したたかにしもえせねば、
髪はこぼれ出でたるも、目くれまどひてあさましうかなしとおぼせば、なりは
てんさまを見むとおぼせど、「はや御馬にて二条院へおはしまさん。人さはが

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しくなり侍らぬほどに」とて、右近を添へて乗すれば、徒歩より、君に馬はた
てまつりて、くくり引き上げなどして、かつはいとあやしくおぼえぬをくりな
れど、御けしきのいみじきを見たてまつれば身を捨てて行くに、君は物もおぼ
え給はず、われかのさまにておはし着きたり。
 人人、「いづこよりおはしますにか。なやましげに見えさせ給」など言へど、
御丁のうちに入給て、胸をおさへて思ふに、いといみじければ、などて乗り添
ひて行かざりつらん、生きかへりたらんときいかなる心地せん、見捨てて行き
あかれにけりとつらくや思はむ、と心まどひの中にも思ほすに、御胸せきあぐ
る心ちし給。御頭も痛く、身も熱き心ちして、いと苦しくまどはれたまへば、
かくはかなくて我もいたづらになりぬるなめりとおぼす。
 日高くなれど、起き上がりたまはねば、人人あやしがりて、御粥などそその
かしきこゆれど、苦しくて、いと心ぼそくおぼさるるに、内より御使あり。昨
日え尋ね出でたてまつらざりしより、おぼつかながらせ給。大殿の君達まいり
給へど、頭中将ばかりを、「立ちながらこなたに入りたまへ」とのたまひて、
御簾のうちながらの給ふ。

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 「乳母にて侍者の、この五月のころをいより重くわづらひ侍しが、頭剃り
忌むこと受けなどして、そのしるしにやよみがへりたりしを、このごろまたお
こりて、よはくなんなりにたる、いま一たびとぶらひ見よと申たりしかば、い
ときなきよりなづさひし者の、いまはのきざみにつらしとや思はんと思ふ給へ
てまかれりしに、そのいゑなりける下人の病しけるが、にはかに出であえで亡
くなりにけるを、怖ぢ憚りて、日を暮らしてなん取り出で侍けるを、聞きつけ
侍しかば、神事なるころいと不便なることと思たまへかしこまりて、えまい
らぬなり。このあか月より、しはぶき病にや侍らん、頭いと痛くて苦しく侍れ
ば、いと無礼にて聞こゆること」などのたまふ。
 中将、「さらば、さるよしをこそ奏し侍らめ。よべも御遊びにかしこく求め
たてまつらせ給て、御気色あしく侍りき」と聞こえ給て、たち返り、「いかな
る行き触れにかからせ給ぞや。述べやらせ給ことこそまことと思給へられね」
と言ふに、胸つぶれ給て、「かくこまかにはあらで、ただおぼえぬ穢らひに触
れたるよしを奏し給へ。いとこそたいだいしく侍れ」とつれなくの給へど、心
の中には、言ふかひなくかなしきことをおぼすに、御心ちもなやましければ、

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人に目も見あはせたまはず。蔵人の弁を召し寄せて、まめやかにかかるよしを
奏せさせ給。大殿などにも、かかることありてえまいらぬ御消息など聞こえ
給。
 日暮れて惟光まいれり。かかる穢らひありとのたまひて、まいる人人もみ
な立ちながらまかづれば、人しげからず。召し寄せて、「いかにぞ、いまはと
見はてつや」とのたまふままに、袖を御顔にをしあてて泣き給。惟光も泣く
泣く、「いまは限りにこそは物し給めれ。長長と籠り侍らんも便なきを、あ
すなん日よろしく侍らば、とかくの事、いとたうとき老僧のあひ知りて侍に、
言ひ語らひつけ侍ぬる」と聞こゆ。「添ひたりつる女はいかに」との給へば、
「それなん又え生くまじく侍める。われもをくれじとまどひ侍て、けさは谷に
落ち入ぬとなん見給へつる。『かの古里人に告げやらん』と申せど、しばし思
ひ静めよと、ことのさま思めぐらしてとなんこしらへをき侍つる」と語りきこ
ゆるままに、いといみじとおぼして、「我もいと心ちなやましく、いかなるべ
きにかとなんおぼゆる」との給ふ。
 「何か、さらに思ほしものせさせ給。さるべきにこそよろづのこと侍らめ。

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人にも漏らさじと思ふ給ふれば、惟光下り立ちてよろづはものし侍」など申
す。「さかし。さみな思なせど、浮かびたる心のすさびに人をいたづらになし
つるかこと負ひぬべきがいとからき也。少将の命婦などにも聞かすな。尼君ま
してかやうのことなど諫めらるるを、心はづかしくなんおぼゆべき」と口固め
給ふ。「さらぬほうしばらなどにもみな言ひなすさまことに侍」と聞こゆるに
ぞかかりたまへる。ほの聞く女房など、「あやしく、何ごとならん。穢らひの
よしのたまひて内にもまいり給はず、またかくささめき嘆き給ふ」とほのぼの
あやしがる。
 「さらにことなくしなせ」と、そのほどのさほうのたまへど、「何か、こと
ことしくすべきにも侍らず」とて立つが、いとかなしくおぼさるれば、「便な
しと思ふべけれど、いまひとたびかの亡骸を見ざらむがいといぶせかるべきを、
馬にてものせん」との給ふを、いとたいだいしきこととは思へど、「さおぼさ
れんはいかがせむ。はやおはしまして、夜ふけぬさきに帰らせおはしませ」と
申せば、このごろの御やつれにまうけたまへる狩の御装束着かへなどして出で
給ふ。御心ちかきくらし、いみじく耐へがたければ、かくあやしき道に出で立

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ちても、あやうかりしもの懲りに、いかにせんとおぼしわづらへど、なをかな
しさのやる方なく、ただいまの骸を見では又いつの世にかありしかたちをも見
む、とおぼし念じて、れゐの大夫、随身を具して出で給ふ。
 道とをくおぼゆ。十七日の月さし出でて、河原のほど、御前駆の火もほのか
なるに、鳥辺野の方など見やりたるほどなど、物むつかしきも何ともおぼえ給
はず、かき乱る心ちし給ておはし着きぬ。
 あたりさへすごきに、板屋のかたはらに堂建てて行へる尼の住まゐいとあは
れなり。御灯明の影ほのかに透きて見ゆ。その屋には女ひとり泣く声のみして、
外の方にほうしばら二三人物語しつつ、わざとの声立てぬ念仏ぞする。寺
寺の初夜もみな行ひ果てていとしめやか也。清水の方ぞ光多く見え人のけは
ひもしげかりける。この尼君の子なる大徳の声たうとくて経うち読みたるに、
涙の残りなくおぼさる。
 入りたまへれば、火とり背けて、右近は屏風隔てて臥したり。いかにわびし
からんと見給ふ。おそろしきけもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだ
いささか変はりたるところなし。手をとらへて、「われにいま一たび声をだに

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聞かせ給へ。いかなるむかしの契りにかありけん、しばしのほどに心を尽くし
てあはれに思ほえしを、うち捨ててまどはし給がいみじきこと」と声もおしま
ず泣き給ふこと限りなし。大徳たちも、たれとは知らぬに、あやしと思ひてみ
な涙をとしけり。
 右近を、「いざ二条院へ」とのたまへど、「年ごろ、おさなく侍しより片時立
ち離れたてまつらず馴れきこえつる人に、にはかに別れたてまつりて、いづこ
にか帰り侍らん。いかになり給にきとか人にも言ひ侍らん。かなしきことをば
さる物にて、人に言ひさはがれ侍らんがいみじきこと」と言ひて、泣きまどひ
て、「煙にたぐひて慕ひまいりなん」と言ふ。「ことはりなれど、さなむ世の中
はある。別れといふものかなしからぬはなし。とあるもかかるも、同じ命の限
りある物になんある。思ひ慰めて、われを頼め」との給こしらへて、「かく言
ふ我身こそは生きとまるまじき心地すれ」との給ふも頼もしげなしや。惟光、
「夜は明け方になり侍ぬらん。はや帰らせ給なん」と聞こゆれば、返り見のみ
せられて、胸もつとふたがりて出でたまふ。
 道いと露けきに、いとどしき朝霧に、いづこともなくまどふ心ちし給ふ。あ

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りしながらうち臥したりつるさま、うちかはし給へりしが、わが御紅の御衣
の着られたりつるなど、いかなりけん契にかと道すがらおぼさる。御馬にもは
かばかしく乗りたまふまじき御さまなれば、また惟光添ひ助けておはしまさす
るに、堤のほどにて御馬よりすべり下りて、いみじく御心ちまどひければ、
「かかる道の空にてはふれぬべきにやあらん。さらにえ行き着くまじき心ちな
んする」とのたまふに、惟光心地まどひて、わがはかばかしくはさのたまふと
もかかる道に出で出てたてまつるべきかはと思ふに、いと心あはたたしければ、
かわの水に手を洗ひて、清水のくわんをんを念じたてまつりても、すべなく思
ひまどふ。君もしゐて御心を起こして、心のうちに仏を念じ給て、またとかく
助けられ給てなん二条院へ帰り給ける。
 あやしう夜深き御ありきを、人人「見苦しきわざかな。このごろ例よりも静
心なき御忍びありきのしきる中にも、昨日の御けしきのいとなやましうおぼし
たりしに、いかでかくたどりありき給ふらん」と嘆きあへり。
 まことに、臥し給ぬるままに、いといたく苦しがり給て、二三日になりぬる
にむげによはるやうにし給。内にも聞こしめし嘆くこと限りなし。御祈り方

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方にひまなくののしる。祭、祓、すほうなど言ひ尽くすべくもあらず。世に
たぐひなくゆゆしき御ありさまなれば、世に長くおはしますまじきにや、と天
の下の人のさはぎなり。
 苦しき御心ちにも、かの右近を召し寄せて、局など近くたまひてさぶらはせ
給ふ。惟光心ちもさはぎまどへど、思のどめて、この人のたづきなしと思ひた
るをもてなし助けつつさぶらはす。君はいささかひまありておぼさるる時は、
召し出でて使ひなどすれば、ほどなくまじらひつきたり。服いと黒くして、か
たちなどよからねど、かたわに見苦しからぬ若人なり。「あやしう短かりける
御契に引かされて、われも世にえあるまじきなめり。年ごろの頼みうしなひ
て心ぼそく思ふらん慰めにも、もしながらへばよろづにはぐくまむとこそ思し
か、ほどなく又立ち添ひぬべきがくちをしくもあるべきかな」と忍びやかにの
給て、よはげに泣き給へば、言ふかひなきことをばをきて、いみじくおしと
思ひきこゆ。
 殿のうちの人、足をそらにて思ひまどふ。内より御使、雨の脚よりもけにし
げし。おぼし嘆きおはしますを聞き給に、いとかたじけなくてせめて強くお

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ぼしなる。大殿も経営し給て、おとど日日に渡り給つつ、さまさまのことをせ
させ給ふしるしにや、廿よ日いと重くわづらひ給つれど、ことなるなごり残ら
ずおこたるさまに見え給。穢らひ忌み給しもひとへに満ちぬる夜なれば、おぼ
つかながらせ給御心わりなくて、内の御宿直所にまいりたまひなどす。大殿、
わが御車にて迎へたてまつり給て、御物忌何やとむつかしうつつしませたてま
つり給。われにもあらず、あらぬ世によみがへりたるやうに、しばしはおぼえ
給ふ。
 九月廿日の程にぞおこたり果て給て、いといたく面痩せ給へれど、なかなか
いみじくなまめかしくて、ながめがちに音をのみ泣きたまふ。見たてまつり咎
むる人もありて、御もののけなめりなど言ふもあり。右近を召し出でて、のど
やかなる夕暮れに物語などし給て、「なをいとなむあやしき。などてその人と
知られじとは隠い給へりしぞ。まことに海人の子なりとも、さばかりに思ふを
知らで隔て給しかばなんつらかりし」とのたまへば、「などてか深く隠しきこ
え給ことは侍らん。いつのほどにてかは何ならぬ御名のりを聞こえ給はん。は
じめより、あやしうおぼえぬさまなりし御ことなれば、「うつつともおぼえず

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なんある」とのたまひて、「御名隠しもさばかりにこそは」と聞こえ給ながら、
なをざりにこそまぎらはし給らめ、となんうきことにおぼしたりし」と聞こゆ
れば、「あいなかりける心比べどもかな。われはしか隔つる心もなかりき。
ただかやうに人にゆるされぬふるまひをなんまだならはぬことなる。内に諫め
の給はするをはじめ、つつむこと多かる事にて、はかなく人にたはぶれ言を言
ふも所せう、とりなしうるさき身のありさまになんあるを、はかなかりし夕べ
よりあやしう心にかかりて、あながちに見たてまつりしも、かかるべき契こそ
はものし給けめ、と思ふもあはれになん。またうち返しつらうおぼゆる。かう
長かるまじきにては、などさしも心に染みてあはれとおぼえ給けん。猶くはし
く語れ。いまは何事を隠すべきぞ。七日七日に仏かかせても、たがためとか心
のうちにも思はん」との給へば、「何か隔てきこえさせ侍らん。みづから忍び
過ぐし給しことを、亡き御うしろに口さがなくやはと思ふたまふばかりになん。
親たちははや亡せ給にき。三位の中将となん聞こえし。いとらうたき物に思ひ
きこえ給へりしかど、我身のほどの心もとなさをおぼすめりしに、命さへ耐へ
給はずなりにしのち、はかなきもののたよりにて、頭中将なんまだ少将に

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ものし給し時見そめたてまつらせ給て、三年ばかりは心ざしあるさまに通ひ
給しを、こぞの秋ごろ、かの右の大殿よりいとおそろしきことの聞こえ参で
来しに、物をぢをわりなくし給し御心に、せん方なくおぼしをぢて、西の京に
御乳母住み侍所になんはひ隠れ給へりし。それもいと見苦しきに住みわび
給て、山里に移ろひなんとおぼしたりしを、ことしよりはふたがりける方に
侍ければ、たがふとてあやしき所に物し給しを、見あらはされたてまつりぬ
ることとおぼし嘆くめりし。世の人に似ずものづつみをし給て、人に物思ふけ
しきを見えんをはづかしきものにしたまひて、つれなくのみもてなして御覧ぜ
られたてまつり給めりしか」と語り出づるに、さればよ、とおぼしあはせて、
いよいよあはれまさりぬ。
 「おさなき人まどはしたり、と中将のうれへしは、さる人や」と問ひたまふ。
「しか。おととしの春ぞ物し給へりし。女にていとらうたげになん」と語る。
「さていづこにぞ。人にさとは知らせでわれに得させよ。あとはかなくいみじ
と思ふ御形見に、いとうれしかるべくなん」との給ふ。「かの中将にも伝ふべ
けれど、言ふかひなきかことをいなん。とさまかうざまにつけてはぐくまむに

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咎あるまじきを、そのあらん乳母などにも異ざまに言ひなしてものせよかし」
など語らひ給ふ。「さらばいとうれしくなん侍べき。かの西の京にて生ひ出で
給はんは心ぐるしくなん。はかばかしくあつかふ人なしとて、かしこに」など
聞こゆ。
 夕暮の静かなるに、空のけしきいとあはれに、御前の前栽枯れ枯れに、虫の
音も鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵にかきたるやうにおもしろき
を見渡して、心よりほかにおかしきまじらいかなと、かの夕顔の宿りを思出
づるもはづかし。
 竹のなかにいゑばとといふ鳥のふつつかに鳴くを聞き給て、かのありし院
にこの鳥の鳴きしを、いとおそろしと思ひたりしさまの面影にらうたくおぼし
出でらるれば、「年はいくつにかものし給し。あやしく世の人に似ずあへかに
見え給しも、かく長かるまじくてなりけり」とのたまふ。「十九にやなり給け
ん。右近は亡くなりにける御乳母の捨てをきて侍ければ、三位の君のらうたが
り給て、かの御あたり去らず生ほし立て給しを、思ひたまへ出づれば、いかで
か世に侍らんずらん。いとしも人に、とくやしくなん。ものはかなげにものし

P141
たまいし人の御心を頼もしき人にて、としごろならひ侍けること」と聞こゆ。
 「はかなびたるこそはらうたけれ。かしこく人になびかぬ、いと心づきなき
はざなり。身づからはかばかしくすくよかならぬ心ならひに、女はただやはら
かに、取りはづして人にあざむかれぬべきがさすがにものづつみし、見ん人の
心にはしたがはんなむあはれにて、我心のままに取りなをして見んに、なつか
しくおぼゆべき」などのたまへば、「この方の御好みにはもて離れたまはざり
けりと思給ふるにも、くちをしく侍わざかな」とて泣く。空のうち曇りて、
風冷やかなるに、いといたくながめ給て、
  見し人の煙を雲とながむれば夕べの空もむつましきかな
とひとりごち給へど、えさしいらへも聞こえず。かやうにておはせましかばと
思ふにも胸ふたがりておぼゆ。耳かしかましかりし砧のをとをおぼし出づるさ
へ恋しくて、「まさに長き夜」とうち誦じて臥したまへり。
 かの伊予のいゑの小君まいるおりあれど、ことにありしやうなる言つてもし
給はねば、うしとおぼし果てにけるをいとをしと思に、かくわづらひ給ふを聞
きて、さすがにうち嘆きけり。とをく下りなどするを、さすがに心ぼそければ、

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おぼし忘れぬるかと、心見に、
  うけ給なやむを、言に出でてはえこそ、
   問はぬをもなどかと問はでほど経るにいかばかりかは思ひ乱るる
  益田はまことになむ。
と聞こえたり。めづらしきに、これもあはれ忘れ給はず。
  生けるかひなきや、たが言はまし言にか、
   空蝉の世はうき物と知りにしをまた言の葉にかかる命よ
  はかなしや。
と、御手もうちわななかるるに、乱れ書き給へる、いとどうつくしげなり。な
をかのもぬけを忘れ給はぬを、いとをしうもおかしうも思けり。かやうににく
からずは聞こえかはせど、け近くとは思ひ寄らず、さすがに言ふかひなからず
は見えたてまつりてやみなんと思ふなりけり。
 かの片つ方は蔵人の少将をなん通はす、と聞き給。あやしや、いかに思ふ
らん、と少将の心のうちもいとをしく、またかの人のけしきもゆかしければ、
小君して、「死に返り思ふ心は知り給へりや」と言ひ遣はす。

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  ほのかにも軒端の萩を結ばずは露のかことを何にかけまし
高やかなるおぎにつけて、「忍びて」との給へれど、取りあやまちて、少将も
見つけて、われなりけりと思ひあはせば、さりとも罪ゆるしてん、と思ふ御心
おごりぞあひなかりける。少将のなきおりに見すれば、心うしと思へど、かく
おぼし出でたるもさすがにて、御返、口ときばかりをかことにて取らす。
  ほのめかす風につけても下萩のなかばは霜に結ぼほれつつ
手はあしげなるを、まぎらはしさればみて書いたるさま、品なし。火影に見し
顔おぼし出でらる。うちとけで向かひゐたる人はえ疎みはつまじきさまもした
りしかな、何の心ばせありげもなくさうどき誇りたりしよ、とおぼし出づるに、
にくからず、なを懲りずまに又もあだ名立ちぬべき御心のすさびなめり。
 かの人の四十九日、忍びて比叡の法花堂にて、事そがず、装束よりはじめて
さるべき物どもこまかに、誦経などせさせ給ぬ。経、仏の飾りまでおろかなら
ず、惟光が兄の阿闍梨いとたうとき人にて、二なうしけり。御書の師にてむつ
ましくおぼす文章博士召して、願文作らせ給ふ。その人となくて、あはれと
思ひし人のはかなきさまになりにたるを、阿弥陀仏に譲りきこゆるよし、あは

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れげに書き出で給へれば、「ただかくながら、加ふべきこと侍らざめり」と申
す。忍び給へど御涙もこぼれて、いみじくおぼしたれば、「何人ならむ。その
人と聞こえもなくて、かうおぼし嘆かすばかりなりけん宿世の高さ」と言ひけ
り。忍びて調ぜさせ給へりける装束の袴を取り寄せさせ給て、
  泣く泣くもけふはわが結ふ下紐をいづれの世にかとけて見るべき
 このほどまではただようなるを、いづれの道に定まりてをもむくらん、と思
ほしやりつつ、念誦をいとあはれにし給。頭中将を見給ふにも、あいなく
胸さはぎて、かの撫子の生い立つありさま、聞かせまほしけれど、かことにお
ぢてうち出で給はず。
 かの夕顔の宿りには、いづ方にと思まどへど、そのままにえ尋ねきこえず。
右近だにをとづれねば、あやしと思嘆きあへり。たしかならねど、けはひを
さばかりにやとささめきしかば、惟光をかこちけれど、いとかけ離れ、けしき
なく言ひなして、なを同じごとすきありきければ、いとど夢の心ちして、もし
受領の子どものすきずきしきが頭の君にをぢきこえてやがていて下りにけるに
や、とぞ思寄りける。このいゑあるじぞ西の京の乳母のむすめなりける。三

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人その子はありて、右近は異人なりければ、思ひ隔てて御ありさまを聞かせ
ぬなりけり、と泣き恋ひけり。右近はた、かしかましく言ひさはがんを思ひて、
君もいまさらに漏らさじと忍び給へば、若君の上をだにえ聞かず、あさましく
行くゑなくて過ぎゆく。
 君は夢をだに見ばやとおぼしわたるに、この法事し給てまたの夜、ほのかに、
かのありし院ながら、添ひたりし女のさまも同じやうにて見えければ、荒れた
りし所に住みけんもののわれに見入れけんたよりにかくなりぬること、とおぼ
し出づるにも、ゆゆしくなん。
 伊予の介、神無月のついたちごろに下る。女房の下らんにとて手向け心こと
にせさせ給。またうちうちにもわざとし給て、こまやかにおかしきさまなる櫛、
扇多くして、幣などわざとがましくて、かの小袿も遣はす。
  逢ふまでの形見ばかりと見しほどにひたすら袖の朽ちにけるかな
こまかなることどもあれど、うるさければ書かず。
 御使帰りにけれど、小君して小袿の御返ばかりは聞こえさせたり。
  蝉の羽もたちかへてける夏衣かへすを見ても音は泣かれけり

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思へど、あやしう人に似ぬ心づよさにてもふり離れぬるかな、と思つづけたま
ふ。けふぞ冬立つ日なりけるもしるくうちしぐれて、空のけしきいとあはれな
り。ながめ暮し給て、
  過ぎにしもけふ別るるも二道に行くかた知らぬ秋の暮かな。
なをかく人知れぬことは苦しかりけり、とおぼし知りぬらんかし。
 かやうのくだくだしき事は、あながちに隠ろへ忍び給しもいとをしくて、み
な漏らしとどめたるを、「など、みかどの御子ならんからに、見ん人さへかた
ほならず物ほめがちなる」と、作りごとめきて取りなす人ものし給ければなん。
あまりもの言ひさがなき罪、さりどころなく。



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